142.蒙古国書到来                                  高橋俊隆

・四七歳 文永五年 一二六八年

■第五章 蒙古国書到来から竜口前夜まで

◆第一節 蒙古国書の到来

○蒙古の動き

一二〇六年(建永元年)に、チンギス・ハーン(太祖、一一六二~一二二七年)はモンゴルの大王の地位に就きました。蒙古は大国の金を服従させアジアを席巻し、西は東ヨーロッパ、南はアラビア、東は朝鮮半島まで勢力を拡大していました。モンゴルの遠征は一二二七年(安貞元年)チンギスの死後もおこなわれ、つぎのフビライ・ハーン(世祖、一二一五~九四年)になると、国号を元(易の「大哉乾元」)と改め、南宋攻略をすすめて高麗にも侵略するようになりました。この動乱を逃げて日本に来ていたのが、蘭渓道隆や兀庵普寧などの禅僧でした。幕府は蒙古軍の情報をこの禅僧からを得ていました。一二五八(正嘉二年)に高麗は攻め落とされます。しかし、これに反抗して三別抄とよばれる精鋭軍は、珍島(ちんど)を新たな首都として抗戦していました。元からの国書はこのようなときに届けられようとしていました。東アジアで元に抵抗していたのは、珍島の三別抄政権と南宋だけでした。

高麗の趙彝(ちょうい)はフビライに、日本と中国は古くから交易をしていることを進言したといいます。(川添昭二著『日蓮と鎌倉文化』三六頁)。フビライから見た日本の産金性が、魅力だったかは別としても、蒙古における南宋の支配は重要なことでした。南宋からすれば日本との通行を切断されることは、大きな痛手となるという見方ができます。

フビライは文永三(一二六六)年に、日本に国書を渡そうとして、黒的(こくてき)・殷弘(いんこう)を国使と任命し、高麗に案内役を命令します。一度は高麗の巨済島まできましたが悪天候のため断念し、翌年一月に引き帰します。この背景に高麗の宰相李蔵用が、蒙古と日本の戦争が起きたときに、高麗が先鋒となることを危惧し、黒的に書状を送り渡日を阻止したともいます。しかし、フビライは再度、高麗に日本への服属を迫り、高麗は潘阜を使者として、文永四年八月に江都をたち日本国に向かい、一一月に対馬に着いていました。(高木豊著『日蓮その行動と思想』七六頁)。そして、この文永五年一月に大宰府(福岡県)に到着したのです。(「一月八日」高橋智遍著『日蓮聖人小伝』一四七頁)。

『立正安国論』を上呈してから八年を経て、高麗王からの二度目の使者藩阜(はんぷ)が、蒙古の世祖フビライの国書を携えて太宰府に来たことになります。実に、フビライが日本に服属を命じる詔を高麗に渡してから、二年の歳月を経て到来したのです。鎮西奉行の太宰小弐武藤資能(しょうにすけよし)は、閏一月五日鎌倉幕府に届けました。(川添昭二著『日蓮と鎌倉文化』三八頁)。蒙古(文永三年八月)と高麗(文永四年九月)の二通の国者が、幕府に到着したのは閏一月一八日、そして、朝廷に届いたのが二月七日でした。

宗性が書いた『調伏異朝怨敵抄』が東大寺の図書館にあり、このなかに蒙古の国書の写しが収まっています。これによりますと、書き出しは、「上天の眷命せる大蒙古国皇帝、書を日本国王に奉ず」という丁重な文言で始まり、結びも「不宣」とあり、これは日本国を臣としないという意味です。では、主旨はなにかといいますと「問いを通じ好を結び、以て相親睦せよ」という好意的なものに見えます。

しかし、フビライからの国書は、日本との通交関係を結ぶという丁重な文面にみえますが、これに同意しないならば「兵を用いるに至らば、それ孰(たれ・いずれ)か好む所ぞ」と書かれており、出兵の用意もあるという威嚇を込めた文言と受け止めることができました。フビライにとっては同時に珍島の政権と南宋を孤立させるための政略であり、日本は南宋と交易をしていたので日本を南宋から引き離すことにより、南宋の経済力を弱める目的であったといいます。

幕府は評議した結果、蒙古の国書の真意は武力を行使してでも、日本を他国と同じように支配下におくという脅迫のようなもので、いわゆる侵略を意味していると解釈しました。幕府は京都の朝廷に国書を回送し取り次ぎますが、幕府の評定を二月七日に伝達しました。朝廷は後嵯峨上皇の五〇歳の祝賀(五十の賀)を停止して、二月八日より評議します。連日の評議の末に蒙古には返牒をしない、すなわち黙殺することを決めました。朝廷は二月一九日に結論を下し、幕府に伝達します。そして、二月二五日に攘夷の祈祷のため、二十二社に奉幣します。

