141.墨田・茂原・白井・野呂・若宮の巡行             高橋俊隆

・四六歳 文永四年 一二六七年

○母妙蓮死去

 八月一五日に母堂の妙蓮尊位が七四歳で没しました。日蓮聖人はこのとき鎌倉から安房に、帰省されたのではないかといいます。(『星名五郎太郎殿御返事』四二〇頁)。帰省された時期について、悲母の存命中に帰り、弟子の日朗・日澄・日向上人と看病し、臨終正念の題目を唱えられた、また、臨終を聞いて帰省された、あるいは、悲母の看病をつづけ小湊から鎌倉には帰省していなかったなどの説があります。

ただ、法華経の行者と自覚している日蓮聖人の、優先すべきことはなにだったのか、という見方をしますと、生死無常を知り釈尊の使者としての忠義も存していたと思われます。日蓮聖人においては少なからず蒙古の気配があったはずです。つまり、『立正安国論』の精神を幕府に忠言すべき責務と、なによりも法華経を弘通する役目があったのです。

 妙蓮寺の寺伝によりますと、岳父の妙日尊者の墓所に母堂の墓を建て、日蓮聖人が自ら両親の法号により妙日山妙蓮寺とされたといいます。よって、文永四年八月一五日の創建とされます。開山は日家上人です。戸頃重基先生は妙連寺の寺号について、母方の法号を使ったのは、日蓮聖人の出身にからむ謎といいます。(四〇頁)。『大観』には弘安四年一〇月一一日の創立、開山は妙法尼とあります。悲母の霊山往詣を願い染筆された「霊山約束手形本尊」が有名です。また、誕生寺の第三世の日静上人が隠居されて、妙蓮寺の両親閣に住まわれたといいます。

日蓮聖人の悲しみと、孝養心、そして、死後の「後生善処」を願ったことが、弘安三年(に五九歳)に身延にて書かれた、『刑部左衛門尉女房御返事』にうかがえます。

 

「父母に御孝養の意あらん人々は法華経を贈り給べし。教主釈尊の父母の御孝養には法華経を贈給て候。日蓮が母存生してをはせしに、仰せ候し事をもあまりにそむきまいらせて候しかば、今をくれまいらせて候があながちにくや(悔)しく覚へて候へば、一代聖教を・へて母の孝養を仕らんと存候間、母の御訪申させ給人々をば我身の様に思ひまいらせ候へば、あまりにうれしく思ひまいらせ候間、あらあらかきつけて申候也。定て過去聖霊も忽に六道の垢穢を離て霊山浄土へ御参り候らん」(一八〇八頁)

 

さて、鎌倉では八月に、長時・業時兄弟は、父の重時が康元元年に入道し住んでいた極楽寺の別業を律院と改め、良観を開山としました。これにより、極楽寺は重時の北条氏一門の帰依をうけ、鎌倉の筆頭格の寺として勢力をもちました。このほか、浄光明寺律宗の寺院となり、不断念仏であった金沢の称名寺も九月に審海をまねいて、北条氏の寺が律宗の寺院となります。良観などの律宗僧が重用されていきます。遺文は文永三年の『善無畏鈔』から、つぎの、文永四年一二月の『星名五郎太郎殿御返事』まで、一年以上の間欠があります。遠方に巡教されていたため、書状の往還がなかったと思われます。

 

□『星名五郎太郎殿御返事』(四七)

文永四年も年が最後の月となった一二月五日に、『星名五郎太郎殿御返事』を書かれています。宛先の星名五郎は興津の城主佐久間重貞の家臣といいます。日蓮聖人が母堂の四十九日の中陰忌をすませ、安房を経つときの返事といわれます。末文に、

 

「若し命つれなく候はば如仰明年の秋下り候て且つ申すべく候」(四二〇頁)

 

と、のべたのは母堂の小祥忌とみられ、明年に小湊に帰省することを知らせています。本書に、「何を以ってか邪見の失を知らん」(四一四頁)と質問し、「邪見の失を明すこと畢ぬ」(四二〇頁)とのべていますので、星名氏から「邪見」についての質問があったことがうかがえます。本書において日蓮聖人は、弘法の教えを邪義と斥けています。日蓮聖人は日本に伝来した仏教においても、大小・権実の教えの違いを知らなければ、十悪・五逆よりも重い邪見の罪により堕獄することを示し、天台・最澄のように経文によって「仏法の邪正」(四一五頁)を判断すべきとのべています。

