112.日蓮聖人の鎌倉進出                  高橋俊隆

○鎌倉進出説

日蓮聖人が鎌倉に進出した時期については、前にふれたように、寺尾先生は遅くてもこの年の秋には鎌倉に定住されたといいます。立教開宗後に直ちに鎌倉入りしたのではなく、このころに鎌倉に定住したのではないかと推察しています。その論拠は、『災難対冶鈔』に、

「いまこの国土を見聞するに、種々の災難起こる。いわゆる建長八年八月より正元二年二月にいたるまで、大地震・非時の大風・大飢饉・大疫病等種々の災難、連々としていまに絶えず。大体国土の人数、尽くべきに似たり」(一六五頁)

と、のべたところの「建長八年八月」という日付です。この日付のもつ意味は日蓮聖人がこの八月には定住していて眼前に災難を体験したと解釈するのです。これ以前に起きた災害については触れていないからです。つまり、鎌倉にはいなかった証拠とみるのです。また、松葉ヶ谷の草庵を建設した時期について、中尾尭先生は建長五年から三〜四年以内と推察しています。その根拠は、平成八年に発見された『某殿御返事』に、

「先ず、白木の事、悦び入りて候。法華経一部、読誦すべきの折紙、悦び入りて候、恐々。始めにて候らえば、かうし(格子)つく(作)て候也。乃時、日蓮、御返事」

と、法華一部経の読誦の布施として白木が送られ、その白木で格子を作ったことに感謝した書状です(『某殿御返事(折紙)の位置とその伝来』二六頁『日蓮とその教団』所収)。白木は松葉ヶ谷の草庵を新築するときの、窓や扉の格子に使われたと考えられています。建長五年一二月九日付けの富木氏へ送られた折紙と形態が類似していることから、建長六年から正嘉元年初めまで(一二五四〜五七年)とみられています。

清澄の立教開宗の後、房総地方の天台宗寺院を歴訪しながら三〜四年以内に鎌倉に進出し、この折紙が出されたのは松葉ヶ谷の草庵が建設されたころであり、宛先の某殿は松葉ヶ谷の近くに居住している武士と推察しています。しかし、この年の八月には大風が発生して家屋の倒壊がありましたので、その修理とも考えることもできましょう。この災難は大風のほかに大洪水があり、人畜家屋が被災しました。

なを、日蓮聖人が房総巡教のおりに滞在したと思われる、清澄寺と同じ天台宗寺院は、龍正院(成田市滑川 )、清水寺(いすみ市岬町)、行元寺(いすみ市萩原) 、長楽寺(印西市大森 )、能満寺(いすみ市須賀谷) 、真野寺(南房総市久保 )、滝泉寺(いすみ市大原) 、石堂寺(南房総市石堂 )、観明寺(長生郡一宮町一宮) 、妙覚寺(長生郡長南町地引 )、長秀寺(勝浦市部原) などがあります。(佐藤弘夫著『霊場の思想』)。

秋には京都から鎌倉に疫病赤もがさが大流行しました。この赤班瘡(麻疹)の流行で後深草天皇が罹病し、9月25日にこの赤班瘡により将軍藤原頼嗣が死去し、宗尊親王も罹病しています。この災害を軟化させるため十月五日に康元と改元します。しかし、一一月に北条時頼と幼女は患い、幼女は死去し北条時頼はこれを機に執権職を長時にゆずって出家し最明寺入道となのります。