132.伊豆流罪                        高橋俊隆

■第四章 伊豆流罪から小松原法難 

◆第一節 伊豆流罪

 下総の巡行は富木氏・大田氏・曽谷氏を教化し、「不惜身命」の信仰に導くことにありました。とくに富木氏は下総のみではなく、教団の信徒を統率する代表となっていきます。どのようなときも日蓮聖人を庇護できるネットワークと、信頼をもちあわせていたためと思われます。地盤を固め、そして、時期をみた日蓮聖人は、ふたたび鎌倉に入り法華経の弘教を決心します。鎌倉に入ったのは三月ころといいます。(『元祖蓮公薩埵略伝』)。

重時は日蓮聖人が松葉ヶ谷の夜討ちのおりに、死去(焼死)していると思っていたようです。日蓮聖人が鎌倉に生きて帰ってきた姿を見て驚きました。鎌倉に戻った日蓮聖人はくりかえし、『立正安国論』の「三災七難」・「自界叛逆」・「他国侵逼」を主張して、法華経に帰信すべきことを唱えました。また、松葉ヶ谷法難の黒幕の追及が行われたと思います。これは重時たちを困惑させ怒らせることになります。(宮崎英修著『日蓮とその弟子』七五頁)。

その浄土宗との論談の背後には『立正安国論』にて批判された、浄土宗側の根深い敵視があります。しかし、今度は表立って殺害できないように、日蓮聖人は法整備をしていたのかもしれません。法論はあっけないほどに道教や能安を打ち負かします。そして、松葉ヶ谷の夜討ちは念仏門徒の画策であるとし、首謀者は「権門」である極楽寺入道重時・執権武蔵守長時一族であることを示唆しました。

しかし、主張は認められることなく、かえって『立正安国論』の主張が幕府への批判であり、法論における念仏無間・禅天魔などの他宗批判の言動も、『御成敗式目』の第十二条のなかの、「悪口の咎」にあたるという名目で捕縛されることになります。日蓮聖人からしますと、この咎となる「悪口」とは何かを、問題として捉えます。すなわち、『下山御消息』に、

「余存外の法門を申さば、子細を弁られずば、日本国の御帰依の僧等に召合せられて、其になを事ゆかずば、漢土月氏までも尋らるべし」((一三三〇頁)

 つまり、仏教の教えを正しくのべている「正言」であって、「悪口」ではない、という立場から、日本の僧侶と公場対決をし、それでもわからなければ、中国・インドの僧侶に尋ねてでも、日蓮聖人がいうことが「悪口」なのかを問質すことをのべたのです。

また、同十条や十三条には、「刃傷と殴打」などの暴力も「流罪」に処すことが定められているので、日蓮聖人の近辺を警護していた信徒と、浄土衆徒との間に暴力事件が少なからずあったと推察されます。松葉ヶ谷草庵の応戦も「刃傷と殴打」の証拠とされましょう。とうじは、僧侶が裏頭して市中を横行することを禁止し、僧兵的な武器の所持を禁止していく情勢でしたので、日蓮聖人の信徒が身を護るために、武器を所持していたことを処罰し、内外に幕府の政策を示す好機であったのです。

つまり、『立正安国論』の主張は、幕府の政治にも関与することなので、日蓮聖人の言動を政治批判として捉えれば、幕府にとって伊豆流罪の罪状に事欠かなかったと言えるのです。(高木豊著『日蓮―その行動と思想―』七七頁)。幕府はついに、これらを罪状として、五月一二日に長時の処断により、日蓮聖人は逮捕されます。『論談敵対御書』に、

「終(つい)に、去年五月十二日戌時(いぬのとき)」(二七四頁)

と、のべているように、逮捕されたのは一二日の夜、八時から一〇時の夜中のことです。逮捕は公然たる幕府の裁断でした。しかし、これは表向きの口実で、かねてから念仏宗徒は日蓮聖人を殺害しようとしており、重時が張本人でした。日蓮聖人は『破良観等御書』に、重時の子供である執権長時と、連著の政村の仕業とみます。 

