111.日蓮聖人34歳の著述                   高橋俊隆

・三四歳 建長七(一二五五)年

□『諸宗問答鈔』(五)

 本書は諸宗と問答をするときの、論法を示したものです。はじめに、天台宗は天台大師の説いた教えに準拠することをのべます。教道と証道(教証二道)があり、教道とは教相の教えであり、証道とは内証の悟りを説いた教えであると区別し、天台大師は教相をもって、法華宗と諸宗の勝劣を判じるように誡めていることをのべます。

「尤も天台法華の法門は教相を以て諸仏の御本意を被宣たり。若教相に闇して法華の法門をいへば雖讃法華経還死法華心とて、法華の心を殺すと云事にて候。其上若弘余経不明教相於義無傷。若弘法華不明教相者文義有闕と被釈、殊更教相を本として天台の法門は被建立候。仰せられ候如く、無次第不簡偏円邪正も不選、法門申物をば不信受、天台堅く被誡候也」(二三頁)

 その教相として「三種教相」をあげます。第一の「根性融不融」の教相に、相待妙・絶待妙をあげ、相待妙は仏教の勝劣を判じること、絶待妙は開会の法門であることをのべます。そして、「円教」における爾前円と法華円の関係を、天台宗においては権実を円融して説きますが、日蓮聖人は区別してとらえます。爾前の円は法華経の体内に入っても、体内の権であって実ではないとします。このばあい、普通は仏が証得した諸法実相の理を体内といいます。「純円独妙」から「彼脱此種」を説かれていく過程の教えと思われます。

「仮令爾前の円を今の法華に開会し入るゝとも、爾前の円は法華一味となる事無し。法華の体内に開会し入られても、体内の権と云れて実とは不云なり。体内の権を体外に取出て且く於一仏乗分別説三する時、於権円の名を付て三乗の中の円教と被云たるなり(中略)然ば体外の影の三乗を体内の本の権の本体へ開会し入れば、本の体内の権と被云、全く体内の円とは不成なり。此心を以て体内体外の権実の法門をば得意弁ふべき物なり」(二六頁)

 本書はつづいて、禅宗の法門と、その法論の進め方をのべ、六宗と真言宗にふれ念仏におよんでいます。禅宗がいうところの「教外別伝」・「不立文字」・「仏祖不伝」・「修多羅教は月をさす指」・「即身即仏」は天魔の教えであると責めるようにのべます。

 南都六宗については、すでに最澄のときに、南都の六師が帰伏状を書いた事実を示して、論伏させるようにのべています。つぎの真言宗にたいしては、経典と大日如来の二つを論じることをのべています。大日経・金剛頂経・蘇悉地経の大日三部経は、だれが説いた教えなのか、「已今当説」のなかのどれに当たるのかを問い、もし、大日如来が説いた経典といえば、大日如来の父母やどこで生まれたかなどを問い、「有名無実」の仏であることをのべるようにとあります。また、仏身について、法身にふれれば爾前経にも説かれており、無始無終にふれればすべての衆生は無始無終であるとのべて、論伏するようにのべています。さいごの念仏については、権経に説かれた「有名無実」の仏であり、往生をする浄土も「未顕真実」であると論じるようにのべています。

 やさしい文章であり、権実判を主体として法論を展開する内容ですので、初心の信徒、また、初心の弟子に教えたテキストのように思われます。本書に真言宗についてふれているので、著作の時期は後年になるといわれています。しかし、台密批判はなく、「教道と証道」・「体内体外の権実の法門」などの、仏教用語を使われ方からしますと、初期に近い著述と思われます。

□『念仏無間地獄鈔』(六)

 本書には念仏は無間地獄に堕ちる教えであることを、「主師親の三徳」の譬を用いてのべています。また、法華経を謗る(毀謗)ことは不信であることを説いています。

「念仏者無間地獄之業因也。法華経成仏得道之直路也。早可捨浄土宗持法華経離生死得菩提事。法華経第二譬喩品云若人不信毀謗此経。則断一切世間仏種。其人命終入阿鼻獄。具足一劫劫尽更生。如是展転至無数劫云云。如此文者信方便念仏不信真実法華者可堕無間地獄也。念仏者云、我等機不及法華経間不信計也。毀謗する事はなし。何の科に可堕地獄乎。法華宗云、不信條は承伏歟。次に毀謗と云は即不信也。信は道の源功徳の母と云へり」(三四頁)

