151..塚原三昧堂と阿仏房夫妻                 高橋俊隆

◆◆第二章 佐渡在島

◆第一節 塚原三昧堂と『開目抄』

○塚原三昧堂の配所に入る

塚原は国中平野のほぼ中央にあります。三昧堂のあったところは正確にはわかっておらず諸説があります。日蓮聖人が佐渡に流罪され、最初に謫居されたのが塚原の三昧堂といいます。この名称からしますと両墓(埋め墓・詣り墓)制にもとづく埋墓の近傍におかれたと考えられています。(『日蓮の生涯と思想』三八頁)。

この三昧堂の跡地を記念して、現在は新穂村に塚原山根本寺が建てられています(『日蓮宗の本山めぐり』二二一頁)。その総門の左側に戒壇が設えてあり、ここが草庵のあった所と伝えています。根本寺は天文年間(一五三二年~)に大泉坊日成上人が、里の住人と一緒に祖師堂を建てたのが始まりです。根本寺の縁起には、この一間四面の三昧堂は真言宗弘樹寺の管理下にあったといいます。天文二一(一五五二)年に、大泉房日成上人が他宗(真言宗)の寺地であった塚原を、地頭の懇志をえて入手したといいます。(『大泉房勧進状』『新編日蓮宗年表』一七〇頁)。土地の広さは東西一〇三間、南北一九二間、ここに祖師堂を建立し自らは八世となりました。(『日蓮宗寺院大鑑』六二六頁)。

ところが、本間重連の屋敷が畑野町の安国寺付近としますと、根本寺からは西へ約五㌔の距離になります。『種種御振舞御書』の本間重連の家のうしろにある塚原という記述と合わなくなります。そこで、目黒町の松林の台地がほんとうの塚原の三昧堂跡と理解されます。(新月通正著『日蓮の旅』二〇六頁)。真野寄りの国府に近い畑野村に建っている妙満寺付近が、塚原三昧堂の地としています。(田中圭一著『日蓮と佐渡』)。

『大観』によりますと、妙満寺は延文二(一三五七)年に、如寂房日満上人が開創となります。日満上人は阿仏房の嫡子藤九郎盛綱の孫(興円)で、富士門流の日華上人の弟子となり、妙宣寺の二世になっています。妙満寺は日満上人が隠棲したところに、日満の弟子の日東が師匠の満の一字をとって建てた寺で、目黒町塚の腰にあり日蓮聖人が配流された三昧堂があった近辺といわれています。妙満寺の前の道は国府跡に通じる横大路で、寺の横にある熊野社や共同墓地、水田のところが塚の腰といわれていることから推察されています。目黒町の共同墓地に阿佛房の子供の盛綱の墓があります。阿佛房いらい日満、日東に三昧堂跡が大切に護られてきたといえましょう

『種々御振舞御書』に本間重連の「家のうしろみの家より塚原と申す山野」(九七一頁)、里より遥にへだたれる野と山との中間」(一五六三頁)に三昧堂があったという記述に符合するといいます。しかし、本間重連は守護所の竹田城にいたので、「本間重連の家の後見人の家より塚原へ」と解釈すべきとします。「うしろみの家」とは、本間総領家(守護代)の後見人(うしろみ)である、「波多本間氏の館」のこととします。そこで、下畑玉作遺跡は守護所の跡ではなく、後見人の波多本間氏がいた家と解釈しています。(「阿仏房元屋敷の調査報告」『現代宗教研究』第四四号二四八頁)。『日蓮聖人全集』(第五巻五一頁)には、このところを、「一一月の一日に本間六郎左衛門の家の背後の塚原という山野の中の三昧堂に入りました」と現代語訳しています。写本の『平賀本』では、「一一月一日、六郎左衛門がうしろみの家より」、となっており、「うしろみ」とは後見人の意味合いが強いと思われます。

