145.『十章抄』~『御衣布給候御返事』               高橋俊隆

・四九 文永年 一二七〇

 一月一一日、蒙古の船が対馬にきます。同月に朝廷は蒙古への返牒を幕府に下しますが、幕府は返牒しませんでした。同月の二七日に重時の三男である常盤流の祖北条時茂が、任務先の六派羅探題北方にて死去(三〇歳)します。二月一四日、日蓮聖人の父親、妙日尊儀の一三回忌にあたり、大法会を行ったといいます。三月一一日に、義時の四男である北条有時が七一歳にて死去します。四月二十日に東寺の塔が焼けます。四月二五日、天台座主の慈禅が禁裏で五壇法の祈祷をします。四月三〇日に比叡山の衆徒が蜂起します。五月九日、幕府は御家人の所領の入質や売買、他人に和与することを禁止します。五月二三日に天台の導玄が禁中でマラリア病平癒の尊勝法を修しています。 

□『十章鈔』(八一) 

五月に三位房または日進上人へ宛てた書状の草案とみられる、『十章鈔』(じっしょうしょう)が中山法華経寺に伝来しています。三位房と日進上人はともに、京都(比叡山)で修学をされていたのかもしれません。本書は前二紙と後尾一紙が欠失し、第三紙から始まり第八紙までしか保存されていません。「智者は観念、愚者は唱題」の文章があるので、天台附順の佐前の遺文とし(『高祖年譜攷異』)、『定遺』は文永八年とします。ここでは、「沙汰」・「問注」(四九二頁)の記載があることから文永七年とします。

本文は華厳・法相・三論の「今昔二円」と、天台家の爾前円と法華円の無殊とする義を誤りとします。つまり、華厳宗の賢首は「小・始・終・頓・円」の五教を立て、円を別教一乗の華厳と同教一乗の法華に分けますが、別教一乗の華厳経を根本として、同教一乗の法華経は小始終頓の四教と同じ三乗とし枝末としています。法相宗は第一時有教小乗・第二時空教大乗・第三時中道大乗の三時を立て、深密・華厳・金光明・法華・涅槃の諸大乗経を第三時の中道大乗とします。三論宗は化法として声聞蔵・菩薩蔵の二蔵を立て、化儀として根本法輪・枝末法輪・摂末帰本法輪の三法輪を立て、二蔵の中の菩薩蔵に一切の大乗経を納めて、法華経と諸経の優劣を示さず、三法輪の中では第一を華厳、第二を小乗乃至諸大乗とし、第三に法華経として化儀の始終は説くが、経の内容の優劣取捨については誤りとします。

天台宗がこのような解釈に同意し、「今昔二円無殊」とするなら、宗派を立てる必要はないとのべたのです。この邪義の原因は「此妙彼妙」「円実不異」「円頓義斉」「前三為麤」の解釈を誤ったとして、「今昔二円」の「円体無殊」を糺しています。そして、止観一部の文は法華経の絶対開会の立場から説かれたものであり、諸経を引用して四種三昧を説く正意は法華経にあるとして、妙楽の『止観輔行』『止観義例』を引いています。

つぎに、天台の『摩訶止観』の十章を挙げ、第一の大意から第六の方便までの妙解は迹門の義意とし、第七正観章の十境十乗の観法は、本門の義意にあるとし「一念三千」の法門はここに始まるとします。すなわち、

 

「一念三千と申す事は迹門にすらなを許されず。何に況や爾前に分たえたる事なり。一念三千の出処は略開三之十如実相なれども、義分は本門に限る。爾前は迹門の依義判文、迹門は本門の依義判文なり。但真実の依文判義は本門に限るべし」(四八九頁)

 

と、「一念三千」の法門は本門に「依文判義」があるとします。そして、円教の真実の修行は、

 

「日本国の在家の者には但一向に南無妙法蓮華経ととなえさすべし。名は必ず体にいたる徳あり」(四九〇頁)

 

