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□『六凡四聖御書』(図録六) この書も真蹟がなく、『明師本』と『三宝寺本』の写本が伝わっています。六凡とは六道のことで、十界の成仏・不成仏について図示しています。 爾前経における十界の成仏のうち、六道の有情は成仏できるが、無情(草木国土)は成仏できない。二乗の定性の者は「永不成仏」、不定性の者は「可為成仏」と図示されています。つまり、六道や二乗におい、て成仏できる者とできない者がおり、菩薩は衆生救済の慈悲により、成仏を取らないことを図示しています。これは、爾前経のなかでも法相宗の五性各別を示したものです。一般的には六道は成仏、二乗は不成仏と区分します。 つぎに、「二乗作仏」の文をあげています。これは、爾前経には成仏できなかった者が、法華経の教えには成仏できたことを、天台・妙楽大師の文を列記して教えます。本書が別名に『二乗作仏事』(『日朝目録』)とよばれる理由です。 『文句』四――二乗作仏始自今教 『釈籖』一――菩薩処処得入二乗唯在法華 『弘決』六――徧尋法華已前諸教実無二乗作仏之文及明如来久成之説。故知並由帯方便故 『文句』七――他経但記菩薩不記二乗 譬喩品―――我昔従仏聞如是法見諸菩薩授記作仏而我等不預斯事。甚自感傷失於如来無量知見(『開結』 一二五頁) 涌出品―――始見我身聞我所説即皆信受入如来慧(『開結』三九八頁) 日蓮聖人はこれらの文を証拠として、「二乗作仏」・「法華最勝」をのべます。 □『四教略名目』(図録三一) 真蹟は三八紙が完存し、表裏に書かれて中山法華経寺に所蔵されています。著作の年次は正嘉年間とされています。『一代聖教大意』を著述される以前に、章疏の要文集を作っていたと思われます。 諦観の『天台四教儀』と区別して、天台大師の著した四教儀を『大本四教儀』(一二巻)といいます。『大本四教儀』は七門にわけて「化法の四教」を解説しています。このなかで、第四門の判位の不同を解説するところが、八巻を越して説明しています。ここには、四教のそれぞれの行者が修行しなければならない段階を説いています。四教における行者が到達するまでの進展と、その得られた階位の相違が説かれています。私たち六道の輪廻と法華経の成仏を知る必須の教えとなっています。 『天台四教儀』にしたがって、三界(二八七七頁)・四諦(二八八〇頁)・七賢(二八八五頁)・四教(二八九三頁)などを略示します。声聞を対象とした「蔵教」の四諦の修行と、三界六道の成り立ちの関係を示しています。 つぎに、五時・天台三大部・天台宗師資相承(二八九八頁)・一念三千・四種仏土・十如是(二九〇一頁)などについて略説しています。十不善業道は他筆です。 とくに、三蔵教の三界九地・七賢七聖について、細かく説明しています。本書から、日蓮聖人がこのとうじにおいて、四教における断惑と五十二位をくらべて、法華経の即身成仏を明らかにし、十界互具・一念三千の基礎教学を教えることを中心としていたことがわかります。本書は天台の基礎教学であり、日蓮聖人の教学の基礎となっています。これらの概要はすべて十界の成仏に向かいます。日蓮聖人の仏教への追及は成仏であり、また、門下の関心も成仏論にあったということといえましょう。 日蓮聖人の教えは、天台教学をもとにして仏教を広範に理解しています。仏教用語の引用もこれに準じていますので、むづかしい用語が羅列しますが、これを学ばなければ日蓮聖人の一念三千の成仏論がわかりません。 ・三界 欲界に六 一、地獄 熱地獄百三十六 寒地獄八。二、餓鬼 閻魔宮有。三、畜生。亦云傍生 水・陸・空有。四、修羅 海畔・海底有。五、人 四州有。六、天 一四王天。須弥之半腹。二忉利天 須弥山之頂。三夜摩天 須弥山頂四万踰繕那去虚空住。四 兜率天 夜摩天上有但内院不退。外院退位。五 楽変化天 兜率天上有。六 他化自在天 楽変化天上住 第六天魔王住処也。