137.伊豆流罪赦免                               高橋俊隆

・四二歳 弘長三年 一二六三年

○伊豆流罪赦免

 伊東の生活は流罪人とはいっても、領主の病気平癒の効験が大きく、日蓮聖人は優遇を受けたといいます。(高木豊著『日蓮―その行動と思想―』六七頁)。『四恩鈔』に、

「十二時に法華経を修行し奉と存候。其故は法華経の故にかゝる身となりて候へば、行住坐臥に法華経を読行ずるにてこそ候へ。人間に生を受て是程の悦は何事か候べき。凡夫の習我とはげみて菩提心を発して、後生を願といへども、自思ひ出し十二時の間に一時二時こそははげみ候へ。是は思ひ出さぬにも御経をよみ、読ざるにも法華経を行ずるにて候か」(二三六頁)

 

と、のべている文面から、警護の者がいて、身心ともに安定していたとうかがえます。また、法華経の読誦にいそしむ信仰の悦びと、思想体系の確立をもたらす環境にあったといいます。(岡元錬城著『日蓮聖人―久遠の唱導師』一六八頁)。しかし、その反面、積極的な教化と著述活動がみられないといいます。(高木豊著『日蓮攷』三二六頁)。大事なことは、日蓮聖人において伊豆法難は同じ値難でも、俗衆と道門増上慢とは違う王難による流罪ということでした。法華経の法師品や勧持品には、末法に法華経を広める者は諸難に値(あ)うと説かれています。過去の法華経の行者と思われる天台・伝教大師と違うのは、流罪(「数数見擯出」)を身読されたことです。伊豆流罪の意義は、持経者の意識から、「法華経の行者」と認識されたことにあります。

 さて、赦免の月日については『報恩抄』と、文永五年四月とされる『断簡』(一七七番)に、

「弘長三年癸亥二月二十二日ゆり(赦)ぬ」(一二三七頁)

 

流罪せられ、弘長三年癸亥二月廿四日御赦免」(二五三三頁)

 

と、のべていることから、二月二二日付けで、伊豆流罪の赦免状が発せられ、日蓮聖人のもとに赦免状が届き正式に赦免されたのは二四日であることがわかります。日蓮聖人は一年九ヶ月の伊豆流罪を赦免されました。伊豆流罪は重時の策であり、執権長時の施行によるものでしたので、時頼は干与していませんでした。この赦免は時頼が幕府内の情勢をみての判断で、時頼の裁量によるものと日蓮聖人はみています。『破良観等御書』に、

「最明寺殿計りこそ、子細あるかと、をも(思)われて、いそ(急)ぎゆる(赦)されぬ」(一二八六頁)

 

と、のべているように、時頼は松葉ヶ谷法難や伊豆流罪に無言でしたが、近臣の進言もあって道理を考慮しての赦免とうけとめています。日蓮聖人を流罪に決めた重時の死後、一周忌を経てのことだったので、日蓮聖人はこの赦免を時頼のはからいとみたのです。また、『下山御消息』に、

 

而謗法一闡提国敵の法師原が讒言を用て、其義を不弁、左右なく大事たる政道を曲らるるは、わざとわざはひをまねかるゝ歟。無墓々々。然るに事しづまりぬれば、科なき事は恥かしき歟の故に、ほどなく召し返されし」(一三三一頁)

と、のべているように、時頼は周囲の日蓮聖人排撃の沈静したのをみて、念仏信徒の私怨による流罪であり、日蓮聖人に罪科はなかったと判断したとのべています。貞永式目を順守した時頼の裁断としています。時頼にしますと長時よりも重時の存在が大きかったのです。ただし、時頼は三月一七日に善光寺に不断経衆・不断念仏の粮料を寄進しています。八月二五日に病床に伏します。

○赦免後の歩み

赦免後、日蓮聖人は鎌倉の庵室に帰り赦免の手続きを済ませ、一門の統合、行学の教授、今後の対策を話し合われたと思います。(「名越の旧居に還る」『高祖年譜攷異』)。また、鎌倉に帰り居住したと思われるのは、松葉ヶ谷の庵室ではなく、日昭上人の庵室か信者の邸宅といいます。(影山堯雄著『日蓮宗布教の研究』二四頁)。

