140.「経ヶ嶽」冨士・甲州の巡行                 高橋俊隆

「経ヶ嶽」富士・甲州の巡行

 さて、五月に久本坊日元を案内として、富士吉田方面を教化されていると伝えます。(小川泰堂居士『日蓮大士真実伝』・(田中智学著『大国聖日蓮上人』)。このときに浅間神社の宮司をしていた、甲州吉田(富士吉田)に住む神職、塩谷平内を教化します。塩谷氏は自邸を法華経の道場とし、日蓮聖人の弟子となって日仙と名のりました。これが吉祥山上行寺の始まりです。昭和三三年に法華宗本門流から帰属しました。

 そして、この年の夏に塩谷平内の案内で、富士山に登ったといわれています。行基が富士山に登るときに、柴の庵を作り休まれた、休道坊の跡の小庵を休息所巡りとしました。幕府は蒙古の来襲を危惧し、世情は未知のことなので騒然としていました。日蓮聖人は乳母が懐で百日間、法華経を読誦し法華経二八品を写経して、富士山の山腹に埋経し、国家の安泰を祈ったと言われています。このところを「経ヶ嶽」といいます。塩谷氏は米や塩などの食料を調達して給仕されたといいます。

 富士山を下り木立村(河口湖町)に入ります。このとき、村人が持ち合わせた二八枚の紙を継ぎ合わせ、題目を認めます。村長の渡辺越後守籐大夫に与え、のちに妙法寺を建てます。二十八紙の曼荼羅は沼津市岡宮の光長寺に伝来します。(当寺には弘安元年と伝えています)。光長寺は建治二年に日春(存空)・日法両上人を開基同時二祖とし、鷲山寺(千葉県茂原市)、本能寺(京都市)、本興寺(尼崎市)とともに、法華宗本門流の四大本山の一つとなっています。

 このあと、勝沼に滞在し止宿の所を講堂とし法華堂と呼ばれました。のちに長遠山上行寺が建てられます。日蓮聖人が山梨県の弘通のはじめといいます。また、黒川の人を教化します。黒川銀山で有名な塩山市の法蓮寺の基礎をつくります。法蓮寺は大納言平時忠の家臣である、時連と時久の兄弟が帰依しています。時連は法蓮、時久は法久の名前を、日蓮聖人より授かっています。兵乱などから現在地に移転しています。つぎに、田並に宿泊し村主に頼まれて大国天の尊像を描かれたと伝えます。(富木氏も大黒天を勧請しています。『真間釈迦仏御供養逐状』四五七頁)。

また、北原(勝沼)においては休息山立正寺の基礎をつくります。もとは真言宗の金剛山胎蔵寺といい、日蓮聖人は門前で立正安国論を講じ、このとき住持の宥範が帰依します。(文永一一年に全山改宗したといいます)。日蓮聖人が休んだことにちなんで休息と呼ばれ、また寺名も立正安国論を講じたことから立正寺となったといいます。愛宕の上行寺(建治二年一〇月、日向上人の開山)などを教化されています。

これより、萩原山の大菩薩嶺を遊化され足柄の板橋(小田原)を通ります。ここに、象の鼻に似た巨石があり、日蓮聖人はこの石の上に立って房州の故郷を望み、宝塔(石塚)を建て両親の菩提を弔います。里人は「お塔のふた親さん」と呼び慣らしたといいます。のちに、朗慶上人が象鼻山妙福寺を建立します。そして、長月(九月)ころに鎌倉に帰ったといいます。(『高祖年譜攷異』・『本化高祖年譜』)。

 なを、久本坊日元が一一歳の子供を伴って鎌倉に来られ、この子供がのちの身延三世の日進上人と伝えますが、前述しましたように、身延日進上人は曽谷教信の子供と思われます。

□『六郎恆長御消息』(六八)

九月に『六郎恆長御消息』(四四〇頁)があり、文永元年ともいいます。六郎恆長は南部六郎実長の写誤といいます。本書が祖滅約三百年後の、『本満寺本』に始めて収めていることから、真偽の問題があります。南部実長が念仏信者から法華経へ改心した時期をうかがえます。

