103.「二十余所を(追)われ」                          高橋俊隆

○「二十余所をわれ」

 草庵の所在地が確定しないのは、日蓮聖人が文永八年九月に平頼綱に捕縛され、結果的に佐渡流罪になり、この草庵が建て壊され廃地になった(『新編日蓮宗年表』)ことにあると思われます。そのご、門弟たちは散在して教線を張り、教団を必死に維持しますが、日蓮聖人が佐渡流罪を赦免された以後も、この草庵旧地に寺院を建立されなかったのでしょう。しかし、日朗上人の荼毘所が残り、のちに安国論寺が建立されました。そして、法性寺に墓所が建立されています。日朗上人の霊跡は大切にされたことがうかがえます

 そして、日蓮聖人が名越の松葉ヶ谷を選ばれた二つ目の理由は、影山堯雄先生が言われるように、住居資金の用意・着衣・食生活・生活用具・炊事食器具などの準備を整えなければなりません。(『日蓮宗布教の研究』二三頁)。また、生活用水は欠かせません。「日蓮乞水」は名越切通の坂より、鎌倉の方一里半許前にあるとといい、高橋智遍先生は、水が悪い鎌倉で、この良質の水を草庵の炊事に使用されたのではないかと述べています。(『日蓮聖人小伝』一五五頁)。つまり、この周辺に信徒がいて土地や草庵の提供をし、食事などの身の回りの世話をし、かつ、警備をできる者がいたと考えるのが一般的な理解です。これを補うものとして、名越朝時が房州小湊を含む長狭郷の領主で、朝時の妻尼御前が日蓮聖人の両親と親しかったという説があります。(『宗全』巻一八。一六九頁)。

これに関して、高木豊先生は名越氏の屈請があって、松葉ヶ谷に草庵を構えたと推察されています。同じように中尾尭先生も、千葉氏一族と名越氏とは密接な関係にあるとして、日蓮聖人が鎌倉で身辺が無事に守られていたのは、名越流北条氏一族の力によるとのべています。(『日蓮』一一六頁)四条金吾父子は名越江馬氏に仕え、名越に居住していたと考えられ、『椎地四郎殿御書』(二二八頁)に名前がみえますが、四条金吾がどの時期に入信したかは不明です。名越の尼もこの名越の地名に因んで呼ばれたと思われ、在家の尼がここに居住していました。あるいは、富木氏が出仕する鎌倉の千葉邸が、この松葉ヶ谷に近かったため、この地に草庵を建てたともいいます。このように、多数の日蓮聖人を庇護する信徒に見守られる環境のなかに、草庵を構え居住したことは充分に推測されることです。

とうじの鎌倉の市中では、たびたび不穏な動きがあり、火付けや殺人などの事件がおきています。このような事件の災禍を想定して創庵したと考えなければならないでしょう。この事情から中尾尭先生は、この草庵について、都市の規制が厳しい時期に、容易に松葉ヶ谷に草庵を建てることは疑わしいとして、天台宗寺院の僧坊か堂を繕って、わずかの弟子たちと居住していたと推察しています。(『日蓮』六八頁)。

松葉ヶ谷の草庵が文応元(一二六〇)年の夜中に、博徒にしかけられた焼き討ちで消失したとすると、弘長元(一二六一)年の伊豆流罪後の小松原方面の布教などを考えれば、特定の場所に長期に定住したとは決めかねるといいます。そうしますと、僧俗の房や館を布教の道場とし、ときには、隠れ家として逡巡したとも思えます。しかし、文永八年に平頼綱が武装して乱入した庵室は、独立した建物に日蓮聖人が起居していた様子を充分にうかがわすものです。伊豆流罪・松葉ヶ谷法難のときには独立した庵室があったといえます。この法難を節目として居住の地を追放されたと思えます。こののち、幕府や他宗門徒の迫害を考慮しますと、草庵の焼失後から文永八年の佐渡流罪までは、信徒たちが交代しながら警備をしていたと思われます。

このように、松葉ヶ谷草庵の所在については、都市の規制が厳しかったので、草庵は一箇所であったと考えるのと、たび重なる迫害で転々と住居を移動していたという庵室複数説があります。日蓮聖人が居住された場所は、ことごとく追放されたとみるべきかもしれません。『法門可被申様之事』に、

「此法門のゆへに二十余所をわれ、結句流罪に及、身に多のきずをかをほり、弟子をあまた殺せたり」(四百五十五頁)

 本書は文永六年に京都に留学していた三位房へ宛てた書状です。三位房は大野政清の子供であり、曽谷教信の弟です。つまり、日蓮聖人と従兄弟になります。その血族者に文永六年までに二〇数カ所も住まいを追われたとのべています。「立教開宗」のとき清澄寺から追放されます。それから、松葉ヶ谷法難・伊豆流罪のときも追放

されます。この間に合わせて二〇数カ所も住居をかえたということは、、鎌倉市中においても数度、その場所から別の場所へ転々と身を移されたといえましょう。

日蓮聖人が佐渡流罪を赦免され、鎌倉に帰ったとき松葉ヶ谷の庵室は取り壊されていました。ふたたび鎌倉に住むことはありませんでした。門下は草庵旧跡の地を脱しなければならない状況に追い込まれ、鎌倉の別地にて迫害をうけながらも布教を展開していました。経年し撤廃された草庵の所在地の問題が後世におきたのです。