己上欲界散地也。散善所生之処(二八七七頁) 色界に四禅 一、初禅。三。一梵衆。二梵輔。三大梵天。二、二禅。三。一少光。二無量。三極光天。三、三禅。三。一小浄。二無量浄。三遍浄天。四四禅。八。一無雲。二福生。三広果。己上十二天凡夫住処。此広果天有二道。四無熱。五無煩。六善現。七善見。八色究竟。已上五天第三果之聖人之住虚。己上。色界十七天。十六・十七・十八之異説有 無色界の四無色定 一、空無辺処。二、識無辺処。三、無所有所。四、非想非々想処(有頂天ともいう)。名目色界・無色界四禅八定呼。已上三界。凡夫・外道欲界第四之天兜率内院色界之第四禅之内之後五天不生。聖人之住処故 地獄引業 私云宝蓮香比丘尼破菩薩戒行於婬欲堕無間獄。瑠璃王殺釈子生無間。善星比丘一切之法空説生身 入阿鼻地獄。 餓鬼引業 偸盗引業也。 畜生 婬引業也。 修羅 五常行。 四王天引業 不知常住帯妻子而邪婬不行。澄身生明生四王天。 忉利天引業 於己妻婬欲薄居浄居所味不得全生忉利天。 夜摩天 逢欲且交去不念。動少静多生夜摩天。空居天。 兜率天 一切之時静来不違。劫壊三災不及。 楽変化天 無欲心随人行欲者所生。 他化自在天 無世間心同世行事此天生。 如是六天欲雖出動心尚交。自此名為欲天。 初禅 一、梵衆 修定不行欲成梵衆。二、梵輔 修定不行婬欲。律儀愛楽生此天。三、大梵天 修定身円威儀不欠。清浄禁戒明悟者生所。已上三天真禅非。二禅・三禅、略。第四禅 八天後五天後可注。此十七天独行無交未尽形名色界。 無色界 空無辺処 空身入空為名。 識無辺処 身空空又空。識空微細有識識無辺所云。 無所有所 空色亡識心都滅十方寂然無往所。此無所有処云。 非想非々想所 如存不存。若尽非尽。如是一類名為非想非々想 ・三界九地 欲界――一欲界五趣地散地 地獄・餓・畜・人・六欲天 色界――二此定地 離生喜楽地 初禅。三定生喜楽地二禅。四離喜妙楽地三禅。五捨念清浄地 第四禅 無色界―六空無辺処地。 七識無辺処地。 八無所有処地。 九非想非々想地(二八八〇頁) つぎに、見惑と修(思)惑について示していきます。これは私たちがものごとを見る偏見のことをいいます。仏教では私たちは迷った見方をしているため、苦しんでいると説きます。見惑は十使あるといいます。使とは煩悩のことです。五利使(身見・辺見・邪見・見取見・戒禁取見)と、五鈍使(貪・瞋・癡・慢・疑)を合わせた十使です。この十使を私たちが住む三界と、煩悩を断じていく方法である四諦に配します。 まず、欲界の四諦に配し見惑三二、色界の四諦に配し見惑二八、無色界の四諦に配し見惑二八、合わせて八八、これを八八使といいます。 「欲界見惑三十二。色界二十八。無色界二十八。已上八十八使。 此見惑六道凡夫・七賢賢人皆具足。此見惑凡夫具故至極悪造四悪趣入也。見道初果聖人此見惑一時如破石断故欲界人・天・色・無色界生四悪趣不生。此初果聖人修惑身全有故帯妻子雖無見惑故他妻不犯物命不殺。此見惑不有無漏智不断。サレバ仏世出給サリシ時外道見惑伏不断。仏出世以無漏智断」(二八八二頁) 修惑(思惑)は、ものごとを見て後から起きる煩悩のことです。感情により変化する迷いといいます。これに十惑あるとします。そして、この修惑を三界と到達する位階の九地に配して八一あるとします。これは、九地に九品を掛けることで、私たちの迷いに強弱があるのを上中下の三つにわけます。さらに、それにも上中下があるとして、九通りの見方をしたものです。結果、修惑は八十一使あるとします。これが、小乗教の考え方です。ゆえに、日蓮聖人は、 「此見・修二惑小乗十二年間オキテ也。一切大乗初門此法門必可談」(二八八三頁) と、のべているように、仏教学においては大乗の初門として学んでおくことなのです。見・思惑は三乗に通じる煩悩であるので通惑といい、塵沙・無明の惑は菩薩の惑として別惑としています。したがって、断惑の位階が違ってきます。ここに、成仏と得脱の勝劣を論じるわけです。 つぎに、有漏智と無漏智と四諦の関係を示します。