138. 安房帰省と小松原法難 高橋俊隆 |
◆第二節 安房帰省と小松原法難 ○母の重病と安房帰省 日蓮聖人が安房へ帰省された理由は不明とされています。時を同じくして、病母蘇生が法華効験の日蓮聖人の祈祷修法として注目されます。日蓮聖人の遺文のなかに父母に宛てた、確実な書状はありません。故意に書状を破棄して残さなかったという意見があります。そうしますと、日蓮聖人の故郷安房から、母が病気であるとの知らせがあり、病母を見舞うために小湊に向かわれたともいえましょう。(高木豊著『日蓮その行動と思想』六八頁)。ただ、『伯耆公御房消息』の文面によりますと、母親の病気は一年前からのことで、それが重くなって危篤の知らせがあったと受けとれます。 「然に聖人の御乳母のひとゝせ(一年)御所労御大事にならせ給い候て、やがて死せ給いて候し時、此経文をあそばし候て、浄水をもつてまいらせさせ給いて候しかば、時をかへずいきかへらせ給いて候経文也」(一九〇九頁。日朗上人代筆) 日蓮聖人は父の墓参や、道善房・兄弟、そして、安房の信徒に心をかけていた折、急な母の危篤の知らせといえます。また、充分に身支度を整えない、急な帰省であったと思われ、日蓮聖人の情愛がうかがえます。安房に帰省した時期は不明ですが『安国論御勘由来』に、 「又其後文永元年[甲子]七月五日彗星出東方余光大体及一国等。此又始世已来所無凶瑞也。内外典学者不知其凶瑞根源」(四二三頁) と、のべているように、七月五日に彗星を見たのが鎌倉とすればこの後のことで、八月(『高祖年譜攷異』・山川智応著『日蓮聖人伝十講』上巻三百二十九頁)の盂蘭盆を修してから、九月ころに帰郷したといいます。そして、九月二二日に東条花房の蓮華寺において浄円房に、『念仏者無間地獄事』(三一一頁)を著述する間のこととなります。また、一〇月とする説があります。(『元祖化導記』)。理由として、弟子と数人で行動するときは、宿泊場所と食料の調達をあげます。米の収穫がおわり食料の豊かなころとみます。(中尾尭著『日蓮』八九頁)。同じように、小湊の実家に帰省され、父の墓を詣で母と再会したのが一〇月といいます。(『日蓮教団全史』七頁)。ただし、『当世念仏者無間地獄事』(三一一頁)が、冒頭に九月二二日に花房の蓮華寺において書かれたとありますので、日付けの記載が正しければ、九月には安房に入っていたといえましょう。 (安房帰省の月) 一、八月 『高祖年譜攷異』・山川智応氏『日蓮聖人伝十講』・『日蓮宗年表』 二、九月 花房にて浄円房に『念仏者無間』を講義しています。宮崎英修先生『日蓮とその弟子』 三、一〇月 『元祖化導記』・中尾尭文先生『日蓮』・『日蓮教団全史』 「一〇月三日」(『波木井殿御書』一九二七頁、によりますが、本書は偽書なので、この説は否定されます。 (高木豊著『日蓮攷』一四六頁)
日蓮聖人は建長六年の安房追放から、松葉ヶ谷法難・伊豆流罪を経て、一一年たち四三歳になっていました。安房は東条景信が日蓮聖人の命をねらっていたので危険な帰郷でした。東条郷に立ち入ることを禁じていましたので、よほどのことがなければ、東条に近づかなかったと思います。『妙法比丘尼御返事』に、
「地頭東條左衛門尉景信と申せしもの、極楽寺殿・藤次左衛門入道、一切の念仏者にかたらはれて度々の問註ありて、結句合戦起て候上、極楽寺殿の御方人理をまげられしかば、東條の郡ふせ(塞)がれて入事なし。父母の墓を見ずして数年なり」(一五六二頁) と、回顧した文面にその心境が窺えます。日蓮聖人は覚悟を決め、日朗・日持・日澄上人を連れ鎌倉の庵室を離れます。朝比奈の切通しをすすみ六浦道の峠を越えて六浦港にでます。船に乗って上総の港に直行したと思われます。建長五年に小湊から鎌倉に渡航するにあたり、岡本浦が波浪のため南無谷(なむや、南房総市富浦)の泉沢権頭太郎の館に宿泊し、数日、滞在することになります。このとき日蓮聖人は高台から祈願をしたところ、波が静まり船出ができたとあります。これに感じた泉沢氏親子三人が帰信します。老婆(妙福)が日蓮聖人の衣を洗った由縁から「はだかの祖師」が有名です。日蓮聖人は文永年間にも数度、泉沢氏を尋ね妙福寺が建立されていますので、小湊へ帰省されるときには、必ず滞在されたと思います。 保田から長狭街道を辿って蓮華寺に身を寄せ、蓮華寺をでて東条景信の領地である東条郷を抜けて片海の生家に向かい、ひさしぶりに家族や親しい人と会ったと思われます。絶えて久しき小湊の実家に帰ると、家内に人が騒ぎ、おりしも母はちょうど息を引き取ったところといいます。定業を転じるのは法華経の教説、日蓮聖人は壇を設け曼荼羅本尊を認めます。随身の立像釈尊を奉安します。仏・菩薩に法華経の行者の覚悟を訴え、瀕死の生母の蘇活を祈ります。御経を読み陀羅尼を誦し、「病即消滅」の文を唱え清水を母の面に灑ぎます。そのとき、活然として臨終の床から蘇生しました。(『高祖年譜攷異』・『日蓮大士真実伝』)。『可延定業御書』に、四ヵ年寿命をのばしたことをのべています。
