101..名越に草庵を構えた理由について                      高橋俊隆

第二部 鎌倉進出から竜口首座まで

■第一章 鎌倉進出

◆第一節 名越の布教

○名越に草庵

 当時の日本は、京都の公家政権と鎌倉の武家政権の、二つの国家権力がありました。日蓮聖人は『法華経』を弘める本拠地として鎌倉を選びました。

仏法と王法が調和し相依(「仏法王法相依」)するという思想があります。(佐藤弘夫著『日本中世の国家と仏教』七頁)。これは平安時代の後半から旧仏教界を中心に流行した考えで仏法と王法は鳥の両翼、車の車輪のように互いに協力しあい、仏法が王法(国家)の安泰を祈願し、王法は仏法(寺院)を鎮護国家の施策のために護持する関係を築いてきました。これは仏教と政治の相互依存により国家を操作していきます。後述するように、日蓮聖人の王仏思想は、国家が上位に立って仏教を操作することを否定します。むしろ、国家に媚びることなく、仏教を優先とした「仏法為先」(仏法中心)を説きます。

また、日蓮聖人は同じ仏教においても、各祖師の解釈のしかたによって正法と邪法があると撰別します。もし、邪法を選択したならば、国を護る善神は国を捨て去り、三災七難が起きるとのべます。これを、著したのが『立正安国論』です。そして、これが日蓮聖人の政治思想の特徴となっています。

日蓮聖人が鎌倉に本拠をおいたのは、日本の実質的な権力者は、鎌倉の武家政権とみたからです。強い鎮護国家の意識をもっている日蓮聖人は、国家権力者に正しい仏教である『法華経』を教え諭すことを重視しました。前述したように鎌倉幕府は武家政治の中心地でした。九条兼実が『玉葉』(寿永二年閏一〇月二五日条)に、「鎌倉城」と表現したように、三方を山で囲まれ南の一方が海(相模湾)という守りやすい地形でした。この地形を利用し三方の山稜を城壁のように造り、山の稜線にある木々を伐採し、そこを平に削り遠方から敵の侵入が見えるようにしました。

もうひとつ、鎌倉の山稜は武家の都、鎌倉を護る龍神の龍体とみます。その龍神の懐に護られているのが鎌倉であるとします。「龍の口」の刑場の名前の由来と場所を考えますと、竜口で処刑をした理由がうかんできます。天台宗の百科全書とよばれる『渓嵐拾葉集』に、「江の島龍穴」という説話があります。そのなかに江の島に生身の弁財天が御座し、五頭龍がその江の島を護って南に向かって棲んでいるといいます。そして、暴虐の族があれば我が前で頭を切り生贄に処せとあります。つまり、鎌倉は江の島の弁財天と、その眷族である五頭龍神に護られた所という、土着の信仰があったのです。まさに、片瀬は龍神の口だったのです。(伊藤正義著「鎌倉を護る高僧と龍神」『日本歴史』第七五二号)。

 鎌倉が発展し市中に人口がふえるにしたがい、食料など生活に必要な品物を運ぶ交通手段の問題がおきます。そこで切通しを造りますが、ここでも切岸・平場・土塁・空掘などを造って、敵の侵入を防ぐ工作をしています。七切通しといわれる谷と坂を往来する交通路は、砦のような軍事的な地形としています。また、大路小路・大町小町のにぎわいと、和歌江島にのびた海岸の流通が発展していました。八幡宮にむかって若宮大路があり、ここは神聖なる参道として生活道路には使われていなかったといいます。大路に並行して東に小町大路、西に今大路、この三本の道路を東西に横大路・大町大路・車大路などがあります。この若宮大路沿い周辺に幕府の御所や、武士の住居がたちならんでいました。この住居は若宮大路に背をむけて、入り口は小町大路・今大路側にあったといいます。若宮大路と生活道路が交差するところを下馬といいます。八幡宮にむかって、下ノ下馬・中ノ下馬・上ノ下馬があり、上ノ下馬あたりで海に向かって左が執権北条泰時・時頼の邸宅で、そのさきに若宮幕府がありました。市中の衛生面では、街路の中央に溝を掘り、そこを流れる水を洗濯と消化用にしています。小路の清掃を奨励し、牛をつなぐことを禁止して浄化に力をいれています。