有漏智の六行相は、主に外道が願い求める境地ですが、小乗の戒には劣ります。日蓮聖人は外道と仏道の勝劣を示すときに引用しています。外道の断惑の限界を示したといえます。 有漏智(六行智)―――下地――麁・苦・障 「外道以此智下地厭上地願時見惑伏修惑断非想非非想至。而有漏智習上地繋心厭下地間下八地修惑断非想地上無地故非想地修惑断ヘサル故非想地見・修伏断セサル故還四悪趣堕也。サレハ外道尺虫譬也」(二八八二頁) これにたいし、無漏智(むろち)を説きます。漏は煩悩のけがれが漏れることをいいます。この煩悩がなくなったことを無漏といい、その智慧を無漏智といいます。四諦(苦・集・滅・道)のそれぞれに修行法があり、合わせて十六(諦観)行相といいます。十六の方法をもって四諦を観ずることです。四諦のなかでは滅諦と道諦を無漏法といいます。これを、「四諦十六行相」といいます。 つぎに、七賢を図示しています。賢とは聖者と同じ(隣聖)ということで、小乗における声聞の修行と、その証せられた階位をいいます。これは凡夫とおなじなので凡夫位ともいいます。 ―三賢―――一五停心・二別想念処・三惣想念処 七賢(七方便位)― つぎに、修惑(思惑)八十一品の断惑について示します。修惑の根本となる煩悩は貪・瞋・癡・慢の四をいいます。欲界は四、色界と無色界は貪・癡・慢の各三づつ、合わせて一〇種とします。これを九地に配当し煩悩の強弱による九品に配して八十一品とします。この修惑を断じて三界の流転生死を得脱する修行法です。 五浄居天の聖人――――――――欲界――九品 ―――色界――三十六品―― 阿羅漢果(第四果の向)― ―七十二品 ―――無色界―三十六品―― つぎに、縁覚についてのべます。縁覚は独覚ともいい、師匠がいなくても独りで悟りを得ることができ、その悟りを自分のものだけにして、他人に教えない聖者のことをいいます。厳密には部行独覚と麟喩独覚の二つにわかれています。この同異についてみますと、『天台四教儀』に、ひとつには「次明縁覚亦独覚。値仏出世禀十二因縁教(中略)観十二因縁覚真諦理故言縁覚」と解釈し、もうひとつは「言独覚者出無仏世独宿孤峰観物変易自覚無生故名独覚」と、その違いをのべています。しかし、行位は同じである「両名不同行位無別」としています。 縁覚の旧訳は辟支迦羅・辟支仏と音写したものを、縁覚・独覚とし同体異名とします。『華厳音義』に畢勒支底迦(ビロシチカ仏)の梵語は独覚と訳し、鉢羅底迦(バラチカ仏)の梵語は縁覚と訳すとあります。しかし、Pratyeka booddhahのPratyekaには、独と縁の両義があるとして、梵語においては独覚と縁覚は同体異名といいます。(稲葉円成『天台四教儀新釈』一八八頁)。 『文句』に、無仏の世に飛花落葉の外縁により無常を悟る者を独覚とし、仏に十二因縁を聞いて悟る者を縁覚と区別しています。部行というのは、同門の仲間(徒党)とともに修行する者をいい、麟喩とは麒麟の一角のように独りで悟りを得る者をいいます。日蓮聖人は前者を鈍根、後者を利根と区別しています。 「部行如声聞経七賢見道位上断見惑了修惑未断一分。経七生程仏出世無出無仏世飛花落葉観修惑断尽独覚菩提証。 麟喩独覚前生仏出世値七賢位在人。今生仏教不聞位不経自然発無漏智断見・修独覚菩提証。此縁覚見・修断ノミナラス又習気断永不起。已上三蔵教縁覚」(二八九一頁) と、のべています。また、縁覚は七賢の位にあり行位というほどのものはありません。 つぎに、菩薩は六道に生まれ衆生を救済するために、四弘誓願をおこし、六度(六派羅蜜)の修行をおさめます。その修行の期間は三祇・百劫です。三阿僧祇の間は化他行をおこない、七万五千~七千の仏を供養したことを示します。百劫は自分が仏となり三十二相を具えるための自行の期間をいいます。