134.立像釈尊                        高橋俊隆

○立像釈尊 

病気平癒の祈願が叶い伊東祐光は、秘蔵していた仏像について日蓮聖人に語ります。伊東の海中に光りを観じ、そのところに網を下ろし引き上げてみると、それは、立ち姿の「立像釈尊」でした。そして、今までは弥陀を念じていたので尊崇はしなかったが、法華帰信にあたり、自分が所持するよりも天下国家のためにと、この仏像を日蓮聖人にわたされます。『船守弥三郎許御書』に、

「此の時は十羅刹女もいかでか力をあわせ給はざるべきと思い候て(中略)ついに病悩なをり、海中いろくづの中より出現の仏体を日蓮にたまわる事、此病悩のゆえなり。さだめて十羅刹女のせめなり。此功徳も夫婦二人の功徳となるべし」(二三〇頁) 

と、伊東祐光の病気が治ったことを告げます。しかも、海中のいろくず(鱗・伊路久都・伊侶古)に紛れていたのをすくいあげ、所蔵していた「立像釈尊」を、病気平癒の礼として得たことにたいし、十羅刹女が法華経を守護するために祐光を病悩した現われとのべます。そして、「立像釈尊」を感得したことも、弥三郎夫婦二人の功徳であるとのべ、日蓮聖人の安否を心配した弥三郎夫妻へ、安堵をうながしたのです。また、三〇日のあいだ、川奈にて給仕をうけたおりに、どのような法華経の教えをされていたかが、つぎの文からうかがえます。

「我等衆生無始よりこのかた生死海の中にありしが、法華経の行者となりて無始色心本是理性、妙境妙智金剛不滅の仏身とならん事、あにかの仏にかわるべきや。過去久遠五百塵点のそのかみ唯我一人の教主釈尊とは我等衆生の事なり。法華経の一念三千の法門、常住此説法のふるまいなり。かゝるたうとき法華経と釈尊にてをはせども凡夫はしる事なし。寿量品云令顛倒衆生雖近而不見とはこれなり。迷悟の不同は沙羅の四見の如し。一念三千の仏と申は法界の成仏と云事にて候ぞ」(二三〇頁)

と、私たちは法華経の信仰により、仏になれることを説いています。この仏身は寿量品の久遠実成の釈尊と同体とのべます。つまり、法華経の本門に説かれた「三種教相」の「師弟久遠」が教えられていたことです。法華経の迹門は凡夫にも仏を具している、という衆生の理性を開顕しています。つまり、煩悩具足の凡夫がそのまま仏と同体であると説きます。これを「理具の法門」・「理一念三千」といいます。しかし、これは理論的な同体にすぎないとします。

日蓮聖人は本門において、仏の「久遠実成」が開顕されて、はじめて、真の十界互具・百界千如・一念三千が究竟し、仏界具九界の事具が成就すると説きます。これを「事具の法門」・「事の一念三千」といい、法華経の信仰がここに説かれてくるのが、日蓮聖人の法華信仰の特徴となっています。本書に仏性は常住であり、法華経により私たち凡夫も成仏できるとした、「一念三千の法門」がのべられています。そして、「立像釈尊」を感得したことに因み、

「木像即金色なり、金色即木像なり。あぬるだが金はうさぎとなり、死人となる。釈摩男がたなごゝろには、いさご(沙)も金となる。此等は思議すべからず。凡夫即仏なり、仏即凡夫なり、一念三千我実成仏これなり。しからば夫婦二人は教主大覚世尊の生れかわり給て日蓮をたすけ給か」(二三一頁

 すなわち、法華経を信仰する者の成仏の姿を説いたのです。「九界即仏界、仏界即九界」の一念三千の成仏を示されたのです。凡夫即仏・仏即凡夫の教えからみると、弥三郎夫妻は教主釈尊と同じであったのです。人情としても、誰もが疎む自分を暖かく守ってくれた温情は、父母であり釈尊と感じるものです。

 その後、伊東祐光一族は開宗して日蓮聖人に帰依します。日蓮聖人を川奈から伊東に移し、裏山にある毘沙門堂を庵室として庇護したといいます。この伊豆流罪中の謫居である毘沙門堂跡は、伊東祐光の先祖である祐親が、城塞の鬼門封じのために造作したものでした。日蓮聖人が約三年間、過ごされたこのところに海中山仏現寺が建てられました。しかし、その十数年後に伊東祐光は退転して、法華経の信仰を捨ててしまいます。伊東祐光の室は二人いて、その一人の後藤佐渡前司基綱の娘、三川内侍(みかわないし)が、阿弥陀堂加賀法印定清の姪にあたります。のちに、三川内侍の子供頼演は、定清の阿弥陀堂の別当となっていますので、三川内侍の関係から念仏者・真言師となったといいます。(『本化聖典大辞林』上。四三五頁)。『弁殿御消息』にこのことをのべています。 

