124.『立正安国論』を奏進                    高橋俊隆

◆第二節 『立正安国論』を奏進

○時頼に奏進

日蓮聖人が『立正安国論』を時頼に上呈したのはなぜでしょう。まず異論がないことは、日本の統治者が鎌倉の幕府であったということです。日蓮聖人が鎌倉にて開教された理由もここにありました。『頼基陳状』に、

「天照太神・正八幡百王百代の御誓やぶれて王法すでに尽ぬ。関東の権大夫義時に、天照太神・正八幡の御計として国務をつけ給畢ぬ」(一三五九頁)

 つまり、日蓮聖人は朝廷を中心とした日本の統治力が、関東の義時に移り、鎌倉幕府が為政者となったとみていたことです。『撰時抄』に、鎌倉が日本の中枢になっていたことを、

「今はかまくらの世さかんなるゆへに、東寺・天台・薗城・七寺の真言師等と並に自立をわすれたる法華宗の謗法人々関東にをちくだりて、頭をかたぶけ、ひざをかゞめ、やうやうに武士の心をとりて、諸寺諸山の別当となり、長吏となりて、王位を失し悪法をとりいだして、国土安穏といのれば、将軍家並所従の侍已下は国土の安穏なるべき事なんめりとうちをもひて有るほどに」(一〇四六頁)

 仏教界の各宗は自宗の栄華を求めて権力者のもとに集まります。それを受け入れる将軍家や武家の態度も、実質的に権力の掌握者となっていたのです。日本を動かす国主は鎌倉にあり、その頂点を時頼と見做したのです。時頼は寛元四(一二四六)年三月に執権となります。それは、兄の経時が病気のためにであり、その兄の二人の子息が幼少であったからです。時頼はその後、北条一門の名越光時を押さえ、御家人の三浦氏を排除して実権を握っていきました。建長元(一二四九)年に評定衆の頭人(長官)として政村・朝直(ともなお)・資時(すけとき)を任命し、その下に数人の引付衆を設けて裁判の円滑化をはかりました。

その時頼はすでに建長八(康元元、一二五六)年一一月二二日に執権を長時にゆずります。このとき、家督をゆずられた嫡子の正寿(時宗)が幼少であったためです。時頼は兄の二人の子息には得宗の家督を返さなかったのです。翌日、別邸があった北鎌倉の山内荘に建てた、最明寺にて出家していました。「最明寺入道」とよばれるのはこのためです。しかし、出家した後でも北条氏の家督である得宗の身分を誇示し、最高権力者として得宗政治の実権を握っていたといいます。(『王代一覧』五)。日蓮聖人が『立正安国論』を時頼に上呈した理由は、日本の最高実力者とみたからです。つまり、国王としての天皇よりも、国主的な国家権力の掌握者に上呈されたといえましょう。(佐藤弘夫著『日蓮「立正安国論」』二六頁)。

また、時頼は仏教の理解者であり宝治元(一二四七)年八月に、道元を鎌倉にむかえて教えを受け、建長元(一二四九)年には蘭渓道隆を建長寺の開山にむかえています。そして、この年には宋僧兀庵普寧を建長寺に住まわせており、禅を通しての仏教理解者でありました。また、源氏の菩提寺という勝長寿院を再建し、信濃の善光寺にも所領を寄進しています。一方、時頼や時宗の禅にたいしての理解はさほど高くないといいます。道隆・祖元の中国僧に傾倒したのは、教養として受容しただけで、人間としての修養につとめただけという意見があります。しかし、道隆を戒師として出家し篤く寺院丹精をした功績をみますと、信心深い人物であったと思われます。このように仏教を庇護する時頼であったことに加え、大事なことは公平に仏教を見ることができた人物であったので期待されたと思われます。(一二八六頁)。

その証拠として、うちつづく災難に対し、幕府や朝廷は傍観していたのではなく、仏教にも救いを求めていたことが、『立正安国論』(二〇九頁)の書き始めにある、旅客の言葉からうかがえます。すなわち、

