152.塚原問答・最蓮房・『八宗違目鈔』           高橋俊隆

五一歳 文永九年 一二七二年

○塚原問答

塚原に入り約二ヶ月半たった文永九年一月一六と一七日に、塚原において印象房をはじめとした念仏者など、数百人と問答をおこなうことになりました。佐渡も念仏と禅が盛んなうえ、北条宣時が日蓮聖人の延命をのぞんでいないこともあり、これらの僧俗は佐渡に流罪された者は生きて帰ることがないので、殺害しても咎がないだろうと守護代に申し出たのです。本間重連は北条宣時の代官になる守護と守護代の関係といいます。最近の研究で佐渡の守護・地頭ともに北条氏が実権をもっていたといいます。本間氏は北条氏の被官として守護・地頭の代官の役割をし、北条氏の所領を経営していたといいます。(『越後平野・佐渡と北国浜街道』街道の日本史24五七頁)。本間重連は北条宣時や島民の意に反し、無意味に殺害することを許しませんでした。日蓮聖人に対しては公平な立場をとりました。本間重連の立場が守護代・地頭であり、幕府に直属する御家人であったので経済的にも、北条宣時に依存しなくてもよかったため、北条宣時の命に従わなかった、と思われてきましが、日蓮聖人を殺すべきという佐渡の念仏者たちからの圧力にたいして幕府からは、

 

「上より殺しまう()すまじき副状下りて、あなづる(侮る)べき流人にはあらず。あやま(過)ちあるならば重連が大なる失なるべし」(九七四頁)

と、のべていることから、本間重連が日蓮聖人を公平に対処したのは、幕府(時宗)からの副状が届けられていたからといえます。また、幕府の内部にいる鎌倉の信徒たちや、日蓮聖人と同行した弟子たちが、公平に扱われるように働きかけていたともいえます。

そこで、本間重連は仏教の問題は法論によって決着をつけるようにと弁成を諭しそのあらわれが塚原問答となったのです。守護代の本間重連が立会い、三昧堂に警護の者を配置して法論が行なわれました。問答の相手になったのは佐渡の仏教界を統率していたという念仏の印性房弁成と、佐渡の律宗持斎の長老であり良観の法輩の生喩房でした。ほかに唯阿弥や慈道房たちが佐渡にいました。そして、越後・越中・出羽・奥州・信濃などから応援を徴集しての法論でした。これらのなかには、寺泊への途次に日蓮聖人を嘲笑し、愚弄した僧侶も詰め寄ったのです。『種々御振舞御書』に、

「それよりは只法門にてせめよかしと云ければ、念仏者等或は浄土の三部経、或は止観、或は真言等を、小法師等が頚にかけさせ、或はわき(腋)にはさ(挾)ませて正月十六日にあつまる。佐渡国のみならず、越後・越中・出羽・奥州・信濃等の国々より集れる法師等なれば、塚原の堂の大庭山野に数百人、六郎左衛門尉兄弟一家、さならぬもの百姓の入道等かずをしらず集りたり。念仏者口々に悪口をなし、真言師は面々に色を失ひ、天台宗ぞ勝べきよしをのゝしる。在家の者どもは聞ふる阿弥陀仏のかたきよとのゝしり、さわぎひびく事震動雷電の如し。日蓮は暫くさはがせて後、各々しづまらせ給へ。法門の御為にこそ御渡りあるらめ。悪口等よしなしと申せしかば、六郎左衛門を始て諸人然るべしとて、悪口せし念仏者をばそくび(素首)をつきいだしぬ。さて止観・真言・念仏の法門一一にかれが申様をでつしあげ(牒揚)て、承伏せさせては、ちやうとはつめ(詰)つめ、一言二言にはすぎず。鎌倉の真言師・禅宗・念仏者・天台の者よりもはかなきものどもなれば只思ひやらせ給へ。利剣をもてうり(瓜)をきり、大風の草をなびかすが如し。仏法のおろかなるのみならず、或は自語相違し、或は経文をわすれて論と云ひ、釈をわすれて論と云ふ。善導が柳より落、弘法大師の三鈷を投たる、大日如来と現たる等をば、或は妄語、或は物にくるへる処を、一一にせめたるに、或は悪口し、或は口を閉ぢ、或は色を失ひ、或は念仏ひが(僻)事也けりと云ものもあり。或は当座に袈裟平念珠をすてて念仏申まじきよし誓状を立る者もあり」(九七三頁)

と、のべているように、この問答は圧倒的に日蓮聖人の勝利に終わります。日蓮聖人の詰問に一言二言に論断されてしまい、答えることが出来ないほどの、無能な僧侶であったのです。既得権益に執着していたかがうかがわれます。しかし、この問答の場で数珠を切り改宗した者もいました。法華経の信仰に進んだ純真な僧侶がいたのです。真言師の学乗房や天台僧の最蓮房もこのときに日蓮聖人との出会いがありました。最蓮房は二月ころに正式に弟子となっています。(『最蓮房御返事』六二〇頁)。この問答は印性房弁成の申し込みにより翌日もおこなわれましたが、結果は同じく日蓮聖人の勝利でした。『佐渡御書』に、

 

「今年正月十六日十七日に佐渡国の念仏者等数百人、印性房と申は念仏者の棟梁也。日蓮が許に来て云、法然上人は法華経を抛よとかゝせ給には非ず。一切衆生に念仏を申させ給て候。此大功徳に御往生疑なしと書付て候を、山僧等の流されたる並に寺法師等、善哉善哉とほめ候を、いかがこれを破給と申き。鎌倉の念仏者よりもはるかにはかなく候ぞ。無慚とも申計なし」(六一五頁)

 

と、日蓮聖人は比叡山で鍛え上げた法戦論者であり、鎌倉では良観や良忠など宗派にかかわらず、大勢の学僧を相手に問答を重ねてきたので、相手にならない者ばかりでした。「利剣をもって瓜を切る」、と表現されるように容易く論伏したのでした。『種々御振舞御書』に、日蓮聖人は法論がおわり、帰ろうとする本間重連に、

 