また、海上からの物資の搬送が鎌倉を発展させました。貞応元(一二三二)年に、往阿弥陀仏が和歌江に島を築き、大型船が着岸できる港にしたいと泰時に要法します。泰時は工事費を提供し支援金も多く集まり、二六日間で完成しています(八月九日)。これにより宋船も入港するようになり、物資や文物が入ってきました。鎌倉市民の人気は唐物でした。港に唐物が運ばれると人々が殺到したと、吉田兼好の徒然草にあります。和歌江島は幕府にとって重要な港となったのです。この和歌江島の管理は極楽寺が行っていました。つまり、港は勧進聖人により築港され、資金は幕府で提供していながらも、極楽寺の良観が管理費用を受け持っていたのは、、幕府と極楽寺の癒着した構図があったからです。

頼朝は鶴岡八幡宮の東側に幕府をつくり、泰時のときに宇津宮辻子に移動し、嘉禎二(一二三六)年に大路東頬(ひがしつら)に新幕府が造られました。仁治元(一二四〇)年に、北条氏の所領である山内荘に直結するための巨福呂坂と、外港六浦と鎌倉を結び物資の流通を行うために、朝比奈の切通しが開削されました。このころから、鎌倉の治安のために市中法を発布していきます。同年の一一月に夜警のため辻々に篝屋を設置して街灯を焚かせています。

その後、日蓮聖人が比叡遊学中の宝治二(一二四八)年に商人の人数を制限し、建長三(一二五一)年に町屋(商業地域)を限定し、さらに、人口が増加し治安を護るため、文永二(一二六五)年三月五日に、大町・小町・魚町(いよまち)・穀町(米町)・亀が谷辻(武蔵大路下)・和賀江・大蔵辻(大倉辻)・化粧坂上(気和飛山坂上)に、須地賀江(筋違)橋の九カ所に広げますが、この場所いがいの商売は禁止し、町屋沙汰人が取り締まっていました。商業都市としての発展と統制がうかがえます。松尾剛次著『中世都市鎌倉の風景』一七〇頁)。この当時の人口は六〜十万人くらいと推定されています。(石井進著『武士の都鎌倉 よみがえる中世3』)。

また、寺院の法会に三斎市が開かれたのが発展し、地方都市や寺社の門前、交通の要地、荘園政所や地頭館などの人が集まる場所に、定期的に市が開かれるようになります。農業や手工業の向上により、農作物・履物・布・食器・農具などの生活用品が売られ賑わいます。これは、荘園の年貢物の換貨や銭納などにより、銭貨の流通がふえたからです。二日市・三日市・四日市・八日市などは、開催日に因んだ地名です。とうじの貨幣の制度はおもに宋銭を通貨としていたので、大半は宋からの輸入銭を使用していました。一枚一枚をばらして使うのではなく、百文・一貫文を単位に、緡(さし)(紐や縄)を通し束ねて使用するのが普通で、貫とは一文銭千枚のことです。日蓮聖人が「銭何貫文」の布施を受けましたとのべるのは、この使い方が慣例だったからです。

このように、立教開宗後に入った鎌倉は、遊学していた一八歳のころより整備されていました。通説によりますと、日蓮聖人は故郷の小湊から安房の西海岸へ出て、泉谷(南無谷、富浦町)から舟に乗って、三浦半島の米ヶ浜(横須賀市の中心に近い位置)に渡ったといいます。しかし、三浦半島の東端には古くから開けた走水港があり、米ヶ浜には港の設備がなかったといいます。あえてこの地を選ばれたのは、東条景信が幕府へ注進したことから起こる迫害を避けるためか、『龍本寺略縁起』には海上の波風が強く船が流されて、やむなく米ヶ浜へ上陸したと記しています。また、船底に穴があき豊島(猿島)に漂着したともいいます。『風土記』には、日蓮聖人が渡海のときに猿が一疋、海上を先導して当所に至らした由縁により、猿海山龍本寺と名づけたとあります。日蓮聖人はこの磯の岩窟に身を休め、石渡左衛門などの人を教化されました。二一日間お籠りをされ設えた草庵が御浦(みうら)法華堂で、この上陸地点の近くの深田台に、「日蓮聖人上陸の霊場」として、三百年ほど前に龍本寺が建立されています。(市川智康著『日蓮聖人の歩まれた道』四〇頁)。