しかし、その後、鎌倉をはなれ安房方面に向かいます。鎌倉にもどるのは文永五年から七年といいます。文永二年から六年までは不明なところが多いのです。わかっているのは、この間の、おおよその歩みは、安房巡行と駿河下向です。「法華経の行者」の自覚と自信をもっての巡行であったと思われます。この間の歩みは教団の結束を強めたことは事実です。「二十余所をわれ」(四五五頁)と述懐されたのは、居住地を追放されたことです。伊豆流罪後に幕府から、数年のあいだ鎌倉市中に入ることを禁止されたとしますと、日蓮聖人の行動の理由がわかりやすいのですが遺文にはのべられていません。しかし、赦免後の歩みは各地にて、数週間から数カ月の滞在をされて教化をされたと思います。転々としたのは滞在できない事情が起きたとしますと、「所を追われた」ことになります。

伊豆赦免後の歩みを、小川泰堂居士の『日蓮大士真実伝』を基として調べてみます。ただし、川添昭二先生は小川泰堂居士の『高祖遺文録』は真偽をいちいち確かめて集成したものではないといいます。(『日蓮と鎌倉文化』六二頁)。しかし、多くの伝承を集め、それを整理して日蓮聖人伝を大成された貢献は大きなことです。

  ―赦免後の歩みー

弘長三年(四二歳)

二月二四日、赦免  鎌倉に帰る

一一月二二日に時頼が死去

日持上人が入門します

文永元年(四三歳)

四月一七日、大学三郎の妻に『月水御書』を送る。同月『題目弥陀名号勝劣事』

七月『法華真言勝劣事』を著す

七月五日、鎌倉に『彗星出現」(『安国論御勘由来』(四二三頁)・『断簡』一七七)

八月二一日、長時死去

小湊へ帰省(八月・九月・一〇月の説があります)

八月、小湊の母の病気平癒・父の展墓・片海地方を巡教

男金実信と会う(妙蓮尼の病気見舞いにきた)

九月二二日、東条花房の蓮華寺にて浄円房と会う。『当世念仏者無間地獄事』を著す

同月以降、天津、上総興津などの知友信者を歴訪

一〇月一四日に東条花房の蓮華寺にて道善房に会う(と思われる)

一一月一一日小松原法難

工藤行光、日蓮聖人を迎えに行く *東条景信死去の後か*

吉隆の葬儀をする 日玉上人

日澄上人 真言寺の住持と問答 住持日宗となるー日澄寺とした

一二月一三日『南条兵衛七郎殿御書』を送る

 文永二年(四四歳)

   三月八日南条七郎死去(『仏祖統紀』)を知らずに巡教

海上郡鼻和(千葉県旭市塙)の真言宗の寺を改宗。蓮乗寺(蓮城寺)。住持日正と名のる

四月一三日野州那須(栃木県)温泉にて湯治

藤原の里主、星正治郎が帰依し、自邸を藤原山清隆寺とする。

宇都宮市仲町の君島氏を宿とし、君島氏の老母妙金が帰依する。のちに法光山妙金寺を建てる

宇都宮の城主、下野景綱の姉が帰依し妙正と名のる。文永一一年に長宮山妙正寺を建てる

六月三日安達義景一三回忌 無量寺隆弁導師 法要中に大風大雨にて本堂の梁くじける

参詣者多く即死、亀が谷の山も崩れ堕ちる

七月一一日、上野殿後家尼に手紙を送る(文永一一年と思われる)

八月一七日 相模武蔵大地震

一〇月初め、勝浦市興津の星名五郎の主人、佐久間重貞が釈迦堂に招く

このころ日向上人入門(男金・鴨川市和泉)

一〇月一五~二五日 十日説法 一門改宗する。広栄山妙覚寺

七歳の長寿麿、竹寿麿(貫名重忠の養子)が得度、日家・日保上人

一二月四日の夜 彗星文永元年より広大 七十余度起きる

一一月、天津工藤氏宅に向かう一周忌法要

一二月清澄寺にて越年

文永三年(四五歳)

一月六日、清澄寺(『法華題目抄』四〇五頁)

一月一一日、保田から秋元氏に書状を送る

(▲鎌倉に帰る■南条氏の墓参

文永四年(四六歳)

八月一五日、母の妙蓮尼が死去、

   小湊へ帰省

▼百日の喪を終えて、墓地のところに妙日山妙蓮寺、自邸を貫名山妙日寺

興津 佐久間重貞と会う

埴生郡上総長南町、笹森観音に宿泊

茂原墨田領主の高橋時光、庭谷山妙福寺(妙源寺)・

茂原の斉藤兼綱(日朝)自邸を妙光寺(藻原寺)、多古移転妙光寺

海上郡(旭市塙)蓮乗寺(蓮城寺)、野田、

宇都宮市仲町、君島妙金寺

野呂曽谷直秀 妙興寺

下総若宮の富木氏に居住する。日頂上人入門

一二月五日、興津の城主星名五郎氏に書状を送る。(佐久間兵庫の家臣)