これを釈尊にあててみますと、 (「蔵教」声聞の行位) 初僧祇は古釈迦より尸棄仏―――七万五千仏を供養――外凡(五停心・総別の念処) 第二僧祇は尸棄仏より然灯仏――七万六千仏 〃 ――内凡の煖位・・・(釈迦文) 第三僧祇は然灯仏より毘婆尸仏―七万七千仏 〃 ――内凡の頂位・・・六度万行 ・六度万行 尸毘王が鳩に代える――――――――布施――慳貧 普明王が国を捨てる――――――――持戒――破戒 三聚浄戒をたもつ 羼提仙人が肉を割かれる――――――忍辱――瞋恚 大施太子の海を汲み仏を讃ずる―――精進――懈怠 尚闍梨の頂に鵲が巣を作る―――――禅定――散乱 劬賓大王の地を分けて争いをやめる―智慧――愚痴 ・四弘誓願 一衆生無辺誓願度――見苦諦発願――未度者令度 仏の「八相成道」と、その位階を示します。「八相成道」は、はじめに、降兜率、そして、入胎、出胎、出家とつづきます。出家しての六行智をもって見思惑を断じます。菩提樹の下にて第六天の魔王を降伏します。これを降魔といいます。初僧祇からこのときまでは、まだ菩薩の位です。 成道において、「蔵教」の菩薩が最後に煩悩を断じることになります。成道の瞬間に三十四心という智をもって、見思惑を超勝するのです。これを「三十四心頓断」といいます。三十四心とは八忍・八智・九無碍・九解脱をいいます。これは、菩薩が衆生救済のために残していた見思惑を、最後の成道のときに、十六心で見惑を断じ十八心で思惑を断ずることをいいます。これは、菩薩に限った断惑になります。釈尊の始成正覚を示したのです。 「有漏智断残非想地見・修見惑以八忍・八智無漏智断非想地修惑無漏智九無碍・九解脱以断。已上八忍・八智・九無碍・九解脱三十四心也。既見・修断仏成。習気亦断」(二八九二頁) ついで、転法輪として、舎利弗などの対告衆に四諦の生滅の因縁を説き、その因縁所証の姿である八〇歳の老比丘として入寂したことを示します。日蓮聖人は仏教の教えを、私たちに即してのべていたことがうかがえます。 これまでを、仏性・仏種の観点からすると、仏性は凡夫に本来よりそなわっていると説かず、四諦を知り声聞道を成じ、十二因縁を知り縁覚道を成じ、そして、四弘誓願・六度を学んではじめて仏種姓を成じるとのべています。 「三蔵教依報六界。正報十界。而声聞界縁覚・仏帰故也。此教意凡夫本仏性不云。始四諦習声聞性成十二因縁習縁覚道成四弘・六度学菩薩云始仏種姓成也」(二八九四頁) つぎに、「通教」の位階を図示しています。「通教」は乾恵などの十地をもって断惑の位とします。通教は大乗の初門といわれ、菩薩をおもにして三乗にも同じ教えを説きます。しかし、三乗のそれぞれは異なった結果をもちます。これを、「因同果異」といい、「三獣渡河」の譬であらわします。三獣とは三乗のことで、象・馬・兎が河を渡るときに、その足が河底につくかどうかで、見思惑の断じかたを判断します。 また、菩薩のなかにも「通教」の、如幻如化・因縁即空を聞いてもわからない鈍根は、「蔵教」の二乗と同じであり、利根の者は因縁即空を聞いて中道真如の理を見開き、別円二教に通じていきます。つまり、三乗はともに因縁即空の教えを聞き、ともに体空観を修行することを「因同」といい、その結果である断惑に浅深の違いがあることを「果異」といいます。ここには、釈尊の十地と三乗の十地を図示して、つぎのようにのべています。 「小乗三蔵教折空教云。通教大乗体空教云。通教仏七宝蓮花坐。此教経動喩塵劫得成仏」(二八九六頁) さきにのべた、(第一部第五章第四節、法華経の教相を参照して下さい)四教と修観の関係を載せます。 (四教と修観) (広狭) (三諦)(『涅槃経』の四諦)(修観) (断惑) 界内―事教―蔵―但空―――生滅四諦―――折空観―――断見思 界内―理教―通―不但空――無生四諦―――体空観―――断見思 界外―事教―別―隔歴三諦―無量四諦―――次第三観――断三惑 界外―理教―円ー円融三諦―無作四諦―――一心三観――断三惑 つぎに、「別教」の五十二位を図示し、「別教」は菩薩のための教えであることをのべ、「蔵教」・「通教」のそれぞれの位階と対比して、「別教」をつぎにようにのべます。 