阿仏房の居住地については、金井新保(かないしんぼ)に「阿仏坊元屋敷」と呼ばれるところがあり、ここから塚原や一谷に足を運んだと推定される(『日蓮宗事典』『日蓮聖人遺文辞典』歴史篇二三頁)といいます。『本化別頭仏祖統紀』には塚原から三里の後山に住んでいたとあります。宮崎英修先生は国府より四、五㌔の道を夜中に人目をしのび供養されたとのべています。(宮崎英修著『日蓮とその弟子』九六頁)。塚原より二里ほどある新保に住んでいたといいます。(『日蓮宗の本山めぐり』二三〇頁)。また、真野から一里の道を、人目を忍び風雪を耐えてのことともいい、塚原や一谷から二里ほどはなれた国府にすんでいたともいいます(『日蓮辞典』六頁)。千日尼へ宛てた書状に「佐渡国府阿佛房尼御前」(『千日尼御前御返事』一五四七頁)とあることから、国府の近辺であろう(畑野)といわれています。(田中圭一著『日蓮と佐渡』一〇二頁)。佐渡市の教育委員会が特定した場所は、金井新保、寺沢九五一・九五二番地とします。田中圭一氏が特定した場所と三五〇㍍離れているといいます。(「阿仏房元屋敷の調査報告」『現代宗教研究』第四四号二二一頁)。

また、真野の国分寺そばに建てられている妙宣寺が屋敷跡と伝えられています。前にのべたように、現在の妙宣寺は江戸時代に移転されています。雑田(さわだ)城主の本間泰昌が、新保村(今井町大字新保)にあった寺を、居城に近い「やせが平」(八瀬ヶ平)に移し(『日蓮宗の本山めぐり』二三一頁)、元弘二(一三三二)年に阿仏房の曾孫である日満上人が、旧地新保より真野町大字竹田に移して、本堂を建てたのが妙宣寺の開創となります(『日蓮聖人遺文辞典』歴史篇二三頁)。さらに、天正年中に本間高滋のときに現在地に移転したといいます。しかし、前述したように塚原の配所が目黒町付近であり、阿仏房が同じ目黒町の妙満寺付近であれば、夜中に食料を運ぶ距離としては近くなり、阿仏坊が新保に移転させられたことが頷けます。

妙宣寺は始め「阿仏房」と呼ばれ、弘安二年いぜんに新保(金井町)に創立されています。のち、嘉暦二(一三二七)年に本間山城守入道の下知により、雑太城主本間信濃守泰昌の居城近くにある、雑太(竹田)の「やせが平」に移ります。康永二(一三四三)年に、後阿仏盛綱が八九歳にて没しますと、元弘二(一三三二)年に「阿仏房」本堂を建立します。日蓮聖人の曼荼羅本尊や書状、袈裟などの宗宝が格護されています。天正一七(一五八九)年に、上杉景勝の命により本間泰昌居城の三郭までを寄進されます。これが現在地となっています。このときに、これまでの「阿仏房」から蓮華王山妙宣寺と改めています。(『日蓮宗寺院大鑑』六二七頁)。同年、六月二九日に直江兼継は、妙宣寺に諸式の安堵状を与えています。(『新編日蓮宗年表』一九八頁)。

さて、塚原とは古墳のように土地が盛り上がった高台で、遺骸を土葬したところです。当時は野辺送りというように死人を野辺に晒して風葬していたといいます。その死者を供養するために建てられた三昧堂に、捨てられたような処遇をうけたのです。伝えでは、真言宗の弘樹寺所管の屍陀林であったといいます(『日蓮宗の本山めぐり』二二一頁)。一一月一日にその三昧堂に移されたことが、『種々御振舞御書』にのべられています。現行暦に直すと一二月一二日といいます。 

「十一月一日に六郎左衛門が家のうしろ、塚原と申す山野の中に、洛陽の蓮台野のやうに死人を捨つる所に、一間四面なる堂の仏もなし、上はいたまあはず四壁はあばらに、雪ふりつもりて消ゆる事なし。かかる所にしきがわ打ちしき、蓑うちきて夜をあかし日をくらす。夜は雪、雹、雷電ひまなし。昼は日の光りもささせ給はず、心細かるべきすまいなり」(九七一頁)