「皆人立帰る程に、六郎左衛門尉も立帰る。一家の者も返る。日蓮不思議一云はんと思て、六郎左衛門尉を大庭よりよび返して云、いつか鎌倉へのぼり給べき。かれ答云、下人共に農せさせて七月の比と[云云]。日蓮云、弓箭とる者はをゝやけの御大事にあひて所領をも給り候をこそ。田畠つくるとは申せ。只今いくさ(軍)のあらんずるに、急ぎうちのぼり、高名して所知を給らぬか。さすがに和殿原はさがみの国には名ある侍ぞかし。田舎にて田つくり、いくさにはづれたらんは恥なるべしと申せしかば、いかにや思げにて、あはててものもいはず。念仏者・持斉・在家の者どもも、なにと云事ぞやと恠しむ」(九七五頁)

 

とのべ、鎌倉に戦乱があることを示唆しました。塚原問答は本間重連を信服させ、さらに、この言葉が的中したことにより、日蓮聖人の教説に従い改宗するものが続出し、日蓮聖人の教えが佐渡に広がっていくのです。

〇『法華浄土問答鈔

この問答の内容を記録したのが『法華浄土問答鈔』(五一八頁)です。日蓮聖人と印性房弁成の花押があります。真蹟の断片は京都妙覚寺・京都本国寺・大分県親蓮寺・石川県妙成寺・三重県仏眼寺・奈良県妙要寺の七ヵ所に散在し所蔵されています。本国寺には断片の九行一紙と七行一紙があり、それぞれ『法華五百問論』と同幅に表具されています。これは、墨の痕跡から相剝(あいはぎ。うらへぎ、ともいいます)であることがわかっており、一枚の料紙の表と裏であったことになります。それを剝いで二枚にしたのです。断片の九行一紙の相剝同幅の表具裏に、「文永九年太才壬申正月十七日之御筆、長興山妙本寺累代伝受之内、表九行裏九行」と、裏書きされています。(寺尾英智著『日蓮聖人真蹟の形態と伝承』一七六頁)。この裏書きは「天文七(一五三八)年六月日」付けであることから、この年に比企ヶ谷の妙本寺から分与されたと推測できます。

『法華五百問論』は妙楽大師が、慈恩大師の法相的な立場から『法華玄賛』を解釈した文を正すために著作されたものです。文は三七〇ですが満数をとって五百問論としています。あるいは、『沙石集』に『五百問論』からの引用が多くあり、そのなかに、「五百問論の中に云はく、ある道人ありけり。その徳なくして、徒らに人の施を受けけるが、大きなる肉の山となりてけり云々」、という引用がありますが、『五百問論』のこの文が見当たらないと言うことから、散逸しているという意見もあります。有名な、「五百問論云 若不知父寿之遠復迷父統之邦。徒謂才能全非人子。三皇已前不知父 人皆同禽獣」(『一代五時鶏図』二三四二頁)の引用文があります。

塚原問答があった一月一六日に、浄土宗の良忠は悟真寺の土地と免田を良暁に譲与しています。この月に蒙古の使者である趙良弼は返書を得られずに帰国しました。時宗は昨年、九州に所領をもちながらも、そこに在住していなかった御家人を下向させていましたが、その到着をまたずに、この年の翌二月にも異国警固番役を発令して九州の御家人に筑前・肥前などの沿岸地帯の警固にあたらせています。蒙古襲来に対処する切迫した状況がわかります。警備の強化と領内の悪党の鎮圧を命じられていました。

 

○国府入道夫妻

 国府入道は雑太(竹田)の国府(守護所)の近くに住んでいたといい、真野御陵に近くなります。(『日蓮宗事典』)。また、波多(畑野)の守護所の南側にあたる「波多在家」ではないかともいいます。ここは、阿仏房と距離的に近いといいます。(田中圭一著『日蓮と佐渡』一六〇頁)。『寺社境内案内帳』(宝暦期に作成)によれば、国府入道は藤四郎盛国といい順徳天皇に仕え、崩御の後禅門して国府入道と名のったといいます。(田中圭一著『日蓮と佐渡』一五四頁)。阿仏房が順徳天皇に仕えたという伝説に似ています。入信したのは塚原問答の一月一六日といいます。また、国府入道夫妻と阿仏房夫妻は同年代ではないかといい、日蓮聖人を庇護されたことからして、親族のように親しい間柄であることがわかります。国府入道夫妻と国府入道夫妻は、同等に「不惜身命」の覚悟で日蓮聖人たちを給仕されました。

 日蓮聖人が赦免され身延に入山された翌年の文永一二(建治元)年四月に、国府入道は単身にて身延の日蓮聖人を訪ねています。『こう入道殿御返事』に、

「あまのりのかみぶくろ二、わかめ十でう、こも(小藻)のかみぶくろ一、たこひとかしら。人の御心は定なきものなれば、うつる心さだめなし。さどの国に候し時御信用ありしだにもふしぎにをぼへ候しに、これまで入道殿をつかわされし御心ざし、又国もへだたり年月もかさなり候へば、たゆむ御心もやとうたがい候に、いよいよいろ(色)をあらわし、こう(功)をつませ給事、但一生二生の事にはあらざるか」(九一三頁)

 

浜育ちの日蓮聖人の好物であったのか、佐渡にて同じ海産物を食されていたのでしょう。時をへ土地から離れても変わらぬ信心を褒めています。また、『国府尼御前御書』にも、

 

「阿仏御房の尼ごぜんよりぜに三百文。同心なれば此文を二人して人によませてきこしめせ。単衣一領、佐渡国より甲斐国波木井郷の内の深山まで送給候了(中略)しかるに尼ごぜん並に入道殿は彼の国に有時は人めををそれて夜中に食ををくり、或時は国のせめをもはばからず、身にもかわらんとせし人々なり。さればつらかりし国なれども、そりたるかみ(髪)をうしろへひかれ、すゝむあし(足)もかへりしぞかし。いかなる過去のえん(縁)にてやありけんと、をぼつかなかりしに、又いつしかこれまでさしも大事なるわが夫を御つかい(使)にてつかわされて候。ゆめか、まぼろしか、尼ごせんの御すがたをばみまいらせ候はねども、心をばこれにとこそをぼへ候へ。日蓮こい(恋)しくをはせば、常に出る日、ゆうべにいづる月ををがませ給。いつとなく日月にかげをうかぶる身なり。又後生には霊山浄土にまいりあひまいらせん」(一〇六二頁)

 

と、辛い佐渡の流罪生活ではあったが、佐渡の信者と離れるには忍びなかったと述懐しています。命にかえても日蓮聖人を護ったのでしょう。実親でなければできない給仕を受けたことがわかります。

