108.鎌倉時代の禅宗                         高橋俊隆

 ○鎌倉の禅宗

禅宗はすでに源氏二代将軍頼家と、母の北条政子の庇護のもとに、正治二(一二〇〇)年に栄西が建てた寿福寺があり、創建とうじは七堂伽藍を配備し、一四の塔頭をもつ大寺院で、禅刹として体裁を整えたのは、弘安元(一二七八)年頃とされています。栄西はそのご、京都建仁寺に移り、禅宗として特別に力はなかったようです。宝治三(一二四七)年に火災にあい、また、正嘉二(一二五八)年の火災では一宇を残さぬまで焼失しています。これらの復興は南北朝時代の頃になります。

栄西の禅は密教の僧侶としての性格が強く、このあとの二世行勇と栄朝が一門をひきつぎ、栄朝の門下に朗誉がいます。朗誉は悲願房といい、日蓮聖人は『破良観御書』に、

「良観・道隆・悲願聖人が極楽寺、建長寺・普門寺等をたて、叡山の円頓大戒を蔑如するが如し。此れは第一には破僧罪也。二には仏の御身より血を出す」(一二七八頁)

と、「悲願聖人」と名前がのべられ、『沙石集』には「智行共にならびなき上人」と書かれています。日蓮聖人が鎌倉にいた当時は五〇代中ころで、禅のほかに真言も兼学した高僧といわれています。また、心地覚心円爾蘭渓道隆大休正念など、多くの名僧が入寺し、鎌倉の禅宗文化を知る重要な寺院となっています。

宝治元(一二四七)年、時頼は道元(一二〇〇〜五三年)を鎌倉に招いています。道元は比叡山の般若谷千光房に入り、天台座主の公円について一三歳にて出家し仏法房と名のり、三井寺の公胤のもとで天台学を修めています。建仁寺にて栄西の弟子の明全に師事し禅を学び、明全とともに日蓮聖人が生まれた貞応二(一二二三)年、二三歳のときに宋に渡り、天童山にいた曹洞宗の長翁如浄より印加を受け、安貞元(一二二七)年に帰国しました。建仁寺にしばらく住し『普勧座禅儀』を撰述し座禅を広め、寛喜二(一二三〇)年、三一歳のころ山城深草に閑居し、天福元(一二三三)年ころ深草極楽寺跡に興聖寺を開き、『正法眼蔵』(摩訶般若波羅密の巻)を示し撰述を進めます。しかし、比叡山からの弾圧をうけ、のちに越前に移り大仏寺を開き永平寺と寺号を改めました。文歴元(一二三四)年、能忍門下の孤雲懐奘が参入し、仁治二(一二四一)年に越後波着寺にいた能忍門下の懐艦が参入し、のちに永平寺教団の主流となります。寛元二(一二四五)年に大仏寺を建立し、同四年に永平寺と改称しています。

時頼と越前国の地頭である波多野義重の招請により、道元が鎌倉に下向したのは宝治元(一二四七)年のことで半年ほどの滞在でした。道元は時頼らに菩薩戒を授けましたが、時頼との対面のことを永平寺に帰り、後悔する旨の法語を残しています。建長五年八月二八日に俗弟子の覚念の屋敷で没しています(京都高辻西洞院。死因は傷とされています)。教義は「修証一如」「只管打座」を説き、著書に有名な『正法眼蔵』があります。

さて、日蓮聖人が鎌倉に修学したときとは違い、蘭渓道隆の来日があり、また、建長寺の創建がありました。

 蘭渓道隆は寛元四年(一二四六年三三歳)に来日していました。道隆は西蜀(四川省)に生まれ、臨済宗楊岐派の無明慧性について悟りを開いたといわれます。宋にて日本の留学僧、泉湧寺東迎院主月翁智鏡に遭遇して来日を決意したといいます。道隆は博多に着き月翁知鏡をたより京都の泉湧寺に入り、円爾弁円が京都で活動していたころ純粋禅を説いています。まもなく北条時頼の要請をうけて鎌倉の常楽寺に住し、同寺を禅宗に改めて宋禅をひろめていました。常楽寺は三代執権の泰時の菩提寺であり、その法名から名づけられました。