と、唱題をすすめます。弥陀や釈迦などの諸仏の因位は、「一念三千」を観じ、南無妙法蓮華経と唱題して成道したとのべます。これを知らない天台真言の念仏者を諌め、日本国の謗法は爾前円と法華経の円とが、一義であるとしたことに起因するとのべます。南無妙法蓮華経の題目は、法華八年の会座に限られ、しかも、本門の立場から唱題を正行として、『止観』を捉えます。そして、『止観』の講読を終えたら、講座(文座)の者にこの主旨を公開し布教するようにと教示し、鎌倉に帰るようにとのべています。再三、鎌倉に帰るように催促したことについて、三位房が『法門可被申様之事』(四四八頁)に見られるように、名誉に走り、日蓮聖人が説く「死身弘法」の教えの本質を、見失いがちであったことを憂慮しての言葉といいます。(『日蓮聖人遺文辞典』歴史篇四六四頁)。
 また、文末には、このころ問注があることを、

 

「沙汰の事は本より日蓮が道理だにもつよくば、事切ん事かたしと存じて候しが、人ごとに問注は法門にはにず、いみじうしたりと申し候なるときに、事切るべしともをぼえ候はず。小弼殿より平三郎左衛門のもとにわたりて候ぞとうけ給候。この事のび候わば問注はよきと御心え候へ。又いつにてもよも切れぬ事は候はじ。又切れずば日蓮が道理とこそ人々はをもひ候はんずらめ。くるしく候はず候」(四九二頁)

 

と、訴訟は日蓮聖人の道理が通っているので、相手方の勝利にはならないと思っているが、また、人々も法門のことを詮議するのではなく、法門に敵対する者たちが日蓮聖人を憎んで、この裁判沙汰を仰々しくしていると風評しているので、かんたんに決着はできないと思っている、とのべていると思われ、裁判が長引けば有利と心得るようにし、決着しなければ日蓮聖人の申し立てが道理であると、人々は思うであろうとのべています。

日蓮聖人はどこからか法門の問題で訴えられていたのです。これは、文永六年五月九日付け富木氏三人に与えた、『問注得意鈔』の事件の引き続きと考えられています。(『日蓮聖人御遺文講義』十一巻三八〇頁)。小弼とは重時の五男業時のことです。とうじは、引付衆の一人でこの訴訟の窓口になっていました。この訴訟が業時から検断沙汰(刑事事件)を担当する平頼綱に移管され、幕府はこの訴訟を民事事件としてではなく、刑事事件として裁こうとした意図がうかがえます。このことからして、この文永七年に平頼綱は、日蓮聖人を断罪に追い込む動きをしていたといえましょう。日蓮聖人の鎌倉期教団の規模が最大に増加するときでした。

 

「当時はことに天台真言等の人々の多く来て候なり」(四九二頁)

 

と、のべていることから、民衆だけではなく、天台宗や真言宗の僧侶や信徒が日蓮聖人の下に来て、講義を聴聞していたことがうかがえます。これらの教団の動向が幕府や仏教界から警戒されていたのです。七月一二日に、四条金吾の母妙法尼が死去したといいます。『故最明寺入道見参御書』(七一)は前述したとおりです。

 

□『真間釈迦仏御供養逐状』(七二)

 

九月二六日付けにて富木氏に宛てた書状です。系年については、文永七年、建治三年、弘安二年などがあります。文永七年としますと、釈迦仏を開眼された場所は富木氏の自邸と思われます。のちに、真間の弘法寺を改宗したときに、釈迦仏と本書が、弘法寺に納められたと思われています。(『日蓮聖人遺文全集講義第七巻下一一三頁』)。建治三年としますと、富木常忍は所領の真間に堂を建て、その本尊として釈迦牟尼仏を造立し、若宮の持仏堂に仮安置し、開眼供養の指示を乞われました。日蓮聖人は馳せ参じたいが、開眼は早急に伊予房に依頼されます。そのかわり法華経一部を読誦して生身の教主釈尊と等しく開眼されます。この釈迦仏を若宮の持仏堂から真間に奉安するのは、子息の伊予房と富木氏自身でなければならないとされます。

所領内の堂などについては、曽谷氏の弟、大進阿闍梨が承知していると伝え、先年に大黒を供養してから世間の心労はなくなったかを問われます。大黒天の勧請があったことがわかります。このたびの釈尊造立の功徳により福運が来て長命となり、後生も霊山浄土に参ることができると賞賛しています。なを、建治三年の説について、宮崎英修先生は「はせまいりておがみ」「かへすがへすをがみ結縁」とあることから、「身延居住の身にてはなし得ない」とのべ鎌倉在住と見ています。本書に釈迦仏を「己心の一念三千の仏」(四五七頁)とのべているのは、『観心本尊抄』の私たちの己心に具足する釈尊の仏界と同じです。つまり、本門の「十界互具」を富木氏は理解していたことです。また、

