147. 竜口法難 (首の座) 高橋俊隆 |
◆第四節 竜口首の座 ○竜口に連行 日蓮聖人を捕縛した本来の目的は、竜口で日蓮聖人を斬首に処すことであったことを、『妙法比丘尼御返事』にのべています。 「去る文永八年九月十二日に都て一分の科もなくして佐土の国へ流罪せらる。外には遠流と聞へしかども内には頸を切ると定めぬ」(一五六二頁)
ゆへに、夜半の子丑(午前零時ころ)になって侍所より出立して、隠密に刑場竜の口にむかいます。竜の口の刑場は江ノ島に近い腰越宿のはずれ片瀬にあります。小町大路を南下し右折して鎌倉の市中を西にむかいます。途中、鎌倉の市街を東西に二分する八幡宮前の若宮大路にいたります。現在の小町通りを南に夷堂橋を渡り、ここで老婆(桟敷尼)が日蓮聖人にぼたもちを供養したといいます。この老婆は将軍宗尊親皇につかえた印東次郎左衛門祐信の妻でした。牡丹餅を供養したところは桟敷の尼の庵室であったといいます。桟敷尼は日蓮聖人の信徒として給仕し、法名が妙常日栄(文永一一年一一月二八日没、八八歳)であったことから、寛文一二(一六七二)年、慶雲日祐法尼の丹精により常栄寺が建てられました。「首つなぎの牡丹餅」の縁由から、災難除けの餅として庶民の信仰をうけるようになり、桟敷尼が供養のために用いた木鉢が寺宝として所蔵されています。 この通称「ぼたもち寺」とよばれる常栄寺前の古道を出て右折し、延命橋を渡り下馬四角に出ます。ここで鶴岡八幡宮の表参道である若宮小路(現在の若宮大路)を横切ることになります。ここで日蓮聖人は下馬し八幡菩薩に諌暁しました。『種々御振舞御書』に、
「さては十二日の夜、武蔵守殿のあづかりにて、夜半に及頸を切がために鎌倉をいでしに、わかみやこうぢにうち出て四方に兵のうちつつみてありしかども、日蓮云、各々さわがせ給な。べちの事はなし。八幡大菩薩に最後に申すべき事ありとて、馬よりさしおりて高声に申すやう。以下に八万大菩薩はまことの神か。(中略)今日蓮は日本第一の法華経の行者なり。其上身に一分のあやまちなし。日本国の一切衆生法華経を謗じて無間大城におつべきを、たすけんがために申す法門なり。又大蒙古国よりこの国をせむるならば、天照大神・正八幡とても安穏におはすべきか。(中略)いそぎいそぎこそ誓状の宿願をとげさせ給べきに、いかに此処にはをちあわせ給ぬぞとたかだかと申す。さて最後には、日蓮、今夜頸切られて霊山浄土へまいりてあらん時は、まづ天照大神・正八幡こそ起請を用いぬかみ(神)にて候けれと、さしきりて教主釈尊に申し上げ候はんずるぞ。痛しとおぼさば、いそぎいそぎ御計いあるべし」(九六五頁) と、若宮大路にて八幡大菩薩にたいして、法華経の行者を守護すべきことを諫暁します。それは、陀羅尼品において二聖二天十羅刹女などの諸天善神が、末法における法華経の行者を守護すると釈迦・多宝仏・十方諸仏の前にて誓ったことに背反しないようにとの叱責でありました。また、この諌言は法華経の諸天善神が、昼夜に「擁護法師」(『開結』五六八頁)するという「道理」(誓状)があるのに、現実にその経文が「成就」(守護)しなければ、諸天善神を諌言すべきであるとのべています。これを「八幡社頭の諌言」といいます。また、「正八幡」と敢えてのべるのは、とうじの民衆が八幡大菩薩の本地を阿弥陀仏として認識していたことを踏まえて理解すべきといいます。