 

と、真冬の寒さと降雪、吹き付けられた積雪のなかに放置されたのです。京都の鳥部山のような死体を放棄するような場所でした。その堂といっても名ばかりで本尊も安置されておらず、軒は傾き寒風を防ぐ四方の壁は板間があわず、板敷きも莚もない一間四面の小さな辻堂で、艱難辛苦を強いた幕府の処遇がわかります。「一間四面」の広さは、現在の一間を一、八㍍という測り方と違い「間面記法」という建物の大きさを表示する方法をとっていました。身舎(もや)と庇(ひさし)の関係があり、一間とは身舎の柱の数、四面は四方に庇が張り出していることをいいます。最高で八畳くらいの広さといいます。(山中講一郎著『日蓮自伝考』二三九頁)。また、『法蓮鈔』には佐渡の三昧堂の様子、そして、日蓮聖人の心境をつぎのようにのべています。

「北国の習なれば冬は殊に風はげしく、雪ふかし。衣薄く、食ともし。根を移されし橘の自然にからたちとなりけるも、身の上につみしられたり。栖にはおばな(尾花)かるかや(苅萱)おひしげれる野中の御三昧ばらに、おちやぶれたる草堂の上は、雨もり壁は風もたまらぬ傍に、昼夜耳に聞者はまくらにさゆる風の音、朝暮に眼に遮る者は、遠近の路を埋む雪也。現身に餓鬼道を経、寒地獄に墮ぬ。彼蘇武が十九年之間胡国に留られて雪を食し、李陵が巌窟に入て六年蓑をきてすごしけるも我身の上なりき」(九五二頁)

 

北国の寒い冬にむかい日蓮聖人と弟子数人(日興上人・日頂上人『日蓮の生涯と思想』四六頁)は、この三昧堂にて流罪人としての生活をおくることになりました。同行した弟子については正確にはわかっていませんが、『元祖化導記』には「或る記に云く、佐渡公、伯耆公二人佐渡御参あり」と書かれており、日向上人と日興上人が同行したと思われます。日向上人は初期に父親の上総の民部実信の、民部公をなのっていましたが、身延に入り佐渡公、佐渡阿闍梨となのります。(『光日房御書』)。日頂上人は『富木殿御返事』(五二歳)にみえます。日興上人は日道上人の『日興上人御伝草案』に、「サトノシマヘ御トモアリ」とあることから分かります。『呵責謗法滅罪鈔』によりますと「同行七八人よりは」(七九〇頁)とあり、始めから日蓮聖人に随従した者と、のちに佐渡に渡ったとされる日頂上人など、また、佐渡にて弟子になった者が考えられます。(田村芳朗著『日蓮殉教の如来使』一〇七頁)。

『妙法比丘尼御返事』に立像釈尊を三昧堂に安置されたことがのべられています。

 

「佐渡国にありし時は、里より遥にへだたれる野と山との中間につかはら(塚原)と申御三眛所あり。彼処に一間四面の堂あり。そらはいたま(板間)あわず、四壁はやぶれたり。雨はそとの如し、雪は内に積る。仏はおはせず。筵畳は一枚もなし。然ども我根本より持まいらせて候教主釈尊を立まいらせ、法華経を手ににぎり、蓑をき笠をさして居たりしかども、人もみへず、食もあたへずして四箇年なり」(一五六三頁)

 

この堂内に伊豆流罪のときの立像釈尊を安置し、法難の厳しさを覚悟されていたとはいえ、「餓鬼道を経、寒地獄」という寒さと飢えに苦しむ生活がはじまりました。建永元(一二〇六)年に、法然の弟子の法本房行空は、「一念義」を唱えたことにより召し捕えられ、法然より追放され佐渡へ流罪されたといいます。(『日本仏教史辞典』二〇六頁)。そして、行空は佐渡にて間もなく死去したといいます。(『親鸞―その行動と思想』一五五頁)。『一谷入道御書』(九九四頁)には、弟子の数に比べて食が少なかったと語っています。しかし、反面、日蓮聖人にとって佐渡の存在は法悦の境地でした。国主や平頼綱などを、「善智識」「三障四魔」の現われとして甘受された艱難辛苦であったからです。これを心中の悦びとして塚原三昧堂での生活は、『種々御振舞御書』に、