或専利剣即是之文唱西土教主之名     (善導の教えにより阿弥陀仏を称名する

或恃衆病悉除之願誦東方如来之経     (薬師如来の『本願功徳経』を読経する)

或仰病即消滅不老不死之詞崇法華真実之妙文(法華経を読経する)

或信七難即滅七福即生之句調百座百講之儀 (般若経の仁王会の儀式を行う)

有因秘密真言之教灑五瓶之水       (真言密教の修法を行う)

有全坐禅入定之儀澄空観之月       (座禅をして苦悩からのがれる)

若書七鬼神之号而押千門         (七鬼神の名を書いたお札を門にはり魔除けとする)

若図五大力之形而懸万戸         (五大力菩薩の図像を家に掛けて災難除けとする)

若拝天神地祇而企四角四堺之祭祀     (神道による四堺の疫神払いをする)

若哀万民百姓而行国主国宰之徳政     (為政者が窮状を回避するため徳政を行う)

 ここには、災難を除くため、さまざまな方法を行っていたことを羅列しています。また、「国主」「国宰」が徳政を行って、仏・菩薩・天神地祇に祈っていたとあります。時頼は執権を辞して入道したとはいえ、時頼の関与によって、これら多くの祭祀が行われていたと思われますつまり、時頼は実質的に幕府の実力者であり、仏教界を公平に見ることができるとみて、『立正安国論』を上呈したのが最大の理由と思います。

 なによりも、仏法の正邪を正しく判断し、悪法を排除し正法と聖僧を保護することが国主の義務です。『守護国家論』に『仁王経』を引いているように、釈尊が国主に仏法の保護を委託したことを覚知させるためです。平和な国民が安心して暮らせる社会を実現することが、国主の責務であると理解していたからです。いかに、徳政をおこなっても変わらない生活の苦しみに、民衆は辟易とし何の希望ももてず虚脱状態であったといいます。

そこに、現世における楽しみがない無力感に対応したのは、浄土教の極楽往生であったのです。しかし、この浄土教は釈尊の教えからすれば謗法であり、まず、生前の安穏を実現することが仏子としての責務であり、国主の義務です。八幡神に守護される国王は「不妄語の人」(一八四八頁)でなければならないのです。

○勘文『立正安国論』

 文永六年一二月八日に書写された、『立正安国論』の末尾に書かれた奥書に「勘文」と書かれています。日興上人が書写された『立正安国論』には「天台沙門」である日蓮聖人が、これを勘えたという署名が書かれています。写本は三島の妙法華寺に所蔵されています。このほかにも、「沙門日蓮勘」・「沙門日蓮勘之」、筆写本に「釈日蓮勘之」とあり、いずれも「勘文」となっています。日蓮聖人は、最澄が法華一乗を最高とした原点に帰ることを主張しています。この復古天台を望む「天台沙門」の僧侶として、上呈されたことは留意すべきことと思われます。本書のまえに書かれた『守護国家論』などには、「法華・真言」を正法として、法華最勝の立場をとっていないからです。

『立正安国論』は法華経の教義を論じる撰述ではなく、ここでは、天変地異などの自然現象に対処する方法を勘案した「勘文」です。災難の原因や対処を説いている仏教の経典を引用して論を進めています。「三災七難」も経典に説かれたことです。このなかに「星宿が度(明るさや輝き)を失う災難」があることにより、陰陽道・星宿道の感化、また、大学三郎の感化が指摘されますが(岩佐貫三著『日蓮の用いた勘文の義について』)、本来は仏教に説かれたことであり、そこから日月・衆星の運行が扱われます。

日蓮聖人の災難興起の思想は、「未来記」として法華経を受容するところに、「三災七難」の事態が見出されてきたといえます。(北川前肇著『日蓮教学研究』一五三頁)。つまり、仏説を基にして「勘文」が書かれたということです。曽谷氏に宛てた『法蓮鈔』(曾存、五四歳)に、『金光明最勝王経』を引き、