米が浜から三浦街道を経て名越へ入ったといいますが、米ヶ浜から海岸線を西北に進み六浦に向かい、朝比奈切通しを経て名越に入る道もありました。六浦口一帯の久良岐郡は、北条実泰の子金沢実時いらい金沢氏の所領でしたので、米ヶ浜から法塔十字路(衣笠十字路)に進み、名越に向かわれたと思われます。庚申塔や石仏塔などを参考にしますと、この法塔十字路には日蓮聖人の、「立教開宗五百年」(宝暦三年一七五三年)を記した記念碑が建てられています。そして、金谷町の大明寺の付近を通り、安部倉町の山路に進むと、近くに畠山重忠と重保の親子がいた畠山城があります。木古庭の古道に高祖坂があり、この近くの民家に滞在されたと思われ、この裏山に「高祖井戸の霊跡」があります。日蓮聖人が滞在された霊跡として本円寺が建てられ、畠山重忠が衣笠城との戦いに、戦勝祈願をされた「身がわり不動堂」を管理しています。(石川修道著『宗祖の母・梅菊「畠山重忠有縁説」の一考察』二六〇頁)。

あるいは、行徳の浦(千葉県市川市)から舟出して、六浦(むつち。横浜市金沢区)の湊に着き、六浦道(朝比奈切通し)を歩き鎌倉に入ったという説もあります。(尾崎綱賀著『日蓮』現世往成の意味、四一頁)。後述しますが、小湊・保田・船橋なども海路があったので、富木氏のところから六浦まで海路をとられたと思われます。六浦港は米や塩などの生活物資や工業資材などが陸揚げされており、六浦港から鎌倉への輸送路が朝比奈切通しでした。北条泰時が仁治二(一二四一)年に開削を行なっており、和田義盛の三男、朝比奈三郎義秀が一夜にして切り開いたというのでこの名がついたといいます。

日蓮聖人が鎌倉の名越に草庵を構えたことは、『唱法華題目抄』の最後に「於鎌倉名越書畢」(二〇八頁)とあることから分かります。ただし、諸写本により日付けが違っています。(高木豊著『日蓮攷』一〇七頁)。また、『下山御消息』に「夜中に日蓮が小庵に数千人押寄て」(一三三〇頁)の両書から、「名越」・「小庵」(『神国王御書』八九二頁)の存在がわかります。日朝上人の『元祖化導記』(一四七八年)にも、名越に「小庵」をさだめて住したことが書かれています。しかし、名越の「松葉ヶ谷」と書かれたのは、妙法寺に隠居して門下の教育と教学の研鑚をした、円明院(啓運)日澄上人の、『日蓮聖人註画讃』(一五〇〇年ころとされる)が初出となります。

 前にもふれましたように、日蓮聖人が松葉ヶ谷に入った時期については諸説があります。一説には鎌倉との境で名越山の東になる法性寺の裏手山王堂の岩窟に一時滞在し、ここより松葉ヶ谷の草庵に入ったときを建長五年五月とします。この五月に来たならば信徒と定着の場所を決めるために、偵察に鎌倉に入ったと考えることができます。東条景信と領家との裁判が長引き武力闘争になったといいますので、日蓮聖人はその仲裁をかねて鎌倉まで足を運んだのかもしれません。このころは頻繁に安房・下総・鎌倉を往来していたことは想像でき、鎌倉弘通の基盤固めをしていたと考えられます。また、山王堂に三ヶ月ほど居住して、八月に草庵に入ったとする説があります。この三ヶ月の間は、居住の場所を定め「小庵」(『神国王御書』八九二頁)を造作する建築期間とみることができます。さほど広い小庵ではなくとも、辺りを切り開き平坦にし棟上をしなければなりません。

あるいは、名越切通しの外にある、久野谷村に滞在して時期をみていたといいます。ここは名越家に近く一キロほどの距離で、かつて三浦一族の所領があったところです。名越の踏切から東に向かう道中に、石に囲まれた石碑と井戸があり、これを「日蓮乞水」(にちれんのこいみず)といい、鎌倉五名水の一つになっている霊跡があります。『新編鎌倉誌』に「日蓮乞水は、名越切通の坂より、鎌倉の方一里半許前、道の南にある小井を云なり。日蓮、安房国より鎌倉に出給ふ時、此坂にて水を求められしに、此水俄に湧出けると也。水斗升に過ざれども、大旱にも涸ずと云ふ。甚令水也。」とあり、当時この道が街道であったことがわかり、石碑に建長五(一二五三)年の年号が刻まれています。

