133.俎(まないた)岩                      高橋俊隆

○俎(まないた)岩

さて、伊豆流罪というのは表むきのことで、幕府の目的は日蓮聖人を亡き者にすることでした。祖伝によりますと、着船の場所に諸説があります。伊東の東端にある「俎岩」といわれる岩礁で、潮の満ちで海に沈んでしまう岩に降ろされたとするのが通説となっており、日蓮聖人は名もない岩場におろされ海中に沈みそうになり苦しんでいたと伝えます。『船守彌三郎許御書』に、

「日蓮去る十二日流罪の時、その津につきて候しに、いまだ名をもきき(聞)をよびまいらせず候ところに、船よりあがり苦しみ候いきところに」(二二九頁)

と、のべているので、相模湾は時化で伊豆に着岸したのではないか、船酔いした役人が着岸したある津に下ろして、そこから伊東が近いので歩くように言ったともいい、ところが、下ろされた所は満潮になると海中に没してしまう「魚俎岩」であったといいます。

まず、油井浜から乗船し、着船したのが小目浦(ささめうら)という説があります。(『本化別頭仏祖統紀』)。川奈から南に一五キロ下がったところに富戸の篠見(ささみ)が浦という小さな漁港があり、ここに初めて着岸したという篠見ヶ浦上陸説があり、文献的には多く挙げられています。近くに日蓮岬があり蓮着寺が建てられています。蓮着寺の伝えにある篠海浦縁起には、寛文五年から約一五〇年前に小田原北条氏の臣下の今村若狭守が小さな堂を建てて供養したのが始めとあります。寛文五(一六六五)年は徳川光圀が朱舜水を招いて学問をされた頃です。また、幕府は仏教諸宗の寺院法度を制定し、題目講の禁止や不受不施派が禁圧されて時期にあたります。それから一五〇年前には延暦寺衆徒と洛内法華宗が険悪になっているころでした。

しかし、船守弥三郎が篠見浦に日蓮聖人を匿い給仕されたとは考えにくく、また、ここから川奈に日蓮聖人を移動するには距離がありすぎます。『船守弥三郎許御書』に上陸して苦しんでいたところを、流人と知りながら給仕をしたという記述からすると、川奈の洞窟が適当といいます。川奈は海岸から急斜面になっており、この岩屋の洞窟の五〇メートルほど上に、船守弥三郎の住居があり、人目を偲んで給仕をすることは可能といいます。現在、この地に船守山蓮慶寺が建てられています。(『鎌倉と日蓮聖人』一一二四頁)。『元祖化導記』には「留津の浦」(とまりつ)とあり、宮崎英修先生は、これが篠海浦を指すのか、川奈津をいうのかは不明といいます。(『日蓮とその弟子』七六頁)。

通常でしたら、同乗の役人が流罪地の預かり所まで引き渡すべきですが、日蓮聖人の遺文からしますと、このような手続きはなかったようです。捨ておかれて難義をしていたとのべています。伊豆のどこかに下船できるところは、古くから漁港としていた川奈の港といいます。この川奈港の西側に船守弥三郎が漁具の納屋として使っていたいう洞窟があり、満潮のときには洞窟の間近まで海水が入ったというところで、日蓮聖人を三〇数日匿い給仕したと伝える場所です。扇山近辺には烏帽子岩が立ち並び岩礁が散在して舟の接近は難しく、もし時化であったなら俎板岩といわれる岩上に舟を着けることは不可能といいます。つまり、「俎岩」の存在がうすくなるわけです。