 阿仏房夫妻は文永九年二月下旬のころに、目黒町から追放されます。そのあと、日蓮聖人は四月上旬に一谷に移されます。この間の約二ヵ月間を給仕されたのが国府入道夫妻ではないかといいます。真野町の竹田にある世尊寺が国府入道の跡と伝えますが、国府入道は始め雑太郷之内畑方村(畑野町下畑)に、「下国府房」(しもこうぼう)を建てたといい、これが、世尊寺のもとの名まえといいます。(田中圭一著『日蓮と佐渡』一五四頁)。

○最蓮房

 塚原問答のおりに縁を結んだと思われるのが最蓮房です。『祈祷経送状』によりますと、最蓮房は一七歳の時に比叡山にて出家し、戒律をたもち行学に精進したといい、生来病弱であったといいます。文永元年の山門諸堂炎上の事件に関わり佐渡へ流罪されたというので、日蓮聖人よりもさきに佐渡に流罪されていたことになります。しかし、確実な伝記はなく、最蓮房に宛てた書状などに疑問や異説があります。その存在も疑問視されていますが、実在した人物であることは確かであるといいます。(中條暁秀著『日蓮宗上代教学の研究』一四三頁)。宮崎英修先生はその理由として、日像上人が文保二(一三一八)年に著した『祈祷経之事』(自筆現存)に、『祈祷経送状』が引用されていること、また、身延日進上人が正中二(一三二五)年に『立正観鈔』『立正観鈔送状』を書写(自筆現存)した奥書きに、転写の理由が書かれていることから、最蓮房の事蹟を知ることができるとのべています(『日蓮聖人遺文辞典』歴史篇三九八頁)。

 影山堯雄先生は、学僧最蓮房との出会いは、三類の法敵の真只中にあって張り合いのあることで、師弟の契りが成り立っただけではなく、学解において融合し同信同行の道に入ったこと、そして、「本有の寂光土へ昼夜に往復」(六二五頁)することができる嬉しさがあった、とのべています。また、『祈祷鈔』にふれ、「祈祷経」は中山法華経寺に伝承していないが存在したことは確かであり、最蓮房は「祈祷経」を京都にもちかえり、身延三世の日進上人が上京したおりに伝来したと推定しています(『日蓮宗布教の研究』三七九頁)。

 なを、最蓮房に宛てた書状などは真偽未決の問題があります。『生死一大事血脈鈔』(文永九年二月一一日)は、四菩薩を四大に当てはめていることなどから疑義があります。(『日蓮聖人遺文辞典』歴史篇五三九頁)。浅井要麟先生は『当体蓮華鈔』(弘安三年八月一日年)と、『十八円満鈔』(弘安三年一一月三日)について、両著は中古天台の口伝法門である「修善寺決」を引用していることから疑義をのべています。また、『最蓮房御返事』(文永九年四月一三日)に、「鎌倉殿」(六二五頁)という用語があるところに、この呼び方は室町時代いこうの用語であるとした疑義があることを紹介しています。最蓮房に与えた書状の中に「修善寺決」を引用した思想的な問題、「鎌倉殿」などの用語や文章・文献的な疑義があることをのべています(浅井要麟著『日蓮聖人教学の研究』二八一・三四九頁)。つまり、日本中古天台にそった口伝法門に関するものが多くみられ、これらは日蓮聖人の教えとは異なるものだからです。

 最蓮房に与えた書状はほかに、『草木成仏口決』『得受職人功徳法門鈔』『祈祷経送状』『諸法実相鈔』『当体義鈔』『当体義鈔送状』『立正観鈔』『立正観鈔送状』などがあります。このうち、『祈祷経送状』『諸法実相鈔』は今日も拝読されています。

『最蓮房御返事』によれば二月ころから日蓮聖人の弟子となったとあります。それより法華経の教えを受け、四月八日の釈尊降誕会の夜半寅の刻(午前四時ころ)に、本門法華経の妙法をもって受職潅頂したとあります。日蓮聖人が赦免された翌年の建治元年に赦免され、いったんは京都に帰りますが、下山氏の因幡房日永と比叡山の同学という関係から、後に甲州下山に住したといい、あるいは、京都に帰らず身延に住み、そのあとが今の本国寺といいます。また、日蓮聖人の墓参のために、寺平に本因寺を建てたといいます。戦国時代に領主の穴山梅雪は本国寺を寺尾に移し西林院と呼び、本因寺を合併します。しかし、穴山氏が断絶すると現地に復帰しています。これらをまとめたのが宮崎英修先生の「最蓮房伝考検」(『日蓮教学研究所紀要』第二〇号。『日蓮聖人研究』一九四頁所収)です。宮崎英修先生は、『生死一大事血脈鈔』に最蓮房が二度も難にあうのは早きにすぎ、最蓮房の値難をのべるのは本書だけであるので不審とします。『最蓮房御返事』には入信二ヵ月の新弟子に流罪赦免を約束することはあり得ないこと、また、受職潅頂という真言宗専用の熟語を用いることは不審であるとしています。そして、もっとも信憑性があるのは『祈祷鈔』と『祈祷経送状』であるとし、日蓮聖人が最蓮房との師弟関係は、文永九年の早くて一〇月ころと推定しています。ただし、『祈祷鈔』は最蓮房に宛てた書状とは必ずしもいえません(宮崎英修著『日蓮宗の祈祷法』六〇頁。「最蓮房伝考検」『日蓮教学とその周辺』所収二一五頁)。

また、『諸法実相鈔』の最後の追伸は、『十八円満鈔』にあった文を置き換えたもので、松野殿・治部房・下野房についての文を小川泰堂居士が削除したといいます。もとのままの文章であるならば、本書は最蓮房に宛てた書状ではないことになります。『当体義鈔』は『金綱集』を抜粋し前後に諸要文抄出したもので、優陀那日輝上人の疑義を紹介しています。『立正観鈔』は京都に帰った最蓮房が、比叡山の「止観勝法華経・禅宗勝止観」についての教示を仰いだものです。のちに、正中二年に身延日進上人が京都三乗京極において、ある人物が所持する本書を書写しています。なを、『祈祷鈔』・『祈祷経送状』・『祈祷経言上』については後述します。