通説では、鎌倉居住を八月二六日(『風土記』鎌倉郡巻之十九.妙法寺)としています。(『新編日蓮宗年表』)。諸説として、建長六年の秋頃(九月三日以降)に鎌倉の名越に居住の場所を決め、小庵を建てたとも伝えています。この論拠は、この建長六年六月二五日に、「不動・愛染」の感得をされ、この『不動愛染感見記』を新仏という弟子(日吽の可能性が高い)に授与しているからです。そして、日蓮聖人が京都で書写した『五輪九字明秘密釈』が、建長六年九月三日の日付で、清澄寺の住人、肥前公日吽により書写されていることによります。これは日蓮聖人の所持本を書写したといいます。日吽は建長五年ころより、清澄寺周辺で活動していたといわれており、ふつうは大事な所持本を貸し出すことはされないということから、この時期に日蓮聖人は清澄寺におられたと推察しています。この所持本は中山法華経寺に転出していることから、日蓮聖人が清澄を退出するときに持ち出されたと考えられます。

このことから、同日までは清澄に滞在していたと推測します。(冠賢一著『日蓮の生涯と思想』二五頁)。高木豊先生は日蓮聖人が鎌倉に立たれたのはこれ以降と考え、同じく、寺尾英智先生は『鎌倉仏教の思想と文化』に、日吽が日蓮聖人の所持本を写したとして、日蓮聖人が清澄山を降りたのは建長六年九月以降とします。

また、建長七年の説があることは前に述べたとおりです。そして、さきにふれた鎌倉に居住された時期について、建長八(康元元年一二五六)年二月とする説もあります。この根拠は、日蓮聖人が清澄に戻り立教開宗された前後に領家と東条影信の係争が起こり、一年ほど続いて領家側の勝利に到ったことが挙げられます。しかし、この係争の時期を下総に帰省した文永の頃とする説があります。このように、名越居住の日に諸説があることは、居住の場所を偵察するためにたびたび来ていて、これが具体的になったので、建物の資金の調達に房総と鎌倉を往復していたと思われます。また、草庵の安全性が確保された建長6年秋ころに定住したと考えられます。また、小庵の場所も安国論寺・妙法寺・長勝寺や三遷説などがあり定まっていません。このことは後述します。

日蓮聖人は一〇数年前に遊学のため鎌倉に滞在しています。八幡宮寺・勝長寿院・永福寺の三箇寺は幕府の祈祷所であり、ここの別当や供僧は、比叡山・三井・東寺の出身といわれ、東大寺・比叡山の戒壇にて受戒した「官僧」(『下山御消息』一三三〇頁)でした。(松尾剛次著『中世都市鎌倉の風景』八四頁)。修学僧とはいえ、比叡山系の清澄寺僧としての日蓮聖人は八幡宮付近に在院し、このあと、比叡山に修学する意思をもったと思われます。つまり、地理的には熟知していたので、布教計画を綿密に立てて入られたと推察できます。いずれにしても、日蓮聖人は幕府の情勢や他宗の反応を充分に見極めて、最適な時期に草庵に入られたといえましょう。この際に名越家の庇護があったことは、草庵居住の場所と、のちの、千葉胤貞が日祐上人に与えた書状からみて、確かなことといいます。(中尾尭著『日蓮』一一五頁)。

では、名越家とはどのような人達がいたのでしょうか。名越家は名越朝時を祖とし、名越の土地にあった祖父、北条時政の邸宅を引き継いだことから名越家を名のります。これは、本来、朝時が北条本家の後継者であることを意味しました。また、母方の比企氏(比企朝宗の娘)の関係から北陸や九州の守護を務めています。朝時は父義時の正室の子供で長男でありましたが、比企氏の反逆により義時の勘気を被って義絶されています。そのため、側室の子供であった異母兄泰時が、北条本家を継いで嫡流の得宗家を起こし、朝時は庶家の名越家を起こしたのでした。朝時は執権である兄泰時の下で評定衆を務める事を拒否し、泰時の死去にも後継を巡って、何らかの不穏な動きがあったと見られ、朝時と泰時との関係は敵対していたのです。しかし、朝時の幕府内における発言権は強かったようです。

朝時の死後も嫡男光時が、泰時の孫で五代執権となった時頼に対抗し、寛元元(一二四三)年に将軍九条頼経を擁して宮騒動を起こそうとしますが、光時らの謀反が露見して、時頼により光時は伊豆に流罪され、弟の時幸は自殺する事件がありました。それ以来、北条氏一族のなかで冷遇されていました。

このことからすると、日蓮聖人が鎌倉に入ったころは、時頼・重時の時代であり、名越家は朝時の未亡人である大尼が、名越家を支えていた状況であるといい、幕府内に権力をもたない名越家がどれほど日蓮聖人を庇護できたかは微妙なところでした。

