153.『開目抄』                        高橋俊隆

『開目抄』(九八)

本書の真蹟は曽て身延久遠寺に所蔵されていました。全編が六六紙一帖双紙綴りであったことが、行学院日朝上人の弟子の日意上人の記録にあります。最古の古写本は「平賀本」になりますが、本書は直弟子などに書写され次々と転写されています。富木氏の転写も『常修院本尊聖教録』にみえ、日興上人の転写は第二転本であることが『富士一跡門徒存知事』に念書されています。当初は一巻であったものを、便宜上に上下二巻、上中下三巻、四分冊に分けられるようになりました。宮崎英修先生は正本がご自題表紙付きの一巻一帖であるので、『種種御振舞御書』に、「開目抄と申す文二巻」(九七五頁)とあるのは、転写中の誤りとしています(『日蓮聖人研究』三〇五頁)。

後世になり日乾上人が身延在山中に、これまでの写本と真蹟を対照され、異本と違うところが五七ヶ所、異本が正しかったところ一三ヶ所、本文の訂正がおよそ一九七八ヶ所、本文の字数が三五六三八文字としています。この『乾師対照本』が、もっとも原本に正確なものとされています(宮崎英修著『日蓮聖人研究』二九六頁)。小川泰堂居士の『高祖遺文録』は、明治五(一八七二)年に真蹟によって校正されています。真蹟は明治八年に焼失しました。この日乾上人の『乾師対照本』は京都本満寺に所蔵されています。これにより、表題の「開目」は日蓮聖人が自ら名付けられたことが、この『日乾目録』によりわかります。本書は六五紙、その外表紙一枚に開目の二字が染筆されていました。

佐渡の紙不足のため本書は清書されることなく、原本そのままの著を鎌倉に送られました。身延一二世の円教院日意上人は、この真蹟を「開目抄のご草案」と見られたようです(宮崎英修著『日蓮とその弟子』一〇一頁)。このことから、本書の執筆状態がうかがえます。つまり、草案のように訂正や筆速の違いがあったということです。書体や改行に乱れがあり、読みやすい状態ではなかったのかもしれません。これは、佐渡の厳しい様子を現わしていることになります。

 横須賀の大明寺に『開目抄断片』が所蔵されています。昭和五四年に宮崎英修先生が、『日蓮教学研究所紀要』六号に紹介されました。この三行の真蹟は智度法師の『天台法華義纉』の引用部分にあたります。真蹟は「一切悪人○常在」と書かれたのを、のちに書写されたときは「一切悪人等云々。又云常在」と書きたしています。日蓮聖人が省略して書かれるのを熟知して、本書を拝読されたことがうかがえます。(『日蓮仏教研究』創刊号一四〇頁)。私もちょうど日蓮教学研究所にて、宗費研究生として指導をうけていたときで、宮崎先生がこの断片を開いて熱く語った口調を思いだします。『開目抄』が焼失してその真筆を拝見できない今、三行の断片のなかに日蓮聖人が「かたみ(形見)ともみるべし」とのべた思いを、宮崎先生は感じ取っていたと思われます。速筆にて一気加勢に書き進めていた緊張感が書体に顕れています。

『開目抄』は、塚原三昧堂に入られた一一月より和文体にて書き始められ、二月の初旬ころにに著述を終えたといいます(『種種御振舞御書』九七五頁)。前述しましたように、夜は雪、雹、雷電が鳴り響き、昼も日の光りもささないことが多く(九七一頁)、夜は月星に向ひ奉て諸宗の違目と、法華経の深義を談じあっていました(九七三頁)。現身に餓鬼道のような空腹感、また、厳冬の氷風は寒地獄に墮ちたようであったとのべています(九五二頁)。この間の一月一六日に塚原問答がありました。

日蓮聖人は塚原に入られてすぐに著述を始めるため、筆や紙墨を持参されたといいます。また、『開目抄』に引用された文献の量から、『注法華経』に類似する資料を携帯していったといわれています。(浅井円道著『私の開目抄』三頁)。『佐渡御書』(六一一頁)には、『法華文句』巻二・『法華玄義』巻四と『釈籤』などを佐渡に来る信徒に持たせてほしいと依頼しています。

本書は日蓮聖人の四百余編の遺文のなかで最も長編になります。そして、この年の二月に四条金吾の使者に持たせてへ送っています。(『富木殿御返事』六一九頁。『日蓮聖人全集』第二巻二一一頁)。どうじに、門下に宛てられたものでした。二月一一日の「二月騒動」についての記述はまだありません。『種々御振舞御書』に『開目抄』述作の意図を、 

「去年の十一月より勘たる開目抄と申文二巻造たり。頚切るゝならば日蓮が不思議とどめんと思て勘たり。此文の心は、日蓮によりて日本国の有無はあるべし。譬へば宅に柱なければたもたず。人に魂なければ死人也。日蓮は日本の人の魂也。平左衛門既に日本の柱をたをしぬ。只今世乱て、それともなくゆめ(夢)の如に妄語出来して、此御一門どしうち(同士討)して、後には他国よりせめらるべし。例せば立正安国論に委しきが如し。かように書付て、中務三郎左衛門尉が使にとらせぬ。つきたる弟子等もあらぎ(強義)かなと思へども、力及ばざりげにてある程に、二月の十八日に島に船つく。鎌倉に軍あり、京にもあり、そのやう申計なし」(九七五頁)

 

と、のべていることから、佐渡においても生命の危険を感じていたことにあります。鎌倉から処刑斬首の下知がくるという強迫感がありました。弟子や信徒が信仰に迷わないために、日蓮聖人の教えを書き遺しておく必要を感じたのです。また、『立正安国論』に予言した二難から日本国と国民を救済することが、法華経の行者としての使命と受け留めていたことがうかがえます。竜の口法難において斬首を逃れた日蓮聖人は、心中においては凡夫の肉体を脱皮した、本化の上行菩薩としての精神性を強めていました。その心中を、凡愚の肉体を離れた魂魄が佐渡に流罪されている、という表現となりました。この竜口法難の頸の座は、凡夫日蓮聖人から菩薩日蓮聖人へ、転換されたときであったのです。『開目抄』に、

「日蓮といいし者は、去年九月十二日子丑の時に頸はねられぬ。此は魂魄佐土の国にいたりて、返る年の二月雪中にしるして、(中略)かたみ(形見)ともみるべし」(五九〇頁)

 

と、佐渡にいる日蓮聖人は竜口にて脱皮し、凡夫の肉体をはなれた釈尊の使者としての魂魄が、佐渡にきているという実感をもたれていました。日蓮聖人の独自の法華経観は、佐渡在島により本格化される理由です。

しかし、本化上行の自覚に到達したとはいえ、信徒の疑惑を解消することが急務のことでした。太田・曽谷・金原法橋の三人には『転重軽受法門』を宛て、富木氏や四条金吾にも受難についての意義を説いて、日蓮聖人の教えを徹底させて教団の指針を示していました。さらに、佐渡において書かれた六〇余編の著述などのうち、二〇余編は法華経の行者としての受難の意義を説いていることからして、法華経の行者としての責任から、広く弟子信徒の日蓮聖人に対しての不信感である、受難の正当性を説くことが、『開目抄』を書く最大の理由でした。

 この受難を身読することは法華経の行者の証になりますが、もう一つの課題として林立されるのが、諸天善神の守護の明かしでした。なぜなら、諸天善神は法華経の会座にあって、しかも、三仏の御前において行者守護の誓願を立てているからです。仏前にて誓言をされているのですから、これを破ることはないはずなのです。しかし、はたして、日蓮聖人にたいして諸天の守護があったといえるのか、という疑問が門家から噴出したのです。ゆえに、日蓮聖人は諸天善神の守護がないのは、自身が法華経の行者といえないのではないか、という自問を投げかけたのです。すなわち、本書に、

 

「但世間の疑といゐ、自心の疑と申、いかでか天扶給ざるらん。諸天等の守護神は仏前の御誓言あり。法華経の行者にはさる(猿)になりとも法華経の行者とがう(号)して、早々に仏前の御誓言をとげんとこそをぼすべきに、其義なきは我身法華経の行者にあらざるか。此疑は此書肝心、一期の大事なれば、処々にこれをかく上、疑を強くして答をかまうべし」(五六一頁)

と、のべたのが本書の主題となっています。どうじに、佐渡の緊迫した気配は生還して鎌倉に帰ることができないという危機を察して、日蓮聖人のかたみ(形見)となるかもしれないという遺文です。

はたして、日蓮聖人は本当に死を覚悟されて、本書を書かれたのでしょうか。もし、死去されたならば、後年の『観心本尊抄』などの著述は表れなかったのです。『開目抄』のみにて全てを書き顕わされたのかという疑問があります。しかし、このあとの四月一〇日に富木氏に宛てた書状(六一九頁)などを拝読しますと、命に迫った塚原の状況であったことがうかがえます。茂田井教亨先生がのべているように、死ぬ覚悟でいなければならない日蓮聖人の心境に迫らなければ、『開目抄』が理解できないのかもしれません。(『開目抄講讃』下巻二六四頁)。

「開目」とはなにかを直接にはのべていませんが、日蓮聖人が言おうとしている意味は、本書のなかに度々暗示されています。とくに、後年の『報恩抄』に、

「日蓮が慈悲曠大ならば、南無妙法蓮華経は万年の外未来までもながるべし。日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり。無間地獄の道をふさぎぬ」(一二四八頁)

と、のべた文と同意といわれ、人々に法華経を結縁し信仰に導くこと、そして、謗法堕獄の怖さを知らしめることが前提となって、そのための論理が縦横に駆使されています。つまり、「開目」には法の開顕と、人の開顕の二つのことを本書に示されています。(『日蓮聖人全集』第二巻五四八頁)。日蓮聖人が最後の書状となるかもしれないという切羽詰まったなかで(『中興入道御消息』一七一五頁)、法と人の両者を説明されたのが本書です。しかし、『観心本尊抄』において本門法華経の思想が論及された立場からみますと、その大前提となる、本化上行菩薩を開顕されることが必須であったとうかがえます。本書はまず、自身の正当性を明らかにし、一切衆生の人々の盲目を開くことに心血をそそがれたのです。

  開目  人――末法の師、法華経の行者――主
       法――法華最勝、妙法五字――――従

換言しますと、これを解明されていく理由は、「法華経の行者」を証明することにあります。本書に「法華経の行者」という言葉を二六回のべているといいます。主体となっている課題は本化上行菩薩という日蓮聖人の人格の解明にありますので、本書が日蓮聖人の「人開顕」の書といわれる理由はここにあります。つまり、『開目抄』は法華経の行者の確信=上行自覚の開顕(人開顕)を主体としてのべており、『観心本尊抄』は観心の法門の詮顕=題目一大秘法への帰結(法開顕)をのべています。(『日蓮宗事典』)。また、『開目抄』にて「本因本果の法門」が解説されたことにより、始めて本門の事一念三千の理論は完き内容を得たといいます。これにより、台密批判の萌芽もみられるのです(日蓮聖人遺文辞典』歴史篇一六八頁)。

以上をまとめますと、『開目抄』は先の『寺泊御書』(五一四頁)の難問に答えるために、大きく二つの見解を伝えることが述作の動機となっています。簡略しますとつぎのことです。

 

・本化上行菩薩であることを証明(開顕)するため

・末法救護の本門法華経の題目を知らせるため

 

 このことを知らせることが、「開目」の二文字に込められていると思われます。上行自覚については、直接的にはのべていませんが、前年の文永八年一一月に富木氏に宛てた『富木入道殿御返事』に、

 

「前相先代に超過せり。日蓮粗勘之是時の然らしむる故也。経云有四導師一名上行云々」(五一六頁)

 

と、内証は上行菩薩の自覚にあることを、微かながらのべて、富木氏に書状を送りました。(『日蓮聖人遺文辞典』歴史篇一六八頁)。有力な弟子・信徒は、各々が地涌の菩薩の自覚をいだいていたのです。

本書は長文ですが大まかに三つに区分されています。『日蓮聖人遺文全集講義』(第九巻上九六頁)は、優陀那日輝上人の三段四章九節に従って解釈しています。『日蓮聖人御遺文講義』(第二巻二八頁)は、三段八章三四節に細分して解説しています。『日蓮聖人全集』(第二巻五四八頁)は、三段一八章に区切っています。茂田井教亨先生の『開目抄講讃』と、浅井円道先生の『私の開目抄』も、一八章に区分して講述されています。ここでは、三段一八章の構成に従って内容をうかがってみます。

 

・三段一八章

 

第一段序論(一章~三章) 儒教・外道・仏教の頂点に法華経(釈尊三徳)があることを示す

〔第一章〕「主師親三徳」と「五重相対」により、仏教が勝れていることをのべる

〔第二章〕「一念三千」は如来寿量品の文底に説かれた

〔第三章〕邪宗が蔓延したため善神が捨国した

 第二段本論(四章~一六章) 法華経が末法の明鏡であり日蓮聖人が色読により証明された(五四二頁)

〔第四章〕「二乗作仏」がなければ私たちの成仏もない

〔第五章〕「久遠実成」(本因本果の法門)が成仏を可能にしたが難信難解である

〔第六章〕受難を覚悟して「立教開宗」された

〔第七章〕法華経の予言を身読された

〔第八章〕諸天はなぜ法華経の行者を守護しないのか(この書の肝心、一期の大事)

〔第九章〕迹化菩薩と迹門の「一念三千」

〔第一〇章〕本化菩薩の出現により「過去常」を示し諸仏菩薩は釈尊の弟子となる

〔第一一章〕釈尊本尊を知らない諸宗の本尊の誤り

〔第一二章〕厳愛の義と一念三千仏種

〔第一三章〕三箇の勅宣と二箇の諫暁によって法華経の行者を確認

〔第一四章〕「三類の強敵」があれば法華経の行者も存する

〔第一五章〕『立正安国論』と三大誓願の確認

〔第一六章〕滅罪と忍難弘教の約束

 第三段流通分(余論、一七章~一八章) 法華経弘通について示される(六〇五頁)

〔第一七章〕末法は折伏のときであると諫暁する(流通分に入る)

〔第一八章〕仏使の行いと悦び

 

それでは、『日蓮聖人全集』(春秋社)の、一八章の区分にしたがって、本書の内容にふれていくことにします。

 

〔第一章〕主師親三徳と五重相対により、仏教が勝れていることをのべる

 

まず、冒頭の書き出しに主師親の三徳と、習学すべきこととして儒教・外道・仏教をあげます。

 

「夫一切衆生の尊敬すべき者三あり。所謂主・師・親これなり。又習学すべき物三あり。所謂儒・外・内これなり」(五三五頁)

 

本書のはじめに主師親の三徳をあげたのは、釈尊が本仏であることをのべる端緒とします。儒教・外道・内道(仏教)の三道をあげたのは、この三道を相対して(「五重相対」)法華経が勝れた教えであることをのべていく発端となっています。換言しますと『開目抄』の冒頭に本仏と本法を論じていくテーマを示したといえます。

三徳については前述したように、建長七年の三四歳の『主師親御書』(四五頁)に簡単にふれ、文応元年三九歳の『今此三界合文』(二二九〇頁)に、儒教と外道の関係を示しています。小松原法難について知らせた文永元年一二月の『南条兵衛七郎殿御書』(三一九頁)に、三徳具備の釈尊を示され、道善房の念仏信仰にたいし、釈尊と弥陀の違いを三徳を用いて説明されていました。また、『一代五時鶏図』にみられるような図録は、早い時期から、日蓮聖人は弟子信徒に法華経の基本の教えとして説いてきたと思われます。なぜなら、日蓮聖人の釈尊観は三徳観を基本としていると思われるからです。(渡辺宝陽著『日蓮仏教論』一〇三頁)。本書に主師親の三徳を標示したことにより、弟子たちは日蓮聖人がなにを教えようとされているのか、その意図を理解できるであろう、という前提にたたれていたと思います。日蓮聖人が促したことは、釈尊こそが最も大事な仏であり、その釈尊の真実の教えこそが法華経であることを示そうとされました。

はじめに、倫理的な三徳の尊厳は誰にも理解しやすいことなので、まず、世法における主師親の三徳をあげます。これは『貞永式目』に主・師・親を重んじる世間法が書いてあるのを取り入れて、釈尊を尊敬すべき理由をわかりやすく説明したといいます。また、章安大師の『涅槃経疏』を引用されたのは周知のことです。(浅井円道著『私の開目抄』一〇頁)。『涅槃経』からの引用(約四四回)が多いのも、本書の特色といえます。(関戸堯海著『日蓮聖人教学の基礎的研究』一四九頁)。日蓮聖人はつぎのように釈尊の三徳を説明する方法をとっています。『一代五時鶏図』(文永九年・一〇年・建治元年の説があります)に、

 

「釈尊

主――主上・天尊・世尊・法王・国王・人王・天王。違八虐

天竺――二天[摩醯首羅天]・[毘紐天]・大梵天・第六天・帝釈天・師子頬王・浄飯王

震旦――三皇・五帝・三王等

日本――神武天皇

師――師匠。違七逆。

外道師―三仙[迦毘羅]・[楼僧伽]・[勒沙婆]。六師

外典師―四聖[尹喜](尹伊・尹寿)・[務成](もうせい)・[老]・[呂望]。周公旦・孔子・顔回

親――違五逆―八親・六親

章安釈 涅槃疏云。一体之仏作主師親」(二三三八頁)

 

「今此三界皆是我有――世尊三界特尊 二十五有 

其中衆生悉是吾子――理性子 結縁子  文句五云一切衆生等有仏性仏性同故等是子也

 而今此処多諸患難唯我一人能為救護―― 玄六云本従此仏初発道心亦従此仏住不退地」(二三三九頁)

 

と、一般社会における主師親とその倫理観を通して、そこから私たちと釈尊の関係を仏教的に深めて、三徳を具備するのは釈尊であることを示していきます。ここに示したいことは、釈尊一仏のみがこの三徳を具備していることです。経文はおもに譬喩品のつぎの文に釈尊の三徳をのべています。

 

―主――今此三界皆是我有――――娑婆の国主

釈尊―――――其中衆生悉是吾子――――久遠下種(はじめから)父子関係

―師――ただ我一人の救護――――諸仏の本師・教主

 

つまり、他の弥陀や大日などの諸仏は主と師の徳はあっても、親の徳は欠けるとして、釈尊のみに三徳が具備していることを強調します。『浄蓮房御書』に、 

「阿弥陀仏は無上念王たりし時、娑婆世界は已にすて給ぬ。釈迦如来は宝界梵志として此の忍土を取給畢。十方の浄土には誹謗正法と五逆一闡提とをば迎べからずと、阿弥陀仏・十方の仏誓給き。宝界梵志の願云、即集十方浄土擯出衆生我当度之[云云]。法華経云、唯我一人能為救護等[云云]。唯我一人の経文は堅きやうに候へども釈迦如来の自義にはあらず。阿弥陀仏等の諸仏我と娑婆世界を捨しかば、教主釈尊唯我一人と誓て、すでに娑婆世界に出給ぬる上は、なにをか疑候べき」(一〇七六頁)

 

と、娑婆国土の衆生を救済する誓願を立てたのは釈迦一仏であり、弥陀等は娑婆衆生の救済を拒否した、という観点からのべています。『観心本尊抄』に入りますと、本尊仏としての釈尊が示されてくるように、日蓮聖人において三徳は、重要な教学的な意味をもっていることがわかります。

 つぎに、「五重相対」に入るまえに、修学することとして、「儒教」・「外道の教え」・「内道である仏教」の三っつの教えがあることにふれます。まず、儒教の学ぶ書物をあげます。

三墳―三皇―伏義・神農・皇帝

五典―五帝―少昊・化歓・帝・尭王・舜王

三史―三王―禹王・湯王・文王

 

 また、『和漢王代記』(建治二年『定遺』・文永七年『対照録』)にも、これら人名と書物を羅列しています。

 

「三皇――伏羲・神農・黄

五帝――少昊。化歓(三墳五典)・帝・尭王(男子九人女一人)・舜王

―第一文王 第二武王 第三成王  周公旦

―当第四昭王御宇二十四年甲寅[四月八日仏御誕生也。五色光気亘南北大史蘇由占之]

中間七十九年也

周―――当第五穆王五十二年壬申 [二月十五日御入滅。十二虹亘南北大史扈多占之]

―有三十七王或八

――一儒教 五常 [孔丘] 文武等也[顔回]

―(他筆)三教―――二道教 仙教[老子]  

――三釈教 一代五十余年」(二三四三頁)

 

 これらの書物の肝要についてのべます。すなわち、儒教の教えは天地万物を三玄(有の玄―周公。無の玄―老子など。亦有亦無―荘子)に説き、太極を万物の本としますが、今世に限定され三世を説くまでには至らないので、儒教では成仏ができないとのべます。儒教や道教の教えは生きている現在だけには通じても、過去の業をつぐない未来を救済する成仏までは説かれていないので、したがって、恩のある親などを救えない不知恩になる、とその限界をのべています。(五三五頁)。

 

「而といえども、過去未来をしらざれば父母・主君・師匠の後世をもたすけず、不知恩の者なり。まことの賢聖にあらず。孔子が此土に賢聖なし、西方に仏図という者あり、此聖人なりといゐて、外典を仏法の初門となせしこれなり。礼楽等を教て、内典わたらば戒定慧をしりやすからせんがため、王臣を教て尊卑をさだめ、父母を教て孝高きことをしらしめ、師匠を教て帰依をしらしむ」(五三六頁)

 

そして、外道についてもインドの仏教以外の外道(バラモン教)の教えでは、二天・三仙を信仰の対象としているので成仏できないことをのべます。この三仙の教えは四韋陀といい、外道においての極理とします。

 

其所説の法門の極理、或は因中有果、或因中無果、或因中亦有果亦無果等[云云]。此外道の極理なり」(五三七頁)

 

二天――主・親 摩醯首羅天](大自在天)[毗紐天](密教では大自在天と同じとする)

三仙――師―― 迦毗羅因中有果僧伽因中無果勒沙婆因中亦有果亦無果

この外道の教えについて、

 

「しかれども外道の法九十五種、善悪につけて一人も生死をはなれず。善師につかへては二生三生等に悪道に堕、悪師につかへては順次生に悪道に堕。外道の所詮は内道に入即最要なり」(五三八頁)

 

と、外道は善悪どちらにしても、生死の輪廻から逃れることはできず成仏できないので、仏教の初門となるとのべています。そして、つぎに仏教についてのべていきます。釈尊は、

 

大覚世尊。此一切衆生の大導師・大眼目・大橋梁・大船師・大福田等なり」(五三八頁)

 

と、生死の輪廻を離れ無明の惑を離れた仏陀であるとのべ、一代五十年の教えのなかでも法華経こそが、

 

「但法華経計教主釈尊の正言也。三世十方の諸仏の真言也」(五三九頁) 