富木氏宅にて越年

文永五年(四七歳)

一月一八日、蒙古国書京都に

春鎌倉に帰る?(『日蓮宗事典』)

四月五日、法鋻房に『安国論御勘由来』を送り蒙古について論ず

   五月一二日の朝 日輪二つ並び出る

八月 母の一周忌▼鎌倉と小湊往復 星名氏と会う『仏祖統紀』▲鎌倉在住

八月二一日、宿屋入道に書状を送る

一〇月一一日、『十一通御書』

文永六年(四八歳

三月一日、三位房に書状を送る。三月一〇日、日昭上人に書状を送る

五月九日、『問注得意鈔』を富木氏に送る

富士山に埋経(『高祖年譜攷異』)

一二月八日、『立正安国論』を書写する

文永七年(四九歳)

二月一四日 父一三回忌

九月二六日、『真間釈迦仏御供養逐状』を富木氏、一一月二八日に大田氏に『大師講』の書状を送る

一二月二二日、富木常忍氏に書状を送る。日持上人入門

文永八年(五〇歳)

五月、『十章抄』を三位房に送る

七月、行敏から問難書が届く

九月一〇日、平頼綱に検問をうく。一二日、竜口法難

二月の末に赦免をされ一旦は鎌倉に帰り、翌年の七月以降に安房へ向かったというのが通説です。伊豆流罪の赦免後にすぐに安房方面に向かったという説はないと思います。しかし、推理することもできましょう。その後、数年のあいだ鎌倉を留守にします。どのような理由があったのでしょうか。時頼の死去が影響したのでしょうか。彗星出現の奇異にあったのでしょうか。清澄寺を拠点としようとされたのでしょうか。今日、有力な説は文永元年に小湊から母の病気の知らせがあり、その見舞いのため安房に向かったという事柄です。

高木豊先生は、文永二年から六年までの現存の書状を、「二年―一、三年―二、四年―なし、五年―二、六年―六通」とし、これらのなかでは、母の死にふれていないとのべています。(『日蓮攷』一四七頁)。母親の妙蓮尼が死去したのは、文永四年八月一五日のことです。また、いったん、文永三年の春ころ鎌倉に帰ったといいます。(影山堯雄著『日蓮宗布教の研究』二五頁)。これは考えられます。母親の罹病を最大の理由としてみますと、母の病状が悪いのを聞いて小湊に帰省されていたが、病状の安定したのをみて鎌倉に帰り、翌文永四年八月、母の死去を聞いて再度、安房に向かった。そして、その年は富木氏の館に越年され文永五年に鎌倉に帰ります。

これまでは房総の教化でしたが、鎌倉に帰った日蓮聖人は、つぎに富士・甲州方面の巡教にでかけます。そして、鎌倉に帰ってくるのは『大師講御書』(四五八頁)の文面から、文永六年の末、あるいは、文永七年(四九歳)の一一月ころになります。文永七年の書状は一一月末(大田氏宛て)、一二月(富木氏宛て『富木殿御消息』『平成新修』一七〇頁)の二通があります。

伊豆流罪の後に下総曽谷(市川)の曽谷教信が入信したという説は、『法蓮鈔』(九四五頁)を宛てたときが、父親の一三回忌であったのを逆算して、弘長三年四月と推定したものです。

さて、三月一七日、時頼は信濃国深田郷を善光寺に寄進して、その収益を金堂の不断経衆・不断念仏を行う経費にあてています。時頼は病気であったことから、浄土往生を願ったといわれています。鎌倉の仏教界は良観の律が台頭していました。四月に高麗は、日本に沿岸を侵略しないようにと要請しています。八月一四日、諸国に台風・大雨が重なっての被害がありました。由比が浜の船が数十艘が破損漂没しています。

□『華厳法相三論天台等元祖事』(図録三二)

 弘長三年と伝えられている図録です。真蹟は六紙が中山法華経寺に所蔵されています。内容は華厳宗・法相宗・三論宗・天台宗・真言宗の元祖と相伝の人師をあげ、各宗の教学をまとめて抜書きしています。すなわち、華厳宗の五教教判、法相宗の三時教判と五性各別、三論宗の三時教判と三種法輪、天台宗の五時教判、真言宗の顕密二教と十住心について、経論釈を引いて図示しています。これらの図録は要文集とは違い、多くは日蓮聖人が弟子や信徒を教育したときに使用されたといわれています。

