102.松葉ヶ谷について                             高橋俊隆

○松葉ヶ谷

名越には名越ヶ谷・松葉ヶ谷・経師ヶ谷の谷(やつ)があります。名越の松葉ヶ谷は、現在の材木座から大町付近といわれています。名越の切り通しの道は狭く、両側に壁を覆っているような坂道で、ここを通って大町や小町、若宮などにぬける大路の交差するところを辻といいます。名越の谷をでて西に向かった中心地が材木座でした。材木座は商業地として繁栄していました。海岸には舟が行きかい市が開かれていました。ここで働く下層民が居住したのが名越といいます。したがって、下層民や流れ者という浮浪人などが集まったところと思われ(石井進著『御家人制の研究』)、日蓮聖人はこのように、雑多な人々が日常生活をしていたところに、あえて庵室を構えたことになります。つまり、商工業者や流民が住むエリアの一つが名越であったのです。日蓮聖人は東国出身の唯一の鎌倉仏教の祖師であり、ここに、日蓮聖人がこれらの人々を布教の対象として、住居を決めた理由があったといいます。どうじに、信徒獲得の場として名越を選ばれたと考えられ、良観との対立の原因ともいいます。「草庵の夜討ち」はこの確執の現われといいます。(湯浅治久著「東国の日蓮宗」『中世の風景を読む2』所収一五六頁)。

日蓮聖人の伝来している遺文は、おもに武士層などへ宛てた書状が多く、名越の庶民層への布教はどのようにされたのでしょう。文書伝道は識字者に向けられることですから、このとうじ一般民衆は耳から聞く学習が主であったはずです。辻説法の所以はここにあります。日蓮聖人が図録を作成したり、書状の文字を大きくして一座の人に見えやすくし、それに弟子が振り仮名をつけているのは、庶民にたいして布教をされていた証拠です。また、前述した『万葉集注釈』の仙覚が、名越に近接する比企谷にいました。ともに天台宗円仁門流に属しており、仙覚が住した新釈迦堂は天台僧が多く管理していたと考えられています。日蓮聖人の遺文には天台僧との交流があったことが散見できます。(高木豊著『日蓮攷』一一七頁)。

さらに、比叡山の守護神とされた日吉山王社が名越にありました。日蓮聖人が鎌倉に入ったときには、すでに鎌倉の大火災で焼失していましたが(『吾妻鏡』)、釈尊の垂迹とされる山王信仰は、天台系に属する神道なので、このような天台宗系の寺社が名越にあったことから、名越に住まわれたともいいます。また、名越の名門である尾張守の一族を教化できたと推測します。(山口晃一氏『法華仏教研究』第六号一五五頁)。つまり、中尾尭先生がのべたように、天台宗の勢力範囲のなかに身をおくことにより、この枠組みから身辺を護ってもらえるという期待があったことと、貴重な仏教書を貸借・閲覧する利便性もあったのです。(『大日蓮展』一四頁)。ここに、日蓮聖人が鎌倉に地盤を築くために、「天台沙門」と名のられた意図がうかがえます。

この名越の草庵を通称「松葉ヶ谷の草庵」と称して今日に伝えています。この場所を選定されたのは布教を最大の目的としていますが、法華弘通による他門徒からの迫害は予知できることでした。迫害を受けたときに退路を確保する必要があります。通称、「松葉ヶ谷草庵焼き討ち」、といわれる法難を回避できたのは、このようなときに備えた逃げ道や信徒が匿うことのできる所を選び、鎌倉における法華経の弘通を始められたといえます。