「我弟子等の内、謗法の余慶有者の思ていわく、此御房は八幡をかたきとすと云云。これいまだ道理有て法の成就せぬには、本尊をせむるという事を存知せざる者の思也(中略)真言・禅・念仏者等の讒奏に依て無智の国主等留難をなす。此を対治すべき氏神八幡大菩薩、彼等の大科を治せざるゆへに、日蓮の氏神を諌暁するは道理に背べしや。尼倶律陀長者が樹神をいさむるに異ならず。蘇悉地経云治罰本尊如治鬼魅等云云。文の心は経文のごとく所願を成ぜんがために、数年が間法を修行するに成就せざれば、本尊を或はしばり、或は打なんどせよととかれて候。相応和尚の不動明王をしばりけるは此の経文を見たりけるか。此は他事にはにるべからず。日本国の一切の善人が或は戒を持、或は布施を行、或は父母等の孝養のために寺搭を建立し、或は成仏得道の為に妻子をやしなうべき財を止て諸僧に供養をなし候に、諸僧謗法者たるゆへに、謀反の者知ずしてやどしたるがごとく、不孝の者に契なせるがごとく、今生には災難を招き、後生も悪道に堕候べきを扶とする身也。而を日本国の守護善神等、彼等にくみして正法の敵となるゆへに、此をせむるは経文のごとし。道理に任たり」(一八四二頁) 『吾妻鏡』をみますと、若宮大路を横断する地点は三箇所ありました。上の下馬・中の下馬橋・下下馬橋で、下馬札が掲げられていました。中下馬橋など諸説の下馬場所がありました。日蓮聖人は現在の下馬四角か一ノ鳥居付近の下馬を利用して八幡を諌暁されました。このときの護送の役人は侍所の放免ではなく北条宣時の家臣であったので乱雑に扱わなかったといいます。一行は佐々目塔の辻で左折し由比の浜に出て極楽寺につながる道の前を通ります。極楽寺の良観は日蓮聖人を死罪に画策した人でした。日蓮聖人は『下山御消息』に、
「讒言を企て日蓮が頸をきらせまいらせんと申し上げ、あづかる人の国まで状を申し下して種をたたんとする大悪人なり」(一三二二頁)
と、良観を評しています。竜の口の処刑場へ送られる途中、稲村ヶ崎道の海岸を進み、御霊神社の前にさしかかります。日蓮聖人は熊王という少年に四条頼基に知らせるよう言い伝えます。四条頼基の住まいは現在の収玄寺付近といわれ、御霊神社と数百メートルの距離です。四条頼基は兄弟三人ともども裸足で駆けつけました。日蓮聖人は護衛の兵士のほかに弟子や信徒、そして熊王などに付き添われていたことがうかがえます。四条頼基兄弟をくわえた護送の一行は、御霊神社の前を通って極楽寺切通しを越えて進みます。あるいは極楽寺坂を越えず稲村ガ崎の先端を通ったという説もあります。極楽寺切通しは正元元年に工事が始まり三年後の弘長元(一二六一)年に完成されたというのが定説で、同年四月に宗尊親王が騎馬隊を引き連れて極楽寺に休息しており、その一〇年後のことですので、一行はこの極楽寺の門前を通ったとするのが妥当とされています。この当時の切通しは上の方にあり、成就院の山門のところが切通しの高さだったといいますので、かなりの勾配があった坂道になります。この切通しの正面にあるのが霊鷲山極楽寺ですので、日蓮聖人は法敵であった良観の門前を通って、刑場に向かわれたことになります。当時は七堂伽藍を整え四九の支院があるほどの大寺院だったのです。 鎌倉十橋の一つとされる針磨橋を渡ると右に「日蓮袈裟掛けの松」があります。この針磨橋を渡り七里ヶ浜の海岸に出て、黒闇に江ノ島を望みながら小動(こゆるぎ)岬の手前を斜め右に入り、片瀬(藤沢市)に日蓮聖人を連れてきました。鎌倉の西口にあたり交通の要所である片瀬の海岸には「片瀬の中に竜口」(『四条金吾殿御消息』)と述べた竜口という刑場がありました。津・片瀬・腰越の砂浜地域で処刑が行なわれ、一般的に竜の口といわれていました。 『吾妻鏡』などには竜の口以外の刑場に川瀬川辺(固瀬河辺)と腰越が記されています。片瀬山はもと竜口山といい、腰越の地名の由来である「天女と五頭竜」の伝説があります。悪竜を改心させ結婚したのが江ノ島の辨天女で、悪竜は死に際し竜口山で里人を守ると弁天に誓ったといいます。山の中腹に竜が頭(口)を突き出した形の岩があります。『江島縁起』には欽明天皇一三(五五二)年四月一二日に起きた地震により、江ノ島が出現したとあり、悪竜を祭った竜口明神は、鎌倉以前から里人の守護神とされていました。頸の座といわれる竜の口の刑場は、江ノ島を望む片瀬山の眺望の良い南端にある、腰越の竜口寺前であると伝えられており、竜口寺近辺の海岸が頸の座といわれています。