114.四条金吾・荏原義宗                高橋俊隆

○四条金吾

四条金吾(一二二九?〜一二九六年)は、四条中務左衛門尉頼基といいます。日蓮聖人の四大檀越(富木常忍・四条金吾・池上宗仲・南条時光)の一人と言われる熱心な信徒です。父親は中務左衛門尉頼員といい、名越朝時の長子泰時や、名越の江馬光時の二代に仕えた鎌倉武士です。建長五年三月二八日に死去し、そのあと四条金吾が家督をついでいました。四条金吾は光時とその子供の親時に仕えています。母親はは池上氏の出身で、、文永七年七月八日に死去し、法名を妙法といいます。中務というのは父親の官職をさし、左衛門尉も武の官職で、唐名では左金吾校尉ということから、略して金吾といいます。日蓮聖人は四条金吾と呼ばれています。

  (四条金吾系図『本化聖典大辞林』)

  藤原鎌足・・・四條隆季・・・中務頼員                         ――――――四条金吾頼基
                    ―左衛門尉頼隆
                     ―四郎頼季
                     ―七郎頼実

 伝承では蘭渓道隆に参禅し、建長年間に辻説法を聞いて、池上兄弟・荏原氏とともに入信、あるいは、康元元年(一二五六)、二七歳のとき日蓮聖人に帰依したといいます。兄弟は兄と妹とたち四人と思われます。文永八(一二七一)年の竜口法難の折に、兄弟四人で聖人を竜口の刑場に護送する馬の口にとりついて同行したと伝えますが(『種種御振舞御書』)、これが事実かどうかは明らかではなく、『崇峻天皇御書』に

「龍象と殿の兄とは殿の御ためにはあし(悪)かりつる人ぞかし」(一三九四頁)

と、のべていることから、建治三(一二七七)年の桑ケ谷問答のときに竜象房に与同し、極楽寺良観に帰依していた兄がいたと思われます。日蓮聖人は江馬氏との確執がおきたとき、兄妹たちをいたわるようにと指示されています。四条金吾の信仰が熱烈であったことは有名で、日蓮聖人も四条金吾を大切に思っていたことが『崇峻天皇御書』からうかがえます。

「返す返す今に忘れぬ事は頸切れんとせし時、殿はとも(供)して馬の口に付きて、なきかなし(泣悲)み給ひしをば、いかなる世にか忘れなん」(一三九四頁)

また、文永八年の竜口法難のときに、多くの信徒が保身のため退転しましたが、四条金吾は佐渡の日蓮聖人に金銭や身の回りの必要な品物をたびたび使者に届けさせているように、信仰をつらぬいた信徒でした。このため、文永九年二月著された日蓮聖人の、「当身の大事」を開顕した『開目抄』が、鎌倉の四条金吾のもとに送られてきます。このことは、四条金吾が鎌倉における門下の中心的人物であったことを窺がわせ、教学的にも高い信解力をもっていたことがわかります。

 文永九年二月に二月騒動といわれる「時輔の乱」が、京都六波羅におきます。このとき、江馬氏一族が時輔に加担したことから、名越光時も同罪の疑いをもたれます。このとき伊豆の所領地にいた頼基は、主君の一大事に驚き、早馬にまたがり箱根を越えて、二百キロある行程を六時間ほどで一気に鎌倉に帰り、主君に殉死すべき八人の家臣のうちに加わったといいます。この騒乱の余波は翌年までつづきますが、光時の嫌疑がはれたころ、四条金吾は佐渡の配所に日蓮聖人を慰問し教えをうけています。

 文永一一年、日蓮聖人が身延に入られたあと、頼基は主君に良観への信仰をやめ、日蓮聖人の法華経に帰依するように進言します。しかし、かえって光時の不興をかい、同輩からは讒言され、受難の日々が続くことになります。翌一二年四月に鎌倉の大火があり、このとき長谷にあった市場の邸も類焼します。

日蓮聖人は主君への奉公と法華経の信仰について、丁寧に書状を送り教えています。このような厳しい状況におかれた妻日眼女は、信仰を続けることに不安をもちました。文永十二(一二七六)年四月に、四条頼基宛てに『王舎城事』という書状を送って、不退の信仰をもつように教えたのでした。

