140.『法華題目抄』 『善無畏抄』 天台大師講 高橋俊隆 |
・四五歳 文永三年 一二六六年 □『法華題目抄』(四四) 一月六日、未時(正午から二時)に清澄寺で、『法華題目鈔』(四〇五頁)を著述しています。(『日蓮聖人遺文辞典』歴史篇七九八頁)。真蹟は断片二〇紙が水戸久昌寺などに所蔵されています。この遺文により、清澄寺への出入りが自由になっていたことをうかがえます。それは、道善房が勘当を許されたこと、東条景信が死去したこと、清澄寺の円智房・実城房が死去していたことによります。(『報恩抄』一二三九頁)。『新尼御前御返事』に、 「安房の国東條の郷に始て此の正法を弘通し始めたり。随て地頭敵となる。彼等すでに半分ほろびて今半分あり」(八六八頁) と、日蓮聖人に敵対していた者が死去し、半減したとあります。入郷を禁止されていた長狭郡のなかの、東条の地区に自由に入れる状況になっていました。また、蓮華寺の浄円房、また、兄弟子の浄顕房・義城房の布教によるもので、清澄寺のなかに日蓮聖人に同調する者がふえたこのころから、清澄寺は日蓮聖人の布教の拠点となっていきました。『法華題目鈔』の宛先は、日蓮聖人の母妙蓮尼、伯母、光日尼(日向上人の母としたとき)、領家の尼(山川智応氏『日蓮聖人伝十講』上巻三四八頁)などの女性といわれています。また、天津の工藤行光の妻といいます。(『本化別頭仏祖統紀』)。本書は、「根本大師門人日蓮撰」(三九一頁)と署名されており、『唱法華題目抄』・『教機時国鈔』・『顕謗法鈔』に続いて、真言宗批判、そして、台密から離脱する文面がみえてきます。本書の署名は最澄直授と自覚された日蓮聖人の意志を示しています。 本書は、「南無妙法蓮華経」の題目について、四番の問答を通して、その題目の功徳についてのべています。 一、本書の主眼である「但信無解」(三九一頁)の唱題でも不退の位にいたると示します。 二、「法華経の題目は八万聖教の肝心一切諸仏の眼目」であるから、「以信得入」(三九二頁)という法華経を信じる心があれば、「たとひさとりなけれども信心あらん者は鈍根も正見の者なり」として成仏を示しています。「而るに今の代の世間の学者の云く」とあることから、とうじの学者といわれる層の者が、信心のみで理解がない唱題では、悪趣を逃れることはできないと批判していたことがうかがえます。日蓮聖人は「但信無解」の唱題を日蓮宗の行法としています。 三、題目を唱える行為の証文として、陀羅尼品の「受持法華名者福不可量」をあげ、法華経一部(二八品のすべて)を持つことを「広」、方便・寿量品を持つことを「略」、題目を唱えることを「要」としたとき、「広・略・要」(三九五頁)のなかの要法は、「南無妙法蓮華経」と唱える題目であるとします。 四、「妙法蓮華経の五字」の功徳について、「妙法蓮華経」の題目は経の名称ではなく、この「妙法蓮華経の五字」の中に、十界のあらゆるものを納め持ち、十界の衆生も国土もみな収めていると述べます。すなわち、 「問云、妙法蓮華経の五字にはいくばくの功徳をおさめたるや。答云、大海は衆流を納め、大地は有情非情を持、如意宝珠は万宝を雨し、梵王は三界を領す。妙法蓮華経の五字亦復如是。一切九界の衆生並に仏界を納たり。十界を納れば亦十界の依報の国土を収む。」(三九五頁) そして、「経」の一字には十方法界の一切経の功徳が収容され、「妙」の一字には開(本迹二門の百二十妙・六万九千三百八十四字の妙)、それに、具足、能治、蘇生の義があることを挙げます。これは、法華経の功徳がいかに大きいかを教えたのです。たとえば、妙楽大師は、これまで成仏できない者として、決定性の二乗・一闡提の人・空心の人(無信仰の人)・謗法の人をあげ(三九八頁)、これらの人が成仏できるから、法華経を「妙」という解釈をひきます。 