146.良観忍性との祈雨対決                      高橋俊隆

◆第三節 良観との祈雨対決

○良観の行状と祈雨対決

 良観は戒律の復興者といわれた叡尊の弟子で、はじめは西大寺を拠点として活動をし、建長四年に関東常陸(つくば市)に下り三村寺に入ります。叡尊については、前述したように西大寺の中興と仰がれる僧です。とうじの西大寺は荒廃し興福寺に多くの寺領が移っていました。叡尊は権力者に頼らず、荘園の管理者や郷村の名主達に浄財を募り、多くの農民層に教えを説きました。晩年も大坂の摂津や河内、兵庫県の播磨などを巡歴して律宗の教えを説いています。また、京都山城の宇治川に橋をかけ、病気に苦しむ者のために尽力して社会慈善事業を行っています。蒙古襲来のときには、宮中より祈祷を行い死後に興正大師を贈名されています。

弘長二年に叡尊が鎌倉に下向したことから、三村寺から鎌倉の多宝寺に住したといいますので、日蓮聖人が伊豆流罪のころは多宝寺で授戒と説法をしていました。多宝寺は弘長二年に泉ヶ谷に造られた律院です。開基は重時の子、執権長時の弟の業時でした。このころから、幕府中枢と関係を持ち、文永四年からは極楽寺を拠点として活動していました。この極楽寺坂に邸宅をもっていたのが、三代執権泰時の弟の重時です。重時は持仏堂(極楽寺)を建て、修観を住持として浄土信仰をします。ここは東海道から下ってきた鎌倉の出入り口にあたる要所でしたので、北条一族が守りを固めていたのです。この重時と長時・業時の帰依をえたのが良観でした。重時が死去したあと、長時・業時は、文永四年に五一歳の良観を開山に招き、律院としての極楽寺(霊鷲山感応院極楽律寺)としました。五合桝遺跡から板碑を積み上げた、雛壇状遺構が確認されているように、建長寺と同じく葬送の所で、地獄谷の極楽寺と呼ばれていたところです。

良観は南都における叡尊のように、鎌倉では良観が戒律と祈祷の第一人者として、幕府から庇護を得ていました。そのひとつに、死体の処理をするとき、死後硬直を解く秘法を処したといいます。極楽寺発掘調査をした神奈川県金沢文庫主任の西岡芳文氏によれば、この土砂加持に水銀まじりの砂を使用した形跡があるとの報告がなされています。死体の軟化をみせて良観の祈祷により真成仏したと、宣伝したのかもしれんません。また、祈祷においては蒙古調伏を任されていたので、幕府内での立場も大きな力を持っていました。極楽寺に入った良観は人々を持戒者として、殺生を禁じ殺生をする者は地獄に堕ちると、守護・地頭などの有力者に説いていました。極楽寺はもと浄土往生を願う念仏信仰の寺でしたが、良観のときには真言律宗の寺となっていました。鎌倉の東の端に称名寺、西の端に極楽寺を配して鎌倉防衛の役目をもちました。

西大寺一門の律宗としては、社会事業をし大きな勢力をもっていくことになります。貧しい者には食を施し、井戸を掘り病人には薬を与え橋を架けたり道を修復し、極楽寺の境内に救済事業として、病宿(癩宿)・薬湯室・療病院・坂下馬療屋などの施設を造っています。これらは北条氏の保護のもとに繰り広げられたことでした。しかし、これら仏教者が行う活動は、今まで顧みられなかったことでした。律宗の布教法でもあったのです。極楽寺の敷地には土木・建設にかかわる施設があり、これらの専門職人が居住する建物が建てられていました。鎌倉の都市整備に就労し、蒙古襲来にあたっては、博多に土塁を築く技術的役割をもちます。石工たちは石材を切ることに祟りをもっていたといい、そのため、工事にあたっては土地の神などに祈りをささげます。このときに、律僧の戒律を持つ厳格さと、加持祈祷をそなえた真言律宗が受け入れられたと言います。

寺院の造営は七九カ所、伽藍八三カ所、仏塔二〇区、一切経一四蔵、水田の寄進一八〇町、殺生禁断の場所六三カ所、浴室・寮病所・乞食小屋の設置各五カ所、乞食に施した布衣は三万三千領に及んだといいます。掘削した井戸は三三ヶ所。道路の修復は七一ヵ所。架けた橋は一八九ヵ所といいます。(尾崎綱賀氏『日蓮』一一八頁)。ほかに、二〇年間に五万七千人の病人の看護をしたといいます。そのなかでも、奈良に北山十八間戸を作り、疾病治療を行っていたのは有名です。極楽寺にも治療院を作っていましたので、世間からは二百五十戒を守り、

 

「極楽寺の長老は世尊の出世と仰ぎ奉る」(『頼基陳状』一三五二頁)

と、生き仏のように尊崇されていました。また『下山御消息』に、

 

「身には三衣を皮の如くはなつ事なし。一鉢は両眼をまほるが如し。二百五十戒を堅く持ち、三千の威儀をととのへたり。世間の無智の道俗、国主よりはじめて万民にいたるまで、地蔵尊者の伽羅陀(からだ)山より出現せるか、迦葉尊者の霊山より下来かと疑う」(一三二一頁)

 

と、のべているように、良観は真言律宗の高僧として、「持戒第一の聖人」「生き仏」として尊崇されていました。

これに対して日蓮聖人は、どのように良観をみていたかといいますと、『聖愚問答鈔』を参考にしますと、

「就中極楽寺良観上人は上一人より下万民に至て生身の如来と是を仰ぎ奉る。見彼行儀実以て爾也。飯嶋の津にて六浦の関米を取ては、諸国の道を作り七道に木戸をかまへて人別の銭を取ては、諸河に橋を渡す而に今の律僧の振舞を見るに、布絹財宝をたくはへ、利銭借請を業とす。教行既に相違せり、誰か是を信受せん。(中略)次に道を作り橋を渡す事、還て人の歎き也。飯嶋の津にて六浦の関米を取る、諸人の歎き是多し。諸国七道の木戸、是も旅人のわづらい只在此事眼前の事なり。汝不見否や」(三五三頁)

と、批判しています。良観がおこなっていた律宗の勧進活動は民衆を煩わしていたという見解があります。良観は困窮する人々に慈善事業を多く行ない、「生き仏」「医王如来」と呼ばれて尊崇されていました。しかし、この財源はどこにあったかといいますと、飯島の津では関米を取り、主要街道の七堂に関所(木戸)を作って通行税を取り、港には通商者から関税・入港税(関料)を徴収するなどをして、これらの救済事業の裏では利権をもっていたのでした。また、それらの金財を高利で貸したりして人々に負担をかけていたのでした。

これは、本来、幕府が実施すべき公共事業であったといいます。貨幣経済に移っていく時代に、御家人は弱体化していました。金品を豊富にもつ商人などが勢力を蓄えてきました。その一人が良観でした。ですから、良観の思わくは幕府と癒着し、利権を確保することにあったともいいます。良観の慈善事業は有力者の援助を必要とし、また、幕府は良観の力を必要としました。ここに、幕府から特別の税収入を得ることを許可されていたのです。また、律の教えから殺生禁断の海域を設け漁業の禁止をおこない、そこを魚場とした漁民から生活の場を奪ったともいいいます。

江の島の海岸線は良観にとって大事なところでした。極楽寺は和賀江島と前浜一帯の管理をし、ここからの収益はすべて極楽寺に入っていました。極楽寺の修復や維持にかかる経費を、港湾から入る費用で捻出する権利を幕府から認められていたのです。良観は極楽寺境内からよく見渡せる、和賀江島の浜辺を見下ろしていたのでしょう。日昭上人はこの浜土の法華寺を拠点として鎮座していました。極楽寺の貿易港でもあった和賀江島の管理者して対立があったといいます。それは、海岸線に住む商人や職人たち、ここに集まる人たちは、身分は低くても経済的に裕福であったといい、この貧困層を日蓮宗が教化して信徒にしていったことも、対立の一つの原因となっていたといいます。

