150.依智から寺泊~塚原三昧堂            高橋俊隆

○依智から寺泊まで(一)

鎌倉時代の主な街道は、奈良・平安時代に造られた街道とほぼ同じルートといいます。奈良時代に朝廷が日本全土を支配すると、税(租・庸・調)を集めるためや、軍隊を送るために道路を整備しました.とうじの道路はまだ計画道路であり、役所のある国府と国府のあいだや、大きな村や町などの集落を直線で結びました。前にものべたように、約一六㌔ごとに駅を作り、朝廷の命令や地方でおきた戦などの情報を伝えるため,駅には決められた数の馬を用意し、急使はその馬を乗りついで伝達したのです。

とうじの街道を模索する手がかりに「古地図」があります。そのなかでも、奈良時代の行基が作ったとされる「行基図」という日本地図が有名です。山越から若狭・越前・加賀・越中・越後・佐渡と、平野を縦断した雑駁な道程が書かれ、完成度が高いと評価されています。越後は七世紀後半期の分図によって誕生したといわれ、「こしのみち」と呼んだといいます。八世紀の初頭には郡の分離統合がおこなわれ国の地域が定められたといいます。古代から東北経路の拠点として荘園の開発が行われていますので、早くから街道としての路があったことがわかります。

また、短時間にて伝達する必要性から、古代から中世の計画道路は一直線に作られることが多かったといいます。現在になり、高速道路を作ると古代や中世の大道が発見されるのは興味ぶかいことで、とうじも今も効率よく町を結ぶと、同じようなルートになってしまうところが面白いといわれています。つまり、この駅路は今の高速道路にあたるコースであったのです。駅路は効率よく最短ルートをとおるのでほぼ直線で、幅は約一二㍍、路面を良くつき固め雨水を流すための側溝がありました。これにたいし、一般国道にあたるのを伝路といいます。この伝路は郡衙(ぐんが=地方の役所)や、国衙(こくが=朝廷の出張所)を結ぶために昔からあった道を利用したり、新しく作ったものがあります。しかし、歩行通路として歩きやすさや、高低差を少なくして物を運ぶ利便性を優先したので、曲がる所が多く距離も長くなっています。幅は約六㍍でした。

鎌倉幕府を作った頼朝をはじめとして、北条幕府も道路を整備しました。この理由のひとつには、京都を中心とする朝廷の力は強く、いつ侵略されるか分からないという不安がありました。つまり、鎌倉を守るために関東中の御家人を集めるために作られた軍事道路であったのです。これが鎌倉街道です。関東地方を縦断し鎌倉に至る、上ノ道・中ノ道・下ノ道の三本の道路を作りました。これらの鎌倉街道はたくさんの武士や食糧などの物資を、短時間で鎌倉へ集めるための計画道路ですから、直線的に作られた部分が多く幅は約六㍍であり、伝路とほぼ同じ路はばとなっています。東京都町田市の野津田・小野路地区は、このとうじの鎌倉街道がもっとも良い状態で残っている唯一の地域です。「古代駅配置図」(『延喜式』)によりますと、寺泊が佐渡松崎への渡舟津であったことがわかります。海岸の路は、水門(みと、直江津)―佐味(上越)―三島(長岡)多太―大家―渡戸(わたりへ、寺泊)―伊神となります。信濃路は浜辺―多古―日(亘)理―麻続―錦織となります。(『日本交通史辞典』九八頁)。

しかし、鎌倉時代の街道を確実に伝えるものは少なく、おもに、江戸時代初期の地図を参考とすることになります。幕府は慶長(一五九六~一六一五年)・正保(一六四四~一六四八年)・元禄(一六八八~一七〇四年)に、各地に調進した図絵に基づいて日本総図を作成しています。これは、幕府が全国の石高を把握して租税を調査するためでした。また、しだいに、土地領有権・軍事的支配を確立するためでした。(『日本国尽』矢守一彦著「幕府撰国絵図と板行諸国図」一六八頁)

この幕府撰国絵図の『皇圀道度図』(承応~明暦。一六五二~一六五八年)を見ますと、三国峠から佐渡への交通路が発展していたことがわかります。文化一四(一八一七)年に、下越後今町の画家である小泉基明が、七年にわたり調査して描いた『越後国全図附佐州』をみますと、日本海の海岸路よりも十日町・小千谷を経由して、寺泊に通じる路が発達しているのがわかります。しかし、江戸時代の主要交通路に、日本海の海岸の高田・姉崎・出雲崎・寺泊があり、柿崎・出雲崎・寺泊から佐渡への海路が開かれています。これは、佐渡の産物である金・銀・木材・いかなどを物流するために、発展した街道でした。

日蓮聖人が歩まれた依智から寺泊までの行程で憶測してみますと、まず、藤岡の栗須までを『高祖年譜攷異』『日蓮聖人真実伝』によりますと、次のようになります。はっきり分かっているのは久米川の宿場だけです。

 

 ・鎌倉時代の街道「上ノ道」・北国街道・北陸街道

 一〇日

  依智―(瀬谷)―本町田―野津田―小野路―乞相―関戸―府中―国分寺―恋ヶ窪―久米川(東村山市)

   立川家宿泊  (約三四㌔)

 一一日

  ―新倉(和光市)

 一二日

  ―川越(妙養寺)

 一三日

―所沢―入間川―女影―四日市場―若林―笛吹峠―大蔵―菅谷―奈良(梨)―高見―今市―赤浜―小前田―用土―野中―身馴川―児玉

児玉時国家宿泊

 一四日

  ―藤岡(栗須)

   粟津(須)  長谷川長源家宿泊

 

 久米川から栗須まで四日の行程となりますここから寺泊まで行くには、①碓氷峠を越す北国街道・北陸街道と、②三国峠を越す三国街道を進む二手に分かれます。

まず、①、北国街道・北陸街道のコースは、標高九五六㍍の碓氷峠を越えていきます。古くは碓日坂・宇須比峠・碓氷坂といいました。古来より東山道上野・信濃の国境をなし険阻をもって知られており、日本武尊が東征の帰途、ここで妃の弟橘姫を偲んだと伝えられています。(『日本交通史辞典』七七頁)。北陸道は浜通りともいい、古くは「越」(高志・古志)と言われた地域で、福井・石川・富山・新潟をいいます。『延喜式』)によりますと、古代は越後と佐渡間の渡海に舟二隻が想定されていたとあります。また、北陸道の宿駅制度は天正九(一五八一)年、上杉景勝が柏崎に「伝馬宿送可為御朱印」と命じたのが初見とされます。北国街道では上杉謙信が同三年、荒井に対し「伝馬宿送無湯断」と命じています。北陸道の御定賃銭が定められたのは寛文元(一六六一)年からで、宿駅と里程が改正されています。(『日本交通史辞典』八一〇頁)。

 

 ①北国街道・北陸街道のコース

 一五日(推定)

―山名―倉賀野―高崎―坂鼻―安中―松井田

 一六日(推定)北国街道に入る

=碓氷峠=追分―小諸―田中

 一七日(推定)

―海野―上田―坂木―下戸倉・上戸倉―矢代(屋代)

 一八日(推定)

―丹波島―善光寺―新町―牟礼―古間―柏原―野尻

 一九日(推定)

―関川―田切―関山―松崎・二本木―新井―高田―国府―

 二〇日(推定)越後の海岸路に入る

―柏崎

 二一日

―寺泊

 

つぎに、②、三国街道中山道高崎から分かれ、北陸街道寺泊へ至る街道で、三国峠関東越後を結ぶ交通路としてきわめて古くから利用されていました。三国街道の名の由来は、信濃(長野)・越後(新潟)・上野(群馬)の三国が接するのが三国峠で、この峠を越えることからその名がつきました。現在の三県の境界点は三国峠から一〇㌔以上も西に位置しますが、昔の国境は三国峠付近であったことになります。三国街道の上州側は、金古・渋川・中山・永井など一一宿。永井より三里半の三国峠越えで越後に入ります。標高一六三六㍍の三国山南方の尾根、三国峠を越えます。頂上に坂上田村麻呂の創祀という三阪神社があり、早くから交通が盛んだったといいますが、峠名の初見は文明一八(一四八六)年の常光院堯恵の『北国紀行』です。

近世の初めに佐渡への最短距離として峠越えの三国街道が整備されたといます。浅貝・湯沢・六日町・川口・長岡・与坂など一七宿を経て佐渡への渡海場寺泊に入ります。しかし、一二月から三月までの厳冬期は豪雪のため通行困難になったといいます。(『日本交通史辞典』八四三頁)。三国街道は中山道の高崎宿と、北国街道越後路の寺泊宿を四八里(約一九二㌔)で結ぶ上越街道でもあり、高崎から寺泊を経由し佐渡島を結ぶ関越佐渡街道でもあります。

江戸時代には江戸と日本海を結ぶ最短の道路となります。その要因の一つは佐渡金山が発展したことにあります。この街道から佐渡へ罪人を送り採掘させ、佐渡からは金が江戸に運ばれ、越後からは米や越後縮みが運ばれています。また佐渡奉行をはじめ、長岡・新発田・村上・与板等越後九藩の大名が往来する街道となります。佐渡の本間重連が霜月騒動にて鎌倉に馳せ参じますが、急げば三国街道を通ったかもしれません。