また、女性の本性について、『華厳経』には、女性は仏になる「種」を火で焦(炒)った者として、いかに水を与えても、二度と芽がでないように成仏できないと説き、また、女性は曲がりくねった川のように、石に遮られると水があちこちに行くように、男性の強い言葉に会えば信仰も曲がってしまうと例え、しかも、女性は「五障三従」であり、『銀色女経』にも仏になれないと説き、龍樹は涼風はつかまえることができても、女性の心は取り難いと、説いたことを一々あげます。(四〇一頁)。 ところが、誰もが成仏できないと思っていた女性にたいし、文殊菩薩が「女人成仏」(龍女」を説いたので、智慧第一の舎利弗が驚きます。そして、これまでの教え(「四十余年」)では成仏できないとして、「五障」を問難します。 「又女人身。猶有五障。一者不得。作梵天王。二者帝釈。三者魔王。四者転輪聖王。五者仏身。云何女身。速得成仏」(『開結』三五三頁)
このような経文をあげて、女性は成仏できないと説かれてきたことをのべます。そして、法華経の会座に至って、はじめて龍女が現実に成仏したことを示します。 「妙者蘇生の義也。蘇生と申はよみがへる義也。譬ば黄鵠の子死せるに、鶴母子安となけば死せる子還て活り、鴆鳥水に入ば魚蚌悉死す、犀角これにふるれば死せる者皆よみがへるが如く、爾前の経経にて仏種をいりて死せる二乗闡提女人等、妙の一字を持ぬればいれる仏種も還て生ずるが如し。天台云闡提有心猶可作仏二乗滅智心不可生法華能治復称為妙云云。妙楽云但名大不名妙者一有心易治無心難治難治能治所以称妙等云云。此等の文の心は大方広仏華厳経・大集経・大般若経・大涅槃経等は題目に大の字のみありて妙の字なし。但生者を治して死せる者をは治せず。法華経は死せる者をも治す。故に妙と云ふ釈也」(四〇二頁)
このように、二乗・闡提・謗法の者も成仏し、龍女のように法華経を受持し、念仏を止めるように勧めます。しかし、今の女性は悪知識を信じて「南無妙法蓮華経とは唱えず」(四〇四頁)、念仏者を大切にするが、法華持経者を所従のように軽く扱っているとのべます。法華経を持経者に読ませて、それをもって法華経を信仰していると名のるのは誤りであるとのべます。そして、
「とくとく心をひるがへすべし。心をひるがへすべし。南無妙法蓮華経。南無妙法蓮華経。 日蓮 [花押] 文永三年[丙寅]正月六日於清澄寺未時書畢」(四〇五頁)
と、信仰の心がけを正すようにのべて擱筆します。念仏信徒であった女性に、「以信代慧」・「唱題成仏」などが示されています。夫などから法華経の信仰を止められ、それに従う女性の内面、また、本心から法華経を信仰してない女性の態度、このような人が多くいたことがうかがえます。なを、唱題を千万遍唱えて、のちに暇があればときどき弥陀などの諸仏の名号を口ずさんでもよい、との異例な文章は、念仏信徒であった女性に、寛容に(緩く)説かれたといい、清澄寺近隣には念仏の信徒が多数いたためといいます。このことは、宛先が日蓮聖人の母親ではないと言えます。『健鈔』には、親類の女性に宛て、その夫念仏信仰を教化するために著された、と解説されています。『日蓮聖人遺文全集講義第七巻上』三〇八頁)。 日蓮聖人の布教行動の軌跡として、この遺文により、日蓮聖人は房総地方を、巡教していたことがうかがえます。
□『秋元殿御返事』(四五)
清澄寺にて越年した日蓮聖人は、一月そうそうに保田に向かいます。一月一一日に、
「安房の国ほた(保田)より出す」(四〇七頁) と、鋸山の南にある船舶の港である保田(安房郡鋸南町)から出されたのが『秋元殿御返事』です。前にのべたように、秋元太郎兵衛尉は下総・上総に所領を持つ武士で、印旛郡白井荘に住んでいます。曽谷氏・太田氏と親交が深いことは、本書と太田氏に宛てた『慈覚大師事』(一七四一頁)に見られます。富木・曽谷・大田氏は姻戚関係にあることから、秋元氏も姻戚関係にあるといわれます。日蓮聖人が松葉ヶ谷法難をさけて中山にて百日百座の説法をしたときに入信したといいます。のちに白井村(白井市)の邸内に法華堂を建て秋元寺(秋本寺)として今日に至っています。 