|
○辻説法松葉ヶ谷に草庵を構えた日蓮聖人は、『元祖化導記』によると、毎日山中に入って高声に題目を唱えたといいます。とうじの鎌倉は民家も人口も少なく、道路もそれほど整備されていたわけではなく、草庵の場所が山中でありましたので、読経の声が山中に響いていたともいえます。草庵を構えた初期には山岳信仰を基にした法華持経者として、周りから見られていたかもしれません。称名念仏が流行している時勢に、南無妙法蓮華経と唱題することが、民衆の好奇心をそそり聞法のきっかけとなったともいいます 辻説法の場所については、日蓮聖人の遺文にはなく、また、幕末の小川泰堂居士の『日蓮大士真実伝』より以前の伝記にも見えません。日蓮聖人は松葉ヶ谷の草庵を拠点として辻説法をしたといいます。ただ、杖・瓦・石の難を考えれば、人通りの多い小町の辻で説法をされたであろうといわれています。現在、小町二の二二に「日蓮聖人辻説法蹟」と、大町の本興寺の門前に記念碑があります。この「日蓮聖人辻説法蹟」は、明治三四年九月一〇日に国柱会の田中智学居士が、立正安国会を設立した当初からの会員の寄付により土地を購入し、霊蹟地として石碑をたてて顕彰したものです。翌年にインド大菩提会会長ダルマパーラ師と、高山樗牛氏がこの霊地において、田中智学居士より戒を受けています。 田中智学居士は辻説法の場所を蛭子神社の近辺としていました。蛭子神社は小町の鎮守の神で、もとは夷堂橋付近にあった夷三郎社が、本覚寺を建てたときに境内に移され夷堂として祭られました。明治の神仏分離により現在の地に移されています。もともとから蛭子神社がここにあったのではありません。この「日蓮聖人辻説法蹟」の向かいに、妙勝寺が明治初年ころまでありました。この妙勝寺に腰掛石が保存されていました。延宝八年の史料によると本寺は上総の茂原寺の末寺であったことがわかっています。平成二一年一一月に、この霊地右側に隣接する土地、三五、二平方bの土地を日蓮宗が購入しました。この上もない慶事であり日蓮聖人のご恩に報いることになると思います。 日蓮聖人は若宮大路の東側に並行して南北に通る小町大路周辺や、各場所の辻で説法をしたと思われます。小町大路の北寄りは幕府の高官や有力御家人の屋敷が立ち並んでおり、政治の中枢部になります。南寄りは建長三(一二五一)年に、幕府が商業地域に指定した所であり、大町四つ角の交差道路は鎌倉随一の繁栄をみせています。そのまま海浜に向かえば和賀江島の港があり、海上からの流通経路であったのです。日蓮聖人が辻説法をするには、政治と商業に従事する人々を対象とすることができました。 辻説法について宗門以外の史料は皆無であることから、辻説法が行なわれたことを否定はできないが、説法のあり方は不特定多数の人々に、やみくもに法華経を説いたとはいえないともいいます(佐藤弘夫著『日蓮』七三頁)。また、時頼が執権になってからは、鎌倉市中の統制が厳しくなり、寺院をはなれて自由に活動する念仏僧が取り締まりの対象になり始めていたので、このようなときに、辻説法を行なうことはできなかったといいます。(中尾尭著『日蓮』六九頁)。 また、とうじの鎌倉は街頭でのこれらの行為を禁止していたという説があります。延応二(一二四〇)年に出された市政の法令のなかに、保(ほう)の奉行人に当てた命令があります。そのなかに「辻捕」(つじとり)「町々辻々での売買」「辻々盲法師や辻相撲」という、いわゆる、「辻」でのこれらの行為を禁止しているものがあります。犯罪や商売、そして、芸能も取り締まりの対象となっています。同年に篝火の設置も行われており、流民がふえ治安が乱れてきたことがわかります。寛元三(一二四五)年には、家の軒を道路上にださないこと、道路を狭くする町屋を作らないこと、溝の上に小屋を造らないことという禁令が出されています。建長三(一二五一)年に、小町屋や売買の施設を大町・小町・米町・亀ヶ谷辻・和賀江・大倉辻・気和飛坂山上の七ケ所に限定するとしています。それ以外の場所での商業活動は認められなくなっています。その後、文永六(一二六五)年にも行われ、大町・小町・魚町・穀町・武蔵大路下・須地賀江橋・大倉辻などに町としての認許がありました。このような、商業の場所として認められているのは、町・辻・江・坂山上・路下・橋というところでした。 とうじの「辻」というのは本来どういう場所だったのでしょうか。辻とは道路が十文字に交差している四つ角の所です。ひとつの考えとしてこの辻とは本来、無主であり無縁の地であり、霊や神の現われるところという、自由な場となっていたといいます。それで、遍歴や漂泊のさまざまな者が群れ集まっていたら、発展途上の幕府とすれば警戒をすることとなりましょう。このような辻に立ち説法が行なわれていたのです。 日蓮聖人の遺文のなかに「塔の辻」という地名を書いています。東は小町大路、西は今大路、北は横大路、南は町大路という四本の道に囲まれて鎌倉の中枢部があります。この四隅を塔の辻(東北の隅)、大町ノ辻(東南の隅)、塔ノ辻(南西の隅)、亀谷ノ辻(西北の隅)といいます。日蓮聖人の辻説法もこのような所で行われていたとも考えられましょう。 日蓮聖人は鎌倉に進出する以前に、信徒を作っていたと思います。その信徒が中心となって教団を広げていったと考えます。当初は地盤を固め、つぎに不特定の多数の人々に布教をされていかれたと思います。