 

○時頼の死去

日蓮聖人が赦免されて九ヶ月後の、一一月二二日の深夜、戌の刻に時頼が三七歳で没しました。八月二五日からの病状が一一月一三日に更に重くなり、一九日には最明寺北亭に移り面会を禁じました。二〇日には御内人の腹心で祇候人といわれる、武田五郎三郎・南部次郎・長崎次郎・工藤三郎・尾藤太・宿屋左衛門尉・安東左衛門尉の七人だけが側に侍ります。そのなかに日蓮聖人との繫がりがある宿屋入道がいました。辞世の頌(しょう)は、「業鏡高く懸く三十七年、一槌打砕、大道坦然たり」。執権としての善政理念の夢と、得宗として生きる現実との矛盾に悩み続けた生涯であったと評します。(中尾尭文著『日蓮』八七頁)。

日蓮聖人の『立正安国論』の主張を黙視していたとはいえ、日蓮聖人には好意的であったという時頼の死去は、日蓮聖人にとって痛手となりました。教団としても日蓮聖人の主張を陰ながら支える実力者が欠失することでした。『破良観等御書』に、

「最明寺殿計こそ、子細あるかとをもわれて、いそぎゆるされぬ。さりし程に、最明寺殿隠させ給しかば、いかにも此事あしくなりなんず。いそぎかくるべき世なりとはをもひしかども、これにつけても法華経のかたうどつよくせば、一定事いで来ならば身命をすつるにてこそあらめと思切しかば、讒奏人人いよいよかずをしらず。上下万人皆父母のかたき、とわり(遊女)をみるがごとし。不軽菩薩の威音王仏のすへ(末)にすこしもたがう事なし」(一二八六頁)

と、のべているように、時頼の死去により幕府内における日蓮聖人庇護の力が弱くなり、したがって『立正安国論』の主張が聞き入れられることはなく、かえって法華弘通の多難性を認識されたのでした。それは、「いそぎかくるべき世なりとはをもひしかども」と、日蓮聖人が時頼の後ろ盾を失い、もはや山林に遁世する時期と思ったとまで、危機せまることであったのです。日蓮聖人は時頼が道隆を尊敬し、法華信者にはならないことを知っており、善良な為政者としての時頼を敬服していたのです。(佐々木馨著『日蓮とその思想』一四七頁)。

時頼の死去ののち、翌年八月ころに小湊に帰省します。そして、鎌倉をはなれて房総地方などを三年ほど巡教します。この歩みの理由に時頼の死去が影響していたと思われます。また、時頼の幕府内における影響力が強かったため、北条一門や重職など、恩義にあずかる武士のなかに出家や遁世する者が続出しました。評定衆の名越時章、武藤景頼(心蓮)、引付衆の安達頼景、二階堂行氏(宝治元年には安房の地頭職をあたえられる。法名を道智)、安達時盛(法名を炉忍、のちに道供)など、また、評定衆筆頭の大仏朝直も出家しようとしたが長時に止められたと言います。そのため、一二月一〇日に出家が禁止されています。(『吾妻鏡』同日の条)。同日、若宮大路で火災がありました。建長寺二世として招来された兀庵普寧も、時頼の死後は重用されなくなり、孤立して南宋に帰国します。

 なを、「やくよけ日蓮大菩薩」・「厄除けの祖師」として信仰されているのは、日蓮聖人が厄年の四二歳のときに、伊豆流罪の赦免があったことに由来します。言い伝えによりますと、日朗上人は日蓮聖人の言いつけをまもり鎌倉に留まります。日蓮聖人を偲んで日夜、由比ヶ浜にたたずんで、伊豆伊東の方を望み安否を祈念していました。ある夜、沖から不思議な光を放って漂ってくるものをみつけ、近づいてみると浮木から発せられたものでした。この霊木を拾った日朗上人は、日蓮聖人の尊像を彫刻し、かつて日蓮聖人にお仕えしたように給仕をされます。日蓮聖人が許されて鎌倉に帰り、この像に自ら開眼されたといいます。現在、堀之内の妙法寺に安置されています。

・四三 文永元年(弘長年)二八日改元 一二六四

 