幕府に伝達された書面には、答書は不要とあったので、幕府は高麗の使節になんらの書状も持たさずに帰国させます。朝廷としては国書の内容が無礼であるとして、答書をあたえないとしたのです。フビライの国書は日本との通交関係を促す文面でしたが、朝廷は国書の内容の示唆を、大陸を制覇した蒙古が脅威であり、蒙古国王が日本に服従を求める要求と解釈したのです。はたして、朝廷が国際情勢について、適切な情報を持っていたのかと指摘されています。また、幕府においても蒙古に関する情報は、蒙古の侵略から逃れて来日した禅僧や、貿易関係者たちという、いわば、蒙古から侵略された南宋の敵対心を含むものであったので、正しい蒙古の情報は得ていなかったといいます。

一方の解釈として、蒙古は親交を求めただけで、儀礼的なものであったという意見があります。しかし、国書の背後に軍事侵略を警戒するのは当然のことであり、幕府から朝廷へ回送された国書にたいし、幕府や朝廷はアジア諸国の状況からして、侵略してくると解釈しました。このため、二月一五日、朝廷は伊勢神宮・石清水八幡宮などの二二社に奉幣して異国降伏の祈願をおこなわせ、また、異国の事態なので山陵使が派遣され、大社に異国調伏の祈願を行わせて交戦の覚悟を決めました。幕府も二月に賀茂社に神馬・御剣を奉納し、二七日に防衛体制を整え警戒をするように、讃岐の守護北条有時や御家人に命令をだし、異国警護・異賊警護の用心を発しています。このように、防衛体制を担ったのは幕府でした。

蒙古襲来は、法華経の行者をあだみ、謗法の国となった日本を襲う必然的な「他国侵逼」でした。。日蓮聖人は幕府の対応について、『種種御振舞御書』に、

「蒙古国の牒状に正念をぬかれてくるう(狂)なり」(九六〇頁)

 

と、ただ驚き動揺し、正しい判断ができないでいるとみています。たしかに、『鎌倉幕府新式目一三〇』(歴史学研究会編『日本史史料(2)中世』)に、「蒙古人凶心を挿み、本朝を伺うべきの由、近日牒使を進むるところなり。早く用心すべきの旨、讃岐国御家人等に相触れらるべきの状、仰せに依って執達くだんの如し。文永五年二月廿七日 相模守」(原漢文)とありますように、蒙古の国書は国政を衝撃するものであったのです。

しかし、朝廷や幕府の危機感とは違い、国民は自分たちが殺害され、国家が隷属させられるとまでの、認識には至っていなかったようです。『光日上人御返事』に、

 

「例せば此弘安四年五月以前には、日本の上下万人一人も蒙古の責にあふべしともおぼさざりしを、日本国に只日蓮一人計かゝる事此国に出来すべしとしる。其時日本国四十五億八万九千六百五十八人の一切衆生、一人もなく他国に責られさせ給て、其大苦は譬へばほうろく(焙烙)と申す釜に水を入て、ざつこ(雑魚)と申小魚をあまた入て、枯たるしば(柴)木をたかむが如なるべし、と申せばあらおそろしいまいまし、打はれ、所を追へ、流せ、殺せ、信ぜん人々をば田はたをとれ、財を奪へ、所領をめせ、と申せしかども、此五月よりは大蒙古の責に値て、あきれ迷ふ程に、さもやと思人々もあるやらん。にがにがしうしてせめたくはなけれども、有事なればあたりたり、あたりたり。日蓮が申せし事はあたりたり。ばけ(化)物のもの申様にこそ候めれ」(一八七八頁)

 

さて、蒙古はこの後、翌文永六年に対馬の島民を連れ去り、金有成が対馬に来て牒状を示しています。文永七年に高麗の三別抄の乱が起き蒙古に抗戦しますが、ついに文永一〇年に敗退します。この間、フビライは金州に屯田を設置して日本侵略を図り、文永八年に国号を元と改め、文永九年に趙良弼を再び日本に遣わしています。そして、洪茶丘に日本征伐を命じ、対馬・壱岐・博多に上陸したのは、文永五年の国書到来から六年後の文永一一(一二七四)年のこととなります。蒙古から国書が届いたこの一月に、凝然は『八宗綱要』を完成しています。

 

○執権時宗

このときの将軍は幼少の惟康親王で、執権は政村、連署は時宗でしたが、『鎌倉幕府新式目』にみられるように、実権はすでに時宗が持っていました。そこで、幕府は三月五日に一八歳の時宗が執権に就任し、前執権の六四歳の政村が連署としてこれを補佐する体制がつくられました。幕府が体制を一新したのは、蒙古の外敵襲撃に対処するための、防備体制をつくるためです。時宗は重要な事項は政村などの一門と、側近の安達泰盛、そして、平頼綱などの数名で決めていました。これは、時頼が行っていた寄合という得宗の方式でした。北条氏以外の武士は御家人と御内人に大別されます。御内人とは得宗の直臣のことで得宗被官をいいます。侍所の所司(次官)であった平頼綱が御内人の代表といえます。平頼綱はのちに入道して平禅門となのっています。

三月二三日、東寺は異国降伏の祈祷をしています。幕府は讃岐(香川県)の御家人を九州の防備に就かせます。四月に全国の諸社寺に蒙古降伏の祈願をさせ、時宗も臨済宗に帰依し、父のいた最明寺を禅興寺として伽藍を大きくしています。この開山に迎えたのが道隆で、道隆は蒙古のスパイと疑がわれ、二度の配流をうけながらも時宗に従っています。道隆が没したあとは南宋から無学祖元を迎え、のちに円覚寺を建立して開山としています。