日蓮聖人の遺文には松葉ヶ谷の地名は書かれていません。また、松葉ヶ谷の地名についても当時の呼称なのか不明です。ただ、名の由来として『長興山妙本寺志』に、長崎氏の宅地を的場谷といって、北条時政の名越亭中笠懸の弓の的場であったということから、的場ヶ谷という地名がついたといわれます。ただし、『吾妻鏡』には「的場」という表現はなく、「矢場」と書かれているといいます。(山口晃一著『法華仏教研究』第六号一五一頁)。名越の山頂に蓮台野という葬送場(曼荼羅堂)があり、この蓮台野は燐場(まつば)とも呼ばれていることから、燐場を松葉と美称したとするのは、たんなる語呂合わせに過ぎないといいます。また、海浜には防風林として、潮風に強い松を植林することが多いことから、鎌倉にも松岡・松堂社・松ヶ谷・松ノ木という地名があり、松葉ヶ谷の地名は日蓮聖人の在世にはなく、江戸時代に入ってから小庵の地として美称されたともいいます。その証拠として松葉ヶ谷の小庵の所在が問題となったのは、江戸期になってからとします。(大川善男著『鎌倉と日蓮』七九頁)。また、弓の名手である那須与一宗高が住み、的番を置いたことから的番ヶ谷といわれ、これが松葉ヶ谷と呼ばれるようになったといいます。

また、「松葉氏」が住んでいたところで、この松葉氏は「平賀氏」のことだといいます。(山口晃一著『法華仏教研究』第六号一五一頁)。『吾妻鏡』によれば、頼朝・実朝のときの有力御家人七人のなかに松葉次郎の名前があり、建長・正嘉の条に名前が記載されているとのべています。そこで、正嘉年をあげますと、

「八月十二日 甲午 陰、夕小雨降る。南風
大慈寺供養の間の事、肥前の前司・三井左衛門の尉・松葉入道等御旨を奉り、陰陽師 を相伴い、惣奉行常陸入道行日の家に向かいこれを相談す。晴賢・晴茂・廣資・以平・文元等、各々別紙を以て御方違え有るべきの由を勘じ申す。但し以平申して云く、日来の大犯土、偏に寺家の沙汰たるの由の上は、御聴聞の儀に依って、御方違え有る事、太だ以て甘心せずと。而るに供養に至りては、専ら御沙汰を為し、方違え無くして御出有らん事、尤もその憚り有るべきの由、衆儀治定すと」

 この松葉入道が松葉遠江次郎資宗です。資宗は源実朝の学問所番衆を務め、文人としての才能もあったといいます。

参考として、松葉氏の系図をみますと、三国氏・井伊氏・そして、貫名重忠氏に関連していることがわかります。
  二男

 藤原鎌足―淡海公不比等―参議房前―大納言眞楯―内大臣内麿―左大臣冬嗣―太政大臣良房―利世―

 中納言共良―内蔵頭良春―遠江守備中守共資
                      共政―政保【井伊氏】    ―貫名政直・・重忠
(三国氏)                         【赤佐氏】 ―井伊良直
  千佳――共資―共保―共宗―宗綱―共章――共家――共直―惟直―盛直―――赤佐俊直
                         
     共茂―致貴【三国氏】          惟共―【松葉氏】宗益―資宗―惟長(平賀氏)

(系図集の原典といわれる『尊卑分脈』と、『戦国武鑑』などによります)

ただし、平賀氏の名を名のったのは、資宗の子、惟泰・惟時のときからで、惟泰のときに出羽国平鹿郡に下向して平鹿氏と名のり、文永十一(一二七四)年の、「元寇」にそなえて安芸に下向し、御薗宇城を築いてから、平鹿を平賀に改めたといいますから、日昭上人の平賀氏とは関係しないと思われます。注目されるのは、資宗は壇の浦合戦の戦功として、尾張国古地野庄を与えられていたことと、上総の桜尾郷も有していたことです。この尾張には駿河岡宮に住んでいたという、妙法尼の兄、尾張次郎兵衛尉と、尾張刑部左衛門尉がいます。上総は日蓮聖人が生まれ育った安房のとなりです。