 父親である釈尊を捨てて、他人である阿弥陀仏を信じている、という表現は日蓮聖人の釈尊観の特徴となっています。この親子の関係の譬をもって、念仏者は親不孝であり、仏教からすると五逆罪の者であるとします。

また、法華経が真実の教えであることと、法華経を説くまでに教えた経典とはどのようなものなのかを、建築のわかりやすい譬をもってのべています。

「浄土三部経者釈尊一代五時説教の内、第三方等部の内より出たり。此四巻三部の経は全非釈尊の本意。非三世諸仏出世本懐。唯暫衆生誘引方便也。譬ば塔をくむに足代をゆふ(結)が如し。念仏は足代也。法華は宝塔也。法華を説給までの方便也。法華の塔を説給て後は念仏の足代をば切捨べき也。然るに法華経を説給て後、念仏に執着するは塔をくみ立て後、足代に著して塔を用ざる人の如し。豈無違背咎乎。然れば法華の序分、無量義経には四十余年未顕真実と説給て念仏の法門を打破り給。正宗法華経には正直捨方便但説無上道と宣給て念仏三味を捨給ふ。依之、阿弥陀経の対告衆長老舎利弗尊者、阿弥陀経を打捨て、法華経に帰伏して、成華光如来畢。四十八願付属之阿難尊者も浄土の三部経を抛て、法華経を受持して、成山海慧自在通王仏畢。阿弥陀経の長老舎利弗は千二百羅漢中智慧第一上首の大声聞、閻浮提第一の大智慧者也。並肩人なし。阿難尊者は多聞第一の極聖、釈尊一代の説法を空に誦せし広学の智人也。かゝる極位の大阿羅漢尚往生成仏の望を不遂。仏在世の祖師如此」(三五頁)

ここに「足代」の譬がありました。爾前経は足代のようなもので、仏教の教えの中に介在し、また、世法をおぎなうという教えでもあります。舎利弗や阿難は浄土の教えを方便と悟り、法華経の教えを知って成仏したことを強調しています。

 ついで、本書は中国の善導にふれます。善導ははじめ法華経を学んでいたが、道綽禅師にあって浄土宗となり、

「法華の文には、若有聞法者無一不成仏と説給へり。善導は行法華経者千人に一人も得道者不可有と定む。何の説に可付乎」(三七頁)

 つまり、善導は法華経を信仰しても千人に一人も成仏する者はいないと、この文を解釈したのです。そして、法華経を捨てて浄土の教えを信仰するように説いたのです。日蓮聖人はこれを謗法と批判されます。その罪のあらわれとして、善導が物狂いし寺の柳の木に首を吊ろうとして、そこから落ちて腰の骨を折り、あげくの果て悶絶して死んだことをあげます。これを、往生と言うべきか、そうならば、念仏者は師匠の教えに従って、首をくくらなければ師匠に背く咎があるのではないか、と善導の行いが理不尽であることをのべています。

 つぎに、法然にふれ、天魔がついて『選択集』を作り、釈尊の教えをすべて「捨閉閣抛」せよと難破し、念仏往生を説いたこと、そして、生身の阿弥陀仏のように仰がれたことを批判します。

 このような浄土教にたいし弾圧がおこなわれました。明恵房高辯・実胤・隆真の批判書や、「嘉禄の法難」にて法然門徒が禁圧されたことをあげます。社会からみれば、法然の門徒はいまだ赦免をされておらず、違勅の者であり、仏教からみれば謗法の罪人であるとします。

「鳴乎云世法之方者成違敕者蒙帝王之敕勘于今御赦免之天気無之。有心臣下万民誰人於彼宗可展布施供養哉。云仏法之方者為正法誹謗之罪人無間地獄之業類也。何輩於念仏門可致恭敬礼拝乎。庶幾末代今浄土宗如仏在世祖師舎利弗・阿難等抛浄土宗持法華経可遂菩提之素懐者歟」(四一頁)

 私たちは舎利弗や阿難と同じように、浄土教を捨てて法華経を信仰し、そして、かねてからの願いである菩提の成仏をはたすべきであると結ばれています。なを、念仏停止の宣旨については、建長七年の『念仏者令追放宣旨御教書集列五篇勘文状』図録七)に引いています。

□『主師親御書』(八)

 本書は文永元(一二六四)年九月一六日との説があります。真蹟は伝わっていません。本書を両親に宛てた、また、日朗上人に宛てたといいます。やさしく耳元で語りかけるような文体と、提婆品の女人成仏をのべたことから、女性に宛てられた書状と思われ、とくに、堅さがなく素直な慈愛が感じられることから、母親に近い存在の方に宛てたと思われます。書きはじめに、