 仏教界では、三月に比叡山の衆徒が園城寺の三摩耶戒、また、四天王寺の別当について朝廷に強訴し、三月二三日に比叡山の戒壇院・講堂などが消亡します。五月二日に比叡山の衆徒が恩城寺を襲撃しています。五月一二日に恵心尼が覚心尼に書状を送っています。道元は『永平広録』を著します。

 

□『月水御書』(三四)

四月一七日に大学三郎の妻に『月水御書』を宛てて、大学三郎の妻から日常の読経と月水(月経)のときの所作についての質問に答えています。『平賀本』の写本があります。異本に建治元年一二月一一日の説があります。

本書には、今は薬王品を読んでいるが、もとのように法華経を一日に一品づつ読む方がよいのかということに対して、一日の所作に二十八品・一品・一字、或は題目ばかりでも、「五十展転」のように同じ功徳であるとのべ、法華経のなかでも方便品と寿量品を読めば、余品の功徳も影のように備わるとのべています。さらに、読経のほかに一日に三度づつ「七つの文字を拝し」、また、「南無一乗妙典と一万遍」唱えているが月水のときは幾日くらい廃したらよいのかの質問に、昔からこのような不審はあったが、経論には説かれていないので月水を不浄とはせず、釈尊の在世にも多くの尼僧がいたが修行は続けていたので、忌み嫌うことではないとのべます。ただし、随方毘尼という戒の法門に、大義を失わなければその国の風習に随うと説かれており、日本が神国であるので、不浄のときに法華経を読むのは不遜であるという人がいるであろうから、月水のときは読経しないで、暗(そら)に南無妙法蓮華経と唱題し、経にも向かわないで参拝するとのが良いと指導しています。

また、南無一乗妙典と唱えていることに対し、天台のように南無妙法蓮華経と唱題するようにとのべています。南岳大師は『法華懺法』に南無妙法蓮華経と五箇所に書かれてあり、最澄は『十生願記』に南無妙法蓮華経と書かれています。(『当体義鈔』七六七頁)。この『月水御書』から、文永頃には「南無一乗妙典」と唱えていた信者がいたことと、唱題については天台に倣ったことがうかがえます。また。「七つの文字を拝し」というのは、南無妙法蓮華経の七字としますと、一遍首題を掲げて読経していたと思われ、当時における信徒の信仰形態を推考することができます。月水のときに読経しないで唱題をさせたことは神国の習いとしていますが、不浄観克服の不徹底さを示しているという指摘があります。(『日蓮聖人遺文辞典』一八七頁)。

 大学三郎(一二〇一~八六年)は比企能員の子で能本としていますが、日興の『宗祖御遷化記録』に「御経」を大学亮、「仏」像を大学三郎が捧じて葬送に列していることから、大学三郎の父は亮(允から昇進して亮)と推定されています。「坂東第一のてかき(能書)」(『大学三郎御書』一六一九頁)は、両者のどちらかは判然としていませんが、大学三郎は富木氏・池上氏(『四條金吾殿御返事』一三〇三頁・一三六三頁)と並ぶ有力な信者です。「文八の法難」のときに、「身をすててかたうど候し人」(『大学三郎御書』)で、安達景盛に助命を懇願したものと思われます。

比企能員は「比企氏の乱」で知られるように、将軍頼家と北条氏打倒を企てましたが、建仁三(一二〇三)年北条時政に殺害されます。三歳の能本は鎌倉の證菩提寺の伯父円顕により、京都の東寺に移され儒者として順徳天皇の侍者になります。「承久の乱」で上皇に従い佐渡にわたりますが、能本の姉、讃岐局と将軍頼家の子である竹の御所が、将軍頼経の夫人になったので赦されて、鎌倉に嘉禄年中(一二二五~二六年)に帰ります。そして、幕府の儒官として任用され二十数年仕えていました。日蓮聖人との出会いは建長三年ころ(『日蓮宗事典』五四二頁)といわれていますが、早ければ鎌倉遊学中(一二三九~四二年)と考えられます。松葉ヶ谷の庵室と近いこと、また、比企尼三女と夫伊東祐清、そして、日昭上人とのつながりが考えられます。(第一章第一節「日蓮聖人と弟子・信徒の相関図」)。能本は『立正安国論』の文章的な添削をし、六〇歳のとき、竹の御所旧地に草庵(持仏堂)を構えたといいます。『月水御書』が与えられたときの妻の年齢は不明ですが、能本は六五歳で母はこの頃八〇歳といわれ、妙本の名を与えています。能本は姉讃岐局の菩提を弔うため、法華堂として日蓮聖人に供養したといいます。『月水御書』の内容から能本の母は明神を崇めていたといいます。