 この朝時の未亡人である名越の尼御前が、小湊の領家の大尼という説が長いあいだ続きました。日蓮聖人の母方の親族である曽谷氏と名越の尼は、両親も介抱し哀れんで世話をしたといいます。(『御書略註』)。つまり、領家の大尼が鎌倉と小湊を往復しており、その縁で日蓮聖人が名越に草庵を構えることができたとしました。今は別人と判断されています。このように考えられたのは、安房地方は「和田合戦」の戦功により、朝時が荘園領主となり、朝時の没後は妻(名越の尼)が管理していたからです。領家の大尼が領していた東条の郷も名越の尼の管理下になります。しかし、安房一帯を領していた名越朝時と、領家の大尼の関係は無縁だったのでしょうか。不明とされる領家の大尼の夫との関係、名越の尼と領家の大尼の関係は無縁だったのでしょうか。また、比企能員(大学三郎)と領家の大尼は旧知の関係にあるといわれます。それは、名越朝時の母が比企氏であったことからもわかります。朝時の嫡男が江馬光時、その家来が四条金吾親子です。四条金吾が名越居住の身元引受人であったと推測される理由があります。(高木豊著『日蓮その行動と思想』二六〇頁)。

大尼は文永八年の竜口法難のときに鎌倉にいたと推測されています。このとき名越家のところに滞在したとも考えられます。領家の大尼は外見をはばかる人で、「御勘気」(『新尼御前御返事』八六九頁)のとき、つまり、佐渡流罪の罪人となった日蓮聖人を捨てた人でした。しかし、赦免され鎌倉に帰り、さらに、幕府要人と面謁します。これを知った大尼は身延山にいる日蓮聖人に、御本尊を依頼してきました。外聞と名声を重んじた人物であるといわれます。(『日蓮教団全史』二一頁)。この大尼の態度は名越家の者として、あえて、日蓮聖人とは無関係を示す必要があったのでしょうか。日蓮聖人は御本尊を授与されませんでした。

この名越には日蓮聖人が、「なごへの一門」「其一門」(『兵衛志殿御返事』一四〇六頁)・「名越の公達」(『頼基陳状』一三六〇頁)という人たちがいます。朝時の一門である江馬光時・時章(二男)・教時(七男)たちが、日蓮聖人と関係していたと思われ、名越に誘致した人物に名越の尼がおり、日蓮聖人を庇護したといいます。名越の尼は文永八年の法難に退転し、逆に日蓮聖人の教えよりも天台のほうが勝れていると主張しています。名越家にはもともと天台宗信仰があったのです。『王舎常事』に、つぎのようにのべています。

「名越の事は是にこそ多の子細どもをば聞て候へ。ある人のゆきあひて、理具の法門自讃しけるをさむざむ(散々)にせめ(責)て候けると承候」(九一六頁)

ここに、「理具の法門」を得意げに吹聴していたということは、日蓮聖人の事具の一念三千の法門にたいしての内容ですので、学問的には名越の尼の知識の深さをうかがうことができます。日蓮聖人を名越によばれたときは、復古最澄の天台僧というイメージをもっていたと言えましょう。

弘長元年のとうじ、時章は評定衆をし教時は引付衆の役にあり、名越一門が建てたのが善覚寺・長楽寺・大仏殿とすれば、善覚寺の念空と時章・教時からの迫害が考えられます。(高木豊著『日蓮攷』一三三頁)。松葉ヶ谷法難・伊豆流罪に関与していた可能性があります。一般的には時章の一族が、日蓮聖人を庇護したといいます。「二月騒動」にて「同士打ち」がおき、日蓮聖人が予言した「自界反逆」が的中します。これにより、時章は誤殺されますが、時章の一族から信者がでたといいます。そして、この名越には日吉山王社という天台宗系の社寺がかつては存在し、もともと天台宗の地盤があったといいます。(山口晃一著『法華仏教研究』第六号一五五頁)。

これらのことからしますと、名越の草庵を確保し日蓮聖人を庇護した人物が特定されそうです。

 ・嫡男  光時(?〜一二四六〜?)

