148.佐渡流罪 捕縛から依智出立まで             高橋俊隆


第三部 佐渡流罪から鎌倉退出まで

■第一章 佐渡流罪 

◆第一節 処刑中止と依智に護送

○捕縛から依智出立まで

 

九月一二日

申(午後四時頃)平頼綱の手勢、日蓮聖人を逮捕

      日中      鎌倉市中を引き回し見せしめにした

      酉(午後六時頃)名目を佐渡流罪にして内密に斬首を策謀していた

              北条宣時の預かりとなる

      戌の下刻(午後一一時頃)侍所を出る

夜半      竜の口刑場にむかう

              若宮小路にて下馬し八幡神を諫暁する(八幡諌言)

              極楽寺切通しを抜ける

              四条頼基に熊王をつかわす

              四条頼基兄弟四人が伴う

九月一三日

      子丑(午前一時頃)名目上は依智に向かい歩を進める

処刑するため竜の口に至る(竜口首座・頸の座)

太刀取りの依智三郎直重は名刀蛇胴丸を使用し斬首に臨む

十二日の夜のあけぐれ(昧爽)」江ノ島方面から「光り物」が出現(月天子)

        (午前四時頃)「夜明なばみぐるし(見苦)かりなん」と高唱する

(午前五時頃)平頼綱は取り敢えず処刑を中止した

卯(午前六時頃)北条宣時は日蓮聖人を相模依智にむけて出立(遠流)させ、

療養のためと偽り熱海に湯治(遁走)にいく

兵士たちは依智への道路を知らず戸惑った

      午(正午)   依智の本間重連邸に着く

              本間の代官右馬太郎が身柄を預かる

              本間邸の家来に警護されたのを見て四条金吾は鎌倉へ帰る

              『自依智御状』・『自本馬御返事』(富木氏宛て)があったと推測されている

              庵室打壊しの下知、日昭上人は由比の浜土に身を移す

              庵室にいた日朗上人など五人が捕縛され、数日後に土牢へ入獄

申(午後四時頃)時宗は正式に処刑中止を決める(「二時はしりて候」)

戌(午後八時頃)時宗の使者が本間邸に来て立文を披露する

              使者は熱海にいる宣時に早馬にて連絡する

(夜)      本間邸の梅ノ木に明星出現(明星天子・星下りの奇瑞がある)

戌(午後十時頃)殿中にて異変がおきた(「大いなるさわぎあり」)

時宗は陰陽師に諮問。陰陽師は日蓮聖人を赦免すべしと答申

答申について時宗の館で平頼綱、安達泰盛らが激論する

九月一四日

卯(午前六時) 本間(辻)十郎入道が来て一三日夜の時宗近辺の異変を伝える

(昼頃)    幕府の評議において佐渡流罪が再確認された

平頼綱、佐渡の本間重連に流罪の書状を送る

九月一五日

依智の右馬太郎に知らせが入る

富木氏に書状を送り四〜五日後に佐渡へ出立と知らせる(『土木殿御返事』)

九月二一日

              鎌倉市中に放火・殺人事件が起き、日蓮聖人の信徒がした仕業とされる

              二六〇名の交名帳が作られる(土牢の日朗上人を斬首せよと風評される)

四条金吾に書状を送る(『四条金吾殿御消息』)

  一〇月三日

              日朗上人に書状を送り七日に佐渡へ出立と知らせる(『五人土籠御書』)

  一〇月五日

              大田・曽谷・金原法橋に書状を送る(『転重軽受法門』)

  一〇月九日

              日朗上人に明日、佐渡へ出立すると知らせる(『土籠御書』)

一篇首題の楊枝本尊を顕わす

  一〇月一〇日(今日の一一月二〇日)

              清澄寺の兄弟子に書状を送り道善房・領家尼に伝言する(『佐渡御勘気鈔』)

依智の本間邸を発ち佐渡に向かう

              本間重連の一族(十郎・三郎左衛門・弁坊・右馬尉など)が入信

  一〇月二一日      越後寺泊に着く(一二日間の行程)富木氏に書状を送る(『寺泊御書』)

              富木氏の従者などを鎌倉に帰す

  一〇月二八日      佐渡に着く

 

○処刑の中止について

 

平頼綱が内密に企てた斬首は奇瑞により失敗します。異変(光りもの)が出現し、日蓮聖人と弟子の三位房の頸を切ることができない不思議なことがおきたのです。処刑は日蓮聖人一人という説と、もう一人の弟子がいたともいい、二人の竜口首座を現わしている古い版画があります。『頼基陳状』にも三位房の名前が書かれています。

 

「三位も文永八年九月十二日の勘気の時は共奉の一行にて有しかば、同罪に被行て頚をはねらるべきにてありしは、身命を惜ものにて候かと申されしかば」(一三五一頁)

日蓮聖人を斬首できなかった平頼綱の驚きは大きく、動揺したまま時が経過します。平頼綱が内密に北条宣時に命じて、処刑を断行したことが露見したからです。日蓮聖人は夜が明ければ見苦しいから、早く首を斬れと平頼綱に言ったのは、平頼綱の謀略があばかれ、その事後処置に困惑する心中を突いたのです。このあと幕府内は日蓮聖人を処刑にしようとした責任者への問責や、流罪についての是非についても紛糾し混乱します。日蓮聖人の身柄を預かり家臣に竜口へ護送させた北条宣時は、一三日の朝午前六時(卯の時)ころに熱海に遁走します。処刑の責任者とされることから逃れる行動といえます。平頼綱からしますと直接の処刑を断行したのは北条宣時であると責任を転嫁でき、北条宣時は自分の知らないあいだに、日蓮聖人を憎む誰かの誤報により事件がおきた、と言い逃れができます。両者の関係が親密なことは、霜月騒動後に実権を握った平頼綱が、大仏流の北条宣時を重用したことからわかります。

兵士たちは奇瑞の大きさに驚き、仏罰の恐怖感に震えていたでしょうから、平頼綱も夜が明けてからの謀殺は無理と判断したのでしょう。なによりも竜口刑場の光り物の奇瑞に驚き、平頼綱もいくぶんは畏怖していたと思われます。平頼綱・北条宣時など極楽寺系の権威者は、佐渡遠流を遂行する合議をしたのでしょう。この時点においては、まだ時宗には知らされていないと思われます。(高橋智遍著『日蓮聖人小伝』五三七頁)。北条宣時は午前六時ころに、日蓮聖人を依智に護送することを命じて、湯治療養のため熱海に向かいます。これは、日蓮聖人を佐渡流罪とした判決通りに、これを行使したという名目に戻し、退却せざるを得なかったのです。これも、平頼綱の指示に従っただけと思います。湯治というのは今日でいえば病院に入院するようなことをいいます。病気を理由に遁走して、証人として立たずに、ことの成り行きを傍観することにしたのです。

時宗に日蓮聖人暗殺の策謀があった、と伝えられた経緯は不明です。『法華本門宗要鈔』(二一六一頁)には依智三郎がすぐに御所へ使いを走らせたとあります。幕府内にいる日蓮聖人を擁護する者が、不意の処刑を聞いてあわてて伝えたか、四条金吾の近辺の者が幕府内の信徒である、大学三郎や宿屋光則などに伝えたでしょう。四条頼基も竜口へ連行されていく道中に、日蓮聖人が処刑されることを知ったのですから、隠密に周到にねられた計画であったのです。処刑の事件が知らされたのは、事後のことになります。

しかし、時を経て時宗に知らせが入ります。平頼綱は幕府にもどり時宗からことのいきさつを問われます。時宗は決断をせまられることになります。そのおりに時宗の近辺に異変がおき始めます。日蓮聖人の処刑は中止される方向に進みますが、平頼綱の権力は強く、このことが、日蓮聖人の処遇を長引かせます。日蓮聖人を容易に赦免すれば幕府の威信を弱めます。また、責任者たちの処分をどうするかという問題があります。平頼綱たちを処断することは、幕府にとって弱体化することになるのではないかという問題を抱えたのです。 (山中講一郎著『日蓮自伝考』一九二頁)

鎌倉武士が誉れとする式目の規則を順守して、御家人たちの代表として安達泰盛が介入したはずです。安達泰盛は文永元(一二六四)年より引付頭人を勤め、娘は時宗の妻ですから舅になり時宗に近い存在です。御家人は得宗被官が勢力を振っていたので拮抗していました。ときには、その御内人と対立することもあり、その筆頭が平頼綱でした。事実、時宗の死後の弘安八(一二八五)年一一月八日に安達泰盛は平頼綱に亡ぼされてしまいます。これが、霜月騒動です。つまり、日蓮聖人の処遇をめぐって双方が対立したのです。日蓮聖人の処断をどうするかという問題は、長期化する様相をみせたのです。安達泰盛は秋田城之介といい、日蓮聖人は「城殿」と呼び、大学三郎と書道などの交流があったとのべています。大学三郎は安達泰盛に日蓮聖人の助命運動に奔走し、この貢献もあり斬首から流罪になったともいいます。(『日蓮聖人遺文辞典』歴史篇五五四頁)。安達泰盛の信仰心と、政治的に優位に立つ攻略としての介入であったと思われます。