「次第空・仮・中三諦也。此教煩悩外菩提求生死外涅槃尋。空・仮・中三諦不相即也。此教一行以成仏不云。一々位経無量劫一々位無超。次第次第経登又下位功徳捨上位功徳得」(二八九七頁) 四教の最後に「円教」の位階を図示します。「円教」は十住・十行・十廻向・十地・等覚・妙覚の四十二位を互いに具し、位も仏になることをのべています。また、「三諦相即」を説くので、「煩悩即菩提」・「生死即涅槃」が可能であるとします。この段階においても、修行の進展の階位として「六即」をもって示されます。 「六即」は修行する人の位階を示したもので、「円教」にも修行の必要を説きます。なぜなら、自窟(卑下慢)と増上慢の二つの誤りに堕ちないためです。この卑下慢や増上慢をふせぐために、天台大師は「六即」を説きました。(安藤俊雄『天台学』二五九頁)。この六即説は『涅槃経』の如来性品によります。また、『瓔珞経』の五十二位を採用し、法華経の分別功徳品や光宅の学説により、五百弟子位(五品)をくわえたのが「円教」の行位です。 「一 理即 二 名字即 三 観行即 四 相似即 五 分真即 六 究竟即」(二八九八頁) 即とは「凡夫即仏」という意味を示します。凡夫から煩悩を断じて仏になる順序を示したのが六通りになります。理即は理論的に仏凡の相即をみて、一切衆生は如来蔵のなかに救済されることをいいます(三諦円融・諸法実相)。したがって、仏教を信じるまでにはなっていません。 仏教の教えを聞き理解をしていく、聞法信受の段階を名字即といいます。しかし、煩悩を断尽することは考えません。観行即になり実相を観じ菩薩の行をし、煩悩にうちかっていく過程になります。天台家は観行即を五百弟子位(五品)としますが、日蓮聖人は『四信五品抄』に、名字即の位としています。 「天台妙楽二聖賢定 此二処位有三釈。所謂或相似十信鉄輪位。或観行五品初品位 未断見思。或名字即位也。止観会其不定云 仏意難知赴機異説。借此開解何労苦諍[云云]等。予意云 三釈之中名字即者叶経文歟。滅後五品初一品説云 而不毀呰起随喜心。若此文渡相似五品 而不毀呰言不便歟。就中 寿量品失心・不失心等皆名字即也。涅槃経若信若不信乃至熈連。勘之。又一念信解四字之中 信一字四信居初 解一字被奪後故也。若爾者無解有信当四信初位。経説第二信云 略解言趣[云云]。記九云 唯除初信無解故。随次下至随喜品 上初随喜重分明之。五十人是皆展転劣也。至第五十人有二釈。一謂 第五十人初随喜内也。二謂 第五十人初随喜外也云者名字即也。教弥実 位弥下 云釈此意也。自四味三教円教摂機 自爾前円教法華経摂機 自迹門本門尽機也。教弥実位弥下六字留心可案」(一二九五頁) 『四信五品抄』は、末代の私たちの修行について、「以信代慧」(一二九六頁)を示しています。この理由を分別功徳品の四信五品をもとにのべています。そして、「以信代慧」の信心を名字即の位としています。「六即」はこれに準じて、相似即・分真即とすすみ、完全に無明を断じて実相の理を体証した最高の段階を究竟即といい、五十二位では妙覚にあたります。 六即の起こりにエピソードがあり、円珍の『授決集』によると、毛喜が随主に一切の大乗経典をみると皆、「衆生本来是仏」と説かれているので、その仏名で統一してはどうかと聞いたところ、随主は天台大師をよび毛喜と対面させ返答を期待します。天台大師は毛喜に、その仏とは六即のなかではどの仏かを尋ね、くわしく六即を説明したところ、毛喜は言葉に窮したといいます。(浅井円道著『日蓮聖人遺文辞典』教学篇一二八三頁)。 つぎに、天台大師の著作を紹介しています。 ・天台大師(五三八~五九七年) 『法華玄義』十巻―妙法蓮華経五字釈。名・体・宗・用・教、五重玄義 (五重玄義)『法華文句』十巻―序品第一至作礼而去一部八巻経文句釈。一々文句、因縁・約教・本迹・観心四法門釈 (四種釈) 『摩訶止観』十巻―別法華・涅槃依惣一代聖教依。