149.佐渡配流            高橋俊隆

◆第二節 佐渡配流

□『五人土籠御書』(八八) 

一〇月三日に土籠の獄中にいる日朗上人に書状を送っています。真蹟の二紙は京都妙覚寺に所蔵されています。日朗上人が逮捕され土牢に禁獄された時期は不明ですが、本書からみますと九月一二日いこうに捕縛され、一〇月の初旬までに土牢に禁獄されたといいます。(『日蓮の生涯と思想』八九頁)。あるいは、九月二一日までの間に、日朗上人たちは土牢に入獄されていたといいます。(『日蓮教団全史』九頁)。「ろう(牢)にある弟子」とは日朗上人のことを指しますが、この牢が土牢であったかは不明です。可能性としては遅くても九月二一日までには、屋外の土牢に閉じ込められ、寒中の苦しみに処していたと思われます。平頼綱は弟子たちも病死にさせようと企んでいたことは推測されます。

この土牢は宿屋入道の裏山の敷地にあったといいます。現在の光則寺の土牢と伝えています。この遺文は日蓮聖人の弟子信徒を気遣う慈愛をうかがうことができながらも、難解な消息といわれています。それは、『五人土籠御書』の上封に「五人御中ちくこ」とあることから、投獄された五人内に日朗上人は確実ですが、他の入牢者の氏名は不明なところで、『御書略注』には、日朗・日心・河野辺山城入道・坂(酒)部入道・得業(行)寺殿・伊沢入道の六人の名がでています(『宗全』一八巻一九六頁)。この、河野辺山城入道などの四人は『佐渡御書』にみられ、また、河野辺山城入道の名前は『法華行者値難事』の宛名にもみえます。さらに、「かわのべどの等の四人の事」が『弁殿御消息』にもみえるので、この土牢に投獄された一人と思われます。入牢者が一僧四俗か二僧四俗かは不明となっています。本書の端書に、

 

「せんあく(善悪)てご房をばつけさせ給。又しろうめ(四郎奴)か一人あらんするが、ふびん(不憫)に候へば申す」(五〇六頁)

 

「せんあく(善悪)」とは「とにかく」ということで、「てご房」とは「稚児の房」で幼少の日心(一三歳『本化別頭仏祖統紀』)のことといいます。また、「てこな」と読み下女のこととする説、「てこ房」とは下人のこととする説があります。要件を急いで書かれた書状ですので、文意は、とにかく、共に入牢した曽谷教信の稚児(小僧)の房(日心)に心を通わせ労わるように言われたと解釈できます。次いで、「しろうめ(四郎奴)」とは熊王四郎か、日心の弟(せうどのの第二子という)とする説があり不明となっていますが、「一人あらんするが」ということから、幼い子供が松葉ヶ谷の草庵に残されていたことがうかがえます。

岡元錬城先生は「夫の四郎奴」としています。(『日蓮聖人―久遠の唱導師』二九七頁)。また、「ふしろう」と読み、「てこ房」と同じ童子であったとも推測されています。(山中講一郎著『日蓮自伝考』一八四頁)。真蹟を拝見しますと「又しろうめ」ではなく、「ふしろう」と読めます。ただし、文意的には、まず、「ご房」のことの用件を言い、そして、一人になった「四郎」のことが心配である、という『定遺』の「又しろうめ」の読み方がわかりやすく思います。

依智にいる日蓮聖人と入牢している日朗上人という、隔絶した状況のなかで書かれていたのです。

 

「今月七日さどの国へまかるなり。各々は法華経一部づつあそばして候へば我身並びに父母兄弟存亡等に廻向しましまし候らん。今夜のかん(寒)ずるにつけて、いよいよ我身より心くるしさ申すばかりなし。ろう(牢)をいでさせ給なば明年のはる(春)かならずきたり給へ。みみへまいらすべし」(五〇六頁)

 

この遺文には七日ころに佐渡へ行くとありますように、四〜五日後に佐渡へ発つ予定でしたが、それがおくれ、一〇月一〇日に佐渡に向かうことになりました。なんらかの事情がおきたのでしょう。牢内の弟子信徒の身を案じ、明年三月に日朗上人たちは赦免になる情報があったようです。あるいは、「自界反逆」が的中し、日朗上人たちは赦されると確信されたのでしょうか。その時には佐渡にての再会を伝えて励まされています。そして、

 

「せうどのの但一人あるやつをつけよかしとをもう心、心なしとをもう人、一人もなければしぬ(死ぬ)まで各々御はぢなり」(五〇六頁)