ただし、叡尊・良観は仏教者としてはすばらしいことをした高僧であり、日蓮聖人は仏教について解らなかったという意見があります。しかし、日蓮聖人は僧侶の行規のあり方を問うているのです。小乗の教えに留まり大乗の法華経を阻止する謗法の僧侶とみていました。良観の行いは民衆の安泰を願う社会事業ですが、本心は偽善であると批判しています。慈善事業についても幕府の支援を受け政治と癒着した権力でした。『下山御消息』に、

「爰に両火房と申法師あり。身には三衣を皮の如くはなつ事なし。一鉢は両眼をまほるが如し。二百五十戒堅く持ち、三千の威儀をとゝのへたり。世間の無智道俗、国主よりはじめて万民にいたるまで、地蔵尊者の伽羅陀山より出現せる歟、迦葉尊者の霊山より下来かと疑。余法華経の第五巻勧持品を拝見し奉て末代に入て法華経の大怨敵三類有べし。其第三の強敵は此者かと見了」(一三二一頁)

良観の慈善事業は高く評価されることですが、反面、民衆を苦しめていたことも事実なのです。日蓮聖人は、とくに、戒律を掲げる律僧の行いとしても謗法とみたのです。日蓮聖人は良観を勧持品に説かれた法華経の行者を阻害する僭聖増上慢とよび、私利私欲によって国の財産を貪る者であるとして「律国賊」と見做したのです。そのように尊崇を受け、鎌倉の民衆から支持をえている良観を非難することは、鎌倉の民衆の反感をもたれるのは当然のことでした。その良観は、日蓮聖人が自分の誓願であるすべての人に受戒して救済することを、妨げているといって非難します。『頼基陳状』に、

「但此事の起は良観房常の説法云、日本国の一切衆生を皆持斉になして八斉戒を持せて、国中の殺生、天下の酒を止めむとする処に、日蓮房が謗法に障られて此願難叶由歎給候間」(一三五二

 さて、この年は大旱魃で春から初夏の六月まで干天が続き、一滴の雨も降らなかったといいます。旱魃は飢饉となり、それは人心の不安をうむことになります。幕府は諸社に奉幣し寺院にも雨乞いの祈祷をおこなわせました。しかし、効験がなく最後に幕府は、良観房に請雨の祈祷を命じることになります。また、祈雨の祈祷は良観側から申し出たといいます。(『頼基陳状』一三五三頁)。祈雨の祈祷は六月一八日から二四日の七日間のうちに雨をふらすことでした。日蓮聖人は良観の弟子、周防房と入沢の道浄房の二人を庵室によび、雨乞いの行力対決を申し込みます。これは法華経と真言律の対決です。(一三五三頁)。『下山御消息』によると、日蓮聖人は良観に、

「七日が間にもし一雨も下(ふ)らば、御弟子となりて二百五十戒具(つぶ)さに持たん上に、念仏無間地獄と申す事ひがよみなりけりと申すべし」(一三二二頁)

と、法力に敗けた方が改宗するという内容でした。これを三度も使いを遣わして確認させたのです。

 六月一八日、良観は百二十余名の祈祷僧を集めます。自身は中央の壇に登り、一二〇名は八面に列座して祈祷を始めます。場所は鎌倉の西を護る極楽寺、生身の弁財天が御座し、五頭龍は盤石となって江の島を守り、その龍神の口元(龍の口)から喉元にあたるところが極楽寺です。

ところが、雨乞いの霊験は、その日も次の日も現れませんでした。良観の祈雨は七日間を経ても効をしめしませんでした。さらに泉ヶ谷の多宝寺から二百名の僧を助行に頼み雨経を読ませます。七日間の延長をして修法をしましたが一滴の雨も降りませんでした。かえって、二五日目より熱風がふきあれ、目を開けていれないほど土埃が吹きあがったといいます。それが二週間も続きました。雨は降らなかったのです。ただ、雨乞いの失敗は珍しいことではないので(末木文美士著『日蓮入門』五一頁)。祈雨についての良観側の記録はありません。良観が雨乞いした場所は、江ノ島・田辺七里が浜・霊山山の三箇所といいます。極楽寺の南側にある霊山山の仏法寺跡の雨請池から、柿経(こけらきょう)が千点出土し、ほとんどが法華経の経文が書かれていました。良観は事実上、祈雨の対決に負けたのでした。『頼基陳状』に、

 

「一丈の堀を不越(こえざる)者、二丈三丈の堀を越えてんや。やすき雨をだにふらし給はず。況や方()き往生成仏をや。然れば今よりは日蓮怨み給う邪見をば是を以って翻し給へ。後生をそろしくをぼし給はば、約束のまゝにいそぎ来給へ。雨ふらす法と仏になる道をしへ奉らむ」(一三五四頁)

 

と、真言と律宗が行う法力の弱さを断定し、雨を降らすという簡単なことができない者が、人を成仏させることなどできるわけがないと批評します。その両方が可能な法華経に帰信することを促したのです。

 日蓮聖人は法験に負けた良観が、本当の僧侶ならば改心し、自らの前非を悔い改めるべきなのに、弟子の前に平気で姿を見せ、かえって更に讒言をしているとのべています。『下山御消息』に、

「両火房、真の人ならば、忽に邪見をも翻し、跡をも山林に隠べきに、其義は無くて面を弟子檀那等にさらす上、剰え讒言を企て日蓮が頚をき(斬)らせまいらせんと申上、あづかる人の国まで状を申下て種をたゝんとする大悪人也」(一三二三頁)

良観は祈雨の祈祷が叶えられず、面目を逸し私怨を募らせました。この敗北は良観のみならず、祈雨に協力した諸大寺の敗北であったので、良観は諸宗の高僧にはたらきかけ日蓮聖人に報復を謀っていくのです。この良観に同調し日蓮聖人を抹殺(「殺罪」一三五五頁)しようとしたのが浄土宗の道教と良忠でした。日蓮聖人のみならず信徒のすべてを抹殺すべく謀ったとのべています。まず、祈祷に負けて間もない七月八日に、良忠と道教たちは行敏の名前で、日蓮聖人に法論を求めました。律宗と念仏宗は密接な関係をもっていました。律宗の良観と念仏の二人は手を組んだのです。

○行敏訴状

□『行敏御返事』(八三)

行敏は長楽寺の智慶(ちきょう)の弟子になり、専修念仏の僧で別名を乗蓮房といいます。智慶は隆寛の弟子です。智慶の死後は良忠の門人となり、北条長時が真阿に創建させた、扇ヶ谷の浄光明寺に住んでいました。この寺は道教がいたところで、弟子の性仙が住んでいました。真阿の譲り状によると「善導の遺戒を慕う持戒念仏の寺」とありますが、当時は四宗兼学の寺で良観が運営に関わっていたといいます。良観の関与がある寺ですから当然、行敏・良忠と繋がっていることは明白です。(現在は真言宗泉湧寺派となっています)

七月八日付け、行敏の名前で書状が送られてきました。『行敏御返事』(四九六頁)といい、本書は「行敏初度の難状」とはじまり、日蓮聖人にたいして、四つの理由を挙げ質問してきます。

1.法華経の前に説かれた一切の諸経は、みな妄語にして出離の法に非ずということ。

2.大小の戒律は世間を惑わして悪道に堕せしめる法ということ。

3.念仏は無間地獄の業ということ。

4.禅宗は天魔の説で行ずる者は悪見を増長するということ。

このように、四つの理由を罪状(「仏法の怨敵」)として訴え、対面をしてこの難問に答えるように、また、日蓮聖人の「悪見を破」す、との書状が届けられたのです。「日蓮阿闍梨御房」と宛名を書かれていることから、日蓮聖人を天台僧として認識されていたことがうかがえます。この間に日蓮聖人は四条金吾に書状を与えています。

 

□『四條金吾殿御書』(八二)

 

 七月一二日付けで四条金吾氏に書状を宛てています。『延山本』の写本があります。四条金吾が母妙法尼の一周忌のため、白米一斗、油一筒、布施一貫文を使者に持たせ、施餓鬼について教示を仰いでいます。日蓮聖人は盂蘭盆における目連が法華経の会座に来て、仏となり母を救うことができたのは、自身が法華経の行者となり、南無妙法蓮華経と唱えたことによるとして、施餓鬼には四大声聞の領解の文である、「如従飢国来忽遇大王膳」の文を誦し、南無妙法蓮華経と唱えて供養することを説いています。

