131.『椎地四郎殿御書』                    高橋俊隆

・四〇歳 弘長元年 一二六一年

 日蓮聖人は前年の松葉ヶ谷法難ののち、「百日百座・初転法輪」が示すように、富木氏を中心とした下総の信徒に、「本化」の教えを伝授されたと伝えます。冬の寒さの峠がこすころ、鎌倉の形勢を観望しながら、下総方面を歩いて布教します。

『本化高祖年譜』・『本化別頭高祖伝』などによりますと、日昭上人を呼び寄せて、伊勢に行くことの了承を得ています。伊勢の宗廟(そうびょう。伊勢神宮)に詣でて、釈尊の垂迹である天照太神に、色読受難における加護の感謝と、広宣流布を祈願し二一日のあいだ、常明寺において修法されたといいます。常明寺は一之木にあり外宮からは真北、月夜見宮の真西のすぐ近くにあります。

そして、二月九日に武州恩田代官益行を介して、吉田兼益に就いて神道を承くと伝えています。武州とは武蔵国ともいい、現在の埼玉県東京都の大部分、神奈川県川崎市横浜市の大部分を含み、延喜式での格は(たいこく)、遠国(おんごく)という広い地域をいいます。横浜市緑区恩田町にあたります。吉田兼益(卜部兼益、京都吉田殿二位、吉田家一四代)は、神道の長上となる人です。吉田の神領として武州都築郡恩田に御厨があり、ここの代官は日昭上人と親交がありました。この縁をもって門人となった日蓮聖人は、三十二尊の神号より神秘口決の相承を得たことを、二位兼益の筆記に審らかであるといいます。(小川泰堂居士『日蓮大士真実伝』一八〇頁)。この伝承は吉田兼益より神道を伝授され、それが、法華神道となったとします。日像上人にいたって三十番神の守護を法華経によって勧請した、「法華三十番神説」の基礎となり、「番神信仰」につながったといいますが、この「三十番神信仰」は、日蓮聖人と直接にはつながらないとする説が有力です。

しかし、日蓮聖人が説く「善神捨去」の諸天善神のとらえかた、そして、天台宗の「山王一実神道」にみられる、仏教と神道が融合した「仏本神従」の天台神道と関連します。すなわち、人間の生命(一念)に、現象世界のすべて(三千)が、円満に収まるという天台教学の、一念三千を教義に援用していることにあります。この伝承にしたがいますと、日蓮聖人は千葉の市川を出立して、内陸の街道を通り鎌倉に帰ったと思われます。そうしますと、途中の池上氏に立ち寄ることができますが伝承にはありません。

二月二七日に幕府は「関東新制条々」を発して、寺社に仏神事を興行すべきことを命じています。これに付随して破戒の僧は鎌倉から追放することや、僧徒が頭部に布を巻く裏頭(かとう)をして市中を横行することを禁止しています。念仏者に対しては、魚鳥を食べ酒宴を好んで集会する僧侶は、鎌倉を追放するという命令や、念仏僧が婦女子を集めて法会をもつことも、秩序を乱すとして禁止されています。過去に法然の弟子の安楽や住蓮は処刑されていました。黒い衣を着て各地を横行することも、取締りの対象となっていました。(六一ヵ条の関東新制を施行『吾妻鏡』)幕府は念仏自体を禁止したのではなく、戒律にとらわれずに自由に横行することを警戒していました。仏教界にたいして綱紀粛正をうながしました。

また、病気の者や孤児、死屍や牛馬の骨肉を道路に放置したり捨てることを禁止し、病気の者や孤児は保の奉行人が指図して無常堂に送るようにという、全体で六一項目の条々が出されています。鎌倉は河川が少ないので水に不自由することが多かったといいます。鎌倉五名水のなかに「日蓮乞水」が名越切通し西麓の民家にあります。これは日蓮聖人が鎌倉の夏の暑さに喉が渇き、杖を土に刺したところから冷水が湧き出たという伝説から呼ばれるようになりました。幕府が市中の治安に苦慮している様相がうかがえます。