「経云 由愛敬悪人治罰善人故星宿及風雨皆不以時行等云云。夫天地は国の明鏡也。今此国に天災地夭あり。可知国主に失ありと云事を。鏡にうかべたれば不可諍之。国主小禍のある時は天鏡に小災見ゆ。今の大災は当知大禍ありと云事を。仁王経には小難は無量なり、中難は二十九、大難七とあり」(九五五頁)

と、ここに、天地の動向は国主の福禍により変化する、と説かれていることをあげます。そして、自然現象は国主の行いの「明鏡」であるから、災難が起きているのは国主に何かの過ちがあることになります。この考え方は仏教を釈尊の言葉(仏語)、釈尊が未来のために書きおかれた「未来記」(仏記)と、受容したところにあります。日蓮聖人は、『立正安国論』が「未来記」(仏記)にあたることを、『顕仏未来記』にのべています。

「問曰 仏記既如此。汝未来記如何。答曰 順仏記勘之既相当後五百歳始。仏法必可出自東土日本也。其前相必超過正像天変地夭有之歟。(中略)而去自正嘉年中至今年 或大地震或大天変」(七四一頁)

 また、『種種御振舞御書』に、

「去文永五年後正月十八日、西戎大蒙古国より日本国ををそ(襲)うべきよし牒状をわたす。日蓮が去文応元年[太歳庚申]に勘たりし立正安国論すこしもたがわず符合しぬ。此書は白楽天が楽府にも越へ、仏の未来記にもをとらず。末代の不思議なに事かこれにすぎん」(九五九頁)

『立正安国論』で予言した「自界叛逆難」と「他国侵逼難」の適中は、すべてが「符合」し、それは、釈尊の仏語である「未来記」のとおりであったとのべます。『立正安国論』より先の二月に著した『災難対冶鈔』に、

「国土起大地震・非時大風・大飢饉・大疫病・大兵乱等種種災難知根源可加対治勘文」(一六三頁)

と、災難の原因はすでに解明し、その対策を示したのが「勘文」であるとのべています。『立正安国論』は前年に著された『守護国家論』と、同年の『災難興起由来』、そして『災難対冶鈔』の主張を集約して著述されたことがわかります。ただし、『守護国家論』は教学的な視座から仏教にふれ、大局的に仏国土を論じていますので、分けてみる必要があります。

さて、勘文とは、朝廷や幕府からの諮問にたいして、故事の前例を調査し、吉凶占いなどをして上伸するときの文書をいいます。(高木豊著『日蓮―その行動と思想―』六四頁)。これは通常ですと儒家や史官、陰陽師が行なうことであり、幕府は相次ぐ災害のなかでこれらの上申を重視していました。これについては『吾妻鏡』に災害などの諸般にわたり、「陰陽家一々勘文す」と記載していることから窺えます。日蓮聖人が『立正安国論』を勘文として上呈した方法は、陰陽師などと同じような常例に従ったためと思われます。神祇官の卜占を卜文といい、陰陽寮の占いを占文といいます。しかし、日蓮聖人は諮問されて提出したものではないので勘文とは言えないといいます。諫暁書にあたるといいます。(『日蓮聖人遺文辞典』歴史篇二二一頁)。これを、諫暁としますと、日蓮聖人が『教行証御書』に引かれた天台大師の文に相応します。

「天台山智者大師只一人一切経中非立勝法華経云勝法華経経有之者諫暁。不止現世舌爛口中後生可堕阿鼻地獄等云云。此等相違能能弁之者知教者也」(二四三頁)

