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・三九歳 正元二年(文応元年) 一二六〇年 一月に三井園城寺に大乗戒壇建立の許可がおり、これにたいし、比叡山が盛んに強訴して反対します。この不穏な動きに幕府は三井寺の警護をおこなっています。同月にフビライが蒙古第五代の王位につきました。また、二月に吉祥麿は筑後房日朗と名のったといいます。京都や鎌倉の地震による火災、旱魃、飢饉、病気が発生し民衆は苦しむ状態がつづいていました。 このころに、信者となったといわれる、大学三郎・秋元太郎・南条兵衛七郎・時光・松野六郎氏についてふれ、日蓮聖人とどのような関係であり、ほかの信徒たちとのつながりを見たいと思います。 ○大学三郎 大学三郎(一二〇一〜八六年)は比企能本といい、前にのべましたが、建仁三(一二〇三)年に父親は将軍源頼家と共に北条氏打倒を謀り、それが失敗して「比企氏の乱」にて、北条時政に殺された比企三郎能員です。能本はこのときに三歳でした。(『本化別頭仏祖統紀』三歳、『日本仏教史』二歳)。比企能本は伯父の伯耆法印圓顕に引取られ、京都の東寺に身を隠し建仁三(一二〇三)年に学問に励み成長しました。和漢の学を修め、とくに儒者として有名になり、順徳天皇の侍者相談役に加わります。「承久の乱」のときは順徳天皇に従ってともに佐渡へ渡っています。文人としての上皇は能本を重用し、この年四月に『禁秘抄』を著しています。比企能本の姉、讃岐局は将軍頼家に嫁します。さらに、その子供の竹の御所が将軍頼経の夫人となったことにより、嘉禄年中(一二二五〜二六年)に赦免されて鎌倉に帰ります。そして、儒官として幕府に任用されます。 日蓮聖人との出会いは、建長三(一二五一)年のころといい、比叡山遊学のとき比企能本から儒学などを学んだといいます。(『本化別頭仏祖統紀』)。この縁により『立正安国論』を上呈するときに、比企能本から文章的な意見を求めたといいます。比企能本は日蓮聖人の教えにふれ、同年七月に入信します。このとき比企能本は六〇歳でした。比企能本の母や妻も帰心し、高齢の母に妙本の名を与えます。能本は母を救ってくれる感謝の意をこめ、姉讃岐局の菩提として、自分の屋敷であった竹の御所の旧地に草庵を構え、法華堂と号して日蓮聖人に寄進します。日蓮聖人は『十法界明因果抄』・『唱法華題目抄』を与えたといいます。 佐渡流罪を赦免され、文永一一年三月二六日(一一五五頁)に鎌倉へ帰って来た日蓮聖人は、この法華堂に入られ能本の父能員の法号長興と母の法号妙本をもって、長興山妙本寺と命名して開堂供養を行ったといいます。このとき、多くの弟子や信徒が祝いに駆けつけたと伝えています。この比企ヶ谷の妙本寺は、持仏堂を法華堂として各地区の弘通根拠としていたものと考えるべきで、日蓮聖人の滅後にそれぞれの名称が付せられたといいます。(『日蓮教団全史』)。 能本の信仰は強く、身延入山後も日蓮聖人の身を案じ病床を耳にすると身延に訪ね礼を尽しています。また臨終を間近にした池上の地にも赴き、弘安五年(一二八二)一〇月一三日、日蓮聖人の遷化を見守り、翌一四日に葬送の式が厳修されたときは、随身仏を抱いて葬別に加わっています。このことから、名越における日蓮聖人の有力な庇護者であったことがわかります。 ○南条兵衛七郎・時光 北条時頼の近臣であったので「兵衛」といい、自邸は富士の上野にありました。文応・弘長の頃、鎌倉番役に勤めていたときに日蓮聖人の教化を受け、念仏を捨て法華に帰信したといいます。文永元(一二六四)年一二月には病床にあり、日蓮聖人は法華経の教えを説いて、信仰に導きます(『南条兵衛七郎殿御書』三一九頁)。しかし、同二年三月八日に死去します。このおり、日蓮聖人は上野に行き墓前にて回向し、妻や子供をはげましています。 南条兵衛七郎の人柄については、「故上野殿は善人なり」(『上野殿御返事』八一九頁)とあり、また、「故上野殿をこそ、いろあるをとこと人は申せしに」(『上野殿御返事』一六二一頁)とあり、その人柄がやさしく男気のあったことがうかがえます。このあと、音信がとだえますが、夫と死別後の妻は尼となって、子供の七郎次郎時光や、胎内にあった弟の七郎五郎を育てていました。長男の七郎次郎は若くして父の家督を継ぎ、時光といいます。上野十郎朝村景綱の親戚になり、駿河の上野に住むことにより、地名をとって南条氏のことを上野殿とよんでいます。 