135. 『四恩抄』・『教機時国抄』                         高橋俊隆

『四恩抄』(二八)

一月一六日付けにて、三〇歳の工藤吉隆に宛てた書状です。『朝師本』の写本が伝えられています。伊豆流罪中のことを知らせていることから、『伊豆御勘気抄』ともいいます。本書に、

「此流罪の身になりて候につけて二つの大事あり。一には大なる悦びあり。(中略)第二に大なる歎きと申すは、(中略)我一人此国に生まれて多くの人をして一生の業を造らしむる事を歎く」(二三三頁) 

と、日蓮聖人は王難として伊豆流罪に処せられたことについて、「法華経の行者」としての確信を得ました。その悦びと嘆きの二つについてのべています。悦びは末法に法華経を弘める者には、必ず値難があると法華経に説かれ、値難は正しいことの証明であるという、その法華経を色読したことです。嘆きは日蓮聖人を謗った相手に、不本意とはいえ罪を作らせてしまったことです。前者の悦びとは第六天魔王を最上とする「三障四魔」に打ち勝ち、法華経の法師品の「如来現在猶多怨嫉況滅度後」の経文を自身に経験したことでした。 

「始に此文を見候し時はさしもやかと思候いしに、今こそ仏の御言葉は違はざりけるものかなと、殊に身に当て思ひ知られて候へ(中略)去年の五月十二日より今年正月十六日に至るまで、二百四十余日の程は、昼夜十二時に法華経を修行し奉ると存し候。其故は法華経の故にかかる身となりて候へば、行住坐臥に法華経を読み行ずるにてこそ候へ。人間に生を受て是程の悦びは何事か候べき」(二三五頁) 

と、のべているように「昼夜十二時の法華経の持経者」になったことです。法華経の持経者という修行僧は、すでに平安時代からありました。日蓮聖人は自ら法華経の行者と名のることは、観念観法の持経ではなく、三障四魔が命を狙って襲いかかったという、現実の体験から発せられています。いわゆる、理から事へ移行した、「事一念三千」の行者意識の表明といえましょう。そして、仏法を修学する者は四恩を報ずることが大事として『心地観経』の一切衆生の恩・父母の恩・国王の恩・三宝の恩をあげます。この『心地観経』を引用したのは、『梵網経』などと共に円頓戒を受けるには四恩を報ずべきことが説かれているからで、この『四恩抄』の四恩について、日蓮聖人は独自の解釈をしています。

すなわち、一切衆生の恩とは法華経不信の悪人がいることによって、「衆生無辺誓願度」という菩薩の誓願行ができるのであるから、一切衆生の恩があるとします。父母の恩は父母が自分を産んでくれたことにより、法華経を信じさせてくれた恩があるとします。国王の恩は天地の恵があって身体を養うことができ、さらに、今の国王とすべき鎌倉幕府が、日蓮聖人を流罪したことにより、自身を法華経の持者としてくれたことは国王の恩であるとのべます。そして、三宝の恩として、釈尊が末法に法華経を弘める者を守護すると誓った仏恩があるとのべ、仏が貴いのは法によるのであるから、仏の師である法の恩を報ずべきであるとします。僧の恩として、仏恩・法恩は僧が正像末と習い継承したからこそ伝えられたのであるとして僧の恩をのべ、総じて三宝の恩を示しています。日蓮聖人が四恩を説かれたことは、法華経を身読した悦びを示したと思われます。つまり、出家した目的である四恩に報謝できたことに、感慨無量の気持ちを著し、日蓮聖人に帰依する者たちへの信心勧奨と、その功徳についてのべたのです。

つづいて、後者の嘆きについては法師品に法華経の持者を毀謗すると、「其罪甚重」であるという文と、不軽軽毀の者が改悔しても千劫阿鼻獄に堕ちたことをあげて、日蓮聖人を毀謗した者もどうようであることをのべて、謗法堕獄について教示しています。なを、本書は末尾が欠失して、このあとに信謗・順逆ともに下種結縁となって救われるという下種論と題目の受持論が展開すると思われます。『健鈔』に、本書は吉隆とほかに三人のために与えられたとあります。四恩をもとにしますと、道善房・領家の尼・父母・吉隆の親族の近辺が考えられます。