「かくてすごす程に、庭には雪つもりて人もかよはず。堂にはあらき風より外はをとづるゝものなし。眼には止観・法華をさらし、口には南無妙法蓮華経と唱へ、夜は月星に向ひ奉て諸宗の違目と法華経の深義を談ずる程に、年もかへりぬ」(九七三頁)

 

と、三昧堂での生活は、弟子に『摩訶止観』『法華経』の談義をされ、法華経を読誦し唱題を正行とされて過ごされていました。浅井円道先生は受難があれば忍難が必ずあるとされ、忍難の生活は六波羅蜜の忍辱と、法師品の衣・座・室の三軌のなかで、「如来の衣とは柔和忍辱の心これなり~四衆のために広くこの法華経を説くべし」(『開結』三一七頁)と説かれたことをあげ、天台大師は三軌について安楽行品・不軽品を解釈されていることをのべています。伊豆流罪のときにのべた昼夜十二時の色読など、行者意識の根底にある精神作用を指摘されています。(『私の開目抄』一二四頁)。忍難慈勝の精神と、それを成し遂げていく法悦の両者を塚原三昧堂の生活にうかがうことができます。

□『富木入道殿御返事』(九三)

日蓮聖人が塚原三昧堂に移されたという情報は、すぐに島内中に知れわたりました。三昧堂に住んで約二一日後の一一月二三日に、富木氏に現況をしらせます。本書は佐渡から最初に出された書状となります。本書に「小僧達少少還(かえし)候」(五一七頁)と、鎌倉から同行してきた若い小僧たちを帰したので、それらの弟子から守護所の役人の仕打ち、廃屋となっている塚原三昧堂のことを、聞きなさいという書状が宛てられています。

 

「小僧達少少還候。此国為体在所之有様可有御問候。難載筆端候」(五一七頁)

 

日蓮聖人には少なくても四、五人の弟子が伴っていたと思われます。その小僧に書状をもたせ富木氏に送ったのです。北国ならではの三昧堂の厳しい寒さと、それにも増して島民から疎まれている冷遇を綴ります。この弟子達から塚原の筆舌に及ばない惨状を聞くようにとのべています。

「此比は十一月下旬なれば、相州鎌倉に候し時の思には、四節の転変は万国皆同かるべしと存候し処に、此北国佐渡国に下著候て後、二月(ふたつき)は寒風頻に吹て、霜雪更に振ざる時はあれども、日の光をば見ることなし。八寒を現身に感ず。人の心は禽獣に同じく主師親を知らず」(一部漢文。五一六

 

 また、佐渡の島民は鎌倉の民衆よりも仇をなし(『国府尼御前御書』一〇六三頁)、道理を知らない者がいて(『一谷入道御書』九八九頁)、命をねらわれていました。飢えて死ぬか、打ち殺されるか、どちらにしても身の危険がせまる状態であったとのべています(『中興入道御消息』一七一六頁)。富木氏宛の書状追伸に、佐渡まで連れ添ってきた弟子の数人を鎌倉に帰すといわれたのも、三昧堂でのこれらの暴力的な行為からの配慮であったといえます。また、この書状の往復などのように、弟子が所持して日蓮聖人の意思と現況を伝える役目をもっていました。

本書に肉体的には八寒地獄を現身に感ずるというほど辛くても、一大事である本化上行菩薩の自覚が確立したことを富木氏にのべています。

 

「一大事の秘法を此国に初て弘之。日蓮豈非其人乎。前相已に顕れぬ。去正嘉之大地震前代未聞の大瑞也。(中略)前相先代に超過せり。日蓮粗勘之是時の然らしむる故也。経云有四導師一名上行云々」(五一六頁)

 