「釈迦仏は我等が為には主也・師也・親也。一人してすくひ護ると説給へり。阿弥陀仏は我等が為には主ならず、親ならず、師ならず。然れば天台大師是を釈して曰、西方仏別縁異。仏別故隠顕義不成縁異故子父義不成。又此経首末全無此旨。閉眼穿鑿と」(四五頁)

と、釈尊は私たちにとって、「主師親の三徳」をそなえる仏であることをのべています。

この「釈尊三徳」については遺文の処々にみられ、『一代五時鶏図』(図録二二。二三三三頁)のような、テキストがたくさんあったと思われます。信徒はこのような主従関係や師弟関係、そして、親子の情愛についての譬は理解しやすいことでした。

 本書には釈尊がこの娑婆世界に生まれてきたのは、人々を仏にさせようという誓願であり、そのいわれと行いである法華経の文をあげています。舎利弗や阿難たちは釈尊との深い縁を知り成仏します。これを、法華経の二の巻、三の巻に説かれていると説明されています。そして、四の巻には、この法華経を説くと怨嫉に攻められることをのべます。釈尊自身も憎まれており、まして、末法は想像いじょうに激しいことをのべ、その経文に説かれているように、法華経を説くことにより迫害にあうものこそが、「法華経の行者」(四八頁)とのべます。

 また、四の巻には、釈尊は『無量義経』に、これまでに説いてきた教えは、方便であってこれから真実を説くといわれ、法華経に入って「已今当説」において法華経が最勝であると説いたことに、不信をもった仏弟子がいたのです。これらの者にたいし、多宝仏が出現して釈尊が説かれている法華経は、真実であると証明したことをのべます。そして、「六難九易」にふれ、「法華経の行者」とは、このように「法華経の文を身体にて経験する者」のこと、とのべています。つまり、口先で経文を誦しているのが、「法華経の行者」ではないと訓戒されたのです。

 つぎに、五の巻について語ります。提婆品の「若有善男子善女人聞妙法華経提婆達多品浄心信敬不生疑惑者不堕地獄餓鬼畜生生十方仏前」の文を引き、この品には二つの大事が説かれているとして、まず、提婆達多の悪人成仏をのべます。

「然れば善男子と申は男此経を信じまひらせて聴聞するならば、提婆達多程の悪人だにも仏になる。まして末代の人はたとひ重罪なりとも多分は十悪をすぎず。まして深く持奉る人仏にならざるべきや」(五〇頁)

 つぎに、龍女の女人成仏をのべています。

「然に此品の意は畜生たる龍女だにも仏に成れり。まして我等は形のごとく人間の果報也。彼が果報にはまされり。争か仏にならざるべきやと思食すべきなり。中にも三悪道におちずと説て候」(五一頁)

 法華経に三悪道に堕ちることはない、と説かれた、その地獄・餓鬼・畜生のいる世界を説きます。法華経を信仰し南無妙法蓮華経と唱え奉れば、この三つの罪から脱することができる、尊い経であることをのべます。最後に女人は「五障三従」とされ、龍女は女人の「苦」を我が身としているので、「我闡大乗教度脱苦衆生」と、女人救済の誓願を立てたと述べて結んでいます。

さて、日蓮聖人はこのころ、鎌倉と房総を往復している時期と思われます。『続高僧伝要文』の断片が小湊誕生寺に所蔵されていることから、小湊にも足を進めたかもしれません。とくに、下総の信徒たちとの交流は大事にされています。

弘安四年の書状ですが、幕府は蒙古の警護のため、九州に御家人たちを動員していました。下総の曽谷教信の近辺にも命令が来ます。これについて日蓮聖人は『曽谷二郎入道殿御報』を送られます。このなかで、つぎのようにのべています。

「爰貴辺与日蓮師檀一分也。雖然有漏依身随国主故欲値此難歟。感涙難押何代遂対面乎。唯一心可被期霊山浄土歟。設身値此難心同仏心。今生交修羅道後生必居仏国」(一八七六頁)

 最晩年の書状において、日蓮聖人と曽谷教信の関係を「師檀の一分」と表現しています。人間として別離の情愛を漂わせながらも、法華信仰の立場から師弟関係であることを説いています。このように、「立教開宗」をされ若年でありながらも、日蓮聖人は師弟の強い契りを結んでいたのがこの頃と思われます