○二月騒 

 時宗の異国警固の強化は引き続きおこなわれており、「野上文書」にある二月一日に豊後国の野上資直に宛てた回状からうかがえます。(川添昭二著『北条時宗』一〇三頁)。このようなとき、日蓮聖人が塚原問答を終えたあと本間重連に進言したように、二月一一日、北条一門に内乱がおきました。これは、時宗に鎌倉で北条時章(ときあきら。名越氏)と教時らが、北条時輔に与同して謀反を起こすという情報が入ります。側近の安達泰盛と平頼綱は、先手を打って大蔵頼季(よりすえ)に、一番引付頭人の時章、評定衆である教時の兄弟と、教時の子宗教や仙波盛直らを殺害させました。これが第一段階です。そして、第二段階として、同一五日に京都においては浄金剛院の涅槃講で賑わった暁に、鎌倉からの早馬がつき、六波羅探題南方を務めていた二五歳の北条時輔が、同北方の北条義宗に急襲されて、誅殺されるという事件がおきました。これを、『保歴間記』(ほうりゃくかんき)にいう「二月騒動」です。また、時宗の義理の兄である時輔の名をとって「北条時輔の乱」ともいいます。

この二月騒動は時宗が執権となり、得宗家と対立が深まった名越氏一族と、蒙古政策における得宗の軍事的対策に批判的であった時輔とが結びついた謀反でした。この不穏な動きは対蒙古の防衛軍を派遣したころから起こったといわれ、名越氏に近い檀越の情報などにより、日蓮聖人のもとには、何らかの情報が入っていたといいます。『光日房御書』には「一一月に謀反の者いできたり」(一一五四頁)と、佐渡流罪後の一一月には謀反の動きが察知されており、身延山に入ってからの『可延定業御書』に、

 「当時、大事のなければをど(驚)ろかせ給ぬるにや、明年正月二月のころおい(戦い)は必ずお(起」こるべし」(八六三頁) 

と、二月騒動が勃発することの状況を把握していたことがうかがえます。結果的に、得宗の時宗の勝利でありました。時宗にとっては名越氏一門と時宗の庶兄である時輔は邪魔な存在であったので、これを抹殺することにより、得宗は幕府の権力支配を確立することになりました。京都の六波羅探題南方にいた時輔の立場をみますと、蒙古にそなえ鎮西におもむく東国の御家人は、六波羅探題に集結することになっていました。つまり、対外関係を扱う九州の地を管轄していたのです。そこに、時宗の武力による蒙古対策に異論をもつ時輔がいたのでは不都合であり、重時の孫である義宗を京都に送り、幕府に批判的な分子を排除したのです。

時宗が庶兄の時輔と、名越氏の権力を阻止したこの事件は、北条氏一族の身内のできごとでありました。また、この二月騒動は日蓮聖人が平頼綱に鎌倉にて捕縛されるとき言った

「只今に自界叛逆難とて、どし(同士)う(討)ちして」(『撰時抄』一〇五三頁 

と、のべたように自界叛逆難の予言が的中したのでした。つまり、時宗兄弟の同士討ちは日蓮聖人が予言した「自界叛逆の難」が現実におきたのです。ですから、この二月騒動を機に、さらに『立正安国論』の予言が現実のこととしてうけとめられるようになってきました。佐渡流罪のすぐのできごとでしたので、幕府が日蓮聖人を処断したことは誤りとして、日蓮聖人の教えを正当化する働きがありました。幕府内においても、おろそかに扱えない僧侶とみられるようになったのです。日蓮聖人の門下として残った者においては、法華信仰の確信をえたことであり、布教活動も活発化しました。日蓮聖人はこの二月騒動がおきたことを、『種々御振舞御書』に、

 

「只今、世乱れてそれともなくゆめ(夢)の如に妄語出来して、此御一門どしうち(同士討)して」(九七六頁)

と、この自界反逆の二月騒動が妄語からおきたとのべています。妄語とは五悪・十悪の一つの、うそ・偽りを言うことです。二月騒動の公式記録とされるものは、『関東評定衆伝』の記載です。これによりますと、二月一一日に尾張入道見西(名越時章)と、遠江守教時(名越教時)が誅殺され、中御門中将実隆が召禁され、ほかにも多数の関係者がつらなります。一五日には北条時輔が六波羅において、義宗(長時の子)の襲撃により誅殺されます。のちに、名越時章は無罪であったとし、九月二日に討手の御内人(得宗被官)、大倉二郎左衛門尉・渋谷新左衛門尉・四方田滝口左衛門尉・石川神次左衛門尉・薩摩左衛門三郎の五人が、頸を切られたとあります。四方田は連署の政村の被官ともいいます。(川添昭二著『北条時宗』一〇九頁)そして、教時を討った者には罰も恩賞がなかったので、人々はこのできごとを笑ったとあります。つまり、謀反人とされた二人のうち名越時章は誤殺で、討っての五人が処刑され、また、謀反人の名越教時を討伐したにも係わらず、なんらの恩賞がなかったので、幕府は鎌倉の人々の笑いものになったといいます。

時輔は南六波探題の重職に就いてはいましたが、得宗家を継げないことと時宗の強気な蒙古対策に反発していたのが、謀反の原因という説があります。しかし、北条時輔は北条時頼の長子で時宗の実兄とはいっても、謀反をおこすだけの力はなかったといいます。北条時輔や名越兄弟が得宗時宗の権力に反発したことは事実ですが、二月騒動に発展したのは、そういう緊張のなかの妄語が引き起こしたことと日蓮聖人は見られていたといえます。時宗とその周辺は得宗に反抗的な教時を殺害することを本体として、それに巻き添えをくわえた形で時章を殺害したといいます。そのわけは、時章は九州の筑後などの守護職をもっていたため、それを奪い取り蒙古の防備として筑後を掌握するためでした。時輔は兀庵普寧が東厳慧安に宛てた書状に高く評価されており、六波羅での信望が強く対蒙古の意見がことなることは、時宗としては排除すべき人物となっていたのです。つまり、蒙古襲来がせまる危機感のなかで、九州防備を目的とした時宗たちの画策といえましょう。(川添昭二著「御遺文から見る日本中世史」『中央教学研修会講義録』第一四号、五六頁)。日蓮聖人は名越兄弟などの謀反について無実であったとみています。建治二年三月の『光日房御書』に、