本書を文永八年・弘安三年・弘安四年の著とする説があります。文永三年として、一月六日には清澄寺にいて『法華題目抄』を昼過ぎに書かれています。その後まもなく清澄寺をたち、保田に向かったことになります。秋元氏からの手紙が届いたのは、この道中のことと思われ、内容も五節句のことなので、あえて保田から返事をされたと記したと思われます。 本書によりますと、「後五百歳」の末法には法華経の題目を弘まるという、日蓮聖人の教えを聴聞して信徒になったことがうかがえ、五節句の祭り方についての質問がよせられています。五節句の由来・所表・正意については知悉ではないが、最澄の相承であるといわれており、真言・天台宗の習い(祭事のしきたり)とのべ、その口伝的なことは曽谷教信氏に伝えているので、曽谷氏に尋ねるようにとのべます。そのうえで、五節句の祭典は妙法五字の祭りであるとのべています。
「先、五節供の次第を案ずるに、妙法蓮華経の五字の次第の祭也」(四〇六)
そして、正月は妙の一字の祭りで天照大神を歳の祭神とし、三月三日は法の一字の祭りで辰を祭神とし、五月五日は蓮の一字の祭りで午を祭神とし、七月七日は華の一字の祭りで申を祭神とし、九月九日は経の一字の祭りで戌を祭神とするように心得て、南無妙法蓮華経と唱えるならば、現世安穏・後生善処であるとのべています。 これは神国日本の祭神儀式に従うことであり、仏教的には法華経の行者を諸天善神が守護していることを、安楽行品の「諸天昼夜常為法故而衛護之」と「天諸童子以為給使刀杖不加毒不能害」の文を引き、諸天とは梵天・帝釈・日月・四天王等であり、童子とは卜占法の七曜、天球の四方にある二十八宿の星座、それに、日天子の所従である摩利支天等であるとのべます。つまり、諸天善神はいかなる怨敵があっても、常に法華経の行者を守護していることをのべます。道教で異変災禍を除去すると説く「臨兵闘者皆陳列在前」の文は、法華経の「刀杖不加」の四字に収まるとのべます。また、日本に住むならば在地の風習を尊ぶべきで、法華経には世間の行いが、仏教に抵触しなければそれに順じ、また世間の法は正法に違背しないという開会の立場があることをのべて、五節句のときも南無妙法蓮華経と唱えることを勧めています。 そして、秋元太郎兵衛尉と師檀となったことは、三益の縁があり師弟の契りの深いことをのべて信心を勧奨しています。
「次に法華経は末法の始五百年に弘まり給ふべきと聴聞仕り御弟子となると仰候事。師檀となのる事は三世の契り種熟脱の三益別人を求んや。在在諸仏土常与師倶生若親近法師速得菩薩道随順是師学得見恒沙仏の金言違ふべきや。提婆品云所生之処常聞此経の人はあに貴辺にあらずや。其故は次上に未来世中若善男子善女人と見えたり。善男子とは法華経を持つ俗の事也。弥信心をいたし給べし、信心をいたし給べし。恐恐謹言」(四〇七頁) 秋元氏の入信は、日蓮聖人にとって大きな励みとなったことがうかがえます。さて、保田には妙本寺があり、前述の『薬王品得意抄』が伝えられています。保田は房総から三浦半島へ船でわたるところでしたので、秋元氏に書状を送られて、船に乗り下総の富木氏のところか、鎌倉に向かったと思われます。途中、海路で若宮の富木常忍の館に暫らく滞在したともいいます。(影山尭雄著「日蓮教団の成立と展開」『中世法華仏教の展開』所収六一頁)。 また、この年の春ころ、鎌倉の庵室に帰ってきたといいます。すぐに布教活動はしないで、弟子・信徒に法華経の教理の修学に日を送ったといいます。(中尾尭著『日蓮』一〇〇頁)。その現れが天台大師講としますと、鎌倉に帰られたことになります。駿河の南條氏の墓参をされたのは、この時期とも思われます。しかし、これ以降から文永四年末までの行動は不明とされています。一説には悲母の看護をされ、安房地方を巡教していたともいいます。日蓮聖人が鎌倉に帰られるまでは、日昭上人を中心として、留守中の信徒を育成していたと思われます。
○天台大師講