「されば日蓮悲母を祈りて候しかば、現身に病をいやすのみならず、四箇年の寿命をのべたり」(八六二頁)
日蓮聖人は定業でさえも転ずることができると、法華経に説かれているように母の命を延ばされました。母の妙蓮尼が死去したのは、文永四年八月一五日です。「四箇年」と年限をのべていることから、八月中に小湊に帰省されたのかも知れません。行者として艱難辛苦に耐える日蓮聖人と、母親を想う純真な日蓮聖人の姿をうかがうことができます。この純真な心も、ひたすらに釈尊を渇仰し遺戒を護る姿なのでしょう。この母蘇生の噂はたちまちに広がり、日蓮聖人の名声と法華経の霊験に入信する者がありました。領家の大尼・新尼、親類縁者とお会いになったことでしょう。 さて、日向上人が入門したというときを、この年のとするのと、翌年の文永二年とする二つの説があります。文永元年一〇月とするのは、『年譜攷異』小川泰堂居士の『日蓮大士真実伝』です。文永二年とするのは、『本化別頭仏祖統紀』『日蓮宗年表』です。 日向上人は建長五(一二五三)年二月一六日生まれといいますので、文永元(一二六四)年は一二歳で、比叡山に遊学中です。父親の男金(民部)実信は、日蓮聖人の母親の義弟になり、御見舞をかねて小湊に来ていました。男金は現在の和泉で、鏡忍寺のある広場と、花房のあいだにあります。約八キロの道程です。このおり、男金実信は日蓮聖人に、民部日向上人を弟子にしてほしいと頼みます。翌年、下総に向かう巡教のときに入門したのです。(『日蓮宗事典』)。
○浄円房 安房における布教の拠点は、西条の花房の蓮華寺であったといいます。西条は東条景信の勢力圏外であったようです。ここには浄円房がいました。『清澄寺大衆中』に「立教開宗」のとき、 「建長五年四月二十八日、安房の国、東條郷清澄寺、道善の房の持仏堂の南面にして浄円房と申す者、並びに少々の大衆にこれを申しはじめ」(一一三四頁) 浄円房を代表とした清澄寺の大衆に法華経を説かれています。清澄寺の山主と思われるや円智房・実城房の反感と、東条景信が日蓮聖人を斬り殺すという事態に直面し、兄弟子にまもられて蓮華寺に身を隠されたといいます。浄円房の詳細は不明となっています。花房の蓮華寺が清澄寺の末寺であれば、浄円房は道善房の師弟関係ではないかと言います。住房を「青蓮院」といいます。(『高祖年譜攷異』)。 日蓮聖人の兄弟(『御書略註』の説) 長男 藤太重政―――浄円房―日在―花房の蓮華寺・下総妙蓮寺の二祖 次男 早世 三男 藤三重仲―――浄顕房―日仲―両妙蓮寺の三祖 四男 薬王丸――――日蓮聖人 五男 藤平重友―――宗助院日法――房州妙蓮寺の開基四祖となる ※この説は疑わしいといいます。(『高祖年譜攷異』・『本化聖典大辞林』一九八一頁)。 さて、小湊に帰省された日蓮聖人は、兄弟子や縁者たちとの再会がありました。九月二二日に蓮華寺において浄円房に法門を説いていました。『当世念仏者無間地獄事』です。
□『当世念仏者無間地獄事』(三七)
「安房国長狹郡東條花房郷於蓮華寺対于浄円房日蓮阿闍梨註之。文永元年甲子九月二十二日」(三一一頁)
と、安房の花房蓮華寺において、日蓮聖人が浄円房に『選択集』の「当世念仏者無間地獄事」について注釈をされた、その内容を書記した、という覚え書きが添えられています。これを書いたのは浄円房といいます。(『日蓮聖人遺文辞典』歴史篇五二八頁)。日蓮聖人に「阿闍梨」の尊称は、正元元(一二五九)年(三八歳)の、『十住毘婆沙論尋出御書』(八八頁)に、武蔵房が「日蓮阿闍梨御房」と尊称されています。密教では修行を完了し、伝法灌頂(でんぽうかんじょう)を受けた僧のことで、弟子たちの規範となり法を教授する師匠のことをいいます。比叡山の修学を終え学解を得た称号と思われ、日蓮聖人の僧階がわかります。 また、本書は蓮華寺において浄円房のために著述したといいます。浄円房は立教開宗のとき、大衆(学僧)の代表ですが生没年は不詳で、蓮華寺に在住していたのか清澄寺にいたのか不明です。一説に日蓮聖人の兄藤太重政といいます。このような伝承があることは、日蓮聖人に近い人物であったことを指していると思われます。 安房に入られた日蓮聖人は、東条景信に捕縛されることを避け、清澄寺には入らず蓮華寺に滞留しました。『当世念仏者無間地獄事』は清澄寺の念仏者を改心させるためと、蓮華寺の本尊が阿弥陀仏であったのを廃止するため、さらに、東条郷の人たちを救済するために、浄円房に与えたといわれています。 本書は「念仏無間」と「五義」の二つに分けられます。まず、念仏は無間地獄に堕ちるとした原因は、法然の『選択集』であることを述べていきます。『選択集』の一六科段の一段は、道綽の『安楽集』から聖道・浄土の二門を立て、曇鸞の『往生要集』から難行・易行の二行を立て、二段には善導の正行・雑行の二行を立てたことを挙げ、以下、一四段にはこの聖道・難行・雑行の教えは小善根・随他意・有上功徳であるとし、念仏は大善根・随自意・無上功徳として、浄土教以外は「捨・閉・閣・抛」の四字をもって制止したことが原因であるとのべています。