その後、時宗は京都の公家政権から外交権を幕府に移し、蒙古にそなえ「大田文」を提出させて動員計画を立てます。御家人以外の領地からも兵糧米を徴収し、非御家人の動員権も支配して生きます。九州の御家人には石築地(いしついじ)を造らせ、関東の御家人や一門の武士を、九州や長門に派兵していきます。富木氏の主君である千葉氏も防備についています。このとき、御内人が蒙古対戦にそなえて戦場に派遣され、御家人たちの指揮にあたります。

日蓮聖人のもとにも、比較的に早くに蒙古の国書到来の知らせは入られたようで、これは得宗御内人宿屋最信などの得宗の側近に情報源をもっていたためといわれています。また、『立正安国論』に他国侵逼を予言できたのは、経済活動をして正確な情報が早くに伝わっていた、比叡山にいたときに察知できたという説があります。とくに僧兵は経済活動が盛んで源平合戦のときから幕府と政治的に反目するところがあり、これらが日蓮聖人に影響し蒙古の襲来を予言できたとします。((中本征利著『日蓮と親鸞』三四〇頁)。
 民衆にとって蒙古国書は大きな衝撃であり、日蓮聖人が『立正安国論』にのべた、他国侵逼の難の予言を的中させたものでしたので、蒙古の使者がきたという情報は、またたくまに駆け巡り、民衆の驚きと恐怖心が深まることになりました。

 

□帰鎌倉と『安国論副状』四八 

日蓮聖人は春ころに富木氏のもとから、鎌倉に帰ったと思われます。(『日蓮宗事典』)。本書は『立正安国論』の奥書の、『安国論副状』(四二一頁)の一紙一〇行の断片が、身延に曽存していましたが、明治八年に焼失しました。この断片は『立正安国論』の真筆の奥に書かれていたとあります。また、本書の一紙は、その『立正安国論』の冒頭に加えられていたといい、時頼に上奏した由来を記した「副書」の性格をもつといいます。この焼失した『立正安国論』が幕府に提出した正本ではないか、という指摘があります。(中尾堯著『ご真蹟に触れる』)。

後半の部分を欠くため、正確な宛先は不明ですが、このとき、幕府は蒙古国書の対策に苦慮していました。日蓮聖人は時頼の意志を継ぐと思われる、執権時宗に『立正安国論』を呈し、禅宗も批判されます。禅宗批判は『教機時国鈔』から顕在化しますが、時宗への禅宗批判は蒙古対策に禅僧を起用していたことも考えられ、回帰法華を進言したと推定されています。この『安国論副状』は、時宗に『立正安国論』の「他国侵逼」の的中を示し、法華信仰による治世を進言し、時頼と同じように対面を望んだと思われます。しかし、時宗からの返答はありませんでした。

 

□法鋻御房宛て『安国論御勘由来』(四九)

 四月五日付けの『安国論御勘由来』は、法鋻御房に宛てています。真蹟は五紙で中山に現存しており、真筆の上部は擦り切れて「法」の文字は下部分だけなので、あるいは別の文字(借音)とも思えますが、伝記は法鋻房としています。法鍳房については詳しいことは分かっていません。一説に日昭上人のこと(『仏祖統紀』)、また、平頼綱の父、平三郎三衛門尉盛時の入道名といいますが不明です。

盛時の父盛綱が入道して盛阿となってからも、父子ともに公務をしていたという『吾妻鏡』により、盛時と平頼綱も家司と侍所司の公務を行っていたと推測しますが、法鋻房を盛時とする根拠はないとします。そして、法鋻房が禅門といわれているので、僧侶ではなく入道であるとします。そして、法鋻房が盛時ならば、この四月から一〇月の間に死去したのではないかといいます。それは、『与平左衛門尉頼綱書』に、

「併貴殿者為一天屋梁為万民手足。争此国滅亡事不歎耶不慎乎。早須加退治制謗法之咎」(四二八頁)

 

と、のべたことです。平頼綱が「一天の屋梁たり、万民の手足たり」であるということは、権力として国家の棟(むね)の重みをささえる横木であり、職務としては国民の手足となるべき存在になっていたことです。(山川智応氏『日蓮聖人伝十講』上巻三五四頁)。しかし、房の名称があるので純粋な出家僧であるともいわれます。房名は僧名の下に添えるものであることから、入道や禅門をさすのではないといいます。(『日蓮聖人全集』一巻四五六頁)。