また、餓鬼に三六種類あり、自身の衣服や飲食に飽満せずに、命日に父母等の供養をして弔うことが大事であるとのべています。そして、日蓮聖人は「法華経の行者」として「業障を消滅」し、「霊山浄土に往詣」できることを思えば、種々の迫害は苦痛ではないとのべます。

「日蓮此業障をけしはてゝ、未来は霊山浄土にまいるべしとおもへば、種種の大難雨のごとくふり、雲のごとくにわき候へども、法華経の御故なれば苦をも苦ともおもはず」

 

ここに、罪業意識と、その業障を現世において消滅すること、そして、未来は霊山浄土前に往詣することが、日蓮聖人の願いであることをのべています。法華経を如説に行うことは三障四魔がわが身を襲い苦しいことであるが、釈尊の教えを忠実に行ない、法華経を根絶しないことになるならば、苦を苦とは思わないと行者の意識をのべています。日蓮聖人はこれから来るであろう迫害に、心の準備ができていたことがうかがえます。

そして、妙法尼も法華経の行者であり、日蓮聖人の檀那であるから餓鬼道に堕ちることはなく、釈迦仏の御許にて四条金吾の母であることを諸仏に褒められているだろうとのべ、提婆品の善女人とは妙法尼であり此経難持の経文に説かれているいうように、「諸仏所歎」(諸仏から褒められる)されることであるから、信心を深くするようにと返事を書かれています

 

□『行敏訴状御会通』(八四)

 

日蓮聖人はすぐに返事を出さず、五日間の動向を見たうえで、一三日に行敏の難状に反論し陳状をだしました。内容は対面を承諾するもので、ただし、上奏を経て公場において正邪の対決(法論)をする、という条件をつけました。

 

「条々御不審事。私問答難事行候歟。然者被経上奏随秘仰下之趣可被糾明是非候歟。如此蒙仰候条尤所庶幾候」(四九七頁)

 

この八日の行敏の難状と、一三日付けの返事を合わせて『行敏御返事』といいます。行敏はこの返書にたいして、更に訴状を幕府に出したということも考えられます。しかし、その訴状は残っていません。「初度の難状」にたいし「再度の難状」があり、それに反論して書かれたのが『行敏訴状御会通』(四九七頁)とする見方がありますが、通例は初度(はじめ)の『行敏御返事』にもとづいて提出したのが、『行敏訴状御会通』といわれています。(『日蓮聖人遺文辞典』二五三頁)。ただ、『高祖年譜攷異』に七月二二日に行敏が幕府に上申したとあることから、『行敏訴状御会通』は七月二二日以後に書かれ、幕府に提出したといわれます。この行敏訴状に対する陳状の冒頭に、

「当世日本第一の持戒僧良観聖人、並びに法然上人之孫弟念阿弥陀仏・道阿弥陀仏等諸聖人等の日蓮を訴訟する状に云く」((四九七頁。原漢文)

と、書き出されているように、良観や良忠(念阿弥陀仏・光明寺)を名指しにして批判しており、これは、行敏が起こした訴訟ではなく、大本は良観・良忠・道教(道阿弥陀仏・新善光寺)らが、日蓮聖人を訴えた訴状であることがわかります。日朝上人の書写と思われる写本には、「良観・念(然)阿等訴状御返札」とあり、日乾上人の目録にも「良観訴状」とあり、こちらの方が正しい遺文の題名といわれています。『刊本御書目録』に「行敏訴状之会通」とあり、それを踏襲して伝えられてきました。正確には「日蓮聖人陳状」とすべきと指摘されています。(『日蓮聖人遺文辞典』二五三頁)。日蓮聖人は訴状に答え(会通)ます。田村芳朗先生は訴えが八カ条あったとします。(『日蓮―殉教の如来使』七九頁)

 1.「右八万四千の教、乃至、一を是として諸を非とする理、豈に然るべし哉」(原漢文、四九七頁)

 釈尊の説いた仏教はすべて正法であるという、旧仏教界の共通した考えに対し、善導の「千中無一」、法然の「捨閉閣抛」を挙げて、諸経を排除したのは法然・善導であり、それに従わない良忠たちこそが師匠に背くことであると反撃しています。また、「日蓮偏に法華一部に執して、諸余の大乗を誹謗す」と、法華経以外の諸経を誹謗するということに対し、『無量義経』の「四十余年未顕真実」、宝塔品の「皆是真実」、法師品の「已今当の三説」などを挙げ、釈尊の金言に基づくとし、既に最澄は徳一を論破して、法華宗をたてたと反論します。また、「法華前説の諸経は皆是れ妄語なり」と、法華経以前の諸経は妄語というのは、『無量義経』の「未顕真実」ということが妄語と同意であり、譬喩品の「寧有虚妄不」、寿量品の「説之良薬虚妄罪不」の文を挙げ、法華経が真実であり、爾前は虚妄である証拠とします。涅槃経には「知衆生因虚妄説」と、つまり、衆生の化導において虚妄の諸経を説くとあり、天台は諸経に諸法の如を明かし小乗に記別するのは、如来の綺語であり一時的なものであるという文を挙げます。

 2.「念仏は無間の業」(四九八頁)

 方便品の「我則堕慳貪 此事為不可」と、譬喩品の「其人命終入阿鼻獄」の文を挙げ、如来ですら『観経』や四十余年の諸経を説くのみで法華経を説かなければ、三悪道を脱れ得ないとしているのに、道綽・善導・法然は念仏一行に留まり、法華経を劣るとするのは無間地獄に堕ちるとのべます。

 3.「禅宗は天魔破旬の説」

 禅宗でいう「教外別伝」については、『涅槃経』邪正品に仏の所説に随わない者は、「魔の眷属」であるというように、仏の経の外に正法があるというのは「天魔の説」であるとのべています。

 4.「大小の戒律は世間誑惑の法」(四九九頁)

聖武天皇のときに来朝した鑑真は、小乗戒壇を建立して僧侶の授戒をしたが、桓武天皇のときに伝教大師は、小乗戒を末法の機根に相応しないとして、南都の僧綱である護命・量深を論破し、南都六宗の碩徳が「退状」(帰伏状)を提出して、円頓戒(大乗戒)に帰伏したことを挙げています。この「退状」は現存しており、良観がこのことを知らないというのは、驚くべきこととのべます。

この訴状の1〜4までは、『行敏御返事』の「初度の難条」四か条の訴えと、同じように教義的なことでしたが、つぎの5〜8は、論点が門弟の行動を訴えています、あきらかに、良観たち仏教界のねらいは、日蓮聖人と信徒の弾圧であり抹消でした。

 5.「年来の本尊弥陀観音等の像を火に入れ水に流すこと」(器物損壊)

 これは、日蓮聖人の信者が、弥陀や観音の仏像を無用の物として、焼却したり水に流して投棄していると訴状され、日蓮聖人はこの仏像を燃やした等という行為を否定します。その事実と証人を提示するようにとのべます。いわゆる挙証責任を衝いたのです。もし証拠がないならば、逆に、良観がしたことを日蓮聖人に負わせ、罪を被せていると反論します。その証拠がないならばこの重罪は良寛にあり、二百五十戒を破失する大妄語であり無間地獄に堕すとのべています。

 6.「凶徒を室中に集める」(悪党を拘惜隠匿)

日蓮聖人は勧持品に「或有阿練若 納衣在空閑 自謂行真道 軽賤人間者 貪著利養故 輿白衣説法 為世所恭敬 如六通羅漢」とある第三の増上慢の文、妙楽や東春に住した妙楽の弟子智度の『法華経疏義纉』(『東春』)、道暹の『輔正記』の経釈からすると、建長寺・寿福寺・極楽寺・多寶寺・大仏殿・長楽寺・浄光明寺が、この第三の僭聖増上慢の者であるとのべます。また、勧持品に「是人懐悪心(中略)向国王大臣(中略)説外道論議」の文や、妙楽の「第三最甚悪所也」、そして、智度の『東春』の「即是出家処 摂一切悪人」の文を挙げて、それらに該当する悪人は良観であると指摘しています。