 

「此度は大海のしほの満るがごとく、月の満ずるが如く、福きたり命ながく、後生は霊山とおぼしめせ」(四五七頁)

 

と、「現世安穏、後生善処」をのべますが、後生を霊山浄土とした「霊山往詣」の言葉が書かれています。この二点の意趣からしますと、身延入山ころの手紙と思えます。さて、文永五年六年と続いた蒙古襲来の予兆は、人々に恐怖をいだかせました。「他国侵逼」を予言した日蓮聖人の『立正安国論』に同意する者もふえ、「自界反逆」の不安も出始めてきます。

 

○日持上人

この年に日持上人が入門されたといいます。同じく、日法・日位上人も入門されたといいます。日持上人は建長二(一二五〇)年、駿州(静岡県)の松野郷に生まれ、松野六郎左衛門入道の次男といわれます。幼名を松千代といい、日持上人の姉が南条兵衛七郎の妻となっています。母が托胎したときに蓮華の瑞相をみたといいます。幼いころから学文に秀でており、『四書五経』を暗記したといいます。これを風聞した領主が『十三経十七史』など、百家の書物をあたえて学ばせ、その義を質問したとき、すべてに答えたといいます。

七歳のときに岩本實相寺に入門し、一四歳のときに厳誉について出家します。日興上人の記録によれば、日持上人は日興上人の最初の弟子と記されていますが、實相寺や四十九院では、師や兄弟子のような存在であったといいます。また、はじめは比叡山に登って修学し、のちに実相寺に入ったといわれます。しかし、年令からしますと、実相寺にて天台の教学を身につけてから、比叡山にて仏教を学ぶことを領主に願いでたと思います。そして、比叡山からいったん松野に帰り、岩本実相寺の智海僧都に会います。このとき、日興上人のことや、鎌倉に日蓮聖人がいることを聞き、書状をもって松葉ヶ谷に行ったといいます。このときが文永七年、二一歳のときといいます。日興上人の元の名の甲斐公を名のり、のちに、托胎の瑞相にちなみ蓮華阿闍梨と名前を授けました。

             南条兵衛七郎

   妻(松野殿女房)  |

    |――――――――姉(上野後家尼御前)

   松野六郎     ―日持上人

―兄 松野六郎左衛門(蓮華寺を建立)

日持上人は入門してまもない翌、文永八年に、竜口法難にあいます。そして、日蓮聖人とともに佐渡にわたり、身延入山にも伴っています。身延期には生家の駿河において布教活動にあたり、日興上人と力をあわせて、実相寺・四十九院・滝泉寺の改宗に紛争し、熱原法難を体験します。そして、弘安三(一二八〇)年に、実家である松野氏の外護により堂宇を建立します。弘安六年に永精寺とし、のちに蓮永寺と発展します。

 

□『富木殿御返事』(七五)

 月日は不明ですが、富木氏が本枡六升の白米を、行器(ほかい)という三脚の容器に入れて供養した返書です。富木氏は若宮から鎌倉に公用で来たのかもしれません。「乃時」とありますので、即刻、白米の数量を書いて、確かに受け取りましたと、配達の人に手渡したものです。日蓮聖人や弟子達の食に当てる齋料(ときりょう)が尽きようとしていたときなので、感謝している生活状況がうかがえます。日蓮聖人が金品の管理をされていたのかもしれません。

□『善無畏三蔵抄』(七六)

本書は『本満寺本』の写本があり、真蹟はありません。月日についても不明です。清澄寺の義浄房・浄顕房から、道善房が改心して釈尊を造像したとの報告を受けた返書です。

 

「又此釈迦仏を造らせ給ふ事申す計りなし」(四七五頁)

と、のべていることから、釈尊像が日蓮聖人のもとに届けられたという推測があります。(『日蓮聖人遺文全集講義』七巻下一四六頁)。道善房の捨邪帰正と、清澄寺が台密であったので、善無畏に触れて師恩をのべていることから、『師恩報酬鈔』・『破謬誤鈔』ともいいます。冒頭に、

 

「法華経は一代聖教の肝心、八万法蔵の依りどころ也」(四六一頁)

 