妙楽大師『止観義例』申文止観釈云、散引諸文該乎一 代文体正意唯帰二経。一依法華本迹・顕実二依涅槃扶律顕常文 日蓮聖人は天台宗の観心の三つあるとして、断簡(三四七)には、妙楽の『止観義例』を引いています。 「義例云夫三観者義唯三種。一者従行。又云約行。唯於万境観一念心。万境雖殊妙観理等。如観陰等即其意也。二者約法相。又云附法。如約四諦五行之文入一念心以為円観。三詫事相。如王舎・耆闍名従事立借事為観以導執情。即如方等・普賢。其例可識云云」(二九八八頁) 天台の三大部における「観心」を解釈する方法として、 『玄義』―――――――――附法観 境妙の十二因縁境。行妙の五行 『法華文句』―――――――詫事観 文句のそれぞれの観心釈 『摩訶止観』―――――――約行観 十境十乗観法など。また、止観に附法・詫事の二観あり この三種観法(三観)を示します。附法観は四諦・十二因縁・五行などを、自己のなかに観察することです。詫事観は外に見える現象(事相)を観察して、煩悩となる執着を離れることです。約行観とは自己の心に即空・即仮・即中と見定める観法をいいます。日蓮聖人は『摩訶止観』の第五巻が約行観であるとし、第二巻の四種三昧は託事観であるとしています。(断簡三四七。二九八七頁)。そして、日蓮聖人は『法華玄義』・『法華文句』には、「十界互具」・「百界千如」の教えは説かれているが、「一念三千」を立てた文はないと注記します。のちに、妙楽大師が三大部を解釈書を作りました。 ・妙楽大師(七一一~七八二年) 『玄義釈籖』十巻――――『法華玄義』を解説(『釈籖』と略す) 『法華文句疏記』十巻――『法華文句』を解説(『文句記』〃) 『止観弘決』十巻――――『摩訶止観』を解説(『弘決』 〃) ・天台宗 (第一祖) (第二祖) (第三祖)(第四祖) (第五祖) (第六祖) 天台大師智顗――章安大師灌頂――法華智威―天宮慧威―――左渓玄朗――荊渓湛然(妙楽大師) ―永嘉玄覚 ―焦山神邕 ―国清智越 ―玉泉道素―龍興弘景―――鑑真 ―仏隴大義 ―瓦官法慎 ―一行 ―毘陵守真 ―仏隴智晞 ―玉泉道悦 (第三祖~第五祖まで暗黒時代) ―行満 ―最澄 湛然妙楽大師――道遂――――広修 ―――物外―元琇―清竦 ―普門 ―維蠲 ―玄皓 ―良壻 ―梁粛 ―季華(妙楽大師没後~第十一祖高論清竦の没後まで衰亡期。安藤俊雄著『天台学』三〇一頁、三二九頁) (日蓮聖人の遺文に道暹と智度の名前があります。二八九九頁) つぎに、十界が住む国土(国土世間)について、四種類の国土(仏土)があることを示します。これを、四種仏土(四土)といいます。 ・四種仏土 同居土―六凡・四聖が雑居する国土(凡聖同居土) 娑婆同居穢土―雑悪が充満し不浄なところ 娑婆同居浄土―四悪趣の者がいない清らかなところ 方便土―純ら菩薩僧の住処。見・思惑を断じた阿羅漢・縁覚・菩薩が住むところ(方便有余土) 実報土―塵沙・無明を断じ、色身に妨げがなくなった菩薩・仏の住むところ(実報無障礙土) 寂光土―仏だけの住処 このなかの、はじめの同居土に住むのは六界の衆生、声聞と縁覚は方便土、菩薩は三惑(見思・塵沙・無明)の断じかたにより三土に配分されます。 「九 菩薩住処 三蔵未断見思菩薩如凡夫有六道。通教断見思菩薩如二乗。断無明菩薩住実報土。 初果・二果・三果・四果・縁覚五人入無余涅槃以法華経見純菩薩僧云住方便土」(二九〇〇頁) そして、阿弥陀如来の西方浄土や、薬師如来の東方浄瑠璃浄土も、この同居土のなかの浄土であるとのべています。ほかの三土の所在については、天台宗の大事な法門であり、はじめの論点は三惑の所断からすべきとのべています。 「同居土者横十方。竪三世。皆同居土也。西東北南方指同居土知。弥陀浄土・薬師浄土等皆同居内浄土也。問。十方世界皆同居土此外何処三土有耶。答。此天台一宗大事也。但惣相之義三惑分斉以可論云云」(二九〇一頁) また、天台大師は三身如来の所居の仏土を四種に区分しています。これを「三身四土」といいます。