154.『女人某御書』~�『日妙聖人御書』       高橋俊隆

○行者といわれた信徒

 さて、『開目抄』においてのべた「法華経の行者」意識は、日蓮聖人の弟子信徒にも同じ意識を促していました。信徒に行者意識が浸透した一例をあげてみます。

―佐渡在島中―

文永九年五月二日『四条金吾殿御返事』(『煩悩即菩提御書』)

「然るに貴辺法華経の行者となり、結句大難にもあひ、日蓮をもたすけ給事、法師品の文に遣化四衆・比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷と説給ふ。此中の優婆塞とは、貴辺の事にあらずんばたれをかさゝむ」(六三六頁)

文永九年五月二五日『日妙聖人御書』

「日本第一の法華経の行者の女人なり」(六四七頁

―身延期―

文永一二年一月下旬『春の祝御書』(南条時光氏宛て)

「とのの法華経の行者うちぐして、御はかにぬかわせ給う」(八五九頁)

建治二年三月二七日『富木尼御前御書』

「尼御前、又、法華経の行者なり」(一一四八頁)

建治三年一一月二十日『兵衛志殿御返事』

「ゑもんのたいうの志殿は、今度、法華経の行者になり候はんずらん」(一四〇二頁)

弘安四年八月八日『光日上人御返事』

「今の光日上人は子を思うあまりに法華経の行者と成り給う」(一八八〇頁)

 

などがあげられます。また、『観心本尊抄副状』に、

 

「乞願歴一見末輩師弟共詣霊山浄土拝見三仏顔貌」七二一頁

 

と、宛てた富木氏・大田乗明氏・曽谷教信御房など、師弟の契りを結ばれている信徒も、法華経の行者といえましょう。私たちは日蓮聖人が諸天善神の守護がないとのべていることを、どのように受けとめるべきでしょうか。茂田井教亨先生は、日蓮聖人が諸天善神に守護されていたことを、私たちが掘り出さなければならないとのべています。(『開目抄講讃』上巻二三五頁)。私たちは日蓮聖人が諸天善神より守護されていたことを、検証しなければなりません。日蓮聖人は本書いこうに守護についての確信を、弟子や信徒にのべていきます。私たちの信仰のうえにおいても、諸天善神から守護される信仰を検証しなければならないと思います。

 

□『女人某御返事』(九九 

本書は『定遺』(新加)に三月ころの書状とありますが、この真蹟四紙一五行断簡の続きとされるのが、『断簡』一〇三(二五一二頁)の第五紙目の三行です。ここには系年を弘安としています。幼い子供を養っている女性へ宛てられたもので、頼みとした夫が死去し不安な生活を送っている状況がのべられています。日蓮聖人自身がうかがって心をなぐさめたいという言葉と、弟子の一人を送り亡夫の墓参りをさせたいという文面がうかがえます。

 

「てみればとの(殿)もさわらず。ゆめうつゝわかずしてこそをはすらめ。とひぬべき人のとぶらはざるも、うらめしくこそをはすらめ。女人の御身として、をやこのわかれにみをすて、かたちをかうる人すくなし。をとこ(夫)のわかれはひゞ・よるよる・つきづき・としどしかさなれば、いよいよこいしさまさり、をさなき人もをはすなれば、たれをたのみてか人ならざらんと、かたがたさこそをはすらるれば、わがみも」(六一〇頁)

 

鈴木一成先生は、乙御前の母(日妙聖人)へ宛てられた書状としていますが、別な女性と思われます。『日蓮聖人全集』(第七巻三二三頁)には日妙聖人とも別人とあります。その理由として使用された文字一六九字のうち、漢字の種類が四字(女・人・御・身)、合計八字と少ないことから、識字能力により判断しています。また、本書の続きである『断簡』(一〇三)には字数が三二字あります。この『断簡』は第五紙の始めの三行になります。真蹟は金沢の高岸寺に所蔵されています。

 

「まいりて心をもなぐさめたてまつり、又弟子をも一人つかわして御はかの」(二五一二頁)

三二字のなかに漢字が五字(心・又・弟・子・一)合計七字がありますので、本書と『断簡』をあわせますと、全二〇一字、九種類の文字、合計一五字の漢字が使用されています。『対照録』には文体が『衣食御書』(一六一九頁)に類似されているとあります。(『日蓮聖人遺文辞典』歴史篇八六四頁)。この年の五月になる『日妙聖人御書』を見ますと、故事や経文などに漢字が多用されており、日妙聖人と呼ばれた女性の識字能力が高いことがわかります。

 

□『佐渡御書』(一〇〇)

『朝師本』の写本が伝えられています。文末に三月二〇日付けで「日蓮弟子檀那等御中」に宛てたことが書かれており、一ヶ月ほど前に書いた『開目抄』を深く読み、日蓮聖人の真意を理解すべきことを門下一同に指示されます。また、紙が不足していることを告げています。追書きに、

 

「此文は富木殿のかた、三郎左衛門殿、大蔵たう(塔)のつじ(辻)十郎入道殿等、さじきの尼御前、一一に見させ給べき人人の御中へ也。京・鎌倉に軍に死る人人を書付てたび候へ」(六一〇頁)

と、とくに富木氏近辺の曽谷・太田氏などの門下に宛てています。三郎左衛門は四条金吾のことです。「大蔵塔の辻」とは鎌倉の大蔵にある宝戒寺の南になり、松明を灯す石塔がある近辺のことといわれ、北条屋敷への下馬所ともいいます。この石塔のある辻に十郎入道という信者が住んでいたようです。住所から北条氏の一門といわれ、また、本間十郎入道ともいわれています。(『日蓮聖人遺文全集講義』第十巻一五頁)。桟敷尼とは竜口法難のおりにぼたもちを供養された方で、日昭上人の母親といわれています。これらの信者一人一人に手紙を書くべきであるがとのべ、佐渡の悪い状況により一同に宛てて書いたので回覧するようにのべています。