と、示し、法華経こそが釈尊の肝心の教えであり、この仏意を知らない論師・人師が誤って解釈したために、末世の者もその己見の邪義を用いてしまったが、この誤りを「一代五時」により判断すべきことのべます。それらの論師・人師の立義は、すでに天台・伝教に破折されたことであり、経文と道理により法華最勝の真実を判断すべきとのべています。日蓮聖人は経文を亀鏡と定め、天台・伝教の指南により立教開宗より弘教したとのべ、唱題を末法の修行と規定します。

 

「末代濁悪世の愚人は、念仏等の難行易行等をば抛て、一向に法華経の題目を南無妙法蓮華経と唱給べし。日輪東方の空に出させ給へば、南浮の空皆明かなり。大光を備へ給へる故也」(四六六頁)

 

また、本書に法華経の教主釈尊は、「主師親の三徳」具備の仏であり、この私たちにとって「有縁の仏」である釈尊を「本尊」と定め、木畫(もくえ)の像に顕わして尊崇すべきとします。

一.此娑婆世界の一切衆生の世尊にておはします

二.釈迦如来は娑婆世界の一切衆生の父母也

三.此仏は娑婆世界の一切衆生の本師也

 

「御本尊を崇めんとおぼしめさば、必先釈尊を木画の像に顕して御本尊と定めさせ」(四六九頁)

 

そして、釈尊に背反すれば悪道に堕すとのべます。善無畏を実例に挙げ、いわゆる「不孝の失」の二つの理由をのべます。

一.真言宗の邪義は法華経を大日経より劣るとしたこと

二.大日如来は釈尊の分身であるのに、釈尊を下したのは謗法堕獄であること(四七二頁)

つぎに、虚空蔵菩薩の利生と道善房の恩に報いるため、清澄山にて立教開宗したことを吐露し、前述したように、小松原法難の四日後の、一一月一四日に西條花房の僧房で道善師と再会したことを回顧します。そのとき、道善房は智慧がないので請用の望みもなく、老年となり名聞を求めようとも念仏の名僧に師事しようとは思わない、ただ、世間に広まっているので念仏を唱えていると告白し、頼まれて阿弥陀仏を五体作ったが、この罪によって地獄に堕ちるのだろうかと問われました。日蓮聖人は仲違いして分かれたわけではないが、東条景信に追放されてから一〇余年の月日が経ち、穏便に法談することが礼儀と思いながらも、老少不定であり再会はできないだろう、また、道善房の兄である道義房も、臨終が思うようではなかったと聞いているので、思い切って阿弥陀仏を五体造像した罪により五度、無間地獄に堕ちると、謗法の道理を細々とのべたといいます。

日蓮聖人はその時には道善房も傍座の人々も驚いた様子であったので、のちに法華経を受持したことを聞き悦んでいたと本心をのべ、新たに釈迦仏を造られたことは望外の喜びであるとのべます。そして、道善房に信仰のこととはいえ強言したことを悔いたが、道善房は法華経の経文の如くに説いたことにより改心したのであり、ここに師恩に報謝することができたとのべています。

 「今既に日蓮師の恩を報ず。定て仏神納受し給はん歟。各々此由を道善房に申聞せ給ふべし。令強言なれども、人をたすくれば実語・軟語なるべし。設ひ・語なれども、人を損ずるは妄語・強言也。当世学匠等の法門は、語・実語と人々は思食したれども皆強言・妄語也。仏の本意たる法華経に背く故なるべし。日蓮が念仏申者は無間地獄に堕べし、禅宗真言宗も又謬の宗也なんど申候は、強言とは思食すとも実語・語なるべし。例せば此道善御房法華経を迎へ、釈迦仏を造せ給事は日蓮が強言より起る。日本国の一切衆生も亦復如是」(四七六頁)

 強言とは語気荒く強い調子でいう言葉ですが、相手を思いやっての言葉であり、それが成仏・堕獄に関わることならば、あえて、強言をもって諭すのが法華経の教えといえましょう。子供が膿を出していれば、子供が泣こうとも、灸を加えて治療をするのが親心であるとのべた、日蓮聖人の強言の慈悲がうかがえます。

 なを、本書に弥陀造像を許す文面がありますが、これは、道善房の心根を案じての言葉のあやと思われます。道善房は日蓮聖人にやさしく接した人であり、日蓮聖人はその師匠の心の弱さを十分に知っていたのです。