旧中山道は高崎市街の中心部を抜けたところで西に折れます。その場所が本町通りで、古い町並みが若干見られるといいます。高崎市本町から旧北国街道は中山道と分岐し越後を目指します。金古は旧三国街道の最初の宿場町となります。松岡裕治氏は栗須から寺泊までの主要宿駅をたどり、三国街道経由が約二五〇㌔、北国街道経由が約三三〇㌔とします。公式令・行程条に人が一日に歩く距離は五十里とある和銅六(七一三)年に、一歩が六尺に改正されたことから、五十里は約二八㌔として、三国街道経由が約九日、北国街道が約一二日の行程となると計算します。日蓮聖人が依智を発った日は新暦で十一月二十日であるので、「北越雪譜」に「健足の飛脚といへども雪途を行くは一日二三里に過ず」、といわれるほどの豪雪地帯を行くことを考えると、寺泊への道は三国街道を越える最短距離が選ばれたと推定しています。(「日蓮の史跡をめぐる二、三の問題」『印度学仏教学研究』第三十巻)。

 

 ②三国街道のコース

一五日

―山名―倉賀野―高崎(群馬県高崎市)

 一六日

  ―金古(群馬町)・渋川(渋川市北牧(旧・北群馬郡子持村)―横堀

 一七日

―中山(吾妻郡高山村) ―塚原(利根郡みなかみ町(月夜野町)―下新田―布施

一八日

―須川相俣(旧新治村)―猿ヶ京―吹路―永井

一九日

―浅貝(新潟県南魚沼郡湯沢町)―二居―三俣―湯沢―六日町(南魚沼市)

二〇日

―五日町―浦佐(大和町)―堀之内(北魚沼郡堀之内町)―川口宿(長岡市)―小千谷―妙見―六日町

二一日

―長岡―与板(与板町)―地蔵堂(燕市(分水町)―関中島(旧西蒲原郡)―渡部(分水町)―寺泊(長岡市)

 

さて、日蓮聖人はどちらの街道を歩まれたのかといいますと、通説は北国街道を進んだといい(『日蓮辞典』「日蓮足跡図)、碓氷峠を越え信濃路を経て寺泊に着いたとします。(『日蓮聖人大事典』四五頁。『昭和新修日蓮聖人遺文全集』別巻「参考地図」)。また、佐渡への往路に前述のように、北国街道と三国街道の二説があります。(高森大乗編『日蓮伝資料集』二一頁。『日蓮大聖人年譜』第三文明社発行。一六一頁)。北国街道も途中より内陸をとおり寺泊へ行く道と、海岸の直江津に出て寺泊に行く説があります。これらの行程を推測したいと思います。

依智から高崎までの道程は、依智を発ち瀬谷か鶴間、あるいは、町田に抜けて久米川に向かいます。高崎からの道程は二通りありますが、通説では高崎から碓氷峠を越え、高田・直江津に向かい日本海にでます。ここから北上して柏崎をすぎて寺泊に着きます。また、往路は追分から小諸・善光寺・吉田を通る道程と、復路は吉田から松代・追分の道程が想定されています。(『日蓮辞典』)。これは、佐渡から鎌倉に帰るときに、善光寺の念仏衆徒たちから襲撃をさけるためともいいます。

吉田から直江津(上越)に出る行程に二通りあります。一つは、吉田から飯山・妙高・上越の道程は国道二八二号線に沿った道程です。もう一つは、北国路(時期や地方によって、北陸道・北国街道・北国通など、さまざまに記されていますが、越前・越中・越後の日本海沿いの道の一部または全部を経由する共通点があります)といわれる北国街道は、江戸から中山道追分で分れて、小諸・海野・上田・坂木・戸倉・矢代・丹波島・善光寺・新町・牟礼・柏原・野尻・越後関川・田切・関山・松崎・荒井・高田・春日新田に至り、東へ右折して出雲崎から寺泊の津に行き、ここから佐渡へ渡る佐州路があります。『日本交通史辞典』(八一三頁)。このばあいは、国道一七号線の行程になります。

あるいは、善光寺を過ぎてから長野県善光寺から、牟礼・古関方面へは行かず、豊野・飯山と千曲川の左岸を通り、栄村を過ぎて新潟県に入ると、川は信濃川と改名されます。十日町・小千谷・長岡から寺泊に入る道程となります。まさに、川のルートに沿った道となります。(中尾尭著『日蓮』一四二頁。佐藤弘夫著『日蓮』二一〇頁)。これは、どちらも小千谷を通る行程となります。

中尾尭文先生は、依智を発った日蓮聖人は、鎌倉街道の中ノ道に合流して、久米川を通り、碓氷峠を越えて信濃路にはいり、越後平野を横切って寺泊の津についたとのべています。また、佐藤弘夫先生は、高崎から先の道筋は定かでないとして、三国峠・碓氷峠、どちらをとっても小千谷で合流するとしています。信濃川に沿ってさらに進めば、長岡から先は茫漠たる越後平野が広がり、鎌倉時代はまだ平野や湿原が圧倒的に多くの部分を占めており、そのため、中世の街道はいまのように平野の中央を横切るのではなく、それをとりまく周辺の丘陵の裾をめぐっていたとのべています。そして、長岡から信濃川左岸の丘陵地帯を縫う道を、越後平野を右手に見下ろしながら北に進み、やがて左に折れ、海岸と平野を隔てる低い丘を越えて、一路、寺泊の海岸を目指したと推測しています。

 このように、日蓮聖人が久米川から寺泊までの行程や、宿泊した処をのべていないので定かではありません。罪人としての宿泊場所は守護所に準じる役所か、役人が配備して軟禁できる居館を利用されたか、比叡山の僧侶であったことから、天台寺院などを利用されたのかもしれません。兵士たちは安全に佐渡へ護送する命令をうけていました。他宗の寺院であったならば相当の仕打ちがあったとも考えられます。後述しますが、日蓮聖人はそのような状況であったとのべています。暗に推し測って苦難を偲ぶのみです。

還路はどうかといいますと、流罪を赦免されて鎌倉に帰るときは、真浦から寺泊を目指します。しかし、流されて柏崎に漂着します。柏崎からは内陸の小千谷へは進まず、海岸線を通って国府のある直江津(上越)へ向かっています。『光日房御書』に、

 

「同十五日に越後の寺どまり(泊)のつにつくべきが、大風にはなたれ、さいわひ(幸)にふつかぢ(二日程)をすぎて、かしはざき(柏崎)につきて、次日はこう(国府)につき、十二日をへて三月二十六日に鎌倉へ入」(一一五五頁)

 

と、一五日の船出から柏崎・直江津(国府)を経由して、鎌倉まで一二日間であったと書かれています。依智から新潟の寺泊までの道中について知らせた『寺泊御書』にも、同じく一二日間の道中であったとのべています。そうしますと、鎌倉から佐渡へ向かったコースと、佐渡から鎌倉に帰るコースはほぼ同じというのが、もっとも説得力があると思われます。つまり、国府のある海岸(直江津)を目指して歩んだということです。三国街道は宿場がまだ整理されていないため交通が不便であったといいます。とくに、罪人の護送にあたる幕府の御家人が、流罪地までの護送を遂行できなかったときは、その御家人には所領没収という処罰があったといいます。(高森大乗編集『日蓮伝資料集』二一頁)護送の兵士からしますと、宿場が整備された街道を行くのが安全です。日蓮聖人は寺泊にいたる道中のなかで、風の音、草がなびく音でさえも、他宗の者から嘲笑され罵詈罵倒される声に聞こえたとのべています。(『法蓮鈔』九五三頁)。このことからしますと、人通りが多い宿場町を通り佐渡に向かったと思います。とうじは、野州・上州・信州・越後のなかでも、とくに信越は念仏の盛んなところでした。(山川智応著『日蓮聖人伝十講』下巻四六二頁)。また、季節的に初冬になりますので、標高一六三三㍍の三国山に由来する三国峠は寒風が吹き、積雪し始める難所となります。ゆえに、通説とおり北国街道を進んだ説が有力になります。

そこで、依智をたった日蓮聖人は鎌倉街道を北上し、上ノ道・中ノ道・下ノ道の三本ある街道のうち、上ノ道を北に進みます。役人は碓氷峠を越える北国街道を選びます。そして、律令時代より国府のあった直江津にむかい、そこから日本海を北にとり、寺泊に進んだと思われます。このとき、越後の国の守護は名越公時がなっていました。(一二六三~一二八八年まで)。

 

①北国街道・北陸街道のコース

まず、依智を出立したその日は、町田、府中を通り約三四㌔進み、武蔵国久目河(久目川)、現在の東村山市久米川の宿に泊まりまったことが本書にのべられています。

 

「今月十月也十日起相州愛京郡依智郷、付武蔵国久目河宿、経于十二日付越後国寺泊津」(五一二

久米川は鎌倉から信濃や北陸に通じる要所としての宿場町がありました。言い伝えでは立川家に泊まったといいます。宿場町を束ねるような有力者の居宅に宿泊したことになります。舎主は信心の深い人で日蓮聖人を敬待したといいます。(『本化別頭仏祖統紀』)。日蓮聖人が寺泊までの道中で、宿場とされた地名を書いたのは久米川だけです。久米川から寺泊までの一二日間の道筋や、宿場については記載されていなので不明ですが、およその道中について翌日は、所沢、入間川を通り、続いて今市から西に折れるように高崎を目指します。