 しかし、その後も同僚の中傷がつづき、そのため、主君から伊豆にある所領を越後に取り替えるという大事に発展しました。これらの事件があり、建治三年の春に頼基夫妻は身延の日蓮聖人をたずね、教えを受けています。四条金吾が身延から鎌倉に帰って間もない六月に、「桑ケ谷問答」という事件が起きます。このとき、問答の場に頼基が兵杖武器を帯び、郎党を引きつれ雑言し三位房に加担したと、同僚が主君光時に虚偽の報告をします。このため四条金吾は主君の勘気をうけ、謹慎処分をうけます。この報告を聞いた日蓮聖人が、四条金吾のために書かれたのが『『頼基陳状』(一三四六頁)です。

ところが、同年九月に光時は悪疫にかかり、頼基を讒言した同僚も病気となり、施薬の治療も効果がなく、謹慎中の四条金吾に治療をうけることになります。その結果、四条金吾の誠意ある加療で快方に向い、信頼を回復することができます。その恩賞として五千石を賜り、佐渡の井筒田・信州戸野岡の三村・甲州内船に所領を賜わります。(『本化別頭仏祖統紀』)。

また、日蓮聖人は弘安元(一二七八)年の頃から、病気がちであったので、四条金吾は漢方などの薬を送っています。この年か翌年に、四条金吾は身延に訪れ施薬加療をしています。四条金吾の晩年について浅井要麟先生は、このあとの書状が伝わっていないのは、身延に近い甲州内船に隠遁し、日蓮聖人のそば近くにいて給仕したためと推定しています。進士太郎という武士が日蓮聖人を護っています。江馬家の家臣であることから、四条金吾の勧誘にて、建長八(一二五六)年に入信したと思われます。伝承では松葉谷焼打ちのとき草案に居合わせ、賊と応戦し疵を受けながらも日蓮聖人を護り、岩窟から猿畠山に避難させたといいます。

この年に『回向功徳鈔』(侍従殿御消息七月二二日、五三頁)を著述しています。しかし、真偽が問題となっています。『五戒ツリモノ』の断片(『日蓮聖人御真蹟対照録』(下巻四〇四頁)が京都妙覚寺に所蔵されており、建長末年か正元年間としています。本書も『戒法門』と類似した内容と思われ、このとうじ、日蓮聖人は戒律などの仏教学や天台教学の、基礎的な教学を教えていたことがうかがえます。若年の門弟たちが多数いたことと、ツリモノを教材として初歩的なことを教えていたことがわかります。

また、日蓮聖人は名越に定住した初期のころは、仏教の基本的な教えを説いています。そのなかでも、天台大師の法華経の教えを中心として、仏教の経典の教えを全体的に把握し、客観的に説いています。とうじの信者たちの理解に準じて、積極的に教理を説いていたと思われます。信者との強い連係をつくったのです。佐渡期に入ると『開目抄』・『観心本尊抄』という主体的な教えをのべていきますが、基本的には天台三大部をもとにした、法華経を説くことが中心となっています。佐渡以前の教えの方法をうかがえます。

○荏原義宗

義宗は寛喜三年(一二三一)に生まれ、宗尊親王に仕えて左衛門尉に任ぜられます。正元元(一二五九)年に武蔵国荏原郷の地頭となり、口分田四反をうけ、同郷中延の地に居館を構え、氏神として中延八幡宮を勧請したといいます。はじめ蘭渓道隆のもとに参禅し、弘長元(一二六一)年のころに、池上宗仲、四条頼基などとともに信徒になったといわれます。

家系は源義家を祖先とする説が有力です。それによりますと、義宗の代に初めて荏原を称したといい(『荏原中延史』後編)、つぎのようになります。

   義家―義親―義信(武田氏)―義政―政宗―義宗(荏原氏)―有治―朗慶上人

伝承によると、「義宗は文永一一(一二七四)年に、日朗の命で鎌倉由比郷の松葉谷妙法寺の別当となり、弘安元年(一二七八)剃髪して長勝と号した。同五年一二月に松葉谷の境域に長勝寺を創建、同八年に五五歳で没し、長勝寺に葬られたと伝わるが明らかでない。なお、荏原氏が池上氏と親戚関係であるとする宗門の伝説もあるが、これを立証する資料がない。」とあります。(『日蓮宗事典』)。池上氏・日朗上人と繋がりがあったようです。

また、朗慶は日朗上人の弟子となり、朗門九鳳の一人となります。父の没後に、この地に八幡宮とその別当寺である法蓮寺を創建し、その開山となったとも伝えます。