 7.「「両行は公処に向かう」

 「両行」とは、勧持品のつぎの二行(両方の行)の経文のことをいます。(『開結』三六四頁)

常在大衆中 欲毀我等故 向国王大臣 婆羅門居士

及余比丘衆 誹謗説我悪 謂是邪見人 説外道論議

「公処」とは国王や大臣が政治を司る官庁や役所のことで、政所・問注所・侍所を指します。日蓮聖人が良観を、「両行向公処」の悪人、と非難したことに対しての反論でありました。(『与極楽寺良観書』四三二頁)。これは、『開目抄』に、

 

「東春智度法師云初有諸下五行О第一一偈忍三業悪。是外悪人。次悪世下一偈是上慢出家人。第三或有阿練若下三偈即是出家処摂一切悪人等[云云]。又云常在大衆中下両行向公処毀法謗人等(中略)東春云 向公処毀法謗人等[云云]。夫昔像法の末には護命・修円等、奏状をさゝげて伝教大師を讒奏す。今末法の始には良観・念阿等、偽書を注して将軍家にさゝぐ。あに三類の怨敵にあらずや」(五九一〜七頁)

 

つまり、勧持品の「常在大衆中より下の両行は公処に向かって法を毀り人を謗ず」と、解釈しているように、良観と良忠たちは、偽書をつくって日蓮聖人を問注所や侍所に訴えたのです。これは、法華経を毀る者であり、日蓮聖人を謗る者であるとして、第三の僭聖増上慢であるとのべたのです。僭聖増上慢とは、僧侶のなかでも天皇・将軍・執権など国家権力者を手中にして、私欲に慢心している邪僧のことをいいます。

 8.「兵杖」

 日蓮聖人の門弟が武器を蓄え、武装していることは兇徒とみなす、と訴えられたことで、日蓮聖人はこれを肯定し、正当な理由を涅槃経・天台・章安・妙楽の経釈に証文があるとし、

「法華経守護の為の弓箭兵仗は、仏法の定まれる法也。例せば国王守護の為に刀杖を集めるが如し」(原漢文、五〇〇頁)

 

と、法華経の弘教のためならば、武装することは許容されていることで、経釈に違反しないとのべます。日蓮聖人は立教開宗以降から迫害を受け、松葉ヶ谷法難以降よりは、さらに、生命の危機が頻繁におこるようになっていました。必然的に日蓮聖人を護衛する信徒が結束され、日蓮聖人の草庵には常に武家の信徒がいて、身辺の警護をしていたといわれています。とうじは、自力救済の時代で自分の身を自身で守らなければなりませんでした。寺院においても同じで、比叡山においても寺院が武力をもって、自衛するのは当然のことでした。日蓮聖人は護衛のため武力を蓄えたことの正当性を、涅槃経の文を引いてのべたのです。

6〜8の訴えは武器のたくわえと、悪党のかかえ込みをいいます。『式目』の追加法「神官僧侶規制法」に、僧侶が太刀・腰刀をするのを禁止し(二百条)、悪党を拘惜(こうじゃく)することを禁止しています(三二〇条)。これについて、良観側は日蓮聖人の反論によって沈黙したといいます。武装を肯定する論理はすでに比叡山や南都仏教界で成立していたもので、日蓮聖人が勝手に立てたものではありませんでした。しかし、これが良観らのねらいであり、それは見事に的中し、こののち、幕府が動くのです。良観たちは、もとよりこの陳状に反論することはせず、日蓮聖人との直接対決はしませんでした。

行敏は後に帰伏して乗蓮と名のったことが、日興上人の『諸宗要文』にみえます。また、弘安三年四月一三日の本尊の脇書きに「盲目乗蓮」とあって、本尊を授与されています。行敏は良観に利用されたといいます。そして、日蓮聖人はこれまでの一連の迫害について、良観が策謀したこととのべます

 

「但良観上人等所弘通法日蓮難難脱之間既可令露顕歟。故為隠彼邪義相語諸国守護・地頭・雑人等言日蓮並弟子等阿弥陀仏入火流水。汝等大怨敵也[云云]。切頚追出所領等勧進故日蓮之身被疵弟子等及殺害数百人也。此偏良観・念阿・道阿等上人出大妄語。有心人人可驚可怖」(五〇〇頁

 

つまり、良観たちは、諸国の守護・地頭・雑人奉行たちに、阿弥陀仏の像を火に入れ水に流すと嘘を言って大怨敵と思わせ、そして、日蓮聖人の首を切れ、所領を追い出せと、これまで扇動したとのべ、そのため、日蓮聖人自身も刀傷の疵を受け、弟子も数人、殺害されたことをのべます。そして、インドの毘瑠璃王・大族王・弗沙弥多羅王・設賞伽王・利多王と、日本の欽明・敏達・用明の三王と、中国では武宗の仏教破壊の行為を挙げ、さらに、文保年中に山僧が園城寺など僧坊八百余宇を消失し、治承四年には太政入道清盛が、東大寺・興福寺を消失し僧尼も殺害したことを挙げ、これらは悪人ではあるが、仏法の怨敵ではないとします。なぜなら身を損することではあるが、心を破るものではないとし、良観などの僭聖増上慢が正法を破る仏法の怨敵であると断言しています。

本書の末尾が「涅槃経云」で終り、日蓮聖人の署名と花押があることを写していますが、陳状としては不整備で、末尾が欠失したともいいます。しかし、本文中には経の名目を挙げるのみの箇所があり、経釈の引用が短文であることから、日蓮聖人に逼迫した状況があったと推測しています。その状況を、良観たちが次の手として、幕府の要人や、その女房(きり女房)と、時頼や長時の未亡人たちを動かして、日蓮聖人や弟子に弾圧をしてきたことにうかがえます。すなわち、『報恩抄』に、

 

「或は奉行につき、或はきり人(権家)につき、或はきり女房(権閨)につき、或は後家尼御前等につきて無尽のざんげんをなせし」(一二三八頁)

 

平頼綱は念仏信者でしたので道教を支持します。良観は道隆と組み、重時の娘であり時頼の正室である後家尼に影響力を持っていました。また、『報恩抄』に、

 

「天下第一の大事、日本国を呪詛する法師なり。故最明寺殿・極楽寺殿を無間地獄に堕と申法師なり。御尋ねあるまでもなし。但須由に頸めせ。弟子等をば又或は頸を切、或は遠国につかわし、或は籠に入れよと、尼ごぜんたちいか(怒)らせ給しかば」(一二三八頁) 

と、のべているように、とくに、時頼の妻とすれば父親の重時、夫の時頼、弟の長時が地獄に堕ちたと言われたのです。また、夫が信頼していた道隆と、自分が帰依し親しくしている良観の首を切れというのですから、日蓮聖人が悪僧に映ったのです。そのうえ、建長寺や極楽寺などを燃やせ聞きますと、この妻たちから日蓮聖人を斬首にすれという言葉が発せられるのです。

良観たちの、このような要人の夫人をも利用するなど様々の手段を駆使して、日蓮聖人たちを排斥しようとします。謗法の国となり善神が捨去された日本、それを救済しようとしても叶わない、日本が亡ぶと換言したことが、日本を失わんと呪詛する悪僧といわれてしまいます。流罪か死罪にされるだろうと思う、その動きが強くなることを日蓮聖人はまっていたのです。

 

○幕府(平頼綱)と仏教界(良観)のたくらみ

 

 仏教界からの日蓮聖人の排斥運動は陰湿に行われていました。公場でどうどうと仏教の法論をして進退を決するのではなく、私利私欲のために日蓮聖人は邪魔だったのです。前述したように、とくに良観(両火房)が讒言を企てていたことが、『下山御消息』に、

 

「而を余此事を見故に、彼が檀那等が大悪心をおそれず強盛にせむる故に、両火房内々諸方に讒言を企てて、余が口を塞がんとはげみし也」(一三二〇頁)

 