弥陀の名号を唱えることにより西方極楽浄土を期待しているが、大きな疑いがあるとして、念仏者の臨終の悪相をあげ善導の十即十生に相違すると指摘します。念仏者は四種の往生があるとして意念・正念・無記・狂乱を挙げて反論しますが、無記往生は経論がなく観経の下品下生の文は正念であって、善導すら転教口称といって狂乱往生とはしていないと指摘します。 そして、念仏の長者である、善慧(証空)・隆観(寛)・聖(上)光・薩生(法然の孫弟子、幸西の弟子)・南無(智慶)・真光(信空か)が、臨終に悪瘡などの重病になり狂乱して死ぬのは、浄土諸師がいう十即十生・千中無一と相違すると浄土の非をのべます。つまり、念仏を唱えた高僧たちが、臨終に地獄のような苦しみをした事実に、念仏信仰の邪義を説いたのです。法華経の無量義経には、生滅無常を説く小乗経を阿含、三無差別を説く大乗経を華厳、十八空を説く大乗経を般若、弾呵を説く大乗経を方等と年限と名目をあげ、「未顕真実」の権実判から浄土教は「一機一縁の小事」で、浄土の三師と法然はこれを弁えていないとします。また、竜樹の『十住毘婆沙論』には、法華経を難行に入れた文はなく、法華経を解説する以前の論であるとのべています。 つぎに、「五義」をあげて、末法は実教の法華経を優先して説く時であることをのべます。論調は『教機時国鈔』・『顕謗法抄』と同じように、「末法為正」を「教・機・時・国・序」に準じてのべています。そして、
「日本一州不似印度震旦一向純円之機也。恐如霊山八年之機。以之思之浄土三師震旦権大乗機不超。於法然者不知純円之機・純円之教・純円之国。為権大乗一分観経等念仏不弁権実震旦三師之釈以之此国令流布実機授権法純円国成権教国嘗醍醐者与蘇味失誠甚多。 日蓮 花押」(三一八頁)
日本は釈尊の在世(法華経の会座・純円の時)と同じように、「純円の機」であるとして、法然は純円の機・教・国を知らず、誤った教法を流布したとのべます。本書には、その謗法の罪科がいかに重いかを、「臨終悪相」を提示して証拠としています。日蓮聖人が幼少のときに疑った「浄土僧の堕獄死」(第一部第四章)は、浄円房も知っていた、清澄寺をとりまく高僧に現じたことであったからです。 さて、悲母蘇生の功徳を伝え聞いた奥津(興津)の城主佐久間重貞は、日蓮聖人を城内の釈迦堂に招いたといいます。これが広栄山妙覚寺(開基日保上人)の由来となります。また、そのころ興津港付近で疫病が流行っていたところ、日蓮聖人が白布に題目を書き、船の艫に結び付けて海上を渡航させ、疫病平癒の祈祷をされました。これにより村人たちの病気が治ったので、日蓮聖人のお姿を刻んで、「布曳きの祖師」と呼び妙覚寺に奉安されています。(『本化別頭仏祖統紀』)。また、疫病を消滅するため、小湊に近い興津の村の井戸に、護符を秘書された石を沈め祈願され、この井戸の水を飲ませたところ、たちまちに疫病が消え村人はよろこんだといいます。井戸の近くに寺を建立し、厳長山釈迦本寺と称しました。この井戸は境内西側の土蔵のなかに現存しています。(小川泰堂居士『日蓮大士真実伝』二〇四頁)。 この年、比叡山の僧徒が盛んに蜂起しています。一〇月二五日に幕府は越訴(おっそ)奉行を置きます。これは、裁判の判決に不服がある敗訴人のために、判決の過誤を救済する機関です。北条実時、安達泰盛を頭人とし、その下に越訴奉行人を置くものです。 日蓮聖人が善政を期待していた時輔は一一月に鎌倉を発ち、六波羅探題南方に任ぜられて上洛します。平頼綱は侍所の所司で寄合衆の一人として頭角を現わしてきます。時宗による得宗専制政治の体制が整ってきました。日蓮聖人が安房へ向かうころの幕府の状況です。
○小松原法難(東条御難) 東条は地頭の東条景信蓮智から追放されていた所でした。東条景信は亡き重時の御家人であり、所領を拡張しようとしたところ領家に訴訟を起こされ、しかも、日蓮聖人によって敗訴に追い込まれた私怨がありました。景信にすれば、長年信じる浄土教を貶されたという武士の敬虔な信仰心があり、弥陀の怨敵なら排除しようという機会を待っていたのです。そこに、小湊に帰った日蓮聖人は、蓮華寺をはじめ清澄寺・二間寺などを手中にし、悲母蘇生の功徳を聞き信徒がふえていきます。景信は激昂したのです。 日蓮聖人は母の病が小康をえたことで、この地で二ヶ月ほど布教活動し、花房蓮華寺に数日滞在しました。そして、伊豆流罪のときに世話になった、、天津の領主工藤吉隆氏に招かれました。この情報が東条景信に入っていたのでしょう、一一月一一日の未刻(現在の一二月八日の午後四時ころ)に蓮華寺を出立し、工藤吉隆宅に行く途中の、申酉の刻(午後五時ころ)、本街道である東条郷松原の大路(千葉県鴨川市広場付近)に通りかかったところを襲撃されたのです。領家の尼との所領争いのときにも、合戦を起こしている危険なところだったのです。『妙法比丘尼御返事』に、
