127.松葉ヶ谷法難                           高橋俊隆

■第三章 松葉ヶ谷法難

◆第一節 草庵夜討ち

○草庵夜襲

 日蓮聖人は『立正安国論』に主張した念仏無間、禅天魔を、鎌倉市中においても強く説いていました。それに対し念仏門徒たちは『中興入道御消息』に、 

「はじめは日蓮只一人唱へ候しほどに、見る人、値(あ)う人、聞く人耳をふさぎ、眼をいからかし、口をひそめ、手をにぎり、はをかみ、父母・兄弟・師匠・善友もかたきとなる。後には所の地頭・領家かたきとなる。後には一国さはぎ、後には万民をどろくほどに」(一七一四頁) 

と、のべているように、日蓮聖人に対しての反感が強くなっていきました。時頼は日蓮聖人の処罰を禁止していましたので、執権長時の父であり念仏者である、極楽寺入道重時という権力者と協力して、日蓮聖人を迫害してきます。その表れとして、『立正安国論』を上呈して四〇日ほどを経た、文応元(一二六〇)年八月二七日の暗闇の夜、松明に火を点けて松葉ヶ谷の草庵に乱入し焼き討ちしたと伝えます。

これには念仏・禅などの僧徒や、反感をもつ者までも加わり、松葉ヶ谷草庵の焼き討ちという行動にでたといいます。草庵に火を放って日蓮聖人を殺害しようとしたのです。念仏門徒からしますと、時頼など幕府が重用しない僧だから焼き殺しても罪にはならないだろう、という理由だったことが、『下山御消息』に、

「大地震に付て去る正嘉元年に書を一巻注したりしを、故最明寺の入道殿に奉る。御尋ねもなく御用いもなかりしかば、国主の御用いなき法師なればあやまちたりとも科(とが)あらじとやおもひけん。念仏者並に檀那等、叉、さるべき人々も同意したるとぞ聞へし。夜中に日蓮が小庵に数千人押し寄せて殺害せんとしかども、(中略)然れども心を合わせたる事なれば、寄せたる者も科なくて、大事の政道を破る」(一三三〇頁) 

この法難は日蓮聖人を殺害することが目的だったとのべています。襲撃事件の黒幕は重時でした。重時は日蓮聖人を弥陀の法敵として恨みをもったのです。子息の長時は執権、連著は弟の政村、評定衆の筆頭は従弟の朝直、次席は甥の時章です。朝直は法然の高弟、隆寛に受法しており、約一年半まえに念仏者と対決し、日蓮聖人を問難していました。時章も法然の孫弟子、道阿弥の信徒でした。(山川智応著『日蓮聖人伝十講』上巻二四八頁)。時頼にすれば伯父であり義父になります。松葉ヶ谷の襲撃は、これら執権の長時なども「心を合わせた」ことであったので、犯人の念仏者たちに咎めがなかったのです。重時が日蓮聖人を迫害したことは、結果的に武力を用いての非道なことをしたことになります。ですから、重時を人格者とみていた日蓮聖人は、『貞永式目』に夜討ち放火は死罪か流罪に処せられるという、「大事の政道を破る」人となってしまい、その原因は『兵衛志殿御返事』に、 

「極楽寺殿はいみじかりし人ぞかし。念仏者等にたぼらかされて日蓮をあだませ給しかば、我身といゐ其一門皆ほろびさせ給」(一四〇六頁)

と、重時は念仏僧にだまされて、松葉ヶ谷を襲撃させたとみています。領家の尼と東条景信の土地問題の紛争に、どれほど重時が関与していたかはわかりませんが、日蓮聖人を怨むことは本心であっても、暴力におよぶまで重時の心を扇動したのは、良観たちの謀略であった、という見解があります。しかし、この日蓮聖人の言葉は、重時にたいする皮肉であるといいます。([岡元錬城著『日蓮聖人遺文研究』第一巻四七七頁)。たしかに、日蓮聖人にたいする執拗な加害は子息の長時も行います。

日蓮聖人は暴徒の乱入などを禁じた『貞永式目』の規則があるにも係わらず、この夜襲の暴徒に罪科がなかったことにたいし、為政者がみずから政道を破ったとして、重時や幕府のあり方を批判します。また、幕府の政道のありかたを『下山御消息』に、 