 

○依智に護送

 

 しばらくして、日蓮聖人は当初のとおり佐渡流罪として、相模依智(厚木市)の本間重連(六郎左衛門)の館に連行されることになります。この九月一三日は慌ただしい一日となります。本間重連は佐渡の領主である北条宣時の家臣で、佐渡の守護代を勤めています。流罪人の日蓮聖人を佐渡に護送するために身柄を預かりました。直接にはその代官の右馬太郎が日蓮聖人を護送する責任者になります。

さて、日蓮聖人を斬首するように命令されていた兵士達は、その後は役目をはたして帰路につく予定でしたので、突如の相模依智への護送に困惑したようです。『種々御振舞御書』に、

 

「これは道知る者なし。さきうちすべしと申せども、うつ人もなかりしかば、さてやすらうほどに、或る兵士の云く、それこそその道にて候へと申せしかば、道にまかせてゆく」(九六八頁)

護送の武士は相模依智への道筋を知らない者ばかりで、先頭にたち道案内をする者がなく、どうしたらよいか戸惑っていました。結局、相模依智の本間重連の屋敷に着いたのは、同書に「午の時計りにえちと申すところへゆきつき」とあることから、昼すぎ(午の時)のことでした。竜の口から本間家への道のりは約三〇`の距離を一〇時間かけて歩いています。どの道を通って依智に行ったかは定かではありませんが、片瀬から江ノ島道を藤沢に向かい、源義経を祭る白幡神社の前を過ぎて石川・用田に行く厚木道が最短で、その道筋に日蓮聖人が休憩されたという本蓮寺や妙善寺があります。用田から依智に八王子道か大山道を進みます。とうじは厚木道(甲州道ともいう)はなかったといいます。用田から八王子道を通り国分に進み、ここで西に大山道を河原口、相模川を渡って下依知(金田)・中依知・上依智と進んだと推察されています(『日蓮大聖人ゆかりの地を歩く』一五八頁)。あるいは座間から下依知に進む道も考えられます。

依智の本間六郎左衛門尉は留守であったため、代官である右馬太郎の預かりとなります。本間重連の屋敷の場所は定かではありませんが、現在の建徳寺・蓮生寺・梅香寺のあたり一帯と比定されています。また、日蓮聖人を預かったのは本間重連と直重の兄弟といい、重連の邸宅には上屋敷・中屋敷・下屋敷の三説があり、ここの庭の梅ノ木に「明星下り」の奇瑞がありました。

現在その旧跡として本間家の下屋敷といわれる妙伝寺(上依知)、役所跡といわれる蓮生寺(中依知)、本間家の上屋敷とされる妙純寺(下依知、正確には金田)の三ヶ寺があります。竜の口から一番近いのが妙純寺で、いずれも平塚から八王子に向かう国道一二九号線に沿って建てられています。妙純寺の梅ノ木(霊梅)からとった梅干は珍重されています。津久井湖から流れてくる相模川と、宮ヶ瀬湖から流れてくる中津川が厚木で合流して相模湾に注がれますが、星下りの霊場とされる三ヶ寺はこの二つの川に挟まれたところにあります。古くには星下りの霊跡が妙純寺・大蓮寺・相伝寺・梅香寺・法泉寺・妙典寺の六房あったといい、現在は三ヶ寺だけになりました。同じ寺名がつながっているのは妙純寺です。

下依知(金田)にあるのは明星山妙純寺で、文永一一(一二七四)年四月創建とされます。開基は日朗上人の弟子、大法阿闍梨日善上人、日行上人も歴代となっており開基檀越は本間重連です。由緒寺院で本山寺格をもち、参道に本間土手があり境内地には鎌倉時代の遺構が残されています。妙純寺の『聖祖尊像御腹榎籠』によりますと、当初、存在した六房のうちで本寺がなく最も寺暦が古いとあります。(高橋智遍著『日蓮聖人小伝』五二二頁)。また、『相模風土記』には重連の邸のなかにある観音堂に、日蓮聖人を案内されています。

中依知にあるのは宝塔山蓮生寺といい、三光山梅光寺と合併しています。梅光寺は文永八(一二七一)年九月の創建といいます。日蓮聖人が依智を出立されたのが一〇月一〇日ですので、滞在中に基礎をつくったことになります。のちに相模川の氾濫により水害を避けて高台に移転します。水害により荒廃したため蓮生寺と併合し、今日にいたっています。境内に「星下り霊地、本間役宅、三光山梅光寺跡」と刻まれた石碑があります。この高台より日蓮聖人は小湊の両親を回向したといいます。

上依知にあるのは星梅山妙伝寺といい、弘安元(一二七八)年九月の創建になり、開基は中老僧の日源上人、第五世に鍋冠日親上人がいます。江戸時代の星下りの遺跡は、この上依知の妙伝寺が定説ともいいます(『日蓮大聖人ゆかりの地を歩く』一七九頁)。

さて、昼ころに本間重連の屋敷に着きます。日蓮聖人は四条金吾などに命じて兵士達に酒が取り寄せられます。命令とはいえ日蓮聖人を処刑しようとした者たちに、日蓮聖人から道中の警護を労わったのです。この道中においても不穏な動きがあったと考えられましょう。兵士たちは日蓮聖人を本間重連の郎従に引き渡しますが、なかなか帰ろうとはしません。かえって念仏を捨て律を護ることを止める、と言って題目を唱えたと言います。(『本化別頭仏祖統紀』)。つまり、然阿良忠や良観の教えを邪教と体得し、法華経の信仰に入った者がいたのです。そのときの、兵士たちの会話をのべたのが『種種御振舞御書』です。

 

「さけ(酒)とりよせて、ものゝふどもにの(飲)ませてありしかば、各かへるとてかうべをうなだれ、手をあざ(叉)へて申やう。このほどはいかなる人にてやをはすらん。我等がたのみて候阿弥陀仏をそしらせ給とうけ給れば、にくみまいらせて候つるに、まのあたりをが(拝)みまいらせ候つる事どもを見て候へば、たうとさにとしごろ申つる念仏はすて候ぬ、とてひうちぶくろ(火打袋)よりずず(珠数)とりいだしてすつる者あり。今は念仏申さじとせいじやう(誓状)をたつる者もあり。六郎左衛門が郎従等番をばうけとりぬ。さえもんのじよう(左衛門尉)もかへりぬ。」(九六八頁)

 

兵士たちが日蓮聖人を畏れ敬うのは、竜口法難の月天子の奇瑞(光り物)を目の当りにしたからでしょう。この竜の口の出来事や、依智にいたる道中で日蓮聖人に直接に触れ、誓状をたてるほど法華経と日蓮聖人の尊さを肌に感じたのです。本間重連は数十名(九六九頁)の兵士を警護に残して自身も帰ります。

 

○たてぶみ(立文)

その一三日の夜(戌の時)に、執権の時宗から公命の立文(竪文)が届き、本間重連の代理である右馬尉が受け取りました。佐渡流罪は決まったことでしたので、不慮にそなえ日蓮聖人を斬首しないようにと、正式に命令書を出したのです。一同は処刑の余韻と不安が払拭できていなかったので、処刑中止の知らせは大きな安堵感にかわったようです。『報恩抄』に、

 

「九月十二日の夜は相模国たつの口にて切るべかりしが、いかにしてやありけん、其夜はのびて依智というところへつきぬ。又十三日の夜はゆり(許)たりと、どゞめき(多口)しが」(一二三八頁)

と、一同の者達は処刑中止の知らせに喜んでいる情景が伝わります。その内容を聞き驚きどよめいたとのべていますその立文と追状の内容を『種々御振舞御書』に、

 

「其日戍時計にかまくら(鎌倉)より上の御使とて、たてぶみ(立文)をもつて来ぬ。頚切というかさ(重)ねたる御使かとものゝふどもはをもひてありし程に、六郎左衛門が代、右馬じようと申者、立ぶみもちてはしり来ひざまづひて申。今夜にて候べし、あらあさましやと存て候つるに、かゝる御悦の御ふみ来候。武蔵守殿は今日卯時にあたみ(熱海)の御ゆ(湯)へにて候へば、いそぎあやなき(無益)事もやと、まづこれへはしりまいりて候と申。かまくらより御つかひは二時にはしりて候。今夜の内にあたみの御ゆへははしりまいるべし、とてまかりいでぬ。追状云、此人はとが(失)なき人なり。今しばらくありてゆるさせ給べし。あやまち(過)しては後悔あるべしと」(九六八頁)

と、あるように、日蓮聖人を罪人として扱わないように、誤って斬首などをしないようにとの至急の通達でした。また、その赦免もすぐに出るとの内容でした。時宗は急遽、判断を下したことがわかります。

幕府から出された「たてぶみ(立文)」は北条宣時に宛てられたものでした。いそいで出されたと思われ、立て紙を用いて書いた書状で、折らずに全紙そのままを横長に用いて書いています。その書状を礼紙で包んだ上を別の紙で細長く包み、上下の余った部分を筋交いに左に折ったのち、さらに右側の裏へ折ったものです。ひねって折ることから「ひねり文」ともいいます。この立文は時宗の側近が書いたと思われます。