 四代将軍九条頼経に近侍し越後守となります。寛元四(一二四六)年、頼経と五代執権時頼の排除を企て、それが発覚し出家して謝罪しますが、伊豆の江馬に流罪されます。「宮騒動」といいます。(江馬氏)

 ・二男  時章(一二一五〜七二年)―公時―時家―高家(嫡流)

寛元三年尾張守、のち評定衆、三番引付頭人となり、肥後、能登などの守護となります。「二月騒動」のとき教時と間違えられ殺害されます。時章は無実であったことが判明し、子孫は幕府の要職に就きます。しかし、時章が守護職を務めていた大隅国などが、「二月騒動」後収公されていることから、対蒙古政策上、幕府は始めから時章を抹殺する計画であった可能性があるといいます。

     時章―篤時―秀時―時如(時章系庶流)

     時章―公時―公貞―時有―時兼(公時系庶流)

※公時(きんとき)正五位下左近将監より尾張守となり、文永一〇年評定衆に列し引付頭となります。(『本化聖典大辞林』下二五三二頁)

 (名越朝時の一門)

    (二男ともとき、一一九三〜一二四五年)

義時――朝時―― 光時――――――親時(江馬四郎)

―時章(文九)――公時――時家――貞家――高家―高那

―時長(備前守建長四年没)

    ―時幸

    ―時兼(建長四年没)

   ―教時(文九)

   ―時基(遠江守)

 ・三男  時長―(?〜一二五二年)長頼―北条宗長(時長系)

 将軍頼経に随従し、宮騒動には備前守を解任されますが、時章・時兼とともに時頼に陳弁して許されます。その後、得宗に従い幕府内のある程度の地位を回復します。

 ・四男  時幸(?〜一二四六年)

 通称は越後四郎、遠江修理亮。四代将軍九条頼経の側近。寛元四年光時と五代執権時頼の排除を企てますが発覚し、病気と偽って出家し同年六月一一日病死(『吾妻鏡』)します。葉室定嗣の日記『葉黄記』には自害させられたとあります。

 ・五男  時兼

 ・六男  教時(一二三五〜七二年)―宗教

「二月騒動」建長八(一二五六)年〜文永二(一二六五)年まで引付衆、つづいて、文永九年まで評定衆、文永七年九月二七日に遠江守に専任しています。

北条得宗家への反抗の意志が強く、文永三年六月、将軍宗尊親王の京都送還の際、北条時宗の制止を無視して軍兵数十騎を率いて示威行動に出ます。文永九年得宗転覆を企て謀反を起こしますが、八代執権となった時宗の討伐軍によって討ち取られます。(二月騒動)。享年三八歳。

・七男  時基(生没年不詳)―朝貞(時基系)

 「宮騒動」の時は年少(一一歳)で、通称遠江七郎といい、兄たちの埋め合わせ的に採用されたといいます。廂衆、小侍衆などをへて、文永一〇年六月三八歳で引付衆、弘安元年四三歳に評定衆、弘安三年一一月に遠江守、弘安六年四月三番引付頭人となり、弘安七年四月、執権時宗の死去に伴って出家し法名を道西といいます。

さて、日蓮聖人が法華弘通の場として選定した名越は、鎌倉の東南、逗子市との境にある衣張山の西側で、逆川に沿った名越谷といわれたところにあります。鎌倉の周縁部ですが、北条氏の一門の名越時章の山庄や、名越氏の従者たちの居住地がありました。これは、三浦氏が名越切通しを突破して、幕府を襲撃したときの対策として、名越氏一族をここに配備しました。三浦一族は宝治元(一二四七)年に滅亡しますが、そののちも名越一族が管轄しています。また、名越は幕府の高官や若宮大路に近いところですので、布教の拠点に適したところを選んだといえましょう。

長勝寺から名越切り通しにかけての谷一帯に、多数の石塔や墓地が残っており、切通しの上にある曼荼羅堂は山を背景にした風葬の土地柄です。仁治三(一二四二)年の墓葬令により、周辺の山地が葬送地となっていました。日蓮聖人が『立正安国論』を著述された理由に、地震の災害により飢饉や疫病が流行し、病死した者や餓死した者の遺体が道路に溢れていたという惨状を挙げています。これは、死者を葬送したのが名越の周辺であったので、これを目の当りにした日蓮聖人の実感だったのです。また、それら罹災者たちが名越の近辺に避難していたので、これらの流民は家族を失って嘆き悲しんでいる者や、病死・餓死していく者もいたでしょう。これらを救済できないでいる幕府や仏教界に対する憤りが、『立正安国論』に繋がっているのです。