「又我朝の叡山根本大師は、南都・北京の碩学と論じて、仏法の邪正をただす事皆経文をさきとせり。今当世の道俗貴賎、皆人をあがめて法を不用、心を師として経によらず。依之或は念仏権教を以て大乗妙典をなげすて、或は真言の邪義を以て一実の正法を謗ず。是等の類豈大乗誹謗のやからに非ずや。若経文の如くならば、争か那落の苦みを受ざらんや。依之其流をくむ人もかくの如くなるべし」(四一五頁)

と、念仏・真言者が法華経を誹謗するのは那落の罪、つまり、「邪見の失」は謗法の罪を作ることであるとし、それにより、それらを信仰している者は、堕獄の苦しみを受けるとのべています。本書に念仏と真言宗についての破邪があります。『善無畏鈔』を宛てた女性も真言宗の信者であり、星名氏も真言宗に関心をもっていたと思われます。

 つぎに、念仏・真言を謗法というのは不審という質問に答えます。まず、龍猛の作という『菩提心論』に「唯真言法中即身成仏。故是説三摩地法。於諸教中欠而不書」と、即身成仏の文があるが、ほんとうに即身成仏した者はないとのべます。そして、『菩提心論』に、法華経の二乗の授記作仏の即身成仏を、皆無と書いているのは不審なことと指摘し、この『菩提心論』は龍猛の著作ではなく、『大智度論』の「般若は秘密にあらず二乗作仏なし。法華は是秘密なり二乗作仏あり」、また、「二乗作仏あるは是秘密、二乗作仏なきは是顕教」の龍樹の説に相違することをのべます。また、弘法の『秘蔵宝鑰』に法華経を第三に下し、戯論としたことを仏意に背くと批判しています。

そして、善導・法然も同じ論理にて、謗法であるとのべます。そのなかでも、真言師は畜類を本尊として男女の愛法を祈り、荘園等の領地争いの祈願をして、その成果があったことを威徳としているが、これは世俗に染まった欲望であるとのべます。

 

「当知彼れ威徳ありといへども、猶阿鼻の炎をまぬがれず。況やはづかの変化にをいてをや。況や大乗誹謗にをいてをや。是一切衆生の悪知識也。近付べからず。可畏可畏。仏曰悪象等に於ては畏るゝ心なかれ。悪知識に於ては畏るゝ心をなせ。何を以の故に、悪象は但身をやぶり意をやぶらず。悪知識は二共にやぶる故に。此悪象等は但一身をやぶる、悪知識は無量の身無量の意をやぶる。悪象等は但不浄の臭き身をやぶる、悪知識は浄身及び浄心をやぶる。悪象は但肉身をやぶる、悪知識は法身をやぶる。悪象の為にころされては三悪に至らず。悪知識の為に殺されたるは必ず三悪に至る。此悪象は但身の為のあだ也。悪知識は善法の為にあだ也と。故に可畏大毒蛇・悪鬼神よりも、弘法・善導・法然等の流の悪知識を畏るべし。略して邪見の失を明すこと畢ぬ」(四一九頁)

 

つまり、これらは法華経誹謗の者であり、これら弘法・善導・法然の「悪知識」は、身意を破り三悪に堕ちる畏怖すべきことであり、親近しないように喚起されています。日蓮聖人は『涅槃経』の「高貴徳王菩薩品」の「悪知識」の文を多く引用されています。狂乱した悪象は私たちの身体を破壊するが、悪知識は身も心も破壊して三悪道に陥れる恐ろしい者であると例えます。末筆に、この書状を持参した使いが帰途を急ぐので、一端のみを走り書きしたとのべ、再度、経釈を調べて手紙を送るとのべています。また、この手紙を誰にも見せないようにのべ、存命ならば明年の秋に再会を約束されています。

 