「日蓮其難を脱しかば、両国吏心をあわせたる事なれば、殺れぬをとがにして伊豆国へながされぬ」(一二八六頁)

つまり、「両国吏」(両国司)である二人が、日蓮聖人が「日蓮が生たる不思議なりとて」(一三三〇頁)と、殺されずに生きていたことを理由にして逮捕したとのべています。これは、日蓮聖人が行なう念仏批判にたいして、念仏者が策謀したものであり、幕府の重鎮である重時による、公権による弾圧であると日蓮聖人はみています。『妙法比丘尼御返事』に、

 

「去る文応の比、故最明寺入道殿に申し上ぬ。されども用い給うことなかりしかば、念仏者等此由を聞きて、上下の諸人をかたらひ打ち殺さんとせし程に、かなはざりしかば、長時武蔵守殿は極楽寺殿の御子なりし故に、親の御心を知りて理不尽に伊豆の国へ流し給ぬ」(一五六一頁)

日蓮聖人はこれを国家権力による弾圧とみます。経文に説かれた最初の「王難」となりました。また、草庵夜討ちのところでのべたように、松葉ヶ谷の草庵焼き討ちを指図したのは重時父子であったので、長時は正式な調べをしないで、早急に伊豆流罪の処分を決めたとのべています。伊豆流罪の理由は長時・重時親子の念仏信仰における私怨であったのです。正当な罪状ではなかったのです。しかし、いかに時頼でも、伯父であり義父である重時はさからえず、これを黙視し成り行きに任せたことになります。

いっぽう時頼はどう判断していたのでしょうか。時頼の実権は強いようにみえますが、限りがあったといいます。その例として、執権となっても相模守や武蔵守になれず左近将監のままだったこと、重時の邸内に将軍御所があり評定所が造られたことをあげ、重時が時頼に協力的であったから北条氏の権力基盤が安定していたといいます。(時頼のこのころの行動については、佐々木馨著『日蓮とその思想』(一一一頁)に、『吾妻鏡』による年表があります)。そして、『吾妻鏡』にこの御所移転と評定所移転の発案があり、これが廃案となっているのは、時頼が計画したのを重時が反対したのではないかといいます。(秋山哲雄著『都市鎌倉の中世史』一七五頁)。重時にたいして時頼の限界があったと思われます。

ところで、重時は泰時の弟であり、京都六波羅北方探題を十余年、執権時頼の連署を十余年勤め、さらに、執権長時の父親という立場ですから、幕府内の権力が強かったのです。重時を立派な人物と評される理由をさがしますと、重時と弟の政村は和歌が有名で千載和歌集』に歌が収録されており、藤原定家と親交があったといいます。六波羅時代に公家達から厚い信頼を寄せられており、鎌倉帰国においては後嵯峨上皇が法勝寺御八講御幸をやめてまで惜しんだほどでした。朝廷内に親交が多かったので、宗尊親王が将軍就任のときは重時が朝廷に奏請の手配をしています。康元元(一二五六)年三月一一日に連署を辞任し、覚念を戒師として出家します。正元元(一二五九)年に年藤沢の極楽寺を鎌倉に移し、弘長元(一二六一)年四月に極楽寺亭が完成していました。長時が良観を極楽寺に招いたとされますが重時の意向であったのです。出家後にも地位的には鎌倉幕府最高顧問として重要視され、家訓として『極楽寺殿御消息』・『北条重時家訓』を制定し、日常生活と政務に従事する態度を厳格にさせています。ここには、浄土教による撫民思想があったといわれます。

 また、重時は北条氏の嫡流である得宗家を絶対視することなく、実績を重視して採用したといいます。時頼が政権を執ったころは、重時の威厳が強かったといいます。それは、重時存命中に得宗を中心とした寄合が開かれておらず、あくまでも兄泰時の築いた合議制による政治を貫いたことから窺えます。また家督争いに敗れ政治的敗者となった北条時盛の娘を、以前からの約束を守り嫡男長時の妻に迎えています。しかし、重時はこの年の一一月三日に死去し、結果的に重時の一族は権力を失ったと見ています。本書の越後守とは業時のことです。業時は弘安七(一二八四)年六月二六日に四七歳にて死去しています。

