105.日昭上人について                        高橋俊隆

○日昭上人

日昭上人(一二二一~一三二三年)が入門した時期について、建長五年の冬(一一月『本化高祖年譜』)という説と、建長六年正月(『本化別頭仏祖統紀』)という説があります。建長五年の冬の暮れという説にしたがいますと、日蓮聖人が立教開宗後に、下総を中心として布教し、その後に鎌倉に入ったという説と合います。また、宮崎英修先生は建長五年一一月に、鎌倉の松葉ヶ谷の草案に日蓮聖人を尋ねて、師弟関係を結ばれたといいます。(『日蓮とその弟子』一八九頁)。これは、『本化別頭仏祖統紀』にも、日昭上人がはじめて松葉ヶ谷に、日蓮聖人を尋ねたのが建長五年のことで、翌年の元旦に更衣して日昭の名前をいただいたとありますので、同じことと受けとれます。

日昭上人については不明なところが多く、伝記本により両親・出生年・世寿が異なっています。『日蓮宗辞典』(若杉見龍先生。六五八頁)は、『玉沢手鑑』(『日蓮宗宗学全書』第十九巻)をもとにしています。これによりますと、下総猿島郡印東(いんとう)領能戸村に生まれています。姓は藤原、氏を印東、父は印東次郎左衛門尉祐照、母は印東大和守祐時の娘とあります。一般にはこの説が用いられています。

また、一般に、日昭上人は比叡山の同学で一歳年長といいます。(『本化高祖年譜』)。しかし、『本化別頭仏祖統紀』には嘉禎二(一二三六)年に生まれたとあり、日蓮聖人と一四歳の違いになります。遷化されたのは元亨三年三月二六日のことですので、『玉沢手鑑』をもとにすれば世寿は一〇四歳、『本化別頭高祖伝』・『御書略註』では一〇三歳、そして、『本化別頭仏祖統紀』では八八歳となります。『本化別頭高祖伝』は智寂院日省上人が入寂する前年(一七二〇年)に著したといいます。『本化別頭仏祖統紀』は日省上人の弟子の、六牙院日潮上人が亨保一六(一七三一)年に著しています。『御書略註』一巻(『日蓮宗宗学全書』第十八巻一六五頁)は、境達院日順上人(~一八五四年)の著述ですが、玉沢妙法華寺の第三三世、境持院日通上人(一七〇二~一七七六年)が著した、『御書問答証議論』十巻を抜粋し和訳したと推定されています。(『日蓮宗事典』一〇一頁)。

『本化別頭仏祖統紀』には、葛飾郡平賀郷の生まれ、姓は平、氏を畠山、父は祐昭とあります。また、『御書略註』には、父を印東二郎左衛門尉祐昭、母を工道左衛門尉祐経の長女であり、伊東大和守祐時の姉とあります。日昭上人の母は工藤祐経(すけつね)の娘で、曽我兄弟の仇討ちのときに加勢した犬房丸(大和守祐時)は、日昭上人の叔父(母の弟)になります。つまり、日昭上人は曽我十郎・五郎兄弟によって仇討をされた鎌倉時代の武将・工藤祐経の娘の息子、つまり孫にあたります。伊東四郎成親の孫が父祐昭(祐照)で、伊東四郎成親が領地してからは印(い)東と読むとあります。

テキストの「日蓮聖人と弟子・信徒の相関図」を参考にしますと、日蓮聖人が伊豆流罪となったとき、地頭だったのが伊東祐光です。日蓮聖人は病を平癒し立像の釈尊像を手中にしました。伊東祐親は伊豆に流された文覚上人を寄寓させ、薬師如来像を贈られた人でした。この像は祐親から子の祐清に渡りますが、頼朝の挙兵による砥並山の合戦で戦死します。そのあと、祐光が母と妻とともに鎌倉の小菅ヶ谷に東照山医王院開き、この像をおさめて父の菩提をとむらい入道して道念と名のっています。日蓮聖人は法華経の信仰を退転した人とみています。

鎌倉の材木座にある実相寺は、工藤祐経の屋敷跡に建てられた寺で開基は日昭上人です。その縁で左大臣藤原兼経の嫡子となり成弁と名のり、比叡山の尊海を尋ねたといいます。

日昭上人の母は、日蓮聖人が桟敷尼御前(一一八七~一二七四年)・妙一女と呼称している方です。竜口法難のとき処刑場の途中にて、ぼたもちを供養された方です。しかし、桟敷尼御前・妙一女とは別な人ともいい不明です。『玉沢手鑑』に、御所の桟敷、今の雪下の西の小路に住んでいたとあります。また、妙一尼は佐渡に四年、身延に九年のあいあだ、譜代家人一人の強士侍を、日蓮聖人のために給仕させた篤信の女性でした。弘安三年の春に身延に登詣します。このとき池上宗仲が馬を用意したといい、将軍親王が日昭上人の内縁であったからできたとあります。