「十一月に謀反のものいできたり、かへる年の二月十一日に日本国のかためたるべき大将ども、よしなく打ちころされぬ。天のせめという事あらはなり。此にやをどろかれけん」(一一五四頁 

ここにいう謀反の者とは平頼綱とされています。つまり、名越氏の三人が「よしなく打ちころされ(殺)ぬ」と理由もなく殺害されたと非難しています。北条実時の子息、金沢顕時の文書には、名越兄弟がともに非分に誅されたと書かれています。名越時章だけではなく教時も無実とみています。日蓮聖人も、池上兄弟に与えた『兄弟抄』に名越氏について、

「文永九年二月の十一日に、さか(盛)んなりし花の大風におる(折)るがごとく、清絹の大火にやか(焼)るるがごとくなりしに、世をいとう人のいかでかなかるらん」(九二五頁 

と、のべた人とは、名越氏のなかでも無実により殺害された時章であると思われます。しかし、この鎌倉時代の資料に、二月騒動にたいして批判的であったのは、日蓮聖人だけだといいます。(川添昭二著「御遺文から見る日本中世史」『中央教学研修会講義録』第一四号、五八頁)。そこからうかがえることは、名越氏の家臣たちが名越で布教している日蓮聖人の信徒になっていたのではないか、ということです。伊沢入道・酒部入道・河辺山城入道・得行寺殿の二月騒動における動向を心配され(『佐渡御書』六一八頁)ています。

四条金吾はこのとき江馬氏の本拠地である江馬におり、騒動を聞いて鎌倉の江馬光時・親時に馳せ参じ、主君をまもって殉死する覚悟をもっています(『頼基陳状』一三五八頁)。この事件後、時宗は孤立していきますが、平頼綱と安達泰盛(秋田城介)の二人が勢力をもっていきます。『聖人御難事』に、

「一定として平等(平頼綱)も城等(安達泰盛)もいかりて、此の一門をさんさんとなす事も出来せば、眼をひさい(塞)で観念せよ」(一七六四頁)

と、いうほどの権力をもっていました。しかし、こののち、時宗死去の後の弘安八年に、平頼綱により安達泰盛は討たれます。これを「霜月騒動」といいます。さらに、平頼綱はつぎの執権貞時により討たれます。これを「平禅門の乱」といいます。北条幕府はこのような権力闘争をもっていたのです。日蓮聖人と名越氏が密接な関係にあったとしますと、竜口・佐渡流罪は蒙古政策における、政治的な排除とみることができましょう。

ところで、この二月騒動の知らせが、日蓮聖人のもとにいつころ入ったかといいますと、『佐渡御書』によりますと 

「宝治の合戦すでに二十六年、今年二月十一日十七日又合戦あり」(六一二頁)

と、のべており、この遺文は文永九年の三月二〇日に、関東地方の弟子檀徒に宛てています。事件から一ヵ月ほどに、関東地方の弟子檀徒から知らせがあったのでしょうか。『種種御振舞御書』(九七六頁)には、二月一八日に鎌倉からの急使が重連に事件を伝えたとあり、重連はその夜に一門とともに早船を仕立て鎌倉に向かいますが、このとき重連は日蓮聖人のもとにより、合掌して救けを願ったとのべています。この助けとは塚原問答のときに鎌倉にて戦があったとき、農作業をして遅れをとっては恥ずかしいことであり、武士ならば高名と恩賞をもらうべきとのべたことと 

「日蓮にたな心を合て、たすけさせ給へ、去正月十六日の御言いかにやと此程疑申つるに、いくほどなく三十日が内にあひ候ぬ。又蒙古国も一定渡り候なん。念仏無間地獄も一定にてぞ候はんずらん。永く念仏申候まじと申せしかば、いかに云とも、相模守殿等の用ひ給はざらんには、日本国の人用まじ。用ゐずは国必ず亡ぶべし」(九七六頁)

と、蒙古から攻められて日本が亡ぶこと、そして、自身が念仏により堕獄せず後生には成仏できるように、と願ったことがうかがえます。

また、鎌倉からの情報は『佐渡御書』に、富木常忍・四条金吾・大蔵搭の辻十郎入道・さじきの尼たちの名前が書かれていますので、日蓮聖人の情報の提供者のなかにはこれらの人がいたと考えられます。富木常忍は下総国の守護である有力御家人の千葉介頼胤に仕えていました。同僚の法橋長専は鎌倉で幕府との対応をする役目を務めていました。四条金吾は事件に連座して誅殺された、名越時章・教時の兄である光時に仕えていました。文永一〇年九月ころの宛名不明の『大果報御書』から、内政にたずさわり信頼のおける情報の提供者がいたことがわかります。

「かうらい(高麗)むこ(蒙古)の事、うけ給はり候ぬ」(七五三頁)

四月一〇日付けの『富木殿御返事』に、『開目抄』を四条金吾に遣わしたことをのべ、追って書きに、刎頭の極刑があることを覚悟した文章ががあります。すなわち、

「日蓮臨終一分も疑いなし、刎頭の時は殊に喜悦あるべし」(六一九頁)

この書状の時期からして、二月騒動の情報は四条金吾の使者からもたらされたと思われます。刎頭の覚悟をうながしたのは、名越氏一族の崩壊にあったと推察することができます。富木氏の使者からも二月騒動の、そのごの情報がもたらされ、その返書が『富木殿御返事』六一九頁と思われます。二月騒動後の政治不安は、五月に入っても収まりませんでした。五月二五日づけの『日妙聖人御書』に、

「その上、当世の乱世、去年より謀反の者国に充満し、今年二月十一日合戦、それより今五月のすえ(末)、いまだ世間安隠ならず」(六四七頁)

と、のべているように六月近くになっても、この事件の後始末ができていなかったのです。

ただし、土牢に幽閉されていた日朗上人などは、二月騒動の的中により放免されました(『高祖年譜攷異』)。『光日房御書』(一一五四頁)にも、「弟子どもゆる(許)されぬ」とのべています。この赦免によりこのころから、日蓮聖人の弟子たちは佐渡と鎌倉を往来するようになります。