□『真言天台勝劣事』(七七)

文永七年に系年されます。本書もテキストとして書かれ、これを書写して広く門弟に配布されたと思われます。日向上人の『金綱集』に『法華真言勝劣鈔』が引用されていますが、本書の引用はないので、別の弟子グループに手わされたといいます。浅井要麟先生は、本書の成立を検討すべきとしますが、宮崎英修先生は文永七年ころに、弘法並びに東密にたいする破折が表面にでてくるのは、必然的な過程であって不審はないといいます。また、このころ鶴岡八幡宮の別当は台密の長老隆辨であり、大蔵阿弥陀堂の別当は東寺流の長老定清でしたので、弘法や東密破折が表面にでてくることは必然的な過程といいます。(『日蓮聖人遺文辞典』歴史篇五八六頁)。本書は真言宗の大日経と天台宗の法華経との勝劣を、五つの問答形式によって解明しています。

~三、弘法は法華経を真言に比べれば「三重の劣」と立てたが、日蓮聖人は法華経に比べれば、大日経は「七重の劣」であり、法華本門の立場からみれば、「八重の劣」(四七八頁)であると、法華経・涅槃経・蘇悉地経を引いてのべます。すなわち「七重の劣」とは、

①一切経のなかで法華経が最勝であることを、法師品の「已今当三説」の中で「最為難信難解」の文と、安楽行品の「於諸経中最在其上」の文を挙げて証拠とします。

②無量義経の「次説方等十二部経・摩訶般若・華厳海空」「真実甚深甚深甚深」を挙げ、法華経からみれば、序分の開経であり聴衆の機根も未熟であり、仏意も未顕であるが、諸経に対すれば無量義経は諸経に勝れるとして、大日経を二重の劣とします。

③涅槃経の「是経出世如彼果実多所利益安楽一切。能令衆生見於仏性。如法華中八千声聞得授記莂。成秋収冬蔵更無所作」の文と、『釈籤』の「一家義意謂二部同味然涅槃尚劣」を引き、涅槃経は法華経で得脱できなかった機根のために、追説追泯する教えであり、無量義経よりは劣る証文とします。しかし、涅槃経は仏性常住を説いているので醍醐味であり、「開顕」の義を説いていない華厳経よりは勝れているとします。

④華厳経は釈尊成道の頓教であるから、漸教の般若経よりは勝れているが、涅槃経の醍醐味には劣るとします。⑤蘇悉地経の「猶不成者。或復転読大般若経七遍」の文を挙げ、蘇悉地経で真言悉地を成ずることができない者は、大般若経を転読することにより完成させよということは、蘇悉地経よりも大般若経が勝れていることであり、大般若経よりは蘇悉地経が劣っていることであるとします。

⑥蘇悉地経の「於三部中此教為王」の文を挙げ、蘇悉地経は大般若経には劣っているが、大日経・金剛頂経の二部には勝れている証文とします。

 これを、法華経から数えると大日経は「七重の劣」となり、さらに、法華経の本勝迹劣の本門からみれば「八重の劣」となります。

つぎに、安然の『教時義』に、弘法が法華経を「三重の劣」としたことに五失の誤りがあるとし、一に大日経の『義釈』と違う、二に金剛頂経と違う、三に守護経と違う、四に菩提心論と違う、五に中国の諸師の説と違うとしており、安然が弘法の門下に論難したが、その門下が陳述できなかったことを挙げ、弘法の「三重の劣」は誤りであり謗法であるとのべています。この論難は東密を破折する天台家の定判となっています。

四、釈迦と大日の同異について、能説の仏である釈尊が大日となって、大日経を説いたとのべています。金光明経には中央に釈迦牟尼仏とあり、金剛頂経にも中央釈迦牟尼仏とあり、大日と釈迦は共に中央の仏であるから、大日経を釈迦の説とも大日の説ともいえるとし、二仏を永別すべきでないとします。毘盧遮那というのは天竺の語で中国の釈語では大日であるとし、法華経の結経である普賢経には釈迦を、「名毘盧遮那遍一切処。其仏住名寂光」とあることから、大日・釈迦共に毘盧遮那であり、大日は釈迦の異名とします。旧訳では盧舎那と音写するが、新訳では毘盧遮那と音写しており、新訳の経では毘盧遮那は法身をいい、盧舎那は報身を意味しているので、旧訳でいう盧舎那は新訳の他受用報身にあたるとします。ゆえに大日は法身というが、法華経の自受用報身にも及ばず、法身如来にも及ばないとします。