 日昭上人は一説には幼少のときに出家したといいます。字を成弁といいます。また、出家の年次を『御書略註』には、嘉禎元(一二三五)年一五才とします。大和守印東祐時の養子となり、大和公弁成と名のります。『玉沢手鑑』に官名を大和阿闍梨というのは外祖父によるといいます。日昭上人の兄は印東三郎兵衛尉祐信といい、その子供の智満丸と福徳丸は弟子となり、日祐・日成上人と名のります。姉は池上左衛門大夫康光の妻であり、その子供が池上宗長と宗仲です。日昭上人と従兄弟になります。妹は平賀二郎有国の妻となり日朗上人を生みます。日蓮聖人が妙朗尼と呼ばれる方です。夫が早世したため平賀左近将監忠治に再嫁し、生まれた子供が日像と日輪上人です。また、妙恩日女比丘という娘がいたとあります。日像上人の姉で平賀家と遠州の金原法橋氏とは縁が深いとありますが、その記録は戦乱のため亡失したといいます。(『本化別頭仏祖統紀』)。

 また、日昭上人の(兄)印東祐信は御所の桟敷を守護する役をしていました。日昭上人は摂政左大臣兼経(一二一〇~一二五九年)の猶子となっています。猶子とは兄弟・親類や他人の子と親子関係を結ぶことで、おもに、仮親の権勢を借りるためでした。一族の結束を強化することにもなりました。平安期より貴族社会を中心に行われ、鎌倉期には武家でもおこなわれていました。

 日昭上人の仮親となった左大臣兼経の娘が宰子です。宰子の子供が惟康親王です。この縁により日昭上人の母、妙一尼(桟敷尼)が御所桟敷に住むことができたとあります。日昭上人は近衛兼経の猶子となり、法印に任じられています。『御書略註』には母親の縁によってと近衛家との関係を記しています。これは、猶子関係による一族の強化、僧位(僧官)を得るため慣習にしたがったと思われます。六老僧の皆が猶子となっています。『玉沢手鑑』には日昭上人の姓を藤氏近衛左僕射男とあり、近衛家と音信をもっていたとあります。

近衛兼経は嘉禎元(一二三五)年に左大臣となり、嘉禎三(一二三七)年に、九条道家の娘仁子を娶り、長年不仲であった近衛家九条家の和解に努めます。同年に道家から四条天皇の摂政の地位を譲られ、仁治元(一二四二)年に、四条天皇元服加冠のために太政大臣に任じられます。九条道家の失脚時に兼経も巻き添えとなって、関東申次を解任されますが、宝治元(一二四七)年に後深草天皇の摂政として再任されます。建長四(一二五二)年に異母弟の鷹司兼平に摂政を譲りますが、日昭上人が猶子縁組を結んだのはこのころで、兼経は正嘉元(一二五七)年に出家して宇治岡屋荘に移っています。近衛兼経の娘が近衛宰子(一二四一~?)です。

近衛宰子は、六代将軍宗尊親王の正室で、七代将軍惟康親王・掄子女王の母となります。文応元(一二六〇)年二月五日、二〇歳で北条時頼の猶子として鎌倉に入り、三月二一日、一九歳の将軍宗尊の正室となります。これは、時頼の猶子にすることで、北条氏から将軍に嫁すという形を取ったのです。日蓮聖人はこの年の七月一六日に『立正安国論』を時頼に上呈しました。

宰子は文永元(一二六四)年四月二九日に惟康王を出産します。しかし、文永三年に宰子と出産の際に験者を務めた護持僧良基との密通事件が露見し、宗宰子と惟康親王は時宗邸に移されます。後述しますが、この事件で鎌倉は大きな騒ぎとなり、近国の武士達が蜂のごとく馳せ集まります。京都には「将軍御謀反」と伝えられ、惟康親王は京都に移され、幕府は三歳の惟康王を新たな将軍として擁立します。その後、宰子は娘の倫子女王を連れて都に戻ります。都では良基は高野山で断食して果てたとか、御息所宰子と夫婦になって仲良く暮らしているなどと噂されたといいます。没年は不明です。娘の掄子女王は後宇多天皇の側室となって禖子内親王を産んでいます。