と、「一大事の秘法」を始めて弘通したことと、釈尊から末法の導師として付属を受けた本化地涌の菩薩、その上首である上行菩薩が出現したとのべ、それは日蓮聖人であることを富木氏に明かしたといえます。「一大事の秘法」とは三大秘法(本尊・題目・戒壇)のなかの、妙法蓮華経の五字の題目をいいます。本書に、

「但此大法弘まり給うならば爾前迹門の経教は一分も益なかるべし。伝教大師云く日出て星隠る云々。遵式の記に云く末法の初め照西等云々。法已に顕れぬ」(五一六頁)

と、のべているように、この大法は爾前迹門に秘せられた、本門のなかに説かれた教法であるとし、ここに本門法華経に立脚した独自の末法正意論が展開してくるのです。そして、立教開宗以来の艱難辛苦を耐え、また、佐渡流罪の現況は肉体を持つ身にとっては身心ともに耐え難いことではありましたが、法華経を身読する行者の意識からみれば悦びであったとのべ、かつ、日蓮聖人を迫害した者たちをも許容する「善知識」という受け取り方をのべています。『種種御振舞御書』に、

「彼李陵が胡国に入てがんかうくつ(巖崛)にせめられし、法道三蔵の徽宗皇帝にせめられて面にかなやき(火印)をさゝれて、江南にはな(放)たれしも只今とおぼゆ。あらうれしや。檀王は阿私仙人にせめられて法華経の功徳を得給き。不軽菩薩は上慢の比丘等の杖にあたりて一乗の行者といはれ給ふ。今日蓮は末法に生て妙法蓮華経の五字を弘てかゝるせめ(責)にあへり。仏滅度後二千二百余年が間、恐は天台智者大師も一切世間多怨難信の経文をば行じ給はず。数数見擯出の明文は但日蓮一人也。一句一偈我皆与授記は我也。阿耨多羅三藐三菩提は疑なし。相模守殿こそ善知識よ。平左衛門こそ提婆達多よ。念仏者は瞿伽利尊者、持斉等は善星比丘。在世は今にあり、今は在世なり。法華経の肝心は諸法実相ととかれて本末究竟等とのべられて候は是也」(九七一頁)

 これは『開目抄』の行者意識と同じ筆致で心境をのべており、身読の法悦観は三類の強敵を釈尊と提婆達多の因縁と同じ感覚で許容し、在世と末法と時代は違っても本質においては同様とのべています。この「善知識」が日蓮聖人を迫害したからこそ、経文の予言は真実であったことを実証することになります。日蓮聖人においては「法華経の行者」を実証させた人物であったのです。『種種御振舞御書』に、

 

「日蓮が仏にならん第一のかたうどは景信、法師には良観・道隆・道阿弥陀仏、平左衛門尉・守殿ましまさずんば、争か法華経の行者とはなるべきと悦」(九七三頁

日蓮聖人が仏道を成就し仏身を得たことからしますと「善知識」となります。自身においてはこれを法悦として佐渡流罪を甘受され、「善知識」の者たちは「逆縁下種」として未来の成仏をみていることになります。また、富木氏に松葉ヶ谷の草庵の破却により、書籍の散在をしないよう一箇所に集めるように心配されています。塚原に在っても鎌倉の教団のこと、弘経の情念は絶えなかったことがうかがえます。

 

「一切経の要文、智論の要文、五帖、一処に可被取集候。其外論釈の要文散在あるべからず候。又、小僧達談義あるべしと仰らるべく候」(五一七頁)

 

そして、鎌倉の弟子信徒に天台大師講の談義を行なうよう指示されています。流罪の身とはいえ心境は現身に法華経を色読する悦びと、不断に法華経を広めようとされる行者の活力をうかがうことができます。一一月二日に真言宗の道融は東寺において、異国降伏のために仏眼法を修しており、朝廷も一二月に伊勢神宮へ異国降伏を祈願させています。このよう状況のなかで阿仏房夫妻の入信があります。

 

