129.『後五百歳合文』『日本真言宗事』                高橋俊隆

□『後五百歳合文』(図録一一)

 法華経のなかに「後五百歳」の文は、薬王品に一カ所(『開結』五二九頁)と、勧発品(かんぼっぽん)に三か所(『開結』五八九・五九四・五九六頁)あります。本書は三つの構成をもっています。はじめに、薬王品に説かれた「後五百歳」の文(「我滅度後後五百歳中広宣流布於閻浮提無令断絶悪魔魔民諸天龍夜叉鳩槃荼等得其便也」)は、滅後末法であることを、安楽行品や天台・妙楽・最澄などの経・釈の文を引いて示します。つまり、法華経は末法のために説き置かれた教えであることを確認します。これを、「末法為正」・「末法正意」といいます。

 ・正像末の三時

正法時代とは、釈尊入滅後、第一の五百年―解脱堅固(げだつけんご)

第二の五百年―禅定堅固(ぜんじょうけんご)

像法時代         第三の五百年―読誦多聞堅固(どくじゅたもんけんご)

第四の五百年―多造塔寺堅固(たぞうとうじけんご)

末法時代(五五百歳)   第五の五百年―末世法滅・白法穏没(びゃくほうおんもつ)

正法時代は、釈尊の教え(教法)、行ない(修行)、証し(悟り)が正しく伝わる時代です。像法時代は、仏法による証果(悟り)は得られず、像(形)だけが正法に似た時代となります。前の五百年は読誦多聞堅固といい、中国に渡った経典が漢訳され、経典を読み教義の研鑽が行われます。後の五百年は多造塔寺堅固といい、寺塔や仏像が建立され、形だけの仏法が伝わる時代です。末法時代は、「闘諍言訟」(とうじょうごんしょう)といい、人心が悪化し争いごとの絶えない社会となります。仏法の力もなくなってしまう時代が一万年といいます。これを、「末世法滅」・「白法隠没」・「末法万年」といい、ここに、末法思想がおきます。

 つぎに、勧発品に説かれた「後五百歳」の文(「於如来滅後閻浮提内広令流布使不断絶」)は、日本に法華経が広まることを説いているとのべます。この証文として、インドの弥勒・羅什、中国の遵式慈雲、日本の最澄・慧心・安然の論釈をあげます。そして、『涅槃経』の「三亀・浮木」(盲亀浮木)の譬を図示して、法華経に値い難いことを示します。(二二九五頁)。

 

          一、無目一闡提 諸経説之

涅槃経有三亀―――二、一目二乗 一、邪眼 余経説之  二、眇目 今経説之

三、両目―菩薩 

                     (『日蓮聖人遺文全集講義第五巻一〇九頁』によります)

 

仏法浮木二―――一、凡木四十余年経

二、聖木今経 涅槃経

一大方広仏華厳経

二仏説阿含経

仏法浮木孔二――一、小孔四―――三大方等大集経

四摩訶般若波羅密経

二、大孔――――南無妙法蓮華経

 この図から、「聖木」(法華経)の大孔(南無妙法蓮華経)に会うことが大事なことであることを示し、「盲亀浮木」(もうきふぼく)の譬が示すように、法華経の教えを受けることが難しい(値難法華)ことをのべています。

□『日本真言宗事』(図録一二)

・野沢二流                     (小野流)

聖宝―観賢―淳祐―元杲―仁海

空海――真雅―源仁―                (広沢流)     (仁和御流)

―益信―宇多天皇(空理)―寛空ー寛朝―済信―性信―寛助―覚法―覚性

 

実慧 桧尾僧都 東寺 円成寺僧正仁和寺始)     ―救世(益信流山階寺人

  空海――真済 高尾僧正 高雄  益信―――――――――寛空――寛静(西院僧正)

真雅 貞観寺僧正東大寺)―(寛平法皇御弟子蓮台寺僧正) ―定昭(嵯峨僧

                                   ―寛朝(広沢僧正

                                   ―観賢般若寺僧正 両寺

                    (櫻本僧正 醍醐寺始)    ―敒(権律師)

真然 高野僧正別当高野山)―聖宝―――――――――――――観宿権律師

                                   ―済高(大僧都)

                                   ―貞崇権小僧都

泰舜権律師蓮舟律師弟子

 

本書の真蹟はありません。はじめに日本の真言宗の列祖二十二師の系譜を図示しています。空海から弟子の実恵・真雅、真雅から聖宝・益信、この二人の流れが小野・広沢の二流に分かれます。本書は、このところを示しています。また、本書の棒線のくくりに筆写の誤りが指摘されていますので(『日蓮聖人遺文全集講義第五巻一二〇頁』)、修正を加えて小野・広沢の二流を図示します。

 

広沢流仁和寺)―雅慶権修寺僧正

寛朝――――――済信仁和寺僧正

深覚

観賢・・―――仁海元杲僧都弟子雨僧正云小野僧正云醍醐真言小野流祖

空海(七七四~八三五年) 実慧(七八五~八四七年) 真済(しんぜい 八〇〇~八六〇年)

真雅(八〇一~八九九年) 源仁(八一八~八八七年) 真然(?~八九一年)

益信(八二九~九〇六年) 聖宝(八三九~九〇六年) 寛賢(八五四~九二五年)

宇多天皇(八六七~九三一年) 寛空(八八四~九七二年) 寛朝(九一六~九九八年)