一一日に新倉に泊まられたと思われ、この地(和光市下新倉)の地頭職である、墨田(すだ)五郎時光に再会します。墨田氏は千葉の笹森観音に参篭していたときの知己で、墨田氏の妻が難産で苦しんでいるのを聞き、安産の祈願をされたところ男子が生まれたといいます。のちに、子安曼荼羅を授与されたといいます。(『高祖年譜攷異』)。この男子に徳丸と名付け九歳になったときに、父子ともに身延山に詣で、共に出家して父の時光は日徳、徳丸は日堅の名前をいただいたといいます。墨田氏は自邸を寺とし日向上人を開山として向かえたのが長光山妙典寺です。富木日常上人の曼荼羅本尊が寺宝となっています。(『日蓮宗寺院大鑑』二七八頁)。

また、同じくこの(戸田市)新曽(にいぞ)に、弘安四年四月八日に、身延の日蓮聖人より山寺号を賜り、日向上人が開山となったのが妙顕寺です。妙顕寺は、長誓山安立院と号し身延山久遠寺の末でになります。至徳元(一三八四)年に兵火により焼失し、新倉より新曽に移転復帰しています。(『日蓮宗寺院大鑑』二八〇頁)。江戸時代には寺領十八石のご朱印を下付されていました。

一二日、墨田氏の妻の安産祈祷を終え、さいたま市(旧浦和市)浦和区の調(つき)神社(つきのみや)に寄られたといいます。調神社は伊勢神宮と料理を司る豊受家姫命を祀っており、伊勢神宮の厨房の神であることから寄られ、川越に泊まったといいます。川越の蓮信山妙養寺は文永年間の創立といい、日蓮聖人を開創とし二世に大輔房日祐上人がなり、四世の日在上人が開基となっています。(『日蓮宗寺院大鑑』二八六頁)。この縁由から、日蓮聖人の宿泊地ではないかといいます。(『高祖年譜攷異』)

一三日は児玉(埼玉県本庄市)に着き、領主である児玉六右衛門時国(藤原時国)の館に宿泊します。(『日蓮宗寺院大鑑』二九〇頁)。児玉氏はこのときの縁で信者になり、後日、日蓮聖人が佐渡赦免の帰路(文永一一年二月一七日)にも寄られて、宿泊し曼荼羅を授与されています。児玉氏は日蓮聖人の仰せにより久米氏と姓を改めたといい(『高祖年譜攷異』)、弘安四年九月一一日に児玉氏は亡くなりますが、同年九月四日に東光山玉蓮寺が創立されています。日蓮聖人のご洗足の井戸が霊跡となっています。

一四日は上野国甘羅郡(群馬県藤岡市)粟津(須)の、長谷川長源の館まで児玉時国が案内し、日蓮聖人はここに泊まられたといいます。佐渡赦免の帰路にも寄られたといい、のちに、自邸を寺として常栄山長源寺と名付け、文禄二(一五九三)年に藤岡城主の室(了源院殿日脱大姉)が藤岡に寺を移して、福寿山天竜寺と改称したといいます。日蓮聖人ご親筆の「方便品十六字」が宗宝となっています。(『日蓮宗寺院大鑑』二九六頁)。日蓮聖人はこの藤岡をとおり、大樹のもとに休息されたといい、のちに石塔に経題が刻まれたといいます。近くの村の中村勘左右衛門の宅により休まれたとも伝えます。(『高祖年譜攷異』)。藤岡の天龍寺に「御小憩の旧跡」があると伝えます。(小川泰堂居士『日蓮聖人真実伝』二八二頁)。

おもな祖伝は、ここまでしか記載されていません。このあとの寺泊までの六日間の行程は不明です。高崎からは三国峠を越える三国街道と、碓氷峠から信濃路を通って、寺泊に行く北国街道の二通りあります。三国街道は中仙道高崎宿から分かれ、越後国寺泊へ至り佐渡へ渡る街道、現在は国道一七が通っています。北国街道は中山道追分宿から分かれ、善光寺を経て越後国高田へ至る街道です。高田からは上越、柏崎を通り寺泊に行きます。鎌倉時代の街道とすれば北国街道を、上野国(群馬県)、碓氷峠を越えて、信濃国(長野県)の善光寺を通り、越後国(新潟県)に入り、野尻峠を越え国府(直江津)を通る行程ではないかと思います。

とくに信濃は頼朝以来、将軍家の知行国となります。頼朝は文治三(一一八七)年に焼失していた善光寺を復興させるため、信濃一国の勧進上人を起用しました。これいらい幕府の執権も善光寺を外護しています。比企能員が滅亡(一二〇三年)し、泉親衡の反乱(一二一三年)の静定後は北条氏が守護職となり、信濃一帯に北条氏が台頭していました。承久の乱(一二二一年)のときは、北条朝時が大将軍として四万の兵士を引き連れ、北陸道から京都へ攻め入っています。五月二二日に鎌倉をたち五月三〇日に国府に入り蒲原に進んでいます。

また、、鎌倉にも新善光寺が建てられ、大仏殿建立も名越氏の善光寺信仰とかかわりがあります。鎌倉の大仏造像については不明なところが多いのですが、日蓮聖人の『兵衛志殿御返事』に、

 

「なこえの一門、善覚寺、長楽寺、大仏殿立てさせ給」(一四〇六頁)

 

などの遺文をもとにして、名越氏とのつながりがのべられています。(塩澤寛樹著『鎌倉大仏の謎』二四一頁)。名越氏は承久の乱のときに北陸街道を進んだ朝時の系統で、朝時は善光寺の大檀越になるように子息に遺言しているほどの、強い善光寺信仰をもっていました。遺文に「善覚寺」とあるのは「新善光寺」のことで、名越に建てられたことも頷けます。

また、日蓮聖人とうじの新善光寺の別当は道阿道教でした。道阿道教は周知のように「念仏者の主領」とよばれた念仏者です。この良忠も千葉一族の帰依をうけ下総にて、専修念仏を布教していました。下総は富木氏をはじめとして大田・曽谷教信氏が居住していたところです。良忠が鎌倉に入ったのは正嘉二年から弘長二年といわれ、鎌倉大仏の勧進聖である浄光と知り合い、その縁で北条朝直と大仏時遠父子の帰依をえます。そして、大仏氏の寄進によって建立されたのが悟真寺です。つまり、良観や道教などが日蓮聖人に危害をあたえようと思えば、容易に包囲網を張ることができた、ということです。

また、連署の北条義政は建治三(一二七七)年に善光寺に参詣し、所領の塩田(上田市)に出奔したほどです。このように、善光寺の浄土信仰が盛んであったので街道が発達していました。中山道の洗馬宿(せば。塩尻市)から、松本・麻績(おみ)・篠ノ井追分(長野)をへて、善光寺に通じる北国往還も北国街道とよばれ、善光寺道とも称されていました。(『北国街道』街道の日本史25。九頁)。

鎌倉から善光寺への道中を知る史料として、鎌倉時代後期の極楽寺の僧明空の作と伝える『宴曲抄』があります。明空は仁治(一二四〇~一二四三)年間の生まれで、日蓮聖人より二〇才ほど若年となります。日蓮聖人が鎌倉にいたときに同じく極楽寺にいたともいえます。このなかに鎌倉から善光寺詣りの道中の宿所などが記されていますので、参考に揚げてみます。

 