そして、蒙古襲来の危機感は日蓮聖人が予言した他国侵逼難の現実化となり、本化上行自覚の高揚と重なって法華経弘通の原力になっていたのです。しかし、鎌倉にいる檀越のなかには、日蓮聖人にたいしての懐疑や、法華経にたいしての不信を打破できない者がいました。『諫暁八幡抄』(一八四五頁)によりますと、一部の門弟は法華経と日蓮聖人に対して疑惑をもちました。その疑問と不信とはなにかといますと、法華経の行者がなぜ迫害をうけるのか、なぜ法華経に説かれている諸天の守護がないのかということでした。それにくわえ、激しい日蓮聖人の諸宗批判の行動に、疑問をもったことがのべられています。この不信や疑問をもった一つの理由は、幕府などの権力者から弾圧をうけて、その迫害の苦しみに耐えかねている現実がありました。法華経の尊さは理解できても、法華経を信じることによって現世安穏になると説かれているのに、そうならないのはなぜかという疑問でした。法華経の信仰は理解できても、迫害に耐えられない弱さがあったのです。つまり、『開目抄』(六〇六頁)に、「日蓮が弟子等も此をも(思)ひす(捨)てず」とのべているように、日蓮聖人が説く死身弘法の教えに理解できない者がいました。『開目抄』を著述してから一ヵ月後に認めた『佐渡御書』に、

 

「日蓮を信ずるやうなりし者どもが、日蓮がかくなれば、疑ををこして法華経をすつるのみならず、かへりて日蓮を教訓して我賢しと思はん僻人等が、(中略)日蓮御房は師匠にてはをはせども、余にこは(剛)し。我等はやは(柔)らかに法華経を弘べしと云ん」(六一八頁)

 

と、いうように、おもに天台僧の門弟が佐渡流罪を契機に、日蓮聖人を批判するようになったと思われます。鎌倉の檀越の動揺を知った日蓮聖人は、門下にたいして法華経の信仰の心構えと、日蓮聖人ご自身の法華経の行者としての覚悟をのべられました。日蓮聖人は、教団内の動揺と門下による日蓮聖人批判に答えなければならなかったのです。それは、日蓮聖人の教義の中核を開陳することになるのです。日蓮聖人は竜口法難後に下総の富木氏たちに書状を送っていました。そのなかに密かに伝えていたのです。つまり、この佐渡在島中に独自の日蓮教学といわれる、「一大事の秘法」(五一六頁)の本門思想が著述されていきます。これを、佐渡以前と佐渡在島との法門の違い(「佐前・佐後」)といいます。これは、日蓮聖人の法華経観が、値難を経験して深まった表れのことをいいます。

〇後嵯峨上皇の崩御

 二月騒動のさなかの二月一七日に、土佐に流罪された土御門天皇の第三皇子、第八八代後嵯峨上皇が崩御されます。後嵯峨上皇は仁治三(一二四二)年に四条帝が一二歳で事故死したため、後高倉上皇(守貞親王)の血統が途絶え、再び後鳥羽の血統から皇位継承者が選ばれることになり、「承久の乱」に直接関与しなかった土御門上皇の皇子が選ばれていました。後嵯峨上皇による院政は、鎌倉幕府の統制下にありました。宝治合戦(一二四七年)のあと、幕府は摂家将軍の代わりに宗尊親王を宮将軍とし、政治の安定が図られた時期でした(「公家御事、殊可被奉尊敬由」『吾妻鏡』宝治元年六月二六日条)。後嵯峨院の在位は仁治三(一二四二)年二月二一日から寛元四(一二四六)年二月一六日までですが、生存中の時代は鎌倉中期の文雅隆盛のときといわれます。文永五年一〇月に出家して法皇となり大覚寺に移っていました。

後嵯峨上皇は在位四年で、四歳の久仁親王(後深草天皇)に譲位して上皇となり、正嘉二(一二五八)年に後深草天皇の弟で一〇歳の恒仁親王(亀山天皇)を立太子し、翌正元元(一二五九)年に後深草にたいし、恒仁親王への譲位を促します。父の圧力で心ならずも譲位させられた一六歳の後深草天皇の遺恨はのこります。また、後嵯峨上皇が後深草上皇の皇子ではなく、亀山天皇の世仁親王(後宇多天皇)を皇太子にしたことが、持明院統(後深草天皇の血統)と大覚寺統(亀山天皇の血統)の確執のきっかけとなり、南北朝・後南朝までつづく皇統分裂の戦乱の原因となります。日蓮聖人が佐渡に流罪されていたころの朝廷の状況がうかがえます。

 この二月に曹洞宗の徹通義介は永平寺を退き義母堂を構えました。醍醐寺三宝院の中心人物であった賴賢(一一九六~一二七三年)が、将軍頼経の帰依をえてこの年に鎌倉にきます。憲静(一二一五~一二九五年)に三宝院流の事相を伝え、翌、文永一〇年一二月七日に没しています。願行房憲静は鎌倉に大楽寺・理智光寺を開き、文永一一年には伊勢原市の大山寺を再興しています。

 

□『八宗違目鈔』(九六)

二月一八日に(『対照録』は文永一〇年としています)、富木氏か門下一同に宛てた著述です。ちょうど、本間重連が二月騒動に驚き、早船で鎌倉に向かった同日になります。あるいは、このとき本間重連の家来に書状を鎌倉の弟子に手渡すように依頼したのかもしれません。二二丁目から裏面に早書きになります。使者を早船に同船させたのかもしれません。真蹟の二四紙(紙数は二一枚)は完存して京都妙顕寺に所蔵されています。本書は相剝されており、もとは二一紙であったのが、明暦三(一六五七)年の修理のときに相剝され、二四紙の装丁になったといいます。(寺尾英智著『日蓮聖人真蹟の形態と伝承』一八八頁)。

著述の年次については『開目抄』の前にメモのような形書かれたと思われる、共通した引用がみられること、本尊についての内容が同じであることから、前後して著述されたといいます。(茂田井教亨著『開目抄講讃』上巻七頁。『定遺』の文永九年説とします。同三九一頁。『本尊抄講讃』中巻五七一頁)。

内容は八宗の教えと法華経の相違をのべ、本尊と一念三千について問答形式でのべています。文永一〇年の著述としますと、『観心本尊抄』の直前に書かれたことになりますが、本書に示された、三身・三因仏性・釈尊三徳から見た各宗の本尊との比較、十界互具と一念三千ののべ方は、『観心本尊抄』には及ばないことから、二月一八日の日付けからして『開目抄』の以前に書かれたと思われます。『対照御書集』(上、三二八頁)は、『開目抄』から『観心本尊抄』にいたる宗義の関節を示す著述とあります。

