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○日興上人 日興上人(一二四六〜一三三三年)は、寛元四年三月八日に生まれ、正慶二年二月七日に没しています。父親は甲斐鰍沢(富士川町)の大井橘六(きつろく)、母は駿河河合の由比氏の出身です。『本化別頭仏祖統紀』(二一一頁『重須本門寺過去帳』)によれば、幼いときに富士に移り、建長五(一二五三)年、八歳のころ駿河蒲原荘の天台宗四十九院に入ります。そして、播磨二位律師厳誉の弟子となり得度します。『日興上人の風光』(本間守拙著。三〇三頁)によれば、同年二月一五日に親父妙行大禅門が逝去されたとあります。父親の逝去により駿河の富士に帰り、母親にともなわれて実相寺に入門したと思われます。ここで、天台学をはじめ儒教や国学、地頭の冷泉中将にしたがって歌道・書道など広範に修学したといいます。 康元元(一二五六)年一一歳のとき、厳誉は智証大師の門流であったので三井園城寺に入ります。正元元(一二五九)年一四歳のとき、母の逝去にあい帰郷します。岩本の実相寺には智証大師が入唐のおりに請来した大蔵経がありました。三井園城寺に所蔵した大蔵経は、治承年間(一一七七〜一一八〇年)に、兵乱により焼失しており、智証大師が請来した大蔵経は実相寺にしか保存されていなかったのです。 厳誉は日蓮聖人が実相寺に入蔵することを拒んでいたようですが、日蓮聖人の威徳や、吉祥麻呂(日朗上人)の給仕が天童のような礼儀正しさに感銘したといいます。学頭の智海の懇請により『摩訶止観』を講じます。釈尊一代の説経、宗派を開いた高僧の論釈を明朗に語り、権実・本迹を講じた様相は久遠の境地を醸し出したといいます。この講座につらなった日興上人は、晨鐘の暁夢を除くような衝撃をうけたといい、三井園城寺にて学んだ「理同事勝」に疑いをもったといいます。日蓮聖人に給仕している吉祥麻呂に、その入門の年次、年齢をたずねたら自分より一歳の違いでした。吉祥麿は建長六年に入門していました。日朗上人は一四歳、日興上人は一三歳でした。智海は改衣を願うほどでしたが、官職の憚りがあるため時期をうかがうことにし、厳誉の反対をおしきって日興上人を日蓮聖人の弟子になることを勧めます。 実相寺の一切経を閲読しおえた日蓮聖人は、帰路につきます。伯耆房は日蓮聖人の後を追い入門を願いでます。これを承諾した日蓮聖人は、日興上人をともない吉祥麻呂との三人にて鎌倉に帰ります。日昭上人は喜んでうけいれ、弟子・信徒の活力となることを期待しました。翌、文応元(一二六〇)年の春に、吉祥麻呂と伯耆房は得度します。吉祥麻呂は僧名を日朗上人、字を大国と号し、伯耆房は日興上人、字は托胎の吉瑞から白蓮と号します。 日興上人が日蓮聖人のもとに入門したときには、四十九院や三井園城寺にてそうとうの学解を持たれていたことがうかがえます。また、日蓮聖人が『立正安国論』を著述するときに草案の整理をしたといい、このとき、日蓮聖人の筆法を会得したと伝えています。 ところで、前述したように、日蓮聖人が実相寺に入蔵された年次に二説ありました。正嘉二年の一月とすれば、このときに学頭の智海から『摩訶止観』の講義を依頼され、講義した記録が『一代聖教大意』とも思えます。しかし、日興上人を弟子として鎌倉に帰る年次は、伝記からすると、正嘉三年(三月二六日に正元となる)のことです。実相寺に在住して『立正安国論』の草稿を認めた期間が一年以上あったのでしょうか。この間に父親の逝去にあい、小湊に帰郷されていたという説に説得力があります。日蓮聖人は一一月に、災害がおきる原因を再度実相寺に入り確認し、その究明と対策を仏典にもとめたといいます。(『本化別頭仏祖統紀』)。 ○日頂上人 日頂上人(一二五二〜一三一七年)は駿河重須に生まれ、父は南条伊予守定時で戦死しています。母が中山の富木常忍の後妻として嫁したのはこの頃と思われます。日頂上人は八歳で養子となります。母親は富木尼御前とよばれる篤信の女性となります。 この年、富木氏の勧めで出家をうながし、天台宗であった真間弘法寺にて出家します。母親は難色を示しましたが、法印了性が母の富木尼を諭し仏門に入れたといいます。このとき伊予房と名のります。(『本化別頭仏祖統紀』)。のち、一六歳のときに日蓮聖人の弟子となります。はじめ伊予房と名のり、のちに、伊予阿闍梨と尊称されます。文永八年の竜口法難、そして、佐渡配流を日蓮聖人とともにして給仕しています。佐渡では、但馬阿闍梨日宣という天台僧を改宗させ弟子となります。 重須伊予守定時 ――日頂上人 |―――――――――――――寂仙房日澄上人 富木氏後妻(妙常日妙)・・・・――乙御前・・・・・・富士宮市北山に墓所 玉樹山正林寺 | 富木常忍・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・香取郡多古町に隠棲 正東山日本寺 文永一〇年七月六日に、銭二貫文のお礼を富木常忍に書き送った『富木殿御返事』に、 「伊与房は機量物にて候ぞ。今年留候ひ了んぬ」(定七四三頁) と、日頂上人の行学が勝れていることを伝え、佐渡の日蓮聖人のもとに残留させています。母親もこの書状を受け取り安心されたと思います。 |
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