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○鎌倉時代の浄土宗さて、この当時の鎌倉の仏教界は、鎌倉遊学中の一〇余年前とくらべ、従来の旧仏教にくわえ新仏教が台頭していました。とくに、京都で弾圧をうけた念仏僧が鎌倉に新天地を求めてきました。日蓮聖人は浄土教の進出を危険視されました。これは、民衆が阿弥陀仏にすがったことと、幕府の要人と結びついていたことです。 (鎌倉の浄土教寺院) 長楽寺―――智慶 新善光寺――道教――名越――念仏者の首領 悟真寺―――良忠―― ――鎮西義 浄光明寺――真阿・性仙 長安寺―――能安 光明寺―――良忠・性真―鎮西義藤田派(水沼義) 大仏殿―――浄光――名越一門 最初は釈迦仏、後に弥陀仏になったといいます 浄土宗は、かつての鎌倉遊学中と同じように、法然の弟子が盛んに念仏を広めたことにより、有力者の支持をうけ念仏信仰が定着していました。北条経時は寛元元(一二四三)年五月に蓮華寺を光明寺とあらためており、のちに、北条時頼も帰依し歴代執権の庇護により、七堂伽藍を大きくし念仏信仰の道場となっていきます。 また、法然門下で一弟子にかぞえられ、多念義を唱えて相模飯山に流罪された隆寛の弟子、南無房智慶がいました。智慶は隆寛門下の第一人者として師の多念義を説いていました。外護者は名越の北条朝時、その子の光時・時章でした。名越氏の援助を得て飯山にあった長楽寺を鎌倉に移していました。 同じく法然の高弟の一条覚明の弟子の道教が、名越の新善光寺の別当でした。「念仏者の主領」(『鎌倉往還記』)と言われるほどの権力者となっています。道教は長西の「諸行本願義」(九品寺派)を説きます。この教えは念仏者は念仏で、ほかの諸宗の諸行にても報土往生ができると説きます。法相や天台の教義に近付けたものでした。名越の時章は道教にも帰依していました。新善光寺は名越の草庵から尾根一つを隔てたところにあり、ここを拠点に道教は活発な布教を進めていました。北条長時が建長三年に建てた浄光明寺にも道教も住し、弟子の性仙も住しており念仏の拠点となっていました。 また、同じ法然の一弟子で鎮西義(ちんぜいぎ)とよばれる流儀をたてた、聖光房弁長の弟子で良忠がいます。正元(一二五九)年に鎌倉に進出して、北条(大仏)朝直の帰依をえて佐介ヶ谷に悟真寺(光明寺となる)を開いていました。良忠は建治二(一二七六)年に上洛するまで鎌倉におり、著作が多く記主禅師といい、日蓮聖人が鎌倉にて布教していたときは五〇代です。弁長の多念専修の教えを引きついでいます。口唱念仏を説きながら諸行往生を認めます。神六入道が良忠のために無常堂に庵室を設けたといいます。 また、良忠は千葉氏一族に連なる武士に支持を得て、上総・常陸(茨城県)に教線をのばし、建長六年の秋には下総に進出しています。九月上旬に、鏑木九郎胤定入道在阿の招きで鏑木(八日市場市)に赴き、ここで『選択伝弘決疑鈔』五巻を書いています。建長七年には下総の福岡村で、同門衆を集めて『定善義』の講義をしています。やがて、福岡の領主である椎名八郎と対立して、文応元(一二六〇)年ころに鎌倉に移ったといいます。清澄寺を出て房総を拠点として布教していた日蓮聖人と、時期的に重なっており、鎌倉を主戦場として対立します。良忠の高弟に性真(唱阿、〜一二五六〜一二九三年〜)がおり、比叡山で出家し康元元(一二五六)年ころには、鎌倉の光明寺で良忠に師事していました。鎮西義藤田派(水沼義)の祖となります。真阿は建長三年に北条時頼・長時を開基として浄光明寺を建てています。『行敏訴状御会通』に浄土教の大仏殿・長楽寺・浄光明寺の名を挙げて三類の強敵としている存在であることがわかります。しかし、このほかに言及はありません。 能安については不明ですが、道教と比肩した浄土教の僧であったといわれます。長安寺に住していたと『遺文』(『論談敵対御書』二七四頁)にあるのみで、現在は廃寺で諸書には見えていません。『立正安国論』を上呈した後に、浄土教の道教と能安の二人と法論を行なっています。両者ともに即座に論破されたと同書にのべられ、この後の『遺文』には能安の名前はでてきません。この論談により能安の信用が落ち道教が念仏者の首領となったのか、あるいは死没したのではないかと推察されています。 大仏殿も浄土宗であり、名越氏がこの外護者であったことが、『兵衛志殿御返事』に、 「両火房を御信用ある人はいみじきと御らむあるか、なごへの一門の善覚寺・長楽寺・大仏殿立てさせ給て其一門のならせ給う事をみよ」(一四〇六頁) と、のべていることからわかります。浄土宗は重時などの有力者を外護者として、天台宗や真言宗にせまる勢いをもっていました。要するに、浄土教は法然の選択主義を捨て、旧仏教と共存する政治体制のなかに融合させていたのです。 日蓮聖人が鎌倉に出た時は、主に念仏宗を批判しつぎに禅宗を批判していきます。念仏批判の理由は、鎌倉の人々の信仰が大きく念仏信仰に傾いていたことでした。法華経いがいの流行は釈尊の真意ではないとする日蓮聖人にとって、四宗の流行は根底に謗法という危機意識をもっていました。そのなかでも念仏から批判をしていきます。ついで、禅宗の邪義を破折していきます。もっとも幕府の要人が信仰し庇護していた宗派でした。 |
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