と、日蓮聖人の口封じをおこなっていました。これは、仏教界だけではなく、幕府においても政道に口出しをする者として、邪魔な存在であったのです。時頼にたいしては、『立正安国論』を念仏を表として浄土宗を批判しました。禅や念仏の信奉者であり、外護者であった時頼や重時を批判したと同じく時宗が尊崇する禅宗にたいしは「禅天魔」と批判し、良観の真言律宗にたいしては「律国賊」と批判しました。

蒙古襲来の緊張した幕府の特に得宗としては、その対蒙古防衛体制を批判するものとして、悪党の鎮圧として日蓮聖人は遮断されたともいえます。日蓮聖人が示した「立正安国」の「破邪顕正」の理解を得られなかったのです。その背後には、仏門の地位を利用していた良観などの、僭聖増上慢が経文に予言されるがごとくに存在していたのです。良観・良忠・道教ら律宗と浄土宗の僧が訴状を出していたのです。ただし、禅宗は訴状を出していません。

幕府とすれば行敏の告訴をもとに、日蓮聖人をはじめ教団を壊滅しようとしていました。教義的な論争は『十章鈔』と同じように、幕府においても雑務沙汰(民事事件)としか扱われません。そこで、良観たちは仏像の破壊行為や武装した凶徒の集団として、社会的な問題として取り上げ、日蓮聖人が日本国・幕府を亡ぼすと呪詛し、しかも故人の時頼・重時の二人は地獄に堕ちたという法師であるから、即刻処刑し弟子たちも処刑すべきと、幕府要人の妻や後家尼御前を誘導して訴えさせたのでした。社会の治安に係わる問題は、検断沙汰(刑事事件)として扱われるので、日蓮聖人を罪人にし捕縛し易くなったのでした。しかも、裁判の担当は侍所であり、所持(次官)は平頼綱だったのです。日蓮聖人を罪人とする企みは思い通りに進んでいたのでした

平頼綱(一二四一〜一二二二年)は弘長三年の頃に、父盛時(盛綱)から侍所所司を継承していました。(山中講一郎著『日蓮自伝考』七四頁)。侍所所司は職制によると頭人(とうにん)の下にあります。これは、時頼が御家人の領地訴訟の裁判の迅速と、公正をはかるために設置したもので、評定衆の下に、頭人・引付衆・引付奉行をつくっています。つまり、訴訟の審理をする機関です。頭人は執権が兼務するので、事実上には頭人の権限をもっています。また、侍所所司は御家人の召集や指揮をおこない、幕府の軍事・警察をになっています。罪人の収監なども行う部署なので、日蓮聖人が捕縛され尋問されたのもこのためです。

日蓮聖人は『貞永式目』を重視して政道をみていました。『式目』は武家の法規で執権と評定衆の合議制が、うまく機能することを目標としましたが、日蓮聖人が三〇歳ころの時頼のころから、政治は得宗専制に急速に移行し、『式目』の理想である御家人共同体と、北条氏の嫡流である得宗家の独裁体制の対立が進んでいました。得宗家に直属する武士を得宗被官といい、得宗家の専制化と共に力をつけていました。宿屋最信も得宗被官でしたが、その代表が侍所の所司平頼綱でした。平頼綱は得宗時宗の被官として権力を握っていきます。文永八年のころは、さらに権力を強めていました。『一昨日御書』に

 

「貴辺は当時天下の棟梁なり」(原寛文五〇二頁)

 

と、のべているように、絶大な支配力をもっていました。この時代、将軍と主従関係を結んでいる御家人が「外様の者」とよばれ、得宗被官は「御内(みうち)の者」とよばれて区別されていました。北条得宗家が幕府内にあって、事実上の最高権力者になっていくと同時に、得宗被官の地位も高くなっていたといいます。(尾崎綱賀著『日蓮』一五四頁)

七月二二日以降に、幕府に届けれらた『行敏訴状御会通』をみた平頼綱は、良観たちと打ち合わせをしたと思われます。日蓮聖人の陳情は理路整然のものであっても、『行敏訴状御会通』に加え、絶好の口実となる時頼と重時の二人が地獄に堕ちたという悪口を口実とします。幕府はもとの執権時頼や連署の重時の二人が、地獄に堕ちたと揶揄されることは、幕府批判であり威信を失いかねないことでしたので、それを確かめるため、九月一〇日、平頼綱は日蓮聖人を呼び出し尋問することになります。自ら検断権を発令したのです。

□平頼綱からの召喚『一昨日御書』(八五)

九月一二日付け『一昨日御書』を平頼綱に宛てています。同書の真筆はありませんが、写本の『日朝本』と『平賀本』などがあります。執筆の月日については諸説があります。八月二二日、八月二三日、九月一〇日、そして、『定遺』の九月一二日です。九月一二日としたのは比較的に古い『日朝本』を依拠としています。また、『法華霊塲記』などに、九月一二日としたのは、蒙古の趙良弼(ちょうりょうひつ)ら百名が、筑前国今津浜(福岡市西区)に来航し、国書をもたらしたのが九月であることを根拠とします。しかし、『録内啓蒙』に、たとえ九月一日に今津に着いたとしても、一〇日までに鎌倉には到達しないとして、八月二二日としています。(『日蓮聖人遺文全集講義』第七巻下三六〇頁)。また、日蓮聖人と平頼綱との対面の月日について、『大野本』・『本化別頭仏祖統紀』等が、八月二二日の執筆とあることから、陳情を提出(『行敏訴状御会通』)した後の、八月二二日ころに、平頼綱との会見があったといいます。(『日蓮聖人遺文全集講義』第七巻下三六二頁)。

また、「見参」ということは、召喚されたのではなく、日蓮聖人が自ら出向いて、一連の疑惑を晴らし公場対決を望んだという説があります。(尾崎綱賀著『日蓮』一五六頁)。また、会見の場は、あえて侍所とし、はじめから有罪とする結論が出ていた、強権的な尋問の場であったといいます。(山中講一郎著『日蓮自伝考』九六頁)。宮崎英修先生は侍所に召喚され、「謀反人」として扱われたとのべています。(『日蓮とその弟子』八八頁)。

では、蒙古と幕府の動きはどうであったかといいますと、概ね次のようになると思います

九月 三日、幕府の使者が朝廷に高麗の牒状を送り、関白以下がこれを議定する

九月一〇日、日蓮聖人は平頼綱に召喚され対面された

九月一二日、日蓮聖人は逮捕され、目論みとおり竜口首座となる

九月一三日、幕府鎮西将士に令し海防を厳重にさせ、

鎌倉に詰めていた西国(九州・中国・四国)の御家人を本領に戻す

九月一九日、蒙古の使節・趙良弼ら百名が筑前国今津浜(福岡市西区)に来航し国書をもたらす

 

 また、川添昭二先生は「一昨日御書」を要検討の遺文としています。その理由は『元祖化導記下』(三五頁)に「文永八年九月十四日次郎兵衛尉」宛てとした、「平頼綱書状」は明白な偽文書であることをあげます。(『法華』「日蓮と平頼綱」七九八号)。このように、諸説がありますが、『定遺』にしたがい、九月一〇日に、平頼綱より召喚されたと判断します。そして、さっそく『立正安国論』を浄書され、二日後の一二日に『立正安国論』に添えて届けられたのが、『一昨日御書』です。

召喚された場所は、平頼綱が「すこしもはばかる事なく物にくるう」ことができた所でした。このときの評定

衆は一五人、引付衆も一五人でした。評定衆のうち六人が入道でした。また、重時の三男義時、四男業時がいます。平頼綱、武蔵守北条宣時、駿河守北条義政、彈正少弼兼左馬権助北条業時の申し合わせで、判決は流罪、あるいは、斬首が決まっていたといいます。連書の政村、評定衆の実時たちは黙許し、名越の一門には知らせず、執権の時宗にも知らせず、宣時がこの手配を行ったともいいます。(蛍沢藍川著『日蓮聖人の法華色読史』二一六頁)。

平頼綱が日蓮聖人を尋問したことは、おもに、@庵室に兵器を備えていること、A両入道が地獄に堕ちたと悪口した事実を聞き出すこと、そして、B極楽寺などを焼き払い良観を斬首すべしと諫言したことの糺明でした。

 日蓮聖人にとっては、予定通りの召喚であり、罪科を受けることであったのです。『種種御振舞御書』に、

 