「然ども心を合たる事なれば、寄たる者も科なくて、大事の政道を破る。日蓮が生たる不思議なりとて伊豆国へ流ぬ。されば人のあまりににくきには、我がほろぶべきとがをもかへりみざる歟。御式目をも破らるゝ歟。御起請文を見に、梵・釈・四天・天照太神・正八幡等を書のせたてまつる。余存外の法門を申さば、子細を弁られずば、日本国の御帰依の僧等に召合せられて、其になを事ゆかずば、漢土月氏までも尋らるべし。其に叶ずば、子細ありなんとて、且くまたるべし。子細も弁えぬ人々が身のほろぶべきを指をきて、大事の起請を破るゝ事心へられず」(一三三〇頁) 

と、重時がみずから制定した『貞永式目』と、「御起請文」に疑問を呈したのです。重時にしますと弥陀の怨敵を退治することでも、日蓮聖人にしますと重時は八幡大菩薩に誓いを立てた人物であるから、公平に吟味をすべきことを述べます。その内容が分からないならば、幕府の皈依する僧と召し合わせ、それでも解決できなければ、中国の高僧に正邪を尋ねてでも判断をすべきなのに、かえって、逆上している姿に天罰を受け身を亡ぼすとのべたのです。この迫害は、日蓮聖人だけに向けられたのではなく、信徒にたいしても加えられていたのです。 

日蓮をあだするほどに、或は私に狼籍をいたして日蓮がかたの者を打、或は所をひ、或は地をたて、或はかんだう(勘当)をなす事かずをしらず」(『破良観等御書』一二八五頁) 

安国論寺の地形からみると、入り口から襲撃されたなら逃げ場がないというところです。まして、夜中に大勢で襲われたのにも関わらず、無事に逃げ出すことができたのは、不思議なことであるとして、 

「いかんがしたりけん、其の夜の害もまぬがれぬ」(『下山御消息』一三三〇頁) 

と、述懐されるほどでした。また、『破良観等御書』に、つぎのようにのべています。 

「上に奏すれども、人の主となる人はさすが戒力といい、福田と申し、子細あるべきかとをもひて、左右なく失(とが)にもなさざりしかば、きりもの(権臣)どもよりあひて、まちうど(町人)等をかたらひて、数万人の者をもんで、夜中にをしよせ失(うしなわん)とせしほどに、十羅刹女の御計らいにてやありけん、日蓮其難を脱れしかば」(一二八六頁) 

 時頼は日蓮聖人を迫害しませんでしたが、重時の関係の者が町人を集めたのです。草庵は多数の者の襲撃にあいます。草庵には常に警備の信徒が日蓮聖人を守っていました。日昭・日朗・能登房や、このときの当番であった、信徒の進士太郎善春たちが応戦しました。このおり、弟子の能登房と信徒の進士太郎などが疵をおう難にあいました。これにより、惜しくも草庵は消失してしまいますが、周囲の包囲をさけて日蓮聖人を助けることはできました。

日蓮聖人は、この法難をのがれることができたのは、法華経を守護すると誓った、鬼子母神・十羅刹女の計らいであると受けとめています。そして、この迫害を法華経の色読として受けとめ、「法華経の行者」として日蓮聖人は歩まれていくのです。庵室の破損はその余波といえましょう。これを「松葉ヶ谷法難」といいます。この松葉ヶ谷の夜討ちは、日蓮聖人の四大法難の最初の法難となります。

 さて、松葉ヶ谷法難の年次は、八月二七日とされますが、松葉ヶ谷法難の襲撃の日について、『論談敵対御書』をもとに、、翌年弘長元年五月一二日という説があります。(高木豊著『日蓮攷』一三六頁)。五月一二日は伊豆流罪の日になります。佐々木馨先生は、この説をうけ松葉ヶ谷法難を弘長元年五月、伊豆流罪と同日とみています。これに関連して、『論談敵対御書』の論談の日も弘長元年のこととみています。(『日蓮とその思想』四七二頁)。

