143.問注の動きと大師講の隆盛                高橋俊隆

・四八歳 文永六年 一二六九年

 一月一日、日蓮聖人は富木氏に伝えたように、『摩訶止観』の講義をはじめます。若宮近隣の信徒も参集していたかもしれません。

一月二日、比叡山の山門東西の僧徒が蜂起して、諸堂社を閉門しますが、六波羅の兵に拒まれるという事件があります。つぎの、遺文はその事件を報告したものです.。

□『御輿振御書』(六四)

 三月一日付けの書状で、真蹟は末尾の一紙が土佐の要法寺に所蔵されています。京都にて修学していた三位房から、比叡山の僧徒の動向を記した手紙(御輿振日記)が届けられた返事といわれています。原文は漢文で書かれています。文永元年の説もあります。

御輿振(神輿、みこしふり)とは、比叡山延暦寺・奈良興福寺の僧徒が、朝廷へ強訴するため、日吉神社・春日大社の神輿を先に立てて入京することをいいます。朝廷にとっては先祖である天皇などの神霊が乗る「御輿」は大事なものです。また、朝廷を守護する神々が宿る「御輿」も大事なものでした。比叡山と園城寺の権力争いは、比叡山第二十代座主の余慶(智弁九一九~九九一年)から始まり、比叡山の僧徒が朝廷に強訴するときに、日吉や春日神社の神輿を振りたてて入京し、意に叶わなければ神輿を捨て去りました。朝廷は神威を恐れ比叡山に従うか妥協案を出し奉幣して慰めたといいます。

文応元(一二六〇)年)のことですが、朝廷が園城寺に三摩耶戒壇の勅許をしたことに抗議して、比叡山は神輿振りをして勅許を返上させました。朝廷はかわりに四天王寺の別当職を代々園城寺に付けましたが、比叡山は反対し、文永元年三月二三日に、僧徒が講堂・戒壇院などを放火し、祇園などの御輿一〇基を以って御所に放火し死傷者を出します。その後も四月には寺門・山門の僧兵が戦い,五月には園城寺が焼き払われています。この事件により本書の著作年次を、このときの文応元年とする説があります。しかし、文永五年一二月に、土御門天皇の皇子尊助法親王から、天台座主と青蓮院門跡を没収し、慈禅に管領を命じたことから門下不和となり中堂に閉籠します。そして、文永六年正月一〇日に、僧徒は五基の神輿を捨棄して引き上げ,翌月の二月二〇日に祇園社の神輿を移棄して、強訴をした事件がありました。本書「御輿振日記」は、この文永六年正月前後の動向を書いたものといいます。本書に

 

「中堂炎上之事其義候歟。山門破滅之期其節候歟」(四三七頁)

 

「中堂炎上」とは、文永元年三月の延暦寺の講堂・戒壇院などの消亡したことを指すといわれます。京都にいて学問をしていた三位房が、比叡山の挙動を見て、比叡山のみならず、仏法にたいしても不信をもったのかもしれません。この事件が山門破滅の時節となるのかと問われたのか、日蓮聖人はその時節であることをのべます。

インドでは祇園精舎や鶏頭摩寺、中国では天台山が、正・像時代に尽きてしまい、末法の今は日本の比叡山だけが法華経弘通を保っているとのべ、それゆえに、これを嫉む悪魔たちが比叡山に留まっているとのべます。また、小乗や権教の者も比叡山を憎み、禅僧や律僧、念仏者たちが朝廷に訴えて比叡山の権威を落としている。しかし、比叡山の大衆は強訴をし、自ら講堂・戒壇院などを焼失することが、比叡山を破滅に追い込むことを知らないとのべ、比叡山も朝廷も国家と仏法が破滅する、ほんとうの理由を知らないで迷っているとのべます。

つまり、天竺・漢土の例をあげ、悪魔が入り他宗の者が叡山破滅を画策していることに気づかずに、神輿振りをすることは「師檀共に破国破仏の因縁に迷へり」(原漢文、四三七頁)と教えたのです。そして、薬王品の「後五広布」、最澄の「末法太有近」の文を引き、法華経は必ず末法に広まる、今こそその時であるとのべます。「滅するは生ぜんが為、下るは登らんが為」ということがあるので、山門の繁盛のために留難があったと解釈して見参を期しています。日蓮聖人が比叡山を聖地としてみるのは、法華経を宗派としたところであり、最澄の意志を継承している日本では唯一の所と見ていたからです。末筆に紙面では意思を伝えきれないので、早く鎌倉に帰ってくるようにとのべています。