□『教機時国抄』(二九)

 つづいて、二月一〇日に、『教機時国抄』を著して五義判を始めて発表されました。原文は漢文体で真蹟は現存しませんが、『録内御書』第二六巻に収められ、行学朝師(一四二二〜一五〇〇)の写本が残っており、日蓮聖人の初期の教学を知る遺文とされています。

注目することは、本書においてはじめて「本朝沙門日蓮註之」と書かれたことです。『立正安国論』に「天台沙門」と自己の立場をのべたのが、この伊豆流罪を境として「本朝沙門」にかわります。教学においては禅宗批判が顕在化されます。また、附順天台であったのが『唱法華題目抄』において、はじめて真言宗批判がなされ、本書も天台・真言未分と訣別すると書といわれます。

「五教判」とは五義・五綱といい、五綱という呼称は優陀那日輝上人の造語です。「五義」とは教・機・時・国・教法流布の先後の五つで、教法流布の先後を序ともいいますこの五義をこころえて弘通しなければ、正しい教えは広まらないとします。宗旨建立の正統性を示す教えです。(『日蓮聖人遺文辞典』教学篇二九〇頁)。本書は五義のそれぞれの説明をし、末法における成仏は、法華経でなければならないと結論します。その法華経を広めるには三類の強敵があり、死身弘法の覚悟がいるとのべています。

「教」とは、仏教全般のなかに浅深があるのは仏説によるもので、法華経の方便品に、大乗の法華経を説かなければ慳貪の罪になるとあり、一切経のなかの第一の経王と知ることが知教であるとして、「知教」者の意識をのべています。(教法の浅深

「機」とは、仏教を弘めるには機根(性質・能力)を知って説かなければならないことをいいます。しかし、末法は機根を知らない凡師ばかりであるから、法華経を説かなければ邪見を起こさせてしまうとします。末法の無智・謗法の者には法華経を説くということが「知機」で、その根底となるのは不軽菩薩の「毒鼓の縁」であり「逆縁下種」であることを、

「問云無智人中莫説此経文如何。答云知機智人之説法事也。又向謗法者一向可説法華経。為成毒鼓縁也。例如不軽菩薩。(中略)知愚者必先可教実大乗。信謗共為下種也」(二四二頁)

と、法華不信の者であっても、「毒鼓の縁」(法華経)が下種となると述べています。ここには、末法の衆生を仏種を失った「本未有善」とすることにより成立します。仏種も善も大乗を信仰することであり、大乗の修行をできない者は、妙法蓮華経の題目を唱えることにより、この仏種を下種されると説きます。これを「末法下種」といいます。日蓮聖人は末法の衆生においては、過去に善がないため、法華経を謗るという縁においても下種を認めたのです。法華経が仏種となることを教えています。(教法受容者の機根)。本書においては無智・謗法の者には、不軽品のように一向に折伏であることを述べています。

「時」とは、仏教を弘めるには、例えば農作物を豊富に育てるには種を蒔く時期があるように、仏法を広めるにも「時」(歴史・最適な時)を知らなければならないとします。これを弁えなければ悪道に導くことになるとのべます。釈尊が四十余年のあいだ法華経を説かなかったのは、その時期ではなかったからであると証文を引きます。そして、末法無戒とはいっても法華謗法の者に供養すれば、三災七難が起き無間地獄に堕ちるとのべ、末法に入って二一〇余年は釈尊の滅後「後五百歳」にあたり、法華経の広宣流布のときであるとのべています。(時代の変遷)

「正法捨破戒無戒可供養持戒者。像法捨無戒可供養破戒者。末法供養無戒者可如仏。但謗法華経者正像末三時亘持戒者無戒者破戒者共不可供養。供養必国起三災七難必可堕無間大城也」(二四二頁) 

「国」は、仏教を広める場所をいいます。つまり、その国の歴史や思想等の状態をみて、その国に適した仏教を見極めることをいいます。大乗の教えが定着している日本は、大乗のなかでも法華経を弘めるべき国であるとのべています。(三二四・八八二頁)。この日本国を法華有縁の所とのべるのは、日蓮聖人の特徴のひとつです。娑婆は釈尊の所領であるという大きな立場から、日本の国主はその所従であり、釈尊の教えをまもる義務があるとします。(国の特性)