 

□『題目弥陀名号勝劣事』(三五)

 この遺文は『月水御書』と一連のものとして伝わりましたが、『三宝寺本』から別になり、系年を『月水御書』と同じ文永元年にしたのは、『境妙庵目録』・『日諦目録』・『日明目録』で、日奥の『新目録』は建治元年としています。『平賀本』の写本があります。書中に「此の四、五年の程は、世間の有智無智を嫌はず此義をばさなんめりと思いて過る程に」とあり、『立正安国論』上呈(一二六〇年)の浄土批判から四~五年とすると、文永元年頃となります。宛先は『月水御書』と同じ大学三郎の内室かは不明ですが、書中の「御景迹(ごきょうざく)あるべき也」などの言葉使いから、学識と身分のある信徒に宛てられています。

題目の唱題と、弥陀の称名との功徳の勝劣は、如意宝珠と瓦礫ほどの違いがあることを、『摩訶止観』第五と、『弘決』第一を引き、題目の妙法蓮華経を如意宝珠としています。とうじの天台宗や真言師の一部に、「念仏と法華経とは只一也。南無阿弥陀仏と唱れば法華経を一部よむにて侍るなんど申しあへり」という、念仏法華一体説にたいしては経証がないことをあげます。また、とうじの念仏者のなかに念仏を唱えることは、極楽にて法華経を悟るためであると主張する者には、その名匠たちの臨終の謗法堕獄の相はどうであったかと指摘し、「未顕真実」の権実判から、法華経が穢土から浄土に生じる正因であるとのべています。

つぎに、法華経は不浄の身体では極楽往生できないが、念仏は不浄の身でもよいという不浄念仏については、善導・法然の釈に相違する妄語であるとして、浄土門下の二流を批判しています。念仏法華一体を主張したのは聖道といわれる天台宗・真言宗をさし、この者たちは日蓮聖人と念仏宗徒が争うことを、「不思議」であり「奇怪」なことだと眺めていました。ここで一切経のなかに、南無阿弥陀仏即南無妙法蓮華経と説いた経はなく、法華経の化城喩品に説く十六王子の弥陀は、法華経を習い妙法蓮華経の五字をもって仏になったことをあげ、妙法蓮華経が能開であり、阿弥陀仏は所開であると相違をのべています。同書から当時の人々の法華経にたいしての認識がうかがえます。また、日蓮聖人の教化により、謗法や法華経の認識を新たにした者がいたことがうかがえます。

「念仏者なんどの日蓮に責め落されて、我身は謗法の者也けりと思者も是あり(中略)多くの真言宗・天台宗の人人に値ひ奉て候し時、此の事を申しければ、されば僻案にて侍りけりと申す是多し」(三〇〇頁)

 

○朝直の死去と彗星出現

さて、五月三日に日蓮聖人を流罪に処した一人で、一番引付頭人の北条(大仏)朝直が五九歳にて没します。父は初代連署時房、母は正室の足立遠元の娘です。時房の四男でしたが、長兄の時盛佐介流北条氏を名のりましたので、朝直が大仏流北条氏の祖となります。朝直は隆寛から十念をさずかり、叡尊からも受戒しています。子息の宣時は良観の信者でした。また、大仏建立を父から受け継いだといわれています。大仏殿は浄土宗になります。泰時から政村までの、歴代執権に長老格として補佐し続けますが、寄合衆には任じられませんでした。

市中は六月から疫癘(疫病)が流行しはじめました。七月三日には長時が病気のため執権を辞しています。七月四日~五日に、東方の空に一国に及ぶとまでいわれる大彗星(文永の彗星)が発生し、十余日もつづきました。これを、鎌倉で目の当りに見た日蓮聖人は『安国論御勘由来』に、

「文永元年甲子七月五日、彗星東方に出で、余光(光り)大体一国に及ぶ。此又、世始まりて巳来、無き所の凶瑞也。内外典の学者も其根源を知らず。予、彌(いよいよ)悲歎を増長す」(四二三頁

と、今までにない凶瑞とのべています。七月五日の明け方の四時(寅の刻)ころといいます。(この文面により、日蓮聖人は鎌倉におられたとします)。彗星は凶兆といわれたので、民衆は驚き不安になりました。(『断簡』一八四、二五三五頁)。陰陽師も勘文をささげています。『断簡』(一七七)に、