本書には念仏無間に二義があるとして、一に、法然の『選択集』をあげ、法蔵比丘因位の四十八願のなかに「唯除五逆誹謗正法」とあるのに、正法である法華経を捨閉閣抛せよとすることは相違するとし、法華経の「苦人不信乃至其人命終入阿鼻獄」の文によれば、法然や弟子檀越は無間地獄に堕ちるとのべます。二に、「「四十余年未顕真実」「世尊法久後要当説真実」を引き、権実を判じ、真実とは南無妙法蓮華経であると示します。そして、「今此三界」の文に日本国は釈尊の本領であり、「其中衆生悉是吾子」の文に日本国の男女は、釈尊の御子であると「主師親三徳」をのべています。

 さて、九月一七日に高麗の四度目の使者、金有成・高柔が蒙古の国書をもって対馬に来て、三月に奪っていった島民を帰してきました。これは、捕虜たちが見聞してきた蒙古の勢力を、幕府に語らせる目的といいます。国書は大宰府にもたらしています。鎌倉には九月の末ころに着いたと思われます。国書の内容は前回とかわりませんでしたが、朝廷では今度は返書を送ろうとして、菅原長成に日本は神国であり威嚇には屈しないという通交拒絶の文案を作らせました。しかし、幕府では蒙古の国書は無礼であるという理由などから、時宗の意向により今回も辺牒はしませんでした。この蒙古の危機にあたり外交権が朝廷から幕府に移っていたことがうかがえます。このあと、フビライは次の使者に、趙良弼を指名していました。そして、高麗から日本が蒙古の通交に応じなければ、必ず襲来するという牒状が届きます。蒙古の日本に対する働きかけが目立つようになり、日本国内においても、蒙古の恐怖が民衆に蔓延していきます。蒙古が攻めてくれば戦うのは武士ですので、関心は日蓮聖人に寄せられます。

□『大師講』(『(大田)金吾殿御返事』)(七三)

一一月、この状況を見兼ねた日蓮聖人は、再度、警告を発し「公場対決」をのぞまれます。そして、このときは、いくらかの返事が返るようになります。一一月二八日付けの『金吾殿御返事』に、

「抑此法門之事勘文依有無可弘不弘之歟。去年方々に申て候しかども、いなせ(否応)の返事候はず候。今年十一月之比、方々へ申て候へば少々返事あるかたも候」(四五八頁)

『定遺』には『金吾殿御返事』とあり、別名『大師講書』といいます。高木豊先生は「去年方々に申て候」というのは、文永五年の『十一通御書』とし、そうすれば、「今年十一月之比」とは文永六年を指すとします。よって、本書を文永六年に係げます。

金吾とは左衛門尉の職名で四条金吾と混同されますが、この遺文は太田乗明に宛てています(『曽谷入道殿許御書』に「太田金吾」とある)。太田氏から大師講の費用に五連の金銭が送られた返礼で、端書きに『摩訶止観』の講義を蒙古襲来という事態のなかで、正月一日より始め「現安後善」を祈請するので、教材を集めてほしいと依頼しています。

「止観の五、正月一日よりよみ候て、現世安穏後生善処と祈請仕り候」(四五八頁)

この年は正月より天台大師講がおこなわれ、『摩訶止観』の第五である「一念三千」の教えが説かれていたことがわかります。『摩訶止観』の十広、第七正修章、第一陰入界境、は正説中の正説であり、十境、十乗の観法を講義されます。のちに、『観心本尊抄』に、第七正修章は正説中の正説とし、『摩訶止観』の終窮究竟の極説は「一念三千」であるとして、末代の観心として事一念三千の成仏を説きます。この基本となる教学の研鑚をされていたとうかがえます。

また、「現世安穏」を祈請したということは、蒙古の国書が到来したことから人々の関心がふえ、蒙古や幕府の情報を交えながら、日蓮聖人は信仰による対処方を説いていたと思われます。大師講は僧俗が集まり毎月輪番で行なわれていました。教団とすれば各地の弟子信徒との交流の場であり、日蓮聖人が直接、教団の方針を指示し、また、教学においても最新の論理を説く場でありました。教団を維持するため一回の講会の費用が銭五連ほどであったことがうかがえます。この年は盛大に行なわれていたことが、

「此大師講、三、四年に始て候が、今年は第一にて候つるに候」(四五八頁)