・「善光寺修行」
「信濃(しなの)の木曽路(きそぢ)甲斐(かひ)の白根(しらね)、思(おも)ひを雲路(うんろ)にはこばしめ、旅客(りよかく)の名残(なごり)数行(すかう)の涙、情(なさけ)を餞別(せんべつ)の道に顕(あらは)す、穂屋(ほや)の薄(すすき)のほのかにも、伏屋(ふせや)に生(おふ)る帚木(ははきぎ)を、有(あり)とばかりもいつか見む、吹送(ふきおくる)由井(ゆひ)の浜風(はまかぜ)音たてて、頻(しきり)によする浦浪(うらなみ)を、なを顧(かへりみ)る常葉山(ときはやま)、かはらぬ松の緑の、千年(ちとせ)も遠(とほ)き行末(ゆくすゑ)、分(わけ)すぐる秋の叢(くさむら)、小萱(をかや)刈萱(かるかや)露ながら、沢辺(さはべ)の道を朝立(あさだち)て、袖(そで)うちはらふ唐(から)ころも、きつつ馴(なれ)にしといひし人の、干飯(かれいひ)たうべし古(いにしへ)も、かかりし井手(ゐで)の沢辺(さはべ)かとよ、小山田(をやまだ)の里に来(き)にけらし、過来方(すぎこしかた)を隔(へだつ)れば、霞(かすみ)の関(せき)といまぞしる、思(おもひ)きや我(われ)につれなき人をこひ、かく程(ほど)袖をぬらすべしとは、久米河(くめがは)の逢瀬(あふせ)をたどる苦しさ、武蔵野(むさしの)はかぎりもしらずはてもなし、千種(ちくさ)の花の色々(いろいろ)、移(うつろ)ひやすき露の下に、よはるか虫(むし)の声々(こえごゑ)、草の原より出(いづ)る月の、尾花(をばな)が末(すゑ)に入(いる)までに、ほのかにのこる晨明(ありあけ)の、光も細き暁(あかつき)、尋(たづね)てもみばや堀兼(ほりかね)の、出難(いでがた)かりし瑞籬(みづかき)の、久(ひさし)き跡(あと)や是(これ)ならむ、あだながらむすぶ契(ちぎり)の名残(なごり)をも、深くやおもひ入間河(いるまがは)、あのこの里(さと)にいざ又とまらば、誰にか早(はや)敷妙(しきたへ)の、枕ならべんとおもへども、婦(いも)にそはずのもりてしも、落(おつ)る涙のしがらみは、げに大蔵(おほくら)に槻川(つきがは)の、流(ながれ)も早く比企野(ひきの)が原(はら)、秋風はげし吹上(ふきあげ)の、梢(こずゑ)も寂しくならぬ梨(なし)、打渡(うちわた)す早瀬(はやせ)に駒(こま)やなづむるん、たぎりて落(おつ)る浪の荒河(あらかは)行過(ゆきすぎ)て、下にながるる見馴河(みなれがは)、見なれぬ渡(わたり)をたどるらし、朝市(あさいち)の里(さと)動(どよむ)まで立(たち)さはぐ、是(これ)やは児玉(こだま)々鉾(たまぼこ)の、道行人(みちゆきびと)にこととはん、者(もの)の武(ふ)の弓影(ゆかげ)にさはぐ雉(きじ)が岡(をか)、矢並(やなみ)に見ゆる鏑川(かぶらがは)、今宵(こよひ)はさても山な越(こえ)ぞ、いざ倉賀野(くらがの)にとどまらん、夕陽(せきやう)西に廻(めぐり)て、嵐(あらし)も寒(さむき)衣沢(ころもざは)、末野(すその)を過(すぎ)て差出(さしいで)や、豊岡(とよをか)かけて見わたせば、踏(ふみ)とどろかす乱橋(みだればし)の、しどろに違(ちがふ)板鼻(いたばな)、誰(たれ)松井田(まつゐだ)にとまるらん。」

この『宴曲抄』からつぎの地名がわかります。「由比の浜(鎌倉市由比ヶ浜)、常葉山(鎌倉市大仏坂北西の常葉)、村岡(藤沢市宮前付近)、柄沢(藤沢市柄沢)、飯田(横浜市戸塚区の境川左岸)、井出の沢(町田市の本町田)、小山田の里(町田市小野路町)、霞の関(多摩市関戸)、恋が窪(国分寺市の東恋ヶ窪・西恋ヶ窪)、久米川(東村山市の所沢市との境付近)、武蔵野(所沢市一帯)、堀兼(狭山市堀兼)、三ツ木(狭山市三ツ木)、入間川(右岸に宿があった)、苦林(毛呂山町越辺川南岸の苦林宿)、大蔵(嵐山町大蔵)、槻川(嵐山町菅谷の南を流れる川で都幾川と合流する)、比企が原(嵐山町菅谷周辺)、奈良梨(小川町の市野川岸の奈良梨)、荒川(寄居町の荒川)、見馴川(児玉町を流れる現在の小山川)、見馴の渡(見馴川の渡)、児玉(児玉町)、雉が岡(児玉町八幡山)、鏑川(藤岡市と高崎市の境を流れる)、山名(高崎市)、倉賀野(高崎市倉賀野町)、衣沢(高崎市寺尾町)、指出(高崎市石原町付近)、豊岡(高崎市の上・中・下豊岡町)、板鼻(安中市板鼻)、松井田(松井田町)」(『鎌倉街道上道』埼玉県編)。

 つづいて、松井田から碓氷峠・離山コースにて善光寺への道筋を謡っています。


「野辺(のべ)より野(の)べを顧(かへりみ)て、野外(やぐわい)の煙(けぶり)片々(へんへん)たり、山より山に移(うつり)来て、重山(ちようざん)遥かによぢ上(のぼり)、雲雀(ひばり)は翅(つばさ)を雲に隠し、哀猿(あいゑん)は叫(さけん)で霧に咽(むせ)ぶ、苔(こけ)踏(ふみ)ならす副伝(そはづたひ)、向へる尾上(をのへ)の盤折(つづらをり)、椎柴(しひしば)※柴(ふししば)楢柴(ならしば)に、枝さしかはす白樫(しらかし)、禿(かぶろ)なる樹(うゑき)駿(するど)なる、槇(まき)の立枯(たちがれ)陰(かげ)さびし、岩間(いはま)に漲(みなぎ)る滝の音、巌洞(がんとう)に響(ひびく)松嵐(しようらん)、取々(とりどり)なるあはれは、山路(さんろ)の旅の秋の暮、青葉こそ山のしげみの木陰(こかげ)なれ、いざ立寄(たちより)てかざしとらむ、一村雨(ひとむらさめ)のやすらひに、未(まだ)染(そめ)やらぬ紅葉(もみぢ)ばの、薄紅(うすぐれなゐ)の臼井山(うすゐやま)、思ふどちは道行(みちゆき)ぶりもうれしくて、いかで別れむ離山(はなれやま)の、其名(そのな)もつらし過(すぎ)なばや、雲間(くもま)にしるき明方(あけがた)の、浅間(あさま)の煙(けぶり)にまがふは、高根(たかね)に残る横雲(よこぐも)の、跡(あと)よりしらむしのの目(め)、日影(ひかげ)のどけく莫(なぎ)の松原はるばると、へだつる方や葛原(かづらはら)の、里より遠(をち)の程ならん、深(ふかさ)はしらず桜井(さくらゐ)に、花の白浪(しらなみ)散(ちり)かかり、かすめる空ぞおぼつかなき、望月(もちづき)の駒(こま)牽(ひき)かくる布引(ぬのびき)の山の違(そがひ)に見ゆるは、海野(うんの)白鳥(しろとり)飛鳥(とぶとり)の、飛鳥(あすか)の川にあらねども、岩下(いはした)かはる落合(おちあひ)や、淵は瀬になるたぐひならん、富士の根(ね)の姿に似たるか塩尻(しほじり)、赤池(あかいけ)坂木(さかき)柏崎(かしはざき)、同(おなじ)雲居(くもゐ)の月なれど、何の里もかくばかり、よも佐良科(さらしな)と見ゆるは、姨捨山(をばすてやま)の秋の夜(よ)、筑摩(ちくま)篠の井(ゐ)西川(さいがは)、さまざまの渡(わたり)を越過(こえすぎ)て、既に彼所(かしこ)に詣(まうで)つつ、倩(つらつら)思(おもひ)つづくれば、幽(かすか)に伝聞(つたへきく)、西天月氏(さいてんぐわつし)の古(いにしへ)、信心(しんじん)の窓を照(てら)しては、三尊(さんぞん)光を並(ならべ)つつ、紫磨金(しまごん)の尊容(そんよう)、東土日域(とうどじちゐき)の今(いま)、眠前(まのあたり)結縁(けちえん)絶ずして、利益(りやく)を普(あまねく)施す、かたじけなくも十万億刹(じふまんおくせつ)の堺を過(すぎ)、妙覚果満(めうかくくわまん)の台(うてな)を出(い)で、粟散辺地(そくさんへんち)を猶(なほ)捨(すて)ず、濁世(ぢよくせ)の塵(ちり)にまじはる、故有哉(ゆゑあるかな)や本願(ほんぐわん)の、あの難化難度(なんけなんど)の誓(ちかひ)ならむ」(「早歌『善光寺修行』と参詣の旅」)。

ここに、宴曲の巧みさのなかに、諸処の地名などが謡いこまれているのがわかります。たとえば、臼井山(碓氷)・離山・深沢・桜井・望月・浅間・布引・海野・白鳥・岩下・落合・塩尻・坂木・柏崎・佐良科(更級)・姥捨山(冠着山)・筑摩川・篠の井・西川(犀川)などが見えます。高崎から松井田、中山道を碓氷峠、右に離山を見ながら善光寺に通じる道です。善光寺の信仰を知る手がかりにもなります。

これらの街道筋を参考にして、一五日から善光寺まで、そして、国府・柏崎・寺泊に着く二一日までを大雑把に仮定してみたいと思います。一五日は、藤岡市の粟津を出立して高崎をとおり追分(軽井沢)にむかいます。追分からは建場(立場)という通行人の休憩所や民家が少なくなります。このことは、江戸時代の越後高田藩の鈴木左仲が書いた『東都道中分間絵図』にあり、建場があるのは馬瀬口村(北佐久群御代田町)の枝 郷三ツ谷です。ここから六百㍍はなれたところに馬瀬口一里塚があり、旧北国街道に築かれたといわれます。小諸は北国街道として最初の宿駅でした。「牛に曳かれて善光寺詣り」で有名な、絶壁に立つ布引観音堂があります。布引観音堂は正嘉二(一二五八)年に勧進僧の明阿弥陀仏が、大番匠の橘久継と建立しています。旧街道には天台宗の釈尊寺がありました。小県群(ちいさがたぐん)の田中ににはいります。ここまでは浅間山の雄大な姿が見えますが、これからは山間に頂上を望むだけになります。海野(うんの)にはいると日本武尊などを祭神とする白鳥神社があります。信濃国分寺をすぎて上田にはいります。