真言家はこの法華経の「自受用身」と法身について絶分不知で、「法報不分二三莫辨」と天台宗に批判されており、したがって、華厳経の新訳には「或称釈迦。或称毘盧遮那」と説いて、大日は釈迦の異名で二仏あるのではないとします。釈迦が大日の名で説いたのが、真言の経典であるから、釈迦・大日別仏ではなく同体であって、勝劣を論じるものではなく、真言経は釈尊の「他受用報身」の説法であり、法華経は釈尊の自受用報身の説法と解釈します。

また、法身が説法することは経典には説かれておらず、弘法が二教論で楞伽経によって法身説法を立てたが、楞伽経は釈尊の所説で未顕真実の権教であり、大日も権仏となるから法華経の「自受用報身」に劣るとします。妙楽が「法定不説報通二義」と、法身は不説で報身に上法身として、自受用と下応身の他受用があり、報身が説法すると解釈したことを弘法は不知として、大日の法身説法というのは、法華経の「他受用身」の説法であるとして、弘法の「法身説法論」を否定しています。

つぎに、「大日無始無終」についても、大日経に「我昔坐道場降伏於四魔」「降伏四魔解脱六趣満足一切智智之明」と、大日は降魔成道した仏で「無始無終」の仏ではないことの証文であり、成仏已来の経年を説かないのは権教である証拠とし、法華経は「五百塵点」を説き、釈尊の「無始無終」を説く実教であるとのべています。

さらに、大日が真言密教を説いた説処を、法界宮とか色究竟天というが、天台宗の立場では別教の仏の説処で、円教の仏の霊山には劣るとします。真言は菩薩を対象としているから勝れているとするが、華厳経も菩薩を対象としているが法華経の方便といわれ、仏の出世の本懐は「永不成仏」といわれた「二乗作仏」にあるから、大論には「二乗作仏」が説かれたのを「密教」といい、不説を「顕教」と釈している。即ち法華経が「密教」であり安楽行品に「諸仏如来秘密之蔵」とあるのを証文とします。五秘密経に顕教を修行する者は三大無数劫を経るというが三大無数劫の説は蔵教の阿含経の教えであって権大乗にも至らず法華経にも及ばない小乗の教えの範疇とします。

そして、釈尊は大日の化身とか教示によって成道したとするが、それは六波羅密経によるもので、この経は釈尊の説法であり大日の説法ではないとし、「未顕真実」の教えであり教主は六年苦行の応身成道であり、蔵教の儀相とします。弘法は六波羅蜜経の五味説を、天台が盗み取り法華経を醍醐味としたというが、天台大師は涅槃経によって五味を立て、しかも、六波羅蜜経は天台滅後一九〇年後に渡経したので、不見の経であると弘法の不実の誤りを指摘しています。

五、大日経は印・真言・三摩耶尊形の「事理倶密」であるが、法華経は「理秘密」で大日経より劣り、真言三部経は天台の一代五時には摂属しないとして、弘法は釈摩訶衍論を依拠として、法華経は「無明の辺域、戯論の法」として、「真言勝法華劣」とする真言家の説を挙げます。これに対し、印・真言・尊形の有相は、機根に従った方便説であり権教の証拠とし、たとえ実教に事相を説いても、権実・大小の差別と勝劣があるとします。阿含経にも印相の所説があるので、事相の有無によって勝劣を判断すべきでなく、法華経は説く必要がなかったのであり、三世十方の仏の本意を説くことが真実であるとします。「事理倶密」は慈覚が立てた義であるが、所依の経典はあるのかを糺し、法華経の「理」は「開権顕実」であり、「事」は「久遠実成」であるが、共に真言には説かれておらず、真言の「事理」とは未開会の権教の「事理」と規定し法華経より劣るとします。