と、あり、信徒がふえ教団の規模が拡大し年々に参加者が多くなったことがうかがえます。前にものべましたが、天台大師講は弟子や檀信徒の居宅や、天台宗に僧籍を置く弟子のなかの住房などでおこなわれていました。これは、草庵に収容できないほどの聴講者がいたということと、大事なことは、これらの布教の拠点を多く持つことにより、信徒の教化が広範囲にできたといいます。また、信徒との綿密な接触により、信心の絆を強め講義の理解もすすみ、組織化されてきたといえましょう。この天台大師講には、様々な人が聴講にきていたようで、『光日房御書』に、 

「おりしも法華経のみざ(御座)なれば、し(知)らぬ人々あまたありしかば」(一一五六頁)

 

と、のべているように、不特定の者が善意にしても悪意であれ、聴講にきていたのです。安房の武士である弥四郎もその一人でした。篤信の者だけの講義であれば、『摩訶止観』の「一念三千」を教えたでしょうが、このように、不特定の者には『立正安国論』が説かれたと思われます。人々の関心は「他国侵逼」の情報と回避であったからです。民衆は現実の蒙古襲来と『立正安国論』の予言的中は、興味のあることであったのです。『強仁状御返事』に、

 

「只今、他国より我国を逼むべき由、兼てこれを知る故に、身命を仏神の宝前に捨棄して、刀剣武家の責めを恐れず、昼は国主に奏し、夜は弟子等に語る」(一一二二頁)

 

と、未信徒の者にたいしての講義、そして、弟子に対しての講義と、昼夜を通して行われていました。この頃は幾分、日蓮聖人にたいしての悪感情が少なくなったようです。

「をほかた(大方)人の心もやわ(和)らぎて、さもやとをぼしたりげに候。又上のけさん(見参)にも入て候やらむ」(四五八頁)

日蓮聖人は一一月に送った書状により、蒙古対策のことで、執権との見参があると期待していました。しかし、蒙古の予言が的中していても、召喚はありませんでした。日蓮聖人が行う他宗批判と専持法華の言動は、幕府の内部や宗教界からは強い反感を持たれていたことが分かります。時頼も禅密信仰であったように、武家にとっては真言の修法に魅力があり、日蓮聖人を採用しない理由であったと思われます。この文章の後には、それが原因で死罪・流罪があることを、覚悟されていることに注目しなければなりません。

「これほどの僻事(ひがごと)申して候へば、流死の二罪の内は一定と存せしが、いままでなにと申す事も候はぬは不思議とをぼへ候。いたれる道理にて候やらむ。又自界反逆難の経文も値ふべきにてや候やらむ」(四五八頁)

と、流罪か死罪は一定であるとみています。日蓮聖人の願望は国主諫暁により、国主が『立正安国論』を採用することが最大の願望でありながらも、法華経には「難解難入」・「多怨難信」と説かれ、「三類の強敵」があると説かれていることを、自身の肉体に顕現し経文が真実であることを、証明しなければならないという二面性があります。また、日蓮聖人を採用しなければ「自界反逆」の的中もあるとのべます。本書には比叡山においても強訴などの騒動が引き続き、中国や朝鮮の仏教は禅宗と念仏宗になってしまったので、善神は捨去し蒙古の襲来は確実であるとのべます。そして、

 

「人身すでにうけぬ。邪師又まぬがれぬ。法華経のゆへに流罪に及ぬ。今死罪に行れぬこそ本意ならず候へ。あわれさる事の出来し候へかしとこそはげみ候て、方々に強言をかきて挙をき候なり。すでに年五十に及ぬ。余命いくばくならず。いたづらに曠野にすてん身を、同は一乗法華のかたになげて、雪山童子・薬王菩薩の跡をおひ、仙豫・有得の名を後代に留て、法華涅槃経に説入られまいらせんと願ところ也」(四五九頁)

 

日蓮聖人は伊豆の流罪は経験したので、つぎは、死罪を覚悟して法華経に「死身弘法」すると決意をのべ、「一乗法華」の行者として、名を後代に残すべく強言したとのべています。

 

○矢木胤家『安国論奥書』(六九)