開目抄』の著述は問難を重ねて日蓮聖人を外側から追及していきます。そこには、日蓮聖人の法華行者観が駆使されているといえます。『開目抄』を発端として『観心本尊抄』・『撰時抄』・『報恩抄』が著述されます。これらは長編なためすべてを読み終えるには、相当な時間と理解力が必要です。本書は『開目抄』を補佐するような形で、日蓮聖人の真意をストレートに開示しているといえます。本書から信徒を心配をされている様子がうかがえ、京都・鎌倉の戦の情報を知らせるようにとのべています。これは、二月一一日、一五日におきた二月騒動で戦死した人のことや、その後の三月一一日、一七日の経過についての詳細を問われます。このなかに日蓮聖人の信者たちが含まれていたからです。

本書の内容は摂受折伏・罪業意識・不軽軽毀についてのべ、佐渡に紙がないことと門下の人すべてに書き送ることができないので、信心深い信徒たちが寄り集まって書状を読むようにと伝えています。はじめに、人間がもっとも大事にするのは命であるから、その身命を惜しまない覚悟で、仏法に捨身布施をすれば必ず成仏するとのべます。

 

「世間に人の恐るゝ者は火炎の中と刀剣の影と此身の死するとなるべし。牛馬猶身を惜む、況や人身をや。癩人猶命を惜む。何況壮人をや。仏説云以七宝布満三千大千世界不如以手小指供養仏経取意。雪山童子の身をなげし、楽法梵志が身の皮をはぎし、身命に過たる惜き者のなければ、是を布施として仏法を習へば必仏となる。身命を捨る人他の宝を仏法に惜べしや。又財宝を仏法におしまん物、まさる身命を捨べきや。世間の法にも重恩をば命を捨て報ずるなるべし。又主君の為に命を捨る人はすくなきやうなれども其数多し。男子ははぢ(恥)に命をすて、女人は男の為に命をすつ。魚は命を惜む故に池にすむ(栖)に、池の浅き事を歎て池の底に穴をほりてすむ。しかれどもゑ(餌)にばかされて釣をのむ。鳥は木にすむ。木のひきゝ(低)事をおぢて木の上枝にすむ。しかれどもゑにばかされて網にかゝる。人も又如是。世間の浅事には身命を失へども、大事の仏法なんどには捨る事難し。故に仏になる人もなかるべし」(六一一頁)

 

 日蓮聖人は人間が一番大事にして執着するものは、自分の生命であるとのべます。財産を投げ捨てても最後に惜しむのは命とみています。その命を法華経のために布施することができる者は、必ず成仏できるとのべます。しかしながら、法華経のために命を投げ捨てて信仰を護り通す者はいないと、私たちを訓戒しているのです。これは、日蓮聖人の信仰のありかたをのべたもので、佐渡流罪中の日蓮聖人の心境をうかがうことができます。

そして、その仏法を弘通する方法に摂受と折伏があり、時をわきまえて行うことをのべています。

 

「仏法は摂受・折伏時によるべし。譬ば世間の文武二道の如し。されば昔の大聖は時によりて法を行ず。雪山童子・薩・太子は身を布施とせば法を教へん、菩薩の行となるべしと責しかば身をすつ。肉をほしがらざる時身を可捨乎。紙なからん世には身の皮を紙とし、筆なからん時は骨を筆とすべし。破戒無戒を毀り、持戒正法を用ん世には、諸戒を堅く持べし。儒教道教を以て釈教を制止せん日には、道安法師・慧遠法師・法道三蔵等の如く王と論じて命を軽すべし。釈教の中に小乗・大乗・権経・実経雑乱して明珠と瓦礫と牛驢の二乳を弁へざる時は、天台大師・伝教大師等の如く大小・権実・顕密を強盛に分別すべし(中略)正法は一字一句なれども時機に叶ぬれば必得道なる(成)べし。千経万論を習学すれども時機に相違すれば不可叶」(六一一頁)

 

 摂受・折伏については『開目抄』にのべてきました。末法は折伏の布教方法を行うことをのべていました。本書にも摂折は文武二道のような関係であり、故事を引いて時の情勢に応じて判断することをのべます。紙がたくさんあるときには紙を必要とはしないが、紙がないときは身の皮をはいででも、布施することが菩薩行になることを喩えにします。それと同じように、仏法にも時と機根の相違があることを見極めなければ、得道できないとのべています。日蓮聖人は佐渡流罪にいたるまでを、

 

「悪王の正法を破るに、邪法の僧等が方人をなして智者を失はん時は、師子王の如くなる心をもてる者必仏になるべし。例せば日蓮が如し。これおごれるにはあらず。正法を惜む心の強盛なるべし」(六一二頁)

 

と、時宗や平頼綱などの悪王が法華経を破壊し、良観などの邪僧が加担して、日蓮聖人の殺害を企てているとします。しかし、法華経のために不惜身命の覚悟を貫き通したので、成仏は必定のこととのべます。竜口捕縛のとき、平頼綱に日本国の棟梁であり眼目である日蓮聖人を捨て去るならば、かならず七難が起きると言ったように、二月騒動の自界叛逆の難の予言が的中したことをのべます。

 

「日蓮は聖人にあらざれども、法華経を如説受持すれば聖人の如し。又世間の作法兼て知によて、注し置こと是不可違。現世に云をく言の違はざらんをもて、後生の疑をなすべからず。日蓮は此関東の御一門の棟梁也。日月也。亀鏡也、眼目也。日蓮捨去時七難必起べしと、去年九月十二日蒙御勘気之時大音声を放てよばはりし事これなるべし。纔に六十日乃至百五十日に此事起る歟。是は華報なるべし。実果の成ぜん時いかがなげ(歎)かはしからんずらん」(六一三頁)

 

 この「自界反逆」が的中したことをもって、日蓮聖人の教えを疑ってはならないと諫めています。この事件は軽い罪の表れであって、謗法堕獄の罪科は重いと歎いて、法華経の行者としての正当性をのべています。

また、日蓮聖人にたいして、日蓮聖人が本当に智者ならば、王難の迫害を受けないであろうというが、このことは承知していたことで、阿闍世王が父王を蔑にし、提婆達多が釈尊を殺害しようとしたことと同じであるとのべます。日蓮聖人を流罪にした者は、阿闍世王や提婆達多のような悪逆な者であるとし、今は喜んでいるが後に謗法の禍により歎くことになるとのべます。そのたとえに、藤原泰衡が義経の起居していた衣川館を襲撃し自害へと追いやり、弟の忠衡も義経に同意したとして殺害し、義経の首を差し出して安泰と思って悦んでいたが、頼朝の大軍により追討され、泰衡の首は前九年の役の故実にならい、眉間に八寸の鉄釘を打ち付けて柱に懸けられたことをあげたのです。大きな悪鬼が日本に蔓延ってきたからであると、末法の現況をのべています。日蓮聖人が迫害にあうのは日本国中の人に悪鬼が入ったからであるとのべています。