また、星光喩先生は、安国論寺の本堂の前に小高い丘があり、ここに登ると眼下に鎌倉の街を見渡せることから、日蓮聖人が松葉ヶ谷の地を選んで草庵を構えたことが納得できるとのべ、『立正安国論』に書かれている、建長寺や極楽寺などが崩壊したという建物の残骸、牛や馬などの動物が遺棄され、放浪する人たちの惨状が心を痛めたとのべています。(『法華仏教』第五号八四頁)。この苦しみを少しでも逃れるために、呪術的な信仰や祈祷に頼る者がいました。これらの民衆を救済する仏教として祈祷や浄土を説く教えが受容されたのです。名越には華厳・密教兼修といわれる蓮華寺と、日蓮聖人が「善覚寺道阿弥陀」(二七四頁)と呼んだ、長西系の浄土教を代表する道教念空が、弘長の頃から新善光寺の別当として在住していました。(『鎌倉廃寺辞典』)。

新善光寺は今の長勝寺の裏手にあたる弁ヶ谷にあり、名越地域の松葉ヶ谷の安国論寺や妙法寺と近接しており、日蓮聖人との対立は必死のことといえます。道教ら念仏者が日蓮聖人や信徒にたいして武力行使をしたことについては、『論談敵対御書』(二七四頁)にのべているところです。長西は法然の専修念仏とは違い、念仏以外の諸行も阿彌陀仏の本願にかなった行であるという、諸行本願義を説きます。京都の九品寺にいたので九品寺流といい、道教など鎌倉の浄土教に影響を与えています。また、道教は天台の教義を学んだといわれますが、叡尊から具足戒を受けており、この縁で良観とも親交があったことは注目しなければなりません。

このように道教は専修念仏ではなかったことから、弟子の性仙は浄光明寺の三世になり、そして、極楽寺三世の順忍も道教から浄土や天台を学んでいます。大仏殿建立を勧進した浄光は、良忠が鎌倉に来ることを助けており、良忠は北条朝直の外護を受けて名越に進出します。廃寺となった悟真寺・蓮華寺・善導寺に教線を張りました。建治二(一二七六)年に上洛し、日蓮聖人が佐渡流罪に至る文永期後半は、大きな勢力をもっていました。日蓮聖人を取り囲む寺院と深い繋がりがあったことがわかります。

日蓮聖人は名越氏一門について、『兵衛志殿御返事』(1406頁)に、善光寺(善覚寺は善光寺の書き誤りとされます。(『日蓮聖人遺文辞典』歴史篇621頁))・長楽寺・大仏殿の名が挙げられており、北条泰時の弟の朝時の名越一門が建てた念仏寺院とのべ、この三寺院は協力体制にあったことをのべています。これは、そのまま日蓮聖人教団に対しては、対立勢力であることを示しています。つまり、名越一門のなかには日蓮聖人に反抗的な者がいたということです。

また、名越には蓮華寺が早くから建立されており、東栄寺が律・密教兼修して新出したように、名越の周辺には天台・禅・念仏・真言などの各宗の寺院が進出し、幕府の要人の信仰により建長寺や大仏殿が権威を振るっていました。このことからして、名越は諸寺院が散在し鎌倉の周縁部とはいえ、重要なところであったことがうかがえます。

『万葉集』の研究で知られる仙覚律師(一二〇三〜七二〜)が、『万葉集』の一五二首に訓点を加えた『万葉集注釈』を、文永六年に完成させ、後嵯峨上皇に献上しています。これに先立って、寛元四(一二四六)年一二月に、将軍頼経の命により新釈迦堂にて諸釈写本を校合しています。新釈迦堂は現妙本寺の北方高台にあった寺で、鞠子(竹御所)の館があったところといわれています。さらに、建治元(一二七五)年一一月八日に、権律師玄覚が鎌倉の比企谷で仙覚の直筆本を人に写させています。比企一族と仙覚(天台宗)の関係がうかがえます。

   (鎌倉の寺院)

   建長寺    北条時頼  臨済宗      蘭渓道隆

   寿福寺    北条政子  臨済宗      蔵叟?・行勇

   大仏殿    名越一門  念仏       隆観?