  重時―           一一九八年~一二六一年一一月三日 享年六四歳

―為時(生没年不詳 )一二三五年一〇月に疱瘡で死んだという説がある

―長時        一二二九年~一二六四年八月二一日 享年三五歳

―時茂(ときしげ)  一二四一年~一二七〇年一月二七日 享年三〇歳

―義政        一二四二年~一二八一年一一月二七日 享年四〇歳

―業時(なりとき)  一二四一年~一二八七年六月二六日 享年四七歳

―忠時        一二四九年~一二八四年一〇月二日 享年三六歳

―女子九人

      長時―義宗―久時―守時(一六)

      業時―時兼―基時(一三)―仲時

ちなみに、時頼の子供時宗が連書になるのが、三年後の文永元(一二六四)年、執権となったのは文永五(一二六八)年です。重時はこの伊豆流罪(一二六一年)のあと一一月に死去し、時頼も弘長三(一二六三)年、長時も文永元(一二六四)年に死去します。執権職が得宗の時宗にもどるまで、長時・政村を経由しています。

さて、流罪の日はいつだったのでしょうか。逮捕と流罪の日について、『一谷入道御書』には、

「去ぬる弘長元年太歳辛酉、五月十三日に御勘氣をかほりて、伊豆の国伊東の郷というところに流罪せられたりき。兵衛介頼朝のながされてありしところなり。」(九八九頁)

と、一三日に勘気、そして、流罪とのべています。これにたいし、『報恩抄』と『聖人御難事』に、

「去弘長元年 辛 酉五月十二日に御勘気をかうふりて、伊豆国伊東にながされぬ」(一二三七頁)

弘長元年[辛酉]五月十二日には伊豆国へ流罪」(一六七三頁)

と、五月一二日に伊豆の国に流罪されたとのべています。この伊豆流罪の日が、一二日と一三日の二つの表記があることについて、高木豊先生は『一谷入道御書』の一三日は流罪執行の日とすれば誤記ではないとのべています。(『日蓮攷』一三五頁)前述したように、高木先生は五月一二日を松葉ヶ谷法難と推測します。しかし、遺文に「日蓮が生たる不思議なりとて」と、鎌倉の人々が驚いたところに注目されます。草庵襲撃のねらいは日蓮聖人を殺害することと思われます。脅かしならば常に受けており、松葉ヶ谷から追い出すだけが目的ではなかったようです。そうすると、このときに捕縛されずに逃げ延びたとあることから、五月一二日の伊豆流罪と、松葉ヶ谷法難を同日とするには無理があるように思います。そうしますと、逮捕されたのが一二日の夜八時すぎ(『論談敵対御書』二七四頁)のこと、そして、翌日の一三日に伊豆流罪の沙汰と執行がなされたと解釈できます。(岡元錬城著『日蓮聖人』一五三頁)。また、『一谷入道御書』・『報恩抄』に記載された部分が失われているので、写本を頼りにして一般的に一二日に逮捕されたとします。刑の執行は早く、翌一三日に市中を引き回されました。『神国王御書』と『兵衛志殿御書』に、

「両度の流罪に当てて、日中に鎌倉の小路をわたす事朝敵のごとし」(八九二頁)

「教主釈尊の御使いを二度までこうじ(小路)をわた(渡)し」(一三八八頁)

と、のべているように、流罪と決めた日蓮聖人を、昼間の明るいときに引き回したのです。普通の罪人は夕方から夜にかけて、刑場や配所に連れていくといいます。日蓮聖人は朝敵や謀反人のように、鎌倉市中の小路にいたるまで辱め見せしめたのです。そして、八幡宮の前を通っての、引き回しであったことが、『諫暁八幡抄』に、 

「去弘長と又去文永八年九月の十二日に日蓮一分の失なくして、南無妙法蓮華経と申大科に、国主のはからいとして八幡大菩薩の御前にひきはらせて、一国の謗法の者どもにわらわせ給しは」(一八四〇頁)