佐渡流罪は世間でいう犯罪ではなく、法華経を守ることにより起こる法難でした。『開目抄』にのべたように「不軽軽毀」の罪業意識にたたれます。

 

「日蓮も又かくせめ(責)らるゝも先業なきにあらず。不軽品云其罪畢已等云云。不軽菩薩の無量の謗法の者に罵詈打擲せられしも先業の所感なるべし。何に況や日蓮今生には貧窮下賎の者と生れ、旃陀羅(漁者)が家より出たり。心こそすこし法華経を信たる様なれども、身は人身に似て畜身也。魚鳥を混丸して赤白二滞とせり、其中に識神をやどす。濁水に月のうつれるが如し。糞嚢に金をつゝ(包)めるなるべし。心は法華経を信ずる故に、梵天・帝釈をも猶恐しと思はず。身は畜生の身也。色心不相応の故に愚者のあなづる道理也。心も又身に対すればこそ月金にもたと(譬)ふれ。又過去の謗法を案ずるに誰かしる。勝意比丘が魂にもや、大天が神にもや。不軽軽毀の流類歟、失心の余残歟。五千上慢の眷属歟、大通第三の余流にもやあるらん。宿業はかりがたし。鉄は炎打てば剣となる。賢聖は罵詈して試みるなるべし。我今度の御勘気は世間の失一分もなし。偏に先業の重罪を今生に消して、後生の三悪を脱れんずるなるべし」(六一四頁)

 

この先業の重罪を佐渡流罪の値難により消滅して、出離することの意義をのべています。法然や大日の流類は、謗法のため寿量品にて成仏できずに、今世に生まれてきた一闡提の者であるとのべ、日蓮聖人も念仏を唱えていた過去の罪の自覚をのべています。

 

「日蓮も過去の種子已に謗法の者なれば、今生に念仏者にて数年が間、法華経の行者を見ては未有一人得者千中無一等と笑し也。今謗法の酔さめて見れば、酒に酔る者父母を打て悦しが、酔さめて後歎しが如し。歎けども甲斐なし、此罪消がたし。何況過去の謗法の心中にそみ(染)けんをや。経文を見候へば、烏の黒きも鷺の白きも先業のつよく(強)そみけるなるべし」(六一五頁)

 

信徒にたいし謗法という罪業の意識とそれを消滅することの意義を説かれ、その時は今であることを自覚させたのです。そして、念仏者だけではなく天台真言の僧までがその邪義に味方して、日蓮聖人を迫害することは憐れであり悲しむことであるとのべます。そして、前述した正月一六日の「塚原問答」にふれています。塚原問答に至る経過は迫害に起因しており、佐渡在島中は引き続き命を狙われていました。

つぎに、『般泥洹経』の「四依品」を引き『開目抄』(六〇二頁)と同じ、八句の罪業意識をのべます。しかし、日蓮聖人が大難にあって苦しめられるのは、これらのことが原因ではなく、過去に法華経の行者を軽薄にしたためであるとのべます。この八句を「八種の大難」とのべています。

 

「一或被軽易、二或形状醜陋、三衣服不足、四飲食麤疎、五求財不利、六生貧賎家、七及邪見家、八或遭王難等云云。此八句は只日蓮一人が身に感ぜり。高山に登る者は必下り、我人を軽めば、還て我身人に軽易せられん。形状端厳をそしれば醜陋の報を得。人の衣服飲食をうばへば必餓鬼となる。持戒尊貴を笑へば貧賎の家に生ず。正法の家をそしれば邪見の家に生ず。善戒を笑へば国土の民となり王難に値ふ。是は常の因果の定れる法也。

日蓮は此因果にはあらず。法華経の行者を過去に軽易せし故に、法華経は月と月とを並べ、星と星とをつらね、華山に華山をかさね、玉と玉とをつらねたるが如なる御経を、或は上げ或は下て嘲哢せし故に、此八種の大難に値る也。此八種は尽未来際が間一づつこそ現ずべかりしを、日蓮つよく法華経の敵を責るによて一時に聚起せる也。譬ば民の郷郡なんどにあるには、いかなる利銭を地頭等におほせ(債)たれども、いたく(甚)せめ(責)ず、年年にのべゆく。其所を出時に競起が如し。斯由護法功徳力故等は是也。法華経には有諸無智人悪口罵詈等加刀杖瓦石、乃至向国王大臣婆羅門居士、乃至数数見擯出等云云。獄卒罪人を責ずば地獄を出る者かたかりなん。当世の王臣なくば日蓮が過去謗法の重罪消し難し」(六一六頁)

 

 このように、法華経の行者を謗った罪、法華経を疎かにした罪があるため、現報があることをのべます。これは、信徒にとっても自分の問題でもあることを教えています。迫害があることは日蓮聖人が、強く法華経の敵人を責めたから一気に聚起したことでした。値難は法華経を如説に弘経している証拠であり、これは「護法功徳力」によるものであると教えています。

そして、この勧持品の「王臣」などの迫害を受けることにより過去の重罪が消滅されるという「転重軽受」の滅罪観をのべます。自身を不軽菩薩に準(なぞら)え、当世において日蓮聖人を迫害する者を「不軽軽毀の衆」と同じとします。しかし、「不軽軽毀の衆」は後に信伏したが当世の人々は改心しないので、譬喩品に説かれている無数劫の年月を得脱できずに、「三五の塵点」を経歴すると思えば嘆かわしいとのべています。これは、伊豆流罪のときに著述した、『四恩抄』(「大なる歎」二四〇頁)と同じ筆致ですが、『佐渡御書』においては、

 

「日蓮は過去の不軽の如く、当世の人人は彼軽毀の四衆の如し。人は替れども因は是一也。父母を殺せる人異なれども同じ無間地獄におつ。いかなれば不軽の因を行じて日蓮一人釈迦仏とならざるべき」(六一七頁)