「地頭東條左衛門尉景信と申せしもの、極楽寺殿・藤次左衛門入道、一切の念仏者にかたらはれて度々の問註ありて、結句合戦起て候上、極楽寺殿の御方人理をまげられしかば、東條の郡ふせ(塞)がれて入事なし。父母の墓を見ずして数年なり」(一五六二頁)
日蓮聖人の一行は一〇人ほどといいます。東条景信は数百人の念仏者を引き連れ、まちぶせしていたのです。旧暦のこのころの夕方は、すっかり闇に包まれていたようです。日蓮聖人は周囲に警戒をし、夕闇をまって何人かの弟子や信徒とともに行動をしていました。それを見計らっての襲撃でした。この法難について、南条氏に伝えます。『南条兵衛七郎殿御書』に、
「今年も十一月十一日、安房国東条の松原と申す大路にして申酉の時、数百人の念仏等にまちかけられて候て、日蓮は唯一人、十人ばかり、ものの要にあふものはわずかに三、四人也。いるや(矢)はふるあめ(雨)のごとし、うつたち(太刀)はいなずま(雷)のごとし。弟子一人は当座にうちとられ、二人は大事のてにて候。自身もきられ、うたれ、結句にて候し程にいかが候けん、うちもらされていままでいきてはべり」(三二七頁)
南条氏は日蓮聖人のよき理解者(信徒)であったのです。また、『聖人御難事』に、
「文永元年甲子十一月十一日頭にきず(疵)をかほり左の手を打を(折)らる」(一六七三頁)
松の樹間から狙いを定めて射かける矢、降る雨のように飛び来たります。また、怯む身体に電光のように太刀を斬りつけられたと、小松原法難の殺傷の現場をのべています。不意の襲撃に応戦できたのは三〜四人で、弟子の鏡忍房は討ち死にし、防ぐ武具もないままに二人の弟子も重傷を負いました。鏡忍房(福島県白河の白河八郎という)はかたわらの松のを引きぬいて防戦したといいます。武器のない弟子は石を投げて応戦したといいます。信徒とは日蓮聖人を知る里人や小湊の漁民の男女であったといいます。武士に太刀打ちできる者ではなかったのです。 『日蓮聖人註画讃』によりますと、日蓮聖人に同行したのは、日朗・鏡忍房・長英房・乗観房の弟子四人と、信徒六、七名とあります。『本化別頭仏祖統紀』には大乗阿闍梨(日澄上人)が殉教とあります。鎌倉を出立した時には弟子三名に、安房に来てから数名の弟子がくわわり、それに、警護の信徒も随行していたことがわかります。 これを聞いた工藤吉隆は、北浦忠吾と忠内という家臣を伴い駆けつけますが、自身も討ち死にするという、痛ましい事件でした。日蓮聖人も東条景信に馬上より右前額部を切り付けられます。馬上の東条景信は刀柄を両手で握り日蓮聖人の頭を切り割ろうとしたのです。一の太刀、二の太刀と振りかざしたようで、前額部やや左(小湊誕生寺の祖師像)と、右側頭部(本澄寺厄除け祖師像)を切られました。眉間に三寸(一二センチ)の切り傷といいます。(『本化別頭仏祖統紀』)。 『御伝土代』(大石寺六世日時、一四〇三年)には、笠を切り破って右の額を傷つけたとあり、その疵の長さは四寸あったといいます。『日蓮聖人註画讃』によると日蓮聖人の「頸を刎ねんと欲する時に刀が折れる」とあり、日蓮聖人が護身用に持っていた手鉾のような物で刀を防いだときに、東条景信の刀が折れたと思われます。また、中山法華経寺には東条景信の太刀を数珠で受け、そのときに傷がついたという数珠が伝えられています。 日蓮聖人は東条景信が二の太刀をとりなおしたときに一喝しました。このとき、背後の槇の木に鬼子母神の尊形が現れて、刀難を防いだと中山法華経寺に伝えています。鬼形鬼子母神に睨み付けられた東条景信は驚愕し目が眩んで落馬して気絶します。日蓮聖人は眉間に三寸以上の傷をうけ腕を折られたといいます。日蓮聖人の身体には矢疵や打ち傷が多数あったといいます。眉間を斬られ逃げる日蓮聖人、それを捕まえようと追いかける東條勢の武士、日蓮聖人を救おうと手を引く弟子、それを切り離さんと木刀で打たれたのでしょうか。日蓮聖人は左手を打ち折られています。『上野殿御返事』に、
「抑日蓮種々の大難の中には、龍口の頚の座と東條の難にはすぎず。其故は諸難の中には命をすつる程の大難はなきなり。或はのり、せめ、或は処をおわれ、無実を云つけられ、或は面をうたれしなどは物のかずならず」(一六三二頁)
まさに、「死身弘法」の二つの大難のうちの一つだったのです。日蓮聖人が難を逃れたのは、東条影信が落馬し大怪我をしたので、一味は引き上げたといいます。さらに、工藤吉隆が討ち死にした報せに一族五〇騎が馳せつけたので、これ以上の争いをさけたといいます。『高祖年譜攷異』には、北浦忠吾と忠内が、日蓮聖人を護って、小湊から北に約三キロにある「市阪窟」(「市坂石窟」『統紀』)に匿い、数日(三日、二一日)のあいだ、刀傷の切り創を治療したとあります。また、日蓮聖人は天津の工藤氏の館に避難したといいます。 伝承によりますと、日蓮聖人は工藤氏の館にて治療をし、工藤氏の供人の北浦忠吾と忠内に護られて間道を抜け東条の郷から逃げ延びます。小湊の市ヶ崎にたどりつき山中の洞窟に身を隠し、谷間の湧き水に額の傷を洗い一夜を過ごされます。この洞は、この地の土生神(うぶすな)を祀っていたようです。