   長楽寺    名越一門  念仏(多念義)  智慶

   多寶寺    不明    律        良観弟子

   浄光明寺   北条長時  念仏(諸行本願義)真阿・道阿道教

   極楽寺    北条重時  真言律      良観忍性

   新善光寺   名越一門  念仏       道阿道教・道教念空

   蓮華寺    名越    華厳・密教    澄禅

   東栄寺    名越    律・密教     源俊

   悟真寺(光明寺)北条朝直  念仏(鎮西義)  良忠(浄土宗三祖)

前述しましたが、名越は軍事的用地で三浦半島へつながる名越切通しの要路があります。この名越切通しは三浦半島で勢力を持っていた、三浦一族に備えるための要所でした。北条氏は三浦氏の侵入を防ぐために名越坂に砦を築き、防衛のため屈曲した道や切通し周辺に堀切・置石・平場をつくっています。『吾妻鏡』によると山内道・六浦道の改修工事が、仁治元(一二四〇)年と同二年に行なわれているので、名越の切通しもこの頃に造られたといいます。名越切通しの中心は北側尾根の標高九五.三メートル地点で、周辺は全長一キロに近い切通しと、六メートルから九メートルもある切岸が、二段三段と重なった複雑な構成をしています。とくに、日蓮聖人と関係する久木に面した法性寺の裏近辺、お猿畑の大切岸には、現在でも数段になった切岸が八百メートル近く残っています。近年の研究で大切岸は中世の石切場でとする説があり、防衛と築城の両用を兼ねていたとも考えられます。

このような万全な防備体制をつくったところから、鎌倉城とも呼ばれ軍事的な意義をもっていました。しかし、宝治元年(一二四七)年に三浦氏が滅亡すると空閑地として放置され、常用の交通路となったといいます。名越氏の居住者が多いのは、もともと三浦氏対策のために造られた切通しの築造と、襲来のときに臨戦する役目を名越氏一族がもっていたといえます。頼基の父も名越氏の従者として、名越に住していたのではないかと推察されています。(高木豊著『日蓮攷』一二一頁)。名越と四条金吾の関係を知る興味深いところです。

 つまり、日蓮聖人が名越に草庵を構えることができたのは、この名越氏の容認があったからではないか、これに尽力したのが、名越の尼か四条金吾父子と思われ、とくに、四条金吾父子が主君である光時や、同門の時章に働きかけたと推察されるからです。ただし、四条金吾は永仁四(一二九六)年に六七歳にて死去したとすれば、寛喜二(一二三〇)年生まれになり、日蓮聖人が鎌倉に入るころは二〇歳代前半となります。さらに、高木豊先生は新釈迦堂の名越に領した、土地の寄進を受けていたのではないかといいます。一人の僧侶が鎌倉の周辺地域とはいえ、自由に居住できた理由は何かと提起しています。(高木豊著『日蓮攷』一二三頁)。

 また、比企ヶ谷は平賀義信(一一四三〜?)いらいの所有地でした。平賀義信に再嫁したのが比企尼三女で、比企能員を養子としています。そして、比企能員の子息が大学三郎といわれた能本です。比企一族は平安末期より武蔵国比企郡(埼玉県)を所領としたことに由来し、一族の比企尼が頼朝の乳母をつとめた功績があり重用されました。比企尼の甥が能員で、八重姫と関係があった頼朝が猶子に推挙しました。北条政子が能員の屋敷にて頼家を出産します。能員の妻たちが乳母をつとめます。

そして、能員の娘若狭局が頼家の側室となり一幡を産んでいます。能員が頼朝の外戚となったことにより、北条氏から攻められることになります。また、比企尼の三女が伊東祐清の室で、のちに平賀義信の室となっています。そして、頼家の乳母となり子供が平賀朝雅です。この平賀朝雅を将軍に立てようとして、画策したのが牧の方で、これが、「比企能員の乱」となったのです。この「能員の乱」にて比企一族は壊滅的になりますが、とうじ二歳であった末子の能本が生き残ります。のちに、能本は母妙本とともに日蓮聖人に帰依し、屋敷跡に法華堂を建て妙本寺を建立します。比企能員の妹は丹後内侍といい、安達盛長に嫁ぐまえに、島津(惟宗)忠久を生んでいます。島津忠久の父親は惟宗広言との間に密に生まれたとするのと、時頼とする説があります。(『保暦間記』)。

 また、日昭上人は近衛兼経の猶子であったことから、近衛宰子は妹になります。宰子の子供は惟康親王ですので、この縁により妙一尼は桟敷に住むことができたといいます。この桟敷とは八幡の神のことで、商馬角力等(流鏑馬力)のとき、将軍家が賢覧するところです。印東祐信がこの桟敷を守護していました。(『御書略註』)。日朗上人と日像・日輪上人は異父兄弟で、日朗上人は平賀氏の本家となり、日像・日輪上人は分家の出自になります。名越地域に居住した理由はこれらの人脈があったということがわかります。