221.賀茂氏と安倍氏                高橋俊隆

賀茂氏と安倍氏

陰陽寮で最初に勢力を占めたのが賀茂家(加茂)の一族でした。平安期に仕えた賀茂忠行(〜九六〇年頃)は陰陽道を家学とします。賀茂保憲(九一七〜九七七年)の代になり家学を算数と天文道の二つにわけ、算数を主とする歴道を嗣子の光栄(みつよし。九三九〜一〇一五年)に教え、吉凶の判断をする天文道は安倍清明(九二一〜一〇〇五年)にゆずります。つまり、天文道は安倍氏、歴道は加茂氏の家職となり、宮廷で尊重されるようになりました。道教の廃止と共に、それに代わって陰陽師が道術の要素を取り入れ、日本独自の陰陽道が生まれたのです。安倍晴明はその陰陽師として有名です。平安中期ころまでに陰陽書といわれる、『世要動静経』『新術遁甲書』『占事略決』などが、滋岳川人や安倍清明によって著されています。安倍氏・賀茂氏による陰陽道の支配が確立し、天皇・公家は物忌・方違などの禁忌を慣習としました。朝廷や院の公事のみならず、摂関家から下(ちげ)人の官吏や官人の私事まで、宮廷社会における陰陽道に対する需要は院政期以後も高まります。陰陽寮(官人陰陽師)の充実に伴って、阿倍氏・賀茂氏は複数の流に分立します。朝廷に対して陰陽道・天文道・暦道に関する業務を一族として請け負っていましたが(官司請負制)、その内実は複雑でした。それは、安倍氏・賀茂氏の内部において、それぞれの嫡流や陰陽寮の地位を巡る争いが激しくなっていたからです。

第四期は白河朝(一〇七二年)から後鳥羽朝(一一九八年)までです。陰陽頭・暦博士は賀茂氏、天文博士は安倍氏、陰陽博士は両氏で占められます。政局的に動揺が出始め天変地異の卜占が活用されるようになります。安倍泰親(一一一〇〜一一八三年)は指神子(さすのみこ)と呼ばれ、占術や天文密奏などの占験に勝れ、源平の興亡の卜占に活躍します。また、鳥羽法皇・後白河法皇に仕え、後白河法皇のために毎月の泰山府君祭を行っています。藤原頼長兼実からも信頼されて摂関家にも奉仕しています。一般の識者としては大江匡房(一〇四一〜一一一一年)・藤原信西(一一〇六〜一一六〇年)・同頼長(一一二〇〜一一五六年)、清原頼業(一一二二〜一二八九年)などがいます。これに対して暦道は人材がなく、かわりに算道や宿曜道が進出します。宿曜道は中国で密教の星宿信仰と陰陽道が結びついたもので、僧侶が占星術を用いて人の運勢判断を行なったものでした。そして、賀茂・安倍の両家は摂関家や鎌倉幕府と結びつきます。安倍国道は翌承久三(一二二一)年に陰陽権助在任のまま鎌倉に下って幕府に仕えたように、幕府に直接奉仕する人々(関東陰陽道・鎌倉陰陽師)もいました。鎌倉の武家は建築造作など実用的なことに陰陽道を取り入れ、ほとんど安倍氏がこの任にあたりました。日蓮聖人の遺文(『種種御振舞御書』など)にも陰陽師がでてくることから、奈良・平安・鎌倉と引き続き陰陽道の卜占をする者がいたことがわかり、幕府内においても権威を持っていたことがわかります。

民間では室町時代頃から陰陽道の浸透がより進展し、占い師、祈祷師として民間陰陽師が活躍しました。織田信長のころに賀茂家は絶えてしまい、陰陽道は安倍家が司っています。徳川時代は江戸よりも京大阪が家相学において盛んであったといいます。家相学においても八卦が活用されます。秀吉による朝鮮出兵(文禄・慶長の役)により大量の書籍が舶載されました。家康が駿河文庫の開設をした慶長七(一六〇二)年に、収められた書籍の半ばは朝鮮の将来本だったといいます。日本の儒学の開祖とみられる藤原惺窩(一五六一〜一六一九年)、その門下の林羅山(一五八三〜一六五七年)は、家康につかえて文庫の管理をしていましたので、この文庫本を読んだのではないかといいます。(服部龍太郎著『易と呪術』一二五頁)。幕藩体制が確立すると、江戸幕府は陰陽師の活動を統制するため、安倍氏の流れをくむ土御門家と、賀茂氏の分家幸徳井家を再興させて、諸国陰陽師を支配させようとします。やがて、土御門家が幸徳井家を圧します。天和三(一六八三)年五月一七日に、第一一二代霊元天皇(在位一六一三〜一六八七年)は、土御門泰福に諸国陰陽道支配を仰せつける綸旨を下します。同年九月二五日に徳川綱吉から追認する朱印状が下付されます。これにより、土御門家は民間の陰陽師に免状を与える権利を獲得し、全国の陰陽師や唱聞師(民間陰陽師のこと)・万歳師の支配権と組織化を行いました。しかし、土御門家と当山派・本山派の占考争論が勃発し、文化年間(一八〇四〜一八一八年。この時代の天皇は光格天皇、仁孝天皇。将軍は徳川家斉)にいたるまで長く続くことになります。明和二(一七六五)年に土御門家の江戸役所吉村権頭が上申した「陰陽道家職之義申上候書付」から、諸事占方・神道行事・一切の祈祷・札守・秘符など、多くの陰陽五行による祈祷や修祓祭礼を行っていたことがわかります。江戸時代になりますと、陰陽道は政治に影響を及ぼすことはなくなりますが、民間では暦や方角の吉凶を占う民間信仰として、広く日本社会へ浸透していきました。このころ、朱子学には山崎闇斎(一六一八〜一六八二年)、儒者としては陽明学の熊沢蕃山(一六一六〜一六九一年)、伊藤東涯(一六七〇〜一七三六年)がいます。明治維新後の明治五(一八七二)年に新政府は、陰陽道を迷信として廃止させました。現代は土御門家の開いた天社土御門神道と、高知県香美郡物部村(現在の同県香美市)に伝わるいざなぎ流を除けば、暦などに名残をとどめるのみです。しかし、神道や新宗教などに取り入れられた陰陽道の影響は、その教団の教祖の教えとして存続しています。