○阿佛房夫

佐渡においても檀越となる信徒ができてきました。とくに、最初の信徒といわれるのが、在地の名主階層の地位という説がある阿佛房夫妻です。これまで、阿仏房は遠藤為盛といいましたが、そうではなく佐渡の名主といいます。(田中圭一著『日蓮と佐渡』一二二頁)。阿仏房について古来の寺伝や伝説によりますと、俗姓を遠藤為盛といい、承久の乱で佐渡に遷された順徳上皇(一一九七~一二四二年)に随従した北面の武士であったといいます。源頼朝に挙兵をすすめたことで知られている平安末期の僧、文覚(遠藤盛遠)の曽孫という説があります(『本化別頭仏祖統紀』)。しかし、『吾妻鏡』承久三年七月二〇日の条によれば、順徳天皇に供奉したのは、「花山の院少将能氏の朝臣、左兵衛の佐範経は病を理由に佐渡には渡らず帰ってしまう。最後まで供奉したのは北面の武士左衛門の大夫康光と女房の二人だった」と、伝えていることから、遠藤為盛は佐渡にはきていないともいいます。仁治三年に上皇が真野で崩御されたあと、阿仏房夫妻は入道・尼となってこの地に留り、御陵の傍らに庵を結んで上皇の冥福を祈り、阿仏房と呼称されたように念仏三昧の毎日であったといいます。

妻を千日尼(生没年未詳、乾元元(一三〇二)年没『高祖年譜攷異』)といい、入信した時期は不明ですが、新保に移転させられた状況からしますと、塚原に入って間もないころと思います。千日尼は順徳上皇に仕えた右衛門佐局の侍女で、上皇の死後、夫婦共に出家し念仏の徒となり上皇の墓を弔っていたといいます。千日尼の呼称は順徳上皇が都に帰還することを願うのを見て、毎朝、海に出て波に沐浴し千日の祈願をされました。これを聞いた順徳天皇は千日女の呼称を与えたことによります(『本化別頭仏祖統紀』)。また、宗門では日蓮聖人が千日におよぶ在島中の供養にちなんで、千日尼の称号を授けたといいます(『日蓮聖人全集』第七巻三一八頁)。

文永八年に八三歳であった阿佛房(一二七九年没)は日蓮聖人と問答をし、その教えと日蓮聖人の人徳に感銘し、法華経に帰依するようになります。妻の千日尼とともに日蓮聖人に食べものなどを深夜に運び、二年五ヶ月のあいだ給仕されるのです。

国府とは律令国家が地方を治めるために設置した機関で、中央から派遣された目代の下に在地領主や土豪たちが実務を担っていました。国府入道も同地に住み、このような仕事をしていたと思われますが、農作物などをしながらの生活であったことが『千日尼御前御返事』(一五四六頁)にうかがえます。阿仏房夫妻と国府入道夫妻は親しい間柄でありともに日蓮聖人を支えた篤信の人です。

念仏信徒であった阿仏房夫妻は、流罪の身でありながらも徳容に優れた姿に敬服し、法義を聞いて法華経に入信したとあります。また、夫妻は周りの目を憚りながら食品を懐に入れ袖に隠して、夜中に代わる代わる給仕され一日も怠らなかったとあります。(『国府尼御前御書』一〇六三頁)。のちに弟子となり日得と改め妙宣寺の基礎をつくりました。千日尼が篤信であったことは、日蓮聖人ご着用の小五条の袈裟を贈られていることからわかります。阿仏房の三回忌に子供の守綱が身延に登詣して、墓前にて供養されています。このとき、日蓮聖人が長年着用されていた袈裟を守綱に持たせています(『千日尼御返事』一七六五頁)。この袈裟は妙宣寺に宗宝として所蔵されています(影山堯雄(『日蓮宗布教の研究』六一頁)。

阿佛房も日蓮聖人が後年、身延山に入られてからも、一貫文・一貫五百文という高額な金銭を送り、自ら三度登詣している経済的裕福さから、土地を所有して下人を使って農作に従事していた、在地土豪で名主階級ではないかとみられています。後に帰依した中興次郎入道や一谷入道も同じような立場にいたといわれています。妙宣寺所蔵の遠藤氏系図には、つぎのように掲げられています。