竜口に着くと人々のざわめきが大きくなります。刑場にはうすく松明が焚かれ、すぐに処刑ができる準備ができていたのです。半信半疑であった斬首が、まさに執行されることを知ったのです。 ここで日蓮聖人を斬首するのが目的でしたので、竜の口に着いた日蓮聖人は馬より降ろされ、処刑の場に引き連れられました。日蓮聖人と三位房は刑場の敷皮石(首・座)にすえられます。日蓮聖人の馬の口をとって供をした四条金吾も、この頸の座の姿を見て泣き悲しみ腹を切ろうとしました。しかし、日蓮聖人は、これこそが大事な尊いことであると諭されます。『種々御振舞御書』に、 「されば日蓮貧道の身と生て、父母の孝養心にたらず、国の恩を報ずべき力なし。今度頚を法華経に奉て其功徳を父母に回向せん。其あまりは弟子檀那等にはぶく(配当)べしと申せし事これなり、と申せしかば、左衛門尉兄弟四人、馬の口にとりつきて、こしごへ(腰越)たつ(龍)の口にゆきぬ。此にてぞ有んずらんとをもうところに、案にたがはず兵士どもうちまはりさわぎしかば、左衛門尉申やう。只今なりとな(泣)く。日蓮申やう。不かく(覚)のとの(殿)ばらかな、これほどの悦びをばわら(笑)えかし。いかにやくそく(約束)をばたが(違)えへらるるぞ」(九六七頁)
と、日ごろ法華経の行者には命にかかわる迫害があると教えてきたことではないかと諭します。また、これこそが経文の色読であり、法華経の未来記である真実が実証されるときであるとのべています。後に、このときの四条金吾の思いに対し『崇峻天皇御書』に、
「返す返す今に忘れぬ事は頸切られんとせし時、殿はとも(供)して馬の口に付きてなきかなしみ給ひしをば、いかなる世にか忘れなん。設ひ殿の罪ふかくして地獄に入り給はば、日蓮をいかに仏になれと釈迦仏こしらへさせ給ふにも、用ひまいらせ候べからず。同じく地獄なるべし」(一三九四頁)
と、法の悦びを語られています。法華経を弘めるということによる人民からの阻害と、同門の僧侶による謀略のなかに四条頼基の純真な信心は日蓮聖人の心を温めたのです。
○竜の口の処刑
四条頼基などに見守られるなか、頸の座に据えられます。このとき三位房も同座します(『頼基陳状』)。日蓮聖人は端座し合掌して題目を唱えました。時間は「子丑の刻」(五九〇頁)「丑の時」(一五六二頁)といいますから、午前二時になろうとするころです。まさに、斬首が整ったと思われたとき、不思議な現象があり処刑は中止されたのです。『妙法比丘尼御返事』に、
「九月十二日の丑の時に頚の座に引すへられて候き。いかがして候けん、月の如くにをはせし物、江ノ島より飛び出て使いの頭にかかり候しかば、使いををそれてきらず。とかうせし程に子細あまたありて其夜の頸はのがれぬ」(五六二頁) その詳しいことは、『種々御振舞御書』に、 「江ノ島のかたより月のごとくひかりたる物、まりのやうにて辰巳のかたより戌亥のかたへひかりわたる。十二日の夜のあけぐれ、人の面もみへざりしが、物のひかり月夜のやうにて、人の面もみなみゆ。太刀取目くらみたふれ臥し、兵共おぢ怖れ、けうさめて一町計はせのき、或は馬よりをりてかしこまり、或は馬上にてうずくまれるもあり」(九六七頁)
と、処刑の寸前に江ノ島の上空に月のように大きな光る物体が突如として天空にあらわれ、その光る物体は南東から北西へと飛び去っていき、斬首役は目が眩んで倒れ臥してしまいます。このとき、太刀取り人といって、日蓮聖人を斬首する役目をおった越智三郎左衛門の握っていた太刀が、折れるという事態がおきます。これは、『法華本門宗要鈔』(二一六一頁)の記述ですので誇張されていますが、日蓮聖人を処刑できなかった事実として、語りつがれてきた伝承です。
「自江島方大光物出現日蓮頚座上如鷹隼飛移後山之大木歟見之忽出雲霧即為昏闇。太刀取越智三郎左衛門既持開打日蓮頚太刀忽折親没落手足不動。其時依智三郎左衛門大驚去退早速走御所於使者」(二一六一頁)