急使の上使は万が一、誤って日蓮聖人をふたたび斬首するようなことがあってはならないと心配し、北条宣時の所へ真直ぐには行かず、まず依知の日蓮聖人のもとに、鎌倉より四時間(二時)ほどにて馳せ参じたのです。日蓮聖人の御前に膝まつき日蓮聖人が無事であることに安堵し、処刑中止の旨を伝え、すぐに、熱海に養生している宣時に立文を手渡すと、兵士たちに言い置きして立ち去ります。留守をあずかる右馬尉も、日蓮聖人を殺害することをしてはならないという命令に、安堵した様子がのべられていました。また、しばらくの時を置いて赦免するというのが、このときの時宗の考えであったことがわかります。

「右馬じょう(尉)」の「じょう」とは「允」のことで、馬寮(めりょう・うまのつかさ)の四等官の第三になります。諸国の御牧や官牧から貢上される馬の調教や飼養、御料の馬具、穀草の配給などに携わった官司のことをいいます。唐名では典厩(てんきゅう)にあたり左右二寮あります。武士の官職として警察的な要素をもっていました。「右馬太郎」(『土木殿御返事』五〇三頁)は右馬のじょうの子供ではないかといいます。(『本化聖典大辞林』上、五二三頁)。佐渡妙宣寺に伝わる日興上人の曼荼羅にみえる、「遠藤右馬太郎藤原守安」は子孫ではないかといわれ、遠藤を苗字としていたのではないかといいます。(『日蓮聖人遺文辞典』歴史篇一〇二頁)。また、山川智応氏は右馬太郎と右馬尉は同一人物といいます。『土木殿御返事』を書かれたころは右馬太郎で、『種種御振舞御書』を書かれたときには、右馬尉になっていたといいます。(『日蓮聖人研究』一四〇頁)。日蓮聖人の処刑に反対し助命のために奔走している者たちの心情がうかがえます。また、日蓮聖人を護送した兵士たちが、再度、日蓮聖人を斬首するという命令ではないかと心配し、処刑中止の知らせに悦んでいたことがのべられています。信徒ではない警護の兵士たちが、日蓮聖人への憎嫉から畏れ敬うようになっていたのです。

○星下りの奇瑞

日蓮聖人は屋敷内の一室に軟禁されていたようで、周りに警護の兵士がいても自由に室内から庭に出ることができたようです。この一三日の夜に大庭に出て月に向かい自我偈を読み、諸宗の勝劣や法華経の文を唱えました。そして、諸天善神は法華経の行者を守護すると誓ったことにふれ、とくに月天子は法華経説法の会座に列なり法華経の行者を守護すると誓ったのに、その験を現わさないのは如何なることかとせめました。すると、明星天子が姿を現したとのべています。このところを『種種御振舞御書』に、

「其夜は十三日、兵士ども数十人坊の辺り並に大庭になみゐ(並居)て候き。九月十三日の夜なれば月大にはれてありしに、夜中に大庭に立出でて月に向ひ奉て、自我偈少少よみ奉り、諸宗の勝劣、法華経の文あらあら申て、抑今の月天は法華経の御座に列りまします名月天子ぞかし。宝塔品にして仏敕をうけ給、嘱累品にして仏に頂をなでられまいらせ、如世尊敕当具奉行と誓状をたてし天ぞかし。仏前の誓は日蓮なくば虚くてこそをはすべけれ。今かゝる事出来せば、いそぎ悦をなして法華経の行者にもかはり、仏敕をもはたして、誓言のしるし(験)をばとげさせ給べし。いかに、今しるしのなきは不思議に候ものかな。何なる事も国になくしては鎌倉へもかへらんとも思はず。しるしこそなくとも、うれしがをにて澄渡らせ給はいかに。大集経には日月不現明ととかれ、仁王経には日月失度とかかれ、最勝王経には三十三天各生瞋恨とこそ見え侍に、いかに月天いかに月天、とせめしかば、其しるしにや、天より明星の如なる大星下て前の梅の木の枝にかかりてありしかば、ものゝふども皆ゑん(縁)よりとびをり、或は大庭にひれふし、或は家のうしろ(後)へにげぬ。やがて即天かきくもりて大風吹来て、江の島のなるとて空のひびく事、大なるつづみを打がごとし」(九七〇頁)

 

と、明星天子が庭にある梅の木の梢に降臨し、法難の途次である日蓮聖人の御前に姿を現じて守護の誓いをのべ、近くの井戸に姿を入れたといいます。そのあとで空に異変が起き大きな音が鳴り響いた、という星下りの瑞相をのべています。竜の口の頸の座で日蓮聖人と同座した三位房もこの場にいました。

「月天」とは序品第一の「名月天子」(『開結』五七頁)のことです。釈尊は宝塔品にて滅後末法に法華経を護ることを命じています。これを「三箇の勅宣」といい、つづいて、嘱累品にて頭をなでられて法華経の行者を守護することを誓っていました。つまり、「如世尊敕当具奉行」(『開結』五〇九頁)と誓状を立てた月天子ではないか、と経文を示し問い詰めたのです。『開目抄』に、

 

「日蓮案云、法華経の二処三会の座にましましし日月等の諸天は、法華経の行者出来せば磁石の鉄を吸がごとく、月の水に遷がごとく、須臾に来て行者に代、仏前の御誓をはたさせ給べしとこそをぼへ候に」(五八一頁)

と、日月などの諸天善神は、法華経の行者を守護すると約束していたのです。日蓮聖人は月に向かい法華経の教えを説きました。このとき、明星天子が日蓮聖人の御前に姿を現わしたのです。眼前において再び守護することを誓ったと思われます。序品第一の「名月天子」は月天、「普香天子」は星天、「宝光天子」は日天、あわせて三光天子といいます。ですから、『四条金吾殿御消息』に、

 

「三光天子の中に、月天子は光物とあらはれ、龍口の頚をたすけ、明星天子は四五日已前に下て日蓮に見参し給ふ。いま日天子ばかりのこり給ふ。定て守護あるべきかと、たのもしたのもし」(五〇五頁)

 

と、竜口法難の光り物として日蓮聖人を守護されたのは月天子であり、この依智の館に姿を現わして、日蓮聖人を守護することを誓ったのは明星天子であるとのべたのです。日天の約束はこれから果されるという確信になりました。

○幕府の動

 夜が明けて一四日の卯の時(午前六時ころ)、十郎入道が依智の日蓮聖人のところに来て、鎌倉の動向について報告をします。内容は一三日の夜亥の刻(午後八時)に、時宗の近辺(館内)にて異変があり、大変な騒ぎがあったことを知らせます。この異変により時宗をはじめ幕府内は動転します。日蓮聖人の処断について、意見が対立した原因となりました。『種種御振舞御書』に、

「夜明くれば十四日、卯の時に十郎入道と申すもの来たりて云く、昨日の夜の戌の時計りにかうどの(守殿)に大なるさわぎあり。陰陽師を召して御うらなひ候へば、申せしは大に国みだれ候べし。此御房御勘気のゆへなり。いそぎいそぎ召しかえさずんば世中いかが候べかるらんと申せば、ゆりさせ給へ候と申す人もあり、又百日の内に軍あるべしと申しつれば、それを待つべしとも申す」(九七〇頁

入道十郎とは『佐渡御書』に「大蔵たうのつじ十郎入道殿」とありますので、同一人物といわれています。大蔵・塔の辻とは、頼朝が幕府をつくった八幡宮の、東側にある大蔵の塔の辻をさしているようです。ここは、源頼朝の時代に幕府があったところで、塔の辻にあたる場所に石塔や五輪塔が建てられ、辻は境界、霊魂が集まるところといわれています。その魑魅魍魎の霊魂を鎮めるのが陰陽師でしたので、塔の辻という冠名は陰陽師と関わりがあると推察されています。つまり、十郎入道は陰陽師の一員であったから、殿中での騒ぎについて知っていたといいます。(山中講一郎著『日蓮自伝考』二〇一頁)。このような辻は鎌倉に七ヶ所あったともいい、鎌倉街道の処々にもあったようです。十郎入道について詳細なことは不明です。境妙院日持上人の『祖書證議論』には、「大倉の塔の辻本間十郎入道」とあることから、本間家の者であり北条氏に直参している者といいます。「大蔵とうのつじ十郎入道」(六一〇頁)ならば、日蓮聖人の篤信の信徒になります。(『日蓮聖人遺文辞典』歴史篇五〇六頁)。

また、本間十郎の妻の弟が椎地(しいじ)四郎といいます。(小川泰堂居士『日蓮聖人真実伝』二七四頁)。前述しましたが(第二部『椎地四郎殿御書』二二七頁)、椎地四郎については不明です。四条頼基と親交があり文永一一年に身延に登詣しています。『椎地四郎殿御書』(二二七頁)は弘安四年とされ、この前年(弘安三年)の四条頼基宛の「四条金吾許御文」(一八二一頁)から、椎地四郎と四条頼基が親しい武士の関係にあり、同信の間柄であったといえます。一説には、椎地四郎は船大工に関係のある武士だったといわれています。また、椎地四郎は日蓮聖人の御腹巻を捧げて葬列に加わっていたことからして、このころには熱心な信者であり、日蓮聖人を救済するため、四条金吾・本間十郎入道・椎地四郎が奔走していたと思われます