翌朝、いつものように土生神(または、市ヶ崎の粟島を拝みに行った)へ日参する老婆がお参りにきます。このとき、岩窟に隠れている日蓮聖人を見つけます。そして、額の傷をみた老婆が自分が被っていた綿を差し上げて、寒さからくる痛みを心配されました。額に当てた綿は血に染まり赤くなったといいます。これが綿帽子の由来で老婆の名前はおいち(お市尼)と言います。日蓮聖人はこの小湊岩高山にて老婆より綿帽子を作ってもらいます。(小川泰堂居士『日蓮大士真実伝』)。日家はこの場所(小湊町内浦)に岩高山日蓮寺を建立されました。この由来により「お綿帽子の祖師」尊像が奉安されています。そして、この老婆が住んでいたと思われる、約四`離れた勝浦の名木(寂光寺近辺)に避難して、七日間の説法をしたといいます。 日蓮聖人が法難をさけて、どこに身を隠されたのか、小松原の鏡忍寺から近いのは蓮華寺で、直線で約一.五キロ、天津の日澄寺まで約四.五キロ、そして、岩高山までは約七.五キロあります。深手を負って逃げるには、まずは近くの場所に身を隠し治療をされ、のちに、追手があれば場所を転々とかえたと思われます。花房の蓮華寺は廃屋となりましたが、額の傷を癒されたという井戸が残っています。この「疵洗井戸」の五百メートルさきに常経山蓮行寺があります。そして、東条景信はこの七日後に死去(「狂死」『高祖年譜攷異』)したのです。『報恩抄』に、東条景信の死亡について、 「法華経の十羅刹女のせめ(責)をかほり(蒙)て、はや(早)く失(うせ)ぬ」(一二四〇頁) と、述べています。日蓮聖人はこの法難を経験し、法華経の行者の確信を深められ、日本でただ一人の色読者であるとのべます。最初の殉教者である鏡忍房や、工藤吉隆などの大事な弟子を殺傷されたこの法難が、いかに壮絶なものであったかが窺えます
「されば日本国の持経者はいまだ此経文にはあわせ給はず。唯日蓮一人こそよみはべれ。我不愛身命但惜無上道是也。されば日蓮は日本第一の法華経の行者也」(三二七頁) 日蓮聖人は工藤吉隆に、妙隆院日玉上人の法号を授与され篤く弔いました。これが上人塚で鏡忍の墓所に小松を植えて墓印とされています。
伊豆流罪 小松原法難 法華経の持者―――行者―――――――日本第一の法華経の行者に 『四恩鈔』 『教機時国鈔』 『南条兵衛七郎殿御書』
「小松原法難」と呼ばれるのは、智寂院日省上人の『本化別頭高祖伝』からで、それまでは「東条御難」(『元祖化導記』、「東條松原」『日蓮聖人註画讃』、「小松原の大道において(中略)東條の御難といえり)『法華霊塲記』とあります。日蓮聖人は「安房国東條松原と申す大路にして」(三二六頁)とのべています。工藤吉隆の遺言に従い、まもなく生まれた子供は一〇歳のときに出家して、長栄房日隆と名のります。そして、この小松原法難より一七年後の弘安四年三月一五日に、法難の霊地に日隆が寺を建て妙隆山鏡忍寺としました。日蓮聖人を開山とされ鏡忍房を開基に、父吉隆を二祖に、みずからを三祖としました。鬼子母神が姿をあらわしたと伝える「降臨の槙」が鏡忍寺にあり、鏡忍が討ち死にしたときに着衣していた血染めの袈裟が残されています。工藤吉隆の屋敷跡に建てられたのが日澄寺です。 池上本門寺の祖師像は、日蓮聖人の七回忌に造立されたもので、その顔の左右の瞼がわずかに異なり、右目の上の眉間に縦の傷が描かれています。また、右側頭部に大きな窪みがあり、小松原法難の刀傷とみられています。本門寺の祖師像は、在世の姿を忠実に写したといわれているように、小松原法難にうけた迫害の様子をうかがうことができます。昭和三年八月に国宝に指定され、現在は国の重要文化財になっています。また、平成三年に小湊誕生寺の祖師像を修理した時に、後世の彩色を取り除いた後に、同様に眉間の傷跡がありました。祖師像に向かって前額部の中心より少し左側に、長さ五二ミリ、幅六ミリの刀疵が認められました。(中尾尭文著『日蓮』九二頁。石川修道先生『現代宗教研究』第四〇号所収四八一頁)。 大坂高槻市本澄寺の厄除け祖師像は、文永元年正月に彫刻したと伝えられ、一〇ヶ月後の小松原法難後に、刀疵を日蓮聖人が自ら切り割られたといいます。池上本門寺の祖師像より古いことになります。『日蓮霊場記』によりますと、この像は日朗上人の弟子、日澄に授与され、はじめは松葉ヶ谷「本浄坊」に安置され、その後、総州妙階寺・越後妙行寺・小浜の妙行寺・上牧本澄寺と伝えられてきました。この像には右側頭の上部に刀傷の跡が彫られています。池上本門寺の祖師像の刀傷と一致しています。日澄は形善坊より本浄坊に改称したといい、小松原法難に日蓮聖人と同行していたと推察されます。 『日蓮聖人註画讃』に描かれている、日蓮聖人の小松原法難の刀傷は右側頭部にあります。『日蓮聖人註画讃』五巻は、天文五(一五三六)年の初秋に完成しています。この天文期は天文法難の厳しいときでした。画工窪田統泰(むねやす)が、祖師の小松原法難の刀傷を右側頭部に書き入れたのは、制作近くの妙行寺にて祖師像を拝見したからといいます。(石川修道先生『現代宗教研究』第四〇号所収四九一頁。)