現在の材木座にある実相寺は、日昭上人が浜に集まる商工業者に不況するために建てた「浜の法華堂」といわれています。後年、身延山に入られて新たに本堂を建立されたときの賑わいを、「人のまいる事、洛中鎌倉のまち(町)の申酉のごとし」(一八九五頁)とのべているように、鎌倉は賑わっていたことがわかり、日蓮聖人もそのような所で布教されていたことがうかがわれます。絵画の伝記本に見られるような、題目旗を靡かせて説法をされたのかは不明です。とうじは識字能力のない者が大勢いたので、題目の大きい旗は強いインパクトを与えたと思います。法華経の内容はどこまで説法をされたかは不明ですが、遺文には念仏では成仏できないこと、浄土はこの私たちが住む娑婆にあることを示されました。 さて、大事なことは日蓮聖人がどのような心境をもって、布教活動をされたかということです。宮崎英修先生が指摘しているように、辻説法については遺文にはみえませんが、不軽菩薩の故事を引いていることは注目されます。(『日蓮とその弟子』六七頁)。この故事の内面性を知るてがかりに、『聖人知三世事』があります。 「不軽(菩薩)の跡を紹継する」(八三四頁) つまり、法華経に説かれた不軽菩薩の行いを紹継していくという自覚がありました。不軽菩薩の布教方と、法華経の持経者の認識といえましょう。これを「不軽紹継」といいます。「不軽紹継」については後述しますが、日蓮聖人の仏教者としての姿勢は不軽菩薩を模範とし、初期の鎌倉布教は主に浄土・禅の誤りを指摘し、法華経と題目を説いていきます。『破良観等御書』にはその当時のことを、 「年三十二、建長五年の春の比より念仏宗と禅宗をせめはじめ、後に真言宗等をせむるほどに、念仏者等始にはあなずる(あなどる)。日蓮いかにかしこくとも明円房(明恵)、公胤僧正、顕真座主等にはすぐべからず。彼の人々だにも、はじめは法然上人を難ぜしが、後にみな堕ちて或は上人の弟子となり、或は門下となる。日蓮はかれがごとし」(一二八四頁) と、念仏と禅の邪義を糺していきました。浄土宗の僧俗たちは、始め日蓮聖人に対して関心をもたなかったようです。日蓮聖人の評価が低かったのです。明円房などの学僧よりは劣る者として軽視して見ていたのです。 「我つめん我つめんとはやりし程に」『破良観等御書』(一二八四頁) と、簡単に日蓮聖人を攻め落とすことができると思い、念仏者がつぎつぎと法論を仕掛けてきます。また、日蓮聖人の主張が的を得ていたので黙視できなくなります。それは次第に、日蓮聖人の草庵や鎌倉市中の寺院や在家宅の場にも及んでいた当時の活動の様子が窺えます。 「かしこへおしかけ、ここへおしよせ」『如説修行鈔』(七三五頁) しかし、ことごとく日蓮聖人に反詰され面目を失ないます。『破良観等御書』に、 「或は日蓮が住処に向い、或はかしこへよぶ。而れども一言二言にはすぎず」(一二八五頁) と、これは明らかに念仏者達は、日蓮聖人が批判する「念仏無間」に対して、反論できない状態だったのです。 日蓮聖人は、過去に念仏を批判した者の欠点は、法然の教義のみを非難して、根本の善導と道綽の教義の誤りを糾さなかったとのべています。また、権実の教判を論点としなかったので、充分に念仏を批判することができなかったとしています。日蓮聖人はこれらを論点として念仏を批判しました。これに対して念仏宗徒は、 「難ぜしかば、面(おもて)をむかうる念仏者なし」『破良観等御書』(一二八四頁) と、いわれるように、返答ができなかったのでした。念仏宗徒のなかには、念仏の法門をもって正面から日蓮聖人と対抗することをやめ、卑劣な方法で日蓮聖人に反撃にでてきました。その方法とは同じ法華経を依経とする天台宗と法戦させることでした。『破良観等御書』に、 「後には天台宗の人人をかたらひて、どしうち(同士打ち)にせんとせしかども、それもかなわず。天台宗の人人もせめられしかば、在家出家の心ある人人、少少念仏と禅宗とをす(捨)つ。念仏者・禅宗・律僧等、我智力叶はざるゆえに、諸宗に入りあるきて種々の讒奏をなす。」(一二八五頁) 道善房のように浄土教を信仰する天台宗の僧侶がいました。同門の天台宗を相手にさせたのです。しかし、日蓮聖人を論破することができなかったのです。諸宗との論争は日蓮聖人の勝利でした。この様子をみて念仏・禅の信仰をやめて改宗した人がいたようです。しかし、勧持品に説かれている「無知の人」である、俗衆・道門・僭聖の「三類の強敵」は、憎嫉をいだいて悪口をいい諸宗門と結託して讒奏をしたのです。そのため日蓮聖人の信徒たちにまで排撃がおよびました。日蓮聖人はこのことを狼藉という表現をされています。『破良観等御書』に、 「人は智かしこき者すくなきかのゆえに、結句は念仏者等をばつめさせて、かなはぬところには、大名してものをぼへぬ侍ども、たのしくて先後も弁へぬ在家の徳人等、挙(こぞっ)て日蓮をあだ(仇)するほどに、或は私に狼藉をいたして日蓮がかたの者を打ち、或は所ををひ(追)、或は地をたて(立)、或はかんどう(勘当)をなす事かずをしらず」(一二八五頁) 日蓮聖人に敵対する武士や有識者、有力者が、日蓮聖人や信徒にたいして、暴力をもって土地や住居から追い出し、主君や親族から勘当させるまでの迫害をし、露骨に弾圧を企てたことがわかります。鎌倉に始まった布教はこのように命がけのものだったのです。 |
|