日澄上人の『日蓮聖人註画讃』の註書にある、「松葉ヶ谷」の名称に関して、『風土記』に「松葉ヶ谷」を名越ヶ谷のうち、東方四所の支谷の「総称が松葉ヶ谷」としています。その南の谷口に長勝寺、中央に安国論寺、北の谷に妙法寺があり、いずれも「松葉ヶ谷」の小庵の跡と伝えます。ここより東部の山麓に名越があります。そのうちの長勝寺は松葉ヶ谷(石井)の地主、石井藤五郎長勝が草庵を造り日蓮聖人をむかえ、日蓮聖人の滅度に自邸跡に寺を建てたと伝えています。しかし、草庵跡を示す古い文献のなかには、長勝寺の寺名が載っていないといい、『鎌倉市史社寺編』にも長勝寺に具体的な記載はないことから、草庵跡とはいえないようです。近年の発掘調査によると長勝寺跡からは、鎌倉時代後期の掘っ立て柱、吹き抜けの小屋がけの市場跡が発見され、その上層は人骨を横たえた共同墓地であったといい、このことからも長勝寺が草庵跡でも旧本国寺跡でもないとします。つまり、室町中期いぜんには建立されていないと推定しています。(大川善男著『鎌倉と日蓮』七六頁)。また、同書に『新編日蓮宗年表』は「妙法寺文書」を「長勝寺文書」としており、昭和一六年に公刊された年表を再刊したものでありながら、原書にないことを加えているとあります(同九〇頁)。これは松葉ヶ谷草庵の跡地はどちらが正しいかという、妙法寺と長勝寺の長年の係争が関係しているといいます。長勝寺は日蓮聖人が佐渡より帰鎌したおりに、寄寓したところと受けとめるのが妥当といいます(同書一〇一頁)。

安国論寺には草庵跡に建てたという小庵があり、日朗上人が刻んだという『立正安国論』執筆中の日蓮聖人像が安置されています。その後方に『立正安国論』を起草したという岩窟があり、日朗上人が書かれた『立正安国論』が寺宝として格護されています。松葉ヶ谷法難のおり最初に避難したという南面窟が、本堂の裏口、東側の裏山中腹ににあり、土佐光起(一六一七〜一六九一年)と伝える「松葉ヶ谷法難絵図」が所蔵されています。また、日朗上人の荼毘所があります。日朗上人は元応二(一三二〇)年一月二一日に池上にて没しますが、出家得道の松葉ヶ谷にて荼毘するようにと遺言されました。朗師の荼毘所があることにより、草庵の所在地に近いといいます。(山川智応著『日蓮聖人伝十講』上巻)。日朗上人の埋葬は逗子の法性寺裏山にされ、ここに墓碑が建立されています。法性寺は猿畠山(えんぱくさん)といい、松葉ヶ谷法難を逃れて避難されたところです。朗慶上人により開基され、貞和元(一三四五)年に足利尊氏の勅命により、妙法寺(本圀寺)とともに京都に移ります。「日朗御廟墓」は池上二二世日玄上人の代に建立されています。

妙法寺は通称「松葉谷小庵」と呼ばれており(『日蓮宗寺院大鑑』一二五頁)、京都の本国寺があったところといわれています。(この妙法寺の前身が本証寺、本勝寺とした)。日像上人は元亨元(一三二一)年に後醍醐天皇より寺領を賜り、京都における日蓮宗最初の寺院として、京都市上京区御溝傍今小路に妙顕寺を建立します。その二四年後の貞和元(一三四五)年、三世日静上人のときに、足利尊氏の要請をうけて京都に移ります。そのご、正平一二(一三五七)年、弟子日叡上人(護良親王の遺児楞厳丸)が、父の菩提を弔うために建て妙法寺と名のりました。建てられた年代が本国寺より新しいので、妙法寺は本国寺の末寺となります。しかし、本国寺の旧跡であり松葉ヶ谷草庵の所在地であったので、元禄八(一六九五)年に本国寺二〇世日隆上人は、その草庵の旧跡である旨の本尊を与えて証明しています。