一二月八日、釈尊成道の日に『立正安国論』を書写して、矢木式部大夫胤家に与えています。(道正譲状)。矢木胤家が授けられた『立正安国論』は、遠藤右衛門入道道正の手に渡り、日高上人に寄進しています。この『立正安国論』が、現在、中山法華経寺に所蔵され国宝に指定されました。(『日蓮教団全史』八六頁)。

矢木胤家は『千葉大系図』などによりますと、平将門からの系譜は師国で本系が途絶え、事実上、千葉常胤から千葉氏に吸収されます。その後、相馬二郎師常、矢木常家、矢木胤家と系譜します。相馬氏・矢木氏は千葉氏の一族になり、下総の相馬矢木郷(流山市芝崎周辺)の在地領主でした。また、矢木胤家は千葉介頼胤の有力な支族であり、『香取文書』に「地頭八木式部大夫胤家」とあり、幼少の頼胤の後見として重要な役割をはたしたといいます。(中尾尭著『日蓮』九四頁)。このことから、日蓮聖人の信徒が千葉氏の一族に及んでいたことがうかがえます。

中山法華経寺に所蔵している『立正安国論』は、三七紙の継紙で巻子本となっています。緒紙に墨界を引いて料紙とし、第二四紙が早い時期に失われています。慶長六(一六〇一)年に、中山法華経寺の住持である日通上人が、今は現存していませんが、身延山の『立正安国論』をもとに補填して完本にしています。矢木胤家に与えられた『立正安国論』は、その後、保存のよくない状態であったために粗末になり、料紙を継いだ糊が離れて、第二四紙が失われてしまいます。日蓮聖人が入滅されてから一〇数年の後に、この第二四紙を欠失した状態で『立正安国論』を裏にして、新たに巻子本に仕立てられました。紙背となった『立正安国論』は、第三六紙の裏面を文頭として、平安時代の名文集として有名な『本朝文粋』巻第一三の全文が書写されました。最後に書写した年代と思われる、永仁(一二九三〜九九年)の年号が書かれていました。表が『本朝文粋』で『立正安国論』は裏になってしまいました。

中山法華経寺文書の「沙弥道正授与状」をみますと、弘安三(一二八〇)年に、矢木胤家は遠藤右衛門入道沙弥道正に『立正安国論』を授与し、道生は、嘉元四(一三〇六)年正月一三日に、中山法華経寺第二代の日高に授与しています。日通上人の代になり不受不施の問題があり、『立正安国論』の紙背の『本朝文粋』を擦り消しました。それを加賀藩の第三代藩主であった前田利常(一五九四〜一六五八年)が願主となり、本阿弥光甫(一六〇一〜一六八二年)が施主となって表装をしたのが、今日に伝えられてきた国宝の『立正安国論』です。

この文永六年に書写された『立正安国論』には、「天台沙門日蓮勘之」の署名をしていません。弘長二年二月の『教機時国鈔』に「本朝沙門」、そして、文永三年一月の『法華題目抄』に「根本大師門人」と署名されてからは、比叡山の興廃、伊豆流罪などにより天台沙門としての意識に変化がありました。真言宗への批判も顕在化します。本書に、

「すでに勘文之に叶う。これに準じてこれを思うに未来もまたしかるべきか。この書は徴(しるし)ある文なり。これ偏に日蓮の力にあらず。法華経の真文の感応の至すところか」(四四二頁)

 

と、『立正安国論』を再確認して、仏教の誤りを糾すよう求めています。

『立正安国論』の現存する真蹟断片や、写本などを検討しますと、前述したように五〜六回以上は書写しているといいます。また、断片などの筆跡や記述形式からして、文永五年から八年にかけてとみられています。(中尾尭著『日蓮』一二二頁)。『立正安国論』の書写は弟子や檀越も行っており、今日に伝えられているのは、日興上人の写本が二本、ほかに、日向上人・日高上人・日法上人・日弁上人の写本が伝えられ、祐師目録の『本尊聖教録』に「大学三郎筆安国論一巻」の写本があったと記載しています。また、日昭上人・日朗上人・日頂上人・日祐上人・日像上人・日源上人・日進上人・日目上人・日代上人・日道上人・日什上人など、直弟や孫弟子が書写し、このなかでも、日昭上人は「申状」に、『立正安国論』を添えて幕府に諫暁していることが、『日蓮宗宗学全書』に掲載されており、日蓮聖人の滅後に門弟たちが、『立正安国論』を携えて、幕府や朝廷に諫暁活動を行なっていたことがうかがえます。また、富木氏が『立正安国論』を書写し授与されていたことが、さきの、五月二六日付け『安国論送状』(六四八頁)です。このころの信徒一同の布教は蒙古との関連から、『立正安国論』の広布に力をいれていたといえましょう。