「伊東の八郎ざゑもん、今はしなの(信濃)のかみ(守)はげん(現)にしに(死)たりしを、いのり(祈)いけ(活)て、念仏者等になるまじきよし明性房にをくりたりしが、かへりて念仏者・真言師になりて無間地獄に堕ぬ」(一一九〇頁)

日蓮聖人はこの「立像釈尊」を随身仏として生涯おもちになりました。鎌倉の草庵に戻られてからは本尊として勧請し、「立像釈尊」の仏前に一切経を安置していたことが、つぎの『神国王御書』にうかがえます。 

「小菴には釈尊を本尊とし一切経を安置したりし其室を」(八九二頁)

 また、池上にて示寂されたときにも枕頭に臨滅度時の曼荼羅と共に、この「立像釈尊」が安置されるほど大切にされた、大事な仏像であったことがうかがえます。のちに、京都の本圀寺に伝わります。

この「立像釈尊」について、海上から出現したものではないという説があります。また、この「立像釈尊」は以前から持っていたという説と、伊豆において造られたという説があります。はじめの説は『五人所被抄』に、「先師所持之釈尊者、忝弘長配流之昔刻之、弘安帰寂之日随身」(『宗全』第二巻八三頁)の文によります。そして、この「立像釈尊」は伊豆において、日蓮聖人が自刻(造像開眼)されたという説です。重須の学頭である日順上人は、「聖人、海の定木を以って一体の仏を造り、佐渡の国へも御所持・御臨終の時は墓側に置けと云々」(「日順雑集」『富士宗学要集』第二巻九二頁)と、「定木」(定規?として使用する、くるいのない木か不明)を仏像としたとのべています。いずれにしましても、日蓮聖人は伊豆をはじめとして、終生、「立像釈尊」を本尊とされ、随身仏として大事にされています。(『神国王御書』八九二頁、『忘持経事』一一五一頁)。

 □『同一鹹味御書』(二七)

 『同一鹹味御書』(どういつかんみ)は、伊豆流罪中の書状とされています。『本満寺本』の写本が伝えられおり、宛先は日朗上人、また、熱原法難の関係者といわれていますが不明です。熱原法難の関係者とするのは、熱原の禁獄事件がおきた弘安二年とするためです。(『高祖年賦』)。これは、本書に、「禁獄を被る法華の持者は桶瓶の中の鹹の如く」(二三三頁)の文によります。真偽について検討をすべきといいます。(『日蓮聖人遺文辞典』歴史篇七八六頁)。

 

○良観の進出と重時の死去 

このころ良観は時頼・長時の帰依を受けて鎌倉に入り、清涼寺釈迦堂に住して時頼の病気平癒を祈り、修営された極楽寺に入ります。金沢実時は一〇月に、南都西大寺の叡尊を招請する書状を、見阿という僧にもたせ西大寺に向かわせています。(尾崎綱賀著『日蓮』八八頁)。このときは辞退しています。そのご、弟子の定舜や、翌年の正月にふたたび見阿が招請の書状を持参します。この書状の内容は、天変地異と飢饉疫病を鎮めてほしいというものでした。この書状は良観が時頼に働きかけたともいわれています。良観の関東下向に奔走した効果があり、老僧の叡尊は鎌倉に下向することを承諾し、翌年の二月に鎌倉に入ります。

時頼が叡尊や良観を必要としたのは、政治上のことであったといい、農民や武士と商工民や遊芸民などの社会勢力を治めるために、戒律を重視する真言宗を保護したといいます。(『日本仏教史中世』七一頁)。日蓮聖人のように法華経を真実とし、法華一経に帰宗すべしと説く主張は排他的であり、民衆を統治したい幕府の政策上には、適していないと判断されたのでした。幕府において重要なことは、仏教の真実はなにかという正義を求めていなかったのです。幕府の政治上における僧侶の社会的な影響力を、必要としていたといえます。