と、真実の正言とのべ、諸仏の真言とのべます。多宝仏の証明、分身仏の広長舌を法華最勝の証文とします。

そして、この儒・外・内のどの教えが成仏を可能にしているかを追及します。このとき、教えを比べて判断したときに勝劣が生じます。この勝劣を論じる手順を五重相対といいます。渡辺宝陽先生は日蓮聖人が章安大師に示唆を得た三徳論は、仏教を勝劣をもって決しなければならないとする、仏教把握に関連していると推察しています。(渡辺宝陽『日蓮仏教論』一一三頁)。日蓮聖人が三徳を示して、つぎに、五重相対をかかげる展開は、仏教のなかにおいても、諸経と法華経の勝劣を論じることでした。

 

・五重相対(五段相対)

一.内外相対

 まず、仏教と外道の勝劣をのべます。儒教の教えは過去と未来を説いていないので、父母などの後生を救うことができない不知恩の者とのべていました。(五三六頁)。外道も九五種の修行をしても、生死を離れることができないとのべます。(五三八頁)。つまり、儒教・外道の教えでは成仏ができないということです。それにたいし、仏教は三世の因果を説き明かした教えであり、三惑已断の釈尊が説いた真実の教えであるとのべます。(五三八頁)。ここをもって次のようにのべます。

 

「されば一代五十余年の説教は外典外道に対すれば大乗なり。大人の実語なるべし。初成道の始より泥の夕にいたるまで、説ところの所説皆真実也」(五三八頁)

 

 そして、儒教・外道の教えは「仏法の初門」(五三六頁)、「内道に入る即最要なり」(五三八頁)とします。

 

二.大小相対

「但、仏教に入て五十余年の経々八万法蔵を勘たるに、小乗あり大乗あり」(五三九頁)

 仏教においても大乗と小乗の教えが区別されます。小乗の教えの限界と大乗の勝れたことを比較します。

 

阿含の三蔵教は小乗――――――――――倶舎・成実・律は小乗

華厳・方等・般若・法華涅槃等は大乗――三論・法相・華厳・真言・天台等は大乗

 

この区別の基準となることは、小乗で説かれた仏は劣応身・有為の身であり、説かれていることは生滅の四諦で、空理を悟って六道三界の内における出離生死を説くのみです。大乗の仏は三身具足の勝応身を説き、説かれた教えも無生・無量・無作の四諦で、中道実相の理を詮し、十界の依正を説きます。また、仏性の普遍を説いて、一切衆生悉有仏性や十方有仏を説くので、ここに大乗が勝れているとします。

 

三.権実相対

「権経あり実経あり、顕教密教、軟語麁語、実語妄語、正見邪見等の種々の差別あり。但法華経計教主釈尊の正言也」(五三九頁)

 

権経(権大乗)――華厳・方等・般若の諸経―華厳・真言・法相・三論・浄土・禅

実経(実大乗)――法華経

 

権経と実教の区別は、釈尊の随自意である真実が説かれているか否かにあります。その真実とは二乗作仏・久遠実成のことです。(五四二頁)。この二箇の大事である二乗作仏・久遠実成を説いていない大乗を、「「未顕真実」(五三九頁)といいます。

 

法華経―――迹門における仏性開顕論の二乗作仏(記小)・一念三千

ー本門における仏身開顕論の久遠実成(久成)

 

法華経いがいの権大乗は二乗作仏を説かないから、二乗・悪人・女人は成仏できない歴劫修行の教えとなります。また、久遠実成を説かないので、その教主釈尊も始成正覚の仏のままです。ゆえに、種熟脱の三益、化導の始終が説き明かされないことになります。これにたいし法華経は、二乗作仏を説くことにより、十界互具・一念三千の法門が成立します。よって所化の教益である成仏が可能となりました。また、久遠実成が説き顕されることにより、釈尊が本仏として成立します。このことは諸仏の統一が示され、能化の実事である「「六或示現」の化導が明かされたのです。ここに、法華経が実大乗といわれ勝れているとします。

 

四.本迹相対

「但此経に二十の大事あり」(五三九頁)

 

 「二十の大事」というのは、『文句記』の十双二十隻のことで、一番目は二乗に近記を与える。二番目は如来の遠本を開くから始まり、一九番目に迹化には三千の墨点を挙げ、二十番目に本成には五百の微塵に喩えたりまをいいます。一と二番目が対になり順次に対になっていることから、『法華礼誦要文集』に十双歎ともいいます。一番目は方便品から人記品に至るまでの八品で説かれた二乗(声聞・縁覚)作仏と、二番目の寿量品において、釈尊自らの過去・未来の永遠の生命を示された久遠実成をいいます。つまり、一双目は二乗作仏と久遠実成のことです。さいごの十双目は化城諭品の三千塵点劫と、如来寿量品の五百塵点劫の、「三五の二法」のことをいいます。『縮刷遺文』には「二箇の大事」とあり、この場合は一双目の二乗作仏と久遠実成としています。(『日蓮聖人遺文全集講義』第九巻上二〇七頁)。日乾上人の書写本は「二十大事」と書かれ、「十」の横に「ケ イ」とあり、これは「二ケの大事」と「イ(異本)」にあることを示し、真蹟は「二十大事」と書かれていることを表しているといいます(宮崎英修著『日蓮聖人研究』三〇九頁)。

 本書の構成はここから第二章に入ります。本章の首題である一念三千は、本迹相対と教観相対を知ることにより明確になります。本迹相対の本迹とは、本門一四品と迹門一四品のことで、本迹のどちらが勝れているかを糺すことです。法華経が勝れているのは、二乗作仏と久遠実成が説かれていることでしたが、この二乗作仏も久遠実成が明かされてこそ、その論理が成立するとします。本書に、

 

「迹門方便品は一念三千・二乗作仏を説て爾前二種の失一つを脱れたり。しかりといえどもいまだ発迹顕本せざれば、まことの一念三千もあらはれず、二乗作仏も定まらず。(略)本門にいたりて、始成正覚をやぶれば、(略)爾前迹門の十界の因果を打やぶて、本門十界の因果をとき顕はす。此れ即ち本因本果の法門なり。九界も無始の仏界に具し、仏界も無始の九界に備りて、真の十界互具・百界千如・一念三千なるべし」(五五二頁)

 

と、のべているのは、迹門において二乗作仏・百界千如を説いて、舎利弗などの声聞の成仏と、悪人・女人などの一切衆生が成仏したことを説いていますが、もっとも大事なことは、教主釈尊の仏格に違いがあることです。つまり、迹門の釈尊は始成正覚・有始有終の仏であり、仏の本因・本果・本国土の実体を顕さないとします。本門の久遠実成の開顕により、法・仏ともに無始本有となるとします。これを、「本因本果の法門」といいます

 

  迹門――仏性論―始成正覚の仏・従因至果の一念三千・本無今有――本因

  本門――仏身論―久遠実成の仏・従果向因の一念三千・本有常住――本果

 

 このことは、すでに、『十章抄』にのべています。

 

「一念三千と申事は迹門にすらなを許されず。何況爾前に分たえたる事なり。一念三千の出処は略開三之十如実相なれども、義分は本門に限。爾前は迹門の依義判文、迹門は本門の依義判文なり。但真実の依文判義は本門に限べし」(四八九頁)

 

 つまり、二乗作仏を可能にした本当の経説は、本門の如来寿量品にあるということです。この理由により迹門より本門のほうが勝れているとします。これを本勝迹劣といいます。

 

五.教観相対

 そして、この本門一四品の中においても、如来寿量品の文の底に一念三千が秘蔵されているとします。本書に、

「倶舎宗・成実宗・律宗・法相宗・三論宗等は名をもしらず。華厳宗真言宗との二宗は偸に盜で自宗の骨目とせり。一念三千の法門は但法華経の本門寿量品の文の底にしづめたり龍樹天親知て、しかもいまだひろいいださず。但我が天台智者のみこれをいだけり」(五三九頁)

 

 法華経以前の爾前経は、一念三千の経文も実証はないのであり、法華経においても如来寿量品の文底にあるのを、天台大師が拾い出したという日蓮聖人の見解をのべます。ここに、一念三千は如来寿量品の「文底秘沈」の法門といい、日蓮聖人の独自な本門教学といいます。そして、これを観心といい、とくに日蓮聖人が重要とされた教えとなります。

 

  教相――本門八品・一品二半の如来寿量品の文上

  観心――如来寿量品の文底に秘沈された一念三千・妙法蓮華経の五字

 

 なを、この教観相対を、種脱相対とする大石寺日寛師の解釈がありますが、これについては後述します。(『日蓮聖人遺文全集講義』第九巻上一一四頁。『日蓮聖人御遺文講義』第二巻八〇頁)

 

〔第二章〕一念三千は如来寿量品の文底に説かれた

 

法華経には「二十の大事」の法門があることをのべました。天台大師が一念三千義を説いたのは、前述したように『摩訶止観』第五巻で、日蓮聖人は『八宗違目鈔』に、この出処を引いていました。また、『八宗違目鈔』には、四教における十界についてものべていました。

 

「円教――法華ノ円――――不思議十界互具」(五三〇頁)

本書にも、つぎのようにのべています。

 

 法相・三論―――――八界のみ(修羅・仏界を明かさない)

 倶舎・成実・律宗――六界のみ(声聞から仏界の四界を明かさない)

 法華経―――――――十界互具・百界千如・一念三千を明かす

 

この一念三千の法門は、十界互具よりはじまり(五三九頁)、ついで、迹門の方便品の十如実相により深められます。天台大師の『摩訶止観』の十界互具・一念三千が基本となります。二乗作仏はすべての衆生の成仏を説きます。しかし、日蓮聖人にとっては、天台大師が説いた迹門の一念三千は、末法においては不完全であるとします。そして、本門寿量品の久遠実成が説かれて、真実の一念三千の法門は成立するのであり、さらに、この一念三千の法門は、「本門寿量品の文の底にしずめたり」(五三九頁)として、天台大師の「迹門の一念三千」を進展させ、「本門の一念三千」論をのべたのです。日蓮聖人の教学の特徴として、一念三千の論理が成立するかどうか、というところに勝劣をのべていきます。ここを、成仏論の根拠とされています。諸経と法華経の比較を、一念三千成仏の有無で判断されたのです。(茂田井教亨著『開目抄講讃』上巻一〇一頁)。

そして、この一念三千の教えを説いたのは、天台大師だけであるとのべていました。(『摩訶止観』「三千は一念の心に具す」)。本書はこの二乗作仏と久遠実成を多角的にのべていきます。それは、日蓮聖人がのべた「文底秘沈」の教学を解明するためです。

 

○〔第三章〕邪宗が蔓延したため善神が捨国した

 

 法相宗――玄奘と弟子の慈恩大師は、天台大師の三乗方便・一乗真実に心のなかでは帰伏していた

 真言宗――善無畏と金剛智三蔵は、天台の一念三千を真言に盗用し、印と真言の事相を加えた

 華厳宗――澄観が「心如工画師」の文に、天台の一念三千を巧妙に取り入れた

 

 これらの六宗と真言宗の邪見を、最澄は論破し天台宗に帰伏させ、比叡山の末寺としたとのべています。(五四一頁)。ところが、時代が経つにしたがい智者はいなくなり、ついには七宗のみならず、禅宗と浄土宗にも劣ってしまい、檀家も邪宗に移ったとのべています。このため、諸天善神は正法の法味を失ったため威光を失い国中を捨て去り、かわりに悪鬼が国中に乱れ入り破国になろうとしているとのべます。この「善神捨去」は『立正安国論』にのべていたことです。

 

○〔第四章〕二乗作仏がなければ私たちの成仏もない

 

 法華経が勝れている理由は、すべての衆生が成仏できる教えであるからです。日蓮聖人が求めていることは成仏にあります。これまで二乗は自分の灰身滅智しか考えてきませんでしたので、成仏はできないとされて蔑まされてきました。ところが、法華経の迹門の教えはこの二乗の成仏を説き、二乗に授記作仏されたのです。この二乗作仏はどうして重要なのかを追及し、解明していくのが本書の大事なところです。

 

「此に予愚見をもて前四十余年と後八年との相違をかんがへみるに、其相違多といえども、先世間の学者もゆるし、我が身にもさもやとうちをぼうる事は二乗作仏・久遠実成なるべし」(五四二頁)

 

 日蓮聖人はこれまでにのべたことから、法華経と爾前経の相違は二乗作仏と久遠実成であるとして、二乗作仏にふれていきます。まず、爾前経には二乗は成仏できないとされた経文、つまり、爾前経では二乗は「永不成仏」と説いてきた経文をあげます。

 

『華厳経』「二乗は火坑」「一闡提人は水輪」この二類は永く仏にならないと説きます。(五四三頁)

『大集経』「不能知恩報恩」二乗は自利のみを考え、父母を救わないから不知恩の者である。(五四四頁)

『維摩経』凡夫の三毒・五逆罪は仏種となるが、「根敗の者は五楽を利することができない」ように、逆説的に二乗の善は永不成仏と説く

『方等陀羅尼経』二乗は「燋種」、仏種を焦ったものは成仏の芽がでないと説く

『大品般若経』諸天(天界)は菩提心を発すが、二乗は灰身滅智のため菩提心を発さない

『首楞厳経』五逆罪の者は菩提心をおこすが、煩悩を断じた二乗は首楞厳三昧を受けることができない、

『浄名経』二乗に供養しても福田にはならず、かえって三悪道に堕ちると説く

 

 このように、諸経を引いて二乗は「永不成仏」であると説かれた証文を示します。そして、法華経のみがこの二乗の成仏を説いた経であり、このことは十界の成仏を完成された経であることを示したのです。

しかし、釈尊が法華経にて二乗作仏を説いたことにたいし、これまでの説とは違うので、外道や弟子たちは自語相違(五四七頁)とうけとり不信をいだきます。そのときに多宝仏が大地より出現して、釈尊の所説が真実であることを証明した経文と、神力品に釈尊が「広長舌」をもって三千世界を覆ったこと、属累品に十方分身諸仏が歓喜して「帰本土」した文を引きます。これを「三仏の証明」といい、爾前経の神力とはスケールが違うことをいうのです。この、虚空会の法座の儀式が真実であるように、そのなかに含まれる二乗作仏も、釈尊の真実の言葉であることをのべます。

また、釈尊が『大集経』・『大品般若経』・『金光明経』・『阿弥陀経』などを説いたのは、十方に浄土があると説いて、小乗に滞ることを叱ったのであり、諸大乗経を説いたのは、小乗で説いてきた十方世界に一仏であることを方便とし、十方に多仏が存在していることを知らせたのです。このように、法華経は爾前経に説いたことを方便として真実を説くため、二乗や人・天・菩薩は釈尊が魔の仏となったのではないか、と疑念をもったほどであることをのべます。

そして、これらの方便の施教を知らないため、日蓮聖人が現在、直面している華厳・法相・三論・真言・念仏宗などの者は、自宗が信奉する経典と法華経とは同じ内容であると錯覚していると批判します。現状の宗教界の邪見と民衆の信仰が、真言宗・禅宗・念仏宗に帰依していることを歎いているのです。日蓮聖人は最澄ひとりが法華経を色読した、とのべても誰も信用しないけれど、日蓮聖人がこれまで説いてきた、法華最勝・題目受持の強義は経文に符合したと断定します。日蓮聖人の布教方法は正しかったことをのべたのです。

 

「日蓮云、日本に仏法わたりてすでに七百余年、但伝教大師一人計法華経をよめりと申をば諸人これを用ず。但法華経云 若接須弥擲置他方無数仏土亦未為難。乃至若仏滅後於悪世中能説此経是則為難等[云云]。日蓮が強義経文には普合せり。法華経の流通たる涅槃経に、末代濁世に謗法の者十方の地のごとし。正法の者は爪上の土のごとしと、とかれて候はいかんがし候べき。日本の諸人は爪上の土か、日蓮は十方の土か、よくよく思惟あるべし。賢王の世には道理かつべし。愚主の世に非道先をすべし。聖人の世に法華経の実義顕るべし等と心うべし。此法門は迹門と爾前と相対して爾前の強きやうにをぼゆ。もし爾前つよるならば舎利弗等の諸二乗は永不成仏の者なるべし。いかんがなげかせ給らん」(五四九頁)

 

 釈尊は法華経に、末法に法華経の真実を説くことは非常に困難であり、『涅槃経』の迦葉品には「爪上の土」のごとく少ないと説かれていることを引き、日蓮聖人はどちらに当るかをよく考えるようにと問います。これは、逆説的に日本において法華経を身読したのは、最澄と日蓮聖人のみであることを示されたのです。また、爾前経を用いるならば、法華経において舎利弗などの二乗が成仏したことは消えて、永不成仏の者となるとのべます。舎利弗などの四大声聞たちが、法華経に恩義があることをほのめかしています。

今までは成仏できないと言われてきた、「決定性の二乗・無性の闡提」の成仏について、この表記がみられるのは、『開目抄』以降には『観心本尊抄』のみ、と渡辺宝陽先生が指摘しています。(『開目抄の「二乗、一闡提」という表現をめぐって』『日蓮とその教団』所収一六九頁)。この問題は両抄において、一念三千成仏の論理が明らかにされたことにより、論説の課題とはならなくなったとしています。これ以降は上行自覚による教学の転換がされていくと指摘します。(同一七三頁)。つまり、日蓮聖人は法華経が尊いことを、二乗作仏の成仏によって私たちに示されます。この法華最勝をふまえて、日蓮聖人が法華経の行者として、布教してきたことの意義を示されようとされたのです。

 

〔第五章〕久遠実成(本因本果の法門)が成仏を可能にしたが難信難解である

 

つぎに、本門の涌出品に入って、始めて久遠実成が明かされたことをのべます。本文の「二には教主釈尊は住劫第九の」(五五〇頁)から入ります。このところが、二の本門の久遠実成、一をこの前の第四章、迹門の二乗作仏とします。(茂田井教亨著『開目抄講讃』上巻一〇〇頁)。まず、『華厳経』から法華経の迹門までは、始成正覚の釈尊である根拠の経文をあげます。

 

「諸阿含経云 初成道等云云。大集経云 如来成道始十六年等[云云]。浄名経云 始坐仏樹力降魔等[云云]。大日経云 我昔坐道場等[云云]。般若仁王経云 二十九年等[云云]。此等は言にたらず。只耳目ををどろかす事は、無量義経に華厳経の唯心法界、方等般若経の海印三味・混同無二等の大法をかきあげて、或未顕真実、或歴劫修行等下程の御経に、我先道場菩提樹下端座六年得成阿耨多羅三藐三菩提と初成道の華厳経の始成の文に同ぜられし、不思議と打思ところに、此は法華経の序分なれば正宗の事をばいわずもあるべし。法華経の正宗略開三広開三の御時、唯仏与仏乃能究尽諸法実相等、世尊法久後等、正直捨方便等、多宝仏迹門八品を指て皆是真実と証明せられしに何事をか隠べき。なれども久遠寿量をば秘せさせ給て、我始坐道場観樹亦経行等[云云]。最第一の大不思議なり」(五五一頁)

 

 つまり、久遠実成については法華経の迹門においても、秘密にされていたことだったのです。これまでは始成正覚の仏であったわけです。ところが、涌出品において大地より地涌の菩薩が出現します。弥勒菩薩もこれまでに見たことがない(「未見今見」)大菩薩だったのです。(五五一頁)。弥勒は釈尊に四十余年のいつの間に、これら地涌の菩薩を教化されたかを質問したのが涌出品でした。そして、これに答えたのが如来寿量品です。すなわち、釈尊はインドの菩提樹に端座して成道したと思っていることを否定して、真実には過去久遠の昔に成道していた仏であることを開顕します。如来寿量品に釈尊は、「然善男子。我実成仏已来。無量無辺。百千万億。那由佗劫」(『開結』四一六頁)と説きます。この文は重要なところで、本書に、

 

「一念三千の法門は但法華経の本門寿量品の文の底にしづめたり」(五三九頁)

とのべた、「文底」の根拠となるの経説はここにあるといいます。(茂田井教亨著『開目抄講讃』上巻一一一頁)。「開迹顕本」(破近顕遠)の経文はここから始まります。ここで、日蓮聖人は爾前経には二つの失(欠点)があるとのべ、妙楽の『釈籤』をあげます。

 

「此等の経々に二の失あり。一には存行布故仍未開権。迹門の一念三千をかくせり。二には言始成故曽未発迹。本門久遠をかくせり。此等の二の大法は一代の綱骨・一切経の心髄なり。迹門方便品は一念三千・二乗作仏を説て爾前二種の失一を脱たり。しかりといえどもいまだ発迹顕本せざれば、まことの一念三千もあらはれず、二乗作仏も定まらず。水中の月を見るがごとし。根なし草の波上に浮るににたり。本門にいたりて、始成正覚をやぶれば、四教の果をやぶる。四教の果をやぶれば、四教の因やぶれぬ。爾前迹門の十界の因果を打やぶて、本門十界の因果をとき顕す。此即本因本果の法門なり。九界も無始の仏界に具し、仏界も無始の九界に備て、真十界互具・百界千如・一念三千なるべし」(五五二頁)

 

 この二つの失の一つとは、三乗の行布がおのおの別教であって一乗を示していないことです。つまり、声聞・縁覚・菩薩はそれぞれの修行が同じではなく、四諦・六波羅蜜という別の修行をしていたので、三乗が同じように仏となることを説いていなかったのです。この仮の教えを権教といい、これを開権顕実することにより二乗作仏が示されます。二乗の成仏が決定されることにより、一念三千の十界互具が成立します。

二つ目には、始成正覚の仏と説いた迹門までの仏身を方便として、真実の久遠仏を明かしていないことをいいます。つまり、発迹顕本して久遠実成の仏を説いていないことをいいます。日蓮聖人は本門の久遠仏が示されることにより、これまで一代五時の四教の因果が打破されて、無始常住の因果を示すことになると説きます。爾前に説いた四教の教えは、根底から方便であったことになるからです。九界は無始永遠の仏界に包まれ、仏界も無始永遠に九界の衆生のなかに備わっている、と説いたのです。私たち凡夫も仏の性質をもっており、成仏できることがわかったのです。これを「本因本果の法門」といいます。

換言しますと、迹門で説いてきた成仏は、凡夫より仏になるという従因至果の向上を説きましたが、本門では仏から凡夫という化導があることを明かされました。これを、従果向因といい向下といいます。二乗作仏・一念三千は発迹顕本して真実の三証をそなえ、本門久遠実成の始成正覚が開顕されることにより、爾前の四教因果と爾前迹門の十界の因果が破られ、本門十界の因果が顕れる。「これが本因本果の法門」で、九界具無始仏界・仏界備九界という、真の十界互具・百界千如・一念三千となることをのべています。

 

  本因――本門の十界の因――九界は無始の仏界に具す

  本果――本門の十界の果――仏界も無始の九界に備わる

 