 二月二一日の明け方に月が三つ並び出たといいます。三月七日、蒙古の使者、黒的が再び使者として返書を求めてきました。高麗の使者九〇名は、一~二月に対馬に来ました。しかし、領主、宗(そう)氏の抵抗で、塔次郎・弥治郎の二名を捕慮として帰国しました。この知らせが大宰府から六波羅に着いたのが三月七日でした。

 

□『辨殿御消息』(六五)

 日蓮聖人が他所にいる日昭上人に、三月一〇日付けにて書籍を借覧したいと伝えた手紙です。『対照録』は文永一二年としており、身延に入られて約一年後となります。池上本門寺に真蹟二紙が所蔵されています。

日昭上人に、天台僧で内供奉十禅師に加えられた千観(九一九~九八四年)の、内供『五味義』と『盂蘭盆経疏』、『法華玄義』六の本末を、持参してほしいとお願いしています。また、『法華文句』の十を少輔殿に借りてほしいと、書籍の差配を指示しています。千観は浄土教の信奉者で『十願発心記』を著し、源信の『往生要集』に引用されています。この書籍の収集からうかがえることは、天台大師講が盛んにおこなわれ教団が大きくなっていたということです。しかし、幕府内に信徒がふえることは、反勢力者たちや幕府の危惧することとなっていました。

 

□『三八教』図録三

三月一六日付けの一六紙が京都妙顕寺に所蔵されています。『定遺』(二二二三頁)は正嘉元年の著作としていますが、『対照録』(上巻三二〇頁)は文永六年としています。『立正安国論』(三九歳)の筆跡とくらべて、明らかに違いがわかります。『立正安国論』の書体は四角張るのにくらべ、『三八教』は流麗な舞い上がる草書体です。日蓮聖人の書体は『立正安国論』を過ぎ、伊豆流罪のころから文永期には、迫真に迫る強くほとばしる書体になります。これは、迫害が強まったことによる環境の変化と、法華経を広めようとする緊迫感があらわれたといえます。

また、本書の紙背に弟子の書写と思われる書きこみがあります。第一〇紙より最後の一六紙までですので、途中で用紙がなくなり、弟子が書き損じたものを利用されたか、いそいでテキストを作成するため、手もとにあった用紙を使用されたと思います。日蓮聖人の筆跡は第一〇紙の継ぎ目前より速筆になります。これは、紙の用意が九紙までしかなく、文章が長くなり紙数をふやしたときに、いそいで反古紙を使用したのかもしれません。この書状を使いに持たせて帰すため、このあと第一六紙まで一気加勢に認めたと思われます。

最後の日付け花押の継ぎ目は、新しい紙を使っています。表題は冒頭の一行めに「三八教」、二行めに「妙法蓮華経」、三行目に「玄義一云」とあることから、『三八教』と題されています。一六と一七紙の継ぎ目に他筆にて日付けと自著、花押があります。紙背の筆跡は若年層のものと思われます。

「三種教相」と八教の関係を問われ、要点を羅列して返書されたと思われる書状で、妙顕寺に所蔵されていることから、日朗上人、あるいは日像上人などの弟子・門弟に手ほどきされた図録と思われます。九紙の最後の行から一二紙の裏面に一代五時の図が書かれ、同じく、一四紙から一六紙まで、八教と「三種教相」の要文が書かれています。

立教開宗いらい、日蓮聖人は東条景信の追跡や、鎌倉進出にむけて多忙な日々をおくります。この間、弟子や信徒の育成をされていたことが、この図録などからうかがえます。図録は日蓮聖人がそのとき口頭で講義をしながら書かれたものや、その書かれた図録を弟子がかわりに門弟や信徒に説明をしたことでしょう。これらの図録は日蓮聖人の法華教学の基本となる法門を羅列しています。主に天台教学を中心としています。目的は仏教の総合的な体系を把握し法華最勝を論証することにあります。