「文永元年甲子七月上旬四五日東方彗星出光□□大体満一国。陰陽家一々勘文。雖然止絶他国此国□□□知之但助利一人知  人不用之如是次第文永年 今年文永五年戊辰正月上旬豊前□□□至以蒙古国朝状。□□鎌倉殿。日蓮勘文宛如符契。」(二五三三頁)。

 そして、この凶瑞は『立正安国論』にのべた、自界叛逆・他国侵逼の難を予測するものとして受けとめました。すなわち、『断簡新加』(二九七)に、

「文永元年七月四日大彗星。此日本国の自界叛逆難の後に他国侵逼難有へき瑞相也」(二九七〇頁)

 

とのべているように、日蓮聖人は赦免後に起きた、この文永元年の彗星を特別にうけとっています。つまり、正嘉の大地震とこの文永元年の大彗星は、『立正安国論』の予言を的中するものとして、国家の危機とされ、皆帰妙法を説く決意を強めたのです。

□『法華真言勝劣事』(三六)

 七月二九日付けとなっています。日向上人の『金綱集』に記載があることから、日向上人に授与されたもの、あるいは門弟の教育のために著述したのを、日向上人が保存されていたといいます。しかし、内容が佐後における、東密・台密の判釈であることから年次が違うこと。また、日祐上人は日向上人の著述としていたといいます。(『日蓮聖人遺文辞典』歴史篇一〇三九頁)。「理同事勝」の真言批判があることから、身延期の遺文といいます。(浅井円道著『日蓮聖人と天台宗』三六五頁)。

 空海は『大日経』と『菩提心論』をもとに、「十住心」を説きます。これは、衆生の心の状態を一〇に分けます。そして、真言行者の心は最高位にあることと、密教も最高の教えであることを説くものです。ですから、天台宗を第八番目とし、華厳宗を第九、最勝の第十に真言宗として、真言密教が勝れるとした顕密の勝劣を立てています。しかし、すでに安然が『大日経』の住心品には文義がなく、『菩提心論』にも勝劣は説かれておらず、龍猛の論とすることに論争があること、また、善無畏・金剛智の『大日経義釈』には、広略の異なりであって空海のように勝劣は立てていないとのべています。

日蓮聖人は空海の誤りを、澄観の「華厳経は法華経より勝れたり」の教えを習学したためとしています。すなわち、善無畏は湧出品の「始見我身聞我所説即皆信受入如来慧」の文から、華厳経の説法を「始見」、法華経を「今見」として、同等としたのを一往の義とし、実には華厳経が勝れているとした、澄観の教義をを空海が踏襲したことを指摘したのでした。

 つぎに、「天台真言」という台密の見解をのべていきます。一行の『義釈』(大日経の疏で善無畏が説き一行が記しました)から、法華経と大日経の勝劣を五つあげます。一行は大日経と法華経は諸法実相の理は同じだが、印契真言が説かれた大日経は広で、法華経は略説として広略の異なりをあげ、理同事劣(同劣の二義)とします。一代五時においては与奪を設け、奪の義から大日経は五時を超越した経であるとしたこと。法華経は裸形の猛者で大日経は甲冑を帯びた猛者であること、そして、印真言がなければ仏を知ることができないことを挙げ、大日経の優位性を説きます。

日蓮聖人はこれに反論して、まず、理同の義について、大日経が法華経に比べて「理同事勝」という文証がないこと、印契は身業、真言は口業であって、意業が大事であることを手と口がなければ誦結できないとします。甲冑を帯びた猛者でも退却しては用がなく、また、猛者は法華経で甲冑は大日経であり、猛者がいなければ甲冑はなんの詮もないと反論しています。

つぎに、事勝について、印契・真言がなければ成仏できないのではなく、一念三千の理がなければ成仏できないことを、法華経の二乗作仏・久遠実成を挙げて反論します。そして、寿量品の仏は「三身相即の無始の古仏」であり、大日経の仏は「本無今有の失あれば大日如来は有名無実」であると、記小・久成論から批判しています。また、印真言がなければ祈祷ができないというのも誤りで、過去・現在・未来の仏も、華厳経等の仏・菩薩・人天から四悪趣の衆生も、法華経の一念三千・久遠実成をもって正覚を成じているとのべ、敵対相論のときは法華経の行者が勝れている証拠として、慧亮と真済の加持の効験をもって示しています。慧亮は天台宗円澄の徒で惟仁皇子を推し、真済は空海の弟子で惟喬皇子を推しましたが、この皇位争いで慧亮が加持祈祷した惟仁親王が、清和天皇として即位しました。これに負けた真済が惟仁親王の母で、文徳天皇の皇后藤原明子(染殿)に憑依し、狂病させたのを相応が真済の霊を降伏したことをあげたのです。