また、平盛時は時宗に次いで実権をもつ家司得宗、侍所の所司であったので、蒙古との軍事に関わる人物に宛てたと推測できますが、『年譜攷異』は不審としています。また、本書に「禅門」という人物は、法鍳房ではなく「宿屋禅門」(『安国論奥書』四四三頁)とすると、つぎの、『宿屋入道許御状』や『十一通御書』の宿屋入道宛ての遺文が通読できるとしています。(『日蓮聖人遺文全集講義第七巻上三八〇頁』)。「御房」も純粋な出家僧とうけとれます。川添昭二先生は『立正安国論』の採用を迫っているところから、北条氏(得宗か一門)やその被官に近い僧侶としています。(『日蓮と鎌倉文化』四四頁).いずれにしても、文面からして宿屋入道と親しい幕府の要人であり、時宗に相応の影響力をもった、幕府の要人であるといわれています。さらに、本書の末尾にのべた一文が注目されています

 

「但偏為国為法為人為身不申之。復禅門遂対面。故告之。不用之定可有後悔」(四二四頁)

 

つまり、法鋻房館と禅門が同一人物でしたら、本書を書く前に対面していることになります。禅門が得宗御内人である宿屋入道とすれば、法鍳房に書状を宛てる以前に宿屋入道と対面していることになります。つまり、宿屋入道としますと、本書は宿屋禅門にお会いして『立正安国論』のことを申しましたので、貴方には書面をもってお伝えします、ということになります。日蓮聖人が幕府と交渉を持っていたことがうかがえます。すなわち、「国土の恩を報ぜんがため」(四二二頁)に、『立正安国論』を北条時頼に上呈したが、天災は引き続き文永元年七月にも凶瑞があり、腐心していたところ、予言した「他国侵逼」が的中したことを具申します。そして、大日能忍の禅宗を

 

「予弥増長悲歎。而捧勘文已後経九ケ年、今年後正月見大蒙古国国書。相叶日蓮勘文宛如符契(中略)日蓮見正嘉大地震・同大風・同飢饉・正元々年大疫等記云、自他国所破此国先相也。雖似自讃若毀壊此国土、復仏法破滅無疑者也」(四二三頁)

勘文とは『立正安国論』のことで、「御勘由来」とは『立正安国論』を執筆した理由をのべたものです。そのなかで、「他国侵逼」が、割符のごとく適中したことをあげ、蒙古襲来を対冶する方法を知っているのは、山門の叡山を除いては日蓮聖人一人であるとべ、対面を願うものでした。「大蒙古国」とあるように、「他国侵逼」が蒙古であると、直接、明言した最初の書状といわれます。

また、禅宗について教義の上では邪教であると批判されていましたが、本書に大日能忍の名前をだして批判されています。これは、禅宗の勢力が強くなったことを懸念したといいます。のちに、円爾・蘭渓道隆が加わります。時頼が帰依した兀庵普寧、時宗が帰依した無学祖元の名前は、遺文にみえないといいます。宿屋入道と対面してのべたこととは、「他国侵逼」の予言の的中に、あらためて、『立正安国論』を写して、時宗宛ての蒙古に関する内奏を依頼したことといわれます。それが、『安国論副状』です。しかし、宿屋入道からも法鍳房からの返答はなく、この一ヶ月前の三月に執権についたばかりの時宗と、宿屋禅門との関係が薄かったとしても、幕府は蒙古対策に苦心している最中でした。

さて、この四月五日から、つぎの『宿屋入道許御状』の八月二一日のあいだに、母堂の一周忌(八月一五日)にあたり、小湊に帰省されたことも推測できます。世情の動向から小湊往復は、短期間であったかも知れませんが、「他国侵逼」の的中に安房の信徒たちから、招請があったかもしれません。(『星名五郎太郎殿御返事』四二〇頁)。四月一三日、亀山天皇は蒙古調伏の祈願のため伊勢神宮へ宸筆の宣命を奉納します。(『続史愚抄』)。また、幕府は諸社寺に、蒙古調伏の祈祷を命じます。(『元寇記略』) 七月一七日、朝廷は異国降伏の祈祷を命じます。

□『宿屋入道許御状』(五〇)

日蓮聖人は宿屋入道にたびたび手紙を出して、その後の事情を聞かれています。八月二一日に『宿屋入道許御状』(四二四頁)を送り、委細について問訊したいと会見を求めますが返事がなく、さらに九月にも重ねて書状を送り、

 

「知って奏せざるの失は偏に貴辺に懸かるべし」(『宿屋入道殿再御状』末文欠失、四二五頁)

 

と、強い口調で諌め時宗に内奏を求めましたが、ついに返答はありませんでした。この蒙古からの国書は、『立正安国論』に説いた予言が適中したということで、日蓮聖人をはじめ門下一同は、法華経の確信と布教の活気をえたのです。そして、幕府の中や鎌倉の民衆のなかにも同調者がふえてきました。信徒に宛てられた『上野殿母尼御前御書』に、

「法門の事。日本国に人ごとに信ぜさせんと願して候しが、願や成熟せんとし候らん、当時は蒙古の勘文によりて世間やわらぎて候なり。子細ありぬと見へ候。本より信たる人々はことに悦げに候か」(四六〇頁)

 

と、伝えているように、教団にたいしての抵抗が和らいだ様子がうかがえます。日蓮聖人はこの機に乗じて、さらに諸宗破邪を進めました。知教者の責務として、法華経に帰敬すべきことを、幕府に示す好機と思われたことが、『宿屋入道許御状』の、