 

『法門可被申様之事』(七〇)

 

『法門可被申様之事』(ほうもんもうさるべきようのこと)は、京都に遊学していた三位房に返信した書状といいます。宛てた月日は不明です。富木氏は本書と『問注得意鈔』を、一つにして保管していたとみられ、『録内御書』としてまとめたときに、『三人御中御書』のなかの二本として伝わりました。宛先も三位房日行・日進上人・三位日進上人との説があります。三位房日行上人は曽谷教信の弟、日進上人は曽谷教信氏の子息です。日蓮聖人と血族である房総方面の弟子に宛てたと思われます。

本書は法論の方法を教えながら、とうじの叡山天台宗が、禅・念仏宗に蚕食されているので、最澄の正統法華に復帰すべきことをのべています。日蓮聖人が比叡山をどのように思っていたか、また、比叡山にたいする期待がうかがえます。

法華経の肝要として譬喩品の「釈尊三徳」を挙げ、「三徳具備の釈尊」の教えを用いないことは、「不孝の失」であり、「相似の五逆」罪であるとして、日本は「不孝謗法の国」(四四六頁)であるとします。「四十余年未顕真実」の爾前の教経と、その宗派が現在に定着しているのはなぜかという質問には、塔を建てるための足代は塔が建てば切り捨てるべきと反詰し、ただし、修理するときには再び用い、不要になれば切り捨てることが、「三世の諸仏の説法の儀式」(四四七頁)であるとします。慈覚大師が常行堂で念仏したことを問われたら、法華経を知るための学問であり得道のためではないとし、では御房は念仏をしないかと問われれば、題目と念仏の金石の違いに迷わないため、念仏は唱えないと答えるようにのべています。

つぎに、三位房が京都の公卿に招かれて法門を説き賞賛されたことと、実名を尊成と改めたことに対し、天魔がついて少輔房のように狂わないようにと訓戒しています。少輔房は伊豆法難の頃に退転し京都に遊学していたといいます。同書に「せう房は七月の十六日に死ぬ」とある箇所に、一本線を引いて見消していることから少輔房は七月一六日に横死したと思われます。日蓮聖人は三位房にかぎらず、数人の弟子を京都に派遣していたことがわかります。三位房にたいし、言葉つきを「京なめりにならず、「いなかことばにてあるべし」(四四九頁)とのべた心中に、曽谷教信の弟、つまり、日蓮聖人の血族としてみると、強い言葉をかけた絆がみえます。

また、同書の前年から鎌倉の真言師が、「変成男子」の修法をしており、若宮八幡の別当隆辨は自慢していたが、効験はなかったとのべています。隆辨は寺門派の学僧で将軍頼嗣に請われて別当になり、文永四年一二月に園城寺の長吏になり、再び八幡宮の別当になり、将軍や執権などの祈祷を行なっていました。この「変成男子」の祈祷に効験がなかったことを挙げて、現実の祈祷が叶わないのに後生の成仏が叶うわけがないと指摘しています。また、三位房にたいし叡山は題目を唱えず、称名念仏を行なうから三宝の祈りが叶わないと、僧徒に詰問しなさいとのべています。

法華不信の者は悪道に堕すことの証文を問われたら、天台大師の『法華玄義』「人此の理を見ず是れ因縁事相と謂て軽慢して止ずんば舌口中に爛れん」の文を挙げて反論するように指示します。すなわち、「此の理」である「法華経の会三帰一の理」を無視して、「因縁事相」の二乗授記しかないと法華経を下せば、舌が爛れるという箇所と、妙楽の『釈籤』に「軽慢して止ずんば舌口中に爛れんとは、法華宗極の旨を了せず、声聞に記する事相のみ華厳・般若の融通無碍に如かずと謂い、此の如く説いて諌暁すれども止ずんば、舌爛れんこと何ぞ疑わん(中略)已今当の妙、茲に於いて固く迷う。舌爛るれども止ざるは猶華報なり。謗法の罪苦長劫に流る」とある箇所を挙げるように指導しています。(四五〇頁)。天台・妙楽の『法華玄義』・『釈籤』を深く学ぶことです。