上田には北向観音堂(天台宗常楽寺)があります。寺伝によれば、平安時代初期の天長二(八二五)年に慈覚大師によって開創されたといいます。建長四(一二五二)年に、塩田陸奥守の北條国時によって再建されたと伝えられています。北向観音という名称は堂が北向きに建つことに由来しています。これは「北斗七星が世界の依怙(よりどころ)となるように、我も又一切衆生のために常に依怙となって済度をなさん」、という観音の誓願によるものといわれています。善光寺の本堂と同じ「撞木造り」で、善光寺は来世の利益、北向観音が現世の利益をもたらす、ということで善光寺のみの参拝では片参りになるという信仰があります。この地方には根強い善光寺信仰があります。また、南禅寺開山の無関普門は、建暦二(一二一二)年に、現在の長野市若穂保科町で生まれています。当地を治める保科氏・井上氏の一族であったと伝えています。七歳のときに叔父の新潟県中蒲原郡村松にある、正円寺の寂円の元にいき一三歳のときに得度します。、そのあと、塩田平(上田)の別所温泉にある長楽寺、常楽寺、安楽寺等の三楽寺や、前山寺、中禅寺などにて学問に励んでいます。(国宝・重文)。その頃、信濃国の塩田平は「信州の学海」と呼ばれ学問の中心地となっています。仏教文化も集中し「信州の鎌倉」ともよばれました。越後の出湯、上野の世良田とともに、地方の有力寺院の拠点として、権門寺院とならぶ機能をはたしていたのです。また、信濃における禅宗の拠点となり、禅宗文化の淵源の地といいます。北条義政は塩田平に定着し塩田北条とよばれます。

千曲川沿いに岩鼻と呼ばれた難所をぬけ坂木(坂城町)、戸倉、矢代(屋代)にはいります。矢代からは松代へむかう松代通り(川東通り)が最初の善光寺通りといわれ、善光寺を通る道は禁じられていた時期があります。日蓮聖人は千曲川を舟で(矢代の渡し)篠ノ井(しののい)に渡ったと思われます。江戸時代は篠ノ井追分とよばれています。篠ノ井から丹波島に向かい犀川を渡ります。この近辺は川中島と呼ばれ、洪水のたびに流路がかわり川留めが度々あったといいます。そのときには松代通りに向かったといいます。現在の小市橋(川中島町四ツ屋・安茂里小市三丁目)のあたりが、「小市の渡し」という北国の交通を担ってきた渡し(舟渡し)があったところといいます。

篠ノ井から、今井、「小市の渡し」、長野、そして、善光寺に進みます。善光寺の歴史は古く、欽明天皇一三(五五二)年に百済から伝えられたという、一光三尊阿弥陀仏を秘仏の本尊としています。(『四条金吾殿御返事』一三八一頁。『断簡二八四』二九六六頁)。中央に阿弥陀仏、左右の脇に観音・勢至という一光三尊の像で、開扉された像は前立ち本尊です。戦国時代に武田信玄が甲斐に持ち去り、慶長三(一七〇七)年に豊臣秀吉のもとから戻されています。

善光寺の由来は、蘇我・物部氏の仏教受容について賛否が分かれたときに、この阿弥陀仏は廃仏派の物部氏により難波の堀江に捨てられてしまいます。これを信濃の国司の従者として都に上った本田善光が、堀江の中から拾い出して信濃に祀ったのが始めといいます。皇極天皇元(六四二)年の創建と伝えます。この後、一一世紀には京の貴族を中心に浄土信仰が盛んになり、善光寺聖と呼ばれる修行僧が、本尊の分身仏を背負い全国を行脚して信仰を広めます。これを善光寺信仰といい弥陀の浄土信仰として流行しました。

この信仰は鎌倉時代にも引き継がれ、頼朝を始めとして北条一門が帰依し、善光寺に田地を寄進するなど護持に尽力していました。東大寺を再建した重源や親鸞なども参詣しています。ちょうどこの年の春に、一遍が北陸から越後国府をへて善光寺に来ていました。そして、『一遍聖絵』によれば参籠に参籠を重ねた末に、阿弥陀仏いがいに救済の道はないとして、「二河白道」の図を本尊として描いたといいます。「二河白道」は善導の『散善義』に説かれた譬えで、人が西に向かっていくと、忽然と二つの河に出会う。北に水の河、南に火の河があり、その間に一筋の白い道が西に延びている。その白い道は、絶えず両側から押し寄せる火と水にせめられ、歩行が困難である。この「水の河」とは衆生の執着心を、「火の河」は衆生の怒り憎しむ心を、「白道」は極楽往生を願う清浄の信心を表すとされ、一心に白道を直進することで、西岸の浄土にわたることができるという説話です。この「二河白道図」を携えて一遍は故郷に帰り、浮穴郡の窪寺というところに閑室を構え、その東壁にこの図を本尊としてかけて、念仏三昧に入ったといいます。そして、翌々年から全国の霊場巡りをはじめます。

となりの大井莊落合の新善光寺は、寛元二(一二四四)年に本尊の一光三尊阿弥陀仏を鋳造し、建長元(一二四九)年からは不断念仏をはじめていました。このような弥陀信仰と北条氏の領地であることから、日蓮聖人がこの善光寺を通ることは、非常に危険なところであったのです。警護の兵士としては善光寺周辺の念仏信徒の暴挙が心配されるところでした。

 善光寺からは国府がある直江津(上越)に進むのが順当です。警護の兵士にまもられて善光寺を無事に通過し、北国街道の面影を残している相ノ木通りをへて、三輪・吉田・新町、そして牟礼に向かいます。牟礼を過ぎると難所の小玉坂があります。坂上からは黒姫山が見え戸隠山も望まれます。冬期には積雪が多いという古間(信濃)を過ぎるとすぐに柏原にはいり、戸隠山に向かう道があります。面積三、九平方㌔、水深約四〇㍍、貯水量第一の野尻湖を右手にして、信濃・野尻の豪雪地帯から田切に進みます。田切は関川に注ぐ大田切川、小二俣川などの川があり、中山道(なかやまみち)最大の難所といわれました。

関山に進みますと関山神社があります。関山神社の創建は和銅元(七〇八)年に、妙高山(神奈山)で修行していた裸行上人が、悪疫が流行したので関山村に里宮をつくり、文殊・観音菩薩などを勧請したといいます。のちに、空海が嵯峨天皇に奏上し社殿を再建しました。延喜式神名帳に記載されている神社で、当初は妙高山関山三社権現と称し、別当関山宝蔵院、奥の院を妙高堂(本尊は妙高三尊阿弥陀如来像)として、真言宗の山岳信仰の道場となりました。鎌倉時代には木曽義仲の帰依がとくに篤かったといいます。関山神社には銅造二〇、三㌢の菩薩像がご神体となっています。羅災のため状態はよくありませんが、法隆寺夢殿の木造観音菩薩像に似ており、朝鮮三国時代に日本にもたらされたと推測されています。また、平安から鎌倉時代にかけての石仏群が文化財に指定されています。

関山から松崎(中郷)・日本木・新井を通り高田(上越)、国府(直江津)に入ります。新井から東に入った板倉町は豪族三善氏が勢力をもっており、この三善家の娘が親鸞の妻恵心尼といいます。親鸞が流罪されて六四年後にこの地を通ります。親鸞は承元元(一二〇七)年二月上旬に越後国府に流罪になり、居多ヶ浜(上越市五智)に上陸しています。時を同じくして、親鸞の伯父、藤原宗業が越後権介となっています。また、承元三年六月一九日付けの「遣北陸道書状」に、北陸道に一念義が盛行していた記載があり、元久二(一二〇五)年の「興福寺奏状」にみられるように、法然の専修念仏の僧尼が北陸にも及んでいたと思われます。親鸞がくるまえに一念義は流行していたことになります。さらに、九条兼実の所領が越後の笹倉莊にあり、三善氏の三善莊も恵心尼とうじは近辺にあったといわれており、なんらかの意図があって国府に流罪されたように思えます。(松野純孝著『親鸞―その行動と思想』一六一頁)。親鸞は三五才から、健保二(一二一四)年の四二才まで、流罪生活を送りました。親鸞は『延喜式』に準じたのか還俗させられています。親鸞と恵心尼には三男三女の子女がおり、小黒女房、善鸞、つぎの信蓮房明信は承元五年三月三日に生まれています。妻の恵心尼は文永五年に八七才にて没し、晩年に板倉町米増に居住したとして、西本願寺はここを廟所としました。親鸞の弟子に国府に住む覚善がいます。覚善をリーダーとした越後門徒は、この山寺(板倉町東山寺)周辺に形成されたといいます。

日蓮聖人がここを通るときには、天台系の念仏が流布しており、親鸞の子、明信は文永五年に寺泊野積の山寺(現在、真言宗智山派、海雲山西生寺、本尊上生阿弥陀如来)にて、不断念仏をしています。板倉から少し進んだ高田の北本町に、曹洞宗の国巌寺がありました。現在は同市内に移転しましたが、北本町に国巌寺があった北側に「南無妙法蓮華経」の碑があるといいます。(『北国街道』街道の日本史25。五六頁)。上越市の寺町に、文永一一年に創建された日朝寺と建治元年に創建された常顕寺などがあります。由緒については後述いたします。