本書には隠していますが、この三身四土(身土)の、不縦・不横を説くのは法華経だけであると展開していきます。そして、身土三千の国土をのべたのが、佐渡において書かれた『観心本尊抄』となります。 つぎに、十如是を説明しています。 ・十如是 相―十半色法乃至依報也。 性―七半心法。依報不通。 体―十八界共也。人躰質也。 力―堪任力用。如王力士。 作―運名作。 因―業也。引業也。 縁―無明也。 果―習因習果也。習因習果者満業也。業上因果也。先生婬習習因今生婬欲熾盛者成。鴿雀等如。 報―報因報果也。報因者 前第六引業也。又習因習果報因云事。報果者所受身也。 如是本末究竟等―本者相如是。末者報如是。究竟者始相如是終報如是究竟終報如是始相如是究竟。 等者十如是等空 等仮 等中也 この十如是を示し、つぎに、一念三千の説明に入ります。 「此三千種世間凡夫汎々一念心有。又心所念色乃至法有。サレハ能縁心三千具。所縁境三千具。能所合三千具。能所離三千具。サレトモ定能自・定所他・定共・定無因アラス。而自・他・共・無因具。妙法者是申也。妙文字此経無四性計不離四性計不離成仏道無。能々十境十乗可学」(二九〇二頁) そして、『摩訶止観』の「十境十乗」を学ぶようにとのべています。十境(じっきょう)と十乗の観法を「 十境十観」といいます。これは、上・中・下の機根が修行しやすいために立てられた法門です。 ・十境 陰入境、煩悩境、病患境、業相境、魔事境、禅定境、諸見境、上慢境、二乗境、、菩薩境 ・十乗 観不思議境、発真正菩提心、善巧安心止観、破法遍、識通塞、道品調適、対治助開、知次位、能安忍、無法愛 「十境十乗」の観法は、法華経の本門の真意であり、一念三千の根拠がここにあるとのべています。、つまり、完全に一念三千の成仏を論証できるのは、法華経の迹門ではなく本門であるとした、日蓮聖人の教学の骨子となる本門思想をつぎの『十章抄』にのべています。 「止観に十章あり。大意・釈名・体相・摂法・偏円・方便・正観・果報・起教・旨帰なり。前六重依修多羅と申て、大意より方便までの六重は先四巻に限る。これは妙解迹門の心をのべたり。今依妙解以立正行と申は第七の正観十境十乗の観法、本門の心なり。一念三千此よりはじまる。一念三千と申事は迹門にすらなを許されず。何況爾前に分たえたる事なり。一念三千の出処は略開三之十如実相なれども、義分は本門に限。爾前は迹門の依義判文、迹門は本門の依義判文なり。但真実の依文判義は本門に限べし」(四八九頁) 本書のさいごに、他筆にて十不善業道が図示されています。ここには、この悪業による悪果も書かれています。十不善業道とは、殺生・偸盗・邪淫の身体的なもの、妄語・綺語・悪口・両舌の言語的なもの、貪欲・瞋恚・邪見の心的なものの十種の不善をいいます。「身口意の三業」にあてられます。これを、是正し断尽することを十善業道といいます。 日蓮聖人は弟子・信徒に仏教の成仏について、このように天台教学をもとにして教え、私たちに近い「蔵教」の断惑と証位を示して、しだいに、法華経の一念三千を説かれていました。ここから、『十法界事』・『十法界明因果鈔』は、本書の教えをマスターしなければ理解できないのであり、一念三千の成仏論は国土成仏をふくむことがわかります。日蓮聖人の成仏とは個人の成仏のみではなく、壮大な国土を仏土とした成仏論であるのです。 この年に中山法華経寺第二世の、日高上人が生まれています。下総の有力な壇越である大田乗明の子供といいます。帥(そつ)公といわれ、日蓮聖人が身延に隠栖したとき、側近にいて給仕をされ、修学・修行されています。鎌倉にいる日昭上人に、大事な教えを伝授するので日高上人を身延に使わすように伝えています。 「ちくご房・三位・そつ等をば、いとまあらばいそぎ来べし、大事の法門申べしとかたらせ給へ」(一一九一頁) |
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