「教法流布の先後」は、教えの説き方をいいます。小乗・権大乗教が弘まっていたなら実大乗教を弘め、実大乗教が弘まっているのに小乗の教えを弘めるのは、金珠を捨てて瓦礫を大切にするようなものと例えます。つまり、浅い教えから深い教えに導くことで、教機時国の四方面の視座から推考することです。(教法の流布する順序次第)つまり、教えは人間性や時代、そして、国家の歴史などを考慮して、最適な方法はなにかを判断することをいいます。そして、この「五義」を規範として仏法を弘通すれば、日本国の「国師」(二四三頁)となるとのべます。これは、日蓮聖人が名誉を望んでの発言ではなく、高僧として日本の繁栄をもたらし、朝廷から諡号を賜るほどの教えであることを示したのです。

知教―法華経は一切経の第一の経王(二四三頁)

知機―一向法華経の機根。霊山八年の純円の機根と同じ(二四四頁)

知時―後五百歳妙法華経広宣流布之時刻二四四頁

知国―日本国一向大乗国。大乗中可為法華経国(二四四頁)

 そして、この「教法」を法華経に限定します。鎌倉時代の各宗の祖師も、機根は劣機鈍根、時代は末法悪世、日本は悪国辺土、教法も悪法蔓延という、五濁悪世を説くところは共通しています。しかし、法然は現世を放棄し、来世の浄土に往生すると説きますが、日蓮聖人は今こそが、釈尊の留め置かれた法華経を説く時とします。よって、「流布の先後」は法華経の広め方と、それを広める者に焦点があてられます。このとき、「教法流布の先後」は法華経を広める順序という意味で、これを「序」と称します。さらに、「序」は日蓮聖人を主体として「師」へと置き換えられていきます。これを、「序から師への転換」といいます。

換言しますと、「序」は、『教機時国抄』・『顕謗法抄』、同時代の『当世念仏者無間地獄事』・『南条兵衛七郎殿御書』に、「教法流布の先後」、「仏法流布の前後」・「弘法用心」(二六三頁)と、のべられています。しかし、佐渡流罪を契機に「序」は後五百歳の「時」を焦点とします。その「時」を担う者こそ「師」、即ち日蓮聖人という自覚になっていきます。

いわゆる、末法意識に集約されていると見た場合です。それは、「教法流布の先後」が仏(釈尊)の未来記として鑑みるときに、法華経の行者として経文を色読することは、末法の「師」であると展開していきます。これを、「序から師への転換」といい日蓮聖人の教学の特出したところです。すなわち、『教機時国抄』は、佐渡流罪にいたるまでの法華経の行者としての自覚を明確にし、教義の体系を確立したといえましょう。

このように、日蓮聖人は法華経を末法に弘める必要性を、五義の教えによって論証されています。そして、伊豆流罪を契機に本書に、重要なことを明らかにします。

「法華経勧持品当後五百歳二千余年法華経敵人可有三類配置。当世当後五百歳。日蓮勘仏語実否三類敵人有之。隠之非法華経行者。顕之身命定喪歟」(二四五頁) 

と、法華経に身命をかけて弘めることの意義をのべ、そして、自身が法華経を広める者は迫害に値うという法華経の身読者、「法華経の行者」としての自覚に立っていることがうかがえます。『四恩抄』に持経者とのべた意識は、一ヵ月の後に、行者として自覚を高められたことが窺えます。

本書に「三類敵人」とは、前にのべたように勧持品の「三類の強敵」のことです。伊豆流罪を経験して、本書に具体的に捉えられます。とくに留意すべきことは、「数数見擯出」の文です。擯出とは流罪のことをいいます。悪口・杖木の加害は常のことですが、「王難」による流罪は特異な身読です。この勧持品の文は周知のことであるので、つぎの文をあげます。

而此経者如来現在猶多怨嫉。況滅度後法師品)。一切世間多怨難信(安楽行品)

我不愛身命但惜無上道(勧持品)。不自惜身命(如来寿量品)