そして、『義釈』に大日経にも、二乗作仏・久遠実成を明かすというのが一行の誤りで、華厳経にも相似の文があるが実義はないとして、仏身論においても、大日経等の諸大乗経の無始無終は法身の無始無終で、法華経の五百塵点の仏は、三身ともに無始無終であると相違をのべています。さらに多寶仏の湧現と地涌出現の弥勒の疑いにおける、寿量品の初めの三誡四請で久遠実成が説かれ、弥勒が領解したことを証文としてあげたのです。真言師の論として、大日経は大日如来の所説の経であることに関しての質問があり、七義をもって答えていますが、問者は台密側で東密の義を挙げている形をとり、理同義については事勝義ほど難詰していないといいます。

一般的に台密は釈迦大日同体説をとり、東密は釈大別体説を主張します。また、大局的に台密は善無畏・一行系で、東密は金剛智・不空系であるといいます。七義の概要は文証をもって釈尊一代五時に大日経も入り、釈尊の教説以外に大日経はなく、法華経が最勝であるとのべています。ここでは七義目の一念三千の名目は、天台大師の釈のなかにだけしかなく、したがって、一念三千の名目がなければ、性悪の義が成立しないことを強調しています。華厳宗の澄観と真言宗の一行は、天台大師の一念三千の立義を盗襲して、自宗の義に入れたと批判しています。これはすでに『顕謗法抄』に、 

「善無畏三蔵・金剛智・不空・一行等の性悪の法門・一念三千の法門は天台智者の法門をぬすめるか」(二七二頁)

と、のべており『下山御消息』には、

「善無畏・金剛智・不空の三人、一行阿闍梨をたぼらかして、本はなき大日経に天台己證の一念三千の法門を盗みいれて、人の珍宝を我が有とせる大誑惑の者と心得給へり。例せば澄観法師が天台大師の十法成乗の観法を華厳経に盗み入れて、還って天台宗を末教と下すがごとし」(一三二六頁)

 

と、のべているように、日蓮聖人は『大日経疏』は善無畏の説で、一行が善無畏の口述を執筆しただけとみていたのです。最後に慈覚・智証の堕獄をのべて結んでいます。

○長時の死去○時宗連署

長時は父重時の極楽寺流の嫡家をつぎ、八幡宮の前方に重時が住み、その近くの鶴岡の池に係る赤橋にちなみ、赤橋流を名のり租となっています。康元元(一二五六)年一一月二二日に、執権時頼のあとをついだ長時は、得宗家以外からの執権でした。時頼は流行り病に罹り、このとき時宗が六歳であったため長時に執権をゆずります。ところが、時頼の病が癒えたため実権は掌握し続けていました。この間に時宗と安達泰盛をひきつれて京都・兵庫県・三日町などを旅したといいます。これは、社会の実情を見聞して政治に生かそうとしたといいます。

 このおり、「但し家督(時宗)幼稚の程の眼代なり」(『吾妻鏡康元元年一一月二二日条)と、念を押されていた長時は、市中の町人を切り捨てるという事件を起こします。執権としての実力もなかったといいます。長時は七月三日に発病し出家します。八月一一日に執権職を時宗が若年ということで、連署であった北条政村に譲り、二一日に自ら建てた浄土宗の、淨光明寺にて三五歳で死去しました。法名を専阿といいます。これで、日蓮聖人を伊豆に流罪に処した三人が没したことになりました。

日蓮聖人が、松葉ヶ谷法難のときに、政道をまげて法華経の行者を迫害することは、身を滅ぼし災いをもたらすといったことが(一三三一頁)、ここに、重時・長時の一門が滅亡する(『妙法比丘尼御返事』一五六一頁)現実とあらわれたのです。重時の弟政村はこのとき六〇歳、連署に就任した時宗は一四歳で、この後に時宗が執権につくまでの三年半を就任します。幕府内では時宗を得宗とした北条氏が勢力をのばしていきます。将軍宗尊親王に変えて、惟康王を将軍職にたてました。時宗は一一歳のときに安達義景の一〇歳の娘堀内殿と結婚していました。また、金沢文庫を創設した金沢実時から政治をはじめ多種の教育を受けていました。