106.日朗上人について                    高橋俊隆

○日朗上人

日朗上人は寛元三(一二四五)年四月八日に、下総海上郡能手郷にうまれました。日昭上人の妹の夫で義弟にあたる、平賀二郎有国の子供です。日昭上人の甥にあたり幼名を吉祥丸といいました。伝承では父親の平賀有国が、建長六年(一二五四)の一〇月に、松葉ヶ谷に行き日蓮聖人と対面します。このとき日蓮聖人の人徳に感じ、一〇歳の吉祥丸を入門させます。(『本化別頭仏祖統紀』・『日蓮聖人遺文辞典』六四七頁)。(一二歳説だと建長八年になります)。さきに、建長四年に弟子となったという説をのべました。日朗上人が一〇月に名越に来られたということは、この一〇月には庵室が完成されていたということになります。そして、文応元年一六歳のときに得度し、筑後房と名のり字を大国としたとあります。(『本化別頭仏祖統紀』)。

日朗上人は日蓮聖人の直弟子になります。既成教団で受戒していない私度僧・自度僧にあたります。また、前述したように、日朗上人の異父(平賀忠治)弟に日像上人と日輪上人がいます。日蓮聖人の弟子のなかには天台僧に配属したり、もともと、天台僧の資格を持っていた弟子はそのままにしていたようです。大進阿闍梨は鎌倉に小堂を構えており、三位公は京都に遊学して公家の持仏堂などで講義をしています。また、官僧・遁世僧、白衣・黒衣という区別があります。(松尾剛次著『中世鎌倉の風景』八四頁)。

日蓮聖人に仕え給仕したことから「師孝第一」・「常随給仕」の弟子と言われ、大国阿闍梨・正法院と尊称されています。日蓮聖人の滅後は春秋身延山に参詣したといいます。元応二(一三二〇)年一月二一日、七六歳にて示寂します。遺言により、松葉ヶ谷剃髪得度のところで荼毘し、猿畠に塔を建てています。墓塔のそばにあった松の枝が墓前にかかり、日朗上人を泣き慕うようであったことから、この松を堕涙松と呼んだといいます。

日朗上人が生きているあいだは、日蓮聖人が住まわれた松葉ヶ谷を取得できなかったといいます。この松葉ヶ谷の法華堂(草庵)は官命により壊され、その跡は灌漑の用地となったといいます。日朗上人の在世には再建できなかったのです。日像上人は日蓮聖人より、自分は古賢の教えにしたがって身延に隠棲しても、「つねに法を比企の霊場に揚げよ」と厳命していたことを心にかけていたといいます。同じ弟子の日印が名越に本勝寺を建てることが叶いました。つぎを継いだ日静は尊氏の伯父にあたり、この縁で京都六条に本国寺を建てることになります。本国寺に随身仏・安国論・赦免状が伝わる理由はここにあります。

その門下には多くの俊英がいます。なかでも肥後阿闍梨日像・治部公(大教阿闍梨)日輪・大法阿闍梨日善・大円阿闍梨日典(伝)・大前阿闍梨日範・摩訶一房日印・本乗坊日澄・妙音坊日行・越中阿闍梨朗慶の九人が有名です。これを朗門の九鳳・九老僧と称しました。日朗上人に縁がある寺院は、日蓮宗初期の比企谷の妙本寺(文応庚申の春、堂を築)、池上本門寺(文永甲戌冬)、平賀本土寺(建治丁丑)があります。ここから、日朗門流・池上門流・比企谷門流の祖といわれます。のちに、弟子の日像の系統が四条門流となり、弟子の日印の系統が陣門流や六条門流となります。