123.『立正安国論』上呈の準備                  高橋俊隆

■第二章 『立正安国論』

◆第一節 『立正安国論』を著述
○奏進の準備

 日蓮聖人は岩本の実相寺にはいり、国土に起きる災難(三災七難)の原因を、さいど一切経を見て確認されました。そのうえで発表されたのが『守護国家論』(一二五九年)です。つづいて、『災難興起由来』・『災難対治鈔』でした。そのなかでも、『守護国家論』は七段の構成をつくって緻密な論理を組み立てています。小松邦彰先生は日蓮聖人のこれ以後の著作には、これほど精密な論述はないといいます。また、本書における浄土教批判を見なければ、『立正安国論』の解釈が希薄になるといわれます。(末木文美士著『日蓮入門』)。

 日蓮聖人は『立正安国論』を、幕府の儒官であった比企能本に校閲を頼んだといいます。前にのべたように、能本は能書家としても知られていました。比企能本は北条一族に滅ぼされた比企能員の遺子で、儒官として順徳天皇に仕え、その後、鎌倉に帰って幕府の儒官となったというのが通説です。しかし、比企能本は陰陽博士の大学允(じょう)安部晴長の子という説もあります。誕生寺に伝わる日佑上人本の『録内御書抄』には、『立正安国論』を五月二六日に名越で完成されたと記されています。

『立正安国論』を著述された場所は、名越の安国論寺のところといいます。上呈にあたっては、紙質や墨質、筆にいたるまで、細心の敬意をもって起筆されたといいます。(『読み解く立正安国論』)。完成された『立正安国論』を、七月一六日の午前八時〜一〇時ころ(「辰刻」『日蓮聖人註画讃』)、得宗被官(御内人)の宿屋左衛門入道最信を取次ぎとして、「天台沙門日蓮」の名のもとに前執権時頼に献呈(上呈)しました。(『安国論副状』四二一頁)。

一介の黒衣の私度僧が奏進するのではなく、比叡山の学生として認可された資格を表示しなければ、時頼から拒否されたといいます。『立正安国論』の第六問のなかに、「これまでに上奏した仏家の棟梁はおらず、まして、賤しい身分の者が莠言(たわ言)を吐く」(二一九頁)という文があります。日蓮聖人の『立正安国論』が、どのような経緯で時頼に上奏できたのか、そこには有力な人脈があったのではないか、という素朴な疑問があります。

日昭上人の猶子関係上の妹に近衛宰子がいます。近衛宰子は、この年の二月五日に、二〇歳で北条時頼の猶子として鎌倉に入っています。そして、三月二一日に一九歳の将軍宗尊の正室となります。日蓮聖人は七月一六日に『立正安国論』を時頼に上呈しました。日昭上人・近衛宰子の人脈が幾分かは効していたと思われます。また、とうじの人が日蓮聖人を天台僧と見ていたことは、「どしうち(同士打ち)」(『破良観等御書』一二八五頁)と評論されていることからうかがえます。そして、『立正安国論』の浄土教批判が波紋をよびます。奏進はそのような環境のなかに被見されています。

日蓮聖人は宿屋左衛門入道最信(?〜一二九三年)を、宿屋入道(四二一頁)とよび、屋戸野入道(四二二頁)・宿野左衛門入道(四二五頁)・野戸野入道(二五二七頁)・宿谷禅門(四四三頁)と当て字を使うことがあります。遺文中には実名を書かれていませんが、宿屋入道は宿屋左衛門尉という位をもち、実名は行時・最信(西信)といいます。宿屋最信の子供が光則で、鎌倉の光則寺の開基となっています。(『日蓮教団全史』三六頁)。宿屋最信は武蔵七党のなかの児玉党の出身で、今の埼玉県入間郡毛呂山町になります。ここに宿屋(しゅくや)という地名が残っており、北条氏の得宗の家臣となっています。また、この系図がどれだけ信頼できるものであるかは疑問であるとしながら、光則寺が埼玉県比企郡から入手した系図には行時(左衛門尉・奉行職三十有余年・永仁元年四月六日寂去・弘安五年十一月罷職・遁世・入道号西信)―光則(二郎左衛門尉・永仁五年奉行職・正中二年入道)となっている」と、紹介しています。(『日蓮宗事典』)。