この異常な現象に、警護の武士達は驚きのあまりに馬から下り、恐怖のあまりに逃げ去ってしまったのです。また、月のように大きく光る物が「使いの頭にかかり」とのべています。使いの者とは平頼綱のことです。平頼綱の頭上に光りものが飛んできて、平頼綱端驚き恐れて、日蓮聖人を斬首することができなかったとのべています。恐怖に狼狽する平頼綱に向かって、日蓮聖人は
「日蓮申すやう、いかにとのばら、かかる大に禍なる召人にはとを(遠)のくぞ。近(く)打ちよれや、打よれや、とたかだかとよばわれども、いそぎよる人もなし。さてよ(夜)あけばいかにいかに。頸切べくわいそぎ切べし。夜明けなばみぐるしかりなん、とすすめしかども、とかくのへんじもなし」(九六七頁)
と、早く処刑しなければ夜明けとなり、内密に処刑しようとしたことが露見して、見苦しい事態になるから、早く斬首せよと平頼綱たちに放言しても、誰一人として日蓮聖人の首を斬るという者はいなかったのです。それほど、日蓮聖人に敵対した者は光り物の現象に日蓮聖人と法華経に脅威を感じたのです。 法華経こそ真実の教えと説き、それに背反する者は地獄に堕ちると説いてきた日蓮聖人の言葉が浮かんだのでしょう。他国侵逼を予言していた通り蒙古の襲来が現実的になっていました。武士たちは処刑をできず、右往左往して時間だけが経ったのです。 この光り物の記述は『種々御振舞御書』と弘安元年の『妙法尼御返事』だけで、他の遺文には無く、両書とも真蹟が現存しないので疑問とされています。医師の寺島良安が正徳二(一七一二)年ころに著した『和漢三才図会』に、七里ガ浜の説明があり「稲村が崎と腰越の間七里あるゆえに名ずく。古戦場の跡。この浜に鉄砂あり。黒色漆のごとし。極めて細小で、月に映りて輝く銀のごとし」(原漢文)とあります。日蓮聖人のとうじは分りませんが興味のある記事です。また、同書に「日蓮不思議な奇瑞が有り害を免れる」と書かれており、江戸時代には日蓮聖人が竜口の処刑を逃れたのは不思議な奇瑞があったと伝わっていたことが分ります。 また、『御伝土代』には江ノ島より光物が出たことと、御所のなかで様々な怖れごとがあったので斬首できなかったとあります。そこで、死罪が赦されたのは時宗の御台所が懐妊しており、陰陽師の大学允が時宗に赦免を願い出たため、あるいは、大学三郎が安達泰盛に懇願したなどといいます。刑場では、しばらくして、卯の時(午前八時ころ)に十郎入道という者が刑場に駆け込み、時宗から処刑中止の裁断があったことを伝えるのです。 ○竜口寂光土
竜の口において日蓮聖人を斬首することはできませんでした。この理由は光り物の出現ではないとして、このことを懐疑的に見る向きがあります。しかし、日蓮聖人においては大事な場であったことは事実です。日蓮聖人は竜の口こそが寂光土である、という感慨をのべていることに着目しなければなりません。『四条金吾殿御返事』に、
「もし然らば、日蓮が難にあう所ごとに仏土なるべきか。娑婆世界の中には日本国、日本国の中には相模の国、相模の国の中には片瀬、片瀬の中には龍の口に、日蓮が命をとどめをく事は、法華経の御故なれば寂光土ともいうべきか」(五〇四頁) と、のべているように、日蓮聖人にとって竜の口は、「立教開宗」の誓願を達成されたところでした。法華経の教えを現成された「寂光土」とうけとめました。更に、佐渡に流罪された日蓮聖人は、『開目抄』に凡夫から聖者となった「魂魄」(五九〇頁)が佐渡に来ているとのべ、本化上行意識を高められます。まさに、『観心本尊抄』の事一念三千の仏身を示された時だったのです。この聖地に日法上人が延元二(一三三七)年に「敷皮堂」を建てます。敷き皮というのは斬首の座に敷く敷物のことで、後に寂光山竜口寺が建立されます。 第二部 ―以上― |
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