仁海(九五一~一〇四五年) 済信(せいじん 九五四~一〇三〇年) 

覚法法親王(一〇九一~一一五二年) 覚性(一一二九~一一六九年)

 つづいて、空海が帰朝して真言宗をたてた経緯を、『仏法伝来記』を引きます。ここに空海が宮中において、即身成仏について疑義をもたれたのを晴らすため、自ら真言の力により金色の大日如来となり、真言秘密の示したことをあげています。そして、『孔雀経音義』を引いて、三論の道昌・法相の源仁・華厳の道雄・天台の円澄が空海に帰伏し、真言の教えを学んだことをあげます。

 ところが、この即身成仏の実証の伝説は、後世の仮託であるといいます。この伝説は『孔雀経音義』がはじめで、真済の作ではなく観静(東山座禅沙門)のものといいます。(『日蓮聖人遺文全集講義第五巻一三〇頁』)。観静(九〇一~九七九年)は、東寺長者・高野山座主をつとめ、仁和寺の西院に住んでいたことから西院僧正とよばれています。(『日本人名大辞典』五七九頁)。

 つぎに、『大師伝』の「抛上三鈷」について引きます。この書は現在に伝わっていないといいます。また、

前書と同じく後宇多天皇の『弘法大師伝』にみるだけで、他の古い伝記には見られないといいます。この伝説の意図するところは、高野山を神聖な霊地とし、そこに空海が大徳をもつ、カリスマ的聖僧として描かれています。

 本書には、これらについての論評はありませんが、後年の『報恩抄』にくわしくのべています。

 

「孔雀経音義云、大師結智拳印向南方面門俄開成金色毘盧遮那等云云。此又何王、何年時ぞ。漢土には建元を初とし、日本には大宝を初として、緇素の日記、大事には必年号のあるが、これほどの大事にいかでか王も臣も年号も日時もなきや。又次 云、三論道昌・法相源仁・華厳道雄・天台円澄等[云云]。抑円澄は寂光大師天台第二の座主なり。其時何ぞ第一の座主義真、根本の伝教大師をば召ざりけるや。円澄は天台第二の座主、伝教大師の御弟子なれども、又弘法大師の弟子なり。弟子を召さんよりは、三論・法相・華厳よりは、天台の伝教・義真の二人を召べかりけるか。而も此日記云、真言瑜伽宗 秘密曼荼羅道従彼時而建立矣等[云云]。此筆は伝教・義真の御存生かとみゆ。弘法は平城天皇大同二年より弘仁十三年までは盛に真言をひろめし人なり。其時は此二人現にをはします。又義真は天長十年までおはせしかば、其時まで弘法の真言はひろまらざりけるか。かたがた不審あり。孔雀経の疏は弘法の弟子真済が自記なり。信がたし。又邪見者か。公家・諸家・円澄の記をひかるべきか。又道昌・源仁・道雄の記を尋べし。面門俄開成金色毘盧遮那等[云云]。面門者口なり。口の開たりけるか。眉間開とかゝんとしけるが、て面門とかけるか。ぼう(謀)書をつくるゆへにかゝるあやまりあるか。(中略)又三鈷の事、殊に不審なり。漢土の人の日本に来てほり(掘)いだすとも信じがたし。已前に人をやつかわしてうづみ(埋)けん。いわうや弘法は日本人、かゝる誑乱其数多し。此等をもつて仏意に叶人の証拠とはしりがたし」(一二三四頁)

 このように、空海の疑惑について詳細にのべています。ついで、法華経と真言の教理についてふれた、慈覚大師の『金剛頂経疏』の文を引き、法華経の久遠実成の仏とは、大日如来の法身のことであるから、法華経と大日経との仏の違いはないとの文をあげます。これを、「釈迦大日同体」(久遠釈迦大日一体説)といいます。安然の『真言宗教時問答』(『教時義』)を引いたのは、法華経と大日経との違いを略と広にあるとします。法華経は諸法実相の理を説くだけなので略とし、大日経は理のほかに印と真言という、具現性を感じる祈祷をおこないます。この事相は法華経より勝れているとします。ここに、「法華大日広略」の違いをたてているのが台密です。しかし、これらは、真言宗の「釈迦大日別体」・「真言勝法華劣」とは違う教えとなっています。

 つぎに、空海の『秘蔵宝鑰』「謗人謗法定堕阿鼻獄更無出期。世人不知此義」(二二九八頁)のを引き、真言宗の教えや真言宗を信じる者を、謗ることの罪深いことをあげます。真言宗の者は慈悲をもち、人々を救済することをモットーとし、もし、自己の名利を求めることがあれば、謗法の罪から逃れることはできないの文をあげます。つぎの空海の『教王経開題』の文は、龍猛菩薩が南天竺の鉄塔の中において、金剛菩薩から特別に授与された経典、それが、『金剛頂経』と『大日経』の両部の大経であるという、「南天鉄塔説」・「鉄塔相承」をあげます。これは、真言の経典が特別に勝れていることを強調したものです。鉄塔の中において両部を相承したとするのが東密、大日経は塔外とするのが台密です。しかし、この不空の『天台法華疏議決』の文は、道詮・宗叡・徳一から疑問視されています。

 さいごに、『大日経』の大日如来は、微塵に衆生となって分身し、「八相示現」の仏となって衆生を導き、いつも衆生と苦楽を共にして、仏となすことの文をあげています。これらは、真言宗の誤りの根幹を摘出した、真言宗攻略表といえます。