○墨田・茂原・白井・野呂・若宮

 悲母の喪をすませ、墓前にて百日のあいだ読経されたといいます。ののち、日蓮聖人は日向上人の叔父である、興津の佐久間氏のところに宿泊し、埴生郡(長南町)の笠森観音の辻堂に宿泊されます。このとき、墨田(茂原市)、また、武蔵新倉(埼玉県戸田市)の領主、高橋時光氏が尋ねてきます。時光は弘安二年に身延にて弟子となり日徳と名のります。そして、高橋時忠の次男である中老僧の丹波阿闍梨日秀上人が、時光氏(高橋次郎時忠)の自邸に、庭谷山妙福寺を建て、日徳が開基となります。天保年間に妙源寺と改称しました。

 戸田市新曽(にいぞ)には、弘安四年四月八日に長誓山妙顕寺が建立されています。文永八年一〇月に佐渡配流の途次に、新倉の城主であった高橋時光の妻の安産を祈願しています。生まれた子供が九歳になった弘安二年に身延に登詣しています。妙顕寺の開創は日向上人です。至徳元(一三八四)年に、兵乱により新曽に移転しています。

 長南町には「立教開宗」のおり、東条から逃れて下総に行く途中、この笠森観音に隠れていたところでした。このとき、岩附谷(いわぶだに)の長南光重が、自分の家に迎えて匿ったといいます。日蓮聖人と生活を共にして、その教えを聞いた光重や家族が信者となり、光重に長立山光重寺という寺号を与えたとあります。そして、日蓮聖人の自筆の曼荼羅が、長南町の長立山本詮寺に大切に保存されているとあります。(『長南氏歴史物語』二二七頁)。本詮寺の開山は中老僧の下野阿闍梨日忍上人です。

 また、藻原城主藤原兼網氏(富木氏の妻の父という)の招待により、ここに宿泊し教化されます。兼網氏はのちに常在院日朝と名のり、建治二年一一月一二日に自邸を常楽山妙光寺とします。開山は日蓮聖人、二世に日向上人、三世に墨田五郎の子供、日秀上人が継ぎ、このとき、後醍醐天皇より「常在霊山」の勅額を賜り、山号を常在山に改称します。明治二年に地名に因み藻原寺と改称しました。藻原寺には宗宝として、文永一一年の無量世界曼荼羅、建治二年の開堂供養曼荼羅、弘安二年に日向上人に授与された曼荼羅、また、身延より池上に乗馬されたとときの「宗祖御乗鞍」などが格護されています。

日蓮聖人は、さらに、白井の秋元氏、野呂(千葉氏若葉区)の曽谷直秀氏宅に寄り教化したと思われます。下総の曽谷氏、太田氏、そして、富木氏のもとに向かいます。そして、一二月のはじめころに、若宮の富木氏のところに入ります。富木氏は日向上人の入門のことなどを知り、日頂上人を入門させます。幕府は一二月二六日に、御家人の困窮を救うため、売り渡した領地を無償で取り戻せる法令を定めます。この所領回復令は徳政令として、はじめてのものとなります。

 

○日頂入門

日頂上人は天台宗真間山弘法寺に入り出家しており、このとき一六歳でした。母親の富木尼はもともと出家を望んでいなかったのですが、日蓮聖人の弟子となったことをよろこばれます。前にのべたように、日頂上人は駿州富士重須に生まれ、父の南条伊予守定時が戦死したあと、母堂はいっとき鎌倉に住み、富木常忍の後妻となっていました。

 この富木氏のところにて越年します。この冬はことさらに寒さが厳しく、富木氏が停留を願ったといいます。このおり、古河(茨城県)の千葉氏が信徒となり、のちに、弟子となり日胤(千葉介常胤の子供)と名のります。建治元年に御本尊を授与され、法興山妙光寺の開基となります。日蓮聖人はこの富木氏のところにて、多くの要文を書写したといいます。中山法華経寺には、『要双紙文』・『天台肝要文集』・『破禅要文』『秘書要文』などの写本が所蔵されており、紙背文書(文永二年)により、これらは文永二年以降の、この時期に書かれたと推定しています。(中尾尭著『日蓮』九八頁)。弟子や信徒の教化など、とくに、下総における地盤を固めた時期といえましょう。