と、不軽菩薩と日蓮聖人を同格としています。不軽菩薩の過去の因行と日蓮聖人の行動は同じであるので、未来は不軽菩薩が釈尊となって仏果を成就できたと同じように、自身も未来には仏果を得ることができる、とのべているのが特徴です。

 しかし、日蓮聖人は自身の悦びは別として、日蓮聖人が佐渡流罪という事態になったことにより、弟子信徒のなかに疑心暗鬼となり、法華経の信仰を捨てるのみならず、かえって日蓮聖人に教訓する者がいたのです。

 

「日蓮を信ずるやうなりし者どもが、日蓮がかくなれば、疑ををこして法華経をすつるのみならず、かへりて日蓮を教訓して我賢しと思はん僻人等が、念仏者よりも久く阿鼻地獄にあらん事不便とも申計なし。修羅が仏は十八界我は十九界と云ひ、外道が云仏は一究竟道我は九十五究竟道と云が如く、日蓮御房は師匠にてはおはせども余(あまり)にこは(剛)し。我等はやはらかに法華経を弘べしと云んは、螢火が日月をわらひ、蟻塚が華山を下し、井江が河海をあなづり、烏鵲(かささぎ)が鸞鳳をわらふなるべし、わらふなるべし」(六一八頁)

 

と、日蓮聖人の弘経法について批判をする者がいました。日蓮聖人の弘教は強義折伏であることを批判したのです。日蓮聖人はこれらにたいし、末法今時は折伏の時であるとのべたのです。本書においては不惜身命の覚悟をもち、法華経を弘めることが成仏の直道であるとのべます。そのため不軽菩薩のように迫害があるが、それは自身の滅罪となり、不軽軽毀の衆が毒鼓逆縁となって成仏したように、謗法の者がこれにより下種となり救われることを強調します。この理由から今は折伏逆化の時であるとして門下に教訓をしたのです。

小さな螢がわずかな火を灯し、それをもって日月よりも勝れているかのように、日蓮聖人を笑うようなことをしたため、念仏者よりも長いあいだ、無間地獄に堕ちることはないようにと訓戒されたのです。「僻人」(びゃくにん)とは邪見をおこして日蓮聖人を捨てた人のことで、能登房・少輔房・名越の尼などを指していたのです。(『上野殿御返事』(一三〇九頁)。

末尾に書状などに使う紙が不足していることと、弟子信徒のそれぞれに書状を書く余裕もなく、また、一人でも漏れてあとで恨まれてはいけないので、この『佐渡御書』と『開目抄』を皆で「寄り合い」て、読み聞きし信心に励むようにと慰諭しています。

また、二月騒動にて鎌倉と京都で戦死した人がいたので、伊沢入道・酒部入道・河辺山城入道・得行寺殿などを心配され、その消息を詳細に調べ、貞観政要や外典籍・八宗相伝書などを、佐渡に送るように依頼しています。

伊沢入道・酒部入道・河辺山城入道・得行寺殿は、日朗上人とともに土籠に監禁された人物といわれています。伊沢入道の名前は本書にだけあり、伊沢五郎信光の子孫ともいいます。伊沢氏は武田氏の一族で、甲斐の伊沢庄を知行していたので伊沢を姓としたといいます。酒部入道は不明です。河辺山城入道は『門葉縁起』によると河辺平太郎道綱の子孫といいますが不明です。得行寺殿についても不明です。『門葉縁起』によると、この四人は夜回り役、盗賊奉行のような職にあったのではないかとあります。(『日蓮聖人遺文全集講義』第一〇巻四五頁)。

 ただし、本書に四名の名前を書いて安否を尋ねている理由は、二月一一日の合戦に参加してため、生存の確認をしたともいいます(『日蓮聖人遺文辞典』歴史篇八一四頁)。『五人土籠御書』の五人の中に入るならば、この二月騒動のおりには釈放されて、もとの任務についていたことになります。土籠に入牢したのは在家ではなく、僧であったとも考えられます。(『日蓮聖人遺文辞典』歴史篇三六九頁)。時宗が日朗上人などの六人を赦免したのは、二月騒動のあとのことでした(『高祖年譜攷異』)。文永一一年九月に弥源太入道に宛てた書状に、河野辺入道が逝去して寂しく思っていたが、今は弥源太入道を形見と思い見ていると、虚しさを感じないとのべています。このことからしますと、親子のような関係であったとうかがえます。伊沢入道などの名前は本書にだけ見えることから、日蓮聖人が心配されていたように、二月一一日の騒動において戦死されたのかもしれません。名越氏に関連した信徒であったともうかがえます(川添昭二著「御遺文から見る日本中世史」『中央教学研修会講義録』第一四号五八頁)。

阿仏房が塚原に近い目黒町から新保町(金井町新保)に移されたのは、この頃と思われます。本間重連が二月一八日に鎌倉に行き、日蓮聖人は四月に一谷へ移ったことから、日蓮聖人よりも先の三月ころに金井新保へ移ったとするのが妥当と思われます。また、小菅徹也氏(『佐渡中世史の根幹』)によると、金井新保の太子野へ移るときに、寺沢一族が協力したといいます。(「阿仏房元屋敷の調査報告」『現代宗教研究』第四四号二〇六頁)。

  

○一谷入道

 塚原から一谷(いちのさわ)に移ったのは四月といいます。目黒町の塚原からは直線で五、六㌔になります。現在の佐和田町市野沢になります。移された理由は二月におきた「時輔の乱」が、「自界反逆」を的中させたのことに驚いての処置といいますが定かではありません。(高木豊著『日蓮』一五五頁)。本間重連はこのときまだ鎌倉にいたといいます(『本化別頭仏祖統紀』)。本間重連は二月一八日に鎌倉に発っています。そのあと、後事をまかせられ、実権をもっていたのが地頭や名主たちであったといいます。本間重連がいないので阿仏房の所領を召し上げ、新保へ移したのが二月下旬ころになります。代わって塚原の日蓮聖人たちを護り、給仕されたのが国府夫妻と思われます。地頭たちにすると日蓮聖人の住居を代え、孤立させることが狙いだったと思えます。