また、宿屋入道は時頼の近臣で、得宗被官の御内人といい、弘長二(一二六二)年に、西大寺の叡尊が鎌倉に下向してきたとき、宿屋左衛門入道が時頼の受戒の使者となっています。そして、時頼の臨終の場にいた七近臣の一人であることが、『吾妻鏡』・『関東往還記』に記されています。いわゆる祇候人といわれる人で、武田五郎三郎・南部次郎・長崎次郎左衝門尉・工藤三郎左(右)衛門尉・尾藤太・安東左衛門尉、それから、宿屋左衛門尉の七人です。時頼の子の時宗にも近臣として仕え、幕府内の主要な位置にいたことがわかります。埼玉県比企郡の系図を基にすると、行時は永仁元年(一二九三年、祖滅一二年)に没しています。光則が日蓮聖人に帰依し信仰をしていました(『日蓮宗事典』七三七頁)。

伝承によりますと、日蓮聖人が佐渡に流されたとき、日朗上人たち六人も同罪として、岩窟の牢獄に投ぜられ宿屋入道の監督下におかれます。宿屋入道の子供であるは光則は、日朗上人たちの日々の行儀を見、話しをするうちに感銘し信順します。宿屋家は浄土宗でしたが、日蓮聖人が流罪赦免の後に日朗上人に師事して自邸を寺となし、父親の行時の名をとって山号を行時山、自身の名をとって寺号を光則寺と称したと伝えています。

 日蓮聖人が時頼と対面し、『立正安国論』を奏進するには、それ相応の紹介者がいたと思われます。日蓮聖人は時頼の腹心である宿屋入道と大学三郎との親交をもち、この縁により『立正安国論』を奏進することができたと思われますが、宿屋入道とはこの時が初対面だったともいいます。(尾崎綱賀著『日蓮』六四頁)。

 日蓮聖人は『立正安国論』を上奏・奏進(『安国論御勘由来』四二二頁)といい、本来は天子や天王にたいして意見を建白したり具申することをいいますが、将軍や為政者にたいしての建白や具申も上奏とか奏進という例があり、日蓮聖人が時頼にたいして上奏・奏進というのは当時の最高権力者であったことを視座においていたことがうかがえます。また、勘文としての『立正安国論』は公場対決を目的として著述されているので、法論の公場において具体的に口述する法門が用意されていたことを心得て、内容の元意を把握しなければなりません。

 なを、この年、岩窟において「立正安国」を浄書されるまえに、筑後房日朗上人(字を大国、一六歳))に続き、沙弥であった伯耆(一五歳)も弟子となり伯耆公日興上人(字を白蓮)と名のったといいます。(『本化別頭仏祖統紀』)。

○時頼と対面

日蓮聖人は奏進に先立ち、宿屋入道に念仏・禅の教えでは、国も人も救われないことを進言しています。(宮崎英修著『日蓮とその弟子』七三頁)。『故最明寺入道見参御書』に、

「日本国中為令捨旧寺御皈依為天魔所為之由故最明寺入道殿見参之時申之。又立正安国論挙之」(四五六頁)

また、『法門可被申様之事』に、

「其故は故最明寺入道に向て、禅宗は天魔のそい(所為)なるべし。のちに勘文もてこれをつ(告)げしらしむ」(四五五頁)

と、奏進いぜんに時頼と面談し、直接、「禅天魔」の理由を説いたとのべています。山川智応先生も本書の文から是認されています。これより先の五月二八日に『唱法華題目鈔』が書かれており、この書が時頼と面談するために準備されたもの、あるいは時頼に求められたなどと推察されています。また、宛先は大学三郎や南条兵衛七郎が考えられています。南条兵衛七郎も宿屋最信と同じく時頼の近臣でありました。山川智応先生は南条氏が宿屋入道と同じく時頼の近臣であることから、この『唱法華題目抄』を時頼に見せて、日蓮聖人を紹介し対面することになったかもしれない、とのべています。(『日蓮聖人伝十講』上巻二三八頁)。南条氏が『立正安国論』を上呈されることに助力していたとしますと、のちに、日蓮聖人が南条氏を慕い、遠路にかかわらず墓参りをし、時光の近辺の人たちを育んだ心情がうかがえます。