越後国府の所在地については、直江津説(上越市)・国賀説(国衙。新井市)・今府説(妙高村)・国川説(板倉町)・今池説(上越市)などの諸説があります。古くは頸城(くびき)といいました。直江津は今町といい当時から湊がありました。国府には『古事記』に登場する大国主命と、奴奈川姫(ひすい)などを祀る居多(こた・けた)神社と、天平(七二九~四九)年間にに聖武天皇の勅願によって建てられた五智国分寺があります。居多神社は出雲勢力が越後に進出する拠点となりました。越後国分寺の分祀とされ本尊を大日如来像、薬師如来像、宝生如来像、釈迦如来像、阿弥陀如来像の五智如来を祀っていることから五智国分寺といいます。現在の五智国分寺は上杉謙信が円通寺跡に移築したところといい、創建当時の国分寺の位置は不明で、海中に没したという説もあります。所在地に直江津説(海中埋没説)・田井説(坂倉町、小子名国分寺がある)・本長者原廃寺跡説(上越市)・栗原説(新井市)などがあり、上越市の本長者原廃寺跡が有力とされています。承元(一二〇七~一一)年間に、越後へ流された親鸞上人が、国分寺に滞在した旧跡となっています。

国府の海岸からは右手の出雲崎から佐渡へ渡る佐渡路を進みます。関川をとおり湊のある柏崎をすぎ、出雲崎が北国街道の終点となります。ここから一二㌔ほど北上すると寺泊につきます。刈羽郡(柏崎市)・魚沼郡(小千谷市)・古志郡~三島郡(長岡市)・蒲原郡(新潟・新発田市)は、弥陀信仰が多く時宗の踊り念仏も流行します。蒲原地方は親鸞の浄土真宗が多く、真宗王国越後の淵源がうかがえます。

以上のことから、日蓮聖人は一五日に栗須を経ち、碓氷峠をこえて善光寺の近くの信濃の吉田を通り、越後の国府(直江津)、上越、柏崎を経て、七日目の二一日、依智を出立してからは一二日をへて寺泊に着きます。現行の太陽暦では一一月二九日の初冬にになります。前述の①北国街道・北陸街道をあげますと、(一五日)藤岡市の粟津―山名―倉賀野―高崎―坂鼻―安中―松井田。(一六日)北国街道に入り=碓氷峠=追分―小諸―田中。(一七日)―海野―上田―坂木―下戸倉・上戸倉―矢代(屋代)。(一八日)―丹波島―善光寺―新町―牟礼―古間―柏原―野尻。(一九日)―関川―田切―関山―松崎・二本木―新井―高田―国府。(二〇日)越後の海岸路に入り、―柏崎。(二一日)―寺泊に到着された、と推測されます。

この間は罪人として冷遇されたのでしょう。護送の兵士がいたので、ある程度の宿は確保できたと思われます。しかし、満足な宿舎や食事も満足に与えられず、寒風にさらされるような野宿に近いことがあったと思われます。また、罪人としてよりも弥陀の敵、父母の敵として、迫害されながらの道中であったと思われます。本書に、

 

「今月十月也十日起相州愛京郡依智郷付武蔵国久目河宿経于十二日付越後国寺泊津。自此亘大海欲至佐渡国。順風不定不知其期。道間事 心莫及又不及筆。但暗可推度。又自本存知之上始非可歎止之(五一二頁

と、一二日間を経て寺泊に着いたことをのべ、佐渡へ渡る不安とあわせ、道中のことは想像をはるかに超え、筆舌に尽くしがたいほど、苛酷なものであったことがうかがえます。日蓮聖人の心中を心の中で暗に推量するようにと、詳しいことはのべていませんが、かなりな難路であったことと、道中での冷遇がうかがえます。信州・越後は山高く険しく地気寒冽の風土ですので、そこに生活する人の気質は勇敢剛烈になり、氷霜の酷苦にあっても志操をかえないといいますので(義堂周信)、熱烈な浄土・禅・真言の信徒は日蓮聖人を排撃したのでしょう。日蓮聖人は悪口や罵倒のみならず石を投げつけられ、棒で殴られたことかもしれません。その証拠として本書に、法師品・安楽行品の「而此経者 如来現在猶多怨嫉況滅度後」「一切世間多怨難信」の文と、『涅槃経』三十八の「爾時一切外道衆咸作是言大王、今者唯有一大悪人瞿曇沙門。一切世間悪人為利養故往集其所而為眷属不能修善。呪術力故調伏迦葉及舎利弗・目犍連等」の文を引いていることからうかがえます。『涅槃経』の文を

 

「以在世惟滅後一切諸宗学者等皆如外道。彼等云 一大悪人者当日蓮。一切悪人集之者 日蓮弟子等是也。彼外道先仏説教流伝之後 謬之後仏為怨。今諸宗学者等亦復如是。所詮依仏教起邪見」(五一二頁)

 

と、解釈されたのは良観などの諸宗の者が、日蓮聖人を悪人とし弟子たちも悪人としたのは、釈尊在世の外道と同じであることを示されました。日蓮聖人の処遇がそれと似ていることを例えたのです。『法蓮鈔』によりますと、佐渡に遠流されることは、生きて帰ってくることのない死罪と同じであるとのべています。

 

「殊に今度の御勘気には死罪に及べきが、いかが思はれけん佐渡の国につかはされしかば、彼国へ趣者は死は多、生は希なり。からくして行つきたりしかば、殺害謀叛の者よりも猶重く思はれたり。鎌倉を出しより日日に強敵かさなるが如し。ありとある人は念仏の持者也。野を行き山を行にも、そば(岨)ひら(坦)の草木の風に随てそよめく声も、かたきの我を責むるかとおぼゆ。やうやく国にも付ぬ」(九五三

 

と、鎌倉から離れるほど殺人者や謀反人よりも罵り憎まれたとのべています。「そば」(岨)は「そわ」ともいい、山の崖が切りたってけわしい絶壁のことをいいます。ひら(坦)は土地や道路などの平らなところをいいます。つまり、道中の野山に崖があれば、そこから突き落とされるのではないかと思い、平坦な道路を歩けば日蓮聖人の姿が発見されやすく、遠方からも敵が殺害に来るのではないかと思ったのです。風のかすかな音、草木がなびくたびに、誰かに殺されると思ったのです。とくに、一五日いこうの宿泊の地においては、辛い道中であったことがうかがえます。この惨状を口にし書状にも記すことができないほど辛かったのです。

 二一日の夕方、寺泊の津に入ります。津とは港のことで佐渡に渡航する船着き場が有ったところをいいます。この場所は順徳天皇が佐渡に渡航した王潤(おうま)か古泊といいます。潤とは北陸特有の言葉で海岸の船着き場や舟引き揚げ場をいうそうです(田中圭一著『日蓮と佐渡』一六頁)。古くは渡戸(わたりべの)駅といい寺泊付近にあったといいます。(『越後平野・佐渡と北国浜街道』街道の日本史24。八頁)。

ここの代官(駅史)である石川宇右衛門吉広が、日蓮聖人を迎え宿泊させたといいます。(『日蓮宗寺院大鑑』六一二頁)。また、宝暦六年に書かれた『越後名寄』(丸山賢純著)には、日蓮聖人が宿泊したのは大越清三郎の館であるとあります。佐渡への風待ちの七日の間に、寺泊の石川(河)屋宇右衛門吉広をはじめ、妻子一族が帰依したといいます。(小川泰堂居士『日蓮聖人真実伝』二八二頁)。石川吉広は改宗して常諦居士の法号を授かったといいます。のちに聖興山(堅光山)法福寺を建立したといいます。(『高祖年譜攷異』)。ただし、『日蓮宗寺院大鑑』によりますと、天平宝字(七五七~七六五年)のころに泰澄大師が創建し、のちに天台宗の古刹となった法華堂の住持が日蓮聖人と法論し、逆に折伏されて日蓮聖人の弟子となって日伝と改めます。そして、寺泊山(堅光山)法福寺の基礎を作ったとあります。寺伝には一〇月二二日のこのとき改宗して、日蓮聖人を開祖とし二祖に日朗上人、続いて、日像・日輪・日伝・日源・帥阿闍梨日高・日祐・日善上人と系譜されています。日蓮聖人が宿泊したという石川吉広の邸宅の跡が開山堂になります。ほか、座敷の跡、書状を認めた大士硯水の井戸(御硯水の井)が保存されています。文亀年中(一五〇一~一五〇三年)に、水利不便のため山上より現在地に移っています。

さて、寺泊に着いた日蓮聖人は熊王と、富木氏が依智から付き添わせた入道に書状をもたせて下総に帰します。このとき入道は富木氏から日蓮聖人に伴い見届けてほしい、と頼まれた事情を話しますが、日蓮聖人は幕府への憚りや、佐渡での生活を考えれば、同行しないほうが日蓮聖人のためになると諭します。入道は富木氏より預かった銭一結を渡して鎌倉に帰ります。日蓮聖人は法門を書きしるした書状を持たせます。妙一女の下人も一緒に帰したと思われます(『妙一尼御前御消息』五四歳)。この入道たちは日蓮聖人の荷物を背に負って同伴し、食料の調達など、身の回りの世話をしたと思われます。佐渡に入りただちに『開目抄』を著述されますが、多くの経典や章疏を引用されています。肝要集は弟子たちが持参したと思われますが、引用文の量からしますと、典籍もある程度は持参されたと思われます。随身仏は持参されたのでしょうか。当初は持ち込むことができなかったといいます。(浅井円道著『私の開目抄』二三頁)。