蛍沢藍川氏の『日蓮聖人の法華色読史』に、『日蓮宗大観』が篠見浦説を否定したことにつき、一々反論しています。『日蓮宗大観』にのべていたことを略記してみます。

(1)  北風が強く伊東に着けない船が、伊東よりも遠く強風をうける篠見近海に船を寄せることはない。

(2)  官船でさえ着岸できない強風であった。

(3)  その強風の日に弥三郎が一人で漁船に乗っていたのはおかしい。

(4)  篠見付近は漁場として適さない。川奈は好漁場である。

(5)  古来、伊東と川奈との間に、「まないたぼら」または、「まないた」と称するところがあった。

(6)  古の書に篠見の文献がない。

(7)  日蓮聖人は「伊豆伊東川奈」とのべている。

(8)  伊東よりも約一〇キロも遠く、着船に不便な篠見に官船を寄せることはない。

 これらは川奈を否定するものです。このなかで、(5)を有力な説としながらも、「俎岩」説を是定するならば、古来から伝えられていた方を採択するのが適当とのべています。この見解は宮崎英修先生と同じです。(『日蓮とその弟子』七六頁)。また、(7)については着船の場所をのべたのではないと反論しています。これらについては、日本の地名のなかで「日蓮崎」と公称しているのは、ここだけである、と主張していることに尽きるように思います。(『日蓮聖人の法華色読史』一二五頁)。

 この二説は、「俎岩」がどちらなのかを問うています。これにたいし、「俎岩」に船から降ろされたというのは、荒唐無稽な伝説の創作という意見があります。おもな理由として、

(一)  この俎岩は、後の日蓮伝の元型となった「元祖化導記」や「註画讃」には記載がなく、それ以後の日蓮伝には、日蓮の着船地を「少々目が浦」「小目浦」「篠海浦」「伊東の浦」等と記している。

(二)  日蓮は「その津につきて」と述べているが、津とは渡し場、船着き場を意味する語であって、津から俎岩の岩礁を想起するには、相当無理があるように思われる。鎌倉・由比ヶ浜から伊東までの海上距離は、約五五キロメートルである。壇ノ浦合戦で使われた軍船は、最高時速八.二キロメートルと推定されている。日蓮を乗せた船が、当時の航法である陸岸を見ながらの地乗り航法で走り、時速五キロメートルとして十一時間以上の距離である。

(三)  「一谷入道御書」の真蹟に、伊豆流罪の日が五月十三日とあるから、日蓮の市中引き廻しが十二日の日中、伊豆への出船が十三日の早朝としても、川奈到着は夕刻になるであろう。伊豆半島は富士火山帯の一部に属し、地盤の基礎は火山岩屑の凝固でできた凝石灰岩類である。その岩礁に木造船を近づけることの危険を考えても、俎岩伝説の信憑性は薄いといえるであろう。

と、「俎岩」は後世の創作とします。そして、はじめて会った船守弥三郎夫妻が、一か月あまりにわたって日蓮聖人をかくまい続けたように、日蓮聖人は感化力の強い人格であるから、鎌倉から長時間、同船した者が、「俎岩」に置き去りにすることができないとし、荒唐無稽な伝説の創作が、日蓮を矮小化するとのべています。『本化別頭仏祖統紀』には、蓮着寺・妙慶寺ともに後世に造られたとあります。

山川智応氏は日蓮聖人が一二歳まで小湊の漁師の家に成人したのであるから、海上の浪が高いだけで「船からあがり苦しんだ」というのはおかしいとします。しかし、重時の松葉ヶ谷法難からして、日蓮聖人に危害を加えることもあるとして「俎岩」は篠海との見方をされます。(『日蓮聖人』一五五頁。『日蓮聖人伝十講』上巻二五八頁)。そして、幕府から領主のところへ、流罪人の日蓮聖人を助けてはならないという警告が留守中に来ていたとみます。影山堯雄先生は「俎岩」にふれていません。日蓮聖人が川奈に上陸して、途方に暮れ苦しみ悩む姿を見兼ねた村の舟守りの弥三郎に拾われ、流罪僧と聞いて驚き人目をはばかりはするものの、日蓮聖人の教えと人徳に帰信されたとのべています。(「日蓮教団の成立と展開」『中世法華仏教の展開』所収五九頁)。

