100.清澄寺退出                           高橋俊隆

○清澄寺退出

しかし、東条景信は地方警備や荘園統制、宿や駅制の運用を職務としていたので、年来の鬱積が「東条の郡、防がれて入ることなし」と小松原法難まで続くように、建長六年の秋ころになると、清澄寺にいては命が危ぶまれるほど逼迫してきます。

日蓮聖人は清澄寺の後継に関わり、道善房の勘当に加え東条景信の殺意を感じ、孤立した状態にて清澄寺を退出します。このときに、兄弟子の二人が間道を伝って、西条花房の蓮華寺にかくまったともいいます。退出後に花房の蓮華寺にうつりますが、浄顕房・義浄房も清澄寺をはなれ、蓮華寺に身を移し寄住したと考えられています。日蓮聖人は、この行動を「法華経の御奉公」(『本尊問答鈔』一五八六頁)と褒めています。

その後、安房を離れ鎌倉に向かう前に、西条から小湊の両親のもとに帰りました。一年前に、日蓮聖人から「立教開宗」の意向を聞いたときは、「父母、手をすり(擦)て制せしかども」(『王舎城事』九一七頁)と、日蓮聖人を心配し改心を願った両親でした。

日蓮聖人がもっとも苦慮したのは、日蓮聖人のために父母が悪人と罵られることでした。しかし、『法華経』を弘通することの一方の目的は、「父母の成仏」ということでしたから、日蓮聖人の不退の意志はかわらず、かえって、父母は日蓮聖人の弟子となって、「日」と「蓮」は父母の徳であるとして、妙日・妙蓮の法名を授けたと伝えています。現在の小湊の妙連寺は両親の墓所として参詣されています。

日蓮聖人が父母の恩を強く思っていたことは、身延山の思親閣に現れています。日蓮聖人を産み育てた両親の恩、これは在家における恩です。さらに、『法華経』に縁を結んでくれた恩人という捉え方をしてのべたのが『四恩抄』です。

「今生の父母は我を生て法華経を信ずる身となせり。梵天・帝釈・四大天王・転輪聖王の家に生て、三界四天をゆづられて人天四衆に恭敬せられんよりも、恩重きは今の某が父母歟」(二三八頁)

 出家を許されたことにより、『法華経』を信じる持経者となれた、その根本の恩は父母にあるとして、『法華経』の功徳を、父母の成仏に帰結していく孝養心をうかがえます。すなわち、この今世の恩を未来の成仏へ結ばせたのが日蓮聖人です。

このあと日蓮聖人は清澄寺から、房総に点在する天台宗の寺院を歴訪していたと推察されています(中尾尭著『日蓮』六七頁)。この辺は坂東三十三ヶ所観音巡礼の行者や、六十六部の納経聖などの霊場があり、比較的に出入りは自由であったといいます。また、笹森観音に日蓮聖人が身を隠したというように、日蓮聖人は単身にて天台宗寺院を巡りながら、『法華経』の布教をしていたと言います。

日蓮聖人が清澄寺を離れたあと、鎌倉に入った時期に諸説あります。岡元錬城先生は建長六年の九月三日以降とする説を踏襲しています。(『日蓮聖人』久遠の唱導師九六頁)。高橋智遍先生は日蓮聖人が鎌倉名越に定住された時期について、『四恩抄』に、

「此身に学文つかまつりし事、やうやく二十四五年にまかりなる也。法華経を殊に信じまいらせ候し事はわづかに此六七年よりこのかた也」(二三六頁)

と、のべた年数から逆算して建長七年とします。

これにたいし、寺尾英智先生は建長八年八月ころとします。これは、正元二年二月に著述された『災難対治鈔』の、「所謂自建長八年八月、至正元二年二月」(一六五頁)の記述を、日蓮聖人が鎌倉に進出し実際に体験されたときと判断するからです。(寺尾英智「日蓮書写の覚鑁『五輪九字明秘密釈』について」、『鎌倉仏教の思想と文化』所収三〇五頁)。

 一方、鎌倉の有力檀越となった四条金吾・進士義春・工藤吉隆・池上宗仲・荏原義宗などが入信したのは、建長八年一〇月以前(一〇月五日に康元元年)といいます。日蓮聖人が本格的に名越に定住したことにより、もとよりの信徒であった上記の檀越が往来しはじめた、それが、建長八年に入信したことになりましょう。

それでは、建長五年四月に「立教開宗」をし、その後、どのように行動をしたのでしょうか。一つには、領家と東条景信との訴訟問題に関与して、鎌倉と東条とを往復していたこと。二つには、建長五年一二月に八幡庄の富木氏邸近辺にいたこと、三つに、建長六年九月三日に日蓮聖人所持の『五輪九字明秘密釈』を清澄寺在の日吽に書写させていること。四つに、建長八年八月に鎌倉にて被災していること。

これらから、日蓮聖人は建長五年から八年の間、清澄寺(安房)・鎌倉・八幡庄(下総)などの各地を往来していたといえます。

また、高橋智遍先生がいうように、日昭上人を内護者として本門法華経の解釈を伝授し、悪法流布の証である天変地異を待機していたのかも知れません。いずれにしても、鎌倉に定住するためには生活の保障が必要です。そのためには外部から攻撃を受けづらい草庵の場所を確保し、警護と衣食を補う檀越の存在が必要です。これらの準備が整い名越に進出されたと思われます。
                                           第一部 以上