鎌倉進出初期の教化は、天台教学の基本を教えることから始まっています。日蓮聖人の教学を学ぶには天台学をマスターし、そこから、日蓮聖人独自の本門法華経の解釈に進展されていたのです。多忙な時期であったため図録や要文集にまとめ、弟子が各所において教化していました。これら多くの図録は多くの門弟たちの入門書として伝えられ、時とともに摩耗し現在に残らなかったのです。

三八教」とは「三種教相」と「八教」(化儀四教・化法四教)のことです。日蓮聖人は「三八教」を重視しており、「八教」については前述したように、釈尊一代五時における法華最勝の論拠としていました。「三種教相」はこれに付属した衆生の機根と釈尊の化導を解説するものです。本書は『法華玄義』の「三種教相」(一に根性の融不融相。二に化道の始終不始終相。三に師弟の遠近不遠近相)の名目をあげ、第一の「根性の融不融相」について八教(化儀・化法)と法華経の関係を略示しています。「五時八教」の教判を基本として爾前円と法華円(今円)との相対妙と絶対妙を確かめ、法華円教は醍醐味の妙であり爾前円教を開顕(開麤顕妙)するとして、部と教に約して超八醍醐の法華円教を示す意図と思われます。

つまり、「三種教相」は法華経と爾前経の違いと勝劣を、三種の分野から説いたものです。第一教相は衆生の機根に視点をあてているので、「五時八教」がおもな内容となります。第一教相・第二教相・第三教相と呼称します。また、つねに、当分と誇節(かせつ)をあげ、爾前経が当分、法華経が誇節であることを示します。当分とはその時々のその場限りのことで、機根にしたがって説く今昔不同の教えですので相待妙になります。誇節とは節限を誇越すると読み、全体を一つとして見る開顕の義ですので、爾前経即法華経であり今昔無別とします。これは法華経を最終的に真実とした絶対妙の立場からみたばあいで、この仏意を開顕するのはただ法華経にのみあるとします。

――相待妙 判麁妙 前四味為麁醍醐為妙前三為麁後一為妙 

法華円二妙―― 

――絶待妙 開麁顕妙

  当分―――――――相待妙

  誇節―――――――絶待妙

「籖二云当分通於一代於今便成相待。跨節唯在今経。仏意非適今也」(二二二六頁)

 

また、待・絶二妙と心・仏・衆生の三法妙の関係を図示します。絶対妙と開顕の法門とは同じことで、爾前経には絶待妙がなく、その相対妙には開顕の義はないことを断定します。法華経の絶対妙は開会を意味しますので、この立場から三法妙を判断すると、法華経にしか絶待妙はないので、真実に妙と称することができるのは法華経であり、この根拠を『法華玄義』・『釈懺』を引いて示しています。

「玄二云用是両妙妙上三法。衆生之法亦具足是二妙。称之為妙。仏法・心法亦具二妙。称之為妙文。 籖二云二妙々上三法者欲明三妙在於法華方得称妙。故須二妙以妙三法。故諸味中雖有円融全無二妙云云」(二二二八頁)

 

ここには相待妙・絶対妙の二妙と、当分・誇節を論点として、二妙が並び具備して心・仏・衆生を「妙」とすることを可能にし、断定できるのは法華円教の開顕の教えにあることをのべています。要するに、「三種教相」は爾前教と法華経の勝劣を明確にすることを目的として、天台大師が立てた教義であることを示し、日蓮聖人は釈尊の滅後における末法における視点から、新たな解釈を加えようとしています。

 四月二七日、幕府は問注所を廃して五方引付衆を再度、配置します。これは、元寇に備えるためで、金沢実時・安達泰盛・大仏時氏・北条義政・名越時章が任命されました。(『関東評定伝』)

 

◆第二節 問注の動きと大師講の隆盛

□『問注得意鈔』(六六)

『十一通御書』の表れとして、富木氏のところに、問注所(裁判所)から呼び出しの訴状がきました。引付衆は御家人の所領関係訴訟(所務沙汰)を扱い、問注所ではその他の民事訴訟(雑務沙汰)、および、訴訟雑務(主に訴状の受理)を扱っていました。刑事事件(検断沙汰)は侍所が扱っていました。