 

「日本国の中には、日蓮一人まさにかの西戎を調伏するの人たるべし」(原漢文四二四頁)

 

と、のべた自負の言葉にあらわれています。しかし、日蓮聖人の法華経公認の文言は、念仏や禅などの諸宗の排除を求めるものでしたので、幕府の考えに反するものでした。また、幕府は真言宗に蒙古調伏の祈祷を頼みます。律僧の叡尊も祈祷を行っています。鎌倉には畿内の真言僧が集まる状況になりました。このような状況の中で、日蓮聖人は幕府の宗教政策のまちがいを指摘し、諸宗にたいしての批判(真言亡国)を強めることになります

この文永五年の蒙古国書の到来を契機に、諸宗批判は激化していきました。日蓮聖人にとって「他国侵逼」を予言し的中したことは、仏使としての自覚を確信することになりました。『立正安国論』では、災害の原因を法然の念仏を信仰するためとしていましたが、『安国論御勘由来』(四二三頁)にいたって、念仏に加えて禅の大日能忍の批判が加えられました。

時宗の禅宗支援により禅宗が興隆してきたことと、幕府の禅に対する受け入れが強まっていたことをうかがえます。時宗が禅僧に対蒙古の助言を必要としたとはいえ、日蓮聖人はこの頃より文面に禅宗批判(禅天魔)が加わっていきます。どうじに、蒙古襲来の的中と恐怖感から、日蓮聖人に帰依する信徒が急増していったといいます。これに応酬して、日蓮教団への非難と悪口がありました。それは、日蓮門徒たちは仏像を水に投げ入れ、火に焼き、武器を隠匿して凶徒となっていると世間に妄言したのでした。このような虚偽をなすのは悪徒の常のことでした。それほど日蓮聖人の存在が大きくなっていたことの証左といえましょう。

 

□『十一通御書』(五二~六二)

 一〇月一一日に日蓮聖人は十一ヶ所に書状を送ったとされます(伝承)。十一通の宛先は、四通は時宗のほかに、宿屋入道・平頼綱・北条弥源太です。ほかに七大寺に送られます。

建長寺――道隆―臨澄宗―時頼の開基    極楽寺――良観―真言律宗―重時・長時・業時

大仏殿――浄光―浄土宗―泰時       寿福寺――栄西―臨済宗――政子

浄光明寺―真阿―浄土宗―長時       多宝寺――良観―真言律宗―業時(廃寺)

長楽寺――智慶―浄土宗―政子(廃寺)

このうちの七寺は、北条氏の体制内のもので、日蓮聖人と背離していたことをうかがえます。鶴岡の別当、龍弁は対象となっていません。それは、天台宗寺門派の名匠であったからといいます。(宮崎英修著『日蓮とその弟子』八四頁)。

また、七寺のうち、建長寺と極楽寺の二寺だけに道隆と良観の名前を書き、あとの五寺は侍司か侍者となっています。道隆と良観がとうじの仏教界を統率し、幕府にも権力をもっていたためと思います。この七寺とは、『与北条弥源太書』に、

「日本亡国之根源起自浄土・真言・禅宗・律宗邪法悪法。召合諸宗令諸経勝劣分別給」(四二九頁)

と、日本に流行している四宗をあげて攻めています。蒙古国書の内容が、大仏殿の別当に宛てた文章のなかに挙げており、日蓮聖人がこの国書の文面を入手したのは、この弥源太からではないかといいます。弥源太に宛てた本書に、

 

「去月御来臨、急急御帰宅無本意令存候抑蒙古国牒状到来事上自一人下至万民驚動無極」四二九頁

と、日蓮聖人の庵室に尋ねていたからです。弥源太については後述します。『與宿屋入道書』(四二七頁)には、宿屋入道にたいし、蒙古対策について、日蓮聖人の意見を取り上げるための評議をすることを促すとともに,三月に執権になった時宗との会見の取次ぎを依頼しています。その『與北条時宗書』のなかに、

 

「所詮は万祈を抛捨(なげす)てて諸宗を御前に召し合わせ、仏法の邪正を決し給へ」(四二六頁、原漢文)

 

と、蒙古調伏は法華経に限定されるのであるから、仏法の邪正を裁断するのは、国主の責務であるとして、強く「公場対決」を求めていたのです。どうような内容を幕府の有力者である、宿屋入道・平頼綱・北条弥源太に宛てて、日本仏教を代表する道隆と良観との「公場対決」の実現を依頼したのです。また、七寺にたいしても、仏道を歩む者として仏教の法門を論じ、日本国の一切衆生を救済すべきことを促したのです。そして、蒙古国書の到来を証拠として、『立正安国論』の正当性と、法華経に帰依すべきことを進言しました。これらの書状を「十一通御書」といいます。時宗は道隆の禅宗、政村は良観の真言律宗、平頼綱は叔父の光盛とどうように浄土宗、宿屋入道は念仏・禅宗でした。光盛は出家して安楽房盛弁といいました。八幡宮別当の隆弁の高弟ともいいます。(尾崎綱賀氏『日蓮』一五六頁)