「せうどの」についても諸説がありますが、日心の父である久本房日元といい、文意は久本坊の子供(稚児の房・日心)が但一人で親に離れて入牢しているので、注意して労わるようにのべます。「とをもう」は撓(たゆむ・たわむ・みだる)の転訛で、房総地方では「たゆむ」を「とをもう」というそうです。(『日蓮聖人遺文全集講義』第八巻八八頁)。日心が退転しないようにと心配し、弟子信徒の中にそのような者はいないとして、「心なし」とは不甲斐ないということで、もし退転するような者が一人でもでれば、死ぬまで各々の恥である、と訓戒されているように読めます。また、一説に『玉沢手鑑』(三二〇頁)には、丹波公日心は曽谷教信の子供とあり、山城入道は四人の頭として不惜身命を現したとあります。そして、このとき大進阿闍梨と三位公日行が逃避して、入牢しなかったことを瞋ったとあります。(二六四頁)。

『御書略註』には日心は中老身延三世日進であり、曽谷教信の次男とあります。大進阿闍梨とは曽谷教信の弟といわれています。(『曽谷殿御返事』一六六四頁、『四條金吾殿御返事』一六六八頁)。大進阿闍梨は文永七年頃には阿闍梨号で呼ばれ、門下の高足(『真間釈迦仏供養逐状』四五七頁)として、とくに、文永八年の法難後は同書に見られるように、鎌倉の門下信者の連絡や指令を伝達する任務にあたり、入牢中の弟子信徒に対しての指示や、赦免後の行動などを指導するために佐渡には行かず、鎌倉に居住させた経緯をのべています。

五人が釈放された時期は不詳ですが、文永一〇年八月三日付けの『波木井三郎殿御返事』の端書に、「鎌倉に筑後房・辨阿闍梨・大進阿闍梨と申す小僧等これあり。これを召して御尊びあるべし」(七四五頁)と記しているので、これ以前に釈放されています。本書のとおり「明年のはる(春)」である、文永九年の二月騒動いごに赦免されたと考えられます。

土籠の近接地にのちに行時山光則寺が建てられます。裏山には九州の平家の大名である大橋太郎通貞が頼朝に捕縛され、一二年後に子供の一妙麿の孝心により罪をゆるされたと伝えられている土牢があります。

 

□『転重軽受法門』八九)

一〇月五日、下総の富木氏につづき、太田・曽谷・金原(かなはら)法橋の三人に書状を送っています。真蹟の八紙は中山法華経寺に所蔵されています。曽谷教信に宛てた書状はこれが始めてです。曽谷氏は富木氏とともに下総の中心となる檀越で、八幡庄曽谷郷の在地領主であり越中に所領を持っていました。日蓮聖人は蘇谷入道とも呼び法名は法蓮、日礼と名のっています。清原氏の末裔で大野政清の子供と伝えています。この政清の妹が日蓮聖人の母、梅菊という伝えもあります。そうしますと日蓮聖人と従弟になります。

この三人の中の一人が依智の日蓮聖人と面会されました。日蓮聖人はこの一人と会い面談したことは、三人と話したと同じ心境であるとのべます。この三人は心を通じた者同士であり、日蓮聖人とも親密な関係であることがうかがえます。

本書は鎌倉いがいの弟子・信徒の動揺を抑えるためといわれています。ここでは受難の覚悟よりも、不軽菩薩が受けた多くの値難は滅罪になったことを教えます。迫害にあうことは、法華経の行者としての立証であるから嘆くことではない、とのべて信徒を励ましています。この滅罪は『涅槃経』の「転重軽受」からのべられたもので、二点にまとめられています。一つは過去の重い罪は、法華経を行ずることにより軽く受け滅罪することができるという考えです。二つ目は附法蔵のなかに、提婆菩薩や師子尊者のように殺害され斬首にあった者がいることをあげ、それこそが身軽法重を身読した誠の仏子のあり方と称讃し、自身にあてて末法の法華経の行者は、法難にあうことは本意であることを告げています。このときにおいて、日蓮聖人は早急に値難と転重軽受について教えられます。門下の信仰的な動揺と日蓮聖人にたいする悲哀観を抑えたことがうかがえます。本書に、

 

「涅槃経に転重軽受と申す法門あり。先業の重き今生につきずして未来に地獄の苦を受くべきが、今生にかかる重苦に値い候へば、地獄の苦しみはつとき(消)へて、死に候へば人・天・三乗・一乗の益をうる事の候。不軽菩薩の悪口罵詈せられ、杖木瓦礫をかほるも、ゆえなきにはあらず。過去の誹謗正法のゆえかとみへて、其罪畢巳と説れて候は、不軽菩薩の難に値ゆえに、過去の罪の滅するかとみえはんべり」(五〇七頁)

 