「焼き討ち」は事実でしょうか。夜討があったことと、日蓮聖人の命が狙われたのも、遺文に書かれているので事実ですが、焼き討ちがあったかは不明です。月日も不明なのです。(宮崎英修著『日蓮とその弟子』七五頁)。『法華霊塲記』には、子の刻(午前〇時)、夜討ちとあり、そのときに、「草庵を廃せられ」て下総の富木氏のところに向かったとあります。このときに松葉ヶ谷の草庵を廃止したと書かれています。『元祖化導記』・『日蓮聖人註画讃』も夜討ちとあり、草庵を焼いたとは書いていません。亨保五(一七二〇)年に書かれた、智寂日省上人の『本化別頭高祖伝』にはじめて、草庵を焼いたと書かれています。『本化別頭高祖伝』には、文応元年に賊が草庵を囲み、松明を照らして昼間のようであり、そして、賊は草庵を焼いたとあります。(「賊火松葉谷」)。また、草庵の建物を壊して放火したと書いています。(「逼丈室毀築放火」)。このとき、日蓮聖人は近くの岩窟に身をかくしたとあります。また、「さるべき人々」・「きりもの(権臣)どもよりあひて」とあることから、襲撃の目的は殺害にあるとし、鎌倉の人々が、日蓮聖人が生きていたことに不思議がり、焼死していなかったことに驚いたとして、伝説は真実を伝えているといいます。(岡元錬城著『日蓮聖人―久遠の唱導師』一四六頁)。

 伝承では、草庵にいた日蓮聖人のもとに竹藪ずたいに白い猿がきて、しきりに日蓮聖人の袖をひくので草庵を出て、裏山ずたいに山王堂の洞窟に入られたときに、草庵が夜襲にあったといいます。草庵から、まっすぐ山王堂に逃げ延びたとします。(山川智応著『日蓮聖人』一四九頁)。小川泰堂居士の『日蓮大士真実伝』には、百人ほどの者が手に得物を持ちかまえて押し寄せたとあります。この日は庚申であり、日蓮聖人は帝釈天に法楽し、月を見ようと遣戸を細めに押し明けて東の空を見ると、竹縁伝いに白い猿がきて日蓮聖人の袖をさかんに引きます。なにごとかと不審ながらも、白猿に引かれて暗い山路を一キロほど歩きます。着いたのは安房から鎌倉に来たおりに、宿泊していた山王堂の奥にある洞窟でした。このとき、草庵のある西の方から夥しい物音がし、空が炎にそまったとあります。

夜がほのぼのと明けるにしたがい、討っ手も逃げ去ります。日蓮聖人は岩窟のうちにて読経をしていますと、不思議にも猿が、柴栗、いちご、榧の実を手に持ち来たり、日蓮聖人に供養したといいます。ここに、三日間、滞在したといいます。鎌倉の市中では日蓮聖人が焼死したと噂され、富木氏は家来をつかわして捜査させ、山王堂に逃げ延びた日蓮聖人を若宮の館にお連れしたとあります。

さて、じっさいに、この法難のあと日蓮聖人は、どのような歩みをされたのでしょうか。草庵を安国論寺付近として、襲撃後に退出した経路は名越山の尾根伝いに、法性寺裏の山王社に向かうのが最短で安全性があるといいます。裏山の南側は危険な断崖を下ることになり、険阻な山道を登って避難するのは危険です。名越の切通しは幕府が守る要塞道路であり追っ手の目が気になりますし遠回りになります。『風土記』には難を逃れて窟中に籠もる日蓮聖人に、白猿三匹が来て食物を供したとあり、里人の信者が身元を隠して給仕されたといわれます。事実、この近辺には信者たちがいたことが伝えられています。また、人知れず常に日蓮聖人を守っていた、影の存在があったともいいます。

松葉ヶ谷の草庵については所説があります。安国論寺は『立正安国論』を推敲し、浄書されたところと言われています。始めは要法寺といい、慶長年間に安国論窟寺と改称され、安国論寺になったのは最近のこととなります。ここは、日朗上人の遺言により、荼毘に附したところなので、所在はこの近辺にあったと思われます。(『本化別頭仏祖統紀』二〇八頁)。この鎌倉に進出して最初に用意した松葉ヶ谷の草庵には、この夜討ちの法難により退出し、同じ場所には帰らなかったといいます。つぎに建てたのが文永四年、日蓮聖人四六歳のときといいます。(影山堯雄著『日蓮宗布教の研究』二二頁)。

妙法寺・安国論寺の背後は岩山で、尾根にでて逃げるのは困難な地形といい、まして、夜分になると足元が見えません。まず、安国論寺の裏山にある南面窟に逃げ、その後、名越切通しの北の山の洞窟に身を隠し、そこに猿畠山(えんばくさん)法性寺が建てられたという説が妥当と思います。しかし、夜襲の目的が殺害にあったといいますので、用意周到に周りを囲い込み、取り逃がすことがない陣形をとって襲撃したとすれば、まだ明るいうちに日朗上人とともに、荷物をそろえ脱出したのかもしれません。