「かうどの(守殿)に大なるさわぎあり」とあり、殿中において異常な事態があったことは確かといえましょう。時宗におきた異変の正体は不明です。時宗があわてたのは、時宗の妻が懐妊中であったからといいます。『本化別頭仏祖統紀』には、殿中において虚空より声が人々に逼ったとあり、時宗はこの事態を重く感じ慎んだとあります。これは、(かしこ)まり謙(へりくだ)って、あやまちのないように、行動を控えめにすることをいいます。

 つまり、殿中に日蓮聖人の大きな声で、法華経の行者を処刑すれば、時宗の子孫は亡び日本国も亡ぶ、と鳴り響いたということが書かれています。同じような前例に欽明・敏達のときに、聖明王より賜った金銅の釈尊像を粗末にしたとき、仏法の失のため欽明・敏達を召し取るという、大音声が虚空より聞こえたことをあげます。そして、予言のとおり欽明・敏達は頓病にて崩御されます。時宗におきた異変もこのときと類似しているので騒動となったと書かれています。そこで、陰陽師に占ってもらうことになります。

陰陽師を召喚して占いをさせたところ、日蓮聖人を流罪にしたために起きた怪奇現象であり、即刻、赦免しなければ日本中が災禍になると報告します。時宗のプライベートだけのことではなく、日本国を左右すると受けとれる怪事件があったと看取できます。山中講一郎氏は「大なるさわぎあり」とは、幕閣内で日蓮聖人を釈放するという意見と流罪という意見があり、夜中(午後一〇時)に激論があったことをいい、『法華本門宗要鈔』(二一六一頁)にあるような、妖怪変化の類が時宗邸に降臨した騒ぎではないとのべています。(『日蓮自伝考』一九八頁)。しかし、この報告を聞き日蓮聖人の処置について、幕府内において意見が分かれます。反日蓮聖人的な者たちか、あるいは、中間的な者は、百日以内に「自界反逆」という内乱があると予言しているので、それが的中するかどうかを見極めてから処置してはどうかと意見をのべています。すでに流罪が決定していたのに、再度、吟味をしていることは、よほどのことがあったということです。事務的に処理ができない不可思議な怪現象があったので、これからの様子を見てから判断しようという提案に落ちついたと思います。

ここでいう陰陽師とは大学三郎のことではないかといいます。大学三郎は日蓮聖人の師匠であり弟子であり壇越であるとのべ、このときに不惜身命の覚悟で日蓮聖人に尽くしたこと、秋田城介(城殿、安達泰盛)と親交があったことがわかります。『大学三郎御書』に、

「いのりなんどの仰かうほるべしとをぼへ候はざりつるに、をほせたびて候事のかたじけなさ。かつはしなり、かつは弟子なり、かつはだんななり。御ためにはくびもきられ、遠流にもなり候へ。かわる事ならばいかでかかわらざるべき。されども此事は叶まじきにて候ぞ。大がくと申人は、ふつうの人にはにず、日蓮が御かんきの時身をすてゝかたうどして候し人なり。此仰は城殿の御計なり。城殿と大がく殿は知音にてをはし候」(一六一九頁)

陰陽師が大学寮の官位を名のっていることは『吾妻鏡』にみえ、安倍氏である可能性から、時宗が占わせた陰陽師のなかにいて、答申した中心人物ではないかと言う説には説得力があるとのべています。(山中講一郎著『日蓮自伝考』二〇二頁)。つまり、陰陽師のなかに日蓮聖人の信徒がいたとみます。大学の允(じょう)は地位名で『断簡一九七』に「大かくのじょうどの」とのべており、陰陽師であったことが次の文よりわかります。

「御ちかいとだにも候わば、法華経・釈迦仏・天照大神・大日天と大かくのじようどのに申べく候」(二五三九頁)

 

日蓮聖人の赦免に奔走していたのが大学三郎でした。『一谷入道御書』には、この間の子細が何であったのか、日蓮聖人も知らないようで明確にされていません。

「九月一二日重ねて御勘気を蒙りしが、忽に頸を刎らるべきにてありけるが、子細ありけるかの故にしばらくのびて、北国佐渡の島を知行する武蔵前司預かりて」(九八九頁)

 

怪現象のほかに、時宗の妻の懐妊と重なっていました。大学三郎は書道を通して安達泰盛(やすもり)と知己でした。安達泰盛は時宗の妻の父でしたので、泰盛に懐妊中の処刑は子供(貞時)に不吉であると進言したともいわれています。大学三郎と安達泰盛が知己の仲でも、流罪人の裁決の口を挟むことは恐れ多いことで、日蓮聖は大学三郎が不惜身命の決意で赦免を懇願したことを褒めています。

『大学三郎御書』の「此仰せは城殿の御計いなり」を、「此代は城殿の御計いなり」と読む説があります。『大学三郎御書』は一紙しか伝わらない断片で、この一紙一五行の丁付けは第一九紙になります。つまり、長文の書状であったことがわかり、前文が発見されれば安達泰盛の祈願がなにであったか、などが解明されると思います。『断簡一九七』は『大学三郎御書』の第二一紙後半、『大尼御前御返事』(三八二)は末尾の結文といいます。(岡元錬城著『日蓮聖人遺文研究』第一巻一〇八頁)。

 「大学の亮(允)」と「大学三郎」は別人であることが、『御遷化記録』からわかっています。「大学の亮(允)」は「大学三郎」の父親であるといいます。(『日蓮聖人遺文辞典』歴史篇六七一頁)。身延に曾存していた曼荼羅から「大学の亮(允)」は「重佐」であるとみられています。『本化聖典大辞林』(下、二三〇六頁)には、大学三郎は比企能員の子供で能本であるといい、一説に比企氏ではなく司天博士の大学允安倍晴長の子供とのべています。山川智応氏は大学允は『吾妻鏡』にある陰陽博士の安倍晴吉か晴長とし、大学三郎は慣用として安倍允の子息であるとします。あるいは、能本の子息を大学允が養子とされたかもしれないと推測しています。(『日蓮聖人伝十講』上巻三二六頁)。大学寮の地位としては、頭(かみ)・助(すけ)・允(じょう)・属(さかん)の四等官から構成されています。ですから、大学三郎は地位のない大学寮に父をもつ三男ということになります。

山中講一郎氏は『宗祖御遷化記録』に、御経を「大学亮」とある「亮」は「允」のことで、原文読み取りの誤りとし、大学三郎は比企能本ではないといいます。(『日蓮自伝考』二〇二頁)。そして、比企氏説がでたのは安国院日講上人の『録内啓蒙』であるが能本の名前はなく、『本化別頭仏祖統紀』になり比企氏説が定着したといいます。そして、境持院日通・境達院日順上人の『御書略註』(『日蓮宗宗学全書』第一八巻三一一・三五五頁)より、安倍晴長の子息が大学三郎と言う説をあげます。また、『吾妻鏡人名総覧』(安田元久編)に晴長の父は時景とあり、『御書略註』は晴吉としてそのまま信用できないが、安倍氏であり安倍晴明の系統とみてよいとしています。

 幕府と陰陽師の関係は平安時代より踏襲された慣習で、源平の戦いにおいても、源平両氏とも作戦を決めるときには陰陽師の存在は欠かせないものでした。幕府を開いた源頼朝は政権奪取への作戦や、初期のさまざまな施策に陰陽師の占卜した吉日を用いていました。二代将軍源頼家もこの慣習にならい、京都から陰陽師を招くなど鎌倉幕府においても陰陽道は重用されていました。ただし、幕府は安倍氏を採用しますが、私的な生活まで影響されるようなことはなく、公的行事の形式補完的な目的に限って陰陽師を活用したといいます。

しかし、幕府のなかでも陰陽道に関心をもっていたのは、皇族や公家出身の将軍近辺のみで、実権を持っていた執権の北条氏は必ずしも陰陽道に固執していなかったといいます。これは、家臣の東国武士や後に国人と呼ばれるようになった武士層に至るまで、朝廷のような陰陽師に政策の規範を諮る習慣はなかったためで、それほど武士の精神的影響力を持つことはなかったといいます。むしろ、『吾妻鏡』の記述によりますと、陰陽師は権力者の死から埋葬に至る日取りや墓所などを決めていたといいます。つまり、現世よりも後世の霊界の指導権をもっていたのです。

また、幕府は大きな問題を抱えていました。それは、この九月に高麗の三別抄から救援を求める牒状が、筑前の今津に来ていたことによる蒙古の問題です。幕府は九月一三日に九州に所領を持つ御家人に対して、その任地に赴いて蒙古の襲来に備えるように関東御教書を発しています。九月に蒙古の使者が筑前の今津に来ていた状況でした。このことは後述しますが、異国警固番役は趙良弼(一二一七〜一二八六年)が帰国した翌月の二月までに始まったといいます。これは、九州の御家人にたいし大番役として京都や鎌倉の警護のため、一〇年に一度、数ヶ月在勤した代わりに行ったものです。筑前や肥前などの北九州沿岸の警備にあたらせたのです。『日本の歴史』8蒙古襲来。七五頁)。幕府と朝廷の対応の違いもあり、幕府は主導権を掌握していくときだったのです。