 佐渡には紙が不足していたと『佐渡御書』(六一八頁)にのべています。本書は図録のように大きく書かれたところがあり、二一枚の紙を使用されたところから裏面に書かれていき一九紙まで続きます。二二丁以下はのちに剥離して二四紙としています。『観心本尊抄』は一七紙の表裏記載であることと比較しますと、本書は紙数を多く使っていることになります。まだ紙に余裕があった『開目抄』以前に書かれたように思われるところです。

最初に『法華文句記』・『法華文句』を引いて、法華経の仏は「常住の三身」があり、諸教には「秘之不伝」という仏身論について言及します。仏身には経論により、二身・三身・四身・五身・十身などの所説がありますが、このなかでも三身説が一般的です。日蓮聖人も法身・報身・応身の三身説を用いています。法身は真理そのもので仏の所証の理境をさします。報身は仏の能証の智慧をいい、修行により積徳した仏身をさします。応身は歴史上に人間として生まれ衆生を教化する仏をいい、インドに生まれ肉親をもつ釈尊はこの応身仏です。天台は天親の『法華論』に基づいて『法華文句』に、「法身の如来を毘盧遮那と名く、此には遍一切処と翻ず。報身の如来を盧舎那と名く、此には浄満と翻ず。応身の如来を釈迦文と名く、此に度沃焦と翻ず」と、法・報・応の三身を立て、法身は理、報身は智慧、応身は同縁の理を命とすると解釈します。また、三身には常・無常・亦常亦無常・非常非無常の四句があることを論じ、法華経寿量品の仏は三身ともに常住であるとします。そして、「此の品の詮量は通じて三身を明す。若し別意に従はば正しく報身に在り」と、解釈しているように、一身は三身として三身相即の仏であるとして、義便・文会の故に報身を中心とするとします。

最澄も天台の三身相即・報身中心説を継承しています。日蓮聖人は先の『法華真言勝劣事』に見たように、三身の無始無終をのべて天台の三身説を継承しています。ここでは「秘之不伝」という、諸経に秘蔵していた寿量品の開迹顕本を説き、これにより迹門の法身中心であった三身説が否定されます。そして、久遠実成が説かれたことにより、本門の一身即三身常住の仏が顕れたことを示しています。

つぎに、この仏の三身と衆生本具の三因仏性について、『八宗違目鈔』は『法華文句』の衆生の仏性について、「小乗経には仏性の有無を論ぜず」「華厳方等般若大日経等には、衆生本より正因仏性有り、了因縁因は無し」とし、「法華経自本有三因仏性」があると示します。寿量品の「多諸子息」の文により三因仏性を明かし、この第二の「縁因の子」の義は、「昔の結縁を仏子と為す」とあるように、大通仏の十六王子の法華覆講のときの結縁に縁因の仏子としたもので、この過去の結縁のときに正了縁の三仏性を具足したとします。このときの法華経の下種・結縁に「本有の三因」を認めたのです。また、衆生の三因仏性と仏身の三身は、已成と当成の異なりで相即常住を説いています。

つぎに、譬喩品の「今此三界」の文と寿量品の「我亦為世父」の文を引き、釈尊の「主師親三徳」を三身に配当して図示します。それに本有の三因仏性を配しますと次のようになります。

 

主――国王――報身如来 ――了因仏性

  師――――――応身如来 ――縁因仏性

  親――――――法身如来 ――正因仏性

 

とくに、「父徳」(親徳)の血脈を重視し、妙楽の『五百問論』の「若不知寿之遠復迷父統之邦。徒謂才能非人子」「但恐才当一国不識父母之年」と、道宣の『古今仏道論衡』の「三皇已前未有文字。但識其母不識其父。同於禽獣」を引き、「父統」「不識其父」の文に見られる、「親父」を強調していることがうかがえます。親父としての釈尊を本尊として、図示している各宗の本尊・仏身論の違いをのべています。すなわち、

・倶舎宗・成実宗・律宗は、

「一向以釈尊為本尊。雖爾但限応身」(五二六頁)

・華厳宗・三論宗・法相宗は、

「以釈尊雖為本尊。法身無始無終。報身有始無終。応身有始有終」

と、六宗ともに釈尊を本尊としますが、三身の説示が違うことを指摘し勝劣の判断としています。つまり、前の三宗は法華経と同じに釈尊を本尊としますが、三身の中の応身だけを判断としています。しかし、この応身仏は無常の仏でありますので三身常住の仏身をもつ本尊とはなりません。後者の三宗は三身がそれぞれ隔別しており、寿量品の三身相即した無始無終の釈尊本尊とは仏格が違い、比較にならないのです。つぎに、

・真言宗は、

「一向以大日如来為本尊。有二義一義云大日如来釈迦法身。一義云大日如来非釈迦法身。但大日経大日如来釈迦牟尼仏と見えたり。自人師僻見也」

と、真言宗は大日如来を本尊とするが、大日如来は釈尊の法身であるという説と、別の法身仏とする二義があり、大日経によれば釈尊の法身仏であるとし、人師の僻見により別の法身仏としていると指摘しています。

・浄土宗は、

「一向以阿弥陀如来為本尊」

と、仏教を説いた唯一の釈尊ではなく阿弥陀仏を本尊としています。日蓮聖人はこれら法華宗以外の八宗に対し、

「以釈迦如来不知為父。例如三皇已前人同禽獣。鳥中鶺鴒鳥鳳凰鳥不知父。獣中兎師子不知父。三皇已前大王小民共不知其父。自天台宗之外真言等諸宗大乗宗如獅子鳳凰。小乗宗如鶺鴒兎等共不知父也」(五二七頁)

と、釈尊を父とするという表現をもって本尊を選定し、鶺鴒・兎に対し鳳凰・獅子の違いは、小乗と大乗の違いのように勝劣はあっても、法華経に釈尊を父と説くことを知らない(「不知父」)ことを指摘し批判しています。この論理は釈尊本尊を立てる定理となっています。