 一一月三日に重時が死去しました(六四歳)。六月一日に重時が倒れていらい、八幡宮の別当隆弁の祈祷や、真言律宗の良観は重時の病気平癒ために祈祷をし、六月の末にはいったん本復したといいますが、病勢が強まり一一月三日に卒去しました。葬儀の導師は念仏の師修観ではなく良観でした。良観は師叡尊の戒律主義と違い、真言の祈祷をし念仏も信仰していました。日蓮聖人のように法華専持を説き他宗を排斥するのは、末法においては異端とされたのです。鎌倉新仏教運動のなかに、選択・専修の方向と、これとは逆に総合化を目指す路線があったのです。(船岡誠著「栄西における兼修禅の性格」『鎌倉仏教の様相』所収一〇八頁)。

重時の死は念仏宗徒にとって、巨大な庇護者を失うことでした。重時の死去は鎌倉の弟子から日蓮聖人に伝えられました。日蓮聖人は重時を政治家としては尊敬しても、信仰の立場からは批判しています。本書に、

「法華の持者を禁(いましむ)るは釈迦如来を禁むるなり。梵釈四天も如何不驚給。十羅刹女の頭破作七分の誓ひ此の時に非んば何の時か果(はた)し給べき。禁獄せし阿闍世早く現身に大悪瘡を感得しき。法華の持者を禁獄する人、何ぞ現身に悪瘡を感ぜざらん耶」(二三三頁) 

と、死の原因は法華経の持者を禁獄したことによる諸天の計らいであるとのべ、譫妄状態は現身に悪瘡を感得したことで、それは謗法堕獄の現証であるとのべています。

 とうじ、もっとも栄えていたのは律宗でした。西大寺を中興したという叡尊は真言律宗の祖といわれ、戒律を重んじた宗教活動をしていました。また、社会事業にも力をいれ律宗を布教し九万七千人に受戒したといいます。幕府の要職にも叡尊の教えが受け入れられ授戒していきます。そのあとを引き継いだのが良観でしたので、幕府との結びつきが信仰を通して深まったのです。これについては後述します。

・四一 弘長年 一二六二

伊豆流罪中の日蓮聖人の処置は、『日蓮聖人御伝土代』によりますと、「ソノ国ノ念仏者等アタ(仇)ヲナシ、ドクガイ(毒害)ヲオモヒ、毒ノキノコヲモチキタツテ聖人ニ奉ル」と、念仏者たちの迫害は、毒害をくわえようと企てていたほど執拗であったことがうかがえます。(冠賢一著『日蓮の生涯と思想』二八頁)。しかし、流罪中の身であり、外部との交流は制限されていたと思われますが、伊東祐光の庇護により比較的に自由であったようです。小湊・鎌倉、伊東と、潮の香りと波の音、そして、温暖な気候にめぐまれ、昼夜「持経」に精励されたのです。

 日蓮聖人は伊豆流罪を契機として、この越年のあいだに、宗義の大綱となる教理を著していきます。著作は『四恩鈔』・『教機時国鈔』・『顕謗法抄』があります。船守弥三郎が「紙しなじな」(二二九頁)を当初、内密に届けていました。これは、日蓮聖人が手紙を出して要望されたようです。その後は安定した生活をされていますが、著作が少ない理由として、流罪人の制約があったと思われます。しかし、著述の内容は「法華経の行者」観を切り離しては成立しない、「事一念三千」の現実性、そして、謗法堕獄論が展開しています。

日蓮聖人は立教開宗いらいの六〜七年は懈怠があり、自分のための学文をし、また、法難に遮られて経を読むことは一日に一巻一品、あるいは、南無妙法蓮華経と題目を唱える、唱題のみが続いていたと述懐しています。これは、いかに伊豆流罪が法華経の如説修行として、功徳が大きいかを促すための言葉とうけとれます。毘沙門堂跡を庵室として過ごされている間に、鎌倉などから供養の品が届けられ、弟子・信徒の往来もあったようです。

工藤吉隆は天津から、たびたび日蓮聖人を訪い、供養のまことをつくしたといいます。安房の父母や信徒を代表していたと思われる工藤吉隆氏に、日蓮聖人は『四恩抄』を宛てて感謝されています。 