三月一三日の未の刻(午後二時すぎ)に、政所の郭内から失火し、廰屋・公文所・問注屋が炎上しています。御倉等は火災を免かれています。三月二二日に幕府は、諸国盗賊・悪党蜂起の禁圧を守護に命じます。

 

○鎌倉に帰る

この年の春半ばころ(宮崎英修著『日蓮とその弟子』七五頁)、おそくても五月の始めには、鎌倉の弟子や信徒によって、草庵が再建された知らせを聞き鎌倉に戻ります。名越のもとの安国論寺のあたりに再建されたといわれます。草庵はいぜんと同じ入母屋造りの草葦で、室内の広さは三分の一ほど大きくなったといいます。いぜんの草庵は消失しているのが通説です。消失の記録が『吾妻鏡』などにみられないので、焼き討ち説が否定され、焼き討ちの説も後世の伝記に始めてでてきます。木造の建物を焼却することは、大火災につながります。念仏門徒が重時の意向により建て壊したことは想定できます。

この再建した草庵の場所を妙法寺の裏山中腹とする説があります。ここは奥まった急坂を登る場所で、信徒が集まるには不便でも、安国論寺のように暴徒が簡単に押し寄せることをさけられ、しかも、山王社に続き逗子方面に退避できるところといいます。(『日蓮大聖人ゆかりの地を歩く』鎌倉遺跡研究会四七頁)。鎌倉に帰った目的は、『立正安国論』で予言した、「自界叛逆」・「他国侵逼」の危機を回避するために、幕府に宗教政策の改革をうながすための諫暁でした。「立正安国」をスローガンに、その口調は以前にもまし、とくに念仏門徒に対しては熾烈に行なわれたことでしょう。

 

□『椎地四郎殿御書』(二五)

椎地四郎(しいじ)は鎌倉に住む武士といわれています。四月二八日付け本書に、

「貴辺すでに俗也、善男子の人なるべし」(二二七頁)

とあるので、日蓮聖人に信頼され、信仰の強い信徒であったことがわかります。遺品として「御腹巻椎地四郎」・「二貫文椎地四郎」とあり、晩年に近侍した人ではないかといわれます。また四条氏・富木氏と近い間柄であったことが遺文にみられ、四条金吾の若党(『本化別頭仏祖統紀』)ともいいますが、「四条金吾殿に見参候はば能能語り給候へ」(二二八頁)とのべていることから、主従関係ではないことがわかります。弘安四年一〇月二二日、蒙古の余波があるため富木氏に宛てた『富城入道殿御返事』に、

「しいじ(椎地)の四郎が事は承はり候畢」(一八八八頁)

とあるのは、この蒙古の敗退に関しての、教団における対処の仕方についてとうけとれ、椎地四郎と富木氏の関係のほうが強いように思われます。本書も、また、冒頭に、

先日御物語の事について、彼人の方へ相尋候し処、仰候しが如く少もちがはず候き。これにつけても、いよいよはげまして法華経の功徳を得給べし。師曠が耳、離婁が眼のやうに聞見させ給へ。末法には法華経の行者必ず出来すべし。但大難来りなば強盛の信心弥弥悦をなすべし」(二二七頁)

と、日蓮聖人と椎地氏との間にかわされた会話とは、蒙古に関しての話題と思われます。この事態を慎重に見聞し、法華経の行者となるべく強盛の信仰を勧めたものと思われます。五月二一日に元の高麗軍が対馬に侵攻し、「弘安の役」がはじまります。

さて、『立正安国論』を上奏した文応元年七月のあと、ほとんど真蹟がある遺文は伝えられていません。本書も弘安四年とする説があります。そのほうが、本書の「法華経の行者」観の教えの意図が伝わってきます。本書を弘安四年とする説にしたがい、その年に置き換えてのべます。ただし、本書がこの年であれば、さきの、 

「末法には法華経の行者必ず出来すべし。但大難来りなば強盛の信心弥弥悦をなすべし(中略)大難なくば法華経の行者にあらじ」(二二七頁)

と、のべた「大難」が、松葉ヶ谷法難にかかわることであり、末法における法華信仰は「忍難弘教」であることを、教えたとうかがえます。