言い伝えでは、四月三日(『高祖年譜攷異』は七日)に、塚原三昧堂より石田の郷、一谷に住まいを移され、豪農の一谷入道の館の別棟(堂)に住んだといいます。「さわの入道」(『千日尼御前御返事』一五四七頁)ともいい、『本化別頭仏祖統紀』によれば、姓名を近藤小次郎清久といい、本間六郎左衛門重連の配下であったようです。近藤伊予守清久というのは、子孫の近藤氏が二宮神社の神官となり伊予という受領名をもち、江戸時代になってから一谷入道の格上げのため、『妙照寺縁起』が作られたといいます(田中圭一著『日蓮と佐渡』一四一頁)。

塚原から一谷に移ったのは流人に農耕をさせて自給生活をさせるためともいわれています。この時代の流人生活は明らかでありませんが、公家法(『古事類苑』)を踏襲していたならば、一年間に与えられる食料は一日に米一升、塩一勺といいます。(「預りよりあづかる食は少し』九九四頁」。そのため流人に自給自足の生活をさせるように規定されていました。塚原は墓地で荒地なため春になったのを期に農耕のできる一谷に移し、名主の監視のもとに流人生活を送らせたといいます(『日蓮の生涯と思想』高木豊先生、四三頁所収)。

また、流人には流罪の翌春には田と種子を与えられ、秋になると米の配給を停止し自活にまかせるという規定があったといいます。日蓮聖人にはどのように規定されていたかは分りませんが、一谷に移された時期が四月の田植えころになるので、このような理由も考えられます。しかし、年内に収穫は不可能に近く、一谷に入ってからは米の給付が極端に少なくなり、あるいは、支給がストップしたのではないかともいいます(田中圭一著『日蓮と佐渡』一三二頁)。「付ける弟子は多くありしに」とのべていることから日蓮聖人に随従した弟子がいて依智氏から支給される食料では不足していたと思われ、一谷に移ってからはこれらの弟子と、妙一尼から使わされた下人の滝王によって農耕生活が始められたのでしょうか。(『日蓮の生涯と思想』四三頁)。日蓮聖人の人柄として一緒に畑仕事をされたと思われます。賊が襲うのは夕暮れ時が一番多いと思われますので、このときには庵室内にて執筆をされていたと思われます。夜はほのかな燈をたよりに、身延と同じく読経と法門の教授が主になされていたことでしょう。

 しかし、一谷は生産力が低く人家もまれな寂しいところであったといいます。一谷へ移ったのは必ずしも幕府の待遇がよくなったのではなく、日蓮聖人を慕う信者が増えてきたため、それを厭った本間氏が一谷に移したともいいます。塚原は守護所の近くで町があり水田も広く展開していたといい、なによりも名主の阿仏房夫妻が近待していました。この阿仏房が新保の阿仏房元屋敷に追放されたことは、佐渡においても日蓮聖人の信者が、公権の力により迫害にあっていたことがわかります。

一谷入道は念仏者であり阿弥陀堂をもっていました。日蓮聖人を軟禁するために、新たに別棟が建てられたのではなく(影山堯雄著『日蓮宗布教の研究』二六頁)、もとからあった、阿弥陀仏を本尊とした「堂」に移動されたと思われます。一谷での飢餓や迫害状況からしますと、けっして好意的な移動とはいえないのです。正確な地名はわかりませんが、佐和田町市野沢にあたるといわれており、塚原よりも湿気が強く寒さも厳しかったようです。日蓮聖人は赦免までの約二年間をここで過ごしました。『一谷入道御書』に

 

「文永九年の夏の比、佐渡国石田郷一谷と云し処に有しに、預たる名主等は公と云ひ、私と云ひ、、宿の入道といゐ、め(妻)といゐ、つかうもの(使用人)と云ひ、始はおぢ(怖)をそれ(畏)しかども先世の事にやありけん、内ゝ不便と思ふ心付ぬ。預りよりあづかる食は少し。付る弟子は多くありしに、僅の飯の二口三口ありしを、或はおしき(折敷)に分け、或は手に入て食しに、宅主内々心あて、外にはをそ(恐)るる様なれども内には不便げにありし事、何の世にかわすれん」(九九四頁)

 

と、一谷に居住が移り、そこの入道家族のことや生活の環境を伝えています。塚原の三昧堂の居宅と比べ優遇されたとはいえないようです。阿仏房たちの給仕も監視されたのでしょう。一谷入道(近藤清久)は名主ではなく、その下の身分であり、少しの下人をもっていたといいます。(田中圭一著『日蓮と佐渡』一二八頁)。中興入道は名主であったという指摘があります(本間守拙著『日興上人の風光』一八六頁)。しかし、名主の多くは日蓮聖人を、父母の敵以上に憎んだとのべています。その名主たちを一谷入道は恐れていたとのべています。塚原でのようすを『千日尼御前御返事』に

 

「地頭々々等、念仏者々々々等、日蓮が庵室に昼夜に立そいて、かよ(通)う人あるを、まど(惑)わさんとせめしに」(一五四五頁)

 

と、塚原と同じように、地頭たちが交代で日蓮聖人を監視していたと思われます。日蓮聖人のもとに来る者がいれば、それらの者を不安におとしいれたり困惑させたとのです。一谷入道は身分的にこれらの地頭には抵抗できなかったのです。つまり、日蓮聖人を預かって監視したのは、石田郷(河原田)の地頭である本間山城入道といいます。(影山堯雄著『日蓮宗布教の研究』二七頁)。山城入道は念仏者であり、佐渡の守護である北条宣時の配下として、日蓮聖人に危害をくわえました。『一谷入道御書』(九九四頁)に、父母の敵よりも宿世の敵よりも、日蓮聖人を敵対視したとのべているほどです。

 

  守護(北条宣時)―守護代(本間重連)―石田郷地頭――名主――宿(一谷入道宅の堂)

一谷入道は阿弥陀堂を建てるほどの、裕福な豪農で熱心な念仏信者でした。一族に真言宗の学乗房がおり、この学乗房は日蓮聖人の弟子となり日静(一位阿闍梨、正安三年六月二二日、八〇歳寂)と名のります。そして、この阿弥陀堂を法華堂とし、この法華堂にて日蓮聖人に随侍し給仕したといいます。日蓮聖人が赦免されますと、法華堂を護り清久の屋敷を寺とし妙照寺としたといいます。