「十一通御書」は、原文書が失われており、近世に編纂し書写された『本満寺本』に納められているだけですが、宿屋入道への働きかけを史実として真蹟としています。これにたいし、浅井要麟先生は姉崎正治氏の偽書説を支持し、さらに、考察をし偽書としています。(『日蓮聖人教学の研究』三五四頁)。また、川添昭二氏も偽書であることは明確であるとしています。(『日蓮と鎌倉文化』五三頁)。

ただし、蒙古国書の到来を「他国侵逼」として、『立正安国論』と法華経の正当性を説いたことは事実です。したがって、「十一通御書」に類似した書状があってもおかしくはありません。山中講一郎氏は構造などからして真撰としています。(『日蓮自伝考』五九頁)。後述しますが、高木豊先生は『大師講書』(『(大田)金吾殿御返事』に、「去年方々に申て候」というのは、文永五年の『十一通御書』と推定しています。これら「十一通御書」といわれる書状は、蒙古から国書が到来したことをうけて、蒙古から侵略されることへの危機感と、災難退治について喚起した内容です。

しかし、日蓮聖人の意見は、容易に受け入れられるものではありません。十一通の書状を届けた日蓮聖人の弟子に向かって、悪口し敵対したことが、『種々御振舞御書』に、

 

「其年の末十月に十一通の状をかきてかたがたへをどろ(驚)かし申ス。国に賢人なんどもあるならば、不思議なる事かな、これはひとへにただ事にはあらず。天照太神・正八幡宮の僧につい(託)て、日本国のたすかるべき事を御計のあるかとをもわるべきに、さはなくて或は使を悪口し、或はあざむき、或はとりも入ず、或は返事もなし。或は返事をなせども上へも申サず」(九五九頁)

と、のべられています。十一通の書状にたいしての扱いは邪見にされたものでした。『金吾殿御返事』にも、

 

「方々に申して候しかども、いなせ(否応)の返事候はず候。今年十一月之比、方々へ申て候へば少々返事あるかたも候。をほかた人の心もやわらぎて、さもやとをぼしたりげに候」(四五八頁)

と、のべているように、日蓮聖人にたいしての返書はありませんでした。返事はあっても重要なこととして取り扱う者はなかったのです。しかし、日蓮聖人にとってはこの諫言により、流罪か死罪に処せられることは必ずあると確信していました。これを知らせたのが『弟子檀那中御書』です。

□『弟子檀那中御書』(六三)

 

すなわち、本書と『金吾殿御返事』に次のようにのべています。

 

「就大蒙古国簡牒到来以十一通書状方方令申候。定而日蓮弟子檀那流罪死罪一定耳。少莫驚之。方方強言不及申是併而強毒之故也。日蓮所令庶幾候。各各可有用心。少莫憶妻子眷属。莫恐権威。今度切生死之縛令遂仏果給」(四三六頁)

 

「これほどの僻事申て候へば、流死の二罪の内は一定と存しが、いまゝでなにと申事も候はぬは不思議とをぼへ候」(四五八頁)

 

と、十一ヶ所に「破邪顕正」と「公場対決」を要求した書状を送ったので、この行為により必ず流罪か死罪にあうだろうと弟子信徒に伝えます。日蓮聖人は幕府からの弾圧を覚悟しての諫言であったのです。

また、信徒にたいしても、「而強毒之」の下種を達成するときであるから、妻子眷属にとらわれず、いかに権威をもって追い払われようとも恐れることなく、生死の縛(きずな)を断って仏果を得るときであると告げます。日蓮聖人の門下一同が異体同心の信仰をもって、「死身弘法」を行うことを宣言したのです。このときの信徒たちは、日蓮聖人から「不惜身命」の覚悟をできるだけの、信仰心を養成されていたことがわかります。日蓮聖人は伊豆流罪・小松原法難を経過し、足跡の不明な文永三年前後にかけて、着々と而強毒之」の下種を充分に教えていたのでした。

さて、幕府の反応はどうだったのでしょうか。幕府は律宗や真言宗の僧に蒙古の退散祈願を依頼し、畿内からは真言僧が次々に鎌倉に入ってきました。日蓮聖人の諫言と公場対決の願いは、完全に黙殺されたのです。(『金吾殿御返事』四五八頁)。しかし、諸大寺は自宗の教えを邪義と批評され、日蓮聖人の予言が的中したのは、その証拠と突き付けられ、強い反感を持ちます。じわじわと教団の破壊を策謀していたのです。『種種御振舞御書』に、

 

「其年の末十月に十一通の状をかきてかたがたへをどろ(驚)かし申。国に賢人なんどもあるならば、不思議なる事かな、これはひとへにただ事にはあらず。天照太神・正八幡宮の僧につい(託)て、日本国のたすかるべき事を御計のあるかとをもわるべきに、さはなくて或は使を悪口し、或はあざむき、或はとりも入ず、或は返事もなし。或は返事をなせども上へも申ず。これひとへにただ事にはあらず。設日蓮が身の事なりとも、国主となり、まつり(政)事をなさん人々は取つぎ申たらんには政道の法ぞかし。いわうやこの事は上の御大事いできたらむのみならず、各々の身にあたりて、をほいなるなげき出来すべき事ぞかし。而を用る事こそなくとも悪口まではあまりなり。此ひとへに日本国の上下万人一人もなく法華経の強敵となりて、としひさし(年久)くなりぬれば、大禍のつもり、大鬼神の各各の身に入上へ、蒙古国の牒状に正念をぬかれてくるう(狂)なり」(九五九頁)