日蓮聖人が問註所に召喚されたのを知ったのは、五月九日の早い時間と思われます。書状の八行目までは、筆先が割れ整なわないまま書き進めています。また、急いで返事をされたこと、内容が慎重なことを教えることなので、筆の状態を整える余裕がなかったと思われます。問注所は現在の御成町九、鎌倉駅の西側、妙法寺から問注所まで約一.二㌔の距離にあります。「三人御中」へ宛てていますので、ほかの二人とは太田乗明・曽谷教信の二人、あるいは、太田乗明と四条金吾といわれています。(『日蓮聖人全集』第六巻二八四頁)。

中尾尭先生は系年を文永八年とします。また、他の二人は大田乗明・曽谷教信と金原法橋とみています。また、問注の場が私的な性格が強いので、大田氏と曽谷氏とし、守護の家臣が出廷したのは下総の守護所に設けれられた場であるといいます。千葉頼胤が上段の席にすわり、奉行が前に侍って尋問します。その前面に訴人と被告が相対して、両方の背後に傍聴者がすわり、建物の周囲を大勢の御供の雑人が囲む、この場にいる者は守護所に出入りする知音の輩であるから、言い合いや喧嘩をする恐れがあったとしています。(『日蓮』一二六頁)。

本書に訴状は、「一処の同輩」とありますので、富木氏と同じような有力武士から訴えられたもので、内容は富木氏たちの破邪顕正の法華弘通が過激であるという信仰上のことと思われます。富木氏は問注のあることを当日に日蓮聖人に知らせました。緊急の事態であったのかもしれません。双方ともに直接会う余裕がなかったため、日蓮聖人は問注の場における心得を書状で送りました。それが、『問注得意鈔』です。

富木氏は「問注時可存知由事」と題書し、『法門可被申様之事』といっしょに保存されていました。日蓮聖人は三人に、日ごろの念願が叶うことになれば、三千年に一度花が咲いて菓を結ぶという優曇華に会えたようであり、神女の西王母が園に植えている桃は、九千年に三度しか実らない、不老不死の仙人になれるという霊薬であるのを、東方朔(とうほうさく)が三度まで手にしたときの、嬉しさと同じであろうとのべ、これまでの心にわだかまるもの、晴れ晴れしない気持ちを開くようにとのべ激励しています。

そして、問注(審問注記)の裁決は別とし、あえて心構えを説いています。当事者が弁論します。

「但兼日雖有御存知鞭于駿馬之理有之。今日御出仕望於公庭之後設雖為知音向傍輩可被止雑言。両方召合之時御奉行人訴陳之状読之之尅付何事御奉行人無御尋之外不可出一言歟。設敵人等雖吐悪口各々当身之事一二度可如不聞。及三度之時不変顔貌不出麁言以語可(四三九頁)

と、節度のある言葉や態度でのぞむこと、また、下人にたいしても卑下した態度をとらぬように細心の用心をのべています。さらに、

「仏教と行者と檀那と三事相応して一事を成さんが為に愚言を出す処也」(原漢文。四三九頁)

 

と、「三事相応」して問注所における態度を指示されています。これは『法華経』と、「法華経の行者」である日蓮聖人と、そして、富木氏を始めとした「檀那」が一体となって、妙法広布が実現されることであると訓戒しています。(ほかに、『弁殿御消息』一一九一頁、『四条金吾殿御返事』一三〇三頁にみられます)。ここに、日蓮聖人の信仰は個人のことだけを願うのではなく、僧侶と信徒が一体になり、皆帰妙法を実現するという結びつきを、重視していたことがわかります。

『御成敗式目』の第一二条には、問注のときに悪口をしたら系争している土地を相手に引き渡すか、他の所領を没収するとあります。富木氏がこの条文を知らないことは考えられないので、よほどの事態があっての問注であったといいます。本書のはじめに、

 

「今日召合御問注之由承候。如各々御所念者三千年一度花菓値優曇華之身歟。西王母之薗桃九千年三度得之東方朔心歟。一期幸何事如之。御成敗甲乙且置之。前立開発鬱念歟」(四三九頁)

 