 そして、華厳経や阿含経の釈尊や十方分身諸仏、方等・般若・金光・阿弥陀・大日経などの、諸経に説かれた仏は釈尊の方便の姿であるとし、寿量品の本仏にたいして迹仏であるとのべます。天台大師は『法華玄義』に「不識天月但観池月」と説きます。天月とは実仏であり池の月とは権仏のことをいいます。日蓮聖人は諸宗の者は水中に映った月を実月と思い、縄をつけてでも繋ぎとめようとしているものとのべています。(五五三頁)。このように、諸仏を能統一した本仏釈尊が開顕され、どうじに仏身の三身の顕本を説いているのは、涌出品と寿量品の二品のみであるとあるとのべます。

 

本門十四品も涌出・寿量の二品を除ては皆始成を存せり。双林最後大般涅槃経四十巻・其外の法華前後の諸大乗経に一字一句もなく、法身の無始無終はとけども応身報身の顕本はとかれず」(五五三頁)

 

 日蓮聖人は三身の仏身論から久成仏の報身・応身ともに無始無終が開顕されたとし、この仏身の顕本論は法華経が他経に勝れた法門として、超勝性をのべていたところです。ここに、三身即一身・一身即三身という仏身がのべられ、天台教学(『法華玄義』)におては、本門の本因妙・本果妙の二妙が論じられます。これに、三身具足の釈尊の果位、仏果(本果妙)を三軌にあてはめる解釈があります。

 

  本因妙――我本行菩薩道

  本果妙――我実成仏巳来甚大久遠

       我――真性規――真理・本体(体)

       仏――観照軌――真理を照らし観る智慧・認識の働き(用)

       巳来―資成軌――真理と智慧からでる行為(行)

 

大切なことは垂迹仏としての釈尊が、本地久遠仏を顕したことです。地上に生まれた釈尊の生命は、肉体をもっているので有限です。その釈尊が永遠の生命を説かれたのです。釈尊が教えていることは、私たちの生命も永遠であるということです。これを、「衆生久遠」といいます。

 しかし、日蓮聖人は一般的には広範な仏教経典にくらべ、わずか涌出・寿量の二品のみを唯一の真実と理解し、諸経を方便として棄捨することは難解であろうとのべます。いわゆる、法華経の難信難解の焦点をあげます。そこで、法相宗の反論を示します。法相宗は二乗作仏を認めない宗派です。前述したように五性各別を立て、無性有情の本来より仏性をもたない者と、声聞界と縁覚界までしか悟れないという、決定性の二乗は成仏できないとします。そして、法華経も『涅槃経』もこの二つは成仏できないと説いているとします。つまり、二乗作仏は法華経にも説いていないとします。玄奘三蔵や慈恩大師でさえ許していないのを、天台大師・妙楽大師・伝教大師の僻見を信じて、爾前と法華経の水火の誤った解釈をしていると批判します。(五五三頁)

これは、法相宗の法華経にたいする解釈をのべたのです。では、舎利弗などの授記についてどのように解釈するかといいますと、舎利弗などは不決定性の二乗であるから許され、提婆達多・龍女の成仏も真の闡提ではないから成仏を許されたとするのです。(『日蓮聖人遺文全集講義』第九巻下三一七頁)。法相宗の教えでは、日蓮聖人が指摘されたように十界の全てが成仏できないことになります。

つぎに、華厳宗と真言宗にふれます。両宗ともに二乗作仏・久遠実成は法華経に限ったことではなく、『華厳経』に、「或見釈迦成仏道已経不可思議劫」(入法界品)、『大日経』に「我一切本初、号名世所依、説法無等比、本寂無有上」(転字輪曼荼羅行品)と、説かれた文を証拠とします。(五五四頁)。しかし、『華厳経』に「或見」とあることから、機根により理解が違うとします。化儀四教においては秘密であり顕露ではないとして、法華経の三誡三請重請重誡の顕露とは違います。『大日経』の「本初」は本有の法身を本初といい、如来寿量品の伽耶始成から久遠実成を開顕したものではありません。

 ところが、華厳宗と真言宗はそれぞれの祖師を崇め、善無畏三蔵は大日如来から乱れない奥義を相承をされていると説き、天台大師・伝教大師よりも高位であるとします。しかも、インド・中国・朝鮮の学者が、二乗作仏・久遠実成は法華経に限るとは言っていないと反論していることをあげます。日蓮聖人が依拠とする天台大師の教えを批判して、日蓮聖人の解釈も誤っているとしたものです。

 これは、法華経の難信難解をのべたものです。世間の法でも「先判後判の中には後判につくべし」(五五五頁)と、日蓮聖人がのべているように、法華経は信じ難く解し難いことを示したのです。その例として犢子・方広・無垢・摩沓が、大小・権実の判断に迷ったことをあげます。そして、末法の現在に至っては釈尊が、

 

「仏涅槃経記云 末法には正法の者爪上土、謗法者十方土とみへぬ。法滅尽経に云 謗法者恒河沙、正法者一二の小石と記をき給。千年・五百年に一人なんども正法の者ありがたからん。世間の罪に依て悪道に堕者爪上土、仏法によて悪道に堕者十方の土。俗より僧、女より尼多悪道に堕べし」(五五五頁)

 

と、法華経を信じる者は爪上の土のように少なく希少であることをのべ、天台大師・伝教大師、そして、日蓮聖人と、法華経を最勝と唱える者は爪上の土であるが、釈尊の真実を説く正法護持の者であることを強調したのです。この「爪上の土」の譬は先にのべたように(五四九頁)、遺文の処々にのべられています。法華経を真実と説く日蓮聖人自身のことであり、法華経を信じる者は少ないが正法を護持する信憑性を確認させているのです。

 

○〔第六章〕受難を覚悟して「立教開宗」された

 

このように、日蓮聖人が置かれた状況をのべ、「爪上の土」のように、日蓮聖人一人が法華経の真実を知る者、という知教者の自覚をのべます。そして、立教開宗の原点を回顧して、

 

「日本国に此をしれる者、但日蓮一人なり。これを一言も申出すならば父母・兄弟・師匠国主王難必来べし。いわずば慈悲なきににたりと思惟するに、法華経・涅槃経等に此二辺を合見るに、いわずわ今生は事なくとも、後生は必無間地獄に堕べし。いうならば三障四魔必競起るべしとし(知)ぬ。二辺の中にはいうべし。王難等出来の時は退転すべくは一度に思止べし、と且やすらい(休)し程に、宝塔品の六難九易これなり。我等程の小力の者須弥山はなぐとも、我等程の無通の者乾草を負て劫火にはやけずとも、我等程の無智の者恒沙の経々をばよみをぼうとも、法華経は一句一偈末代に持がたしと、とかるゝはこれなるべし。今度強盛の菩提心ををこして退転せじと願しぬ」(五五六頁)

 

と、「立教開宗」のところにて前述したように、仏子の自覚から法華経弘通の決意をされた理由をのべています。

経文(勧持品)には「三類の強敵」が行者を加害し王難となって現れ、「三障四魔」が邪魔をして競起すると説かれています。そして、宝塔品(『開結』三三八頁)には、前述したように「六難九易」が説かれています。「六難」とは、釈尊の滅後に法華経を、一、説き、二、書き、三、読み、四、一人のために説き、五、意義を問い、六、受持することが困難であること。「九易」とは、例えば、一、ガンジス河の砂の数ほどの経典を説くこと、二、須弥山を他の無数の仏土に投げ置くこと、六、大地を足の甲に置いて梵天まで登ること、七、乾いた草を背負って大火の中に入っても焼けないことなどの九つです。日蓮聖人はこれらの受難を覚悟のうえで、法華経を弘通されたことを伝えたのです。

 

○〔第七章〕法華経の予言を身読した

 

そして、「立教開宗」いらい二十余年のあいだ、退転なく法華経を弘通したことにより、法華経の文に説かれている王難などの迫害を身読したことをのべます。

 

「既に二十余年が間此法門を申に、日々月々年々に難かさなる。少々の難はかずしらず。大事の難四度なり。二度はしばらくをく、王難すでに二度にをよぶ。今度はすでに我身命に及。其上弟子といひ、檀那といひ、わづかの聴聞の俗人なんど来て重科に行る。謀反なんどの者のごとし」(五五七頁)

 

 松葉ヶ谷法難・伊豆流罪・小松原法難、そして、竜口首座・佐渡流罪にいたる受難と、弟子信徒やほんの少しだけ聴聞した未信の者でさえ、謀反人のような重罪を受けたとのべています。この文永八年の法難がどれほど教団を痛めつけたかがわかります。とくに、伊豆・佐渡流罪の二難は、幕府から受けた国王の難であり、「数々見擯出」(『開結』三六五頁)を身読したことになります。また、『上野殿御返事』に、

 

「抑日蓮種々の大難の中には、龍口の頚の座と東條の難にはすぎず。其故は諸難の中には命をすつる程の大難はなきなり。或はのり、せめ、或は処をおわれ、無実を云つけられ、或は面をうたれしなどは物のかずならず。されば色心の二法よりをこりて、そしられたる者は日本国の中には日蓮一人也」(一六三二頁)

 

と、のべているように、東条小松原法難と竜口首座は、「我不愛身命」を身読した証となります。まさに、勧持品に予言され、法華経の行者を証明する、国王からの二難と、行者の証であるとして受けとめるのです。日蓮聖人は法華経の行者であることの証文をあげます。

 

 法師品――而此経者如来現在猶多怨嫉況滅度後

譬喩品――見有読誦書持経者軽賎憎嫉而懐結

安楽行品―一切世間多怨難信

勧持品――有諸無智人悪口罵詈等・向国王大臣婆羅門居士誹謗説我悪謂是邪見人・数数見擯出

不軽品――杖木瓦石而打擲之

 『涅槃経』爾時多有無量外道和合共往摩訶陀国王阿闍世所。 今者唯有一大悪人瞿曇沙門。 一切世間悪人為利養故往集其所而為眷属不能修善。呪術力故調伏迦葉及舎利弗目連(憍陣如品)

 

 また、天台・妙楽大師の釈をあげます。

 

 『法華文句』―何況未来。理在難化也 (況滅度後の解釈)

『文句記』――障未除者為怨、不喜聞者名嫉(怨嫉の解釈)

 

 これらは、末法に法華経を広めることは、迫害にあい困難をきわめることを説いたものです。さきの六難九易はその困難性を譬えたものです。

 そして、事例として、天台大師が南三北七の十師に怨敵と詰られ、得一に揶揄されたことをあげます。智度法師という妙楽大師の弟子は、この迫害(留難)があることについて、「如俗言良薬苦口。此経廃五乗異執立一極之玄宗故斥凡呵聖排大破小銘天魔為毒虫説外道為悪鬼貶執小為貧賎拙菩薩為新学。故天魔悪聞外道逆耳二乗驚怪菩薩怯行。如此之徒悉為留難。多怨嫉言豈唐哉」と、俗に良薬は口に苦いというように、五乗の機根に成仏のための道を示すため、これに驚いた天魔などの五乗たちが留難をおこすので、怨嫉が多いという解釈をします

 最澄は『顕戒論』に、「僧統奏曰 西夏有鬼弁婆羅門東土吐巧言禿頭沙門。此乃物類冥召誑惑世間等。論曰 昔聞斉朝之光統今見本朝之六統。実哉法華何況也」、また、『法華秀句』に「語代則像終末初 尋地則唐東羯西 原人則五濁之生闘諍之時 経云猶多怨嫉況滅度後。此言良有以也」と、南都六宗の僧綱たちに、鬼弁バラモンに似た禿頭沙門(ニセ者)と呼ばれたことをあげます。そして、この日本は釈尊が怨嫉が多いと説かれた、まさにその所であり、末法に怨嫉を受けることは重要な意義があると解釈した文をあげます。

 これらは、末法に法華経を弘通することは釈尊の遺戒であり、それを実行することは怨嫉が多く困難であることを説いていることを、弟子・信徒に示されたのです。そして、釈尊の滅後に釈尊の遺戒を護って法華経を弘通されたのは、天台大師と伝教大師の二人しかいないとします。(五五八頁)。

このように、経文を証拠としてあげ人師を事例としてあげます。そして、日蓮聖人は現在、末法に入って二百余年となり、白法穏没・闘諍堅固の時代であるから、法華経を弘通することにより、仏記が正しければ流罪・死罪になるとのべます。ところが、天台・伝教大師の言葉を信じて忍難慈勝の弘通をしたので、諸天善神天の守護があるものと頼みにしていたが、一向にその現れがないのはなぜなのかという疑問を呈します。『開目抄』の大きなテーマがここに開かれてきます。

日蓮聖人は自身が法華経の行者ではないのか、また、諸天善神はなぜ守護しないのか、という本書の最大の疑問をなげかけます。

 

「今末法の始二百余年なり。況滅度後のしるし(兆)に闘諍の序となるべきゆへに、非理を前として、濁世のしるし(験)に、召合せられずして流罪乃至寿にもをよばんとするなり。されば日蓮が法華経の智解は天台伝教には千万が一分も及事なけれども、難を忍び慈悲すぐ(勝)れたる事をそれをもいだきぬべし。定で天の御計にもあづかるべしと存ずれども、一分のしるし(験)もなし。いよいよ重科に沈。還て此事計(はかり)みれば我身の法華経の行者にあらざるか。又諸天善神等の此国をすてゝ去給るか。かたがた疑はし」(五五九頁)

 

度重なる迫害と王難による流罪は、法華経の行者の証しではありますが、弟子・信徒にすれば、一方の諸天善神の守護はどうなったのか、という疑問をもったのです。しかし、厳然として立証できることがありました。それは、法華経の予言(未来記)を実証したことでした。

 

「而に法華経の第五の巻勧持品の二十行の偈は、日蓮だにも此国に生ずは、ほとをど(殆)世尊は大妄語の人、八十万億那由佗の菩薩は提婆が虚誑罪にも堕ぬべし。経に云 有諸無智人悪口罵詈等、加刀杖瓦石等[云云]。今の世を見るに、日蓮より外の諸僧、たれの人か法華経につけて諸人に悪口罵詈せられ、刀杖等を加る者ある。日蓮なくば此一偈の未来記妄語となりぬ。悪世中比丘邪智心諂曲。又云 与白衣説法為世所恭敬如六通羅漢、此等経文は今の世の念仏者・禅宗・律宗等の法師なくば世尊又大妄語の人、常在大衆中乃至向国王大臣婆羅門居士等、今の世の僧等日蓮を讒奏して流罪せずば此経文むなし。又云 数々見擯出等[云云]、日蓮法華経のゆへに度々ながされずば数々の二字いかんがせん。此の二字は天台伝教いまだよみ給はず。況余人をや。末法の始のしるし、恐怖悪世中の金言のあふゆへに、但日蓮一人これをよめり」(五五九頁)

 

日蓮聖人が存在しなければ、勧持品の二十行の偈に説かれた「三類の強敵」の迫害(「未来記」)は妄語となり、「数々の二字」は天台・最澄も、身読までにはいたっておらず、「但日蓮一人よめり」と末法に生まれている法華経の行者を、日蓮聖人にしぼっていきます。

そして、『付法蔵経』に徳勝と無勝の二人の童子が土の餅を釈尊にさしあげ、釈尊は微笑んで阿難に百年後には、この子供が仏教を外護すると予言され、阿育王となって生まれたことをあげます。また、『摩訶摩耶経』に阿難が釈尊の母摩耶夫人が忉利天より降りてきたときに、六百年ののちに龍樹菩薩が南天竺に生まれて仏法を説く、という説話をあげます。また、、『大悲経』に末田地が出現するという、仏記の予言が的中して真実であったから、仏教が信仰されてきたのであるとして、今も「三類の強敵」があると予言されたことが的中してこそ、仏説は信受されるとのべます。すなわち、日蓮聖人こそが仏説を実証する者という論証をされているのです。

「当世法華の三類の強敵なくば誰か仏説を信受せん。日蓮なくば誰をか法華経の行者として仏語をたすけん。南三北七々大寺等猶像法の法華経の敵の内、何況当世の禅・律・念仏者等脱べしや。経文に我が身普合せり。御勘気をかお(蒙)ればいよいよ悦をますべし」(五六〇頁)

 

ここでは、三類の強敵が自身に符合したことを強調し、釈尊の遺戒を順守して身読できたことを法悦としたのです。この観点にたてば幕府から迫害(御勘気)を受けることは、法華経の行者の明かしとなるので、悦びを感受できるとのべているのです。つまり、諸天守護のまえに、受難の法悦を強調されたのです。

 また、『文句記』の法師品「自捨清浄業報」を釈するなかの、「願兼於業」を引きます。(五六〇頁)。これは、願生に業生を兼ねたことをいい、大悲による代受苦のことをいいます。私たち凡夫は自らの業によって六道に輪廻する業感縁起ですが、日蓮聖人は自発的に罪をつくり、この娑婆に生まれてくる願兼於業があることをのべます。そして、今世に受けている迫害は耐えがたいが、末世衆生を憐れむ代受苦の慈悲心であるとされます。ここに、如来の使いとしての法悦を感じるのです。そして、末法に生まれてきた現在の忍難慈勝の境遇は、未来に自身や父母が悪道に堕ちることはなく、釈尊に救われるという法華信仰の境地をのべました。

日蓮聖人は、ここに、二カ所、悦びと言う感慨をのべていることに留意しなければなりません。「経文に我が身普合せり。御勘気をかお(蒙)ればいよいよ悦をますべし」(五六〇頁)。「当時の責めはたう(堪)べくもなけれども、未来の悪道を脱すらんとをもえば悦ぶなり」(五六一頁)とのべています。つまり、日蓮聖人にとっては、受難を悦びとされていたという本心があり、本意であり願っていた法難であったということです。諸天の守護がなくても本望であったことになります。

 ただし、色読をしなければ法華経の行者ではないという受難の必然性は確かであり、一方では法華経の行者を諸天は必ず守護することの必然性は矛盾するといいます。はたしてそうなのでしょうか。竜口法難にて斬首されなかったことは、諸天の守護ではないかと言う説、あるいは、竜口首座を守護と認めていない本書の口調から、竜口首座は実在しなかったという意見が今日も多々あります。『種種御振舞御書』を偽書とするからです。茂田井教亨先生は、日蓮聖人は佐渡流罪後の環境が、刺客の存在、そして、赦免の兆しはないが、諸天の守護があれば必ず鎌倉に帰れなければならない、と考えられたと推測されます。(『開目抄講讃』上巻二二八頁)。しかし、二十行の偈文を色読される以上は、諸天の不守護を覚悟されていたはずとのべています。(同書二三七頁)。また、ここが、本書に追求している日蓮聖人の矛盾したもの、葛藤の所在といえましょう。(同書二四四頁)。この問題は、本書いご、身延に入ってからの時の経過をみて、判断しなければなりません。

 

○〔第八章〕諸天はなぜ法華経の行者を守護しないのか(この書の肝心、一期の大事)

 

このように法華経の行者を自身に確定して、迫害を甘受することの法悦をのべてきました。日蓮聖人は後悔などしていないという前提のもとに、諸天不守護についての疑惑について論を進めていきます。竜口法難のおりに八幡社の前にて八幡神を諫暁されています。その八幡神からも見放されたのが日蓮聖人と映ったことも重なったのでしょう。鎌倉の武士や日蓮聖人の信者のなかにも、八幡諫暁に反感をもった者がいたのです。この疑惑の解明こそが『開目抄』を著述した主旨であるとのべます。

 

「但世間の疑といゐ、自心の疑と申、いかでか天扶給ざるらん。諸天等の守護神は仏前の御誓言あり。法華経の行者にはさる()になりとも法華経の行者とがう(号)して、早々に仏前の御誓言をとげんとこそをぼすべきに、其義なきは我身法華経の行者にあらざるか。此疑は此書肝心、一期の大事なれば、処々にこれをかく上、疑いを強くして答をかまうべし」(五六一頁)

 

 『開目抄』の「肝心」であり、日蓮聖人の「一期の大事」といわれた問題とは、自身が法華経に予言された行者であることを実証することです。本化上行菩薩である証拠をあげるためには、法華経の行者を守護すると誓った、諸天の守護がないのはなぜか、という疑問に答える必要があったのです。ここが『開目抄』の「一期の大事」であったのです。この問題について処々に解明していくので、本書を読む弟子・信徒は、日蓮聖人が示されようとしている法華経の行者の立証と、本化地涌の上行菩薩の「人開顕」の問題を、ともに考究することを要求されたのです。

 まず、日蓮聖人は報恩についてふれます。過去に賢人といわれた季札・王寿・公胤は、恩に報いた者としてあげます。そして、仏弟子の舎利弗や迦葉は、法華経において二乗作仏を許されたのであるから、法華経の恩を充分に知っている人であり、これに報いなければ「不知恩の畜生」(五六一頁)となるとのべます。また、晋の毛宝が助けた亀や、漢の武帝に助けられた昆明池の大魚などの畜生が、恩に報じているのであるから、まして、賢人・聖人といわれる者は、報恩を忘れることはないと前置きします。阿難・羅睺羅のような高貴な者でも、法華経により成仏したのであり、夏の桀・殷の紂という高貴な者でも、悪政により国を亡ぼしたので卑下されている例をあげ、すべての声聞は法華経に恩義があることをのべます。仏弟子は法華経によって仏道を修行しているのであるから、「いかでか法華経の行者をすて給べき」(五六二頁)という仏恩に従うはずであるとのべ、法華経において法眼・仏眼を備えたのであるから、今、法華経の行者として活動している日蓮聖人を見て、「法華経をだにも信仰したる行者ならばすて給べからず」(五六三頁)と、見捨てることはないと断言します。。

 その証拠として四大声聞の領解の経文(「世尊大恩」)をあげます。そして、重ねて仏弟子たちが法華経に至るまでの苦痛と法華経の恩義をのべ、かならず行者を守護すべきであると強くのべます。

 

「水すまば月影ををしむべからず。風ふかば草木なびかざるべしや。法華経の行者あるならば、此等の聖者は大火の中をすぎても、大石の中をとをりても、とぶらはせ給べし。迦葉の入定もことにこそよれ。いかにとなりぬるぞ。いぶかしとも申ばかりなし。後五百歳のあたらざるか。広宣流布の妄語となるべきか。日蓮が法華経の行者ならざるか。法華経を教内と下て別伝と称する大妄語の者をまほり給べきか。捨閉閣抛と定て法華経の門をとぢよ巻をなげすてよとゑりつけ(彫付)て、法華堂を失る者を守護し給べきか。仏前の誓はありしかども、濁世の大難のはげしさをみて諸天下(くだり)給ざるか。日月天にまします。須弥山いまもくづれず。海潮も増減す。四季もかたのごとくたがはず。いかになりぬるやらんと大疑いよいよつもり候」(五六六頁)

 

日蓮聖人は本書において、自分は法華経の行者ではないのか、という疑問を提起してきました。五五九頁・五六一頁)。ここに、日蓮聖人は二乗が行者を守護しないのは不審であるとしながらも、守護をしない理由を想定します。