。 また、法華経寺には法難のおりに着用していたという、袈裟が伝えられています。私は中山法華経寺が中山妙宗のとき、復帰する最後の三年間、学生として在山していました。聖教殿とは別に、毎年五月に虫干しを行います。このおり、その年ごとに歴代の曼荼羅本尊などが丁重に広げられます。そのおり、この袈裟も虫干しされました。墨染色の薄い袈裟に血痕の跡が深く広くのこっていました。また、このときに、景信の太刀を抑えたという数珠も格護されています。富木氏は新しい袈裟を布施されたのでしょうか、日蓮聖人との深い師檀の関係をうかがうことができましょう。 なを、東条景信は重時の配下であったことを、領家との訴訟のときに、重時の部下である藤次左衛門、家臣の入道泰継を、安房に下向させていたことから推察し、あわせて、この小松原法難には良観が係わっていたことを、『行敏訴状御会通』の文面をもとに推考されています。(岡元錬城著『日蓮聖人』一八四頁)。また、然阿良忠・道阿弥道教・能安などが法敵としてくわわっており、ほかに、幕府重臣や権女房・後家尼などの了解もえていたことになりましょう。そうでなければ、安易に天津の工藤吉隆を殺害できなかったと思うのです。さらに、幕府の主要人物は、宗教がかかわる政策の影響を、時宗に与えようとしたのではないかといいます。すなわち、時頼の禅信仰はときには浄土教徒を批判しています。一三歳の時宗を得宗に立てる幕府は、禅僧に親しんだ時宗にたいし、政策を転換させることを望んでいたのではないか。東条景信の襲撃事件には、このような幕府に敏感に反応した一面があったのではないかといいます。(中尾尭著『日蓮』九二頁)。 さて、このあとも、日蓮聖人は清澄寺には行っていないようです。花房の蓮華寺に身をかくし、洗創井戸の水を汲んで、額の刀傷と左腕の骨折の治療をしていました。道善房は日蓮聖人が刀傷を受けたことを案じていたといいます。
○道善房と再会 清澄寺には道善房から破門されていたことと、山主と敵対していたので行けなかったようです。円智坊や浄顕坊の手配で道善房との再会が、花房の蓮華寺において実現しました。この再会の日に二説あります。 一.一〇月一四日(『高祖年譜攷異』・山川智応氏『日蓮』一六八頁) 二.一一月一四日 (事件の三日後)『善無畏三蔵鈔』(四七四頁)』) (『本化別頭仏祖統紀』は文永二年一一月一四日とあります) 『高祖年譜攷異』に、一一月一四日は市坂にいて、創(きず)を治療していたとし、『善無畏三蔵鈔』の系年を十月に訂正するようにと述べています。同じく、(『日蓮宗事典』も事件の三日後であることから疑問視します。田村芳朗先生の『日蓮―殉教の如来使』(六四頁)には、一〇月一四日として遺文をあげています。尾崎綱賀氏も一〇月一四日として遺文を載せています。(『日蓮』一〇七頁)。(日蓮宗新聞社『日蓮聖人』は一一月)。どちらにしましても、道善房との再会は一〇年ほどの時を経ていました。日蓮聖人が鎌倉にて法華経を広め、幕府や諸宗から憎まれ流罪に処せられたことを聞いていたでしょう。道善房から労いの言葉があったと思われますが、遺文によりますと道善房は臆病で、清澄寺から離れることができなかった人でした。『報恩抄』に、
「道善房はいたう弟子なれば、日蓮をばにくしとはをぼせざりけるらめども、きわめて臆病なりし上、清澄をはなれじと執せし人なり。地頭景信がをそろしといい、提婆・瞿迦利にことならぬ円智・実城が上と下とに居てをどせしを、あながち(強)にをそれて」(一二三九頁)
それは、地頭の東条景信や円智房・実城房の脅迫が怖く、また、清澄寺の名誉職に執着していたため、表面上は日蓮聖人に敵対していたのでした。道善房と再会した日蓮聖人は、穏便に挨拶をすることが礼儀と知ってはいても、いつ再会できるかわからない状況でしたので、日蓮聖人は道善房が阿弥陀仏を五体作ったことは,五度無間地獄に堕ちると強く言ったことを『善無畏三蔵鈔』に、
「文永元年十一月十四日西條花房の僧房にして見参に入し時、彼の人の云く。(中略)阿弥陀仏を五体まで作り奉る。是又過去の宿習なるべし。此科に依って地獄に堕つべきや等云々。哀れに思いし故に、思い切て強々に申したりき阿弥陀仏を五体作り給へるは五度無間地獄に堕ち給べし。其故は正直捨方便の法華経に、釈迦如来は我等が親父阿弥陀仏は伯父と説かせ給う。(中略)豈に不幸の人に非ずや」(四七四頁)
と、のべているように、道善房が釈迦仏の像を刻んだことを聞かれたからでした。このときの日蓮聖人の語調は強く『報恩抄』にも、
「後にすこし信ぜられてありしは、いさかひ(争)の後のちぎりき(乳切木)なり」(一二四〇頁) 日蓮聖人にとっては師僧が一心に法華経を持たないことは、心配なことでありました。『本尊問答抄』に、
