126.『立正安国論』の反応                     高橋俊隆

◆第三節 『立正安国論』の反応

○重時の非法 

宿屋最信は時頼の前で、日蓮聖人より上呈された『立正安国論』を朗読したといいます。また、この内容の立派さに時頼は感銘したともいいます。(尾崎綱賀氏『日蓮』六七頁)。宿屋入道のはからいで時頼の手に渡り一覧されたというのが、憮民した時頼の人間性からうかがえます。(『日蓮教団全史』六頁)。

宿屋入道の信仰は、日蓮聖人一人に帰依したのではなく禅宗にも帰依していたといいます。時頼の薦めもあったでしょうが蘭渓道隆に帰依しています。宿屋入道の所領は今の福岡県にあり、そこに芦屋寺という禅寺を建立したのが、『立正安国論』を時頼に取次いだ翌年のことでした。(川添昭二著『立正安国論と他国侵逼の難』)。

後述しますが、内乱が起き(二月騒動)、つづいて、蒙古襲来の予言が的中し、文永五年閏一月に国書が届きます。幕府は二月に交戦の意思を決定します。このとき、日蓮聖人は宿屋入道に情報の提供を求めたと思われ、時宗に対して『立正安国論』の内奏を考えています。これについて八月二一日付けで返答を求め、さらに返事がないので九月にも書状を送って返答を強く求めていますが、ついに返事はなかったようです。『立正安国論』を時頼に上呈していご、この間における宿屋入道の信条が、道隆に傾倒していったのかもしれません。また、日蓮聖人に反発する権力者たちへの、政治的な配慮があったのかもしれません。時頼近辺における対処しなければならないことに奔走し、子息の光則とくらべて、強情な信心にまでは至っていなかったと思われます。

さて、日蓮聖人は時頼に幾分かの仏教への理解者であると見られ、期待をされたのですが、『下山御消息』に、 

「先、大地震に付て去正嘉元年に書を一巻注たりしを、故最明寺の入道殿に奉る。御尋もなく御用もなかりしかば、国主の御用なき法師なればあやまちたりとも科あらじとやおもひけん」(一三三〇頁)

と、のべているように、時頼から『立正安国論』の返答はありませんでした。時頼の具体的な返答はなかったのです。時頼がみずから『立正安国論』を一覧したのか、宿屋入道が読みあげたかはわかりませんが、無名の一僧の言として黙殺、不問に付したといいます。(『日蓮教団全史』六頁)。

日蓮聖人は時頼との対談のときには禅天魔を標榜していますが、『立正安国論』では禅宗の糾弾よりも法然の念仏を糾弾する方法をとっています。それは禅に傾倒していた時頼に遠慮したという見方があります。しかし、前にのべたように、日蓮聖人は時頼と対談したおりには、直接、禅を批判しており(『故最明寺入道見参御書』四五六頁)、宿屋にも、その旨を再度進言するように指示していることから、禅批判の文章を『立正安国論』に記述しなかった理由は、別にあると考えたほうがよいと思われます。時頼は為政者として広く仏教を取り入れ、ほかの有力武士の信仰形態も複数の信仰をしています。仏教に限らず神祇信仰や陰陽道も取り入れているのが常で、そのなかで特に力を注いでいるのが時頼においては禅宗ということでした。

 時頼は鶴岡八幡宮の別当隆弁や兀庵普寧、律宗の叡尊に篤く帰依したといいます。時頼と念仏信仰の関わりは、扇ガ谷の浄光明寺の開基が時頼と長時と伝えられ、また、『法然上人行状絵図』に時頼の念仏信仰が伝えられていることから、日蓮聖人が『立正安国論』に禅宗批判をしなかったのは、時頼の信仰に配慮したというのは一面的な解釈といわれています。日蓮聖人にとっては、政治に関与している最大の邪法を制止することが、最重要な問題であって、仏教界における最大な脅威は、融和主義をとり旧仏教と妥協し、権力者と結びついていた浄土教の僧侶だったのです。

その浄土教をもたらしたのは、法然の後継として天台的立場から念仏を主張した証空(一一七七〜一二四七年)がいます。証空は法然の滅後に最大の法難であった「嘉禄の法難」(一二二七年)のときに、天台僧として弁明し処罰を逃れています。この背後には興福寺別当の兄と東寺長者を弟にもっていたことがあります。このことが貴族に念仏を信仰広めることとなりました。

また、法然の正嫡を任じた聖光が地方に念仏を広めていました。その弟子に鎌倉の浄土宗を担った良忠がいます。良忠は建長年間に下総周辺を布教しています。これは千葉氏と浄土宗の関係が胤頼と法然にまでさかのぼります。(中尾尭著『日蓮宗の成立と展開』四九頁)。ほかに、法然の専修念仏を捨て諸行往生を認めて妥協した長西派がいます。また、専修念仏の易行性を変えた隆寛派が、それぞれ旧仏教からの制裁を逃れるために妥協し、法然の教えから逸脱し教えを歪曲してまでも念仏を広めていたのです。