○工藤吉隆 

 工藤吉隆(一二三三〜一二六四年)は左近丞吉隆といい、父は小四郎行光です。房州天津の領主をしていました。左近尉というところから北条得宗家の家人であり、地位のある地方の官職であったといいます。工藤吉隆は建長八(一二五六)年、鎌倉において日蓮聖人の説法を聴き、朋友の、荏原義宗、池上宗仲、四条頼基、進士善春らとともに、念仏を捨てて日蓮聖人に帰信したと伝えますが、天津は小湊・清澄寺に近いことや、白浜御厨(天津小湊町「東条御厨」)は工藤氏が管理していました。

前にものべたように、日蓮聖人はこの東条の「御厨」がある安房を、天照大神が棲む神域とし誇りとしています。この「御厨」を通じて、吉隆親子とは旧知の間柄であったことが考えられます。吉隆は一一歳年少でした。また、房総方面を布教していたときに縁があったとも思われますが、小松原法難において殉教するほどの信仰を持つことを考えますと、父母の代から親交があったといえましょう。

(工藤氏『岩手県史』・『日本人名大辞典』など)

         (駿河守)(〃)          (伊東氏)

藤原為憲―時理――維景――維職―維次――家継――祐家―祐親――祐清―祐光(河津・備中伊東氏へ)                        ―祐継――祐経―祐時――祐朝

―祐兼(伊豆氏)

―祐茂(宇佐美氏へ)

―助信(長野氏・矢野氏へ)

―家光(林氏・鮫島氏へ)                        ―茂光――宗茂―宗時(狩野氏)

                       (狩野氏)―行光―光時(狩野氏)―親光―家光(狩野氏)(工藤庄司)(工藤中務)(中務)

       ―景任―資広―行景―景澄―景光――行光――――長光                                 ―吉隆

日蓮聖人が弘長元(一二六一)年五月に、伊豆伊東に流罪されると、たびたび慰問され供養しています。それは、工藤吉隆は伊豆の狩野氏の一族で、この狩野氏は伊豆で海上活動をしていました。吉隆と伊豆の一族との交流が、海上交通を手段として継続していたと思われます。ゆえに、伊東の日蓮聖人を尋ねることができたのでしょう。工藤吉隆の恩義を感じ、このときに与えられたのが『四恩抄』です。のちの、文永元年(一二六四)一〇月に、日蓮聖人は父の墓参と、母の病気見舞いのため房州小湊に帰省し、母を蘇生をされ四年の寿命をのばされたました。そして、一一月一一日、天津の領主、工藤吉隆の自邸に向かう途中の東条の小松原において、かねて日蓮聖人に敵意をもっていた東条景信と、その手勢数百人の襲撃を受けます。これを小松原法難といいます。

このとき、日蓮聖人は頭部に三寸の傷を負われ、付き添っていた弟子十数人のうち、鏡忍房は討死、他の二人も重傷を負います。急を聞いて駆けつけた工藤吉隆もこのおり戦死しました。日蓮聖人は、妙隆院日玉と法名をあたえ工藤吉隆の殉教死を悼んでいます。工藤吉隆は存生の時から、懐妊中の妻の生まれる子供が男子ならば、聖人の弟子としていただきたい願っていたので、生まれた男の子を日蓮聖人の弟子とします。のちの、小松原鏡忍寺第三世の日隆上人です。伊豆流罪中における吉隆の深い信仰と給仕がうかがえます。

 

○江川義久

 また、伊豆在中に江川義久(太郎左衛門英親)が日蓮聖人と再会しています。江川一族は大和五條の出自でかつて泉州(和泉、大阪市南部)に住んでいました。日蓮聖人が二七歳の比叡山修学のおり日蓮聖人は高野山の修学をおえ、江川氏の邸宅に数日、宿泊し、このときに縁を結んでいました。九代親信の頃に伊豆江川に定着し、十代治長は頼朝の旗揚げに参加しています。

 一六代の江川英久氏はのちに八牧郷江川(静岡県田方郡韮山)に移住し、鎌倉幕府に仕えたといいます。日蓮聖人が伊東に配流されていることを聞き、度々の供養をされています。『豆州志稿』によりますと、このときに受戒をし優婆塞日久と名のっています。また、家の修復工事にとりかかり、日蓮聖人から自筆の火除の棟札(「火伏の曼荼羅」)を受けたと伝えています。『高祖年譜攷異』に、「弘長中大士ニ依テ受戒ス。弘安二年本尊及ビ法号ヲ賜。日久ト号ス。家ニ又梁牌(むなふだ)本尊ヲ蔵ス」とあります。子息の英方が遺言にしたがい大乗庵を邸内に造り、日蓮聖人の尊像を安置されたのが本立寺の由緒となっています。