 日蓮聖人は『立正安国論』について、再吟味し正しい政治を行うべきであるはずなのに、その兆候は一向になく、かえって、「法華経の強敵」となって悪口をなすことに落胆し、どうじに法華経の行者の覚悟を強めていきます。これは、門弟も同じく迫害を受けて行くことでもあったのです。

 門弟のなかにも、信心の弱い者は躊躇し、「不惜身命」までには至らない者がいたと思われます。少輔房や能登房が退転したのは、この時ではないかといいます。しかし、日蓮聖人の教えを護った信徒は、良観たちが訴えた人名が二百六十余人いました。(『種種御振舞御書』九七〇頁)。この交名帳にのせられた信徒は、有力な中心的な人物ですので血縁・俗縁・一族、地縁、従属関係、個人的な信徒を数えれば、大きな教団に成長していたのです。(宮崎英修先生『日蓮とその弟子』九二頁)。このこともあってか、日蓮聖人の真言批判は、幕府が日蓮聖人の諫言を用いずに、真言僧を登用し退散祈願を行った、この文永五年から本格的に強まったといえます。

 

□『一代五時図』図録一三

 

 『定遺』には文永五年頃、『対照録』には建治二年とされています。真蹟は一〇紙が中山法華経寺に所蔵されています。内容は通例のように釈尊一代を五時に区分し、それぞれを経文を引用して法華経の立場を鮮明にしています。とくに、法華経の文の引用が一一点あり、この引用された文は佐渡の『開目抄』などにおいて重視されることから、著作の年代が佐後とするほうが妥当といわれています。

 

□『日月之事』図録一四

 『定遺』は文永五年頃とし、『対照録』では建治元年とされています。真蹟は六紙が中山法華経寺に所蔵されています。内容は日月の威光の盛衰について諸経を引き、日天の三学、一切衆生の眼目として五眼を備えていること、『法華文句記』の「部雖方等義円極故。故今引之」(二三〇六頁)の文を引き、弟子達に教示したものと思われます。

○蝦夷蜂起

 

 他国から侵逼されるという仏説は、予言の通りになりました。蒙古の国書が到来したこの年に、蝦夷の蜂起もありました。津軽の蝦夷管領である安藤五郎氏が、蝦夷の反乱によって砦を焼かれ、討ち死にした事件があったのです。もちろん日蓮聖人は蒙古にも、蝦夷にも行ったことはありません。『清澄寺大衆中』にのべているように、

 

「日蓮はいまだつくし(筑紫)を見ず、えぞ(西戎)しらず。一切経をもて勘へて候へばすでに値ぬ」(一一三六頁)

 

日蓮聖人は仏教に、正法が捨てられ邪法が充満すると、三災七難が起きるという仏説を正直に伝え、日本国の平和を願い国民の幸福を願うために、勘文として『立正安国論』を上呈されたとのべています。蝦夷については、斉明四(六五八)年四月に、阿部比羅夫が水軍一八〇隻を率いて、征伐に行ったことが知られています。翌、斉明五(六五九)年三月に、阿部比羅夫が蝦夷を征伐し、後方羊蹄に郡領を設置します。同年の遣唐使と唐の高宗との問答に、最遠方に「都加留」(つがる・津軽)という固有の名前がでており、この地方に、ある程度の規模をもった集団が存在していたことがわかっています。宝亀元(七七〇)年ころから動乱期に入ります。蝦夷が宮城県石巻市の、桃生城(ものう・もものう)を侵略した記録があり、宝亀一一(七八〇)年の「宝亀の乱」には、多賀城を陥落させています。延暦八(七八九)年には、「巣伏の戦い」に蝦夷征討の遠征軍を撃退した、阿弓流為(アテルイ)は有名です。桓武天皇はこのあと、延暦七(七八八)年・延暦一三(七九四)年・延暦二〇(八〇一)年の、三回もの征伐隊を派遣するほどです。三回目の胆沢周辺における蝦夷との戦乱のときには、坂上田村麻呂が延暦二一(八〇二)年に胆沢城、翌年(八〇三)年に志波(紫波)城を築いて征伐しています。弘仁二(八一一)年には、文屋野綿麻呂が討伐に向かい、青森の県境まで征伐を進め、この後も動乱が続きます。

蝦夷は北海道から東北の北部にかけて、擦文文化を担った民族をいうようです。北海道の蝦夷はアイヌ人に継承され、東北に居住した蝦夷は、日本に服従し俘囚と呼ばれています。一二世紀になりますと、夷俘・俘囚と記録されるようになり、俘囚は日本人と合流されたといいます。中世以後の蝦夷はアイヌを指すとの説が主流となり、北海道を居住としたアイヌ民族と同一と見られています。