泰時の子である時頼は、鎌倉における禅宗の筆頭となる建長寺を、建長三年に起工し日蓮聖人が立教開宗をした同五(一二五三)年一一月二五日に、巨福呂坂の刑場近くに建長寺を建立し蘭渓を開山としました。建長寺の地所は地獄谷といわれる処刑場があったところで、罪人を救い弔うために開眼された地蔵菩薩が、仏殿の本尊として伝わっています。建長寺は中国の径山を模して、宋朝風の建築様式をもつ純粋な禅寺として出発させています。創建のときの僧侶は百人を超えたといい、時頼の並ならぬ力の入れ方は、仏殿供養の願文を時頼自身が清書したことからうかがえます。

そのご、蘭渓は文応元(一二六〇)年に来日した兀庵普寧に建長寺を任せ、文永二(一二六五)年に建仁寺に住持として入ります。建仁寺にとっては画期的なことであり、これにより京都に純粋禅がもたらされることになります。しかし、比叡山は蘭渓の禅を批判し、これに対抗できずに蘭渓は建仁寺を去っています。。蘭渓は六六歳で没し大覚禅師という初めての禅師号を授けられています。蘭渓の実力についてはどうだったのかというと、兀庵普寧や悟空敬念、東厳慧安らは、宋において一流の人物とは評していません。時頼の参禅を指導したのは蘭渓と兀庵ですが、兀庵は時頼が死去すると蘭渓の禅に反対し、元の間諜の疑いをかけられ帰国しています。

鎌倉における禅宗の興隆は時頼の帰依によるもので、のちに臨済宗の五山制度に発展していきます。日蓮聖人が鎌倉に布教をはじめたころは、道隆の禅が勢いを強めていました。鎌倉に遊学していた時とは違い、北条一門の帰依により道隆の名声と禅宗への傾斜が強くなっていたのです。

 鎌倉の寺院は、これら鎌倉幕府の要人や北条氏一門などの有力な外護があり、その庇護のもとに権力を誇っていました。日蓮聖人は各宗の僧侶と仏法の論戦をするだけではなく、その寺院や僧侶の外護者である鎌倉幕府の要人を相手にすることになりました。いいかえますと、各宗の僧侶は幕府の要人や、高位の武士などの人脈を利用して、政治的な圧迫をもって日蓮聖人を排撃してきます。日蓮聖人にしますと、大きな後ろ盾をもっていなかった弱点といえましょう。多数派に押し寄せられてしまう構図です。

日蓮聖人が批判した禅宗は、道元の曹洞禅ではなく臨済禅の一部でした。『安国論御勘由来』に、能忍の禅宗を加えて災害の根源とのべています。禅宗が批判の対象としてのべられたのは弘長二年、伊豆流罪後の『教機時国抄』(二四五頁)にのべ、『安国論副状』(四二一頁)に見えます。ただし、『立正安国論』にはふれていません。これが時頼の禅宗帰依に配慮してのことか、あるいは、『立正安国論』上呈以後に、禅宗が大きく勢力をのばしてきたことに関係があるといいます。

のちの禅宗は曹洞宗が諸階層に禅を浸透させていきます。とくに永平寺四代螢山紹瑾(一二六四〜一三二五年)が密教や諸信仰を取り込み庶民の支持を得ていきます。遺文には能忍のほかに、円爾弁円、道隆が批判の対象として見えてきます。弁円は京畿を代表し、道隆は東国を代表する禅宗の天魔としての対象になっていたのです。しかし、時頼と親しかった兀庵普寧や、時宗の参禅の師匠である大休正念や無学祖元についてはふれていません。

旧仏教においては、天台密教・真言密教ともに祈祷をする僧侶が、鶴岡八幡宮や大蔵阿弥陀堂などを中心として勢力をもっていました。また、戒律復興をもたらした覚盛(一一九四〜一二四九年)や、叡尊(一二〇一〜九〇年)によって再興された律宗があります。このとき叡尊の弟子の良観(一二一七〜一三〇三年)は常陸にいて律宗を広めており、まだ鎌倉には入っていません。のちに、極楽寺に入り日蓮聖人を弾圧します。