日昭上人と近衛家との関係はしばらく続いています。のちに、日像上人が京都に入り、その弟子となった大覚妙実は関白近衛経忠卿の子です。つまり、日像上人が京都へ進出したのは、近衛家の支援があったからといえるのです。『本化別頭仏祖統紀』(一九三頁)によりますと、日昭上人は建長元年に地元の寺にて出家し、すぐに比叡山に上ります。ここで、尊海を師僧として修学し、秀英を認められ藤原氏の猶子となり、建長五年の春に十八登壇受戒します。日昭上人の慈覚・智証大師の理同事勝を破折する思想を聞き、尊海から日蓮聖人と同じ徒党であるかを問われ、このときはじめて日蓮聖人の存在を知ったとあります。

そして、さっそく帰郷した日昭上人は、印東平賀有国から日蓮聖人との関係を聞き、心を躍らせて松葉ヶ谷に尋ねたとあります。これは、日蓮聖人が日昭上人の一族と、特別な恩義がある関係を聞いたと思われます。しかし、一般には日蓮聖人と同じ時期に比叡山にて修学しており、ともに博識の誉れがあったと伝えます。このときの比叡山の学友に、最蓮房・仙波尊海・浅草寂産がいたとあります。(『玉沢手鑑』)。

日昭上人は下総の能手の出身であったので、日蓮聖人と言葉に郷愁があり親交を結んだといい、比叡山において日蓮聖人が復興天台宗として鎌倉に立教開宗するときは、ともに法華経を弘通しょうと秘盟したといいます。この約束の一つとして現れたのが日朗上人の存在です。日朗上人が弟子となったのは建長四年とあります。日蓮聖人が清澄寺にて立教開宗をされる以前のことになります。日興上人が実相寺において、とうじ、吉祥麻呂と名のっていた日朗上人に、出家後の年数を聞いたところ、日興上人は建長五年の出家ですので、自分とは一年しか違わないと『本化別頭仏祖統紀』に記載されていることと符号します。日朗上人が名越の日蓮聖人のもとに行かれた時期は、この数年後のことになります。そして、日興上人と対面するのは、正嘉三(正元、一二五九)年、実相寺においてのことです。日昭上人は約束とおり、日蓮聖人が立教開宗をされたことを聞き、松葉ヶ谷に向かい弟子となって、日昭上人と名のります。この由来を『本化別頭仏祖統紀』には、日昭上人の孝心を尊び父祐昭の一字をとったとあります。また、智弁第一であることから大成弁と呼んだとあります。

日蓮聖人は日昭上人を弁殿・弁阿闍梨と尊称し、通常、日昭上人を辨殿とよび、教団を影で支える重役を委ねています。日蓮聖人のあとを補う人という意味で「補処の法器」といいます。日蓮聖人が折伏という形で表面にでて、不惜身命の経文のとおりに命を賭しても、日昭上人は天台僧という保証された身分を表にしていれば、迫害をうけずにすみます。裏面で教団の継続をになう特別な役目を委嘱されたのです。

 さて、日昭上人の年齢が、立教開宗のとき一八歳であり、この年にはじめて日蓮聖人の存在を知ったとする説にしたがえば、比叡山において立教開宗の盟約や、日朗上人を開宗前に弟子としたという説はゆらぎます。比叡山においての秘盟について、山川智応先生は、小説としての面白さよりも史実を重視します。(『日蓮聖人伝十講』二一二頁)。また、松本佐一郎氏は、『本化別頭仏祖統紀』は怪しい記事が多いと批判し、考証よりも伝説を材料としていることを批判しています。(『富士門徒の沿革と教義』三三頁)。

 山川智応先生によれば、日昭上人の『法華本門円鈍戒血脈相承譜』に、「権律師日昭」とあることから、日昭上人は比叡山にいたときに受戒をし、権律師の僧位僧官を得たとします。もし、日蓮聖人の滅後に比叡山にて受戒をすれば、富士門下が「五人所破抄」に、このことを批判するはずとします。そして、摂関大臣の実子でもない限り、一八歳の若さで僧官を得ることは考えられないとします。(摂政近衛左大臣兼経の猶子となり、法印に任じられています)。そして、『玉沢手鑑』の三四歳説をとります。また、日蓮聖人が日昭上人にたいしての口調や態度からも、年少ではないと判断します。