さて、この事後処置の詮議が長引いたのは、平頼綱と幕府内において意見の相違があったためといいます。かつ、時宗が知らないところでの事件であったことが、幕府を動揺させました。日蓮聖人がのべている「子細どもあまたありて」という理由はここにあったといえましょう。時宗はこのとき二二歳であり充分な統率力はなかったといい、日蓮聖人の処刑については反対したといわれています。処刑を実行しょうとした平頼綱に対し、大学三郎などが安達泰盛などの反平頼綱派と時宗を説き伏せて、処刑と流罪の赦免を論議していました。

 時宗が陰陽師に占わせたなかに、日蓮聖人の処置をどうすべきかが問題となっていたと思います。処刑の責任者である北条宣時は熱海に遁走していたので、竜口処刑の詳しい内容がわからず、かつ、時宗が裁断するには大きすぎる事件であったため、陰陽師にどうすべきかを託したといえます。陰陽師の答申は、日本国が大きく乱れる兆候があり、その原因は日蓮聖人を流罪にしたことであると断言します。よって、早々に赦免し自由にしなければ国が亡ぶような事態になると答えたのです。しかし、平頼綱たちは日蓮聖人の赦免に反対し続けたわけです。鎌倉市中に放火などの謀略を強いてでも、日蓮聖人を流罪にしたかったのです。

 平頼綱は竜口首座の犯人を、日蓮聖人を怨んでいる「若殿原」にしたといいます。それは、『身延古写本』の平頼綱から北条宣時に宛てた書状から推察されています。そして、一四日の評議において、佐渡流罪が再確認されたのです。この日、平頼綱が本間氏に宛てた書簡が伝えられていますが(『日蓮聖人註画讃』・『録内啓蒙』)、今日では偽書とされています。『日蓮聖人註画讃』には次のように書かれています。

 

「日蓮房ノ佐渡国エ被遺候、両三年候者、可有御免候。若承テ下タル若殿原ノ中ニモ死罪ナドニ被行事候テハ御預ノタメ可悪候之間、加様ニ申候。恐恐謹言。九月一四日、本間六郎左衛門尉殿、頼綱在判」

 

 山川智応氏は、身延の古写本のなかにあった古文書として紹介しており、はじめに、「武蔵(守)殿エノ御下書案 日蓮阿闍梨御房事」、内容はほぼ同じで、「次郎兵衛尉殿 文永八年九月一五日到来 承 三郎太郎」の文を載せています。次郎兵衛尉は北条宣時の老臣、三郎太郎は右馬太郎のことではないかといいます。(『日蓮聖人研究』第二巻一四二頁)。

 一三日の立てぶみに続き、一四日にも下文があり、このときに佐渡流罪が確定したことがわかります。この通知は即日に北条宣時に伝えられ、翌日の一五日に本間邸の右馬尉に伝えられました。(高橋智遍著『日蓮聖人小伝』五三九頁)。『定遺』によれば日蓮聖人は一四日に富木氏に現況を知らせ、右馬太郎のもとに四、五日は勾留されると伝えています。(五〇三頁)。しかし、一五日に右馬尉から佐渡流罪の決定を知らされ、そのことを即日に富木氏へ伝えたとみるのが妥当かもしれません。このあと一ヶ月近くここに滞在することになります。依智をたち佐渡に向かうのは一〇月一〇日のことです。また、日蓮聖人とともに流罪に処せられた弟子がいたといいます。(『日蓮の生涯と思想』三七頁)。また、弟子・信徒の随行が認められ、日向・日興上人など自らすすんで佐渡に随行した弟子もいました。(同、八九頁)。

 

□『土木殿御返事』(八六)

このような状況を知らせたのが本書です。九月一四日、相模の依智から富木氏に第一報を発しています。
 本書は一二日から一四日までの経緯を知らせます。真蹟は二紙ともに京都本満寺に所蔵されています。ただし、岡元錬城先生は富木氏の『常修院本尊聖教録』(『常師目録』)に、「自依智御状」と「自本馬御返事」が記載されていることから、本書いぜんに『自本馬御返事』があったと指摘しています。返事とは返書のことですから、富木氏は依智におられる日蓮聖人に書状をだされ、それにたいして、竜口首座について現況を知らせた、最初の返事があったとします。本書に竜口法難についての記載がないのはそのためとします。本書は中山法華経寺から京都本満寺にうつり、『自本馬御返事』の方は散逸したと思われます。(岡本錬城著『日蓮聖人―久遠の唱導師』六三〇頁。『日蓮宗宗学全書』第一巻一八六頁)。四条金吾は日蓮聖人が依智に着き、本間の代官右馬太郎が身柄を預かり、無事に警護されていることを確認して鎌倉に帰ります。このとき富木氏への書状が書かれ(「自依智御状」)、富木氏から日蓮聖人のもとに書状などが届けられ、それに答えて出されたのが『自本馬御返事』とすれば理解できます。また、内容も依智での処遇や、富木氏の従者たちのこと、幕府の動向などが会話されたと想像できます。兵士たちに酒肴が振る舞われたことや、本間邸の者達への労いがなされ、その金銭などは富木氏の手配で従者が賄ったともいえましょう。

本書に「御歎はさる事に候へども」とあるのは、富木氏の書状に答えたことがわかります。すなわち、

 

「此十二日酉の時御勘気。武蔵守殿御あづかりにて、十三日丑の時にかまくらをいでて、佐土の国へながされ候が、たうじ(当時)はほんま(本間)のえちと申すところに、えちの六郎左衛門尉殿代官右馬太郎と申者あづかりて候が、いま四五日はあるべげに候。御歎はさる事に候へども、これには一定と本よりご()して候へばなげかず候。いままで頸の切れぬことこそ本意なく候へ。法華経の御ゆえに過去に頸をうしなひたらば、かかる少身のみ(身)にて候べきか。又数数見擯出ととかれて、度々失にあたりて重罪をけしてこそ仏にもなり候はんずれば、我と苦行をいたす事は心ゆくなり」(五〇三頁)

 

と、勘気のことと、そのご依智の六郎左衛門尉の代官である右馬太郎のもとで、四〜五日は預かりの身であると近況を知らせています。日蓮聖人の現況は嘆かわしいことであるが、もとより死罪を覚悟していたことをのべ慰めています。また、斬首が本意であったが、流罪(「数数見擯出」)に値うことも法華経に説かれていることなので、この受難は自身の罪を消滅することであり、仏になることであるとのべています。日蓮聖人においては「法華経の行者」として苦行の法悦をのべます。端書きに

 

「上のせめさせ給にこそ法華経を信たる色もあらわれ候へ。月はかけてみち、しを(潮)はひ(干)てみつ事疑なし。此も罰あり必徳あるべし。なにしにかなげかん」(五〇三頁)

もとより、法華経を弘める者には身命を捨てるほどの迫害がある、ということは法華経に説かれたことであり、日蓮聖人はそのあらわれとして竜口、佐渡流罪を受けとめています。幕府の「王難」があってこそ法華経の真実が証明されたとのべ、教団が壊滅されそうになっているが、月は書けてもまた満月となり、潮も引いてもまた満潮になるように、法華経はかならず広まることをのべます。そして、罪科にあうことは過去の罪業があるためであり、また、罪業を消滅し仏果を得ることであると教えています。これまで、法華経弘通における罪福を教化していたことがわかります。

 日蓮聖人は迫害があるのは法華経に説かれたことが真実である証明であり、立教開宗のときより覚悟のことであるとのべ、これこそが仏になることとして確信し、むしろ、この法難をのぞまれていました。その覚悟のひとつには立教開宗の決意であった法華経の行者の意識、二つには滅罪の意識がありました。法華経の行者の意識は、立教開宗の決意いらいのことであり、釈尊の付属を遵守する仏弟子の意識が優先されてきました。勧持品の二十行の偈文は、伊豆流罪、松葉ヶ谷法難、そして、ここに竜口法難の頸の座と「数数見擯出」の二度にわたる流罪を迎えていました。悪口・罵詈・罵倒・刀杖の度重なる迫害をうけ、いまは「数数見擯出」の「数数」の二字を享受し、日蓮聖人のなかにある法華経の行者意識が、更に飛躍し進化をなすときがきたのでした。また、これらの迫害は「三障四魔」として一定のこととして受けとめていました。

 それと、背中合わせに旃陀羅と邪見の家に生まれた罪びとの意識がありました。日蓮聖人は謗法の罪について深く懺悔をされ、それが滅罪観となりました。つまり、「身は軽し法は重し」、いままさに、「くさ(臭)き頭を黄金の頭に」かえるという、懺悔滅罪、謗法滅罪の意識のもとに佐渡流罪をうけとめたのでした。佐藤弘夫氏は佐渡期に自身の背負う罪業に痛烈な自覚を吐露されるようになったとのべ、旃陀羅の子供という自己規定が顕在化したといいます。(佐藤弘夫著『日蓮』二四四頁)。