1.「後五百歳広宣流布」(薬王品など)の仏説は妄語であった

2.日蓮聖人は法華経の行者ではない

3.教外別伝の禅宗と捨閉閣抛の浄土宗などの法華堂を崩壊する者を守護しているのか

4.仏前において行者守護を誓ったが大難の激しさに恐れてしまったのか

 日蓮聖人は諸天不守護の現状について、「大疑いよいよつもり候」と再度、疑問を呈したのです。しかし、この「善神捨去」、あるいは、「神天上」という捉え方は、すでに『立正安国論』において力説されたことであったことを、私たちは踏まえなければなりません。また、諸天の守護は本当になかったのでしょうか。松葉ヶ谷法難・伊豆法難・小松原法難などにて、不思議に難を逃れたのは偶然であったのでしょうか。(「いかんがしたりけん、其の夜の害もまぬがれぬ」(『下山御消息』一三三〇頁。「十羅刹女の御計らいにてやありけん、日蓮其難を脱れしかば」(『破良観等御書』一二八六頁)。「自身もきられ、うたれ、結句にて候し程にいかが候けん、うちもらされていままでいきてはべり」『南条兵衛七郎殿御書』三二七頁。月の如くにをはせし物、江ノ島より飛び出て使いの頭にかかり候しかば、使いををそれてきらず」『妙法比丘尼御返事』五六二頁。「天より明星の如なる大星下て前の梅の木の枝にかかりてありしかば」(『種種御振舞御書』九七〇頁)。竜口首座における光り物の出現、依智にての星下りのことは、看過してよいのでしょうか。本書にて日蓮聖人はなにをのべようとされているのかを追及しなくてはならないと思います。

 

○〔第九章〕迹化菩薩と迹門の「一念三千」

 つぎに、視点を菩薩・天人にうつします。これら二乗いがいの菩薩は、爾前経において一念三千・久遠実成を説かれていないので、実際には成仏もなく、また、釈尊がインドにて成道してからの弟子ではないので、釈尊の恩義が浅いことをのべます。逆に、前四味においては法慧菩薩などの弟子のようであり、文殊菩薩は釈尊の九代の師というような立場であることをのべます。(五六八頁)。

そして、釈尊が七二歳のとき、霊鷲山において『無量義経』を説いたときに、はじめて、菩薩・天人が真実の教えを聞こうとされ、大衆はこの教えを詳しく教えてほしいと願います。釈尊は法華経の迹門方便品のとき略して開三顕一を説き、本懐の一念三千の教えを説きます。すなわち、

 

「舎利弗等驚て諸天龍神大菩薩等をもよをして、諸天龍神等其数如恒沙。求仏諸菩薩大数有八万。又諸万億国転輪聖王至合掌以敬心欲聞具足道等は請せしなり。文の心は四味三教四十余年の間いまだきかざる法門うけ給はらんと請せしなり」(五六九頁)

 

 その菩薩たちの言葉が「具足の道」(欲聞具足道)でした。すなわち、『涅槃経』・『無依無得大乗四論玄義記』・吉蔵の『法華義疏』・天台の『法華玄義』、龍猛菩薩の『大智度論』・善無畏三蔵の「法華経の肝心真言」をあげ、法華経の肝心である「妙法蓮華経」であることをのべます。ここに、具足とは「妙」・「六」と解釈されており、日蓮聖人はつぎのように解釈されます。

 

「妙者具足。六者六度万行。諸の菩薩六度万行を具足するやうをきかんとをもう。具者十界互具。足と申は一界に十界あれば当位に余界あり。満足の義なり。此経一部・八巻・二十八品・六万九千三百八十四字、一々に皆妙の一字を備て三十二相八十種好の仏陀なり。十界に皆己界の仏界を顕す」(五七〇頁)

 

 つまり、菩薩は六波羅蜜の修行を満足させる、「具足」の教えを問うたのです。その答えが、六度満行を具足できるのは「妙法蓮華経」であると説いたのです。これが、法華経を説くことになり、それが、十界のそれぞれに十界を具足するという十界互具であったのです。つまり、一界のそれぞれに仏界を具足しているという、本具の仏界を顕わしたとのべています。釈尊が「欲令衆生」(開示悟入)と説いた衆生とは、舎利弗などの二乗のほかに一闡提の者を含む九界の者を衆生というとのべます。そして、菩薩がこれを聞いて未だにこの「深妙の上法」を聞いたことがなかったという教えとは、「法華経の唯一仏乗の教」(譬喩品)であるという最澄の『守護章』の釈を引き、

 

「華厳・方等・般若・深密・大日等の恒河沙の諸大乗経は、いまだ一代肝心たる一念三千大綱骨髄たる二乗作仏久遠実成等いまだきかずと領解せり」(五七一頁

 

と、爾前経においては、釈尊一代の肝心である一念三千の大綱であり骨髄である、二乗作仏・久遠実成を説かれていないことを、重ねて私たちに示されているのです。いかに、二乗作仏・久遠実成の教えが重要であるかを知ることができます。ここには、十界互具・一念三千という論理から、南無妙法蓮華経の題目の要法、唱題受持の唱題行に結ばれていく筆致をうかがうことができます。茂田井教亨先生は「密に題目を示される章」とのべています。(『開目抄講讃』上巻三一八頁)。

 

○〔第一〇章〕本化菩薩の出現により「過去常」を示し諸仏菩薩は釈尊の弟子となる

 

そして、この迹門の教えを聞き諸大菩薩は釈尊の御弟子になったとのべます。ゆえに、釈尊は師としての立場から宝塔品において、これらの菩薩に滅後の弘教を諫暁されたのであるとのべています。ここから『開目抄』の下巻になります。茂田井教亨先生は、この章を「密示本尊」としています。(『開目抄講讃』上巻三六四頁)。

 菩薩たちにとっては、一念三千の教えを聞いて間もない時に多宝仏塔が出現します。そして、多宝仏は釈尊の教えが真実であることを証明します。これを「証前の宝塔」といい証前迹門ともいいます。このとき十方から諸仏が釈尊の真実の教えを聴聞するために来集します。これらの諸仏は釈尊の分身であるとのべ、大地にある菩提樹の下に端座します。宝塔は二仏が並び座り虚空にあるのです。法華経の会座が大地から虚空に移ったのです。これを虚空会といい二処三会といいます。まさに、本門の教えが説き顕わされる前兆だったのです。これを、「起後の宝塔」、起後本門といいます。このような、三身円満の諸仏を集めて釈尊の分身と説いたのは、法華経のみであるとのべます。そして、この分身来集・宝塔開扉が、「開迹顕本」を示した久遠実成を説く「寿量品の遠序」(五七二頁)となるのです。

 さらに、地涌の菩薩が大地より出現します。釈尊は地下の虚空から地涌の菩薩を呼びます。虚空とは梵文法華経にてはĀkāśa,Akashaアカシャ、阿迦奢と表示され、この意味は可視的な空間をさすのではなく、釈尊が前世において地涌菩薩を教化された時間を含みます。ですから、釈尊が久遠実成を説くためには、このĀkāśaの世界の展開が必要であったといいます。(望月海淑稿「常不軽菩薩品における二三の問題」『法華経と大乗経典の研究』所収二四頁)。弥勒菩薩は始めて地涌の菩薩を見たのであり、誰一人も知らないとのべます(乃不識一人忽然従涌出)。また、他方から来た分身仏の侍者である他土の菩薩も、どうように疑念をもち、各々の諸仏に質問をされます。諸仏たちは弥勒が、虚空にいる地涌の菩薩と釈尊の関係を問うているので、釈尊の言葉を聞いて理解すべきと答えています。このように、此土の菩薩である弥勒と、他土の菩薩の疑念が経文に説かれています。この疑念を「動執生疑」といいます。この「動執生疑」に答えるところから本門の正宗分に入ります。『開結』では四〇四頁です。釈尊は弥勒に未聞の教えをこれから説くので、疑心を起こさず堅固な信力をもって、「諸仏智慧・諸仏自在神通之力・諸仏師子奮迅之力・諸仏威猛大勢之力」を聞くようにと促します。そして、正宗分の正説である「開近顕遠」をいよいよ説かれるのです。

 釈尊はこの娑婆世界で正覚してから地涌の菩薩を教化し導いてきたとのべ、さらに、地涌の菩薩は久遠より教化してきた弟子であると説明します。弥勒などの菩薩は理解ができず疑いをもちます。弥勒は二五歳の青年が百歳の老人を自分の子供といい、また、老人も二五歳の青年が自分の父親であるというように、理解ができないとのべます。日蓮聖人は聖徳太子が六歳のとき、百済などから渡来した老人たちを自分の弟子であるといい、老人も聖徳太子を師匠であると合掌したように、不可解と思える故事を示します。(五七四頁)。釈尊はインドの菩提樹下にて悟りを開き、それより四十数年のあいだに、どうして地涌の菩薩を教化できたのかというのが、弥勒にとっての理解し難い第一の疑いであったのです。(五七五頁)。

日蓮聖人は韋提希夫人が、釈尊は提婆達多のような悪人と親族になるのは、どのような因縁があるのかを問うた例をあげ、この疑いは大切な疑いであるとのべます。この『観無量寿経』の疑いは、法華経の提婆品にこなければ解明できないが、弥勒の疑念はこれ以上のことであるとのべます。

 

「されば仏此の疑を晴させ給はずば一代聖教泡沫にどうじ、一切衆生疑網にかゝるべし。寿量の一品の大切なるこれなり。其後仏寿量品を説云 一切世間天人及阿修羅皆謂今釈迦牟尼仏出釈氏宮去伽耶城不遠坐於道場得阿耨多羅三藐三菩提等[云云]。此経文は始寂滅道場より終法華経の安楽行品にいたるまでの一切の大菩薩等の所知をあげたるなり。然善男子我実成仏已来無量無辺百千万億那由佗劫等[云云]。此の文は華厳経の三処の始成正覚、阿含経云初成 浄名経の始坐仏樹 大集経云始十六年 大日経我昔坐道場等 仁王経二十九年 無量義経我先道場 法華経の方便品云我始坐道場等を、一言に大虚妄なりとやぶるもん(文)なり。此過去常顕時 諸仏皆釈尊の分身なり。爾前迹門の時は諸仏釈尊に肩並て各修各行の仏。かるがゆへに諸仏を本尊とする者釈尊等を下す。今華厳の台上・方等・般若・大日経等の諸仏皆釈尊の眷属なり。仏三十成道の御時は大梵天王・第六天等の知行の娑婆世界を奪取給き。今爾前迹門にして十方を浄土とがう(号)して、此土を穢土ととかれしを打かへして、此土は本土となり、十方浄土は垂迹の穢土となる。仏久遠の仏なれば迹化他方の大菩薩も教主釈尊の御弟子なり」(五七六頁)

 

 釈尊は伽耶において始成正覚したと説いたのは方便(虚妄)であり、真実は過去久遠の昔より悟りを開いていた、久遠実成の仏であることを説いたのです。釈尊一代の教えの中で最も大事な教えであり、寿量品が大事なのはここにあるとのべています。そして、久遠実成は釈尊の仏身は、過去より常住であることを示しています。この「過去常」は釈尊の仏格を規定し、諸経に超越している最大の理由となるのです。日蓮聖人は本門の本仏としての釈尊を開顕されたことにより、娑婆が仏国土としての浄土であり、本土であるという教学を展開されます。すなわち、

「此過去常顕時 諸仏皆釈尊の分身なり。爾前迹門の時は諸仏釈尊に肩並て各修各行の仏。かるがゆへに諸仏を本尊とする者釈尊等を下す。今華厳の台上・方等・般若・大日経等の諸仏皆釈尊の眷属なり。仏三十成道の御時は大梵天王・第六天等の知行の娑婆世界を奪取給き。今爾前迹門にして十方を浄土とがう(号)して、此土を穢土ととかれしを打かへして、此土は本土となり、十方浄土は垂迹の穢土となる。仏久遠の仏なれば迹化他方の大菩薩も教主釈尊の御弟子なり」(五七六頁)

 

と、諸経の諸仏においても釈尊の分身であり、釈尊の眷属と位置ずけられます。久遠実成は一切の仏の本地となり、これまで釈尊に説かれてきた諸仏は、釈尊に統一され分身散体(茂田井教亨著『開目抄講讃』上巻三七六頁)として位置づけられます。また、娑婆世界の主として、いままで説いてきた十方の浄土は、釈尊の垂迹の穢土となるとのべ、この娑婆こそが本土であるという、「娑婆即浄土」をのべています。これは、あきらかに法然などが説いた他土の浄土を否定し、此土の娑婆こそが浄土の本土であるとのべたことがわかります。

 そして、一切経のなかにおける如来寿量品の尊いことを、つぎのように喩え、かつ、「寿量品の玉」という表現をされています。

 

一切経の中に此寿量品ましまさずば天無日月 国無大王 山河無珠 人に神のなからんがごとくしてあるべきを、(中略)今濁世の学者等彼等の讒義に隠て寿量品の玉を翫ばず」(五七七頁)

 

この「玉」は本書において「種」という意味として説明されていきます。日蓮聖人はこれから私たちに何を教えようとしているかという、ヒントを掲示されながら論及されています。本書は法華経の行者観を主題とされ、二乗作仏や久遠実成を中核として一念三千を解明されていきます。「寿量品の玉」という表現があったことに留意したいと思います。また、分身仏の弟子も釈尊の弟子となります。つまり、迹化・他方の菩薩も釈尊の弟子となるのです。ゆえに、

 

今久遠実成あらわれぬれば、東方の薬師如来の日光・月光、西方阿弥陀如来の観音・勢至、乃至十方世界の諸仏の御弟子、大日・金剛頂等の両部大日如来の御弟子の諸大菩薩、猶教主釈尊の御弟子也。諸仏釈迦如来の分身たる上は諸仏の所化申にをよばず。何況此土の劫初よりこのかたの日月・衆星等、教主釈尊の御弟子にあらずや」(五七七頁)

 

すなわち、釈尊は諸仏とその弟子をも従える(諸仏能統一)、師徳を具備した本師であるとのべます。このことは、釈尊に本師としての本仏観をみることができ、それはまた、本尊仏としての釈尊を明確にすることになります。この本書の「過去常」は大事な教義となります。

 

○〔第一一章〕釈尊本尊を知らない諸宗の本尊の誤り

 

ゆえに、つづいて、釈尊を本尊とする本尊論に展開し、諸宗が立てる本尊の誤りを指摘します。

 

「諸仏釈迦如来の分身たる上は諸仏の所化申にをよばず。何況此土の劫初よりこのかたの日月・衆星等、教主釈尊の御弟子にあらずや。而を天台宗より外の諸宗は本尊にまどえり。倶舎・成実・律宗は三十四心断結成道の釈尊を本尊とせり。天尊の太子、迷惑して我身は民の子とをもうがごとし。華厳宗・真言宗・三論宗・法相宗等の四宗は大乗の宗なり。法相・三論は勝応身ににたる仏を本尊とす。大王の太子、我が父は侍とをもうがごとし。華厳宗・真言宗は釈尊を下て盧舎那・大日等を本尊と定。天子たる父を下て種姓もなき者法王のごとくなるにつけり。浄土宗は釈迦の分身の阿弥陀仏を有縁の仏とをも(思)て、教主をすてたり。禅宗は下賎の者一分の徳あて父母をさぐるがごとし。仏をさげ経を下。此皆本尊に迷へり。例せば三皇已前に父をしらず、人皆禽獸に同ぜしがごとし。寿量品をしらざる諸宗の者畜同。不知恩の者なり」(五七八頁)

 

と、諸宗の本尊は誤りであることをのべます。倫理的にいえば実の親とは知らずに、邪慳にしている子供のようであり、父親を踏みにじって喜んでいる不知恩の子である、と糾弾されています。同じように『一代五時鶏図』には、本尊の仏格について勝劣を論じます。

 

「劣応身釈迦如来 倶舎宗 成実宗 律宗 本尊  

盧舎那報身 華厳宗本尊 

 釈迦如来[当勝応身] 法相宗本尊 

 釈迦如来[当勝応身] 三論宗本尊 

 大日如来[法身][胎蔵界][報身][金剛界] 真言宗本尊 

 阿弥陀仏[天台応身][善導等報身] [劣応][勝応] 浄土宗本尊 

  五百問論云 若不知父寿之遠復迷父統之邦。徒謂才能全非人子。三皇已前不知父 人皆同禽獣。

天台宗御本尊 [釈迦如来] [久遠実成実修実証仏][華厳ルサナ真言大日等皆此仏為眷属]  

始成三身 応身[有始有終] 報身[有始無終]法身[無始無終][真言大日等]  

 久成三身 応身 報身 法身 無始無終  

華厳宗真言宗立無始無終三身盗取天台名目入自依経也」(二三四一頁)

 

 また、『八宗違目鈔』には、各宗の本尊を説明されています。

 

倶舎宗

成実宗――釈尊を本尊としている。しかし、ただ応身仏(有始有終)だけに限っている

律宗――

華厳宗―

三論宗――釈尊を本尊とするが、法身は無始無終、報身は有始無終、応身は有始有終と、法報応の三身を法相宗― 区別している

真言宗――大日如来を本尊と錯覚している

浄土宗――阿弥陀如来を本尊と錯覚している

 

「自法華宗外真言等七宗 並浄土宗等以釈迦如来不知為父。例如三皇已前人同禽獣。鳥中鷦鷯鳥鳳凰鳥不知父。獣中兎師子不知父。三皇已前大王小民共不知其父。自天台宗之外真言等諸宗大乗宗如師子鳳凰小乗宗如鷦鷯兎等共不知父也」(五二六頁)

 

ここに、本門の釈尊が本尊であることを明確にされています。日蓮聖人は仏と衆生の関係を、親と子という親子関係の結縁を重視していきます。本尊仏と衆生の関係を、わかりやすい親子の関係でのべ、とくに父子の関係にのべていることが特徴です。つまり、釈尊をただ本尊とするのではなく、釈尊が「父」であることを知らないとのべます。ここには、「父種」を継いだ血縁を重視していることがわかります。そして、これは主師親の三徳の親徳に関連してのべたことが、「下種結縁」の下種論に展開していく重要な論拠となっているのです

 

○〔第一二章〕厳愛の義と一念三千仏種

 

 そこで、最澄は日本仏教の顕教と密教の元祖であるとして、『法華秀句』の「厳愛義」についてふれます。

 

「伝教大師は日本顕密の元祖、秀句云 他宗所依経雖有一分仏母義然但有愛闕厳義。天台法華宗具厳愛義。一切賢聖学無学及発菩提心者之父等[云云]。真言・華厳等の経経には種熟脱の三義名字猶なし。何況其義をや。華厳真言経等の一生初地即身成仏等は経権経にして過去をかくせり。種をしらざる脱なれば超高が位にのぼり、道鏡が王位に居せんとせしがごとし。宗々互に権を諍。予此をあらそわず。但経に任すべし」(五七九頁)

 最澄は他宗が用いている経典は、少しは仏母の義があるが、父の「厳の義」はないことを強調しています。つまり、法華経は父の義があることをのべたのです。日蓮聖人が『法華秀句』を引かれたこの「仏説十喩校量勝」は、薬王品の十喩によって法華最勝を示すところで、この第七番目に引用された文をもって、「仏父の義」があることを示しました。薬王品のつぎの文です。「又如大梵天王。一切衆生之父。此経亦復如是。一切賢聖。学無学。及発菩薩心者之父」(『開結』五二三頁)大梵天王は娑婆の王とされ、娑婆の一切衆生の父親であるように、この法華経も私たちの父親の義をもっていることを説きました。つまり、『無量義経』に「諸仏国王。是経夫人和合共生。是菩薩子」(『開結』三七頁)と、経母の義を説いたことも、法華経は父母の両面をもっており、経は母のようであり、それを説いた仏は父のようなものであると喩え、母は愛であり父は厳の義をもっているとして、厳愛の両義を具えていると説いたのです。

すなわち、法華経を説かれた久遠実成の釈尊が、本当の父親の本地であるのです。この本仏釈尊を父親とすることにより、釈尊と同じ仏果をえることができましょう。母の愛とは一切の衆生を救済する功徳のことであり、父の厳とは信心により得られた仏種のことをいいます。法華経はこの両方を具えていることを強調します。つまり、父である釈尊の種により母である法華経から、仏として生まれると解釈するのです。ここに、釈尊と同じ姿をした釈尊の子供となります。仏子として成仏できる教えは法華経だけであることをのべたのです。日蓮聖人は『法華秀句』を引きこのように受けとめたのです。(茂田井教亨著『開目抄講讃』下巻一三頁)。『観普賢菩薩行法経』には次のように説かれています。「此大乗経典。諸仏宝蔵。十方三世諸仏眼目。出生三世諸仏如来種」『開結』(六一五頁)。

前述しましたように、日蓮聖人は種・熟・脱の三益に父子関係をみており、この仏種は法華経にあるとします。釈尊と私たちの結縁の深さは、三千塵点・五百億塵点(「三五の二法」)にて明かされました。血縁の深さを示されたのです。釈尊の本因本果を顕わしたのも法華経です。ここに、一念三千は法華経にしか立証できないことをのべます。

また、一念三千に「仏種」を認めることが、日蓮聖人の成仏論の基礎となるのです。そこで、華厳には第七に仏種論があり、真言には種子尊形という説がありますが、それは、当分の説であり、跨節としての種・熟・脱の三益論は説かれていないから、即身成仏は架空のものであることになります。法華経に仏種があることから、天親は『法華論』に法華経こそが最尊であるとして、第一に「種子無上」の超勝性を説きます。これは、薬草喩品の譬説によるものです。天台大師だけがこの諸尊の種子を、一念三千の法門として説いたとのべます。この、因果倶時・「一念三千仏種」の見解は日蓮聖人の独自の卓見といいます。(茂田井教亨著『開目抄講讃』下巻二三頁)。そして、華厳宗と真言宗はこの一念三千の理論を盗用したことをのべます。

ゆえに、諸経に説かれてきた諸仏・菩薩・人天などは、真実には法華経の教えにより正覚されたとのべます。

なぜなら、法華経にしか二乗作仏・久遠実成・一念三千の法門は説かれていないからです。ここに、成仏の種である仏種・下種を兼ねそなえた、「父母厳愛の二義」が成立されたからです。これは、釈尊の過去世における三千塵点・五百億塵点の下種(本種)に遡る考え方もあります。迹門の菩薩や他方の菩薩が具足道について質問し、それらを説き明かした釈尊が、衆生無辺誓願度などの四弘誓願が満足したという理由は、ここにあるとのべたのです。この一念三千と仏種の繋がりについては、『観心本尊抄』において詳細にのべられ、日蓮聖人の教えの中心となります。

 

○〔第一三章〕三箇の勅宣と二箇の諫暁によって法華経の行者を確認

 