と、のべていることから、日蓮聖人はこの問注を一つのきっかけとして、「公場対決」に発展させようと思っていたことがうかがえます。。しかし、この問注の結果については不明です。表面上では信仰の問題なので和解があったと思われます。しかし、火種は消えずに続き文永八年の竜口法難に至るといえましょう。また、幕府はことを荒立てないほうが得策と裁断したといいます。『十章抄』(四九二頁)の末文が、この問注の推移をのべているといいます。

さらに、主君の千葉頼胤は、日蓮聖人に好意をもっていたとされるので、事を穏便にはかったともいえます。千葉頼胤は畠山氏と関係があり、頼胤の子供である、亀若・亀弥・亀姫は、後年の建治二(一二七六)年八月に曼荼羅を授与されています。また、頼胤から宗胤、胤貞の猶子に日祐上人がいることからも、千葉氏との関係がうかがえます。

 

□『安国論送状』(一〇八)

 五月二六日付けの本書に、富木氏の手元に『立正安国論』の正本があるので、富木氏か誰か他の者に『立正安国論』を書写させて届けてほしいという手紙を書かれています。ここから、富木氏のところに『立正安国論』の正本があったことがうかがえます。このころは、富木氏の問注所の問題、天台大師講を拡大して法華経の信徒を養成、要文を書写して弟子の教育、幕府からの召喚など、そのなかに、『立正安国論』を書写させていたことがわかります。また、その書写する者も、富木氏方の三人、大学三郎などの信徒や、日向上人、日興上人などの弟子も行っています。

 本書の紙は、縦一四.九センチ、横二六.五センチの、極端に小さいものといいます。もとの大きさは一紙を二つ折りにした折り紙であったといいます。一紙五行の真蹟が中山法華経寺に所蔵されています。なを、中尾堯先生は、本書を文永六年に鎌倉にて、認めたとするのが妥当とのべています。日蓮聖人は同年の一二月八日に『立正安国論』を書写され、この書状が「送り状」として同じ巻子に収められており、中山法華経寺の国宝本の『立正安国論』の書写に関わるとみています。(『ご親跡に触れる』)。富木氏は鎌倉にも公用で来ていましたので、そのおりに宿所に遣わした送り状と思われます。また、『定遺』は文永九年とし、『対照録』は文永五年としています。今は文永六年としてみます。

 

□『富木殿御消息』(六七)

このような渦中においても、活発に天台大師講が行なわれていましたので、先の問注所における富木氏方の言い分が通ったと解釈できます。天台大師講の開催場所について、それが、次第に輪番になっていたことが、六月七日付けの富木氏に宛てた書状(折紙)『富木殿御消息』にみられます。

「大師講の事。今月明性房にて候が此月はさしあい候。余人之中、せん(為)と候人候はば申させ給へと候。貴辺は如何。仰せを蒙り候はん。又御指合(おさしあい)にて候わば他処へ申すべく候」(440頁)

 

と、天台大師講が拡大していったことがわかります。折紙であることから、日蓮聖人が下総に滞留していた可能性があるといいます。(中尾尭著『日蓮』九八頁)。明性房は天台僧といいます。伊東祐光が病気平癒したときに明性房に念仏信者にはならないと誓ったということから(『辨殿御消息』一一九〇頁)、伊東祐光と関係のあることがうかがえます。この天台大師講の開催場所のそれぞれが一つの講として信徒集団が結成されていくことになりました。また、日蓮聖人の講義もふえ、図表・図録・「つりもの」が残されており、紙(「又泉殿」断簡三四三番二九八三頁)や、教材の収集(『金吾殿御返事』四四〇頁)が必要とされていました。文房具の供養が頻繁にあったと思われます。

日蓮聖人自身も、文永五年から翌七年の数年は、要文を書写されていました。(断簡二〇四番二九二七頁)。おもに、天台の『三大部』、妙楽の『三大部注釈書』が現存しています。集中的にテキストを作成し、門弟に配布していたのです。これを、各地の講などに弟子が伝播して、教団を固めていったのです。

天台大師講は、日蓮聖人の庵室を中心として、本書の明性房、ほかに、日昭上人の庵室、武蔵房の庵室、大進阿闍梨の房などが考えられ、『法華行者値難事』に次の名前がみられます。

 

河野辺殿等中・大和阿闍梨御房等中・一切我弟子等中・三郎左衛門尉殿」(七九八頁)