早ければこのころに、鎌倉の庵室か他所の門下の房舎にて、大師講を営むようになったと推察されています。それは、文永七年一一月二八日に、四条頼基に宛てた『金吾殿御返事』に、
「此の大師講、三・四年に始めて候」(四五八頁)
と、天台大師講の費用を布施された謝意が語られ、天台大師講が三~四年前から行なわれるようになったことをのべています。この年数から逆算したものです。大師講は天台大師と伝教大師の命日に行なう場合があります。両大師の恩徳を報謝する法要と、講義を行う行事です。天台大師講は霜月会(しもつきえ)ともいい、一一月二三日の夜から二四日に行ないます。この法要は最澄が根本中堂のもととなる一乗止観院で、奈良の七大寺から高僧を招いて「妙法蓮華経」の講義をしたことからはじまっています。十講を二三日までに終わらせ、二四日に恵心僧都がつくった天台大師和讃を唱え、大師供をおこないます。江戸時代になりますと、大師供に小豆粥をそなえ、枯れ柴を折り箸にして食事をする慣習があります。大師粥、智慧粥ともいいます。(尾崎綱賀氏『日蓮』一一七頁)。 日蓮聖人は二十四日に行なっていたと思われます。最澄の伝教大師講は六月四日に行なわれ(『十章抄』の「ふみのざ」)、みなづき会、長講会ともいいます。日蓮聖人が弟子や信徒を集めて、本格的に天台大師講を始めたとしますと、この文永三年一一月二十四日と思われます。毎月、二四日に行われたといいます。(山川智応氏『日蓮聖人伝十講』上巻三五〇頁)。 庵室や信者僧俗の私宅を当番にして、御宝前に釈尊像を本尊として奉安し経典を安置します。室内に天台大師の画像を掲げます。(『定遺』七五二頁)。多少の弟子信徒が集まって、法華経を読み題目を唱えます。諸経や諸宗をはじめ天台大師の三大部などの解説が行われ、法華経要文の読誦、唱題が行なわれていました。(『唱法華題目鈔』二〇二頁・『月水御書』二八六頁・『光日房御書』一一五六頁)。鎌倉の民衆も結縁していたと思われます。また、各地から信徒が集まり教団の護持や幕府の状勢、各地の信徒の動向や近況などの情報を交換して、布教の対策を話し合う場であったのです。これにより、日蓮聖人は門下同志と信仰の連帯を深めたのです。 世情は法華経を難行道とし底下の凡夫には位が高すぎると敬遠し、称名念仏の易行道が流行していました。日蓮聖人はこういう世情のなかで法華経の「五十転展随喜の功徳」を説き、唱題という易行をのべていました。唱題という簡易な行法を示すことによって難行道の弊害を取り除き名字位の成仏を示すことが肝要でした。高度な教学の講義と簡易な唱題行を併せて説いていくことは至難なことであったと思われます。弟子が各地の信徒のところに赴き日蓮聖人から各地の信徒に宛てた書状を閲覧しながら教学を修め、届けられた供養の品にたいしての返礼の書状を信徒や土地に有縁の弟子が届け、そのおりおりに教学を伝授する方法をとって教団を拡大していきました。また、「法華経のみざ(御座)」(一一五六頁)といわれ、不特定の聴講者が来た講座でした。 信徒の活動が活発になり新たに信徒も増え、天台大師講も月例の行事として行われていくようになりました。天台大師講が盛んになることにより草庵も増築されたと考えられます。つまり、天台大師講の隆盛は、日蓮聖人の教団が大きくなってきたことの象徴といえます。留守中を預かった日昭上人などが、新たに庵室を確保していたことも考えられます。日昭上人は妻帯していたといいいます。(高木豊著『日蓮攷』三七五頁)。 松葉ヶ谷法難の以前には、天台僧としての立場から、天台宗の法華八講に参加していましたが、伊豆流罪後は独自の教学を樹立するようになります。それは法華経を色読している行者としての意識と、末法付属の責務から必然的に進まなければならない方向でありました。天台大師講の開催はそのあらわれといえます。