いよいよ、法華経の行者の守護についてふれます。すなわち、諸経の諸仏・菩薩は「実には法華経にして正覚なり給へり」という仏菩薩であるから、

 

「予事の由ををし計に、華厳・観経・大日経等をよみ修行する人をばその経々の仏・菩薩・天等守護し給らん。疑あるべからず。但大日経・観経等をよむ行者等、法華経の行者に敵対をなさば、彼の行者をすてゝ法華経の行者を守護すべし」(五八一頁)

 

と、法華経や釈尊に恩義がありますので、法華経の行者を守護するのが当然のことであるとのべています。法華経の諸仏・菩薩・十羅刹女は当然のこととして、浄土宗の六方諸仏・二十五菩薩、真言宗の千二百等、七宗の諸尊・守護善神は「日蓮を守護し給べし」(五八一頁)と、はっきりと、法華経の行者である日蓮聖人を守護すべきであるとのべています。

そして、法華経には諸天善神などが、末法濁悪の時代に法華経を広める行者を守護する、と誓っていることにふれます。とくに、陀羅尼品には二聖二天鬼子母神・十羅刹女が陀羅尼呪を与え、勧発品には普賢菩薩が陀羅尼呪を与えて、法華経の行者を護持することが説かれています。安楽行品には、「諸天昼夜。常為法故。而衛護之」(『開結』三八二頁)、「天諸童子 以為給使 刀杖不加 毒不能害若人悪罵 口則閉塞 遊行無畏 如師子王智慧光明 如日之照 若於夢中 但見妙事」(『開結』三八八頁)と、説かれています。

これまでの法難において、諸天善神の守護があって命を護られてきたことは、処々にのべていました。竜口首座においても守護がありましたので、日蓮聖人が本書にのべている諸天の守護というのは、現況の佐渡塚原の流罪生活にたいする釈明ともいいます。(茂田井教亨著『開目抄講讃』下巻三七頁)。つまり、流罪赦免をいいます『光日房御書』(一一五四頁)によりますと、佐渡に流罪された直後に赦免の祈願をされています。このとき、諸天善神に仏前の誓言を破るのかと、諸天善神を訓戒していることは、流罪赦免を諸天善神に要請し、それが実現したときに諸天善神の守護を立証することになります。まず、「本国へかえし給へと」(一一五四頁)祈願をしたところ、文永九年に二月騒動がおきます。つづけて、諸天善神に祈願をこめていると、「頭の白(しろき)烏とび来ぬ」(一一五五頁)、そして、文永一一年三月八日に赦免状が佐渡に到着するのです。ようするに、本書を著述されながらも、諸天善神への諫めもされていたことです。そのうえで、本書において執拗に、なぜ諸天は守護しないのか、の疑惑について自問します。本書は世間が思っている日蓮聖人への疑いを解明するということによせて、特別な理由をもって追究されていることがうかがえます。

 

「日蓮案云、法華経の二処三会の座にましましし日月等の諸天は、法華経の行者出来せば磁石の鉄を吸がごとく、月の水に遷がごとく、須臾に来て行者に代、仏前の御誓をはたさせ給べしとこそをぼへ候に、いままで日蓮をとふらひ(訪)給わぬは日蓮法華経の行者にあらざるか。されば重て経文を勘て我身にあてゝ身の失をしるべし」(五八一頁)

 

諸天善神は行者を守護することを誓っているのだから、この誓願を怠るわけがない。では、日蓮聖人は行者ではないのかという疑問を重ねて提起するのです。ここには、自己は行者ではないという懐疑と、自己のもつ罪悪感などの反省も含まれます。また、念仏宗や禅宗など法華経に敵対する者は、「悪知識」なのかを問答します。悪知識の者とは謗法の者とし、それらの正体である醜面を明かし、過失がいかなるものかを顕わすとのべます。注目されるのは、このとき「生盲は力をよばず」(五八二頁)とのべていることです。本書の題号は「開目」ですので、謗法とはなにかを明かすのも、本書の必然的な結果の一つとなります。日蓮聖人はこれらが謗法であることを、法四依にしたがい経文の明鏡をもって明らかにされます。その文とは「五箇の鳳詔」です。ここには宝塔品の「三箇の勅宣」の文をあげます。(『開結』三三四頁以降)。

 

第一の敕宣――(付属有在) 遠令有在・近令有在があります『文句』

<五義の文証>

誰能於此(師) 娑婆国土(国) 広説妙法華経。今正是時(時)

如来不久。当入涅槃。仏欲以此。妙法華経(教) 付嘱有在

第二の鳳詔――(令法久住) 故来至此~我滅度後誰能護持読誦此経。今於仏前自説誓言

第三の諌敕――(六難九易) 於我滅後誰能護持読誦此経。今於仏前自説誓言

       <三仏の本願がある>

 

の「三箇の勅宣」は、釈尊が多宝仏塔のなかから大衆に向って、末世において法華経を流通させるために、誓言を説くように諫めたところです。この勅宣の意図は、末法に法華経を「宣示顕説」することにあります。日蓮聖人はこの経文に、質問の答えが明白に説き示されているとします。しかるに、

 

「此経文の心は眼前也。青天に大日輪の懸がごとし。白面に厭墨のあるににたり。而ども生盲の者と邪眼の者と一眼のものと各謂自師の者・辺執家の者はみがたし。万難をすてゝ道心あらん者にしる(記)し、とど(留)めてみ(見)せん」(五八三頁)

 

と、生盲の者・邪眼の者・一眼の者・自師としている者(我が師が最も尊く勝れているとする者のこと『倶舎論』)・偏執の者は、この経文が眼に見えないように理解できないとします。ここからは、純真に仏道を求める者のために教えるとのべます。そして、日本に値い難い法華経が広められたのは、最澄と自分と二度であるとのべます。(五八三頁)。この「三箇の仏勅」の文は、一切経の勝劣を判断する大事な法門であるとのべます。法華経と諸経との浅深をのべることになります。

さらに、つぎの問答は、『華厳経』・『方等経』・『般若経』・『深密経』・『楞伽経』・『大日経』・『涅槃経』等は、それぞれ経の最勝と、護持することの難解を説いていますが、これらの説と法華経をくらべます。法華経の「六難九易」に当てはめて、どちらが九易になるのか、六難の内なのかの勝劣を問います。(五八三頁)。この問答は、六難九易が教えの勝劣と護持する難易が比例することを説いていますので、各宗の難易の説示と法華経とを比較したのです。そして、華厳宗・法相宗・三論宗・善無畏は、法華経と同じ六難の内とし、空海が大日経は法身大日如来の所説であるから、六難九易には入らないと弁明し、また、『華厳経』は報身如来の所説であるから、六難九易には入らないなどの詭弁があることをのべ、今日の学徒もこの先師の説を支持しているので、これ以下の理解に留まるとのべます。日蓮聖人は六難九易を引いて、法華経を広めることは難事であることを示し、立教開宗いらい佐渡流罪にいたる経過と、六難九易を自身の経験(身読)として把握しています。

 

「日蓮なげいて云、上諸人の義を左右なく非なりといわば、当世の諸人面を向べからず。非に非をかさね、結句は国王に讒奏して命に及べし」(五八四頁)

 

 そして、釈尊の正しい遺言は『涅槃経』にあるとのべます。釈尊の教えは「依法不依人」・「依了義経不依了義経」の「法四依」に準拠すべきとされます。竜樹・天台・最澄・円珍などの文をあげて諸経は、

 

「上にあぐるところの諸師の釈、皆一分々々経論に依て勝劣を弁やうなれども、皆自宗を堅信受し先師の謬義をたださざるゆへに、曲会私情の勝劣なり。荘厳己義の法門なり」(五八四頁)

 

と、私情による勝劣の判断や、邪見による立義を禁止すべきことをのべます。(曲会私情は『文句記』、荘厳己義は『法華玄義』)。日蓮聖人は「已今当説最為難信難解」の文について、妙楽がこの法師品の意味を誤って読めば、謗法の罪によって長く地獄の苦しみにあう、という釈を読み、仏教を根底から学んだとのべています。

 

「法華経云 已今当等云云。妙楽云 縦有経云諸経之王 不云已今当説最為第一等云云。又云 已今当妙於茲固迷。謗法之罪苦流長劫等[云云]。此経釈にをどろいて、一切経並に人師の疏釈を見るに、狐疑氷とけぬ。今真言の愚者等、印真言のあるをたのみて、真言宗は法華経にすぐれたりとをもひ、慈覚大師等の真言勝たりとをほせられぬれば、なんどをも(思)えるは、い(言)うにかいなき事なり」(五八五頁)

 

 そして、それぞれの経が最勝と説いている、『密厳経』・『大雲経』・『六波羅蜜経』・『解深密経』・大般若経』・『大日経』・『華厳経』・『涅槃経』などの八経を引きます。しかし、これらの経典の内容は、法華経の三説超過の已今当・六難九易に相対すれば勝劣は明確であるが、諸宗の先師は誤った認識をしたとのべます。

 

「此等の経文を法華経の已今当・六難九易に相対すれば、月に星をならべ、九山に須弥を合たるににたり。しかれども華厳宗の澄観、法相・三論・真言等の慈恩・嘉祥・弘法等の仏眼のごとくなる人猶此文にまどへり。何況盲眼のごとくなる当世の学者等、勝劣を弁べしや。黒白のごとくあきらかに、須弥芥子のごとくなる勝劣なをまどへり。いはんや虚空のごとくなる理に迷ざるべしや。教の浅深をしらざれば理の浅深弁ものなし」(五八八頁)

 

えの優劣がわからなれば理の浅深がわからないことであり、法華経の本迹にも及ばない迷妄した教理を説くとのべます。空海についても『六波羅蜜経』に迷い、法華経を第四の熟蘇味に入れ、密教を第五の醍醐味に配当しているとのべます。これについては、まず、『六波羅蜜経』は重い罪を犯した有情の成仏は説きますが、無性の成仏は説いていません。まして、久遠実成を説かないから一切衆生の成仏を説くことができないのです。また、密教を醍醐味に配当しているが、それは『涅槃経』にも劣っているとのべます。『涅槃経』の五蔵五味は『涅槃経』と前四味と比較したもので、法華経を極として別に解釈されています。さらに、空海は天台大師が『六波羅蜜経』の醍醐味の奥義を盗んだといい、天台大師が醍醐味を嘗めなかったのは残念であるといって(『弁顕密論』)、真言宗を自賛していると批判しています。

 日蓮聖人がこの八経をあげたのは、「已今当説最為難信難解」(三説超過の文)や、「六難九易」に類似した経文と法華経を比べるためでした(五八八頁)。これまでの論及にて充分に説得されてきましたが、さらに検討を加え諭されたのです。茂田井教亨先生は日蓮聖人の良心的な性格と、独断的に法華経が勝れていると、主張しているのではないことを表明されているとのべ、このように諸経の具文をあげて比較するのは、本書だけの特色とのべています。(『開目抄講讃』下巻六四頁)。周知のように、本書は日蓮聖人が法華経の行者であるか否かを問うのが、肝心であり一期の大事とのべています。そして、日蓮聖人は行者である証しを処々に書いていくから、徹底した疑問や覚悟をもつようにと指示されていました(五六一頁)。また、「六難九易」は比較論だけではなく、宝塔品の説示は「付属」を主眼としているので、滅後における法華経の流布を問題とされているとのべています(同書八五頁)。本書は日蓮聖人の迫真の教えに呼応して拝読しなければなりません。行学院日朝上人は「開目」の意味はこのところにあると『御書見聞』にのべています。

日蓮聖人はこの問題はしばらく置くとして、日蓮聖人の門下のために大事なことを書き記すとして、つぎのようにのべています。

 

「我一門の者のためにしるす。他人は信ぜざれば逆縁なるべし。一渧をなめて大海のしを(潮)をしり、一華を見て春を推せよ。万里をわたて宋に入ずとも、三箇年を経て霊山にいたらずとも、龍樹のごとく龍宮に入ずとも、無著菩薩のごとく弥勒菩薩にあはずとも、二所三会に値ずとも、一代の勝劣はこれをし(知)れるなるべし。蛇は七日が内の洪水をしる、龍の眷属なるゆへ。烏は年中の吉凶をしれり、過去に陰陽師なりしゆへ。鳥はとぶ徳、人にすぐれたり。日蓮は諸経の勝劣をしること、華厳澄観・三論の嘉祥・法相慈恩・真言の弘法にすぐれたり。天台・伝教の跡をしのぶゆへなり。彼人々は天台・伝教に帰せさせ給はずは謗法の失脱させ給べしや。当世日本国に第一に富者日蓮なるべし。命は法華経にたてまつる。名をば後代に留べし。大海の主となれば諸河神皆したがう。須弥山の王に諸山神したがわざるべしや。法華経の六難九易を弁れば一切経よまざるにしたがうべし」(五八八頁

 

 ここに、法華不信の者は逆縁による結縁であるとのべています。順縁にたいし逆縁とは法華誹謗の者をいいます。法華謗法の者は逆縁による成仏の道があることを示します。そして、日蓮聖人の門下は順縁であるから、一代の勝劣を知ることができるとされ、日蓮聖人は諸経の勝劣については澄観や嘉祥、慈恩、空海よりも勝れているとのべます。日蓮聖人がもっとも恐れている謗法の罪は回避でき、釈尊の遺言を順守できたことは最大の悦びであったのです。当世日本国において第一に富める者は自分であるという表現は、「不惜身命」を果たした結実の言葉であり、後代においては日本ならびに仏典に菩薩の行いとして明記されるという確信があったのです。

ゆえに、「六難九易」を弁えれば、一切経を熟読しなくても勝劣は判明されるとのべます。六難九易は釈尊が定められたことですから、これを弁えれば事実として、一切経の心を読んだと同じことになります。日蓮聖人は六難九易の経説により死身弘法の決意をされました(五五七頁)。迫害があり諸天善神に捨てられていると感じることがあっても、この経説により、日蓮聖人においては、それほど末法の弘通は困難極まることと理解できたのです。ここに、行者の覚悟は「六難九易」にあるとのべたのです。また、そのような行者に諸天善神は従うと理解できます。仏国土を現実にさせるという使命が、法華経の行者の意識のあらわれであり、私たちに示された菩薩行のあり方といえます。換言しますと、日蓮聖人が六難九易を重視されたのは、釈尊の予言としての「未来記」であったからです。それは、実証されてこそ「未来記」となりましょう。(茂田井教亨著『開目抄講讃』下巻五六頁)。しかし、それを実行できるのは、本化菩薩のみであると解釈するところに、諸天善神を超えた上行菩薩の見解がうまれるのです。

そして、さきに五箇の鳳詔のうち宝塔品の三箇の勅宣をのべ、つぎに、提婆品の二箇の諫暁をのべます。

 

「宝塔品の三箇の敕宣の上提婆品に二箇の諌暁あり。提婆達多は一闡提なり、天王如来と記せらる。涅槃経四十巻の現証此の品にあり。善星・阿闍世等の無量の五逆謗法の者、一をあげ頭をあげ、万ををさめ枝をしたがふ。一切五逆・七逆・謗法・闡提、天王如来にあらはれ了。毒薬変じて甘呂となる。衆味にすぐれたり。龍女が成仏此一人にはあらず、一切の女人の成仏をあらわす。法華経已前の諸小乗経には女人成仏をゆるさず。諸大乗経には成仏往生をゆるすやうなれども、或改転の成仏、一念三千の成仏にあらざれば、有名無実の成仏往生なり。挙一例諸と申て龍女成仏は末代の女人の成仏往生の道をふみあけたるなるべし。儒家の孝養は今生にかぎる。未来の父母を扶ざれば、外家の聖賢は有名無実なり。外道過未をしれども父母を扶道なし。仏道こそ父母の後世を扶れば聖賢の名はあるべけれ。」(五八九頁)

 

 ここに、法華経の提婆品の悪人成仏と女人成仏の例をもって、『涅槃経』四十巻の現証と知るべきとします。爾前経において成仏が認められなかった、謗法・闡提の成仏が認められ、畜身女性の成仏が認められたことは、法華経に始めて説かれたことでした。この成仏は法華経の本門の開顕をもととしたものであり、日蓮聖人はこれを「一念三千の成仏」とのべたのです。つまり、一念三千の成仏でなければ真実の成仏はないとし、内外・権実を相対して法華経の超勝を示したのです。

また、本書の冒頭に習学すべき儒教・外道・仏教をあげた目的は、成仏にあることがわかりました。ここに、私たちがよく聞き唱える「儒家の孝養は今生にかぎる」の名文がのべられます。儒教や外道の教えには限界があり、仏教のなかにおいても法華経の会座に来たって、成仏が現実のこととなったとのべています。その現証としたのが二箇の諫暁である提婆品の悪人・女人の成仏でした。日蓮聖人はここに私たちの成仏と、悲母と慈父の成仏も顕れたとのべたのです。そして、霊山浄土への思慕となってあらわれていくのです。

 

○〔第一四章〕「三類の強敵あれば法華経の行者も存する 

三箇の勅宣は仏勅のことです。仏勅を守ることが仏使(如来使)の使命とうけとめています。それに、提婆品の二箇の諫暁があります。本書はこの五箇の鳳詔があって、大菩薩は勧持品の弘経の誓願を起こしたことをのべます。ここに、日蓮聖人は法華経の行者の意識と使命をもたれています。そして、法華経の行者である証拠を勧持品などの経文をあげて三類の強敵を示します。この経文を明鏡とすれば、禅宗や良観の律宗、念仏宗の僧侶や各信徒たちが、謗法の者であることを明らかにするとのべています。ここに、着目されることは、「謗法」について暗示され、謗法の怖さについて知らせることも、「開目」の意味していることと思われることです。

さらに、現在の勧持品を色読している自身は魂魄が来ているとのべます。、三仏が「令法久住」を願い、法華経の行者を予言された、その未来記が日蓮聖人の存在により、鏡に映しだされたように符合したとのべます。そうしますと、その三仏に予言された本化上行菩薩がが発言されているといえます。「かたみ」ということは、この仏使としての日蓮聖人のが述べ
るところに意義があると思います。すなわち、

 

「已上五ケの鳳詔にをどろきて勧持品の弘経あり。明鏡の経文を出て当世の禅・律・念仏者・並諸檀那の謗法をしらしめん。日蓮といゐし者は去年九月十二日子丑の時に頚はねられぬ。此は魂魄佐土の国にいたりて、返年の二月雪中にしるして、有縁の弟子へをくれば、をそろしくてをそろしからず。みん人いかにをぢずらむ。此は釈迦・多宝・十方の諸仏の未来日本国当世をうつし給明鏡なり。かたみともみるべし。」(五九〇頁)

 

 茂田井教亨先生は、「日蓮と言し者は~頚はねられぬ」、とのべたところを行証の立場、「魂魄佐土の国にいたりて」、のところを教証の立場とのべています。また、折伏にも行証と教証の両面の折伏があるとのべています。そして、日蓮聖人はこの両面の立場を常に表裏されて『開目抄』を書いているので、謙虚に書かれる場合と厳しく批判的に書かれているとのべています。(『開目抄講讃』下巻一一〇頁)。これは、日蓮聖人のように「不惜身命」の覚悟をもち、現実に「三類の強敵」と法戦を交わせ、経文に整合していることを、日蓮聖人自身が行動して証明しなければならなかったのです。しかし、無理に経文と自身を明鏡のごとくに当てはめるのではなく、日蓮聖人の行動のあとに、経文が当てはまってきたことなのです。六難九易は誰もができることではないのです。日蓮聖人の知教者なるがゆえの苦しみが、ここにあったと思われます。しかし、いずれは理解してもらえるという悦びを端的にのべたのが、「かたみともみるべし」という言葉だったといえましょう。

つづいて、前述しました勧持品の「三類の強敵」の文、妙楽の『文句記』の文、智度法師の『東春』、『涅槃経』(如来性品)、『大般泥洹経』(問菩薩品)の文をあげ、「三類の強敵」である俗衆増上慢・道門増上慢・僭聖増上慢について説明し、これらの同じ苦難を示した経文を引きます。

 

・俗衆増上慢                  『文句記』  『東春』

「有諸無智人悪口罵詈等及加刀杖者我等皆当忍」――初者可忍――忍三業悪。是外悪人

・道門増上

悪世中比丘邪智心諂曲未得謂為得我慢心充満」―次者過前――上慢出家人

・僭聖増上慢

或有阿練若納衣在空閑自謂行真道軽賎人間者貪著利養故与白衣説法為世所恭敬如六通羅漢是人懐悪心常念世俗事仮名阿練若好出我等過而作如是言此諸比丘等為貪利養故説外道論議自作此経典誑惑世間人為求名聞故分別説是経常在大衆中欲毀我等故向国王大臣婆羅門居士及余比丘衆誹謗説我悪謂是邪見人説外道論議」

――第三最甚 以後々者転難識故――出家処摂一切悪人等――諸悪比丘是魔伴侶『涅槃経』)

濁劫悪世中多有諸恐怖悪鬼入其身罵詈毀辱我」「濁世悪比丘不知仏方便随宜所説法悪口而顰蹙数数見擯出」

 

 そして、経文を明鏡として、

 

「夫鷲峰・双林の日月、毘堪・東春の明鏡、当世の諸宗並国中の禅・律・念仏者が醜面を浮たるに一分もくもりなし」(五九二頁)

 

と、霊鷲山で説かれた法華経の文と、沙羅双樹の間で説かれた『涅槃経』の日月のような両経、妙楽の住居である毘堪(毘陵)で説かれた解説、そして、東春の智度法師が説かれた明鏡に照らし見て(教)、明らかに当時(時)の諸宗や、国中(国)の禅・律・念仏を信仰している者などは、この三類の強敵であるとのべます。

また、日蓮聖人は設問します。現在は末法時代であることを、経文を引いて示します。そして、経文のごとく「悪世末法」に、法華経の怨敵である三類が出現すると、八十万億那由佗の菩薩が定めたことをのべます。

 

勧持品――――於仏滅度後恐怖悪世中(『開結』三六二頁)

安楽行品―――於後悪世(『開結』三六七頁) 於末法中(三七五頁) 於後末世法欲滅時(三七八頁)

分別功徳品――悪世末法時(『開結』四四九頁)

薬王品云―――後五百歳中広宣流布(『開結』五二九頁)

正法華経の勧説品―然後末世。 然後来末世

 

つまり、今は仏滅後、二二二一年にあたり「三類の敵人」が、必ずこの日本にいると断言します。そのうえで、誰が「三類の敵人」なのか、また、誰が法華経の行者なのかを問います。そして、周の昭王の問いに蘇由が占い予見したごとく、千年の後の永平一〇年に、仏教が中国に渡来して的中したことを引き、

「此れは似べくもなき、釈迦・多宝・十方分身の仏の御前の諸菩薩の未来記なり。当世日本国に三類の法華経の敵人なかるべしや」(五九三頁)

 