久米川からの宿場を記さなかったのは、本書をいそいで認めたため書く余裕がなかったのか、久米川いがいに宿場らしいところには泊まらなかったのか、また、日蓮聖人の心は冬の怒涛の海上の先にある佐渡を目ざしていたのかもしれません。富木氏の従者を鎌倉に帰したのは、流罪中の生命の心配をされたためでした。日蓮聖人の心中には流罪(擯出)を現実のこととすることにより、法華経の色読が実証され、そして、その境地から大事な法門を宣顕しなければならない決意をもっていたのです。そのためにも生き延びなければならないのです。

 

○「贖命重宝法門」と「或人難日蓮

佐前の最後の書といわれるのが本書『寺泊御書』です。一〇月二二日酉の時(午後六時)に執筆しています。富木氏の従者である入道に書状を持たせます。真蹟九紙は中山法華経寺に所蔵されています。

『寺泊御書』には重要な教えがのべられています。発端は日蓮聖人の強行的な布教に対して反対の意見を持つ者がおり、それに答えた書状でもありました。まず、本書が別名『贖命重宝鈔』といわれるように、『涅槃経』の第十八「贖命(ぞくみょう)重宝と申法門」についてのべます。これは『涅槃経』に盗賊や悪王に遭遇したとき、命のかわりに金品などの宝物を差し出すことにより、命が助かることを例えたもので、仏教にも命のように大事なのは法華経・涅槃経であり、それにかえる宝は爾前経とします。外道にたいしては方便の爾前経をもって外道の邪見を破り、法華経・涅槃経の円教(仏性常住)の教えを護ることが説かれています。

また、法華経に説かれている「怨嫉」「多怨」の意味は、この『涅槃経』に外道が釈尊を敵としていたのとは違い、同じ仏教の出家者のなかで法華経に敵対する者のことをさします。これは小乗に執着する声聞と縁覚であり、始成正覚の釈尊を信奉して、久遠実成の釈尊を信じない菩薩のことをさします。また、法華経を信仰しない者を含めて「怨嫉」とします。本書において、日蓮聖人がこの文を引用されたのは、諸宗の学者は釈尊在世のときの外道にあたることをいいます。そして、諸経のなかにおいて法華経が命であり、諸経が重宝であることをのべます。

鎌倉の弟子や信徒がうけた竜口法難の動揺と、影響を考えて本書を拝読しなければなりません。日蓮聖人が法華経と涅槃経の文を引用された理由を考えますと、法華経の文は仏弟子の「怨嫉」を説いていることから、日蓮聖人の弟子・信徒のなかにも疑惑をもち、日蓮聖人を批判する者がいたことを示唆しています。『涅槃経』は仏弟子いがいの外道の邪見を説いたものですから、日蓮聖人の教団いがいの天台宗などの他宗から、日蓮聖人を批判する者を例えているといえます。

『涅槃経』の「贖命重宝」とは、「贖」は償うということで大切な宝を差し出して、それよりも大事な命に代えるという喩えです。命である法華経を護るため、爾前経と涅槃経が重宝の役目を果たしたことを説いています。つまり、法華経は諸経中の命にあたる最勝の教えであることをいいます。本書には諸宗のなかにおいても特に真言宗の祖師は、大日経と法華経の勝劣を弁えず、印・真言にとらわれているが、肝心なこの理論をわきまえずに僻案を説いていることを邪見とし、「謗法の失」とのべています。また、印・真言に捉われるならば法華経にも印・真言が説かれており、訳者が省略しただけであるとのべます。法華経に「為説実相印」・「我此法印」と印があり、「皆是真実」の文を真言と解釈できます。(『真言見聞』・『開目抄』)。そして、「贖命」とは法華経であり、その法華経を弘通するために不惜身命の覚悟を持った日蓮聖人が「重宝」となる解釈ができます。

つぎに「法華経の行者」が迫害を被ることの必然性、つまり、値難についてのべていきます。「或人」が日蓮聖人を「難じて云く」として、敵対者の詰問を四項目としてあげます。これは、日蓮聖人を批判していた者たちの言い分を列挙したものです。

 

或人難日蓮云 不知機立麁義値難。 或人云 如勧持品者 深位菩薩義也。違安楽行品。或人云 我存此義不言[云云]。 或人云 唯教門計也。理具我存之」(五一四頁)

 

1、機根を知らずに、荒々しく折伏をするから難にあう。

2、勧持品は位の高い菩薩が行うことで、末法の位の低い者(日蓮聖人)は安楽行品の柔軟な摂受を行なうべきである。これに背くから大難にあうのである。

3.自分も折伏すべき義を知っているが、日蓮聖人のように言わないだけである。

 4.日蓮聖人の弘通は教相の差別の一面ばかりをみて、重要なのは観心であり自分はそれを知っている。

 

このような日蓮聖人に対しての批判がありました。日蓮聖人の弟子のなかにも、折伏の一方的な主張は同意できないとし、柔軟に適合した弘教をすれば法華経が広まると批判していたのです。日蓮聖人はこの1~4の詰問に答えて、つぎのようにのべています。

 

卞和切足。清丸給于穢丸云名欲及死罪。時人咲之。雖然其人未流善名。汝等邪難亦可爾。勧持品云 有諸無智人悪口罵詈等[云云]。日蓮当此経文。汝等何不入此経文。及加刀杖者等[云云]。日蓮読此経文。汝等何不読此経文。常在大衆中欲毀我等過等[云云]。向国王大臣婆羅門居士等[云云]。悪口而顰蹙数数見擯出。数々者度々也。日蓮擯出衆度。流罪二度也。法華経三世説法儀式也。過去不軽品今勧持品。今勧持品過去不軽品也。今勧持品未来可為不軽品。其時日蓮即可為不軽菩薩」(五一四頁)

卞和(べんか)と清丸はともに正義を主君にのべて流罪にあった人物で、後世に賢人として高名になっています。日蓮聖人もこの人物のように流罪には会うが、自分の主張は後世には賢人と認められるとのべたのです。ここに、「法華経色読」と「不軽菩薩」・「三世諸仏の説法の儀式」がのべられています。この三つに共通する「三世諸仏の説法の儀式」とは、法華経の方便品に説かれた五仏章のことで、いかなるときも諸仏は必ず最後に法華経を説くことが定まっているとのべます。つまり、過去の不軽菩薩が未来に釈尊となって法華経を説かれたように、過去に釈尊が説いた法華経(勧持品)を、末法のいま日蓮聖人が色読しているとのべます。そして、現在の日蓮聖人の色読は、未来には過去の不軽菩薩のように説かれると日蓮聖人はのべています。この法華色読の行者としてみるならば、不軽菩薩と日蓮聖人は同一の行動をしたといえます。つまり、日蓮聖人の弘教のあり方を経文によって正しいことを示されたのです。

つづいて、宝塔品の「三箇の勅宣」(付属有在・令法久住・六難九易をいいます)と、勧持品の大菩薩の誓言は、悪世末法の始めに法華経を弘通することを説いているとのべます。末法に法華経を弘通している者は、経文にしたがえば釈尊の仏使となります。ここに、日蓮聖人は今この時、これに該当する僧侶は誰かを問い質します。

 

「至流通宝塔品三箇勅宣令被霊山虚空大衆。勧持品二万・八万・八十万億等大菩薩御誓言不及日蓮浅智但恐怖悪世中経文指末法始也。此恐怖悪世中次下安楽行品等云 於末世等[云云]。同本異訳正法華経云 然後末世。又云 然後来末世。添品法華経云 恐怖悪世中等[云云]。当時当世三類敵人有之但八十万億那由他諸菩薩不見一人如乾潮不満月虧不満。清水浮月植木棲鳥。日蓮八十万億那由他諸菩薩為代官申之。彼諸菩薩請加被者也」(五一五頁)

 

すなわち、勧持品の経文のとおりに三類の強敵が現前している現状に、日蓮聖人は自身の色読により、勧持品の菩薩を代表する者という意識を表明されました。3の批判は当座の受難を恐れた言い逃れにすぎません。4の批判については勧持品の経文を如説に色読したことが観心の真意ですが、『観心本尊抄』に日蓮聖人のその「観心門」がのべられていきます。末筆に富木氏の家人を帰還させることと、太田・曽谷氏など信徒に、本書の大事な教えを伝えてほしいことをのべ、土牢に幽閉された日朗上人などの安否などを知らせてほしいとのべています。

 

○寺泊から塚原まで

 

寺泊にて佐渡に渡る順風を待ち六日間滞留しました。初冬の日本海は北西から強く吹く風で、佐渡に渡るには難儀な時期でした。この書状のなかで、佐渡渡島の不安と相模依智からの道中についてのべています。また、依智からの道中のことは、思い起こすことさへ苦しく悲しいことばかりで、文章に表現できないほど難儀であったとのべています。推量をはるかに超えた道中だったのです。

 

「これより大海を亘って佐渡の国に至らんと欲するに順風定まらず、その期を知らず。道の間の事、心も及ぶことなく、また筆にも及ばず。ただ暗に推し度るべし」(原漢文、五一二頁)

 