□『善無畏鈔』(四六) 『善無畏鈔』は建治元年に身延にて著述したという説がありますが、真蹟の筆跡と、円仁・円珍の台密破折がないことと、女人成仏が強調されているので、一連の遺文から推定して文永三年としています。真蹟は京都妙顕寺外に散在し末文は欠失しています。逗子尼に宛てたともいわれますが不詳です。 本書に、善無畏は真言の法験を現じた大成者であったが、頓死して獄卒の責苦を受け閻魔宮にては真言を忘れ、法華経の「今此三界」を唱えて蘇生したことを挙げます。ただし、これを記述する『大日経疏』には、閻魔王が善無畏の徳を称歎して蘇生させたとあり、法華経の文を唱えたとはありません。この善無畏が地獄の責め苦を受けた原因は、法華経を誹謗したからであり、それを逃れたのは法華経へ帰入した功徳であるとのべています。
「善無畏三蔵は法華経与大日経は理は同けれども事[乃]印真言は勝たりと書れたり。然に二人中に一人者必悪道[仁]可堕をぼふる処に、天台の釈は経文に分明也。善無畏[乃]釈者経文に其証拠不見。其上閻魔王[乃]責[乃]時我内証肝心[土]をほしめす大日経等の三部経の内の文を誦せず。法華経の文を誦して此責をまぬかれぬ。疑なく法華経に真言まさりとをもう悞をひるかへしたるなり。其上善無畏三蔵[乃]御弟子不空三蔵[乃]法華経[乃]儀軌には、大日経・金剛頂経の両部大日をば左右に立、法華経多宝仏をば不二の大日と定て、両部の大日をば左右の臣下のことくせり」(四一〇頁)
つまり、善無畏は法華経は理においては大日経と同じであるが、印・真言等の事相においては大日経に劣るという、「理同事勝」との誤った解釈をして、この法華誹謗の罪により、善無畏は堕地獄した実例としています。そして、金剛智・不空も天台宗に帰入し、三論宗の吉蔵も天台大師を師匠と仰ぎ謗法の罪を恐れていたが、時代が末になれば今の真言・三論宗・法相宗等の者は自業自得であり、浄土・禅などの一時一会の小経を信じる者は、無間地獄を脱れることができないとし、釈尊を本尊と定め法華経を信じれば謗法の科(とが)を脱れることができるとのべています。
「然者当世[乃]愚者は仏には釈迦牟尼仏[於]本尊と定ぬれば自然[仁]不孝[乃]罪脱がれ、法華経[於]信ぬれば不慮に謗法の科[於]脱たり」(四一二頁)
さらに、女人は五障三従であり、爾前経は「但記男子不記女」の『法華文句』を引いて、法華経以外の経では成仏ができないことを示し、罪のなかで最も重いのは「法華経誹謗の罪」(四一三頁)であるとのべます。日蓮聖人は、この手紙を与えている女性に謗法の罪の重いことを説きます。すなわち、過去に謗法罪がなければ、五逆罪を作っても、法華信仰の功徳により草木の露が大風に当たって飛び散り、冬の冰が夏の日陽ざしに当って溶けるようなものであるが、謗法罪を持っている者は、三千大千世界の草木を薪として燃やしても、須弥山は一分も損じることがなく、七日七夜のあいだ太陽が照らしても、大海の中を乾かすことができないと例えます。 また、八万の聖教を読み、大地微塵のような多くの塔婆を立て、大小乗の戒行をたもち、十方世界のすべての人々を自分の一子のように慈愛するとも、法華経謗法の罪は消えないと説きます日蓮聖人はここで、強い信仰心をもって法華経を持つことを勧めます。すなわち、
「然者此経[仁]値奉らむ女人は皮[於]はいで紙[土]為[志]、血を切てすみとし、骨を折て筆とし、血のなんだを硯水としてかきたてまつるともあくごあるべからず。何況衣服・金銀・牛馬・田畠等[乃]布施[於]以[天]供養せむはもののかずにてかずならず」(四一三頁)