「故最明寺入道殿・極楽寺入道殿を無間地獄に墮たりと申、建長寺・寿福寺・極楽寺・長楽寺・大仏寺等をやきはらへと申、道隆上人・良観上人等を頚をはねよと申。御評定になにとなくとも日蓮が罪禍まぬかれがたし。但し上件の事一定申かと、召出てたづねらるべし、とて召出されぬ。奉行人の云上のをほせかくのごとしと申せしかば、上件の事一言もたがはず申。但最明寺殿・極楽寺殿を地獄という事はそらごとなり。此法門は最明寺殿・極楽寺殿御存生の時より申せし事なり」(九六二頁)

と、罪科を認めることは正義を貫くことだったのです。また、釈尊から邪師とされる罪科を逃れることであり、これによる弾圧は、「立教開宗」のときに不退転の覚悟をしていたことでした。

本書には、まず日蓮聖人が平頼綱(のちに平禅門)と会見したことの礼をのべます。そして、人間は死後のことを思うものであること、釈尊はそのような者を救うために出世したこと、日蓮聖人が出家して仏教を学び得たことは出離の大要が「妙法蓮華経」であるとのべたことを再説します。この法華経を尊重すれば国家は繁栄するが、これに背けば「善神捨去」し三災七難が起きるとのべ、

 

「方今の世悉く関東に帰し人は皆土風を貴ぶ」(原漢文五〇一頁)

 

と、日本国の政治の中心は鎌倉に集まり、日本国の将来の責務は武士にあるとしたうえで、時頼と会見し『立正安国論』を上呈したのも日本国を貴ぶことにあったと由来をのべます。そして、現在、「他国侵逼」の予言が符合したことと、その未来記の法華経を弘める者は、諸仏の使者であるとのべ「捨邪帰正」を勧めます

 

「而日蓮忝開鷲嶺鶴林之文覚鵝王烏瑟之志。剰勘将来粗得普合。雖不及先哲定可希後人者也。知法思国志尤可被賞之処邪法邪教之輩讒奏讒言之間久懐大忠而未達微望。剰罷入不快之見参偏愁難治之次第者也。伏惟不昇泰山者不知天高。不入深谷者不知地厚。仍為御存知立正安国論一巻進覧之。所勘載之文九牛之一毛也。未尽微志耳。抑貴辺者当時天下之棟梁也。何損国中之良材哉。早回賢慮須退異敵。安世安国為忠為孝矣。是偏為身不述之。為君為仏為神為一切衆生所令言上也。恐恐謹言」(五〇二頁)

 

このように、日蓮聖人の仏法を尊び日本国の安泰を願う胸中を訴えます。しかし、平頼綱の関心はほかにあったのです。日蓮聖人は、武器の隠匿について、涅槃経を論拠として武器の蓄えを肯定しました。日蓮聖人が武器を蓄えた理由に、良観たちからの襲撃があったこと。それを守るためであったことを主張し陳状しますが、もとより取り上げることはなかったことでした。

また、日蓮聖人は、両入道を地獄に堕ちたというのは、生存中に公言したことだと事実を答えます。さらに、日蓮聖人を遠流・死罪にしたならば、北条一門から同士討ちという「自界叛逆」と「他国侵逼」があるとのべ、そのときに後悔するであろうと平頼綱にのべています。これを聞いた平頼綱は、平清盛がもの狂いしたように激しく怒ったといいます。『種々御振舞御書』に、

 

「詮するところ、上件の事どもは此国ををもひて申事なれば、世を安穏にたもたんとをぼさば、彼法師ばらを召合てきこしめせ。さなくして彼等にかわりて理不尽に失に行るるほどならば、国に後悔ありて、日蓮御勘気をかほらば仏の御使を用ぬになるべし。梵天・帝釈・日月・四天の御とがめありて、遠流死罪の後、百日・一年・三年・七年が内に自界叛逆難とて此御一門どしうち(同士打)はじまるべし。其後は他国侵逼難とて四方より、ことには西方よりせめられさせ給べし。其時後悔あるべし平左衛門尉と、申付しかども、太政の入道のくるひ(狂)しやうに、すこしもはばかる事なく物にくるう」(九六二頁)

 

平頼綱はこのとき三一歳ころで、日蓮聖人より一九歳ほど年少です。平頼綱は喜怒哀楽の気性が激しかったようです。「太政の入道」とは平清盛のことで、清盛は高熱にうなされ体から炎がでるように熱死しています。平頼綱はこの対面において、所はばかることなく怒り狂ったのです。蒙古襲来と幕府内部の緊張があるときに、日蓮聖人はどれほど為政者の愚かさに歎かれたことでしょう。

 平頼綱の人物像を知るひとつに、つぎの記事がります。平頼綱は「平禅門の乱」にみられるように、権力を誇示した人物です。平頼綱がまだ自害しない晩年に、次男の助宗が得宗被官としては、異例の検非違使安房となります。この頃、頼綱とその妻に対面した、後深草院二条が記した『とはずがたり』によりますと、将軍御所の粗末さに比べ、得宗家の屋形内に設けられた頼綱の宿所は、室内に金銀をちりばめ、人々は綾や錦を身にまとって目にまばゆいほどであったとあります。大柄で美しく豪華な唐織物をまとった妻に対し、小走りにやってきた平頼綱は、白直垂の袖は短く、打ち解けて妻の側に座った様子に興ざめしたと伝えています。このような人物であったので、先にのべたように平頼綱の怒りをさらに熾烈にした、「不快の」対面だったのです。

 

「不快の見参に罷り入ること偏に難治の次第を愁うる者也。(中略)御存知のため立正安国論一巻之を進覧す。(中略)抑も貴辺は当時の天下の棟梁也。何ぞ国中の良材を損せん哉。早く賢慮を回らして須く異敵を退くべし」(原漢文、五〇二頁)

 

このように、平頼綱との会談は不快なもので、日蓮聖人は会見した二日後の一二日午前中に、『立正安国論』に添えて本書を平頼綱に届けました。しかし、『立正安国論』の主張を聞き入れる余地はなく、公場対決を求めましたが、それに応じることはありませんでした。すでに日蓮聖人を処断(逮捕・流罪・斬首)する意向が見えていたのです。幕府は建長寺・極楽寺と密接な関係にあり、寺側が幕府を動かし、既得権益をまもる幕府でした。

幕府は蒙古の対策におわれており、この九月に蒙古の襲来にそなえるため、九州に所領がある御家人たちを鎮西のため現地に赴かせ、守護の指揮下に入るようにと指令をだしています。同月に趙良弼ら一行が筑前の今津に着きます。大宰府に赴き日本国王に謁見し、国書を呈したいと申し出ましたが、鎮西奉行に拒絶され国書の写しを置き、一一月中に回答するように要求しました。九月一三日に幕府は九州に所領をもつ御家人に対して、蒙古軍を討つことと、領内の悪党といわれる幕府や荘園領主に抵抗する、地侍・有力農民・商人などを追捕することを命じています。

北条本家としての得宗家と、北条庶流家の確執や外様としての名越家の存在があるなかで、平頼綱を代表とする御内人と、安達泰盛を代表とする御家人との権力争いが、蒙古の対策によって明らかになってきていました。最高の既得権益は時宗にありましたが、それに対抗する勢力は、時輔を擁立しようとしていました。現状の権力争いは、将軍家と北条家、関東と西国、源氏と平氏、そして、幕府と朝廷の覇権ということが考えられます。このように、幕府の内実が整っていなかったことと、外交では蒙古襲来にどのように対処するかが、最大の問題になっていた時期であったことを考えますと、日蓮聖人の『立正安国論』は、幕府を批判する反勢力と映ったのです。また、時宗の蒙古政策に反して、法華信仰で蒙古を退避すべきいう、大衆の意見が強まることを危険視したともいいます。それが幕府と癒着し世俗化していた諸大寺の策謀だったのです。

『立正安国論』を送り届けた当日、「伊和瀬の大輔」という人物が訴人として、日蓮聖人を幕府に訴えたのです。この人物は平の郎従といいます。(尾崎綱賀著『日蓮』一五〇頁)。もとより形式であったので、これを受理した平頼綱はこの日の申時(午後四時)に、武装した兵士、三百余人を率いて松葉ヶ谷に向かったのです。