日蓮聖人にとってはこのような浄土信仰を止めることが先決で、目前に逼る危機感だったのです。時頼は北条一門や御家人に念仏門徒がいたので、為政者として『立正安国論』を用いることは大きな混乱をまねくことになると考え、念仏無間の批判に静観するほうが得策と考えたといいます。また、天台僧の意見という枠組みにいれて関心を持たなかったと思われます。

○浄土宗との論談 

しかし、『立正安国論』は浄土宗を批判しているので、とうぜん念仏門徒からの応酬がありました。道隆や、長時と父である前の連著極楽寺入道重時などの念仏宗徒は過剰に反応しました。とくに重時は人格的には勝れていても、信仰者としては浄土教の信者でした。重時が師事したのは、証空の門人である修(宗)観であり入道して観覚と名のるほどです。これらの浄土門徒の動きは、『立正安国論』上呈後に、日時は不明ですが首領である道教と法論しています。おそらく、日蓮聖人が善光寺に呼び出されたと思います。伊東流罪中に書かれた『論談敵対御書』に、 

「論談敵対時、不及二口三口以一言二言令退屈了。所謂善覚寺道阿弥陀仏・長安寺能安等是也。其後唯加悪口、相語無知道俗令留難。地頭等。権事或寄或語国々門。或昼夜打私宅。或加杖木。或加刀杖。或向貴人云謗法者・邪見者・悪口者・犯禁者等誑言不知其数。終去年五月十二日戌時念仏者並に塗師・剛師・雑人等」(以下欠失。二七四頁。弘長二年に系年されています) 

道教は鎌倉浄土教を代表する「主領」でした。能安も同格に浄土教団を統率していたと思われます。しかし、この論談(法論)は一言二言で、日蓮聖人にたやすく論破されてしまいます。法然の教えから脱落していたため、そこを攻められれば答えられない浅識なものだったのです。

法論に負けた念仏宗徒は信仰に目覚めるのではなく、逆に自尊心を傷つけられたことに憎しみの感情を強くします。かえって日蓮聖人に対しての憎悪を持ち、無知の道俗を使って昼夜に私宅を襲ったことがのべられています。草庵に押し寄せては悪口雑言し、刀などの武器をもって襲いかかったのです。さらに貴人に対しては日蓮聖人を邪見の者であり犯禁の者として讒奏したことがうかがえます。この矛先は時頼にも向けられ、日蓮聖人を処罰するように要求します。時頼はこれを反対し排除していました。『破良観御書』に 

「上に奏すれども、人の主となる人はさすが戒力といい、福田と申し、子細あるべきかとをもひて、左右(そう)なく失にもなされざれし」(一二八五頁)

と、時頼はあえて日蓮聖人を処罰することをしませんでした。『立正安国論』に対して時頼の返答はありませんでしたが、時頼が信仰する禅宗を批判した日蓮聖人を、寛容的にみていた姿勢はうかがうことができます。得宗本家とは人脈が通じていたこともあり、重時とは違い、日蓮聖人をうらんではいなかったといいます。

ただし、『立正安国論』の上呈は、鎌倉幕府の政治と宗教の権威者にとっては、採用できないものでした。政界と宗教界のどちらも利権を優先する世情であり、仏教の正邪を正す公場対決など、なんの得にもならない不要なことであったからです。日蓮聖人が『立正安国論』で始めて法然の念仏を批判したのではなく、かつては貞慶の『興福寺奏状』や、栂尾の明恵上人の『摧邪輪』など、旧仏教から専修念仏は排撃されていました。しかし、この当時には自説を曲げて旧仏教界と和解し、世俗化して幕府の権力者の帰依をうけていました。日蓮聖人はこれらの癒着をも批判の内容としていました。念仏を批判することは、直接的にそれを支持している権力者を批判することとして受け止められていったのでした。

また、論談の時期について、下総から鎌倉に帰ってきてからのことともいいます。つまり、日蓮聖人が房総から帰って来た理由は、この法論にあったという仮説ができます。松葉ヶ谷の草庵の夜討ちは『貞永式目』に反することなので、日昭上人などが中心となって訴えていたかもしれません。幕府としても対策が必要であり、伊豆流罪にするために行われたとも思えます。伝承では三月に鎌倉に帰ったとありますので、いずれにしても、五月一二日までに法論があったのです。

重時は論談をして結着をつけようとしたのか、しかし、論談に負けてからは権力を使って迫害しています。ついに決断したのが「殺されぬをとが(咎)にして」といわれるような、理不尽な伊豆流罪となります。ここで、考えられるのは、なぜ論談がなされたのかということです。重時たちは好んで論談に望んだのでしょうか。それならば、あまりにも準備がないままに論談をしてしまいました。天台や真言宗なども浄土教を摂取しているからです。

この浄土者との論談は、七月一六日に『立正安国論』を奏進し、それ以後、遅くても伊豆流罪の弘長元年五月一二日のことといいます。(高木豊著『日蓮その行動と思想』六四頁)。この論談が、松葉ヶ谷草案の夜襲の八月二七日までの間のことか、翌年、房総から鎌倉に帰って来てからのことなのか、ここが問題とされるところです。ただし、念仏門徒との訴訟ごとは、絶え間なくつづいていたと思われます。日蓮聖人が願う公場対決はなくても、訴訟にからんでの論談はあって当然のことです。