いずれにしても、護送の役人が伊東の役人に引き渡してはいないので、両役人は日蓮聖人を黙殺したことになります。鎌倉を出港するときから無責任に取り扱われ、どこに着いたかも知らされないうちに、下船させられた状況だったのでしょう。つまり、「俎岩」の言い伝えは、日蓮聖人を暗黙のうちに抹殺することが目的であったのであり、それを仕組んだ重時の意趣を伝えていると思われます。また、伊東の領主である伊東八郎左衛門が、いつ、日蓮聖人が流罪されてくる通達を受けたかはわかりませんが、宮崎英修先生は幕府の命により、日蓮聖人を世話をしたり隠まわないよう厳命・布告したとのべています。(『日蓮とその弟子』七六頁)。

やがて幕府は日蓮聖人が生存していることを知り、伊東祐光の預かりとなります(影山堯雄著前掲書)。六月一七日に伊東祐光の使いとして、綾部正清が日蓮聖人のところにきます。用件は祐光の病気平癒の依頼でした。一旦は断りながらも、配流の罪人でしたので祐光の監督下になります。川奈から伊東へのコースは、街道を歩めば海岸線は切りだっているので、殿山の頂上にでて、千坂を降り、松原、仏現寺を通り、総堂坂を越えて、和田の久須美の祐光の邸に入ったと想定されます。また、海路が考えれます。罪人にたいする悪感情があるので、また、祐光の病状を考えれば海路をとったのかもしれません。扇山をまわり和田の浜に船をつけ、人目につかずに久須美の邸に入れるといいます。

鎌倉では重時が六月一日に倒れます。厠に入って怪異(もののけ)を見て、体のふるえが止まらず身心惘

々とします。鶴岡八幡宮の龍弁僧正の祈祷により治まったとはいえ、病状がつづきます。六月二二日に、三浦泰村の遺子である大夫律師良賢が、謀反を企てたのが発覚します。平盛時と諏訪入道蓮仏が兵を引きつれて、亀が谷で召しとります。

□『船守弥三郎許御書』(二六)

日蓮聖人は船から降ろされ苦しんでいたといいます。そこを、、伊東川奈の漁師である船守彌三郎に助けられ、流罪人であることを知りながらも夫婦ともに匿い、一ヶ月ほど給仕をうけています。日蓮聖人は自分の父母が生まれ変わった、と、思うほどの給仕であったことをのべたのが本書です。六月二七日に伊東祐光の下において書かれた書状です。『本満寺本』の写本が伝えられています。船守夫妻に伊豆流罪中の給仕について、

「たとひ男はさもあるべきに、女房の身として食をあたへ、洗足てうづ其外さも事ねんごろなる事、日蓮はしらず不思議とも申すばかりなし。ことに三十日あまりありて内心に法華経を信じ、日蓮を供養し給う事いかなる事のよしなるや。かかる地頭・万民、日蓮をにくみねたむ事鎌倉よりもすぎたり。みるものは目をひき、きく人はあだむ。ことに五月のころなれば米もとぼしからんに、日蓮を内々にてはぐくみ給しことは、日蓮が父母の伊豆の伊東かわなと云うところに生れかわり給か」(二二九頁)

と、書状を送られています。そして。下船して苦しんでいた理由は、寝食に窮して流浪していたためといいます。

「かかる地頭・万民、日蓮をにく(憎)み、ねた(嫉)む事、鎌倉よりもす(過)ぎたり」(二二九頁)

と、のべていることから、鎌倉の人々いじょうに仕打ちを受け苦悩していたところを、彌三郎とその妻に助けられたものと思われます。日蓮聖人が川奈にいることを、近辺の人たちは知っていたことになります。ですから、こののち、罪人を匿った弥三郎夫妻への配慮がなされていたことが、

「人にかたらずして心得させ給へ。すこしも人しるならば御ためあしかりぬべし。むねのうちにおきて、かたり給事なかれ」(二三一頁)

と、法華経を信仰していることを公言すれば迫害にあうであろうから、内心に信心をする励みのために宛てたことがうかがえます。また、彌三郎に宛てた書状が以前にもあったことが同書からうかがえます。船守彌三郎は川奈の住人で、「ふなもりの彌三郎」とあることから漁師の長・船頭・舟天衆といわれます。姓は上野(上原)で識字があることから、ある程度の身分をもっていたと思われます。明治のころは上原と藤原の姓だけの同族が住んでいたと言います。「河名津の小吏」ということから、日蓮聖人が常に船守とよび、船守を姓としたともいいます。(『本化別頭仏祖統紀』)。