と、迫害を受けるのは過去に謗法という重罪があると内省し、それを受難として主体的に受けとめることにより、来世には堕獄より逃れることができると説諭したのです。この根底には幼少から案じていた「邪見の者」からの滅罪意識があり、これを打破する方法を不軽菩薩の値難にみられていたのでした。日蓮聖人は自身を不軽菩薩に擬えることにより受難・滅罪・成仏の論理を示したのでした。これを「不軽の跡を紹継する」とのべ「不軽紹継」といいます。日蓮聖人の支柱になっている経説です。『聖人知三世事』に、

 

「又我弟子等存知之。日蓮是法華経行者也。紹継不軽跡之故」(八四三頁)

 

前述したように日蓮聖人は伊豆流罪を契機として「法華経の行者」意識を表明し、自己に加害された法難に末法の「師」として「本化の菩薩」を実証してきました。そして、付法蔵の正法弘通者にふれて、自身の値難は法華経の勧持品に説かれた二十行の偈文の色読であるとのべました。その法華経を色読した行者こそが不軽菩薩でした。日蓮聖人はその不軽菩薩と同じ行者であるとのべます。

 

「過去の不軽菩薩・覚徳比丘なんどこそ、身にあたりてよみまいらせて候けるとみへはんべれ。現在には正像二千年はさておきぬ。末法に入ては此日本国には当時は日蓮一人みへ候か。昔の悪王の御時、多の聖僧の難に値候けるには、又所従眷属等・弟子檀那等いくそばくかなげき候けんと、今をもちてをしはかり候。今日蓮法華経一部よみて候。一句一偈に猶受記をかほれり。何況一部をやと、いよいよたのもし。但をほけなく国土までとこそ、をもひて候へども、我と用られぬ世なれば力及ばず。しげきゆへにとどめ候」(五〇八頁)

 

と、転重軽受と不軽菩薩の故事を引いて、法華経の行者像と功徳をのべ門下へ教訓したのです。

日蓮聖人の真意は国土全体の安穏(成仏)にあります。これが『立正安国論』の主張です。しかし、国主が法華経と日蓮聖人の言葉を採用しないことに落胆されます。佐渡流罪に係わり門下の動揺を危惧して、自身が正当の法華経の行者であることを認識させて、不退転の信心をうながしていたのです。法華経を弘通することにより、迫害にあうことは自身が成仏することと教えています。法華経の行者の強い信念を自ら見せたのです。

 

○楊枝御本尊(一)一〇月

 

一〇月九日に初めて本尊をあらわしました。通称を「楊枝(ようじ)の本尊」といいます。持参していた小筆では文字が小さくなるので、大きく書くために楊(やなぎ)の枝を砕いて筆に使用されたといいます。脇書きに「相州本間依智郷書之」とあり、依智で書かれたことがわかります。この楊枝本尊のみが「書之」と顕示されており、これ以後は「図之」と顕示し、曼荼羅・本尊を図顕されたという言い方をされます。日蓮聖人の曼荼羅は、法華経の会座を図に顕示された十界の世界といえます。立正安国会発行の『御本尊集目録』の第一番目(三頁)に掲げられています。

揮毫された料紙は縦五三.六a、横三三、六aの少し厚めの楮紙で、当時の規格とは一回り大型になり、これを縦に二枚継いで短冊形になっています。この厚手の緒紙は保存を良くするために染められており、木槌で全体をまんべんなく打った打ち紙ですので強度があります。入手した経路は不明ですが、佐渡に向かう前日に二枚の楮紙を用意して揮毫されたもので樹皮の先を砕いて筆にしたとか、急遽、柳の枝を砕いて作った柳枝の筆で書かれたので「柳枝本尊」、あるいは木筆本尊(寂光寺の日達上人『宗全顕本法華宗部第一』二二八頁。『日蓮宗事典』四一二頁)と伝えられてきました。また、中尾尭先生は竹筆を用いたのではないかといわれています((中尾尭著『日蓮』一四一頁)。あるいは、鎌倉の草庵から持参したと思われる筆は小筆であり、曼荼羅を急遽染筆したため、初冬の寒さで筆先が固まっていたままを使用されたともいいます。おそらく、持参していた細筆の穂先の全部を使用して書いたと思われます。(宮崎英修著『日蓮とその弟子』一〇四頁)。日蓮聖人が急いで図顕されたことと、おそらく日朗上人の護り本尊として書かれたと思われます。この曼荼羅は佐渡出立にあたり最初に揮毫された一幅でした。

中央に首題の南無妙法蓮華経を揮毫し、左右に梵字の不動・愛染を書き添え、左下に日蓮聖人の自署と、梵字(バン字)の花押を書いています。南無妙法蓮華経の法の字以外は偏や画を長く伸ばして書かれ、俗にヒゲ題目といいます。このような髭題目の髭を光明とみなし、法華経の功徳を題目の光明として、十方に広げるという意味あいから光明点の題目といいます。その左右の横に不動・愛染の種子(しゅじ)という梵字で、細長く題目を守護するように書かれています。この形式の題目は柳枝本尊が最初といわれています。中尾先生は日蓮聖人がかねてより光明点の題目を構想されていたのを、始めて表現されたと講義しています