直接、住居を提供し監視していた一谷入道の家族も、始めは日蓮聖人を恐れていたようです。日数を経るにしたがい、しだいに、日蓮聖人に帰依するようになりました。翌年の文永一〇年五月に、入道夫妻と子息の小次郎信重とともに受戒しています。六月に新たに草庵を建て、七月一四日に開堂供養をしています。日蓮聖人が身延入山後の建治元年にに妙法華山妙照寺の山寺号と常住本尊を学乗房日静に授けています。妻は妙法尼といい、近辺に住んでいた小次郎信重は、のちに中興村(金井町中興)に住居を構えたことにより、中興入道と呼ばれることになりました。文永九年二月一八日に信徒となっており、一〇月に息女の七回忌のおりに法華堂の開堂供養をしています。のちに(応永三年)、法華堂を中興入道の妻の名前に因んで、法華山妙経寺(佐和田町中原)と改称することになります。また、文永一〇年七月一五日に日蓮聖人が草庵に近い小丘に登り、赦免の唱題祈念をされたおり、妙見大菩薩が星下りされたところに、松永房日心上人(正安三年三月二八日寂)が堂宇を建立したのが御松山実相寺です。(『日蓮宗寺院大鑑』六三〇頁)。

 

 父  一谷入道  近藤小次郎清久   法号 法妙院清久日学上人  弘安四年二月一三日寂

    妙照寺(佐和田町市野沢)

 母  妙法尼   弘安五年二月一六日寂

 子  中興入道  近藤小次郎重信   法号 清保房日正、妻妙経尼

    妙経寺始祖(佐和田町中原)

 清久の一族  学乗房(もと真言宗の僧) 新草案を妙照寺とした

 

 『中興入道御消息』に、中興入道は近藤小次郎の子息であり、父子ともに本間重連の配下であったといいます。

 

「故次郎入道殿の御子にてをはするなり。御前は又よめ(嫁)なり。いみじく心かしこかりし人の子とよめとにをはすればや、故入道殿のあとをつぎ、国主も御用なき法華経を御用あるのみならず、法華経の行者をやしな(養)はせ給て、としどし(年々)に千里の道をおくりむか(迎)へ、去ぬる幼子のむすめ御前の十三年に、丈六のそとば(卒堵波)をたて」(一七一八頁)

 

と、妻も篤信であったことがわかります。一谷入道・中興入道・学乗房の関係については、伝記によるもので確証はないといいます。(『日蓮宗事典』)。中興入道に宛てた書状は『中興入道御消息』(弘安二年一二月)と、『中興政所女房御返事』(建治三年四月)の二通だけです。

 

 中興入道―本間次郎安連―――――長子 平吾安光(大和房日性上人)本光寺開基

     (後の中興入道)   ―次子 平十郎安重

                ―三子 五郎元重  一谷に近い袖が沢に住んでいた。

法養房日覚と改め本覚寺を建てたが、明治維新後に廃寺となった

 中興入道の家族たちは、日蓮聖人が一谷に移ってから次第に信者となったと思われます。しかし、妙経寺の前身となる法華堂を建てた中興次郎入道信重(日正上人)は、本間重連の一族であり、文永九年一月の塚原問答のおりに、中興清保とともに警備役に就いていたといいます。このとき日蓮聖人の教えを聞いて入信したといいます。文永九(一二七二)年一〇月一日の息女の七回忌に、法華堂を建て方丈の塔婆供養を日蓮聖人に依頼したといいます。(『聖地佐渡』四四頁)。

 「中興次郎入道信重」と「中興入道  近藤小次郎重信   法号 清保房日正」は類似しています。『中興入道御消息』は弘安二(一二七九)年になり、中興入道の息女の一三回忌に塔婆を建てた功徳をのべています。一年おくれての十三回忌法要となりますが、このところも類似しているように思えます。「平吾安光(大和房日性上人)本光寺開基」は、『本光寺縁起』によりますと、六九歳の文永九年の春に日蓮聖人と対面し入信したといいます。大和房は順徳天皇が御所の四方に神仏を安置されたうち、東の観音堂を守護する任務に就いていたといいます。このとき、「観音別当大和房」の勅諚(おおせ)を賜ったといいます。日蓮聖人に帰依してからは、この観音堂を改めて法華経の道場とされたといいます。舎弟の平十郎安重は応長元(一三一一)年に没しています。(本間守拙著『日興上人の風光』一八三頁)。

また、竹田の円隆寺の基礎を作った高野坊(のちに本行房と贈号されています)は、日蓮聖人が法華経を読誦されたときに「白鳥竜灯」の奇瑞があり、ここに、白鳥山延竜寺という堂を建てます。さらに、文永一〇年三月の創立という世尊寺があります。世尊寺の開基である、下江房(しもこう)日増・妙円夫妻も、この頃に信徒となったようです。下江房は遠藤藤四郎盛国といい、国府に近い畑方村に住んでいた遠藤氏一族といいます。したがって、阿仏房とも親しい間柄であったと思われます。(本間守拙著『日興上人の風光』一八二頁)。世尊寺の開山は日興上人となっています。日蓮聖人の曼荼羅本尊(弘安三年)のほかに、日興上人の曼荼羅本尊が一三幅格護されています。これは、日蓮聖人の弟子たちが佐渡において弘教をされ、信徒を獲得していったことを現わしています。(『日蓮宗寺院大鑑』六二八頁)。

このような信徒が一谷に移ってから増えて行ったと思われます。ところで、日蓮聖人は一谷入道宅の法華堂にて何度も命をねらわれ、一谷入道に命を救われています。『千日尼御前御返事』に、

 

「入道の堂のらう(廊)にて、いのち(命)をたびたび(度々)たすけ(助)られたりし事こそ、いかにすべしとも、をぼへ候はね」(一五四七頁)

 

と、いう記述は、山城入道が日蓮聖人に放った暗殺者をいうものです。さらに、ここでの生活も良くなったわけではなく、とくに配給される食物が少なく食料には乏しかったことが、飯は二口三口ほどの少々で、それをおしきに分け、あるいは手に入て分けて食べたとのべていることからうかがえます。日蓮聖人は弟子や鎌倉からきた信徒たちをふくめて、七、八人以上の生活をされていたようです。(『呵責謗法滅罪鈔』七九〇頁。(宮崎英修著『日蓮とその弟子』一〇一頁)。弟子たちは島内を布教して托鉢をされましたが、このように弟子が多くいたので食事に困る生活でした。文永九年の秋までは罪人への米の支給はあったでしょうが、日蓮聖人一人分とすれば、かなりの食糧不足だったのです。