また、真言は一代五時の摂属ではないというが、『唐決』には大日経は方等部の摂属としたことを挙げます。『教時義』は法華と同じ第五時というが、「二乗作仏」の「人開会」がないので方等部であるとのべています。真言が一代五時以外の教説であるとするならば、一仏国土に一仏の仏法に背反し、釈尊の統率する娑婆国土に弘通すべきでないとのべています。そして、弘法が釈摩訶衍論を証として勝劣をいうが、その論の証文はないとし、別教の法門で円教には及ばず法華経に劣るとします。しかも、論に初め光明大覚経から終り摩訶薩雲若経まで、百巻の所依経を示し華厳・維摩・楞伽経を引くが、法華経を引用していないことを指摘して、釈摩訶衍論が権教の義を説いた権教であるとして、弘法の誤りをのべています。釈摩訶衍論を弘法は証拠としますが、伝教大師は龍樹の異論とし『守護抄』で偽書としています。

 さて、一二月に金沢文庫で火災があり、所蔵されていた書籍が焼失します。房総地方では疫病が流行しています。

□『小乗小仏要文』図録(一七)

『定遺』は文永七年、『対照録』は文永六年と推定しています。真蹟は一〇紙で、それを継いで一巻として中山法華経寺に所蔵されています。九紙ともに厚手の緒紙をつかわれており、耐久性を考えていることから、講義に使用されたと思われます。このことから佐渡流罪以前の講義の内容がわかります。本書は一代五時における釈尊の仏身について、法華経の本門いがいの仏教を小乗、仏身を小仏として次のように図示しています。

華厳

 阿含

――――大日経等―――――真言宗

観経等――――――浄土宗

小乗―― 方等―    深密経等―――――法相宗

――――楞伽経――――――禅宗等

 般若――――――――――――――三論宗

無量義経

法華経迹門十四品。本門薬王品已下六品並普賢・涅槃経等。

――劣応身

―応身―――――勝応身

報身―――――華厳経ルサナ仏

小仏―― 大日経等ビルサナ大日等

―並迹門・涅槃経等仏

 つぎに、小乗小仏について経文や釈を引いています。まず、始成正覚の文を挙げついで寿量品の久遠実成の文へ入ります。そして、父子の義を引き菩薩の三子である下方・他方・旧住にふれ、迹土・本土、本国土妙にふれます。ここで、迹仏と迹仏果を図示して弟子たちに教えていたことがうかがえます。

―蔵因―――三祇百劫菩薩―――――未断見思

通因―――動喩塵劫菩薩―――――見思

迹仏―― 別因―――無量劫菩薩――――――十一品断無明

―円因―――三千塵点劫菩薩――――四十一品断無明

―劣応―蔵―三十四心断結成道―――草座

勝応―通―三十四心見思塵沙断仏―天衣

迹仏果― 報身―別―十一品断無明仏――――蓮華座

―法身―円―四十二品断無明仏―――虚空座           (二三一九~二三二三頁)

・五〇 文永年 一二七一

この年に元時代が始まり一三六八年の明までつづきます。鎌倉の天候が悪く旱魃がつづいていました。平頼綱は内管領(ないかんれい)として実権を強めます。名越時章は引付衆の頭人として勤めていましたが、弟の教時は時宗の異母兄の時輔と通じているという風評がありました。同じ名越一門の光時の家来が四条金吾です。

□『四条金吾女房御書』(七八)

五月七日付けで、四条金吾の妻に宛てた手紙です。『本満寺本』の写本があります。四条金吾夫妻は長谷の通りに住んでおり、名越の庵室には夫婦共に通われていたといいます。本書は夫人の日眼女が、始めての懐妊で安産の護符を依頼され、日昭上人に持たされた返書です。日蓮聖人が相承した護符を服すれば安産であると安心を与え、服用の口伝相承は日昭上人に詳しく教えているので、如来の使いと思って信心に励むようにとのべています。

 

□『月満御前御書』(七九)

 同五月翌八日に、日眼女が護符を服し、無事に五月八日に女子が産まれたことの報告と、その祝いに餅・酒・布施を届けています。日蓮聖人はこの子に月満御前と命名して返書しています。

□『御衣布給候御返事』(正編新加四三五)

 『対照録』は文永八年とされ、真蹟一紙二五行が京都本法寺に所蔵されています。内容は衣布を供養されたことの謝状です。供養主については不明ですが、たびたび供養などをされていた篤信の信者であることが、

 

「御心ざしの御事はいまにはじめぬ事に候へども、ときにあたりてこれほどの御心ざしはありぬともをぼへ候はず候、かへすがへす御ふみにはつくしがたう候、恐々」(二八七三頁)

と、このころは日蓮聖人にとって苦しい時であっただけに、とくに感謝している心がうかがえます。