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日延法尼の17回忌をむかえて、生前の回想をお話しました。 『妙声』に掲載した日延法尼の「流れ雲」と、西野の山奥にあった精竜の滝別院の写真などの説明をしました。 このお滝について何度も書いているように、人里はなれた電気のない生活、辺り一面が静寂につつまれる自然の世界、うごめく生物の息遣いが五官に忍び寄る経験は、私にとって大きな修行の場でありました。 それは今になって思うことで、当時は畑仕事、マキきり、雪かきなど労働の場で、私としては体を鍛えるようなところでした。 そのようななかに、朝夕のお参り、就寝前のお題目は皆の日課であり、その夜に日延法尼から奥の院の話し、函館時代の話し、霊や祈祷など、不思議な話を聞くのが楽しみでした。 お滝の時間、お滝の経験は実は私にとって、とても貴重なことで、荒行堂を経験して更に祈祷について深めることができたと思います。声を出すことに集中して川の水をかぶることが、精神を集中することにかわり、素直にその行者の世界に参入できたのは、お滝の経験で育てられたことと思います。また、若い時の重労働は体のみではなく精神の力を養ったであろうし、一つ一つ積み上げていく根気強さをいくらかでも身につけたように思われます。 さて、勉強会では日延法尼を法華経の行者としての感慨をお話し、それは日蓮聖人の弟子としての自覚に立つことであることをお話しました。 そして、日蓮聖人は常に自分は法華経の行者であることを主張されました。 それに対して、他の僧俗から、日蓮聖人に反発する声として、法華経の中に法華経を保つ者は「現世は安穏にして、後生は善処」とあるが、日蓮聖人は現世は安穏ではない、という批判がありました。 つまり、お経には法華経を信仰する人は、今生きているうちはとても幸せであり、死んだ後も善い処にいけるとあるけれど、日蓮聖人の今の生活は幸せといえますか。石を投げられ棒で打たれ、島流しに会う、命があるのが不思議でしょう。食べるものも、着るものも、住むところでさえ不自由にして、それで現世安穏とは言えますか、という批判です。 それに対して答えられたのが、佐渡の塚原という死人を捨てる墓場のようなところの小さな祠で書かれた『開目抄』です。 『開目抄』は日蓮聖人の遺言と思いなさいという御書です。 過去の罪とその償い。 釈尊から激しい命をとられるような迫害があると言う予言。 上行菩薩が末法に生まれてくるということ。 法華経は世界を人類を救うための教えと言う次元に高められます。 『開目抄』を拝読して日蓮聖人に少しでも近づきましょう。 曼荼羅に「現安後善」と先師は書かれて信者に授与されているのは、このお経のことです。 |
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