つまり、法華経に縁があった女性は、身を削るように信仰しても、よい結果が出ないといって、それを倦み弛んではいけないと諭しています。まして、金品などの供養は些細な布施であるとのべています。末文が欠失していますが強い法華経の信心が必要であることをのべ厳しく諌めています。注目されることは、「理同事勝」を本格的に批判したのがこの『善無畏鈔』ということです。『顕謗法抄』において「理同事勝」は台密の教理とし、慈覚大師の名前を挙げていましたが、『善無畏鈔』においては善無畏などの三師のみに批判を加えています。ただし、この時点において、「理同事勝」は批判の対象とはなりましたが、台密と慈覚大師を批判されていません。円仁・円珍の台密を破折するのは文永一一年以降『曽谷入道殿御書』(八三八頁)のことですので、本書の系年のてがかりとなります。また、釈尊を本尊として信心をすれば謗法の罪を滅するとのべ、謗法堕獄からの救済をのべていました。 前にのべた一月六日付け『法華題目鈔』に、「根本大師門人」と署名していることから、日蓮聖人は正統天台の継承者という自覚に立たれて、門下の教育に専念されていたことがうかがえます。『神国王御書』にのべているように、小庵の御宝前には立像釈尊を本尊とし、一切経を安置して弟子信徒の教育をしていたと思われます。『浄土九品之事』の図示の一部に天地を逆にした書入れがあり、文永五年前後の執筆とされていますが、身辺が静かだった文永三~四年ごろともいわれ、門下の学問はより高度なものになっていたことがうかがえます。(中尾尭著『日蓮』一〇一頁)。 また、庵室には弟子が交替で殿居をしていたといわれています。武士社会における御館番の慣例に習っていたものとみられています。のちの身延廟所の輪番や、中山法華経寺の聖教格護の殿居は、この習慣を現しているともいえましょう。日蓮聖人がこのころから、天台大師講を本格的に始めたというのは、鎌倉に長く定住したためと思われます。 この年、良観は極楽寺の往侍になっています。良観は多宝寺と極楽寺を兼帯し、さらに多宝寺に隣接する淨光明寺の干与権をもちました。淨光明寺は長時が念仏者真阿に帰依して建長三年に建てた寺で、これに加え、良観房忍性は慈善事業を行なって鎌倉市民の尊敬をうけ、律宗の持戒僧であり真言密教の修法者として、真言律宗の地位を確立していきました。五月に園城寺の堂塔が消失します。『吾妻鏡』は文永三年七月の条で終わっています。鎌倉は悪天候がつづき、泥のような雨が降ります。木々の枝葉はその重みで折れ、市中の道は水田のなかを歩くようであり、百姓たちは畑作ができずに恐れ慄いていました。
○宗尊親皇送還 六月二三日に、将軍、宗尊親王の正室、近衛宰子(日昭上人の義妹、時頼の猶子)と僧良基の密通事件があり、これを口実に宗尊親王と良基は謀叛の嫌疑をかけられます。良基(?~一二六六年)は藤原基房の孫で真言宗の定豪に学び鎌倉で祈祷を行なっていました。文永三年に宗尊親王の病気平癒と、宰子の安産を祈願するため護身験者となります。しかし、時宗を調伏するために祈祷していると疑われたのです。時宗暗殺、宗尊親王の謀反、という疑いがもたれ、連署時宗の自邸で北条政村、安達泰盛らの緊急密談が行われます。良基は親王の謀反の疑いに連座して、ひそかに御所から脱出し、高野山にのがれ食をたって同年に死去したといいます。法印厳誉は遁世します。将軍の夫人や子供が御所から移されます。 得宗の時宗と執権は政村らによる寄合で、将軍の解任と京への送還が決定されます。この事件により、六月末から七月にかけて、近隣の御家人が甲冑をつけ鎌倉に馳せ集まり、とくに、名越流の北条教時(一二三五~一二七二年)が更迭に断固として反対し、宗尊親皇を京都に送還するとき、軍平一〇騎を召し連れて、薬師堂谷の邸から塔辻の宿所まで出向きます。得宗家の時宗の制止を拒否します。これは、将軍の交替を機に名越氏が得宗家に対して、武装した軍勢を率いて示威行動を行なったのです。この騒動により鎌倉市中に不穏な動きが頻発します。つぎの七代将軍は、わずか三歳の嗣子、惟康親王が征夷大将軍に就いたのです。北条幕府の計らいがみえます。名越家に護られていたという日蓮聖人は、のちに起きるであろう「自界反逆」(二月騒動)に繋がっていくことを感じ取ったことでしょう。(中尾尭著『日蓮』一一五頁)。 |
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