また、船守弥三郎は甲州上野原(山梨県都留郡)の城主であったが、讒訴を蒙り伊豆の伊東に配流されていたという説があります。(竹下宣深著『日蓮聖人霊跡宝鑑』)。その同罪意識から流罪人の日蓮聖人を、夫妻して匿うことができたと推察しています。(鎌倉遺跡研究会『日蓮大聖人ゆかりの地を歩く』八二頁)。鎌倉の小町大路沿いに海潮山妙長寺があります。開山、開基ともに日実上人で、日実上人は船守弥三郎の子といわれています。(弥三郎という説もあります)

蓮慶寺の縁起には、弥三郎は上野氏で漁夫となったが、日蓮聖人より「船守」の称を授けられたといいます。(宮崎英修著『日蓮とその弟子』七六頁)。また、上原氏のことで河奈の浦の名主といいます。(『日蓮聖人御遺文講義』第一六巻一三頁)。「甲州上野原」から、上野と上原との二説が生じたのでしょうか。本書に、日蓮聖人が流人として捕縛されているところへ使者をおくり、

「わざと使を以て、ちまき・さけ・ほしひ・さんせう(山椒)・かみ(紙)しなじな給候畢。又つかひ申され候は、御かくさせ給へと申上候へと。日蓮心得申べく候」(二二九頁) 

と、食料を持たせ、それらの供養品が見つからないようにと配慮しており、流罪人としての日蓮聖人の状況がうかがえます。また、書状や著述をするための紙が供養されています。日蓮聖人から要望され、弥三郎はこれらを用意できた人物であったことがわかります。

日蓮聖人は伊豆流罪を法華経の勧持品第一三に説かれている、「三類の強敵」に責められた現証としてうけとめています。伊豆流罪中は口に経を読まなくても、行住坐臥のすべてが法華経を持つことであり、昼夜にわたって法華経を身体で読むという認識を持たれています。伊豆流罪を「昼夜十二時の法華経の持経者」として悦ばれたのです。それは、法華経を身に読むという身読であり色読であり、「法華経の持経者」から「法華経の行者」という強い自覚をのべるようになります。日蓮聖人は幕府という権力者から公に伊豆流罪という迫害があったことで、これを『開目抄』に、

「王難すでに二度におよぶ」(五五七頁)

「王難」とうけとめます。この流罪の背後には「三類の強敵」のなかの道門の僧侶や、僭聖といわれる高僧の画策がありました。つまり、勧持品には法華経の行者を、国王や大臣、比丘などを利用して殺害しょうと企てる僧侶がいることを説いています。日蓮聖人はこれ以後、勧持品の経文を色読しているという自覚を表明し法華経は釈尊により予言された「未来記」としてのべていきます。

重時は日蓮聖人を流罪に処して二〇日とたたない六月一日に、厠で突如、怪異を見て心身が朦朧となり毎晩、錯乱し譫妄状態に陥いったと『吾妻鏡』に書かれています。 

○伊東祐光 

 流罪人として日蓮聖人を監督したのは地頭の伊東八郎左衛門祐光です。古来から朝高と言われてきましたが、伊東家の系図にはなく別人とわかりました。伊東氏は伊豆国国衙(こくが)の有力な武士で、田方(たがた)郡伊東庄を本貫地とする在地領主でした。また、伊豆に勢力をもつ豪族、工藤氏の一流です。

祐光は親鸞聖人常随の高弟で、関東六老僧の一人、平塚入道了源上人(伊東四郎祐光)といいます。延応元(一二三九)年に南足柄市に草庵を結び阿弥陀堂を建立し、善福寺(龍頭山華水院)を創建したといいますまた、祐光は祖父が祐親、父が祐清となります。祐光の嗣子家長は嗣子がなかったため、弟の祐兼が養子となって家督を相続し、伊東八郎左衛門を名のります。延應元(一二三九)年、三の馬、寛元四(一二四六)年、頼嗣八幡宮参詣に従行、建長四(一二五二)年、宗尊親王が鎌倉に下向した時に宗尊親王に仕えたといいます。