遠藤六郎為長―為盛(故阿仏房日得武者所)―盛綱(後阿仏・藤九郎左衛門尉)―盛正(妙覚・九郎太郎)―興円(佐渡阿闍梨日満)

 

『千日尼御返事』に、阿仏房の死後に子息の藤九郎守綱が舎利を身延に納め、翌年の一周忌の供養に身延に登詣したことがのべられています。そのなかに、

 

「故阿仏聖霊は日本国北海の島のえびすのみ(身)なりしかども、後生ををそれて出家して後生を願いしが」(一七六五頁)

 

と、日蓮聖人は阿仏房を「夷の身」とのべていることから、佐渡の出身の武士とも解せられています。(『日蓮聖人遺文辞典』歴史篇二三頁)。そこで、日蓮聖人を阿佛房に引き渡したのが、日蓮聖人に好意的であった右馬太郎であったはずとして、右馬太郎と阿佛房は本間氏とのあいだの主従関係か、縁者に近いという推察があり、人間関係も信頼があったともいいますが確証はありません。

あるいは、「宿の入道」という説があり、流罪人の身柄を預かる宿主で、塚原では阿佛房が宿主であり隠居の立場であるので宿の入道といったともいいます。阿仏房が佐渡配流者の宿主という立場なら、日蓮聖人との最初の接点があったといえます。しかし、一谷へ移ってからも阿佛房夫妻の給仕は人目を忍んでいたとのべています。なぜ、そのようにしなければならなかったのか、を考察する必要があります。『千日尼御前御返事』に、

 

「阿佛房にひつ(櫃)をしおわせ、夜中に度々御わたりありし事、いつの世にかわす(忘)らむ。ただ、悲母の佐渡の国に生まれかわ(代)りてあるか」(一五四五頁)

 

と、のべているように、人目がつかない夜中に給仕しています。闇夜をえらんだでしょうから足元が不如意のことでした。とうじ、流罪人の日蓮聖人に加担するような行為は許されておらず、しかも日蓮聖人に反感をもつ島民が監視し、それを阻止していたからでした。それでも阿佛房夫妻は給仕を続けたので、後には所領を召し上げ住居をかえられています(『千日尼御前御返事』一五四五頁)。流罪人としての日蓮聖人は謫居の身であったのと、暴徒により殺害される危険があったので、決められた敷地内から外へでることはありませんでしたが、佐渡に随行してきた弟子たちは、じょじょに佐渡島内や鎌倉などを、往復するようになっていきます。のちに、一谷入道と国府入道夫妻も日蓮聖人の信徒となります。

 阿仏房夫妻の入信などがあり佐渡の念仏僧たちの間から、日蓮聖人を排撃すべきという動きがでてきます。本間重連は佐渡の守護として鎌倉の北条宣時(武蔵守)からは、日蓮聖人を餓死か病死にせよという内々の命令がでています。(『千日尼御前御返事』一五四四頁)。しかし、執権からはやがて赦免するので、日蓮聖人の身辺の安全を確保して過ちがないようにとの命令がでていましたので、佐渡の僧俗にたいしては公平な手段をとるように納得させようとしました。本間重連の立場からすれば宣時よりも、時宗の命令をまもる方が安全であったはずです。日蓮聖人が学僧として法論談義を提案したことは、本間重連の面目をたもつことになり、これがさっそく塚原問答へ展開することになります。

 鎌倉でもっとも日蓮聖人を恨んでいた人物はだれか。それは極楽寺の良観であると思います。仏教の学解も行力(祈雨)も日蓮聖人におよばない、という、同じ仏門であることが最大の理由です。それに、既得権益を行使して経済活動をしている、律宗の僧侶としての仏門のあり方を痛切に批判された私怨が加わります。日蓮聖人をほんとうに斬首したかったのは良観ではなかったのか、ということが考えらえます。『千日尼御前御返事』に、