 現行の太陽暦では一一月二九日に寺泊に着きました。この時期は佐渡への渡航が危険なときでした。北西の強い寒風が吹き出します。遠浅の寺泊の津に打ちつける波も強く、船を護岸に停泊させることでさえ危険であり、この地の慣習では一〇月初旬には航海を終え、船は陸に引き揚げられているころといいます。しかも、ふつうは二人で漕ぐ船の櫓も、冬のこの季節には八人の漕ぎ手が必要だったといいます。(中尾尭文著『日蓮』一四二頁)。

依智を出立した時節は、佐渡へ無事に渡航するギリギリの時だったのでしょう。海上の天候が悪く寺泊に六日間逗留することになります。二七日に一度、寺泊を出航しましたが、逆風にあい吹きもどされて少し北の角田の磯に漂着しています。(中尾尭文著『日蓮』一四四頁)。石田五郎、遠藤治部の二人は、角田の浜の洞窟に毒蛇が生息し、多くの人命を奪ったというところがあるので、毒蛇強伏の祈願を頼みます。この角田浜に正和二(一三一三)年に日朗上人の弟子である日印上人が、角田山妙光寺(前は妙法寺)などの三ヶ寺を建てています。日蓮聖人の寂後三一年目になります。この頃の人々は佐渡へ流された者は、佐渡へ行く途中の海上で難船にあうか病死するかで、無事に佐渡に行くことさえ容易ではないといわれ(影山堯雄著日蓮宗布教の研究』二七頁)、この時期の出航は非常に危険なことであったのです

 

 ・寺泊から塚原三昧堂まで

  一〇月二一日   越後寺泊に着く

     二七日   寺泊を出港するが角田の浜に漂着

     二八日   佐渡松ヶ崎に着く。ここで一泊

     二九日   本間重連の守護所に着く(ここで二泊する)

     三〇日   謫居の住まいを決める

  一一月一日    本間重連の「屋敷の後ろ」にある塚原三昧堂に移る

 

日蓮聖人が佐渡に着いた日は明らかではありません。(『日蓮の生涯と思想』講座日蓮2、三八頁)。ただし、『種種御振舞御書』(九七一頁)には二八日に佐渡に着いたとのべています。言い伝えによりますと、日蓮聖人を乗せた船は翌二八日に佐渡へ向けて船出をしますが、冬の季節風に海上が荒れたといいます。日蓮聖人が題目を唱えると波が静まり好天に恵まれて、佐渡の羽茂郡松ヶ崎の甲の瀬(国府の瀬)に着岸したといいます。(小川泰堂居士『日蓮聖人真実伝』)。すなわち、佐渡の畑野町の松ヶ崎(眞崎浦。松前。まつさき)に着いたと伝えています。(『本化別頭仏祖統紀』)。また、同日の夜に江島の浜に着船したといいます。また、松ヶ崎のなかでも北東にある舟付ともいいます(田中圭一著『日蓮と佐渡』二〇頁)。

寺泊から佐渡へは直線で四六㌔の距離です。漁師の舟で六時間の行程といいます。松ヶ崎の鴻ノ瀬(国府の瀬)浜は佐渡と本土の最短距離で、当時は佐渡の公の港であり古代北陸道の佐渡始発の所でした。この時期は初冬の落葉した寂しい景色と、漆黒の浪が怒涛のように押し寄せる暗いときなので、通常の人でしたら憂鬱な気持ちになるでしょうが、日蓮聖人は本化上行の立場から教えを伝える使命感を強くされていたと思います。松崎より佐渡路に入ります。古代(奈良・平安時代)、佐渡に三駅が置かれました。松崎・三川・雑田(さわた)です。各駅には駅馬各五疋置かれたといいます。松崎は現在の畑町松ヶ崎で、こうの瀬(国府の瀬?)という地名が残っており、越後の寺泊からの港津です。(『日本交通史辞典』四〇六頁)。松ヶ崎には国府の津として番所が設けられ、流人はこの津にはいりました。

着岸の聖地として松寄(松崎)山本行寺が建てられています。寺伝によりますと真言宗の仏善(寿)坊という僧の庵があり、仏善坊は塚原問答のおりに日蓮聖人の弟子となり、仏善坊日量という法名をいただきます。弘安二年に自らの庵を改宗して日蓮聖人を開山と仰いだといいます。のちに、本行寺は慶長年間(一五九六年~)に九州の菊池氏が建立しています。『日蓮宗寺院大鑑』六二六頁)。また、泉州堺の念仏者仏寿坊が住んでいて、日蓮聖人の教化をうけて入門し、そのご、身延の日蓮聖人をたずね日法上人作の祖師像をいただいて帰国し、松崎山本行寺を創始されたといいます。日量と名のり正応元(一二九二)年に没します。この祖師像は「着岸の祖師」とよばれ宗宝となっています。(本間守拙著『日蓮の佐渡越後』二一頁)。

松ヶ崎から国府までは約四㌔の山道になりますので、日蓮聖人は松ヶ崎に一泊されたといいます。守護所のある波多(畑野町下畑)まではちょうど一日の行程なので、佐渡についた旅人は松ヶ崎で一泊するのが常であったといいます。(田中圭一著『日蓮と佐渡』二六頁)。警護の役人が下知状を持参するまでこの舟付あたりで待機するようにと言われた、あるいは、佐渡の役人は案内もなくただこの道を進んで新穂の屋敷へ行くようにと命じたともいいます。日蓮聖人は旧道の山際にそって新穂へ向かい、与五衛門の欅のところに出ます。夕方になったためこの大欅の空洞に夜を過ごされ、ここの与五右衛門の家で粥をいただいたといいます。あるいは三日間ここに滞在したと伝えています。二九日の夜は雑多郡小倉の神主の邸宅に泊まったともいいます。また、本行寺から四百㍍ほどはなれた池田家の屋敷内に欅の大樹があり、第一夜を樹下の洞窟ですごされたといい、池田家に日蓮聖人の遺品として鉄鍋が残されています。(本間守拙著『日蓮の佐渡越後』二二頁)。現在の大欅は二代目で、樹齢五百年以上あり二〇㍍の高さがあります。樹洞はありません。平成二二年二月に池田家より土地の寄進をうけ、本行寺の所有となっています。

宮崎英修先生は松崎から塚原まで一五、六㌔の行程は、山谷を越える難路であるので、二八日の夜は松崎に宿泊され、二九日に守護代の本間重連がいる新穂に向かい、ここに二九日、三〇日の二日間を本間重連の館の一隅におかれたと推察しています。(『日蓮とその弟子』九五頁)。守護所に二泊ということになります。

国中の本間重連の館までは、小佐渡の山越えをしますので一日は必要でした。監視役に付き添われての道中ですので、逗留についてもお梅堂に休まれたことも、定かとはいえません。通説によりますと、多田(おおた)から河内村へ河内川に沿って進みます。波が高いときは浦河内から抜けたといいます。小倉峠(トネ)へは柿谷地道・檜山道などの旧道があります。このなかの旧道を進み小倉峠を越えます。左右に大地山(六四五、八㍍)や女神山(五九三㍍)、男神山、東境山などをのぞみ、標高四〇五㍍の峠からは、日本海と角田・弥彦、米山の山々が展望できます。このときの気候はどうだったのでしょうか。峠からは小倉川にそって下がります。駒の上や西ヶ平の民家が遠くに見えはじめます。峠からは小倉川にそって下がります。平成七年にはじまった小倉ダム工事で、大きく道筋がかわったといいます。この途中の小倉の中作為(なかさい)、岩根沢に休息をされ、日蓮聖人が依智から携えてきた星降りの梅の枝を差し置いたといいます。その梅の木が根付いた、と伝えるのがお梅堂(藤梅堂)といいます。(『畑野町史』。本間守拙著『日蓮の佐渡越後』)。

ここから、長谷寺(初瀬寺)をすぎ、寺田を通り横大道から佐渡国守護代の、本間六郎左衛門尉の守護所に着いたと伝えています。この守護所は現在の「下畑玉作遺跡」にあったとし、本間重連の屋敷はこれに隣接する、熊野神社跡という説があります現在は畑となっています。足利尊氏が夢窓疎石の勧めにより、各国の府中に安国寺を建て利生塔を祀っています。守護所の近くに安国寺が建てられたケースが多いといいます。安国寺がもとは合沢にあったとする説には、「寺社境内案内帳」にあるように、はじめから波田(畑野町下畑)に建てられたとしています。守護所の所在を合沢ではないとします。(田中圭一著『日蓮と佐渡』六四~六七頁)。しかし、小菅徹也氏によると、畑野下畑地区に国府の存在をうらずける地名はないとし、安国寺集落には鎌倉期に波多国府が存在した根拠はないといいます。同じく、守護所の所在については、壇風城址(雑多国府説)に国府の国庁があり、これを監督する守護所が雑多本間総領家の竹田城にあったとします。つまり、本間重連は竹田城(雑多元城)にいたということです。(「阿仏房元屋敷の調査報告」『現代宗教研究』第四四号二五一頁)。

この守護所に着いたのが二九日、あるいは、三〇日といいます。そして、本間重連の下知として一一月一日に、大野の郷塚原(賀茂郡新穂郷)の三昧堂に謫居になりました。この塚原の場所は新穂村大野にある根本寺ではなく、畑野町目黒町の台地といいます。熊野神社から目黒町の共同墓地・寺田の共同墓地の二百㍍あたりが、塚原の配所といいます。