時光と日蓮聖人とは身延山に入ってから交流がはじまります。時光は父と同じように信仰に篤く、日蓮聖人に給仕をしています。身延にいる日蓮聖人のもとに、たくさんの供養の品を送っています。また、熱原法難のときにも尽力しています。時光が大病をわずらったとき、日蓮聖人も病床のなかから励ましの言葉をかけています。日朗上人に代筆させ、そのなかに時光の信仰のようすがうかがえます。『法華證明鈔』につぎのようにのべています。 「上野の七郎次郎は末代の凡夫、武士の家に生れて悪人とは申すべけれども、心は善人なり。其の故は日蓮が法門をば上一人より下万民まで信じ給はざる上、たまたま信ずる人あれば、或は所領或は田畠等にわずらひをなし、結句は命に及ぶ人々もあり。信じがたきにちち故上野殿は信じまいらせ候ぬ。また此者嫡子となりて、人もすゝめぬに心中より信じまいらせて、上下万人にあるひはいさめ、或はをどし候つるに、ついに捨つる心なくて候へば、すでに仏になるべしと見へ候へ」(一九一一頁) また、時光の母親の上野殿後家尼御前にも、しばしば書状を送られています。南条兵衛七郎が死去したときには、夫の信仰に導かれて法華経の行者となれたことを感謝し、夫はつねに自分の胸のなかに仏身としているとして、夫を仏と思って拝み供養しなさいと説いています。(『上野殿後家尼御返事』三二八頁)。次男の七郎五郎は、弘安三年に一六歳で夭折します。容姿にも秀れ、立派な男子として成長していたことを悼んでいます。(『上野殿後家尼御前御書』一七九三頁)。 日蓮聖人は故人となった南条兵衛のことを心にかけており、墓参りのために日興上人をつかわし、日興上人に南条家の信仰の指導にあたらせています。さらに、教団としては南条氏とかかわる、高橋・由比・西山・石河氏など、また、新田・綱島・三沢・三島・松野・内記左近・窪妙心尼・内房尼・堀内殿・治部・大井氏など、さらに、熱原の信徒等が形成され、多くの弟子も輩出していきます。 これらの信徒たちのまとめ役となったのが時光でした。時光に宛てた多くの書状のなかには、この人たちへのむけての内容が書かれており、時光は教えを説き信徒を導く立場となっていきます。日蓮聖人の入滅ののち、池上にて荼毘にふされた遺骨は、身延山へ奉送される途次、時光の家に一泊します。のちに、時光は日興上人を迎えて富士の大石ケ原の地に大石寺を建て、重須の本門寺建立の大施主となります。富士方面における日蓮聖人門下の代表的人物となります。 また、一説には、南条兵衛七郎は、南條新左衛門頼員の弟(『本化別頭仏祖統紀』)、あるいは、時光は平氏、北条時政の子孫で南條新左衛門頼員の子供(『平時光伝』)などの説がありますが、時政の子孫とするのは燕説といいます。(『本化聖典大辞林』)。 ○松野六郎左衛門 駿河(静岡)の松野の領主である、松野六郎左衛門行易のことといいます。生没年は未詳となっています。松野の法蓮寺の『寺史』に、「初代の松野六郎左衛門行安は鎌倉の出身で、北条時政に仕え、左衛門尉となり順徳天皇の建保年間には京都で六位蔵人職に任ぜられている。この後この地の地頭職となり貞応の頃から当所(松野・小車の里)に住むようになった。その室が松野殿尼御前、二代六郎左衛門行易の室が松野殿女房と宗祖に呼ばれた人である。三代六郎左衛門行成は日持聖人の実兄に当たる」と、あります。 南條兵衛七郎 |―――――――――上野時光 松野行安―――松野六郎左衛門行易 ―上野後家尼御前 ― 娘 | |――――――――――松野六郎左衛門行成 松野殿尼御前 松野殿女房 ―日持上人 石川新兵衛 松野六郎左衛門には、子供が多かったようです。蓮華寺を建立した長男の六郎左衛門尉と、南条兵衛七郎に嫁いだ娘がおり、そして、六老僧の一人で海外布教を志した日持上人がいます。松野氏は建治二年の二月ころに、日蓮聖人とは面識なく後生を案じて入信したと思われます。『松野殿御消息』に、 「然に在家の御身として皆人にくみ候に、而もいまだ見参に入候はぬに、何と思食して御信用あるやらん。是偏に過去の宿植なるべし。来生に必仏に成らせ給べき期の来てもよを(催)すこゝろなるべし」(一一四一頁) のちに入道し、弘安元(一二七八)年一一月に死去したと伝えます。妻は夫の亡きあとも信心に励まれたといいます。 |
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