と、釈迦・多宝・十方分身の仏の御前にて、諸菩薩が誓願をのべた悪世末法の予言(「未来記」)であることを強調します。釈尊が『付法蔵経』に滅後千年のうちに、二四人が正法を広めると予言したように、百年後に脇比丘、六百年後に馬鳴、七百年後に龍樹菩薩が予言のとおりに出現したから、「三類の強敵」も出現することは間違いないとのべ、これが違うことになれば、法華経の教えがすべて相違することになるとします。舎利弗等の二乗作仏も虚偽となるとのべます。

 そして、さらに「三類の強敵」についてのべていきます。この「三類の強敵」は日蓮聖人にとって、「法華経の行者」を立証する重要な意義をもっていますので、重ね重ね追及されているのです。さらに、本書が人開顕の書といわれるように、本化上行菩薩の自覚と立証につながるからです。日蓮聖人は前述の末法「三類の強敵」の経文について、現実にあてはめて解釈をされます。すなわち、

 

第一、「有諸無智人」は悪世の僧侶(道門増上慢)と納衣の僧侶(僭聖増上慢)の大檀越(外護者)のこと『東春』に「向公処」というのは、大衆のなかにあって国王や大臣などの権力者に、正法を謗る者と讒言することをいう。このような無知の人(俗衆増上慢)のことをいう。

第二、悪世の僧侶(道門増上慢)とは、在家ではなく法然などの無戒邪見の出家者をいう。法華経を見下す教えを説き、かつ、法華経の行者を迫害し謗法を犯す僧侶のことをいいます。(『立正安国論』と同じ)

「外道の善悪は小乗経に対すれば皆悪道。小乗の善道乃至四味三教は法華経に対すれば皆邪悪。但法華のみ正善也。爾前の円は相待妙、絶待妙に対すれば猶悪也。前三教に摂すれば猶悪道なり。爾前のごとく彼の経の極理を行ずる猶悪道なり。況観経等の猶華厳・般若経等に及ざる小法を本として法華経を観経に取入て、還て念仏に対して閣抛閉捨せるは、法然並に所化の弟子等・檀那等は誹謗正法の者にあらずや。釈迦・多宝・十方の諸仏は令法久住故来至此。法然並日本国の念仏者等は法華経は末法に念仏より前に滅尽すべしと、豈三聖の怨敵にあらずや」(五九五頁)


第三、僭聖増上慢。京都では五山の禅師聖一(東福寺開山の円爾弁円)、そして、鎌倉では極楽寺良観と建長寺の道隆が、この上慢の僧侶であるとします。これは、法華経の行者に敵対すると説かれた、僭聖の増上慢を立証されるのです。

東春に即是出家処摂一切悪人等者当世日本国には何処ぞや。叡山か園城か東寺か南都か。建仁寺か寿福寺か建長寺か。よくよくたづぬべし。延暦寺の出家の頭に甲胄をよろうをさすべきか。園城寺の五分法身の膚に鎧杖を帯せるか。彼等は経文に納衣在空閑と指にわにず。為世所恭敬如六通羅漢と人をもはず。又転難識故というべしや。華洛には聖一等、鎌倉には良観等ににたり。人をあだむことなかれ。眼あらば経文に我身をあわせよ」(五九六頁)

 

と、ここには聖一と良観および道隆の名前をあげ、僭聖増上慢に似ているとします。『東春』を引いたのは、極楽寺や建長寺こそが、僧俗一体となった悪人の集まっている処、と暗示したのです。日蓮聖人は感情的に良観などを憎んで言うのではないとして、眼前にある経文を明鏡として判断すべきとし、天台大師の『摩訶止観』、妙楽の『弘決』、神智従義(後山外派。中国の天台宗は一念の解釈の違いにより、四明知礼の妄心観を主張した山家派と、孤山智円の真心観を立てた山外派があります)の『三大部補注』、『大般泥洹経』、智度法師の『東春』を引き、「三類の強敵」とはどのような者かを提示したのです。

 ここに、禅門に対する釈をあげ、達磨から慧能までの禅師は、智目(教え)も行足(行い)も整っておらず、定慧の二法を一共双修して成仏するのが正道であるのに、禅門は偽り誤っているが、世間の人々は惑わされていることを知らずに敬っていることを例にとりあげます。また、「文字法師」という教えの理屈だけを勉強する者、「事相の禅師」という教えの理解を無視して座禅をする者、そして、鄴洛禅師と呼ばれた達磨大師も、最後には人々に後悔されてしまったことを引きます。このように巧みに悪業をしても、普通の者は見破ることができないとの文をあげます。つまり、達磨からはじまる禅宗の人、持律の人たちを僭聖増上慢にあてはめ、

 

「六巻般泥洹経云 不見究竟処者不見彼一闡提輩究竟悪業等[云云]。妙楽云 第三最甚転難識故等。無眼の者・一眼者・邪見者末法の始の三類を見べからず。一分の仏眼を得もの此をしるべし」(五九七頁)

 

と、僭聖増上慢は極悪な者であるから、無眼の者たちはその正体を知ることが甚だ難しいことで、仏眼を具えた者にしか、その僭聖な悪僧であることを見破ることはできないとするのです。これは、このあとに示す良観たちの悪事を見極める人物はいないことを言うのです。仏眼をそなえた者のみが正体を見破ることができるのです。そして、勧持品の「向国王大臣婆羅門居士」の文をあげ、智度法師が「向公処毀法謗人」と解釈した文を引きます。日蓮聖人はここから現実に存在する三類の敵人は誰かを絞り込むのです。

 

「東春云 向公処毀法謗人等云云。夫昔像法の末には護命・修円等、奏状をさゝげて伝教大師を讒奏す。今末法の始には良観・念阿等、偽書を注して将軍家にさゝぐ。あに三類の怨敵にあらずや」(五九七頁)

 

向国王大臣婆羅門居士」とは、僭聖の悪僧が国王や大臣、権力をもっている者にたいし、法華経の行者の悪口を言い讒言することをいいます。智度法師が「向公処毀法謗人」と言うのは、公事を扱う公処にいる国王や役人などに向かって、法華経の教えと行者を誹謗することです。日蓮聖人においては公処である幕府に訴えられたことに符合します。

日蓮聖人は過去に最澄が南都の元興寺の護命と、興福寺の修円などから讒奏された事例をあげ、今、自身も同じく極楽寺の良観や光明寺の然阿良忠が、訴状を作り将軍にさしだしたことは、「三類の強敵」に匹敵すると断言します『妙法比丘尼御返事』には、つぎのように、良観と蘭渓道隆の行動をのべています。

 

「持斉は天魔の所為と云を聞て、念珠をくりながら歯をくひちがへ、鈴をふるにくび(頚)をどりおり、戒を持ながら悪心をいだく。極楽寺の生仏の良観聖人、折紙をさゝげて上へ訴へ、建長寺の道隆聖人は輿に乗て奉行人にひざまづく。諸の五百戒の尼御前等ははく(帛)をつかひて、てんそう(伝奏)をなす」一五六八頁)。

 

つまり、良観や然阿良忠(法然―聖光―良忠)、蘭渓道隆を指名して、経文に説かれた法華経の怨敵の存在を明らかにされたのです。修円が最澄を讒奏したことは『顕戒論』に明らかといいます。(『日蓮聖人御遺文講義』第二巻二五五頁。『日蓮聖人遺文全集講義』第九巻下五三六頁)。ただし、『啓蒙』をあげ修円が訴えたことは不明ともいいます(茂田井教亨著『開目抄講讃』下巻一八〇頁)。浅井円道先生は最初は一緒になって最澄に反対したが、後に最澄の弟子となったといいます。(『私の開目抄』三二六頁)。

蓮聖人はこのように釈尊の予言のとおり、日本国中に「三類の強敵」が充満しているのは、眼前の事実であるとします。天台や真言宗などの高僧の無知に加え、公家や武家を恐れて念仏・禅・律に与同している姿に、すでに表れていたのです。とくに、天台宗の碩徳(顕真座主など)は、法然の教えに承伏しているのですから、法華経を説くべき者がいないことを指摘します。これらは、比叡山遊学中に感じたことだっだのです。

では、釈尊に予言された法華経の行者はいないのか、いや、必ず存在しているに違いないと推論していきます。

 

「仏語むなしからざれば三類の怨敵すでに国中に充満せり。金言のやぶるべきかのゆへに法華経の行者なし。いかんがせんいかんがせん。抑たれやの人か衆俗に悪口罵詈せらるゝ。誰僧か刀杖を加へらるゝ。誰の僧をか法華経のゆへに公家武家に奏する。誰の僧か数数見擯出と度々ながさるゝ。日蓮より外に日本国に取出んとするに人なし。日蓮は法華経の行者にあらず、天これをすて給ゆへに。誰をか当世の法華経の行者として仏語を実語とせん。仏と提婆とは身と影とのごとし。生々にはなれず。聖徳太子と守屋とは蓮華の花菓同時なるがごとし。法華経の行者あらば必三類の怨敵あるべし。三類はすでにあり。法華経の行者は誰なるらむ。求て師とすべし。一眼の亀の浮木に値なるべし」(五九八頁)

日蓮聖人は「三類」の迫害を色読するが、諸天の守護がないので、自身は法華経の行者ではないのかとしながらも、ここまで論じてきたことは、法華経の行者がいるから三類の強敵があるのであり、そして、三類の強敵があのであるから、法華経の行者は必ず存在すると論証され、それは誰なのかと問うたのです。

さて、日蓮聖人は伊豆流罪のときに執筆した『教機時国抄』の結語に、

 

「法華経勧持品当後五百歳二千余年法華経敵人可有三類記置。当世当後五百歳。日蓮勘仏語実否三類敵人有之。隠之非法華経行者。顕之身命定喪歟。法華経第四云而此経者如来現在猶多怨嫉。況滅度後云云。同第五云一切世間多怨難信。又云我不愛身命但惜無上道。同第六云不自惜身命云云。涅槃経第九云譬如王使善能談論巧於方便奉命他国寧喪身命終不匿王所説言教。智者亦爾。於凡夫中不惜身命要必宣説大乗方等云云。章安大師釈云寧喪身命不匿教者身軽法重死身弘法云云。見此等本文不顕三類敵人非法華経行者。顕之法華経行者也。而必喪身命歟。例如師子尊者・提婆菩薩等云云」(二四五頁)

 

と、末法には「三類の強敵」が必ずあることと、この三類の敵人を顕さなければ法華経の行者ではない、そのためには「不惜身命」の覚悟が必要であるとのべていました。そして、『教機時国抄』に末法の機根をのべるなかで、謗法者には「毒鼓縁」をもって法華経に結縁すべきで、「信謗ともに下種となす」(原漢文)からであるとのべていました。法華経の行者が迫害にあい困難な弘通を迫られること、その目的は下種にあると既にのべていたことに注目されます。ここに、日蓮聖人における法華経の行者の意識をうかがうことができます。それを証明するのは三類の強敵との対決でした。つまり、それには経文色読が必要でした。佐渡の流罪は、まさに「数数見擯出」の勧持品の色読でした。とくに、日蓮聖人自身がこの「数数見擯出」の、「数数」の二文字に意義を示されていたのは、さきに、

 

今の世の僧等日蓮を讒奏して流罪せずば此経文むなし。又云 数々見擯出等[云云]、日蓮法華経のゆへに度々ながされずば数々の二字いかんがせん。此の二字は天台伝教いまだよみ給はず。況余人をや。末法の始のしるし、恐怖悪世中の金言のあふゆへに、但日蓮一人これをよめり」(五六〇頁)

 

と、のべているように、日蓮聖人はこの「数数見擯出」の、伊豆・佐渡の二度の流罪という事実に法華経の行者を表明されようとします。

そこで、さらに三類の強敵はあるが、法華経の行者はいないとする批判を羅列し、自身への洞察を深めます。

 

「有人云、当世の三類はほぼ有ににたり。但、法華経の行者なし。汝を法華経の行者といはんとすれば大なる相違あり」(五九九頁)

 

 つまり、「三類の強敵」があることは納得できるが、日蓮聖人を法華経の行者と言うには、経文に相違しているという反対意見があったのです。反対をする理由を同じ法華経の経文から摘出します。

 

安楽行品――天諸童子以為給使刀杖不加毒不能害。若人悪罵 口則閉塞(『開結』三八九頁)

      法華経の行者には天の童子が仕えて刀杖や毒害から守るというが、日蓮聖人は刀杖の難にあって

      いるではないか。また、行者を罵ればその人の口がきけなくなるというが、日蓮聖人を非難して

      もそのような現罰がない。

薬草諭品――現世安穏 後生善処『開結』二〇六頁

      現在は安穏でないから後生も悪処にいくだろう

陀羅尼品――頭破作七分如阿梨樹枝『開結』五七一頁

      行者を悩乱する者は頭が七分に割けるというが、そのようなことはない

勧発品―――亦於現世得其福報~

若復見受持是経典者出其過悪若実若不実此人現世得白癩病『開結』五九七

行者は現世に福徳があるといい、また、誹謗すれば癩病になるというが、そのような現証はおき

ていない。だから、日蓮聖人は法華経の行者ではない。

 

 この経文によれば、日蓮聖人と矛盾するのです。経文には法華経の行者が刀杖などの迫害にあえば、諸天善神が守護して迫害から護るとあります。悪口し罵る者がいればその者の口が閉ざされるとあります。現世は安穏であるはずです。行者を悩乱する者の頭が破れて阿梨樹のように割けるとあります。現世には福報があるといいます。行者の欠点などを言う者は事実であっても白癩の病気になるとあります。つまり、行者は守護され、毀謗する者は現罰があると説いた経文に相違しているから、日蓮聖人を法華経の行者と認めることはできないという意見です。経文を常に証拠として論陣をはる日蓮聖人に、あえて経文による反証をされたのです。

日蓮聖人はこの疑問はもっとものことであり、大事なことであるから不審を晴らすとしてこれに答えます。同じように経文を引きます。

 

不軽品――悪口罵詈言~或以杖木瓦石而打擲之『開結』四八九頁

     法華経の行者は悪口罵詈され木で打たれ石を投げつけられるという

涅槃経――若殺若害金剛身品

     殺されたり迫害されたりするという

法師品――而此経者如来現在猶多怨嫉『開結』三一二頁

     法華経を広める者は釈尊のときでさえ怨嫉が多く、まして末法はなおさら激しいという

 

 常不軽品の文は不軽菩薩が「但行礼拝」の行をしたときに、上慢の比丘たちに杖木や瓦石をもって打擲され迫害されたことを説いています。これを「不軽軽毀」の上慢の四衆といいます。『涅槃経』の文は、飢餓を免れるために出家した禿人の者が、正法を護持する僧侶を追い出し、あるときには殺害におよぶであろうと説いた、有徳王と覚徳比丘の経文です。法師品は法華経の教えは、釈尊の在世ですら迫害があって困難を極めたように、まして、末法の白法穏没の時代になってからは、ますます怨嫉が激しくなると予言した経文です。日蓮聖人はこの経文をあげて、

 

「仏は小指を提婆にやぶられ、九横の大難に値給。此は法華経の行者にあらずや。不軽菩薩は一乗の行者といわれまじきか。目連は竹杖に殺る。法華経記莂の後なり。付法蔵の第十四提婆菩薩・第二十五の師子尊者二人は人に殺ぬ。此等は法華経の行者にはあらざるか。竺道生は蘇山に流ぬ。法道は火印を面にやいて江南にうつさる。北野天神・白居易此等は法華経の行者ならざるか」(五九九頁)

 

 釈尊は提婆達多などから「九横の大難」という迫害を受けています。この法華経を説いた釈尊を、法華経の行者ではない、と言えるのかと述べ
たのです。また、不軽菩薩も法華経を説いて大衆から迫害を受けており、この不軽菩薩を法華経の行者と言えないのか。目連尊者は竹杖外道に殺害されたが、しかも、法華経において未来の成仏を保証された授記の後のことです。また、迦葉尊者いらいの付法蔵の第一四祖の提婆菩薩と、第二四祖の師子尊者は二人とも殺されていることをあげ、これらの人々も法華経の行者とは言えないのかと反論します。

それに加えて、中国の竺の道生は羅什門下の四傑(道生・僧肇・道融・僧叡)の一人であり、一闡提も成仏できると説いたため、邪見と見做され蘇州の虎丘寺に流謫されたこと。法道(永道)は宋の徽宗皇帝が仏教を他国の教えとし道教を国教化したときに、上申してこの非を諫めたため、顔に焼印を押されて江南の道州に流されたことをあげます。(茂田井教亨先生は法道が顔に焼き鏝(こて)をあてられたという書物は見当たらないといいます。『開目抄講讃』下巻一九三頁)。これらのことは、後に真実であったことが『高僧伝』に書かれています。正しい仏教を護るために迫害にあった事例をあげて、法華経の行者であっても、このように迫害にあっていることを示します。

さらに、北野天神と祀られている菅原道真は冤罪により大宰府に流罪されました。中国の白居易も武元衡暗殺をめぐり諌言し、越権行為があったとされ江州(現江西省九江市)の司馬に左遷されました。日蓮聖人はこの二人を賢人とみられ、ともに正義に基づいて諌言したため流謫されたことをあげます。これらの賢人が法華経の弘通のために、このような「不惜身命」の行動に出たならば、法華経の行者とは言えないのであろうかと、行者の行動と受難について吟味をうながしたのです。

 つまり、法華経の経文には、一方には守護があるとし、かつ、法華経の行者は迫害にあうことが説かれており、釈尊の「如来現在猶多怨嫉況滅度後」の九横大難・不軽軽毀の上慢の四衆・『涅槃経』の正法護持者の殺害・目連・師子尊者などの「死身弘法」の事例をあげて、法華経の行者には必ず法難があったことをのべたのです。日蓮聖人においても同様に「三類の強敵」があり、法華経の行者であることを事例をあげて証明されたといえます。

 

○〔第一五章〕『立正安国論』と三大誓願の確認

 

そして、法華経の行者であっても過去に法華誹謗の罪があるなら、毀法する者に現罰がないこともあるとのべます。これは、自身における過去の謗法の罪業があったことを自覚されたのです。日蓮聖人における罪業意識がのべられたのです。一切衆生にある罪と悪業の因縁を(『開結』四二八頁)、私たちに教えています。

 

「事の心を案ずるに、前生に法華経誹謗の罪なきもの今生に法華経を行ず。これを世間の失によせ、或は罪なきを、あだすれば忽に現罰あるか。修羅が帝釈をいる、金翅鳥の阿耨池に入等、必返て一時に損するがごとし。天台云 今我疾苦皆由過去 今生修福報在将来等[云云]。心地観経云 欲知過去因見其現在果。欲知未来果見其現在因等[云云]。不軽品云 其罪畢已等[云云]。不軽菩薩は過去に法華経を謗給ふ罪身に有ゆへに、瓦石をかほるとみへたり」(六〇〇頁)

 

不軽品に「其の罪おえおわって」(『開結』四九五頁)と説かれたことは、不軽菩薩が過去に罪業があった証拠で、そのために迫害にあったと理解します。日蓮聖人も今世における迫害は過去に罪業があった業因とされます。これについては、すでに、文永八年一〇月五日に『転重軽受法門』にのべていました。『転重軽受法門』は大田乗明・曽谷教信・金原法橋に宛てた遺文で、『涅槃経』の「転重軽受」と不軽菩薩の「其罪畢已」の文を引き、過去の重い罪は法華経を行ずることにより、軽く受け滅罪することができるという教えをのべていました。ここには、日蓮聖人の罪業観がのべられています。

つぎに、すでに地獄に堕ちると決った者には現罰はないとして一闡提を例にします。

 

「又順次生に必地獄に堕べき者は重罪を造とも現罰なし。一闡提これなり。涅槃経云 迦葉菩薩白仏云 世尊如仏所説大涅槃光入於一切衆生毛孔等[云云]。又云 迦葉菩薩白仏言 世尊云何未発菩提心者得菩提因等[云云]。仏此問を答云 仏告迦葉 若有聞是大涅槃経言我不用発菩提心誹謗正法。是人即時於夜夢中見羅刹像心中怖畏。羅刹語言咄善男子 汝今若不発菩提心当断汝命。是人惶怖寤已即発菩提之心。О当知是人是大菩薩等[云云]。いたう(甚)の大悪人ならざる者、正法を誹謗すれば即時に夢みてひるがへる心生。又云 枯木石山等。又云 種雖遇甘雨等。又云 明珠淤泥等。又云 如人手創捉毒薬等。又云 大雨不住空等[云云]。此等の多の譬あり。詮するところは上品の一闡提の人になりぬれば、順次生に必無間獄に堕べきゆへに現罰なし。例せば夏の桀・殷の紂の世には天変なし。重科有て必世ほろぶべきゆへか」(六〇〇頁)

『涅槃経』の十喩(第一・二・三・五・九)を引いたのは、日蓮聖人を誹謗する者に現罰がないのはなぜかという疑問に答えたのです。過去の罪業も深く、今世においてもさらに謗法の罪を作れば、無間地獄に堕ちることが決定したことになります。このような者にはすぐに現罰が顕れないと論証しているのです。

それにくわえ、守護の善神が国を捨て去っているために毀法者に現罰がなく、また、法華経の行者にも守護がなく、かえって大難にあうとのべます。このことは、『立正安国論』に勘案したことであるとのべています。

 

「又守護神此国をすつるゆへに現罰なきか。謗法の世をば守護神すてゝ去、諸天まほるべからず。かるがゆへに正法を行ものにしるしなし。還て大難に値べし。金光明経云修善業者日々衰減等[云云]。悪国悪時これなり。具には立正安国論にかんがへたるがごとし」(六〇一頁)

 

一.過去に法華誹謗の罪があるなら、毀法する者に現罰がない――日蓮聖人の罪業意識(知罪の自覚)

二.すでに順次生に地獄に堕ちると決った者には現罰はない―――謗法による堕地獄が決定している

三.謗法の世を守護神はすて去るため諸天は守護しない。法華経の行者は還て大難に値うー善神捨去

 

日蓮聖人は「法華経の行者」について、皆がもっている疑問をここまでのべ、それに答えてきました。さらに、弛まぬ信心を勧めるために、立教開宗の本願であった「三大誓願」を遵守すべきと決意をかためます。

「詮するところは天もすて給、諸難にもあえ、身命を期とせん。身子が六十劫菩薩行を退せし、乞眼の婆羅門のを堪ざるゆへ。久遠大通の者の三五の塵をふる、悪知識に値ゆへなり。善に付け悪につけ法華経をすつるは地獄の業なるべし。本(もと)願を立。日本国の位をゆづらむ、法華経をすてゝ観経等について後生をご(期)せよ。父母の頚を刎、念仏申さずわ。なんどの種々の大難出来すとも、智者に我義やぶられずば用じとなり。其外の大難、風の前の塵なるべし。我日本の柱とならむ、我日本の眼目とならむ、我日本の大船とならむ、等とちかいし願、やぶるべからず」(六〇一頁)