「而に日蓮佐渡国へながされたりしかば彼国の守護等は国主の御計に随て日蓮をあだむ。万民は其の命に随う。念仏者・禅・律・真言師等は鎌倉よりもいかにもして此へわたらぬやう計と申つかわし、極楽寺の良観等は武蔵前司殿の私御教書を申て、弟子に持せて日蓮をあだ(怨恨)みなんとせしかば、いかにも命たす(助)かるべきやうはなかりしに」(一五四四頁)

 

と、日蓮聖人を暗殺する計画は鎌倉から始まっており、佐渡にきてからは良観が宣時に偽の御教書を書かせ、それを良観の弟子が佐渡までもってくるという執念深さがあります。偽御教書は三度までだされます。執拗にその工作をしたのは良観だと思います。このような、日蓮聖人に内々に殺害命令がでていたなかで、阿仏房の入信と給仕は邪魔であったわけです。しかし、阿仏房夫妻の信仰は強く献身的な給仕により命を支え、雪中の三昧堂にて新しい年を迎えるのです。武者小路実篤は『日蓮と千日尼』(『全集』第十巻)という作品に、献身的な給仕と師弟の尊さを描いています。

 なを、この文永八年の執筆として『対照録』(下巻四七七頁)に、『断簡』一三一・一三二(二五二〇頁)の各一行をあてています。『定遺』は両方とも建治末年とします。また、『断簡』三三四(二九八一頁)・三三八(二九八三頁)の二行をあて、要文として『涌出品』・『法華文句』・『大日経疏』・『止観弘決』・『註画法華経本迹十不二門』・『守護国界章』を本年にあてています。

 

〇モンゴル国号を元とするまでの動き

 幕府は蒙古襲来の不安に防備をそなえ、御家人たちの粛正と財源の確保など、内政を整備する方策をとっていきます。日蓮聖人を流罪にしたあとも、引き続き蒙古対策におわれます。ここで、蒙古の動きを概観します。

 文永三年九月     黒的・殷弘がフビライの詔を携え高麗に来る(第一回)

     一一月    高麗王、宋君斐らと巨済島に赴くが渡日せず

 文永四年       黒的・殷弘ら再度高麗に来る

 文永五年一月     潘阜がモンゴルと高麗の国書を携え太宰府に来る(第二回)

            七ヶ月後、潘阜は返牒のないまま帰国する

 文永六年三月     黒的ら対馬に来て、前年に返牒がなかったことを問い糾す(第三回)

島民と紛争をおこし島民二人を捕らえ帰る

     九月     金有成ら対馬に来て島民二人を帰す(第四回)

モンゴルの牒状をもたらす。日本は返牒しなかった

 文永七年一月     蒙古船、対馬にくる。朝廷返書を作るが幕府は同意しない

五月     高麗に三別抄の乱がおきる

 文永八年五月     三別抄の珍島が総攻撃される

九月     三別抄から国書が届く

九月一二日  <日蓮聖人佐渡流罪に決まる>

九月一三日  幕府は九州に御家人を下向させ蒙古の襲撃に備えさせる

国内の治安と異国の防護(異国警固番役)を進める

     九月一九日  趙良弼が今津に着く(第五回)

     一〇月二三日 後嵯峨上皇の御所において評定する

            幕府は返牒しないことを決める

一一月    モンゴルは国号を大元と改める

 文永九年一月     趙良弼は十二人の日本人を連れて帰国する

            趙良弼は日本使節としてクビライに送るが謁見しなかった

     二月     時輔誅殺(二月騒動)

     四月     十二人を太宰府に返す。趙良弼も日本に来る(第六回)

 文永一〇年三月    趙良弼、一年滞在するが返牒されずに帰還しクビライに復命する

      五月二七日 連著の政村が死去

      六月八日  義政(長時の弟)が蓮著となる

 文永一一年二月    <日蓮聖人流罪赦免>

      四月    <日蓮聖人、平頼綱に第三諫暁>

世祖、洪茶丘らに日本征伐を命ず

      一〇月三日 合浦を出港し日本に向かう

      一〇月五日 元軍、対馬に上陸。蒙古襲来、文永の役