佐渡流罪直前の、この文字曼荼羅は終生、信仰の象徴として崇拝され、その後も弟子信徒の篤信者に授与され、師弟・師檀関係の表象となります。また、とうじの人々の識字能力を考えれば、読誦の経典よりも曼荼羅の必要性が強かったといいます。(高木豊。『日蓮その行動と思想』増補改訂版一四八頁)。妙法蓮華経(法華経)に帰依する信心の表出を、南無妙法蓮華経の唱題として釈尊に忠誠を誓う行為となりましょう。

この柳枝本尊は京都の立本寺に所蔵されていますが、授与者の名前が書かれていないので、何のため、誰のために揮毫されたかは不明です。しかし、同日、『土籠御書』(五〇九頁)を獄中の日朗上人に送り、明日には佐渡に出立することを知らせていますので、あるいは本尊と共に宛てられたとも考えられます。『土籠御書』に、

 

「日蓮は明日佐渡の国へまかるなり。今夜のさむきに付けても、牢のうちのありさま、思いやられていたはしくこそ候へ。」(五〇六頁)

 

 『五人土籠御書』に、明年の春に赦免されたら佐渡に来るように指示されています。日朗上人などの出牢が確定できていないときに、日蓮聖人はすでに情報を得ていたといえましょう。自身のことよりも入牢している弟子たちの安否を気遣った書状であり、楊枝御本尊がこのとき入牢している日朗上人たちを励ますために、授与されても不思議ではありません。日昭上人を筆頭とした門下に授与されるならば、長い依智滞在中にじっくりと揮毫できたと思われるからです。

 

□『佐渡御勘気鈔』(九一)

翌一〇月一〇日に、清澄寺の浄顕房などに書状を送って、法華色読による捨身の功徳と法悦をのべ、道善房・領家尼には、悲嘆しないようにと伝言しています。(『日蓮聖人遺文全集講義』第八巻一八三頁)。

「本より学文し候いし事は仏教をきはめて仏になり、恩ある人をもたすけんと思ふ。仏になる道は、必ず身命をすつるほどの事ありてこそ仏にはなり候らめと、をしはからる。(中略)各々なげかせ給べからず。道善の御房にもかう申しきかせまいらせ給べし。領家の尼御前へも御ふみと存し候へども、先かかる身のふみなれば、なつかしやと、おぼさざらんと申しぬると、便宜あらば各々御物語り申させ給へ」(五一〇頁)

 

と、日蓮聖人が出家をされて志したことは成仏であり、まず父母や師匠など恩のある人を、謗法堕獄の苦しみから救済することにあったとのべます。そのためには不惜身命の色読をしなければ、叶わないことであると幼少から思っていたと兄弟子にのべています。竜口法難はまさに法華経に予言されたことであり、日蓮聖人も立教開宗をしたときから覚悟のことであったので、落胆し嘆き悲しまないでほしいとのべています。恩師の道善房にこの旨を伝えてほしいと弟子の立場からのべています。また、恩人の領家の尼にも書状を出したいが、流罪人からの書状と聞けば懐かしいとも思わないだろうから、この旨を領家の尼に伝えてほしいと書き送ります。日蓮聖人が生まれ育った故郷の恩人にたいして、赤裸々な日蓮聖人の心中を伝えたかったのです。このように教団の壊滅的な弾圧に腐心しながらも、地方の弟子・信徒への配慮をし、自身においては色読・値難の法悦により、信心も強固になり後生の安心を得たと心境をのべています。また、この依智に滞在した二七日の間にも本間家の人々を教化されていました。

□『寺泊御書』(九二)

同じく一〇日、日蓮聖人は相模依智より流罪地の佐渡にむかって出立します。このとき日蓮聖人に随行した弟子は日興上人と日向上人、そのほか、富木氏と妙一尼の下僕が一名ずつ、それに熊王四郎の五名が随行し、無名の信徒を合わせて七~八名随行したといいます。(『高祖年譜攷異』)。本書には依智から新潟の寺泊までの道中について知らせています。寺泊に着くまで書状を書かなかったようです。一二日間の道中は艱難辛苦が身心を痛めました。日蓮聖人の悲しさが、夜半(酉)の執筆とはいえ、筆の弱さから伝わってきます。文字を訂正されたり消したりして九紙を書きすすめます。しかし、本書から道中における決意と佐渡にわたり成し遂げることへの情熱も看取できます。