つぎに、一念三千にはいります。一念三千を立てた宗派として、華厳宗の澄観の疏(注釈書)と、真言宗の善無為が一行禅師に口授したといわれる、『大日経義釈』にあるとのべます。そして、天台宗との同異について考察しています。華厳宗の澄観(第四祖清涼国師)の『華厳経疏』三十三に、天台が『摩訶止観』第五、十法成乗の観法(十乗観法)の第二に、華厳経の上下の発心の義である真正発菩提心を引き、広大な慈悲弘誓心を起こし、四弘誓願によって行功が進むことをのべたのは、華厳経に円観の肝要を説いているからであり、天台が引いたのはその証拠であると澄観はのべています。また、同二十九に法華経の十如実相に三千世間が成立する論理も華厳宗の意趣と同じであると澄観はのべています。一念三千の義があるとした、『華厳経』の「心如工画師画種々五陰。一切世間中無法而不造如心仏亦爾。如仏衆生然心仏及衆生是三無差別。若人欲了知三世一切仏。応当如是観心造諸如来」の文と、心のほかに仏はないと観ずると説いた文をあげます。そして、諸経を対象としてみると、法華経の「十如是」の文には、十如が三諦相即し本末が究竟して等しいことを諸法実相と説き、また、釈尊の「唯一大事因縁」とは、衆生のために「開仏知見」を行うため、つまり、仏になれることを教えるために出現したことをあげます。そして、心と仏の関係を説いた視点からみると、華厳経にも一念三千の義が許されるとします。

つぎに、真言宗における一念三千について『大日経義釈』の、「今此本地之身、又是妙法蓮華最深秘処故」をあげ、法華経のもっとも秘処とする久遠実成の仏身は、大日の本地とした文をひきます。また、「如説如実知自心名一切種智則仏性涅槃経也。一乗法華経也。如来秘蔵大日経也。皆入其中」と、涅槃経の悉有仏性、法華経の一仏乗、大日経の如来秘蔵を一句にのべたものとし、大日経は諸経の精要を統括していると釈した文を引いています。そして、最澄・空海が見たという『毘盧遮那経疏』の「謂天台之誦経是円頓数息是此意也」を引き、天台で誦経の数息によって空仮中の三諦を観じる円頓の数息観を説いたことを、真言宗も同じくこの意があり一念三千の義があるとしたことをあげています。

しかし、このように華厳宗・真言宗に一念三千の義があるとしますが、史実として『宋高僧伝』・『菩提心義』を引き、真言師の含光・一行には天台の教学が混入していると指摘します。そして、一念三千の義は天台に基づくことをのべていきます。華厳経の「心仏及衆生是三無差別」の文は、天台の一念三千の義がなかったら義理を解明することができないのであり、華厳経・真言宗に限らず諸経は一念三千を説いていないとします。

 

三蔵教小乗四阿含経――心生六界――不明心具六界・・・六界が本来、心に具わっていると説かない

通教――大乗――――――心生六界――亦不明心具・・・・三蔵教と同じで心から生ずると説くだ

別教――――――――――心生十界――不明心具十界・・・十界を生じることを説くが、本来具している

思議十界・爾前華厳等ノ円   と説かないので思議の十界という

円教――法華ノ円――――不思議十界互具・・・法華経は十界が互いに具わっており、それが本来、心に

                        具わっていることを説くから不思議の十界という

その理由として小乗阿含経の三蔵経は、地獄から天上の六道界を心から生じるとして心生六道は説くが、本より具有しているという心具は説いていないことをあげます。小乗は灰身滅智し有作の四諦で思議の教えです。大乗の初門の通教も蔵教と同じであり、界内の教えで六道三界のことしか説きません。別教は心から十界を生じると十法界を説きますが、染浄の縁により迷悟し生起するとして心具を説いていません。浅深は心から生じて無量の四諦に摂まり、思議の境地です。爾前の華厳経等の円教も、心具を説いていないので思議の十界といいます。法華経の円教は十界の心具を説くので「不思議の十界」といいます。つまり、華厳・真言などの爾前諸経は、諸法円融を論じても心具三千を明かしておらず、この天台の心具の教理を用いなければ、真実の一念三千論は成立しないと指摘するのです。真実の一念三千は、天台の『摩訶止観』第五に示されたとして引用されるのが、

「止五云、華厳云、心如工画師、造種々五陰、、一切世間中莫不従心造。種々五陰者如前十法界五陰也。又云、又十種五陰、一一各具十法謂如是相性体力作因縁果報本末究竟等文。又云、夫一心具十法界。一法界又具十法界百法界。一界具三十種世間百法界即具三十種世間。此三千在一念心文」(五三〇頁)

また、『弘決』第五の

「故大師覚意三昧・観心食法・及誦経法・小止観等諸心観文。但以自他等観推於三假並未云一念三千具足。乃至、観心論中亦只三十六問責於四心亦不渉於一念三千。唯四念処中略云観心十界而已。故至止観正明観法並以三千而為指南。乃是終窮究竟極説。故序中云説己心中所行法門。良有以也請尋読者心無異縁」

の文をあげて、一念三千は法華経によらなければ成立しないとし、一念三千は天台大師の極説であり己心に行用された法門であり、このほかに別伝の法門はないと示された文を引用します。同第五に十重の観法は「横竪収束、微妙精巧」とし、「如来積功之所勤求道場所妙悟。身子之所三請法譬之所三説正在茲乎」を引き、妙楽の『弘決』を引いています。この『弘決』の解釈は釈尊の五時八教、一代の化道の始終は一仏乗を開顕し、諸経を法華経の一実に総括することであったとします。十乗観法は法華経の悟りを得るためのものであるから、法華経の文をもって歎めたのであり、その積功とは迹門においては大通結縁をさし、本門においては「我本行菩薩道」をさすとして、本迹二門はこの十法修行を求悟したことを説くとして、仏意がここにあると結論します。

そして、華厳宗の澄観は華厳円頓の名目に迷って、華厳経が円兼一別の方便であることを知らないとし、法華経の絶待開会を失ったとします。また、同じく『弘決』を引き、法華経本迹の経意を理解しなければ、「心造」の文を引用して「心具」の義とした理由がわからないとします。

このように『八宗違目鈔』は一念三千の義は法華経によらなければ成立しないことを、『摩訶止観』と『弘決』を引用してのべています。諸宗の誤りを糾明すべきとして、天台教学を遵守して、仏陀論の本仏・本尊、仏性論の基礎である一念三千を学ぶことをのべます。そして、八宗は三身常住・一念三千を説いてはいないことをあげて、諸宗と法華経の違いを示しています。