○平頼綱に捕縛

 

平頼綱は鎌倉幕府の軍事や警察権を管轄する侍所の所司(次官)であり、執権の家司(けいし=家老職)という権力をもっていました。日蓮聖人は『種々御振舞御書』に、

「御評定に僉議あり。頚をはぬべきか、鎌倉ををわるべきか。弟子檀那等をば、所領あらん者は所領を召て頚を切れ、或はろう(篭)にてせめ、あるいは遠流すべし等」(九六〇頁)

 

と、おそくても、九月一〇日以降の幕府の評定は日蓮聖人に対しては斬首、あるいは、鎌倉から追放(流罪)弟子や信徒に対しても、土地や財産がある者は没収し、そのあと斬首か、入牢、もしくは、同じように流罪せよという意見が固まっていたとのべています。予測どおり、九月一二日申の刻といいますから午後四時になります。平頼綱はかねてからの計画とおり侍所の所司という権力を行使したのです。(『日蓮の生涯と思想』三六頁)。平頼綱は直々に兵士数百人を引き連れ日蓮聖人を捕縛すべく草庵を囲みました。平頼綱が直接出向いたのは、幕府内にいる日蓮聖人を庇護する者への牽制といいます。

では、日蓮聖人を捕縛する罪状は何だったのでしょうか。それは、諸宗を誹謗したという「悪口の科」と屋内に武器を隠匿しているということでした『北条九代記』によりますと文永八年九月一二日の幕府への訴人は、「伊和瀬の大輔」となっています。しかし、この人物は良観一派がつくりあげた傀儡といいます。

幕府は一二三〇年から三一,三九,四〇,四五,四六,五〇,五八,六一,六二年と「悪党」の取り締まりを発令しています。(『日蓮の生涯と思想』八七頁)。日蓮聖人と弟子信徒はこの監視下にあって、幕府に反抗する悪党という名目のもとに鎮圧されといいます。悪党とは山賊や夜討ち・強盗などをさしますが、荘園本所や幕府に反抗して秩序や権威を乱す者も悪党とよばれました。日蓮聖人の諸宗批判に加え蒙古襲来に対しての宗教的指導が幕府内にとっては「悪口の科」の口実になったのです。幕府は日蓮聖人を捕縛した翌一三日に御家人に九州の所領に下向し異国の防御を命じています。ここには「且は領内の悪党を鎮むべ」きとあり、日蓮聖人を捕縛した理由には蒙古対策における悪党鎮圧をかねての強行であったとも思われます。

また、幕府は武器について一二三五年、三九年、四二年に僧徒の兵仗を禁制しており、つづいて建長年間(一二四九〜五五)に武家以外の階層の帯刀を禁止した帯刀禁止令がありました。その原因は、建長三(一二五一)年一二月の九条堂の住僧了行や、弘長元(一二六一)年六月、三浦泰村の子、大夫律師良賢など、僧侶が謀反に加わった事件があり、幕府は僧侶の武装を規制していたといいます。しかし、比叡山の僧兵や念仏宗徒の襲撃などの事件が相次いで起きていたので、兵器を備えることを捕縛の事由にするには根拠が弱いものです。したがって、目的は日蓮聖人を罪人として処断することにあったのです。すなわち、貞永式目にも反したことであることを、

 

「抑日本国の主となりて、万事を心に任給へり。何事も両方を召合てこそ勝負を決し御成敗をなす人の、いかなれば日蓮一人に限て諸僧等に召合せずして大科に行るゝらん。是偏にただ事にあらず。たとひ日蓮は大科の者なりとも国は安穏なるべからず。御式目を見に、五十一箇條を立てて、終に起請文を書載たり。第一第二は神事仏事乃至五十一等云云。神事仏事の肝要たる法華経を手ににぎれる者を、讒人等に召合られずして、彼等が申まゝに頚に及ぶ。然ば他事の中にも此起請文に相違する政道は有らめども此は第一大事也。日蓮がにくさに国をかへ、身を失はんとせらるゝ歟」(『下山御消息』一三三三頁)

 

と、のべているように遵守すべき式目に反し、私的理由による法難であるとみています。その理由の一つに平頼綱の叔父は安楽房成辨で、鶴岡八幡宮の別当隆辨の高弟であり学頭をつとめたといいます。この縁で日蓮聖人に敵対したともいいます。さて、日蓮聖人を捕縛したときの平頼綱の出で立ちは、

 

「九月十二日御勘気をかほる。其時の御勘気のやうも常ならず法にすぎてみゆ。了行が謀反ををこし、大夫律師が世をみださんとせしを、めしとられしにもこえたり。平左衛門尉大将として数百人の兵者にどうまろ(胴丸)きせて、ゑぼうし(烏帽子)かけして、眼をいからし声をあらうす。大体事の心を案ずるに、太政入道の世をとりながら国をやぶらんとせしにに(似)たり。ただ事ともみへず」『種々御振舞御書』(九六三頁

 

と、のべているように、大勢の兵士に胴丸という軽装の鎧を着せ、烏帽子をかぶらせ、いわゆる武装して捕えにきたのです。この物々しい兵士の出で立ちの解釈について、日蓮聖人と名越氏一族との繋がりが指摘されます。名越時章一族は得宗家につぐ勢力をもっていましたので、日蓮聖人の捕縛により名越氏の動きを懸念した、あるいは、名越時章を挑発した可能性を指摘する説があります(中尾尭著『日蓮』一三七頁)。教時は文永三年六月に宗尊親皇の事件の時、時宗の制止を無視して軍兵数十騎を率いて示威行動に出ていた過去があります。

庵室では説法の最中であり突然の乱入に対し誰も武力を持って抵抗しなかったといいます。兵士たちの行動は家屋を壊し、経典は破き投げ棄てられ糞泥にまで踏み入れたといいます(八九二頁)。名越の草庵は三部屋あり当時は高価な畳が敷かれていたといいます。(山中講一郎著『日蓮自伝考』一二四頁)。ありとあらゆる異常な狼藉をしたのです。草庵に押し寄せたなかに平頼綱の郎従で少輔房という者がいます。少輔房については諸説がありましたが、日蓮聖人の門下の少輔房は文永七年か八年の七月一六日に死亡しているので、この少輔房とは別人となります。これは、「伊和瀬の少輔房」のことをいいます。(『日蓮教団全史』二二頁)。伊和瀬の少輔房は律令制の省の次官で大輔の次に位置する者といいます。この少輔房たちが法華経を粗末に扱った様子を『種々御振舞御書』に、

 

「平左衛門尉尉が一の郎従少輔房と申す者はし()りより(寄)て、日蓮が懐中せる法華経の第五の巻を取り出して、おもて()を三度さいなみて、さんざんとうちちらす。又九巻の法華経を兵者ども打ちちらして、あるいは足にふみ、あるいは身にまとひ」(九六三頁)

少輔房は日蓮聖人が懐に大事に抱かれた経巻をとりあげ、その経巻を持って顔を三度たたく、なぐるという行為をしました。後年、これにふれ、『上野殿御返事』に、

 

「さてもさてもわすれざる事は、せうばう(少輔房)が法華経の第五巻を取て日蓮がつら(面)をうちし事は、三毒よりをこる処のちやうちやく(打擲)なり。(中略)杖の難には、すでにせうばう(少輔房)につらをうたれしかども、第五巻をもてうつ。うつ杖も第五巻、うたるべしと云経文も五巻、不思議なる未来記の経文也。さればせうばうに、日蓮数十人の中にしてうたれし時の心中には、法華経の故とはをもへども、いまだ凡夫なればうたてかりける間、つえ(杖)をもうばひ、ちから(力)あるならばふみをり(踏折)すつべきことぞかし。然れどもつえは法華経の五巻にてまします」(一六三三頁)

 

と、のべているように乱暴に経典などを扱い日蓮聖人の顔面に叩きつけたのです。そのときの日蓮聖人の心境は、いかばかり悔しかったか計り知れません。そして、

「あるいはいたじき(板敷)、たたみ(畳)等、家の二三間にちらさぬ所もなし」(九六四頁)