「後にはすこし信じ給いたるやうにきこ(聞)へしかども、臨終にはいかにやおはしけむ。おぼつか(覚束) なし」(一五八五頁) と、師匠道善房の臨終の様相と、没後の成仏を案じられています。道善房との再会が、小松原法難の前かもしれませんが、師弟が法門について充分に話し合えたことは、日蓮聖人にとっては大きな喜びであったと思います。『仏祖統紀』には、翌年(文永二年)一一月に再会とあります。文永三年の一月は、日蓮聖人は清澄寺に居住しています。『仏祖統紀』にしたがえば、このとき勘当がとけたといえましょう。 さて、東条の郷は小松原法難にて工藤吉隆道が殉死したことと、東条景信が体の腫れと高熱で苦しんでいることが、周囲の騒動となっていました。そして、東条景信が死去し、家臣たちは喪に服し、現罰の怖がっていました。工藤吉隆の父、工藤行光は避難していた日蓮聖人を迎えに行きます。懇ろに吉隆の葬儀を行います。墓葬します。このおり、工藤行光の菩提寺である真言寺の住持と、弟子の日澄上人が問答を行います。真言の邪説を悟った住持は帰伏し、弟子となって日宗と名のります。この縁により菩提寺を明星山日澄寺と改称します。のちに、吉隆の子供の日隆上人が、父の城址に移転します。日澄上人の墓碑が建てられています。 また、法難から一七年後の弘安四年三月一五日に、この地に一寺を建立し二人の菩提を弔います。妙隆山鏡忍寺です。日隆上人は第四世となります。寺宝に鏡忍房が着していた血染めの袈裟が伝えられており、「降神槇」も境内に残っています。そして、駿河上野の南条兵衛七郎が病床にあるとの知らせが入りました。一二月一三日付けで書状を書いています。『南条兵衛七郎殿御書』(三一九頁)です。
□『南条兵衛七郎殿御書』(三八)
南条兵衛七郎は伊豆の田方(たかた)郡、南条に所領があり、北条氏が同地の北条から名のったように地名に基づき南条といい、北条氏と同じ平氏で北条時頼の近習であったので兵衛といいます。のちに、駿河富士郡の上野郷(富士宮市)の領主となって居住してからは上野殿とよんでいます。南条兵衛七郎は「いろあるをとこ(男)とこそ人は申せし」(『上野殿御返事』一六二一頁)というように、人情に厚く思いやりのある人物といます。日蓮聖人との出会いは御家人として将軍の護衛や、市中の警備につく、いわゆる鎌倉番役のときに信仰の縁を結んだといいます。 南条氏一家に宛てた遺文は正篇に五〇篇収められ、富木氏・四条氏の三四篇よりも多く、これは上野郷が身延に近かったので、日蓮聖人が身延入山後にたくさんの供養をし、その返礼書を認めたためです。供養のなかでも芋が多いのは、所領の貧困さによるといいます。妻は松野六郎左衛門尉の娘で、日持上人は実弟といわれています。この『南条兵衛七郎殿御書』は、南条兵衛七郎に宛てた最初で最後の書状です。 本書の冒頭には、南条兵衛七郎が病気であることを聞き、驚き心配していることをのべ、法華経の信仰者は、心がけとして死後のことを思い定めておくべきであるとして、後生のための信心ををのべています。釈尊一代の説教は、華厳経には「心仏及衆生是三無差別」、阿含経には「苦空無常無我」、大集経には「染浄融通」、大品経には「混同無二」、双観経・観経・阿弥陀経には「往生極楽」と説くが、『無量義経』にこれらを「四十余年未顕真実」とし、親の譲り状の先判のように改め、これらでは菩提を成じることができない方便の教えと説きます。 つぎに、法華経は真実の教えである証拠に、二処三会で多寶仏は真実と証明し、十方の諸仏も舌相を梵天につけて証明し、法華経の序品に名をつらね、教えをうけている二界八番の衆生も、これを見聞したとのべます。釈尊は「主師親三徳」を具備した恩のある仏で有ることを示し、南無妙法蓮華経と唱えなければ、親不孝となり天祇地祇から怨まれるとし、この釈尊に背き阿弥陀仏を念ずることは、「不孝第一の者」であるとします。
「仏教の中に入候ても爾前権教念仏等を厚く信て、十遍・百遍・千遍・一万乃至六万等を一日にはげみて、十年二十年のあひだにも南無妙法蓮華経と一遍だにも申さぬ人人は、先判に付て後判をもちゐぬ者にては候まじきか。此等は仏説を信たりげには我身も人も思たりげに候へども、仏説の如くならば不孝の者也。故に法華経の第二云今此三界皆是我有。其中衆生悉是吾子。而今此処多諸患難。唯我一人能為救護。雖復教詔而不信受等云云。此文の心は釈迦如来は我等衆生には親也、師也、主也。我等衆生のためには阿弥陀仏・薬師仏等は主にてはましませども、親と師とにはましまさず。ひとり三徳をかねて恩ふかき仏は釈迦一仏にかぎりたてまつる」(三二〇頁) そして、五義判にそってのべ、末法は謗法の人々ばかりであるから、主君の敵と知りながら黙視することは失となるように、法華経の敵を責めなければ得道がないとのべます。また、「善なれども大善を破る小善は悪道に堕ちる」、小さな船に大石が乗らないように、病気が大きければ法華経でなければ療治ができないと、武士道を重んじる南条氏に語ります。江南に生育している橘は、江北に移植されると枳(枸橘、からたち、唐橘がつまったといいます)に変わるように、まして、人間は住む国によって心が変るといいます。玄奘の『西域記』に、殺傷をする民族が多い国、窃盗をする民族が多い国、米が収穫できる国、粟が多く収穫ができる国などがあるように、仏教においても小乗に適した国、大乗に適した国があることを示します。そして、日本は、東方に有縁の国があると予言された、「純に法華経の機」、法華経流布の国であることをのべます。