これらのことからしますと、立教開宗にいたる準備の段階から、日昭上人をはじめとした人々の動きが見えてます。そして、鎌倉進出、名越に居を構えた理由が見えてきます。それは、まず、建長四年に日朗上人が内定の弟子となり、翌年に「立教開宗」、その後、鎌倉に進出したのは同年八月ころとして、一一月には日昭上人が草庵に住居して、いわゆる留守居をまかされたと思われます。日朗上人は翌年に鎌倉に入室しますが、すでに、「立教開宗」後には、日蓮聖人と行動をともにしていたと思われます。日蓮聖人は下総などを往復したのです。

「立教開宗」後の二年ほどは、頻繁に各地を歩き、鎌倉にての地盤を築いていたはずです。日蓮聖人の信徒といわれる人たちが、この二年ほどのあいだに急激にふえたのは、辻説法の効果というよりは、前もって準備をしていた人たちが、時期当来の知らせを聞いて駆けつけたといえましょう。北条得宗の眼下に入るには、政権闘争にまきこまれることを覚悟しなければなりません。そのためには、用意周到に事を起こさなければならなかったのです。

『玉沢手鑑』には、日昭上人よりもさきに、大進阿闍梨と三位公日行が日蓮聖人の弟子になっているとあります。その理由は、日蓮聖人の外従弟であるとしています。ここには、この二人は曽谷教信氏の子供となっています。また、日向上人は長子で、金原法橋・浄蓮房の名前もみえます。日蓮聖人と血族であることになります。『玉沢手鑑』は、日昭上人を正嫡とする意図があるためか、いろいろな説が混沌としています。しかし、全てを虚偽とすることはできません。伝承に真実を読み取ることも大事ですので参考にします。

  (『玉沢手鑑』の一説)

         三男

――曽谷二郎教信法蓮――――日心(土牢に入る。のちに、日                        真・身延三世大進院日進)

大野政清―――大進阿闍梨

――少納言日

        ――三位公日行

(『御書略註』の説

                  ―兄政清―――――曽谷教信――――山城公日心
  道野辺右京の娘            ―大進阿闍梨

    |――――――――梅千代

  大野吉清          ――――――日蓮聖人

 (大進家)        貫名重忠

 大野吉清の家は代々、故実(こしつ)の博士で、問注所の役人とあり、大進家と言うことが書かれています。故実とは武家社会の儀式・法制・作法・服飾などの規定に関する役職をいいます。

           ――兄貫名重忠

           ――弟男金実信(妙信)――兄男金弥四郎(?)

               ――――――――――弟民部日向上人

             公日房妙向

 三位公日行は日蓮聖人のもとを離れ敵対した人物といわれます。日蓮聖人よりもさきに死去し、これを謗法の罰であると叱咤されています。しかし、佐渡流罪中には鎌倉の教団をささえたのが大進阿闍梨であり、智慧が勝れ日蓮聖人にかわる人物とされたのが三位公日行でした。このことについては後述します。

さて、名越に草庵の場所を選定することにあたり、鎌倉に在住していた、比企能本・四条金吾の奔走、そして、日昭上人が日蓮聖人よりも早く鎌倉入りをし、権律師の僧官をかざして草庵を準備したかもしれません。このように考えると、いかに人脈(血族関係)が大切であるかがわかります。また、日蓮聖人を死守しようとした覚悟も伝わってきます。

日昭上人の著述に『経釈秘抄要文』があります。『玉沢手鑑』(二六四頁)によりますと、日昭上人が大切にされていた宝物類は地震災害のときに流失したといいます。同書には、「当山霊宝古記等、鎌倉撃破流失僅止一箱」とあり、残ったのは一箱だけだったとあります。この災害の年次を、明応四(一四九五)年八月一五日の鎌倉大地震ではないかと記しています。

ちなみに、日蓮聖人の書状や曼荼羅など、大切なものは厳重な木箱や皮袋に保存したといいます。『常修院本尊聖教事』の「御自筆皮籠奉入の部」に、重要な教義書である『観心本尊抄』などが納められています。とくに帖仕立てのものは皮籠のなかに厳重に収められたといいます。(中尾尭著『日蓮真蹟遺文と寺院文書』一八〇頁)。また、中山法華経寺の日祐上人は、内乱のさいにいつでも持ち出せるように、キンケウノ袋、シノフノ袋に保管していたといいます。(湯浅治夫著『東国の日蓮宗』一七〇頁)。