 

 正しい仏教を説く者がいなくなると、国は悪い方向へ進み法滅の末法時代になります。この悪国・悪時になったとき、どのようなことが起きるのか、これをのべたのが『立正安国論』でした。このなかに未来記としての法華経、国主の福禍による明鏡として現れる三災七難・善神捨去・聖人辞所がのべられていました。とくに、「善神捨去」は正元元年(三八歳)に、『守護国家論』(一一七頁)のなかにのべていることでした。また、『立正安国論』の第二段に、『金光明経』・『大集経』・『仁王経』・『薬師経』の四経を引き、

 

「夫四経文朗。万人誰疑。而盲瞽之輩迷惑之人妄信邪説不弁正教。故天下世上於諸仏衆経生捨離之心無擁護之志。仍善神聖人捨国去所。是以悪鬼外道成災致難矣」(二一三頁)

 

と、はっきり人々が邪教を信じ法華経に背いたため、善神も聖人も国を捨て去ったこと。そのゆえに、悪鬼や邪教の者達が充満して災難が起きたとのべています。これが、悪国・悪時です。

 日蓮聖人はこの状況において決断されたのです。それが、諸天善神は自分を捨ててよい、諸難があってもよい、何があっても、釈尊の法華経のために身命を捨ててもよいという覚悟であり、この誓願をまもったからこそ佐渡に流罪されたことになりましょう。これは、法華経を釈尊の金言として確信した表明とうかがえるのです。法師品の「如来現在猶多怨嫉況滅度後」(『開結』三一二頁)の文は、末法の弘通の困難なことを予言しました。そして、涌出品の「止善男子」(『開結』三九三頁)の下方の地涌出現は、「止召の三義」によればこの娑婆有縁の地涌の菩薩にしか、この娑婆において法華経を弘通することができないことを示したものです。

 舎利弗が菩薩行を退転したのは、六十刧を修行してときにバラモンから眼を乞われ、その大事な眼を踏みにじられたことにより憤慨します。このとき舎利弗は大乗の道から自己の得脱へと転向します。いわゆる、捨大取小したのです。日蓮聖人はこの退転による三五の経歴を忌避されたのです。また、この舎利弗の菩薩行退転はバラモンの悪態によるものでした。このバラモンの正体は第六天の魔王だったのです。『兄弟鈔』に、

 

「舎利弗は昔禅多羅仏と申せし仏の末世に、菩薩の行を立てて六十劫を経たりき。既に四十劫ちかづきしかば百劫にてあるべかりしを、第六天の魔王、菩薩の行成ぜん事をあぶなしとや思けん。婆羅門となりて眼を乞しかば相違なくとらせたりしかども、其より退する心出来て舎利弗は無量劫が間無間地獄に墮たりしぞかし」(九二三頁)

 

 このことは、三五を経歴した罪の認識と、三障四魔による迫害があることを認識されたことでした。(原慎定稿「日蓮の宗教における罪の根源性について」『日蓮教学の諸問題』浅井円道先生古稀記念所収一五四頁)。日蓮聖人はこのことを自他に言い聞かせたとうかがえます。なを、三障四魔については拙稿があります。(「日蓮聖人に於ける三障四魔の一考察」『日蓮教学とその周辺』所収、一三五頁)。

「三大誓願」は日蓮聖人が「立教開宗」をされたときに、自誓受戒されたことと思われ、「立教開宗」いらいの内実を明白に表明された文章です。「本願を立」というのは、このように理解できます(宮崎英修著『日蓮聖人研究』三〇九頁).そして、『開目抄』の主旨である「法華経の行者」を、結実され明らかにされたとうかがえます。また、いかなる困難があっても法華経を弘通するという、弟子信徒にたいしてのメッセージです。茂田井教亨先生はこの章が『開目抄』のクライマックスとされたのは(『開目抄講讃』上巻一〇〇頁)、これらの理由によると思います。また、三大誓願は日蓮聖人が主師親の三徳をそなえた、末法の導師とみることができ、法華経の行者を日蓮聖人に確定した本書の結論といえます。(『日蓮聖人御遺文講義』第二巻二六六頁)。本書に釈尊の三徳を象徴されたのが、つぎの文です。

 

「三には大覚世尊。此一切衆生の大導師・大眼目・大橋梁・大船師・大福田等なり」(五三八頁)

 

のべるまでもなく、ここに、釈尊の三徳と照応し、久遠の弟子として継承していることがうかがえます。

 

大導師・大橋梁―我日本の柱とならん―――主――教主釈尊――久遠弟子(涌出品)

大眼目―――――我日本の眼目とならん――師――本師釈尊――遣使還告(寿量品)

大船師―――――我日本の大船とならん――親――親父釈尊――末法下種(神力品)

 

ここまでに、日蓮聖人が私たちに教えられたことは、法華経の「一念三千仏種」でなければ成仏ができないこと、法華経を信仰してもらうために、法華経の行者となることを誓ったこと、そして、「三類の強敵」からの迫害、東条・竜口の死難、「数数」の伊豆・佐渡流罪を経験したことをもって、法華経が釈尊の未来記として真実であることを証明されました。しかし、諸天善神の守護がない、現世安穏ではないとして、弟子・信徒が法華経の信仰に不信をもちました。そこで、行者の値難と滅罪を示して、強い弘通の意識を覚醒されたとうかがえます。換言しますと、日蓮聖人をおいて誰が「法華経の行者」といえるのか、という選択を迫る論調なのです。

 これは、日蓮聖人こそが「法華経の行者」であることを、論証していくように思えます。伊豆流罪のおり『教機時国抄』に序としての教法流布のあり方をのべ、この佐渡流罪に至って序は、「法華経の行者」のあり方に進んでいます。古来より言われる、末法の「師」としての自覚をのべられたと解釈できます。(庵谷行亨著『日蓮聖人教学研究』三九一頁)。日本に仏教が伝来して始めての出現であり、題目を勧めた者は自分一人であることをもって、法華経の行者の証拠とされたのです。のちに身延に入ってからの『撰時抄』に、

 

「欽明より当帝にいたるまで七百余年、いまだきかず、いまだ見ず、南無妙法蓮華経と唱よと他人をすゝめ、我と唱たる智人なし。日出ぬれば星かくる。賢王来れば愚王ほろぶ。実経流布せば権経のとどまり、智人南無妙法蓮華経と唱えば愚人の此に随はんこと、影と身と声と響とのごとくならん。日蓮は日本第一の法華経の行者なる事あえて疑ひなし。これをもつてすいせよ。漢土・月支にも一閻浮提の内にも、肩をならぶる者は有べからず」(一〇四八頁)

早急に言いますと、法華経の行者であると証明されたことは、ついには神力品の「上行菩薩の自覚」に到達されたことになります。日蓮聖人の教学において、この日蓮聖人の魂魄は上行菩薩であるとのべたことを、「人開会」または「人開顕」といい、『開目抄』を人開顕の書という理由があります。ただし、渡邊宝陽先生が指摘されているように、本書は「法華経の行者」「未来記」「仏種」を強調し、「地涌上行菩薩」という言語を、ほとんど使用されていません。(『日蓮仏教論』一三九頁)。しかし、本書の結論は「地涌上行菩薩」にあることを、私たちに内示されたとうかがえます。本書は本化上行を開顕される前提として、確固たる根拠を確立されたといえましょう。

○〔第一六章〕滅罪と忍難弘教の約束

 

前述のように、滅罪意識は虚空蔵菩薩への誓願、そして、立教開宗の動機にもなっており、生家での念仏、出家してまもないころも念仏を唱え、結果的に謗法をおかしていたこと、また、過去世からの罪業意識に焦点があてられたのが本章です。不軽品には法華経の行者の受難と滅罪が説かれています。不軽菩薩は自身の重い罪を消すことができました。悪口や暴力を振い不軽菩薩を誹謗した者も、その咎によって結縁下種され、未来には救済(得益)されていきます。日蓮聖人はこの「滅罪」を重視されました。

そこで、日蓮聖人は自身の過去の「宿罪」(罪業観)について追求します。すなわち、日蓮聖人は流罪死罪の値難を、過去の宿罪として甘受するが、その宿習と値難の関係を信仰的に納得させるようにと自問します。

 

「疑云、いかにとして汝が流罪死罪等、過去の宿習としらむ。答云、銅鏡は色形を顕す。秦王験偽の鏡は現在の罪を顕す。仏法の鏡は過去の業因を現ず。般泥洹経云 善男子過去曽作無量諸罪種種悪業。是諸罪報О或被軽易或形状醜陋 衣服不足 飲食麁疎求財不利生貧賎家邪見家或遭王難及余種々人間苦報。現世軽受斯由護法功徳力故等[云云]。此の経文、日蓮が身に宛も符契のごとし。狐疑氷とけぬ。千万の難も由なし」(六〇一頁)

 

 日蓮聖人は自身の過去の罪業により、現在、流罪や死罪などの迫害にあうのであると自覚します。この、『般泥洹経』の経文と自身とを引き合わせるとピッタリと符合するとのべます。同じく、法華経の文に説かれたように、

二十余年のあいだ軽慢され衣服不足や遭王難などは自身のことであり、「数数」・「種種」と説かれたように割符のごとく符契しているとします。自身が法華経の行者として大難を受ける理由は、この自身の過去の罪業にあると領解されます。これまでの、諸天善神の守護がなかった疑問を払拭したとのべたのです。

 そして、大事なことをのべます。それは、法華経を弘通する功徳によって、過去の罪を軽く受けることができることです。『経』の「現世軽受斯由護法功徳力故」の文です。この「護法功徳」をふくめて、種種の迫害があることも領解できたとのべています。それは、法華経を護法する功徳のあらわれと解釈します。

 

「斯由護法功徳力故等者摩訶止観第五云 散善微弱 不能令動。今修止観健病不虧動生死輪等[云云]。又云 三障四魔紛然競起等」(六〇二頁)

 

 この『般泥洹経』(四依品)に説かれた護法力とは、『摩訶止観』第五によりますと、少しくらいの力(散善微弱)では、罪業を動かすことができないと説かれています。『摩訶止観』の十境のうち、健(第一音陰入境と第二煩悩境)と、病(第三病患境)を修して可能となると説かれています。また、そのためには、「三障四魔」が競い起こると説かれているのです。日蓮聖人は身延山にて執筆された『兄弟鈔』に、三障四魔をつぎのようにのべています。

 

「(摩訶止観)第五の巻に云く行解既に勤めぬれば三障四魔紛然として競ひ起る乃至随ふべからず畏るべからず之に随へば人をして悪道に向はしむ之を畏れば正法を修することを妨ぐ等云々。此釈は日蓮が身に当るのみならず、門家の明鏡也。謹て習伝へて未来の資糧とせよ。此釈に三障と申すは煩悩障・業障・報障なり。煩悩障と申すは貪・瞋・痴等によりて障礙出来すべし。業障と申すは妻子等によりて障礙出来すべし。報障と申すは国主父母等によりて障礙出来すべし。又四魔の中に天子魔と申すも是の如し」(九三二頁)

 

・三障四魔

三障とは仏道修行を妨げ、善根を害する三種の重障のこと。

煩悩障は本性具足の貪・瞋・癡による障り

業障は五無間業・五逆罪の堕獄の業や妻子等によりおきる障り

報障は悟ることができない三悪趣と人趣の中の北洲、天趣の中の無想天に生まれることをいう

また、国主父母などによる障り

四魔とは人の身命・慧命を奪う四種の魔のこと。前の三を内魔、後の一を外魔という。四魔は仏道の修行を恐怖させ、人心に加害して行者を罵詈・打擲・傷害などの迫害をし、行者に瞋恚を生ぜしめ退転を迫ります

五陰魔(蘊魔)は身中の色受行想識の五蘊を惑わせ智慧を奪う

煩悩魔(欲魔)は身中の本能を攪乱して菩提を忘れしめる

死魔は死によって慧命を断絶すること

天子魔(他化自在天子魔)は第六天の魔王の悪采配により善根を妨礙すること

 

 日蓮聖人が迫害にあうのは、法華経を強盛と言われるほど徹底的に広めるからです。覚悟は「不惜身命」なのです。権経を広めていたなら迫害にあわないであろうし、また、過去の重罪を消滅することはできないとのべ、今世において護法の功徳による罪業消滅を期待しています。

 

「今ま日蓮強盛に国土の謗法を責れば大難の来は、過去の重罪の今生の護法に招出せるなるべし」(六〇三頁)

 

 そして、この値難により過去の重罪を消滅することができるとします。このことは、文永八年九月に依智より富木氏に宛てた書状にのべられたことでした。

 

「又数数見擯出ととかれて、度々失にあたりて重罪をけ(消)してこそ、仏にもなり候はんずれば、我と苦行をいたす事は心ゆくなり」(五〇三頁)

また、法華経の説のごとくに布教する者には、必ず「三障四魔」が大難となって加害すると受容しています。このことは法華経の行者の証明でもあり、この罪業を今世において消滅するという、滅罪観を深めることでもありました。のちの『富木入道殿御返事』(一五二二頁)には、これが「事一念三千」であり大難が「色まさる」、つまり、激しさを増すとのべています

 

護法功徳力――三障四魔――罪業消滅――法華経の行者(大難があることが本門の事一念三千という)

 

ついで、『涅槃経』(北本は寿命品、南本は純陀品)の「母子倶没の譬え」をあげます。

 

「涅槃経云 譬如貧女。無有居家救護之者加復病苦(理即) 飢渇所逼遊行乞丐(名字即)。止他客舎(観行即)寄生一子。是客舎主駈遂令去。其産未久攜抱是児欲至他国於其中路遇悪風雨寒苦並至 多為蚊虻・蜂螫・毒虫之所食。径由恒河抱児而度。其水漂疾而不放捨。於是母子遂共倶没(相似即)。如是女人慈念功徳命終之後(分真即) 生於梵天(究境即)。文殊師利 若有善男子欲護正法 如彼貧女在於恒河為愛念子而捨身命。善男子 護法菩薩亦応如是。寧捨身命。 如是之人雖不求解脱解脱自至如彼貧女不求梵天 梵天自至等[云云]。此経文は章安大師三障をもつて釈給へり。それをみるべし」(六〇三頁)

 

章安大師は『涅槃会疏』に、細かく「六即」の「慈」を解釈するなかで、報障・煩悩障・業障の三障と関連して説いているが、と前置きします。日蓮聖人は説明を省略されていますが、つぎのようになります。(「六即慈」と三障)

報障――――由恒河抱児而度客舎主駈遂令

業障(内)―遇悪風雨寒苦

業障(外)―多為蚊虻・蜂螫・毒虫之所

煩悩障―――由恒河抱児而度

 

日蓮聖人はこの『涅槃経』の経文を自身に当てて、独自に成仏について解釈されます。

 

  貧人――――仏法の財である功徳が少ない無知の者

  女人――――少し慈悲のある者

  客舎――――煩悩に満ちたこの世界のこと

  一子――――法華経を信心して(了因仏性)成仏を約束された仏子のこと

  客主駈遂――日蓮聖人が伊豆・佐渡に流罪されたことに該当する

  其産未久――信心をおこして間もないこと

悪風――――流罪を勅命した宣旨

蚊虻――――俗衆増上慢などの無知の者が競起する

母子倶没――日蓮聖人が信心をつらぬき竜口首座に臨んだこと

生於梵天――成仏して仏界に生まれること

 

 日蓮聖人は母子が梵天に生まれたことについてのべます。「引業」には地獄に堕ちる行為をした悪業と、未来に仏となる善業の果報があります。無間地獄に堕ちることは五逆・謗法の罪によるように、三界の四禅天の梵天に生まれかわることも、あらゆる戒を持ち善行をしても、散乱した心で行っては叶わないとのべます。また、梵天王となるには慈悲が加わって、始めて生まれかわることができるとのべ、では、この貧女が梵天に生まれたのはどのような理由なのかを問います。そして、貧女が梵天に生まれたのは、子供を思う母性の慈愛による功徳にあるとします。

章安大師は「六即」(貧女の発心を十住いぜんと、等覚いぜんの二つの解釈ともいう。『日蓮聖人遺文全集講義』第九巻下五七二頁)と、三障の二つの解釈をしているが、要は赤子を慈しむ愛情によって生まれたことに変わりがないとして、「他事なれども」梵天に生まれることができたとのべています。(茂田井教亨著『開目抄講讃』下巻二三八頁)。通常の決まりである性相(本性とその姿)にないところの他事であることを強調されます。母が赤子を思う慈念は一境の定であり、慈悲であるところに経意があるとされます。親(母)とは自分であり子とは信心のことです。ですから、母子が倶に没したことを、日蓮聖人が信心を破らずに竜口首座に臨んだこととのべたのです。

 そして、つぎの諸宗の教義においては成仏できないとのべます。

 

華厳の唯心法界観――「心如工画師」の唯心法界観(唯心縁起)を成仏の指南としている

三論の八不中道観――生・滅、断・常・一・異、去・来という八種の対立概念を否定し、この八迷を破って

縁起・中道の説を示す

法相の五重唯識観――三性観(遍計所執性・依他起性・円成実性)を五段階に深め悟りを得る

          五位(五種)、心法・心所法・色法・不相応法・無為法。

          五重(遺虚存実・捨濫留純・摂末帰本・穏劣顕勝・遺相證性唯識)

真言の五輪成身観――五輪(五大)を自身の五処に観じて即身成仏する。(凡夫と仏の同体)

五大の種子(阿・嚩・羅・訶・佉)を

自身の五智法界体性智、大円鏡智、平等性智、妙観察智、成所作智)

五如来(大日・阿閦・宝生・阿弥陀・不空成就如来)と観ずる ここにおいて、仏になる教えは結論的に、天台の一念三千だけであり、法華経にしかこの一念三千義はないとのべています。

 

「但天台の一念三千こそ仏になるべき道とみゆれ。此一念三千も我等一分の慧解もなし。而ども一代経々の中には此経計一念三千の玉をいだけり。余経の理は玉ににたる黄石なり。沙をしぼるに油なし。石女に子のなきがごとし。諸経は智者猶仏にならず。此経は愚人仏因を種べし。不求解脱解脱自至等[云云]」(六〇四頁)

 成仏論としては、十界互具を基盤とした、本門法華経の一念三千論が真実であることをのべています。『涅槃経』の「母子倶没の譬え」(「生於梵天」)を引用したのは、「我等一分の慧解もなし」というところに結ばれます。凡夫である私たちも、法華経の信心をするだけで仏になれるとのべます。なぜなら、法華経には一念三千の「玉」が内蔵されているからとします。この「一念三千の玉」とは、『摩訶止観』に「如意珠」とあり、本書にのべていた「法華経の種」(五七九頁)にほかなりません。つまり、「玉」とは仏種のことといえます。諸経は智者でも仏になれないが、法華経には「一念三千の仏種」があるので、愚かな凡夫でも仏因を種(うえ)ることができるとのべたのです。すなわち、成仏の因(もと)となる「仏種」を取得できる「下種」を説いているのです。文証としてさきの『涅槃経』の「不求解脱解脱自至」(煩悩の束縛を解き、苦を離れようと殊更に求めなくても、解脱の境地に自然に到達する)を引きます。

 そして、法華経による成仏は間違いないことを説き、弟子に向かって法華経の信心に疑いをもたずに一心に弘通に心掛けるようにと説きます。すなわち、有名なつぎの文です。

 

「我並我弟子諸難ありとも疑心なくわ自然に仏界にいたるべし。天の加護なき事を疑はざれ。現世の安穏ならざる事をなげかざれ。我弟子朝夕教しかども疑ををこして皆すてけん。つたな(拙)き者ならひは約束せし事をまことの時わするゝなるべし。妻子を不便とをもうゆへ、現身にわかれん事をなげくらん。多生曠劫にしたしみし妻子には心とはなれしか。仏道のためにはなれしか。いつ(何時)も同わかれなるべし。我法華経の信心をやぶらずして、霊山にまいりて返てみちびけかし」(六〇四頁)

 

   諸難があっても疑わなければ自然に成仏できる (仏使の自覚をもつ)

諸天の加護が現れない事を疑ってはいけない  (不軽菩薩とおなじように罪業消滅のときだから)

この世が安穏にならない事を嘆いてはいけない (白法隠没の下種結縁の時だから)

霊山より妻子を導くことこそが本当の悦びである(「後生善処」の安心)

―これらのこと(三類の強敵・況滅度後)を朝夕に教えてきたー

 

 ここに、注目されるのは「自然に仏界にいたるべし」とのべたことです。さきに『涅槃経』の「母子倶没の譬え」を引き、日蓮聖人ご自身にあてはめて考察されました。ここにおいて、結論としてのべたのが今の文章です。つまり、貧女の身であっても梵天に生まれたことは、子供を一心に護った慈念の境地であったことに着目します。私たちも諸難があり仮に一命を落としても、その信心の力によって、自然に仏果を得ることができると教えられたのです。日蓮聖人がいう「自然」という意味は、のちに、「自然譲与」(『観心本尊抄』七一一頁)、「自然当意」(『四信五品抄』一二九八頁)という表現をされます。任運という時間的な概念をもった意味あいです。

このように、佐渡流罪に動揺している弟子や信徒にたいし、法華経の信心を強く持ち退転しないようにと訓戒されています。本書を「一期の大事」(五六一頁)とした遺訓と、「開目」の意義をここにのべたといえましょう。

ただし、これらの疑問に答えたのが本書の目的ですが、日蓮聖人にとっては常日ごろから幾度も教えてきたこととのべています。竜口法難に遭遇した弟子・信徒は、『新尼御前御返事』に「御勘気の時、千が九百九十九人は堕ちて候」(八六九頁)とのべたように、約束していた忍難弘教の信心を捨ててしまったところに問題があったのです。妻子との別れは必ず来ることです。多生のあいだに多くの悲しい離別をしてきました。しかし、心はけっして離れていないように、今度は死後の霊山浄土から、導いてあげることが大事であるとのべたのです。

○〔第一七章〕末法は折伏のときであると諫暁する(流通分に入る)

 

 ここから、第三段に入ります。余勢の流通分、あるいは、余論とされますが、末法折伏の「法華経の行者」をのべることは、日蓮聖人が弟子にたいしての教訓としますと、日蓮聖人の結論と受容することもできましょう。ここには、日蓮聖人の弘通法にたいしての疑念を問題とします。すなわち、

 

「疑云、念仏者と禅宗等無間と申は諍心あり。修羅道にや堕べかるらむ。又法華経の安楽行品云 不楽説人及経典過。亦不軽慢諸余法師等[云云]。汝此経文に相違するゆへに天にすてられたるか。答云 止観云 夫仏両説。一摂・二折。如安楽行不称長短是摂義。大経執持刀杖乃至斬首是折義。雖与奪殊 途 倶令利益等[云云]。弘決云 夫仏両説等者О大経執持刀杖者 第三云 護正法者不受五戒不修威儀。乃至 下文仙予国王等文 又新医禁云 若有更為当断其首。如是等文 並是折伏破法之人。一切経論不出此二等[云云]。文句云 問 大経明親付国王持弓帯箭摧伏悪人。此経遠離豪勢謙下慈善剛柔碩乖。云何不異。答 大経偏論折伏住一子地。何曽無摂受。此経偏明摂受頭破七分。非無折伏。各挙一端適時而已等[云云]」(六〇五頁)