現在、大町四丁目の地域が松葉ヶ谷としますと、安国論寺か妙法寺が松葉ヶ谷の草庵跡と推測されます。また、現地を調査した結果、松葉ヶ谷草庵はすくなくとも、二箇所あったと推定する説があります。(『日蓮大聖人ゆかりの地を歩く』鎌倉遺跡研究会四六頁)。そして、日蓮聖人が鎌倉に入り最初に住まわれたのが安国論寺で、ここにて『立正安国論』を執筆し、文応元年八月二七日の松葉ヶ谷法難を受けたと推察します。この理由を『下山御消息』や『妙法比丘尼御返事』に、大勢の人数で日蓮聖人を殺害しようとしたと記述があり、このような暴徒が大挙して行動できる場所は、道路から近く広い庭を持った安国論寺しかないと推定しました。

安国論寺と比企谷妙本寺についてふれますと、妙本寺は文応元(一二六〇)年に建立され、日朗上人を開山とします。もとは比企能員の屋敷で、末子の比企大学三郎能本が比企一族の供養と、法華経流布のため法華堂を建てたのが前身といわれています。言い伝えでは、文永一一年三月二六日に佐渡から鎌倉に着いた日蓮聖人は、すぐにこの法華堂に入られ、能本の父能員の法号長興と母の法号妙本から、長興山妙本寺の寺名とされ、開堂供養を行ったといいます。このとき、千葉や遠方から多くの信徒が祝いに駆けつけたと伝えています。(『本化別頭高祖伝』)。また、鎌倉に着いた日蓮聖人は、まず日昭上人が一部屋を用意された夷堂に入ります。ここに約三〇日ほど滞在したことが本覚寺の由来となります。この間の四月一日に妙本寺の進山の式である開堂法要をおこなったといいます。(『本化別頭仏祖統紀』)。

そして、この比企ヶ谷の妙本寺は、持仏堂を法華堂として各地区の弘通根拠としていたものと考えるべきで、日蓮聖人の滅後にそれぞれの名称が付せられたといいます。(『日蓮教団全史』)。のちに、日朗上人(一二四五〜一三二〇)が、その邸跡を譲り受けて一宇を創建し、長興山妙本寺と名付けたといわれ(『日蓮宗事典』)、妙本寺は新釈迦堂が廃寺になった堂舎を買い取り、室町時代に成立した寺(大川善男著『鎌倉と日蓮』六二頁)の根拠となったといいます。

 比企ヶ谷の妙本寺と、池上の本門寺と呼ばれて親しまれている両山は、正式の山寺号は長興山妙本寺と長栄山本門寺といいます。この興栄両山を勤めた二二世日玄は、元禄二(一六八九)年に『法華宗門根本道場・松葉ヶ谷安国論寺略縁起』を書き、安国論寺が日朗正統の門流を主張しました。

これに反論して出されたのが先の、本国寺二〇世日隆上人の本尊授与でした。つまり、この草庵所在の場所を選定する作業のなかに、日朗上人の正嫡門流をめぐっての論争があったのです。

 妙法寺が草庵の旧跡であることを証明しているのは本国寺のみで、安国論寺は永享法難を記録した『永享法難記』や、『伝燈抄』には名前がでていないので、永享法難のころに安国論寺は存在しないことになります。妙法寺は勅願寺として記されているので旧跡としては有力といいます。しかし、妙法寺と安国論寺は隣接しており、この一帯が松葉ヶ谷であることは確かなことといえましょう。『法華霊塲記』(二二六頁)には、草庵を法華堂とし妙法寺がある場所としています。

        ――池上本門寺―――日輪上人

――――――――――日像上人――京都妙顕寺(四条門流)

 日朗上人―――――鎌倉妙本寺―――日輪上人

                (法華堂建立)  (本証(勝)の寺と名のる) (妙法寺建立)
―(本国土妙寺)――日印上人―――――日静上人―――――――――日叡上人

                (越後本成寺建立)(京都(六条堀川)に移築し本国寺と改称)

身延山―――池上本門寺・妙本寺・安国論寺

本国寺―――妙法寺・長勝寺

 ※ 日親上人の『伝燈抄』(一四七〇年)には、日印上人が朗門の九鳳たちの盟約を破り、三箇の重宝を相続して朗師正嫡を名のり京都に本国寺を創建し、これが六条門流の起因とあります。(『日蓮宗学全書』史伝旧記部一。三四頁)