つづいて、最澄が『顕戒論』に、延暦二一年正月一九日に高尾山寺で、桓武天皇の御前において論破された南都六宗の学僧等を指して、斉朝時代の光統が達磨を毒害したように、六宗が法華経の「何況」の経文のように怨嫉となっているの文、そして、弘仁七年著『依憑集』に、空海は一行が善無畏より筆受相承した、大日経疏は天台の義を用いているのを無視して真言宗を立てたこと。旧来の華厳宗は法蔵の華厳義が天台に影響していると、慧苑が判じているのを隠したこと。三論宗は般若の空理に沈著し法華の円融三諦中道の理を知らず、小乗の空に著した二乗が仏に弾呵されたことを忘れ、称心寺にいた天台の弟子章安の義記に嘉祥が心酔していたことを覆い隠したこと。そして、成唯識論の「有」に執着した法相宗は、僕陽にいた知周が天台の義に帰依して、菩薩戒経疏を著作し、青龍寺にいた良賁は、天台の義により仁王経を判じたのを否定しているという文。これらを挙げて「諸宗無得道堕獄」の証文とするようにと指導しています。さらに、現状の天台宗は諸宗の得道を許すのみではなく自宗に取り入れていることを詰問すべきことをのべています。

真言宗についての質問があったら二流あることを示し、天台宗は元来、法華・真言の両方を修行することが、桓武天皇により定められていることが、『学生式』『顕戒論縁起』にあることを示し、天台宗のなかに真言が「骨」と「肉」のような関係で取り組まれていたのが、後に不和になり分裂し、そして、座主が真言師になったので骨がない者であるとのべ、これは大事なことで今は内々に知っておくように、また、この法門については誰にも教えていることではないから、この旨を心得るようにとのべています。これは、天台宗の台密批判ですが、内々にとのべていることに注目されます。台密批判については慎重にすべきことを三位房に伝えています。

 

「叡山にをいては天台宗にたいしては真言宗の名をけづり、天台宗を骨とし真言をば肉となせるか。而に末代に及て天台真言両宗中あしうなりて骨と肉と分(わけ)、座主は一向に真言となる。骨なき者ごとし。大衆は多分天台宗なり、肉なきものゝごとし。仏法に諍あるゆへに世間の相論も出来して叡山静ならず、朝下にわづらい多。此等大事を内々は存べし。此法門はいまだをしえざりき。よくよく存知すべし」(四五三頁)

 

「理同事勝」に対する真言宗の批判は、文永三年の『善無畏鈔』にみられ、『法門可被申様之事』においても、謗法の根源としてのべており、慈覚大師に対しても最澄と同じく、法華最勝に導いた人として評価しています。ただし、ここで比叡山が密教を上位とした「台密」にたいする批判が、始めて行なわれたことに注目しなければなりません。すなわち、天台の円頓戒を受けることは密教よりも勝れたことであるのを、比叡山の座主たちは逆に密教のほうが法華経よりも勝れたものと、化してしまったと批判をしているのです。この時点では正統法華に回帰してほしいという、比叡山への願望もあっての批判とうかがえます。したがって、

 

「仏法の滅不滅は叡山にあるべし。叡山の仏法滅せるかのゆえに異国我朝をほろぼさんとす。叡山の正法の失るゆえに、大天魔日本国に出来して、法然大日等が身に入、此等が身を橋として王臣等の御身にうつり住、かへりて叡山三千人に入ゆえに、師檀中不和にして御祈祷しるしなし。御祈請しるしなければ三千の大衆等檀那にすてはてられぬ」(四五三頁)

 