 

念仏宗や禅宗などの他宗を批判することは、闘争心が強く修羅道に堕ちるのではないか、その証拠として法華経の安楽行品の経文を引き、日蓮聖人が諸天より守護されないのは、このためであるという疑念を提起します。

 この疑念に答えたのが摂受・折伏の二つの弘経の方法です。『摩訶止観』を引き釈尊一仏に、摂受と折伏の二つの説があることを提示します。摂受は安楽行品に説くように、人の欠点などを批判するようなことをせず、寛容な態度で布教をすることです。争いをおこしません。折伏とは『涅槃経』に説くように、刀杖を持ち敵対する者の頸を切ってもよい、というのが折伏です。戸頃重基先生はわかりやすく次のように説明しています。(『日蓮』日本思想大系。五一九頁)

 

  折伏―謗法不信のものを強制的に正法へ入信させる教化のしかた

  摂受―温和な態度で相手を説得教化するしかた

 

妙楽は『弘決』に正法を守るためには戒律をたもつことなく、仙予国王の故事のように武器をもって、破法の者の命を絶つ折伏を正当とのべています。天台は『法華文句』に、『涅槃経』と法華経の両方に摂受と折伏が説かれており、この相違は時によって適宜(「適時而已」)にすべきと説いています。章安大師の『涅槃経疏』には、平穏な時と険悪な時によって摂受と折伏の取捨が違う(「取捨得宜不可一向」)と説いていることをあげます。

 

「涅槃経疏云 出家在家護法取其元心所為 棄事存理匡弘大教。故言護持正法。不拘小節 故言不修威儀 О昔時平而法弘。応持戒勿持杖。今時嶮而法翳。応持杖勿持戒。今昔倶嶮応倶持杖。今昔倶平応倶持戒。取捨得宜不可一向等[云云]」(六〇五頁)

 

つまり、日蓮聖人は「時」によって弘教の方法を、摂受か折伏に選別する必要があることを示されたのです。この不審は一般的に道理と思われることでした。弟子や信徒のなかに、日蓮聖人の布教は相手を強く批判するものであるので、これにたいしての反論があったためです。さきにも、我が弟子に朝夕に教えていたけれども、疑念を起こして皆の者が捨ててしまった。拙い者は約束した事を、大事な時に破って造反するとのべていました。(六〇四頁)。日蓮聖人はこれらの人に何度も諫暁したとのべています。それでも納得できない者が多くいたことをのべています。それは、実践の場における「折伏」についての見解だったのです。折伏にたいする激しい反論があったことがうかがえます。

 また、『寺泊御書』(五一四頁)にあげた、四箇の問難のうち、つぎの二つに答えたのが『開目抄』です。

 

1、機根を知らずに、荒々しく折伏をするから難にあう。

2、勧持品は位の高い菩薩が行うことで、末法の位の低い者(日蓮聖人)は、安楽行品の柔軟な摂受を行なうべきである。これに背くから大難にあうのである。

 

そこで、日蓮聖人が天台や妙楽の解釈を引用したのは、まず、この解釈を根拠として疑問に答えるためでした。

「汝が不審をば世間の学者多分道理とをもう。いかに諌暁すれども日蓮が弟子等も此をもひすてず。一闡提人のごとくなるゆへに、先天台妙楽等の釈をいだしてかれが邪難をふせぐ。夫摂受折伏と申法門は水火のごとし。火は水をいとう。水は火をにくむ。摂受の者は折伏をわらう。折伏の者は摂受をかなしむ。無智悪人の国土に充満の時は摂受を前とす。安楽行品のごとし。邪智謗法の者多時は折伏を前とす。常不軽品のごとし。譬へば熱時に寒水を用、寒時に火をこのむがごとし。草木は日輪の眷属、寒月に苦をう、諸水は月輪の所従、熱時に本性を失。末法に摂受折伏あるべし。所謂悪国・破法の両国あるべきゆへなり。日本国当世は悪国か破法の国かとしるべし」六〇六頁)

 

と、摂受・折伏の二つは水火のように異なる弘教法であるとのべます。そして、無智悪人と邪智謗法の機根によって摂折が異なるが、邪智謗法の多い時は不軽品のように折伏が適宜な弘経法であるとし、末法という時においても摂折の異なりがあるとのべています。

 

  無知悪人が国に充満したとき(悪国)――摂受――安楽行品

  邪智と謗法の者が多い時(破法の国)――折伏――常不軽品

 

不軽菩薩の認識については、佐渡にわたる前の一〇月二二日の『寺泊御書』(五一五頁)に、勧持品と不軽品は心が同じであり、日蓮聖人は不軽菩薩と等しいとのべていました。(茂田井教亨著『開目抄講讃』上巻二一三頁)。日蓮聖人は国に悪国と正法を破滅させるような破国があり、その違いにより弘経の方法がかわるとのべています。

 そして、つぎの問答においては、摂受と折伏の方法をまちがうと、秋に種をまくようなもので利益に違いがでるとし、その例として、法然・大日・天台・真言の学者は時と機根を知らず、また、摂折をわきまえないと批判します。ゆえに、成仏はできないとします。つまり、『涅槃経』を引いたのは、末法は謗法を止めることが優先される時であり、これを間違うと生死流転の罪業から抜け出せないと説くからです。

これにたいし、他宗の者の非を荒立てて、怨嫉をいだかせることに意義があるのかと自問します。この質問に答えたのが同じ『涅槃経』の文で、日蓮聖人は『立正安国論』にも引かれたように、とくに重視されている有名な経文です。すなわち、

「問云 念仏者・禅宗等を責て彼等にあだまれたる、いかなる利益かあるや。答云 涅槃経云 若善比丘見壊法者置不呵責駈遺挙処当知是人仏法中怨。若能駈遺呵責挙処是我弟子真声聞也等[云云]。壊乱仏法仏法中怨。無慈詐親是彼怨。能糾治 者是護法声聞真我弟子。為彼除悪即是彼親。能呵責者是我弟子。不駈遺者仏法中怨等」(六〇七頁)

 

と、ここに『涅槃経』の「仏法中怨」の文を引きます。法華経を破壊する悪人を見て、呵責しないでそのまま放置する者は、釈尊に怨嫉をなす者であり、仏教のなかにおける最大の敵であるということです。この悪人を「仏法中怨」(仏法の中のあだ。怨敵)といいます。この文は日蓮聖人が「立教開宗」されたとき以来から、抱き続けた信念となったところです。釈尊より「真我弟子」(「是真仏子」『開結』三四一頁)と呼ばれことが利益であり、私たちは仏子であり、仏使である自覚をもつことが大事であるとうかがえます。

 なを、折伏については、文応元年五月の『唱法華題目抄』に、

 

「問云、一経の内に相違の候なる事こそ、よに得心がたく侍れば、くはしく承り候はん。答云、方便品等には機をかがみて此経を説べしと見え、不軽品には謗ずとも唯強て可説之見え侍り。一経の前後水火の如し。然るを天台大師会云本已有善釈迦以小而将護之本未有善不軽以大而強毒之文文の心は本と善根ありて今生の内に得解すべき者の為には直に法華経を説べし。然に其中に猶聞て謗ずべき機あらば、暫く権経をもてこしらへて後に法華経を説べし。本と大の善根もなく、今も法華経を信ずべからず、なにとなくとも悪道に堕ぬべき故に、但押て説法華経令謗之逆縁ともなせと会する文也。如此釈者、末代には無善者は多く、有善者は少し。故に堕悪道事無疑。同くは法華経を強て説聞せて毒鼓の縁と可成歟。然れば説法華経可結謗縁時節なる事無諍者をや」(二〇四頁)

 

と、「不軽品」・「本未有善」・「逆縁」・「毒鼓の縁」という視点からの折伏の意義がのべられ、のちに、『観心本尊抄』・『法華取要抄』・『曽谷入道殿許御書』になりますと、末法下種論が明確にのべられていきます。また、庵谷行亨先生は、日蓮聖人の法華弘通は末法の始めであるから、値難色読の折伏為本であるとされ、末法の弘教について五義の範疇から、「師」について折伏の折伏と折伏の摂受をのべています。(『日蓮聖人の摂受義』日蓮教学研究所紀要第三四号)。これらの中核となる「折伏下種」については後述することにします。

 

○〔第一八章〕仏使の行いと悦び

 

最後の章になります。日蓮聖人は仏使である自覚をのべます。そして、宝塔品において釈迦・多宝仏・十方分身仏が来集された意義は何かを私たちに尋ねます。三仏の願いは「令法久住」にあるとのべます。つまり、未来(末法)の衆生が成仏できるように、娑婆に来集し法華経を広められたのでした。しかし、法然はその三仏の御心を悟らずに念仏を勧めたことは、三仏に背反した怨敵であると糾明します。日蓮聖人は法然の「捨閉閣抛」の邪義によって、日本の人々が謗法になり堕獄することを「無慚」(むざん)といいます。慚とは法灯明の立場から自分の行動をみて、誤っていれば反省し恥じる心のことで、無慚とは戒律を破りながら心に恥じないことをいいます。日蓮聖人は法然をそのようにみています。日蓮聖人はこれを黙って傍観できないと言われるのです。例えれば、

 

「我父母を人の殺に父母につげざるべしや。悪子酔狂して父母を殺をせいせざるべしや。悪人寺塔に火を放、せいせざるべしや。一子の重病を灸せざるべしや。日本の禅と念仏者とをみてせいせざる者はかくのごとし。無慈詐親是彼怨等[云云]。日蓮は日本国の諸人にしたし(親)父母也。一切天台宗の人は彼等が大怨敵なり。為彼除悪即是彼親等[云云]」(六〇八頁)

 

自分の父母が殺されそうになっているのを見て、父母に知らせ助けずにはおられない、子供が重病になって苦しんでいるのに、治療をしない親がいるであろうか、と日蓮聖人の心情を人の情けに喩えます。今、日蓮聖人が禅宗や法然の念仏宗などの邪義を知らしめ悪を制止するのは、謗法堕獄の苦しみを救済するための慈悲であるとのべます。この深い思いやりを慈悲というのです。

 このようなことからすれば、日蓮聖人は日本国の人々から見て、父母のような心境であるとのべます。(『定遺』「したし父母」日乾対校本。日健の『御書抄』(『健抄)では、「主師父母也」『宗全』御書抄下三四〇頁。録内御書の最初の注釈書、一五〇四~二一年)。また、『涅槃経』に「為彼除悪即是彼親」と説いた文により、自身は親の徳を備えた者であるという親徳を述べたのです。親の愛情はいかなる子供でも捨てないからです。

 そして、釈尊・天台大師・最澄の三国の三師は、人々から罵られ嘲笑されたが、法華経を広めるために受けたことであるから、恥辱とは思わないとのべます。愚人に褒められることこそが最もの恥であるとします。そのわけは、邪教に妥協したことを意味するからです。日蓮聖人が幕府から流罪に処せられたことは大きな意義があるのです。そして、日蓮聖人が佐渡流罪になったことを、禅・念仏に迎合している天台や真言宗の者たちも喜んでいるだろうが、そういう無慚なことは心得がたいことであり、理不尽であるとのべます。本書はつぎのように結ばれています。

 

「夫釈尊は娑婆に入り、羅什は秦に入り、伝教は尸那に入る。提婆・師子は身をすつ。薬王は臂をやく。上宮は手の皮をはぐ。釈迦菩薩は肉をうる。楽法は骨を筆とす。天台云 適時而已等[云云]。仏法は時によるべし。日蓮が流罪今生小苦なればなげかしからず。後生には大楽をうくべければ大に悦し」(六〇九頁)

 本書の最後にあたり、仏道の実践者の行動をのべます。はじめに釈尊にれます。釈尊は寂光土の世界からわざわざ娑婆忍土に生まれ、「九横の大難」などの苦痛を受けながらも化導を成就されたこと。羅什三蔵は亀茲国に生まれたが、前秦の苻堅将軍に拉致されて中国に連行され、のち、姚秦に入り西安にてたくさんの経典を翻訳されました。羅什の十万里の山河をこえ一生を翻訳にささげた苦難の生涯をあげます。(『法華伝』)。最澄は遣唐使として大使の藤原葛野麻呂(かどのまろ)の一行と、延暦二二(八〇三)年四月に難波から出発しますが、瀬戸内海で難破し九州に渡ります。翌年の七月に第一六次遣唐使船四隻で再度出航します。最澄は一年間の還学生として、義真を通訳として第二船にて渡航します。四隻のうち三船と四船は難破して行方不明になります。最澄は五四日をかけて、八月の末に現在の浙江省寧波(明州)に到着します。そして、八ヶ月半の滞在で円・禅・戒・密の四宗を相承し、『伝教大師請来目録』には二三〇部四六〇巻(一〇三部二五三巻といいます)、天台の典籍は一〇二部二四〇巻、密教関係の経論一〇二部一五〇巻など、天台・真言密教など多くの典籍を請来します。日蓮聖人はこの命がけの求法と、仏教文物の請来の難事を言われています。これらの三国の三聖をあげ「忍難弘教」を示されています。これらの三聖は険難を克服して捨身弘法の化導をされた人です。
 つぎに、六師の「身軽法重」にふれます。付法蔵第一四祖の提婆菩薩は、インドの外道たちに憎まれて殺害されたこと。同じく第二四祖の師子尊者は、罽賓国の弥羅掘王に首を斬られたこと。薬王菩薩は法華経を聴聞した恩に報いるため、舎利塔の前で臂を焼いて灯明にかえたこと。聖徳太子は梵網経を書写して、その外題に自分の手の皮を剥いで書いたこと。(『太子伝首書』)。釈尊は過去世に菩薩行を行ったとき、仏を供養するために自分の肉を売って資金にされたこと。(『涅槃経』)。楽法梵志は法を求めていたとき、魔がバラモンに化けて言ったとおりに、骨を筆とし血を墨として不滅の偈文を写したことをあげます。(『大智度論』)。これらの人たちは身命を惜しまずに、仏道を成就した行者として引用され、
日蓮聖人が規範とされた人を示されたといえます。

 これらの先師の弘教の在り方を示したのは、日蓮聖人もこれらの先師と同じ行者であることをのべたのです。そして、天台大師の摂受・折伏にふれ、日蓮聖人が多く引用されている、「適時而已」(時にかなうのみ)の文をあげたのは、日蓮聖人の強烈な他宗批判を批判する弟子信徒に、末法このときに適合した弘教は、折伏にあることを教えたのです。この折伏を行うことにより、社会には受け入れられず幕府から流罪を言い渡されたが、この流罪こそ法華経の行者の証であり、「転重軽受」を思えば、今生の小さな苦しみに過ぎないと受けとめます。嘆かわしいことではないと見解をのべています。釈尊の教えによれば、後生には大きな法楽を得ることができると説かれているので、竜口首座などに命を法華経にささげた行動と、受難を耐えて法華経を説き続けることができた法悦感をのべて閣筆されます。私たちは日蓮聖人の心情に、法華経を学ばなければならないのです。

第一八章を「仏使の行いと悦び」としました。『開目抄』において仏使というのは、第一三章にのべた三箇の勅宣と二箇の諫暁によって、末法に法華経を弘通する使いの者のことをいいます。つまり、付属を受けた菩薩たちのことをいいます。そして、勧持品に末法には「三類の強敵」が迫害するので、弘通が甚だ困難であることを説いていることをあげます。ゆえに、この二十行の偈文を色読する者を法華経の行者とよび、日蓮聖人がその使者であることを、経文や先師の事例をあげて確認されたのが『開目抄』といえます。

日蓮聖人は、自分を法華経の行者と呼ばないならば、三仏が説いた法華経の文は虚妄となる、とまで強い自信をのべました。そして、自身の弘教は不軽菩薩のように、大きな利益があることをのべました。このことを推論しますと、本化上行菩薩の自覚を開顕されたと領解できます。しかし、『開目抄』には神力品の「別付属」については、ふれていませんでした。それはなぜなのか、本化上行菩薩はどのようなタイミングで説き明かされるのでしょうか。また、日蓮聖人は自身が法華経の行者であるならば、必ず諸天が守護することであるという経文を重視していました。本書の結論としては、『立正安国論』などにのべた善神捨去と、護法の功徳力による滅罪意識をのべていました。そして、たとえ諸天の守護がなくても、法華経の弘通は三仏の未来記として必定なことであるから、忍難弘教を誓った初心を忘れずに、「不惜身命」の覚悟を継続する重要性をのべます。どうように、弟子信徒にも要請(諫暁)されていました。つまり、末法は折伏をもって法華経を弘通することを諫暁されたのです。「開目」とは弟子・信徒にたいし、再度、法華経の行者としての勇猛な信心を覚醒すべきことを諫暁したといえましょう。

本書は、文永八年の竜口法難を経て佐渡流罪になり、厳しい冬に耐え越年した寒中の二月に、塚原三昧堂において著述を終えたことに留意すべきです。佐渡流罪中の遺文は、命をねらわれているという危険な状況であり、食べ物も少ないという生活のなかで書かれていることを、踏まえて読まなければなりません。浅井円道先生は塚原にいた時分は、日蓮聖人を餓死させようとして、米の配給をもらえなかったとし、阿仏房夫妻や国府入道夫妻の給仕により生命を維持できたとのべています。(『私の開目抄』)一二三頁)。後年、身延において書かれた『撰時抄』に、

 

「日月天に処し給ながら、日蓮が大難にあうを今度かわらせ給はずは、一には日蓮が法華経の行者ならざるか、忽に邪見をあらたむべし。若日蓮法華経の行者ならば忽に国にしるしを見せ給。若しからずは今の日月等は釈迦多宝十方の仏をたぶらかし奉大妄語の人なり。提婆が虚誑罪、瞿伽利が大妄語にも百千万億倍すぎさせ給る大妄語の天なりと声をあげて申せしかば、忽に出来せる自界叛逆難なり。されば国土いたくみだれば、我身はいうにかひなき凡夫なれども、御経を持ちまいらせ候分斉は、当世には日本第一の大人なりと申なり」(一〇五四頁)

 

と、諸天善神にたいし、三仏との約束をまもり行者守護の現証を求めています。その現れが二月騒動でした。また、二月騒動において名越一門が惨殺されたことにふれ、もし日蓮聖人が鎌倉にいたならば、騒動にまぎれて惨殺されたかもしれないとのべ、佐渡流罪にあっていたので生命を維持できたと述懐されています。

『開目抄』を読み終えて心に残ることは、日蓮聖人の強い信心と行動です。いかなる困難があっても法華経をまもり、釈尊を思い慕う心に感動します。諸天の守護がないと疑心暗鬼する信徒に、日蓮聖人自身が法華経の行者ではないのかと問います。もし、そうであるなら法華経は真実ではなく、釈尊の言葉も虚言となり、日蓮聖人の人生がむなしいことになります。そこで、『開目抄』の教義的な叙述をみますと、日蓮聖人は法華経の成仏論を展開し、法華経の一念三千の教理のみが、まちがいなく成仏の確証である、仏界を具足するとのべます。法華経を釈尊の実語として、その真実性を示していました。また、転重軽受の罪業消滅の意義にふれていました。この確信を説き示したうえで、過去の法華経の行者も日蓮聖人と同じく迫害を受けた事実と、正法を広めることは難事であることの事例を示しました。そして、自身が難に値うことの法悦をのべて本書を終えます。

 

「我並に我弟子諸難ありとも疑う心なくわ自然に仏界にいたるべし。天の加護なき事を疑はざれ。現世の安穏ならざる事をなげかざれ。我弟子に朝夕教しかども疑ををこして皆すてけん。つたなき者のならひは約束せし事をまことの時はわするゝなるべし」(六〇四頁)

 

日蓮聖人は迫害があっても疑心をもたず、「不惜身命」の覚悟をもって信仰せよ、そうしたならば必ず成仏する、と朝夕、常に教えてきたとのべています。信仰を貫くべく大事なときに、保身のために約束を破り退転することを責めています。後年、身延にて著述された『撰時抄』に、

 

「我弟子等心みに法華経のごとく、身命をおしまず修行して、此度仏法を心みよ」(一〇五九頁)

と述べられています。いざというときに、私たちは法華経と日蓮聖人に疑念をもつことなく、素直に法華経の信心を行うことが大事であると思いました。

ところで、『開目抄』では、文底秘沈とする一念三千を説きますが、一念三千と題目・本尊にかかわって、「受持唱題」・「娑婆浄土」の全面的な教えは残されていました。換言しますと、教相にたいしての観心が説き明かされなかったといえます。このことからしますと、『開目抄』が著述された翌年の四月に、『観心本尊抄』が書き終えられますが、『開目抄』から『観心本尊抄』までの一年二カ月は重要な期間と思われてきます。

さて、二月一八日に鎌倉で時輔の反乱があった知らせが佐渡に届きます。これは「二月騒動」です。日蓮聖人が予言した自界叛逆が的中したのです。『種々御振舞御書』に、

「つきたる弟子等もあらぎ(強義)かなと思へども、力及ばざりげにてある程に、二月の十八日に島に船つく。鎌倉に軍あり、京にもあり、そのやう申計なし。六郎左衛門尉其夜にはやふね(早舟)をもて、一門相具してわたる。日蓮にたな心を合て、たすけさせ給へ、去、正月十六日の御言いかにやと此程疑申つるに、いくほどなく三十日が内にあひ候ぬ」(九七六頁)

と、二月騒動の戦乱が伝えられ、本間重連は早船を設えて急遽、鎌倉に馳せています。

これは、二月七日に鎌倉でおきた、名越一門による時宗にたいする騒動のことです。実際は時宗の画策ともいいますが、二月一一日名越時章教時兄弟が、得宗被官である四方田時綱御内人によって誅殺されます。また、前将軍宗尊親王の側近であった中御門実隆が召し禁じられます。そして、四日後の二月一五日には京において、前年一二月に六波羅探題北方に就任していた北条義宗が、鎌倉からの早馬を受けて北条時輔を討伐します。これにより、多くの人々が戦死し、事件に連座して六波羅探題にあった、安達泰盛の庶兄安達頼景が所領を没収されます。さらに、誤殺された時章が持っていた九州の筑後大隅肥後の守護職は、安達泰盛・大友頼泰に移ります。九州の御家人の指揮を執る立場であった名越家の排除によって、時宗による蒙古防備の態勢が強化されることになります。蒙古対策に意見の相違があったのを、時宗が排除したかたちになり、あわせて、、京都の時輔を封殺したことで、九州の防備を行ううえで得宗の独裁がより可能になったのです。