 『立正安国論』は勘文の形式にそって漢文で書かれ、一切経をもととして災難の由来と対処を示すところに特徴があります。

 日蓮聖人においても、比叡山を代表して陳述したとうけとれます。本書に法然の『選択集』の教えが流行したため、最澄・義真・慈覚・智証大師などが、苦信して請来した聖教や仏像、それを安置した比叡山の仏堂も僧堂も、「数十年の間に」(二一七頁)荒れ果てたとのべたことです。これは、建久九年に『選択集』が書かれてより、文応元年までの約六〇年のこと、あるいは、延暦寺衆徒が法然の大谷の墓を破却し、そして、隆寛・幸西・空阿弥陀仏を流して、専修念仏を停止した「嘉禄の法難」(一二二七年)いらいのことを指すと思われます。
 『立正安国論』はその時々を対処する勘文ではなく、釈尊・法華経の示す道理の文を示すことにより、日本の将来を予測するものでした。「承久の乱」のときに後鳥羽上皇が敗退したように、今は念仏によって日本が滅びるとのべたのです。『守護国家論』の念仏批判を、より現実的に幕府に諌言したのです。まさに「不惜身命」の覚悟をもって上呈されたのです。中山法華経寺本の『立正安国論』の奥書には、

「この書は徴有る文なり。これ偏(ひとえ)に日蓮の力にあらず。法華経の真文の至す所の感応か」(原本は漢文、四四三頁)・「法華経の真文の感応の致す所か」(『日蓮聖人御真蹟対照録』上巻二四四頁)

と、法華経の教え(経文・真文)のなかに災害の由来と、解決法が説かれていることをのべています。日蓮聖人にとっては、まさに法華経の「勘文」であったのです。また、そこには、日蓮聖人と釈尊と法華経が、時を経て一つになった「感応」の境地から発せられたとうかがえます。日蓮聖人は、これを始めての諫言として「第一の諫言」とのべています。本文中に自然災害という社会的問題や「自界叛逆」・「他国侵逼」の歴史的な国内外にわたる問題をとりあげ、かつ対策について言及した宗教者は、日本仏教史をふりかえると日蓮聖人一人といわれています。

この国主諫暁という視点は、儒教の思想(政治的行動性)にもとずいているとし、「安国」を名目的な国主である時頼に上呈したといいます。(佐々木馨著『日蓮とその思想』二三頁)。これは、「仏法即世法」の教えに基づくもので、法華経の「治世語言資生業等皆順正法」に導かれています。『観心本尊抄』(「天晴地明。識法華者可得世法歟」七二〇頁には、これらをふくめた「世法」は、私たちが生きている現実におけることであり、だれでもが認識している現実のことを基盤として仏教の教えを説くことを大事としています。

 庵谷行亨先生は、『立正安国論』を上奏したことは、求道者から弘教者としての日蓮聖人に転じたと指摘します。続出する災害と飢え病む民衆の中にあって、人々の苦しみは「日蓮一人苦」(一八四七頁)と受けとめられたのは、仏の慈悲を実践することであり、『立正安国論』を上呈された目的は、正法に基づいた浄土を実現することであり、日蓮聖人の菩薩としての願行であったとのべています。(『日蓮聖人教学研究』四二〇頁)。また、日蓮聖人の五大部は、『立正安国論』を起点として展開しているといいます。社会的な危機を認識し、その地平から法華経の未来記を受領された深意があったといいます。(渡辺宝陽著『立正安国論ノート』二六頁)。また、日蓮聖人のすべての遺文は、「立正安国」の旗印に統率されているといいます。(『日蓮聖人御遺文講義』第一巻二一頁)。

 日蓮聖人が身延山を降り池上に到着し、小康をえた九月二五日に、鎌倉近辺の信徒を集めて『立正安国論』の講義をされたと伝えます。(『元祖化導記』)。諸先生がのべているように、私たちは日蓮聖人が終生を一貫して教えたことは何かを、『立正安国論』に学ばなければなりません。『立正安国論』は名越の草庵にて構想され、漢文のスタイルを選んで著述されたのでした。(高木豊著『日蓮攷』四二四頁)。