叡山の正統法華が滅失したから、他国から侵略されると見解をのべています。この原因は天魔が法然・大日等の身に入り、続いて王臣・叡山三千人に入ったから、祈祷の効験が失滅し檀那の帰依を失なったとします。これは「釈尊御領」としての日本国が謗法により破壊されていくということであります。そして、叡山の僧徒は現身に餓鬼道に堕ちたため、山門と寺門の権力争いを起こし、仏神に怒り檀那を呪い毎年のように神輿振りして朝廷に強訴し、また、大講堂の釈尊を焼き払い、園城寺金堂の本尊弥勒を焼き払って、大罪を作ったと批判します。このように日本一国が謗法となったために、善神の計らいで蒙古が侵略したのであり、それは、支那や高麗が禅・念仏になって滅ぼされたと同じようになるとして、比叡山に対して法華帰信をのべます。そして、日本国には日蓮聖人ただ一人が、法華経を受持する正直の者であるとし、その証拠に、

「日蓮は聖人の一分にあたれり。此法門のゆえに二十余所を(追)われ、結句流罪に及び、身に多くのきずをかほり、弟子をあまた殺させたり。比干にもこえ、伍しそ(子胥)にもをとらず。提婆菩薩の外道殺、師子尊者の檀弥利王に頚をはねられしにもをとるべきか。もししからば八幡大菩薩は日蓮が頂をはなれさせ給てはいづれの人の頂にかすみ給はん。日蓮を此国に用ずばいかんがすべき、となげかれ候なりと申」(四五五頁)

と、「法華経の行者」であることを示します。「立教開宗」より伊豆流罪にいたるまでに、「二十余所を(追)われ」とのべているように、清澄寺の追放を始めとして、住む所々から追い出されたことがわかります。このことから、禅・念仏の寺僧を改宗し、叡山の講堂を再建し、

 

「霊山の釈迦牟尼仏の御魂を請し入れたてまつらざらん外は、諸神もかへり給べからず、諸仏も此国を扶給はん事はかたしと申」(四五六頁)

と、比叡山が純粋に法華経に復帰しなければ、日本国を救済する方法はないと、勧告するように指示しています。

 このような比叡山に対しての期待感は、天台沙門としての日蓮聖人の姿にあると指摘されます。(『転換点としての佐渡』―台密批判との関連においてー間宮啓壬著『日蓮とその教団』所収一四六頁)。たしかに、比叡山に帰属意識を持つ日蓮聖人にあっては、東密に対する批判は容易としても、台密に対しては身内に対する批判になるので躊躇したともうかがえます。佐渡以前に台密・慈覚大師批判に「理同事勝」を論じないのは「根本大師門人」として比叡山に復古天台を託していたからです。帰属志向が強かったといえましょう。そのために弟子を派遣し比叡山に警鐘を鳴らされたと思います。

 

□『浄土九品之事』図録一五

 

『定遺』は文永六年、『対照録』では文永八年としています。真蹟は七紙が西山本門寺に所蔵されています。浄土九品とは『観無量義経』の九品往生のことで、冒頭に「難行・易行。聖道・浄土。雑行・正行。諸行・念仏をあげ、これについて弟子に図示しながら教えています。

「法然房料簡諸行与念仏相対也。二義  一勝劣 一難易 

[廃立] 一為廃諸行帰於念仏而説諸行也  

[助正] 二為助成念仏而説諸行也  

[傍正] 三約念仏・諸行二門各為立三品而説諸行也 

若依善導以初為正耳」(二三〇六頁)

 法然の料簡は諸行と念仏の相対であり、それを勝劣と難易の二義によって教えを立てているとし、諸行と念仏を廃立・助正・傍正からその立場をみて、かつ、善導は廃立を正意としていると図示しています。つぎに、九品のそれぞれを図示し、とくに上三品と下下品には、法然の教義の要点を示しています。ついで、捨閉閣抛について、『安楽集』『往生禮讃』を引き、法然の門弟、隆寛などを列記し、批判者として公胤(一一四五〜一二一六年)の『浄土決疑集』、隆真(定真)の『弾選択』、明恵高弁の『摧邪輪』をあげています。公胤は後に法然に帰伏しています。これに付随して証義者に俊範法印などを列記しています。つぎに、大乗五宗をあげ各依経をあげ法華経を下していることを記し、法相宗の三時教の教判では、釈尊一代を掌握することはできないと記しています。

本書は法然の浄土教批判を主とし、この頃における対浄土宗との論戦にそなえて、弟子達に教えていた大まかな内容をしることができます。