前にのべたように、日昭上人の母は工藤祐経の娘で、曽我兄弟の仇討ちのときに加勢した犬房丸(大和守祐時)は、日昭上人の叔父(母の弟)になります。つまり、祖父は工藤祐経、叔父が伊東祐時です。祐時が九歳の建久四(一一九三)年に、祐経は曽我兄弟に討たれています。祐時は実朝に仕え将軍九条頼経の側近で、幕府内では検非違使として法曹官僚の立場をもち、建長四年六月一七日に六八歳で没しています。伊東・印東・工藤氏は親族の関係です。日昭上人が従弟の伊東の地頭祐光に、なんらかの交渉を持ったと思われます。

日蓮聖人は流罪人としての処置をうけるため、「俎板岩」の苦難を救った船守の家を出立し、殿山の頂上にでて和田の久須美にある、地頭伊東祐光の館に移ります。それは、船守弥三郎夫妻が流罪人をかくまい、同罪となり処罰されることがないための配慮と、この年の八月ころ、伊東祐光は重い熱病になり、各宗の僧侶に祈祷を行わせ、様々の治療をしても効験がなく(『吾妻鏡』によると祐光はこの月に病気により出仕をしていない)、日蓮聖人が川奈に生存していることを知った伊東祐光が、病気治療を日蓮聖人に依頼したためでした。

六月一日に重時は厠に入り怪異を見て心身に異変を起こしていました。祐光はこの原因を、日蓮聖人を流罪にした罪による罰であると感じたかもしれません。日昭上人より、その旨の書状が届いていたのかもしれません。日昭上人に宛てた『弁殿御消息』に、

「をも(思)いあ(合)わぬ人をいのる(祈)は、水の上に火をたき、空にいえをつくるなり」(一一九一頁)

と、伊東祐光は法華不信であるので、病気を治すことだけに利用されるのは空虚なことであるとし、祈祷を断わった旨の書状を出されています。祐光は元仁二(一二二五)年、一族を弔うために出家した人物であり、その後、親鸞聖人とであい、本願他力の教えを信じて弟子となり善念房了源と名のるほど、強い念仏信仰の強い人物であったのです。その後、日蓮聖人は、伊東祐光が法華経にこころを寄せていることを聞き、また、「念仏者になるまじきよし」(『弁殿御消息』一一九〇頁)とのべているように、念仏の信仰をやめ法華経に帰依することを約束として、その願いを受けて法華経の力をもって病気を平癒の祈念をしました。このところを『船守弥三郎許御書』に、 

「ことに当地頭の病悩について、祈せい申すべきよし仰せ候し間、案にあつかひ(扱)て候。然れども一分信仰の心を日蓮に出し給へば、法華経へそせうとこそをもひ候へ」(二三〇頁)

と、のべているように祈願を行いました。そして、瀕死の祐光は蘇生したのです。(『弁殿御消息』一一九一頁)。『日蓮大士真実伝』には、六月一七日に和田の邸に入り、祐光の枕辺に座して読経をすると、三日目に正気にかえり五日目に病の大半が除かれたとあります。この奇特に一族が夜昼に題目を唱えたといいます。

これにより、日蓮聖人の待遇もよくなり、流罪人を匿った船守弥三郎も、領主の恩人として手厚く待遇されたと伝えています。(「海老名家系図」『鎌倉と日蓮聖人』一二二頁)。祐光は日蓮聖人より日預と法名をうけ、妙法蓮院の一寺建立を約束します。のち、家臣の綾部正清は菩提所を建立して日蓮聖人の御影を安置し、日印上人が開堂供養をしたのが、海上山仏光寺です。海光山仏現寺は、海中出現の「立像釈尊」を感得され、流罪中に留まった毘沙門堂跡に建立されています。