 末法に法華経を弘通することは、怨嫉(迫害)が多いこと。民衆も法華経を信ぜず怨敵となること。しかし、「不惜身命」の決意をもって弘通すること。

譬如王使善能談論巧於方便奉命他国、寧喪身命終不匿王所説言教。智者亦爾。於凡夫中不惜身命要必

宣説大乗方等(涅槃経第九)

寧喪身命不匿教者、身軽法重、死身弘法(章安大師)

 『涅槃経』の文は、王命により他国に派遣された使者は、身命を失おうとも王の命令を果たすように、仏の教えを広める者は、「不惜身命」の決意を持たなければならない、という文です。これを、章安大師は、「身は軽く法は重い」のであるから、死身に弘法することと、解釈した文をあげたのです。そして、

「見此等本文不顕三類敵人非法華経行者。顕之法華経行者也。而必喪身命歟。例如師子尊者・提婆菩薩等云云」(二四五頁) 

 「三類の強敵」を現実に顕わすのが、「法華経の行者」である、それには、王のために首を刎ねられた師子尊者や、外道に怨まれて殺された提婆菩薩のように、「不惜身命」・「死身弘法」であるとの見解を示されます。この、覚悟と決意は、前述(第一部第六章「立教開宗」の前後)したように、日蓮聖人の関心が法難の具現にあったことです。身命を仏教に賭して実行することにあったのです。ここに、「王難」を克服した日蓮聖人の自負と、法悦があったのです。

そして、本鈔においてのべた「五義」の概要は、つづいて同年の『顕謗法抄』、文永元(一二六四)年、小松原法難直後の『南条兵衛七郎殿御書』(三一九頁)、佐渡期の『観心本尊抄』において深まりをみせます。さらに、佐渡流罪赦免後の『曽谷入道殿許御書』(八九五頁)において表明されていきます。「五義」の依文・順序については後述していきます。

このような視点からみると、近年の大日能忍(生没年不明。鎌倉時代初期の禅僧。自宗を日本達磨宗と称した)の禅宗と、法然・隆寛(一一四八〜一二二七年。長楽寺派・多念義の祖)の浄土教は「教法流布の先後」を知らない悪知識であるとのべています。念仏批判は『立正安国論』以前より行なわれていましたが、大日能忍が広めた禅宗を批判しています。『立正安国論』上呈のとき時頼に対面したときに、すでに禅批判はしていましたが、それは口頭のものでした。この時期に入り禅批判が顕在化されます。

これは伊豆流罪を契機に「法華経の持経者」(二三七頁)・「法華経の行者」(二四五頁)としての自覚を持つようになり、つぎの『顕謗法抄』にも「本朝沙門日蓮撰」と署名するように、教学に独自性が付加されてきたといえましょう。その独自な教学とは本書にみた五義であり、法華色読という経験に裏付けされて発展したといえます。

また、「天台真言の学者」(二四五頁)、つまり、天台と真言の密教も適宜の教えではないとします。これは『立正安国論』まで「法華・真言」(二一七頁)と、真言密教も正法であると与同していたことから離脱して、法華経のみを正法とします。「本朝沙門日蓮」と署名されたころから、天台・真言密教を批判し始め、天台宗からの独立が始まったといわれます。

真言宗に対しての見解をみてみますと、建長六年(三三歳)の『不動愛染感見記』(一六頁)には、「自大日如来至日蓮二三代嫡々相承」とあり、密教の相承を系譜する者として肯定的に受けとめています。正元元年(三八歳)の『守護国家論』には、「法華・涅槃・大日経等了義経也」と述べているように、法華経と大日経を同じ了義経としています。これは法華・真言未分の立場です。

前述しましたように、『唱法華題目抄』から真言宗批判が始まり、本書に「高野の弘法」(二四三頁)とのべ、次にのべる『顕謗法抄』において、空海が法華経よりも大日経が勝れているということを謗法と批判するようになります。宮崎英修先生が指摘するように、本格的な東密に対する批判は、『顕謗法抄』に見ることができます(『不受不施派の源流と展開』)。東密に対しては伊豆流罪以降、台密批判は佐渡以降となります。

なを、『四恩抄』の末文の欠失したところは、本鈔の「信謗共為下種」、つまり、いかなる法難があっても、仏縁を結ぶ下種の教えがのべられていたと思われます。日蓮聖人は教団の統一した見解である本書を、二月一〇日に書き終えられます。これを伝える鎌倉の日昭上人のもとに送られたといいます。