と、のべているように、八幡宮の前に平伏させ、市中の人々に嘲笑されての引き回しでした。釈尊の教えを正しく伝える者が、その法華持経者を守ると誓った、八幡大菩薩の前を引きまわされるのです。このように一三日の日中に、見せしめのため市中の小路を引き回し、そのまま由比ガ浜に向かいます。材木座の海岸に出て左は飯島で、その続きの浜は神領であったので、右手の沼浦(沼ヶ浦)から乗船したといいます。

この沼浦は現在の材木座五丁目一三の二七にあたるといわれています。九品寺のすぐ側で、近くに実相寺・海長寺があります。赦免されて鎌倉に入るときも沼浦に上陸したといいます。船守弥三郎の子供という日実上人が、正安元(一二九九)年「伊豆法難船出霊跡」として、妙長寺を築いた旧地が現在の材木座五丁目一三の二七の小高い丘でした。天和年間(一六八一~)に津波のため、畠中円成寺のところに再建されています。

ここから舟で伊豆の伊東に流罪されることになっていました。伊豆は古代から流罪の地で、役の行者小角(おづぬ)が流罪されており、頼朝も伊豆の蛭ヶ小島に流されていました。流罪は日蓮聖人一人のみで、弟子などの随行は許していません。信徒たちは嘆願書をだし、表立った行動は控えたといいます。(蛍沢藍川著『日蓮聖人の法華色読史』一二四頁)

 乗船の場所について、『本化別頭仏祖統紀』には「油井ヵ浜」とあります。これは「由比が浜」のことです。琵琶小路にいた日蓮聖人を取り押さえ、そのまま「由比が浜」から船に乗せ流罪にしたともいいます。(小川泰堂居士『日蓮大士真実伝』)。また、「滑川の川口、乱橋」から出船ともいいます。(高橋智遍著『日蓮聖人小伝』二五七頁)。乱橋のそばに妙長寺がありました。引き回されて琵琶橋から沼浦へ行くには、そのまま南下して由比が浜にでるのが近いのですが、この道は八幡宮の表参道になり神聖視されていますので、東に進み大町の四つ角を右折して材木座の海岸へでます。左手の海岸は飯島の港が栄え、その先の浜は神領となっていますので、右手の沼浦から乗船されたとみるのが至当といいます。(『鎌倉と日蓮聖人』一一五頁)。

いよいよ船出のとき、日蓮聖人は日朗上人に向かって、寂照が入宋するときに母を慰めた例を引き、「月、西山に入るを見ては日蓮伊東にありと思へ、日、東海に出を見ては日朗鎌倉に在りと思わん」と言ったといいます。(『日蓮聖人註画讃』「日朗由比の訣れ」)。それでも、日蓮聖人とともに舟に乗ろうとした一七歳の日朗上人は、ともに流罪にと懇願して舟の綱を握って放さなかったので、舟の櫂で右手を打たれ筆を持つにも不自由になったと伝えます。しかし、日朗上人の譲り状や曼荼羅は名筆といいます。(山川智応著『日蓮聖人』一五三頁)。

このとき、日蓮聖人は宝塔品の「此経難持」を唱えられ、声が波のまにまに漂って聞こえたことから、「此経難持」の一節を独特の節回しで読むようになったといいます。これが、四大法難の二番目にあたる伊豆流罪です。伝えによりますと、日朗上人が船出の浜で赦免を祈ったところ、浜の沖合から流れて来た霊木を感得し、この霊木に日蓮聖人の姿を彫り給仕をしたといいます。日蓮聖人が赦免された年齢は四二歳の厄年であったことから除厄(やくよけ)の祖師として、堀の内の妙法寺に安置されています。もとは碑文谷の法華寺に祀られていましたが、元禄時代の不受不施弾圧のときに天台宗に改めたため、妙法寺に移されたといいます。

日朗上人は日蓮聖人が流罪中の期間を、毎日、由比が浜に出て日蓮聖人を慕い、伯父の日昭上人から天台の三大部などを学び、鎌倉の草庵をまもったといいます。教団の弟子や信徒の教育は日昭上人が中心となって行われていました。これこそが、日蓮聖人と日昭上人との間に想定された「法華経の行者」への道だったからです。