○門弟にも弾圧がおよぶ。(文永八年の法難)

 九月一五日に富木氏へ、四、五日後に佐渡へ出立すると知らせていました。そうしますと、一九日か二〇日ころに依智を経つことになります。さて、日蓮聖人の信徒が放火や強盗、それに殺人までしているという奸計は、良観の策略とおり日蓮聖人信徒の悪人集団の意識をもたせました。これが公になったのは二一日のことです。日蓮聖人の佐渡出立も見送られていました。市中に放火や強盗などがおきた事件は、一五日前後から行われたと思われます。その意図は平頼綱が所望していた、日蓮聖人の処刑を決定づける口実としたかったからです。幕府内部においても、『種々御振舞御書』に、

 

「いよいよあだ(仇)をなし、ますますにく(憎)みて、御評定に僉議あり。頚をは(刎)ぬべきか、鎌倉をを(追)わるべきか。弟子檀那等をば、所領あらん者は所領を召て頚を切れ、或はろう(篭)にてせめ、あるいは遠流すべし等[云云]」(九六〇頁)

 

と、日蓮聖人の弟子を斬首せよとか、鎌倉から追放せよという意見がでます。信徒のなかでも所領がある者は没収し斬罪に処し、入牢や流罪にせよという強行意見が勝ってきたのです。日蓮聖人の佐渡出立がおくれていたのは、あくまで斬首しようという意志のあらわれともいえましょう。

そして、この法難の迫害は弟子・檀越をはじめ教団全体に加えられていきました。これが「文永の弾圧」といわれるものです。強制的に離反させられた者や、懐疑心・恐怖心をもち信仰を捨てた者がでました。伊豆流罪のときは日蓮聖人ひとりが罪を受けましたが、文永八年の法難は弟子・信徒に波及したのが特色です。九月一二日の草庵で、日朗上人をはじめとした五人の弟子も捕縛され土牢に幽閉されました。土牢は宿屋最信の屋敷の裏山にあったといいます。日朗上人以外の弟子のなかでも数人が流罪にあいます。佐渡にともなう弟子も数人いました。らの風聞は日蓮聖人の信徒たちに心的影響を与えます。信心の弱いものは『新尼御前御返事』に、

 

「御勘気の時、千が九百九十九人は堕ちて候」(八六九頁)

 

といわれるほど、日蓮聖人の教団は壊滅していくことになりました。信徒は自分ひとりが罪に問われ、命を失い財産を没収されるのではなく、家族や一族におよぶ迫害にたいし、退転したのです。『種々御振舞御書』には、

「日蓮が弟子等を鎌倉に置くべからずとて、二百六十余人に記さる」(九七〇頁)

と、日蓮聖人が平頼綱に捕縛されたとき、草庵にいた弟子信徒も悪党・凶徒とみなされ、交名帳に二六〇余名が記されたといいます。罪状は放火・強盗・殺人というような汚名でした。このように、門下二六〇余名が、いっせいに鎌倉から追放すべきと酷評されました。『開目抄』に、

 

「其上弟子といひ、檀那といひ、わづかの聴聞の俗人なんど来て重科に行はる。謀反なんどの者のごとし」(五五七頁)

 

と、一度だけでも聴聞したという理由で謀反人のような扱いをされたのです。こういう厳しい迫害に耐えられず、大勢の者が退転したのです。このように信徒にたいしての迫害の影響は大きく、『法蓮鈔』と『聖人御難事』に、

「或は御勘気、或は所領をめされ、或は御内を出され、或は父母兄弟に捨てらる」(九五二頁)

「其外に弟子を殺され、切られ、追い出され、くわれう(過料)等かずをしら」(一六七三頁)

という状態であったとのべています。どのような弾圧があったかというと、弟子たちは殺傷され、幕府の直参にたいしては所領没収(財産をとられる)、北条氏一門や御内伺候の者には御内追放(主従関係を義絶させられる)、扶持離れ、過料(制裁金をとられる)、そして、一般の住民は土地の領主から所払いされた者もでました。日蓮聖人を擁護する者を徹底的に根絶する方策が執行されたのです。

このように、日蓮聖人がうけた佐渡流罪の波紋は、信徒の信仰を揺らがし、法華経の信仰をやめないと所領を没収され、主家から屋敷を召し上げられ、追放や科料(罰金)を取り上げられたのです。脅迫に退転した者が続出したのです。妙一尼の夫はこの弾圧の対象になって所領を没収され死去しました。『妙一尼御前御返事』に、

 

「故聖霊は法華経に命をすててをはしき。わずかの身命をささ(支)えとしところを、法華経のゆへにめされしは命をすつるにあらずや」(一〇〇一頁)

 

と、法華経の信心を貫いてのことでした。残された家族は、老いた妙一尼のほかに病の子供と娘がいたといいます。妙一尼(桟敷尼)は日昭上人の母親という説があります。夫は印東祐昭、日昭上人の父親になります。日昭上人の縁者であったといいます。佐渡に下人を使わしていることからしますと、ある程度の身分を持った人といえましょう。幕府の狙いは、門下に対して厳しい弾圧をして、鎌倉に居住できなくなる状況に追い込むことでした。この迫害に恐れた信徒がつぎつぎに退転したのは、臆病であるからと嘆かれました。『辨殿尼御前御書』に、

 

「日蓮其身にあひあたりて、大兵ををこして二十余年なり。日蓮一度もしりぞく心なし。しかりといえども、弟子等檀那等の中に臆病のもの、大体或はを(堕)ち、或は退転の心あり」(七五三頁)

 

さらに、少輔房・能登房や名越の尼などの、有力な弟子や檀越も退転していきました。『上野殿御返事』に、

「大魔のつきたる者どもは、一人をけうくん(教訓)し、をとしつれば、それをひっかけにして多くの人をせめをとすなり。日蓮が弟子にせう房と申し、のと房とゐい、なごえの尼なんど申せしものどもは、よくふか(欲深)く、心をくびょう(臆病)に、愚痴にして而も智者となのり(名乗)しやつばらなりしかば、事のをこりし時、たよりをえておほくの人ををとせしなり」(一三〇九頁)

そして、少輔房・能登房や名越の尼などのように、日蓮聖人と敵対する弟子や信徒まで輩出したのです。日蓮聖人はいかなる親切らしく味方のような言葉であっても、法華経を捨ててはいけないことを注意されます。同じ法華経の教えを学びながらも天台学に傾倒し、日蓮聖人が色読している本門八品の法華経の教えに到達できていなかったのです。『佐渡御書』に、

 

「日蓮を信ずるやうなりし者どもが、日蓮がかくなれば、疑ををこして法華経をすつるのみならず、かへりて日蓮を教訓して我賢しと思はん僻人等が、念仏者よりも久く阿鼻地獄にあらん事不便とも申計なし。修羅が仏は十八界我は十九界と云ひ、外道が云仏は一究竟道我は九十五究竟道と云が如く、日蓮御房は師匠にてはおはせども余にこは(剛)し。我等はやはらかに法華経を弘べしと云んは、螢火が日月をわらひ、蟻塚が華山を下し、井江が河海をあなづり、烏鵲が鸞鳳をわら(笑)ふなるべし、わらふなるべし」(六一八頁)

 

離反者の言い分は、権力者や他宗と妥協しながら法華経を弘めたらよいという、布教の方法の違いでした。日蓮聖人の妥協をゆるさない強引な折伏を批判したのです。そのなかには、日蓮聖人の両親がお世話になり恩のある領家の大尼がいました。『新尼御前御返事』に、

 

「領家はいつわ(偽)りをろ(愚)かにて或時は信じ、或時はやぶ(破)る不定なりしが、日蓮御勘気を蒙りし時すでに法華経をす(捨)て給いき」(八六八頁)

 

 領家の大尼は信仰が定まっておらず、日蓮聖人が流罪人となったときに、日蓮聖人も法華経も捨て去ったとのべています。また、ある者は過酷な弾圧にたいし、信徒であることを隠すため日蓮聖人を謗ることをしたり(『法蓮鈔』九五二頁)、日蓮聖人の説法を聞いたことを後悔したり(『呵責謗法滅罪鈔』)七八一頁)する者がいました。これにたいし、この弾圧に妻子が苦しむことにならぬようにと願う意味で、退転した者にたいして寛容にのべている遺文があります。『高橋入道殿御返事』に、

 

「世間のをそろしきに妻子ある人々のとをざかるをばことに悦ぶ身なり。日蓮に付いてたすけやりたるかたわなき上、わずかの所領をも召るならば、子細もしらぬ妻子所従等がいかになげかんずらんと心ぐるし」(一〇八八頁)

 

と、家族のなかには夫や主人が、法華経を信心しているという仔細を知らないものがいて、財産などを没収されて残る家族のことを心配されています。それらの従者までもが路頭に迷うことはしたくなかったとうけとめられます。どうように四条金吾にも配慮されています。『同生同名御書』に、

 

「おのおのわずかの御身と生れて、鎌倉にいながら人目をもはばからず、命をもおしまず、法華経を御信用ある事、ただ事ともおぼえず」(六三三頁)

 