という乱雑な行動があったのです。日蓮聖人を逮捕するだけのことに、これだけの狼藉を行うまで日蓮聖人は憎まれていたのです。また、日蓮聖人たちが反抗して乱闘があった状況をねつ造したのです。

日蓮聖人を逮捕するときの様子を、「了行が謀反ををこし、大夫律師が世をみださんとせしを、めしとられしにもこえたり」とのべていることから、謀反人を召し取るときと同じ仰々しさであったのです。了行法師は建長三年一二月二六日に、勧進を装って同士を集め幕府の転覆を謀ります。これを近江大夫判官氏信、武藏左衛門尉景頼が謀叛の企てがあるとして生虜にした事件がありました。また、弘長元年六月二〇日、日蓮聖人は伊豆流罪のときで、重時が身心騒乱して病床にあったころに、三浦泰村の弟、良賢が宝治合戦で滅ぼされた無念をはらすため、一族を集めて謀反を企てます。宝治合戦のときは三浦泰村側に宇都宮頼綱が加勢しています。これは泰村が妻の兄弟であったこともありますが、この敗戦により子供の時村、泰親とともに源頼朝の法華堂にて自害しています。良賢の謀反を鎮圧したのは平頼綱の父盛時でした。日蓮聖人は自身の逮捕が、これらの者が逮捕されたときと同じような、謀反人を扱うようであったとのべたのです。これらの行為にたいし日蓮聖人は『種々御振舞御書』に、

 

「日蓮大高声を放て申。あらをもしろや平左衛門尉がものにくるうを見よ。とのばら(殿原)、但今ぞ日本国の柱をたをす、とよばはりしかば上下万人あわてて見し。日蓮こそ御勘気をかほれば、をく(臆)して見ゆべかりしに、さはなくして、これはひが(僻)ことなりとやをもひけん。兵者どものいろ(色)こそへんじて見へしか」(九六四頁)

と、狼藉にたわむれていることを制止し、のちに「三度の高名」(一〇五三頁)の二番目の諫暁となる諌言を声高らかに、威厳を持って発せられます。『報恩抄』に、

 

「平左衛門並びに数百人に向って云く。日蓮は日本国のはしら()なり。日蓮を失うほどならば、日本国のはしらをたをす()になりぬ等云々」(一二二二頁)

 

また、同じように、『撰時抄』に、

 

「二去し文永八年九月十二日申時に平左衛門尉向云、日蓮は日本国の棟梁也。予を失は日本国の柱橦を倒なり。只今に自界反逆難とてどしうちして、他国侵逼難とて此の国の人々他国に打殺るのみならず、多くいけどりにせらるべし。建長寺・寿福寺・極楽寺・大仏・長楽寺等の一切の念仏者・禅僧等が寺塔をばやきはらいて、彼等が頚をゆひのはまにて切らずは、日本国必ほろぶべしと申候了」(一〇五三頁)

 

と、平頼綱に向かって諌めました。棟梁とは将軍のような重要な人ということです。そのような日蓮聖人を倒すことは、日本という国を破壊することと同じことだということです。日蓮聖人の声を聞いた兵士達は狼藉の重大さを感じたのか顔色が変わったといいます。

 

○引き回し

 

逮捕された日蓮聖人は謀反人の扱いで鎌倉の小路をひきまわされました。午後四時ころに平頼綱が庵室に乱入し、そのご、庵室のなかを荒らし捕縛して、日蓮聖人を引き回しながら侍所に向かいます。『神国王御書』

「両度の流罪に当てて日中に鎌倉の小路をわたす事、朝敵のごとし」(八九二頁)

 

と、のべているように日中の午後五時ころに捕縛され、安国論寺付近の草庵からぼたもち寺常栄寺と妙本寺前を通り、夷堂橋を渡り小町小路を北に進んで幕府の侍所に入ったと推察されます。当時は大通りのことを小路といい小町小路は最も賑やかな通りであったといいます。そのときは放免という下司の手で乱暴に扱われたといいます。(山中講一郎著『日蓮自伝考』一三四頁)。『諌暁八幡抄』に、

 

「日本国の上一人より下万民にいたるまで法華経をあなづらせ、一切衆生の眼をくじる者を守護し給は、あに八幡大菩薩の結構にあらずや。去弘長と又去文永八年九月の十二日に日蓮一分の失なくして、南無妙法蓮華経と申大科に、国主のはからいとして八幡大菩薩の御前にひきはらせて、一国の謗法の者どもに、わらわせ給いしは、あに八幡大菩薩の大科にあらずや」(一八四〇頁)

 

と、のべているように、「ひきはらわせ」「わらわせ給いし」という怜悧な処遇をうけたのです。この引き回しの後に、平頼綱の侍所に拘禁されます。この酉の時(午後六時頃)には佐渡流罪を言い渡されたようです。それを聞いた日蓮聖人は『種々御振舞御書』に、

「十日並びに十二日の間、真言宗の失、禅宗、念仏等、良観が雨ふらさぬ事、つぶきに平左衛門尉にいいきかせてありしに、或はどっとわらひ、或はいかりなんどせし事どもは、しげければしるさず。せん(詮)するところは、六月十八日より七月四日まで、良観が雨のいのりして、日蓮にかゝれてふらしかね、あせ(汗)をながし、なんだ(涙)のみ下て、雨ふらざりし上、逆風ひまなくてありし事。三度までつかひ(使者)をつかわして、一丈のほり(堀)をこへぬもの十丈二十丈のほりをこうべきか。いずみしきぶ(和泉式部)、いろごのみの身にして八斉戒にせいせるうた(和歌)をよみて雨をふらし、能因法師が破戒の身としてうたをよみて天雨を下せしに、いかに二百五十戒の人々百千人あつまりて、七日二七日せめさせ給に雨の下らざる上大風は吹候ぞ。これをもつて存ぜさせ給へ。各々の往生は叶まじきぞとせめられて、良観がなきし事、人々につきて讒せし事、一一に申せしかば、平左衛門尉等かたうど(方人)しかなへずして、つまりふし(詰伏)し事どもはしげければかゝず(九六四頁)

 平頼綱に諸宗の誤りを説いても、かえって嘲笑され恫喝されたことがうかがえます。しかし、日蓮聖人はことさらに、良観との祈雨対決にふれています。日蓮聖人は法華経が正法であることを、良観との法験によって証明します。これは、良観にしますと涙を流すほど悔しかったことでした。この六月一八日から始まる祈雨は七月四日に決着がつきます。このあと、七月八日に良観から「行敏初度の難状」が届けられます。一三日に返事をされ公場対決をのぞみます。二二日に良観は行敏の訴状に添書を幕府に提出し、日蓮聖人に答弁を催促します。結果、七月中に良観は反論できずに訴訟は終わります。このあと、良観は幕府要人や、後家尼たちに日蓮聖人を讒言したのです。その謀略が実現したのが九月一二日です。

日蓮聖人はこの経緯を平頼綱に諭したのです。そして、仏教者として肝心なことをいいます。それは、良観の教えでは平頼綱の往生はかなわず、時頼たちとおなじ地獄に堕ちることを説いたのです。平頼綱たちは良観の仕業については弁明できず言葉が詰まったとのべています。

この佐渡流罪の決定により、日蓮聖人の身柄は佐渡の守護である武蔵守北条宣時にうつります。日蓮聖人はいったん小町小路付近の北条宣時の館に預けられ、ここからは佐渡赦免、鎌倉帰還までは北条宣時が日蓮聖人を管理することになります。北条宣時は時房の孫で父は朝直、義時の弟です。大仏氏をなのる名門で、のちに武蔵守に任じられ九代執権貞時の連署を勤めた有力な家柄でした。官職の武蔵守は北条家の実力者のみが任官する名跡(相模守・武蔵守・陸奥守)の一つです。北条宣時のもとで佐渡の守護代である本間六郎左衛門尉が直接の預かり人でした。その本間六郎左衛門尉の館がある相模国依智(厚木市)に、日蓮聖人を護送することになりました。しかし、それは表向きのことであって実際には隠密に処刑をすることが計画の主意であったのです。