 日蓮聖人の遺文には、「へ(え)びす」「へそ(えぞ)」「俘囚」の用例が見られ、辺境未開低劣のものの意味合いが多いといいます。(『日蓮聖人遺文事典』歴史篇一一四頁)。さて、「他国侵逼」は蒙古が九州へ襲来することのみではなく、蝦夷の襲撃も「他国侵逼」とされ、東西から攻められるとみています。『三三蔵祈雨事』に、

 

「文永五年の比(ころ)、東には俘囚(ふす・蝦夷)をこり、西には蒙古よりせめつかひ(責使)つき()ぬ」(一〇六六頁)

 

また、蝦夷とは野蛮という認識があったので、『種々御振舞御書』に、東北の北条氏の所領を治めていた代官の安藤(東)氏が、蝦夷の反乱によって殺害されたことがのべられています。

 

「ゑぞ(蝦夷)は死生不知のもの、安藤五郎は因果の道理を弁(わきまえて)堂塔多く造りし善人也。いかにとして頸をばゑぞ(蝦夷)にとられぬるぞ」(九八〇頁)

 

これら一連の遺文は、蒙古と蝦夷の二つの脅威を、「他国侵逼」として受けとめていたことがうかがえます。また、文永五年の「他国侵逼」は、蒙古の九州方面からの侵略だけではなく、樺太・サハリンにいたアイヌを攻めていたことを、川添昭二先生は指摘されており、日蓮聖人はそのような状況をも把握されて、北からの蒙古襲来にも、注意していたことがうかがえます。(日蓮宗勧学院中央教学研修会議事録第一八号八一頁)。また、この「文永五年のエゾ反乱」・「北からの蒙古襲来」を書いた、『種種御振舞御書』と『三三蔵祈雨事』は、北方の民族と宗教を考えるうえで不ニの貴重な史料となっています。(佐々木馨著『日蓮とその思想』三四五頁)。この年の末にフビライは再び日本に使者を送るよう高麗に命じています。

日蓮聖人は翌文永六年一月より、この国難を「現世安穏後生善処」とすべく、祈請を行うことを富木氏に告げます。それが、『定遺』七四の『上野殿母尼御前御書』(四五九頁)ですが、本書は富木氏に宛てられたもので、また、系年についても諸説があります。『定遺』は文永七年・あるいは、建治元年、高木豊先生は文永六年、『対照録』は文永五年とします。本書の『摩訶止観』講説のことと、蒙古国書の記載により、ここでは、文永五年の書状とさせていただきます。

□『上野殿母尼御前御書』(七四)(富木氏『止観第五之事御消息』)

 

本書は本紙と上書きの筆跡年代が違い、本紙は文永五~七年の説があり、上書きは弘安四~五年といいます。高木先生は先の『金吾殿御返事』と、内容的に関連しているので文永六年と考察しています。宛先は『日常目録』から富木氏とし『対照録』は『止観第五之御消息』としています。一二月二二日付けにて、富木氏に白米一斗を供養されたお礼と、端書きに、富木氏の母に熱心に法華経を信仰されていることを、日蓮聖人が悦ばれていることを伝えてほしいとのべています。富木氏の母親は日蓮聖人と両親が世話になった人なので、その情愛が感じられます。

 

「止観第五の事。正月一日辰の時此をよみはじめ候。明年は世間怱々なるべきよし皆人申すあひだ、一向後生のために十五日まで止観を談ぜんとし候が、文あまた候はず候。御計らい候べきか。白米一斗御志申つくしがたう候。鎌倉は世間かつ(渇)して候。僧はあまたをはします。過去の餓鬼道苦をばつくのわせ候ひぬるか。法門の事。日本国に人ごとに信ぜさせんと願して候しが、願や成熟せんし候らん、当時は蒙古の勘文によりて世間やわらぎて候なり」(四六〇 

と、述べていることから、正月一日の辰の刻(午前八時)から一五日まで、『摩訶止観』を読解する予定であることがうかがえます。この大師講を行なうのは蒙古が攻めてくるという世間の不安があるので、後生のために止観を談義するとのべ、書籍が少ないので工面をして欲しいとのべています。

また、白米一斗の供養に感謝し当時の鎌倉は飢饉で弟子もたくさんいて食べ物に不自由していたとのべています。弟子がたくさんいたことがわかります。この白米の供養により、過去の餓鬼道の苦を償うようであると功徳を説いています。蒙古国書がもたらした、日蓮聖人の賛同者が増えたことがうかがえます。しかし、蒙古の勘文により教団への迫害は和らいでいるが子細があるとみられています。

このように天台大師講は間断なくおこなわれていました。霜月会(しもづきえ)ともいい、天台大師の命日に恩徳を偲ぶ供養と、法華経の講義をされた集まりです。後世の檀林には天台大師の瞑想された画像を掲げられていました。このころより『摩訶止観』にかかわる記述が多くなります。(四五八頁・四六〇頁)。蒙古の到来の危機感に「現安後善」が、当時の民衆の切実な関心であったといえます。