と、鎌倉にいることだけでも弾圧の的であり命がけのことであったのです。そのような四条金吾が主君と信仰による確執が起きていないかを心配しています。『大果報御書』に、

 

「なによりもおぼつかなく候いつる事は、との(殿)のかみ(上)の御気色いかがと、をぼつかなく候いつるに、なに事もなき事申すばかりなし」(七五三頁)

 

と、法華経の信仰問題で主君との関係を心配していたのです。日蓮聖人は主君の恩義を四条金吾に言い聞かせており、信徒それぞれの立場における信仰のあり方をうかがうことができます。弟子にたいしては不惜身命の弘教を要請されていますが、信徒が法華経を外護していく立場とは相違があったといえます。

○捕縛されない門弟がいました

武士階級の場合には、主君の庇護が大きく関わっていました。檀越においても四条金吾、富木常忍などは受難されていません。幕府内の力関係が浮き彫りになってきます。『四条金吾殿御返事』に、

 

「弟子等も或は所領をををかたよりめされしかば、又、方々の人々も或は御内々をいだし、或は所領を追いなんどせしに、其御内になに事もなかりしは御身にはゆゆしき大恩と見え候」(一三〇二頁)

 

と、のべているように、平頼綱の命により多くの信徒が捕らえられ迫害をうけました。しかし、四条金吾は北条一門の江間光時の被官だったので、主君の庇護によって頼基と兄弟の四人は、主人の力により咎をのがれていたことがわかります。(高木豊著『日蓮攷』一二三頁)。

富木常忍の主君である千葉頼胤は、日蓮聖人に好意的な人物でしたので、下総の信徒は弾圧をほとんど受けずにいました。北条一族や高官、高僧が罪にとわれるばあいは、入牢ではなく、しかるべき家へ「預かり」となるのが普通といいます。ほかに、下総の大田・曽谷氏や、池上氏、波木井氏、平賀氏、南条氏、藻原氏など、日蓮聖人の信徒のなかでも有力な者は、幕府内においても有力な主君に仕えていたので、幕府も簡単に処罰ができなかったのです。

日蓮聖人の弟子のなかでも、その法難を受けない者がいました。六老僧筆頭の日昭上人や日興上人・大進阿闍梨のように天台宗の僧籍をもっている者などは受難されていません。(高木豊著『日蓮とその門弟』五八頁)。これは、比叡山という既成教団に庇護された天台僧として、幕府は見なしたのです。

この立場と地位をまもって、教団の存続と法華経の弘通を日昭上人に託されていました。受難にあったのは、おもに日朗上人など、日蓮聖人を戒師として得度した直接の弟子でした。ある意味では直弟子といえます。日蓮聖人の法華経の広めかたは、一方的に折伏をして邁進する立場と、一方には沈着に後継を存続させていく方法があったのです。日興・日向・日頂・日持上人たちは、日蓮聖人の密命にしたがい竜口には行かず、日昭上人に随従して浜の堂舎に避難していました。松葉ヶ谷の草庵は破却されていたからです。(『本化別頭仏祖統紀』)。それにくわえて、弟子たちはその後の対応にそなえていたといえましょう。

〇蒙古趙良弼

この文永八年に蒙古から牒状が届けられていました。幕府は九月二日に朝廷に奏上しています。(高木豊著『日蓮その行動と思想』増補改訂版八九頁)。そして、九月一二日に他国侵逼を予言していた日蓮聖人を捕縛し、一三日に異国防御のため御家人を九州に下向させます。

日蓮聖人が依智に停留していた九月一九日に、趙良弼(チョリャンピル)が筑前の今津に着きます。日蓮聖人は一〇月一〇日に依智を経ちました。趙良弼は文永五年と六年にもたらした蒙古国書にたいする、日本からの返牒がなかったので、今回は国書を国王・将軍に直接、手わたすことを望みました。しかし、太宰府の守護である武藤資能は上京を拒んだため、趙良弼は国書の写しを作り武藤資能(すけよし)に委ねます。この副本は太宰府より鎌倉の幕府に送られ、幕府は朝廷に報告します。幕府の使者が関東申次の西園寺実兼邸に入ったのは一〇月二三日でした。同夜、後嵯峨上皇の御所において評定がなされます。その二日まえの二一日に朝廷は鎮護国家の法会である仁王会の勅令をだし、「異国御祈」を行っていることが、京都の貴族である吉田経長(一二三九〜一三〇九年)の『吉続記』(きつぞくき)、『経長卿記』(つねながきょうき)ともいい、「九月二十一日条」にあります。(川添昭二著『北条時宗』八三頁)。

国書には一一月中までに返牒するようにとあり、それを過ぎたら出兵すると思われる文面があったため、文永六年に菅原長成が起草した文案に加筆して返牒することが決められます。しかし、今回も幕府は返牒しないことになりました。日蓮聖人が佐渡に着いたのは一〇月二八日のことでした。

文永六年の起草文は幕府の判断により返牒しないことになりましたので、廃棄されていました。『本朝文集』によりますと、モンゴル宛の案文には、蒙古という国名を聞いたことがなく、今回はじめて事情を知ったこと、蒙古との国交も人物の通行もないのに、日本が好悪の感情をもつことはない、それにもかかわらず凶器を用いて日本にせまることに疑念をいだくことをのべます。そして、儒教や仏教の教えは人の命の尊さを説き、命を奪うことを悪行としているのに、帝徳仁義の境と称しながら民庶殺傷を行おうとするのか。日本国は天照太神より今にいたるまで天子の徳は絶対無二であり、百王の鎮護をうけ四方の夷狄(東方と北方の異民族。野蛮人)も服従してきた。ゆえに、皇土を神国と号すと記しています。ゆえに、知をもって競うべきではなく力をもって争うべきではない、という内容です。(『鎌倉遺文』一〇五七一号)。これにたいし、高麗宛ての文面は、日本との交誼を認め対馬の島民の送還に感謝し、同年三月の島民との紛争と、島民二人を捕縛して帰国したことを遺憾としています。モンゴルと高麗への返牒の案文の違いがみられるのは、国交の有無の違いによるといいます。幕府はモンゴルに恐怖をもったのは事実でしたが、返牒の必要はないと判断したのです。

 今回の趙良弼がもたらした高麗牒状は、文永六年にもたらした『高麗国慶晋尚安東道按察使牒』と、内容がことなっていました。それは、この牒状をもたらしたのは、高麗国王の元宗(在位一二五九〜一二七四年)ではなく三別抄でした。三別抄は高麗の軍事組織のことで、左別抄、右別抄、神義抄の三軍を三別抄と呼びました。別抄軍は戦争において国のため命を顧みない勇士たちで組織されています。ですから、国王の元宗がモンゴルの人質であったこともありモンゴルに服従したため、これを不服として抗蒙抗争がおき、文永六年に元宗を廃して再び政権を掌握していました。モンゴルは林衍討伐を名目に進軍し、これにたいし林衍は三別抄を動員して抵抗します。

文永七年五月に三別抄将軍の裴仲孫、夜別抄の盧永禧らが元宗の弟、承化江(候)温を推戴し、江華島(カンファド)を本拠に自立しました。三別抄の挙兵理由に関しては、反モンゴルの意識が強かったことと、弱腰の高麗王朝を否定した、新王朝樹立を目指すものであったともいわれています。六月に三別抄政権は西南の珍島に移ります。クビライ帝は一一月に高麗に屯田経略司を設け、六千人のモンゴル兵を配置します。これは、日本征伐を目的としていたともいいます。このころ(三〜四月ころ)に、三別抄が珍島から日本鎌倉幕府へ救援を求めたといわれます。一二月、趙良弼は日本招諭の国信使に任命され、翌年初頭に高麗の首都開京(ケギョン。現在の北朝鮮の開城市)にきますが、全羅南道(チョルラナムド)の珍島(チンド)に根拠地を定めた三別抄により、朝鮮南部が制圧されているため渡日できませんでした。

そこで、三別抄を制圧することが優先され、文永八年五月に、モンゴル・高麗連合軍によって珍島総攻撃になり珍島が陥落します。この背景に首領の裴仲孫(ペチュンソン)が、モンゴルと結んで全羅道を確保する路線をとったために内紛がおきたためです。残党は金通精(キムトンジョン)に率いられ、南方海中の済州島(チェジュド)に逃げています。

 今回の高麗牒状の内容は、三年前にもたらした文永五年の国書と違ったのは、このような事情があったのです。文永五年にモンゴルと日本との仲介をはたす目的の国書には、高麗はモンゴルに臣従しているが、モンゴル皇帝の仁徳は高く天下を一家として等しく慈しみ、日月の照らすところの国は徳化を仰いでいるとのべます。そして、モンゴル皇帝は日本を正しい政治が行われている国として通交を求め、その送達を高麗に厳命したので潘阜を使節として派遣したことをのべ、モンゴル帝は日本との通交に貢納を求めるのではなく、皇帝の徳を天下に明かすことが目的であるから、日本が使節を派遣したならば必ず厚遇されるであろうという内容でした。文永五年の国書(蒙古は至元三年の一二六六年に親書をしたためる)を日本に宛てたころのクビライは、政権を確立したばかりで日本を攻めることよりも、南宋や朝鮮を間にした通交を求めるおだやかなものであったとされます。(日本の時代史9『モンゴルの襲来』一三三頁)。