窮状を知らされていた富木氏からは金銭が送られてきます。(六一九頁)。そして、現地の一谷入道たちの計らいがありました。日蓮聖人は「何れの世にかわすれん」と述懐されるほどの信徒になりました。一谷入道の妻妙法尼や、子息の中興入道夫妻が給仕をされたからです。日蓮聖人は妙照寺の側にある御松山実相寺の高台に登って、朝日を拝まれたといいます。景色が安房小湊に似ているので父母を偲んだともいいます。

 

□『富木殿御返事』(一〇一)

一谷に移られてはじめて著述されたのが、四月一〇日に富木氏に宛てた『富木殿御返事』です。『御対面期霊山浄土由事』とも言います。四月一〇日はユリウス暦では五月八日の初夏のころといいます。真蹟の二紙は中山法華経寺に所蔵されています。筆速は冷静沈着に一字一字を確かめるように書き通されています。『開目抄』の筆致もこのような書体であったのではないかと思われます。本書にのべる日蓮聖人の押し迫る気持ちが伝わってきます。

 

「鵞目如於員数給候了。御志難申遂候。法門之事。先度四条三郎左衛門尉殿令書持。其書能々可有御覧。粗勘見経文。日蓮為法華経行者事無疑歟。但于今不蒙天加護者。一者諸天善神去此悪国故歟。二者 善神不味法味故無威光勢力歟。三者大悪鬼入三類之心中。梵天帝釈不及力歟等。一々証文道理。追可令進候。但生涯自本思切了。于今無翻返。其上又無違恨。諸悪人又善知識也。摂受折伏二義任仏説。敢非私曲。万事期霊山浄土」(六一九頁)

 

布施の金子を手紙にある金額の通りに受け取った礼をのべ、四月に四条頼基の使者がが佐渡に来ていたので、『開目抄』に大事な法門を記しているので、理解を深めるよう教示されています。また、本書に日蓮聖人は経文のごとく、「法華経の行者」であることは疑いがないとのべています。このことは、本化上行菩薩であることを確信されていたことにほかなりません。そして、現在に諸天の守護がない理由を三点あげます。

 

一には、諸天善神が法華不信の者が充満した悪国であるために捨去した

二には、法華経の法味を嘗めないため威力を失った

三には、悪鬼が三類の心中に入り込んだため梵天や帝釈も力が及ばない

 

と、のべています。善神捨去に関しては『立正安国論』にのべていたことでした。諸天善神でさえ守護の力を天魔に押さえられているとのべます。しかし、日蓮聖人の信念はかわることなく、また、迫害にあうことを遺恨と思わず、三類の法敵においても善知識として受けとめているとのべます。かさねて、摂折の化道法は仏説に従うことであり、個人的な感情で行なうことではないとし、最後に「倶出霊鷲山」と寿量品に説かれているように、釈尊がおられる「霊山浄土」で会うことを約束され、死後の霊山往詣をのべていることに着目されます。一谷に移っても不安な生活が続いています。第一紙の端書きに、

 

「日蓮臨終一分無疑。刎頭之時殊喜悦可有候。値大賊大毒易宝珠可思歟」(六一九頁)

 

と、いつ斬首のような処刑にあうかわからない、という状況をのべています。また、端書は速筆になっており、「万事期霊山浄土」という心境と連動され、一谷に移ってからも命を狙われていたようです。何者かによる暗殺があるという切迫した心境がうかがえます。この状況を富木氏に伝え、もし刎首にあったときには、法華経の功徳によって宝珠をえることと同じであるから、法悦と思うようにと強い信念をのべています。『開目抄』を大切に読むようにとのべた理由もここにありました。宝珠とは妙法蓮華経のことであり、一念三千の成仏を顕わす意味をもっています。今生に生きて会えなくても、法華経のためのことならば意義があることをのべます。法華経に結ばれた師弟関係と、釈尊の使者としての使命を果たした充足感がうかがえます。富木氏は何度も読み返されたことと思われます。

このころ鎌倉では、日蓮聖人が予言した「自界反逆」が、二月騒動(同士打ち)として適中したということで、土牢に幽閉されていた日朗上人などが釈放されたといいます(高木豊著『日蓮』一五五頁)。これらは、自界叛逆の内乱的中により、時宗など幕府の態度がかわったためといいます。時宗にとっては蒙古政策などで対立していた者が処断され、思うように政治ができるようになります。そのあと、日蓮聖人を殺害しないようにとの指示がでるのです。『妙法比丘尼御返事』に、

 

「又佐渡国にてき(斬)らんとせし程に、日蓮が申せしが如く鎌倉にどしうち(同士打)始りぬ。使はし(走)り下て頚をきらず」(一五六三頁)

 

このころ、蒙古の使者の趙良弼が六度目の来日をします。趙良弼はこれより一年ほど滞在して折衝を重ねましたが、返書を得られずに帰国します。

 

□『同生同名御書』(一〇四)

 四月に四条金吾が佐渡に日蓮聖人を訪ねます。その四条金吾が鎌倉に帰るときに妻に送られた書状です。本満寺本が伝えられています。はじめに藤四郎殿の女房と、常に親しくして本書状を読み信心を強くするようにとのべています。藤四郎殿の女房については不明です。また、『単衣(ひとえぎぬ)鈔』にも、

 

「此文は藤四郎殿女房と常により合て御覧あるべく候」(一一〇八頁)

 

と、同じような文があり、両書とも袖書き、追て書きという形態です。『単衣鈔』は建治元年八月の書状で、このときにも日蓮聖人とは対面がないことが書かれています。『単衣鈔』は一説に上野殿に宛てた書状で、時光の妻とは対面したことがなかったことになります。しかし、『朝師本』の写本はこの二三字はありませんので、藤四郎夫妻は鎌倉在住の信徒であったといいます。(『日蓮聖人遺文辞典』歴史篇七九五・九四〇頁)。