そこで、「白猿」の存在が気にかかります。この白い猿については、この付近の村人のことであり、里人と解釈するのが通例ですが諸説あります。日蓮聖人のまわりには、身分を明かせない理由をもった者が常に護っていたという説もあります。あるいは、お猿畑が富木氏の家来がいた千葉邸のことで、白猿とは富木氏の家来か、富木氏の縁で帰信していた千葉氏の家臣ではないかと推察しています。(尾崎綱賀著『日蓮』七〇頁)。この山麓の久木の部落六六軒を教化したという伝えが残っています。『妙本寺志』によりますと、比企能本の家臣で長崎某という人が帰依して草庵を建てたといい、この家臣の勧めによって比企能本も信者になったといいます。「お猿畠」といわれる御猿畠山法性寺は、松葉ヶ谷の焼き討ちを逃れて隠れ住んだところで、白い猿が木の実を運んで日蓮聖人を養ったという由来から名付けられます。こののち、弘安九年に九老僧の朗慶上人によって法性寺が開創されており、日朗上人は自分の墓をお猿畠の地に建てるようにと遺言されています。そして、元応二年一月二一日、七六歳で亡くなると墓所をこの所に建てられています。

また、猿に類するようなことはなかったとし、日蓮聖人は偉大な直覚によって、迫害が来ることを予知されたのではないか、という意見がありました。(蛍沢藍川著『日蓮聖人の法華色読史』一二一頁)。たしかに、草庵を退去した時間と、日昭・日朗上人が、そのとき、どのように対処されたのかが気になります。日昭上人は別な僧堂にいたことは分かりますが、一五歳の吉祥麿(日朗上人)は、日蓮聖人に随身されていたと思われます。建長六年から八年のあいだに吉祥麿は入門していました。

高橋智遍先生は、草庵から退避する山道は、目がくらむような絶壁であるとのべ、白猿が前後にいて日蓮聖人の法衣をひき、そして、白猿に導かれて着いたのは山王の一小末社であり、このとき、「聖人給仕の日朗師を顧見られて莞爾と笑み給いしならん」(『日蓮聖人小伝』二五三頁。聖伝写真)と、日朗上人と共にいたことをのべています。

 ところで、山王堂は比叡山の日枝山王神とつながります。白猿は山王神の眷族といいます。比叡山を母体とした修験者などの存在が考えられます。猿の正体について、その伝承に工夫がされたと思われます。また、「御猿畠山」・「猿畠山」の名称が気にかかります。法性寺の山号として山がついていますが、「猿」と「畠山」を分離してみると、白猿の正体は畠山一族の者であったと推測できます。安房から鎌倉にはいる途中に本円寺の近辺に、六月一六日から数日、滞在しているといいます。ここには、畠山という二〇五メートルの低い山があります。畠山重忠の城があったところです。畠山重忠の母は三浦大介義明の子供です。妻は北条時政の娘で、畠山重忠は時政にだまされて、元久二(一二〇五)年、領地から鎌倉に赴く途中の二俣川で討ち死にしています。重忠が数十騎であったのにたいし、時政軍が一万の兵であったことから、ここに万騎が原という地名が残りました。

ところで、松葉ヶ谷草庵の焼き討ちの伝承にたいし、これを否定する考えがあります。とうじの幕府は社会の安定に心を配っており、松葉ヶ谷法難の前月には、「国土安穏、疾病対治」のために、大般若経転読の御教書を、諸国の守護人に宛てて出しているほどであるから、幕府のお膝下での焼き討ち事件が起こるはずがない、といいます。日蓮聖人の遺文にも『吾妻鏡』にも、この記述はないとしています。(中尾尭著『日蓮』八〇頁)。

日蓮聖人は日朗上人の墓所がある、法性寺裏の山王社近辺にしばらく滞在し、里人を教化します。このおりに教材とされたのが、『一代五時図』(図録九)といいます。また、『衣座室御書』・『今此三界合文』・『後五百歳合文』・『日本真言宗事』・『六凡四聖御書』など五篇といいます。(『本化高祖年譜』)。