 しかし、今回の牒状にはモンゴルが日本を攻めようとしていること、モンゴル人を「毳韋」(いぜい。なめし皮とむく毛)、「被髪左衽」(ひほつさじん。ざんばら髪と左前の衣服を着ること)と蔑視した表記がみら、このようなモンゴル人は聖賢のにくむことであるから、珍島に遷都したという内容でした。そして、戦争時における軍隊の食糧である兵糧と、援軍を求めているものだったのです。

後嵯峨院の評定のおりに提出された資料と推定される古文書に、文永八年に到来した高麗からの牒状(「今度の状」)を、同五年に到来したの牒状(「以前の状」潘阜の持参したもの)とくらべて、不審に思われる点を列挙した事柄があります。

 

・高麗牒状不審の条
一、以前の状である文永五年に蒙古の徳を揚げ、今度の状の文永八年には、韋毳は遠慮無しと云々、如何
一、文永五年の状は年号を書くも、今度は年号を書かざる事
一、以前の状、蒙古の徳に帰し、君臣の礼を成すと云々。今の状、宅を江華に遷して四十年に近し、被髪左衽

は聖賢の悪(にく)む所なり、仍て又珍島に遷都する事
一、今度の状、端には「不従成戦之思也」、奥には「為蒙被使」と云々。前後相違如何
一、漂風人(ひょうふうにん)護送の事
一、金海府に屯するの兵、先ず廿余人を日本国に送る事
一、我が本朝、三韓を統合する事
一、社稷(しゃしょく)を安寧して天時を待つ事
一、胡騎(こき)数万の兵を請うる事
一、兇旒(きょうりゅう)の許に達して寛宥(かんゆう)を垂るる事
一、賛(にえ)を奉る事
一、貴朝、遣使問訊の事

村井章介著「アジアの元寇―国史的視点と世界史的視点」『中世日本の内と外』九七頁)

これは、あきらかに、高麗の国状がかわったことを現しています。高麗の正統政府を自任する三別抄が、兵糧と兵力の援助を日本にたいして求めたことは、国際的な連帯のもとにモンゴルの脅威に立ち向かおうというよびかけが、日本にたいしてなされたことを意味します。これにたいし、朝廷や鎌倉幕府からも黙殺され、三別抄には返牒されていません。幕府が対策したことは、蒙古が襲来するという恐怖に、九州に所領をもつ御家人をただちに下向させ、守護とともに異国の防禦に就かせたことだけで、外交には及んでいません。

このことについて、吉田経長の『吉続記』の「文永八年九月の条」によりますと、吉田経長は三別抄の牒状を「蒙古兵日本に来り攻むべし、又糶(ちょう)(売り出し米)を乞う、此の外、救兵を乞うか」と記述しています。三別抄がモンゴルに攻められ逼迫した状況をのべていますが、朝廷はその重大な意味を理解できなかったとのべています。吉田経長は、評定の場で牒状を読み上げた儒者たちを、「停滞なく読み申す」「日来稽古の名誉なし、人以て信用せず」とし、「状に就き了見区分」と記しているように、牒状の漢文の意味を正確に解釈できずに、そのため、意見が分かれたと酷評しています。
 珍島の三別抄はこの牒状が届くまえの、文永八年五月にモンゴルと高麗の連合軍による総攻撃をうけ、承化江(候)温は殺害され残党は済州島に逃れていました。趙良弼は返牒を得られないため、翌年の文永九年一月に、十二人の日本人を連れて高麗に帰ります。

 九月二一日に依智から四条頼基に宛てた、『四条金吾殿御消息』(八七)があります。前述した九月一五日の『土木殿御返事』(五〇三頁)の記述と、本書の『朝師本』の写本が伝えられていますが、 

「かまくらどの(鎌倉殿)の仰せとて、内内佐渡の国へつかはすべき由承り候」(五〇五頁)

と述べた内容が両立しないので真偽論があります。(『日蓮聖人遺文全集』別巻二〇〇頁)。

この二一日付けの『四条金吾殿御消息』は真筆がありませんが、佐渡出立に幕府の裁断が手間取っていたことがわかります。前述しましたように、その一つの理由に蒙古対策に苦慮していたことが挙げられます。幕府では日蓮聖人の処置にたいして、御家人を代表する安達泰盛と、御内人を代表する平頼綱側の意見がわかれていました。平頼綱には良観・蘭渓道隆はもとより、とくに、時頼の後家尼、重時の娘という、時宗の母の存在が強かったと思われます。入胎中の九代執権北条貞時の乳母父となるほど信頼が厚かったのです。これらの力をえて、最終的には平頼綱などの意見が通り、当初の佐渡流罪に決まりました。日蓮聖人を無罪放免にという意見や、百日待機という折衷案は通らずに、日蓮聖人を排除する勢力、すなわち、策略をめぐらした平頼綱たちが勝ったということです。しかも、依智を出立されるのが一〇月一〇日ですので、この裁決がでるまで二〇数日もの日数がかかります。

良観は日蓮聖人の処刑を望んでいましたので、早く処刑するために、日蓮聖人の信徒が放火や殺人を行なっているという奸計を策謀していたのです。『種々御振舞御書』と『破良観等御書』に、

「依智にして二十余日、其間鎌倉に或は火をつくる事七八度、或は人をころす事ひまなし。讒言の者共の云く、日蓮が弟子共の火をつくるなりと。さもあるらんとて日蓮が弟子等を鎌倉に置くべからずとて、二百六十余人にしる(記)さる。皆遠島に遺すべし。ろう(牢)にある弟子共をば頸をはねるべしと聞ふ。さる程に火をつくる者は持斎・念仏者が計り事なり。其由はしげければかかず」(九七〇頁)

「かまくら内に火をつけて、日蓮が弟子共の所為なりとふれまわして、一人もなく失はんとせし」(一二七九頁)

と、良観一味は日蓮聖人の弟子や信徒が、鎌倉の諸所に火を放ち、殺人や強盗をしたと吹聴したのでした。「牢にある弟子共をば頸をはねるべしと聞ふ」とのべていることから、九月二一日までの間に、日朗上人たちは牢に入獄されていたことがわかります。日蓮聖人の弟子たちの首を刎ね、信徒たちは流罪か鎌倉より追放するという強い態度に出てきたのです。その信徒の名前が二六〇余名あげられたのです。平頼綱たちの執念がみえます。

遺文によりますと、良観一味は放火・殺人まで犯したといいます。日蓮聖人の一方的な解釈として反論もあると思いますが、これが真実ならば良観は聖僧と呼ばれる僧侶といえるのでしょうか。事実、犯人を取り押さえてみれば念仏者の溢れ者が、日蓮聖人に悪名を負わせようとしたことが判明したのです。これにより、二六〇名の信徒が赦されたといいます。四条頼基に宛てた佐渡での書状『四条金吾殿御返事』に、

「而を日本国はをしなべて彼等が弟子たるあひだ、此大難まぬがれがたし。無尽の秘計をめぐらして日蓮をあだむ是也。前々の諸難はさておき候ぬ。去九月十二日御勘気をかふりて、其夜のうちに頚をはねらるべきにて候しが、いかなる事にやよりけん、彼夜延て此国に来ていままで候に」(六六三頁)

と、平頼綱や幕府の権力に支えられた良観側は、さまざまな策略(「無尽の秘計」)を駆使して日蓮聖人を迫害したとのべています。その目的は日蓮聖人を処刑することだったのです。

〇良観の策謀と判明

 そういう不利な教団ではありましたが、日蓮聖人の信徒たちが暴徒となっているという、嫌疑が解かれることになります。日蓮聖人は捕縛の身でしたが、長老大進阿闍梨を鎌倉に置き、留守中の門下を護るように指示をしていました。このような危機的な状況にて鎌倉にいて教団を護持し、放火の犯人などを捜査させていた中心的な役割を担っていたのは日昭上人と思われます。『種々御振舞御書』に、

「火をつくる者は持斎・念仏者が計り事なり、其由はしげければかかず」(九七〇頁)

と、良観らの策謀であることが判明し、信徒にたいしての圧力が緩みましたが、それまでの迫害により教団の存続に影響があったのは事実です。失われていく信徒、破戒されていく教団に追い込まれながらも、捕縛されない弟子・信徒は必死に教団を護ろうとしていたのです。

しかし、放火事件を取り締まる最高責任者は、侍所の長官である平頼綱です。謀略をめぐらしているのは、同穴の良観です。竜口首座を逃れ依智にて裁断を待つ日蓮聖人にとっては、これらの放火事件は赦免の嘆願や、自界反逆が的中するかを見極めてから処断する、という意見よりも、佐渡流罪執行に向けられていくのに効果があったのです。平頼綱たちの狙いは佐渡への道中と、佐渡島内での殺害にかわったのです。佐渡は律令時代からの流刑地で、流刑には近流(こんる)・中流・遠流(おんる)があり、このなかで最も重い流罪が佐渡への遠流でした。こういう状況のなかで、日朗上人に書状を出されたのが『五人土篭御書』です。