110.「天台沙門日蓮」                         高橋俊隆

○「天台沙門日蓮」

 このとうじ、日蓮聖人は比叡山の天台僧としての身分を持ちながら、伝教大師の門人としての立場から法華経を主張する布教をされていました。『立正安国論』に「天台沙門日蓮勘之」と天台僧として奏進されています。『立正安国論』の念仏批判において、その「天台沙門」の意識がみられます。すなわち、比叡山が貞応三(一二二四)年に、「専修念仏禁止」の上奏を朝廷にしたことをあげ、この上奏文には円仁の『入唐求法巡礼行記』を引用しており、日蓮聖人も同じくこの文を引用して、念仏批判の先例としてあげています。『立正安国論』の次の文です。

「又案慈覚大師入唐巡礼記云唐武宗皇帝会昌元年敕令章敬寺鏡霜法師於諸寺伝弥陀念仏教。毎寺三日巡輪不絶。同二年回鶻国之軍兵等侵唐堺。同三年河北之節度使忽起乱。其後大蕃国更拒命回鶻国重奪地。凡兵乱同秦項之代災火起邑里之際。何況武宗大破仏法多滅寺塔不能揆乱遂以有事」(二一八頁)

 この文は一連のものではなく抄出されたもので、比叡山の上奏文と類似しているので孫引きされたともいいます。内容は専修念仏の流行により、国家が滅亡の危機にあうと警告することにあります。このところに、日蓮聖人は旧仏教とされる伝教大師の思想をうけつぎ、「天台沙門」の立場を大事にされていました。

 日昭上人が天台僧であったように、日蓮聖人は鎌倉に進出してからも、天台宗僧との交流を持ち教化していました。比叡山での名声は鎌倉にも伝わっていたと思われます。すでに清澄寺の義浄房・浄顕房も同信の者となっており、これらの天台僧のなかで、供僧・三昧僧などをしている者を吸収して、布教を行なっていたといいます。多くの天台僧は所属の寺院を離れずに教化を受け、住房を持ち生活の場を確保しながら支援者となります。新たに出家する者のなかで、信心の強い者は直弟子となります。

・三四歳 建長七(一二五五)年

このころから自然災害が鎌倉を襲うようになります。日蓮聖人は草庵の内外において布教をされ、名越の庵室にて天台僧などと交流しています。教団の柱となる日昭上人と、日朗上人に法華教学を教えなければならない時期でした。とくに、日昭上人の役割を充分に話しあわれたものと思われます。日蓮聖人が折伏とするならば、日昭上人は摂受的な立場をとります。日蓮聖人が法華経の行者として人生を歩むのにたいし、日昭上人は天台宗に在籍し日蓮聖人を支える方法を執られていたと思われます。これより数年は日朗上人への教育が充分になされた時期となります。

建長七年に書かれた遺文は、『蓮盛鈔』(禅宗問答鈔・本満寺本)・『諸宗問答鈔』(代師本、西山本門寺蔵)・『念仏無間地獄鈔』(本満寺本)・『一生成仏鈔』(朝師本)・『主師親御書』(本満寺本、文永元年ともいう)があります。真蹟は現存していません。

これらの遺文は、法華経を釈尊の真意の教えとし、末法には法華経でなければ、私たちは成仏できないとすることに集中しています。おもに天台教学と八宗の教義を教えています。立教開宗いらいの主張が引き続きおこなわれており、とくに、『念仏無間地獄鈔』にみられる、念仏批判を集中的におこなっているのが顕著です。