対面の内容は、『唱法華題目鈔』と、とくに、この後に上呈される『立正安国論』の要旨を説き諫暁しています。『故最明寺入道見参御書』断片に、

「挙寺々。日本国中為令捨旧寺御皈依。為天魔所為之由故最明寺入道殿見参之時申之。(天魔の所為たるの由を故最明寺殿に見参の時これを申す。叉立正安国論これを挙ぐ。惣じて日本国中の禅宗・念仏宗)(以下欠失)」(四五六頁)

と、禅宗は「天魔所為」の説であることを、時頼にすでにのべていたとあり、また、『法門可被申様之事』にも、

「我が国に此国を領すべき人なきかのゆへに大蒙古国は起るとみへたり。例せば震旦・高麗等は天竺についでは仏国なるべし。彼の国々禅宗・念仏宗になりて蒙古にほろぼされぬ。(中略)国をたすけ家ををも(思)はん人々は、いそぎ禅・念の輩を経文のごとくいまし(戒)めらるべきか。(中略)。故最明寺入道に向て、禅宗は天魔の所為(そい)なるべし。のちに勘文もてこれをつげしらしむ」(四五五頁)

と、のべているように、念仏の禁制と時頼が帰依している禅についても天魔の説であることを指摘していました。これに対し、時頼は返答を避けていました。日蓮聖人は『立正安国論』を時頼に上呈するにあたり、取り次ぎをした宿屋最信にも、つぎのように進言しています。『撰時抄』に、

「文応元年[太歳庚申]七月十六日に立正安国論を最明寺殿に奏したてまつりし時、宿屋の入道に向云、禅宗と念仏宗とを失給べしと申させ給へ。此事を御用なきならば、此一門より事をこりて他国にせめられさせ給べし」(一〇五三頁)

と、言い添えられ念をおされています。宿屋入道の返答は書かれていないので、無表情であったのかも知れません。日蓮聖人は念仏・禅の禁制をのべ、「自界叛逆」・「他国侵逼」の二難の大事な予言に念を押したのです。しかし、『一昨日御書』に、

仍造立正安国論故最明寺入道殿之御時以宿屋入道入見参畢(立正安国論を造って、故最明寺殿の御時、宿屋入道を以って見参に入れ畢(おわ)んぬ)」(五〇一頁)

 この文は、読み方によってどちらにも解釈されています。これを、宿屋入道の計らいで、時頼に『立正安国論』を上呈することができ、日蓮聖人も見参することも叶ったと解釈するのと、宿屋入道の手を通して『立正安国論』を時頼に見せることだけはできたという説です。では、上呈いぜんにおける面談の日時はいつだったのでしょうか。上呈の時には対面していません。通説では『法門可被申様之事』・『断簡新加二二四』から、『立正安国論』上呈の七月一六日いぜんといいます。また、面談にはいたってないという説があります。日蓮聖人が時頼に面談していないとするのは、『撰時抄』に、

「余に三度のかうみやう(高名)あり。一には去し文応元年[太歳庚申]七月十六日に立正安国論を最明寺殿に奏したてまつりし時、宿屋の入道に向云、禅宗と念仏宗とを失給べしと申させ給へ。此事を御用なきならば、此一門より事をこりて他国にせめられさせ給べし」(一〇五三頁)

 ここに、宿屋入道を仲介として時頼に伝言を頼んだことをのべていますが、時頼を直接諌言していたのであれば、「三度の功名」の一つには時頼の名を挙げたであろうと思われるからです。(阪井法曄著『法華仏教研究』第六号九八頁)。

あるいは、上呈後に時頼と面談したといいます。『本化別頭仏祖統紀』には、七月一七日に宿屋入道に託し時頼に届けられ、これを読んだ時頼は二四日に召して、日蓮聖人に論旨を問われたとあります。同書には「四箇格言」を説き、「自界反逆」・「他国侵逼」を予言して諌言したとあります。しかし、上呈後には面談をしていないと受けとれるのは、『下山御消息』に、

「先大地震に付て去正嘉元年に書を一巻注たりしを、故最明寺の入道殿に奉る。御尋もなく御用もなかりしかば、国主の御用なき法師なればあやまちたりとも科あらじとやおもひけん。念仏者並に檀那等、又さるべき人々も同意したるとぞ聞へし。夜中に日蓮が小庵に数千人押寄て殺害せんとせしかども」(一三三〇頁)

と、なんの音沙汰もなかったとのべていることです。そうして四〇日ほど経ち、「松葉ヶ谷法難」の急襲があります。つまり、時頼からなんらかの返答を期待していましたが、完全に無視されたことになります。