○叡尊の鎌倉下向

この二月に良観の師である思円叡尊は北条実時の招きにより鎌倉に下向します。叡尊は律宗の復興者で、奈良の西大寺に住していました。弟子の良観とは一〇年ぶりの再会となります。この前年の弘長元年一〇月に北条氏一門の金沢実時は、叡尊の鎌倉への下向を望んでいました。

この年に時頼とともに再び叡尊の鎌倉下向を、懇請したことに応じたものでした。六二歳の叡尊は二月二七日に鎌倉に入り、新清凉寺(釈迦堂)に逗留します。七〜八月まで布教をします。忍性・頼玄などの応援を得て、『梵網経古迹記』の講義をおこないます。とくに、半年ほどの教化で時頼・実時をはじめ名越朝時とその子江間光時・教時が受戒しました。

さらに、極楽寺入道重時以下の、長時・善政・業時などの北条氏の一門が、睿尊より戒を受けていました。叡尊から授戒された婦人は、最明寺入道の室(重時の娘)・小野三郎の母(足利左馬入道の娘)・一條局(大納言通方の娘、将軍の乳母)・美濃局(土御門顕方の母)・奥州禅門後家(重時の室)・右衛門督局・政村の両妻(本妻の如教、新妻の遍如)・政村の室姉尼健念・妻御方・少輔局・城介泰盛の妻(重時の娘)・重時の第二妻・越後守実泰の室・時茂(重時の子息)の妻・中務権太輔の母・伊勢入道の妻・和泉左衛門の後家・越後守実泰の旧妻・越前守時広の妻(相模三郎入道の娘)などがいます。(蛍沢藍川著『日蓮聖人の法華色読史』一四〇頁)。

また、執権の長時、連著の政村以下の北条一門の家族たちも受戒しており、これら、菩薩戎・八斎戎を受けた要職者たちは、良観の信者として、日蓮聖人を迫害した人たちと思われます。また、将軍宗尊親皇も帰依し、建長寺の蘭渓道隆や、浄土教の長老である念空道教も受戒しています。叡尊の影響は鎌倉の市民にもおよびました。

叡尊の鎌倉下向は、天変地異と飢饉疫病を鎮めるためであるといいますが、この背景には鎌倉の念仏僧は破戒し、そして、他宗誹謗の法華僧らが横行していたためであるといいます。これは、日蓮聖人のことを言っています。つまり、こうした仏法を是正するためには、戒律によるしかないと鎌倉の為政者が考えたという意見があります。日蓮聖人は各祖師の誤った仏教解釈を是正したもので、安易な他宗誹謗という言葉はあてはまりません。

叡尊の教化活動は民衆にもおこなわれます。戒律を守ることの意義を説くものでした。六月の末に猛暑のため体調をくずします。良観たちが代わりに授戒を行います。六月二九日に幕府は、引付衆を五万から三万に縮小しています。体調が回復した叡尊は、八月一五日に西大寺に帰着しています。この奈良から鎌倉への約半年間の滞在の記録を綴ったものが、随行の弟子、性海による『関東往還記』(おうげんき、おうかんき)です。

良観は師の下向にあわせて三月に建長四年に住した常陸国三村寺(清涼院。茨城県つくば市)から鎌倉に入ります。良観は師の布教を助け、叡尊が去ったあと北条業時の請いにより、泉ヶ谷に多宝寺を創建して住持となり、鎌倉に止住することになります。そして、道教が叡尊に帰依したことと、その叡尊にかわり良観が授戒師となったことで、良観は鎌倉の律僧・念仏僧の中心的人物となります。さらに、北条氏一門を指導する立場となり、真言律宗をひろめていきます。幕府の上層部と結び利権を得ようとする良観は、着々と手腕を発揮していました。良観に最初に帰依したのは重時といいます。((尾崎綱賀著『日蓮』八七頁)

良観はその五年後に極楽寺に移っています。多宝寺は覚賢が継いだと思われ、極楽寺・称名寺と並ぶ、西大寺系律宗の拠点寺院となっていきます。その後、火災などで廃屋になり、昭和四九年に日蓮宗妙伝寺がにここに移転してきます。