「抑日本国はいかなる教を習てか生死を離べき国ぞと勘たるに、法華経云於如来滅後閻浮提内広令流布使不断絶等云云。此文の心は、法華経は南閻浮提の人のための有縁の経也。弥勒菩薩云東方有小国唯有大機等云云。此論の文如きは、閻浮提の内にも東の小国に大乗経の機ある歟。肇公記云茲典有縁東北小国等云云。法華経は東北の国に縁ありとかゝれたり。安然和尚云我日本国皆信大乗等云云。慧心一乗要決云日本一州円機純一等云云。釈迦如来・弥勒菩薩・須梨耶蘇摩三蔵・羅什三蔵・僧肇法師・安然和尚・慧心先徳等の心ならば、日本国は純に法華経の機也。一句一偈なりとも行ぜば必得道なるべし。有縁の法なるが故也。たとへばくろかねを磁石のすうが如し、方諸の水をまねくににたり。念仏等の余善は無縁の国也。磁石のかねをすわず、方諸の水をまねかざるが如し。故に安然釈云如非実乗者恐欺自他等云云。此釈の心は、日本国の人に法華経にてなき法をさづくるもの、我身をもあざむき人をもあざむく者と見たり。されば法は必国をかんがみて弘べし。彼国によかりし法なれば必此国にもよかるべしとは思べからす」(三二三頁)
また、すでに仏教が流布されている国には、仏法を広める順序や決まりがあることをのべます。たとえば、病人に投薬するにも、先に服した薬を熟知していなければ、副作用で苦しみ死にいたるように、仏教においても同じであるとのべます。釈尊は仏教をもって外道の教えを破り、聖徳太子は守屋を討伐して仏教を広めたように、小乗から大乗へ、大乗から実大乗の法華経へと進展する、行動や判断の基準となる模範を示します。理路整然に仏教を把握するようにのべました。いわゆる、「教法流布の五義」を知るようにと諭したのです。 そして、南条兵衛七郎が、もとの念仏者にもどったのではないかとして、大通結縁の三千塵点劫、久遠下種の五百塵点の堕獄をあげます。いかに一門の者が浄土教に帰信することを勧めても、それは悪知識であり「三障四魔」が貴僧となり父母兄弟について障害となっていると思い、賢人は造反することを嫌うように、強い信心をもつように訓戒しています。
「大通結縁の者の三千塵点劫を、久遠下種の者の五百塵点を経し事、大悪知識にあいて法華経をすてて念仏等の権教にうつりし故也。一家の人々念仏者にてましましげに候しかば、さだめて念仏をぞすゝめまいらせ給候らん。我信たる事なればそれも道理にては候へども、悪魔の法然が一類にたぼらかされたる人々也とおぼして、大信心を起御用あるべからす。大悪魔は貴き僧となり、父母兄弟等につきて人の後世をばさうるなり。いかに申とも、法華経をすてよとたばかりげに候はんをば御用あるべからす。まづ御きやうさく(景迹)あるべし。念仏実に往生すべき証文つよくば、此十二年が間念仏者無間地獄と申をば、いかなるところへ申いだしてもつめずして候べき歟。よくよくゆはき事也」(三二六頁)
つぎに、念仏者は法論では日蓮聖人に敵わないので、共謀して日蓮聖人を殺害しようと度々企て、今年も、迫害に値った「小松原法難」について知らせます。この法難は法華経の色読であり、日蓮聖人以外にこの法難にあった者はいないとして、「日本第一の法華経の行者」であるとのべます。弟子の鏡忍房と工藤吉隆氏は、経文の予言通り殉死しているのです。日蓮聖人はこれにより、ますます法華経が正しいことを知り、信心も勝ったと告げます。 さいごに、日蓮聖人よりも先に死去し、死後に閻魔に会うときは、「日本第一の法華経の行者日蓮房の弟子也」と名のれば、粗末にはされないと勇気づけます。ただし、二心あればそれは叶わないとして、法華経は今生の祈りでもあるので、もしも再会のときがあったなら、直接法談したいとのべています。
「されば日本国の持経者はいまだ此経文にはあわせ給はず。唯日蓮一人こそよみはべれ。我不愛身命但惜無上道是也。されば日蓮は日本第一の法華経の行者也。もしさきにたゝせ給はば、梵天・帝釈・四大天王・閻魔大王等にも申させ給べし、日本第一の法華経の行者日蓮房の弟子也、となのらせ給へ。よもはうしん(芳心)なき事は候はじ。但一度は念仏一度は法華経となへつ、二心ましまし、人の聞にはばかりなんどだにも候はば、よも日蓮が弟子と申とも御用ゐ候はじ。後にうらみさせ給な。但又法華経は今生のいのりともなり候なれば、もしやとしていきさせ給候はば、あはれとくとく見参して、みづから申ひらかばや。語はふみにつくさず、ふみは心をつくしがたく候へばとどめ候ぬ。恐恐謹言」(三二七頁) 南条七郎が念仏一族から揶揄をうけながらも、法華信仰を貫いたこと、それが、日蓮聖人に励みになっていたこと、鎌倉弘教における南条氏の役割が強かったことが、死後の「後生善処」を確信させる文面にうかがえます。 |
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