 幼い子供は母がわからなくても、母親は子供を忘れないように、釈尊は母親のように女人や私たちの側から離れないとのべ、私たちが釈尊をいつも忘れずにいれば、釈尊を見奉ることができるとのべます。そして、徽宗皇帝が道教の学者に傾倒して仏教を破滅させようとしたときに、法道三蔵が徽宗皇帝の誤りを正したが、皇帝に背いた罪により、顔に焼印を押されて江南に流罪された故事をのべます。本書の受け取り人が禅宗の信者であったのか、この道教の学者に似たのが、今の禅宗であるとし、日蓮聖人は法道三蔵と同じ殉教者であるとのべます。

 四条金吾夫妻が法敵が多く住みづらい鎌倉におり、そのなかでも堂々と法華経を信仰していることを褒めています。釈尊や法華経のなかにおいて重要な役割をしている、普賢菩薩・薬王菩薩・宿王華菩薩が、二人を守護して力となっているとのべ、力強い下人がいるわけでもない状況のなかで、夫の金吾を佐渡まで遣わしてくれた妻に感謝の言葉をのべています。

そして、『華厳経』には人が生まれてくるときに、「同生同名(どうしょうどうみょう)」という二つの倶生神(くしょうじん)が付き添い離れずにいて、その人の罪や功徳をことごとく記録していることをのべ、四条金吾夫妻のこのたびの善根を、釈尊に言上するであろうとのべています。諸天善神はすでに見ているので、必ず信仰が報われるであろうことを伝え、感謝の心を伝えています。

 

□『四条金吾殿御返事』(一〇五)

 

五月二日付けにて四条金吾に宛てた書状です。『朝師本』の写本が伝えられています。日蓮聖人が法難に会うたびに、四条金吾が給仕してくれることに感謝し、日蓮聖人の行者としての心境をのべています。

 

「日蓮が諸難について御とふらひ(訪)、今にはじめざる志ありがたく候。法華経の行者としてかゝる大難にあひ候は、くやしくおもひ候はず。いかほど生をうけ死にあひ候とも、是ほどの果報の生死は候はじ。又三悪四趣にこそ候つらめ。今は生死切断し仏果をうべき身となればよろこばしく候」(六三四頁)

 

と、後悔はなく仏道を成就し、成仏という果報を得ることができた悦びを素直に伝えています。そして、天台大師の「迹門の理の一念三千」を弘めても、法難にあうのであるから、まして、日蓮聖人が弘通する「本門の一念三千」の教えは、本門八品・一品二半に集約されるので、教えは狭いようにみえるが、その内容は深いとして、その理由は「本門寿量品の三大事」を説いているからであるとのべます。すなわち、

 

「今日蓮が弘通する法門は、せばきやうなれどもはなはだふかし。其故は彼の天台伝教等の所弘の法よりは一重立入たる故也。本門寿量品の三大事とは是也。南無妙法蓮華経の七字ばかりを修行すればせばきが如し。されども三世の諸仏の師範、十方薩埵の導師、一切衆生皆成仏道の指南にてましますなればふかきなり」(六三五頁

 

 「本門寿量品の三大事」とは、本門の本尊・題目・戒壇のことをいい、これを「三大秘法」といいます。本書が三秘を始めてのべた遺文といいます(『日蓮聖人遺文全集講義』第一〇巻一三一頁)。そして、方便品の「諸仏智慧甚深無量」の文をあげて、南無妙法蓮華経の七字について説明します。

 

  諸仏―十方三世の一切の諸仏

  智慧―「諸法実相」十如果成の法体―南無妙法蓮華経

諸法―多宝仏―境

実相―釈尊――智(境智而二・境智不二)

 

 つまり、釈尊の内証の法体は南無妙法蓮華経であることを説いています。そして、天台大師が『法華玄義』に「煩悩即菩提」、『摩訶止観』に「生死即涅槃」と説いたのは、この「諸法実相・十如果成」のことで、普賢経に「煩悩を断ぜず五欲を離れなくても、六根を清浄にし諸罪を滅除することができる」(『開結』六〇一頁)の文などをあげて、煩悩があっても一心に南無妙法蓮華経と唱えるだけで、六根を清浄にし罪をのぞくことができることをのべます。唱題によりこれらの功徳を得ることができると教えています。

 このように尊い法華経を、自分は過去世において粗末にし説法者を嘲笑した罪により、現在に大難にあっていると、過去に謗法の罪があったことをのべています。四条頼基は今世には法華経の行者となり、このような日蓮聖人を助けるのは、まさに、法師品の遣化の優婆塞であるとのべます。(「我遣化四衆 比丘比丘尼 及清信士女供養於法師 引導諸衆生 集之令聴法 若人欲加悪 刀杖及瓦石 則遣変化人 為之作衛護」『開結』三一九頁)。その理由は主君より所領を召しあげられ疎遠にされ、同僚などからも命を狙われるような身となっても、法華経の教えを信受して、逆らうことがないからであるとのべます。そして、四条頼基が釈尊より遣わされた人であるならば、とうぜん、日蓮聖人は法華経を弘通する法師(如来使)に違いないと述べます。すなわち、

 

「若然ば日蓮法華経の法師なる事疑なき歟。則如来使にもにたるらん、行如来事をも行ずるになりなん。多宝塔中にして二仏並坐の時、上行菩薩に譲り給し題目の五字を日蓮粗ひろめ申なり。此即上行菩薩の御使歟。貴辺又日蓮にしたがひて法華経の行者として諸人にかたり給ふ」(六三七頁)

 

 ここに、日蓮聖人は多宝塔中において、釈迦・多宝の二仏が、末法に法華経を弘通することを付属された、本化上行菩薩であるとの自覚をのべています。そして、その付属された法体とは「題目の五字」、南無妙法蓮華経であることを明かしています。四条金吾も日蓮聖人と同じく地涌の菩薩の使いとして、法華経の行者となり法華経を弘通(流通)しているとのべます。そして、

 

「法華経の信心をとをし給へ。火をきるにやすみぬれば火をえず。強盛の大信力をいだして法華宗の四条金吾四条金吾と鎌倉中の上下万人、乃至日本国の一切衆生の口にうたはれ給へ。あしき名さへ流す、況やよき名をや。何に況や法華経ゆへの名をや。女房にも此由を云ひふくめて、日月両眼さう(双)のつばさ(翼)と調ひ給へ。日月あらば冥途あるべきや、両眼あらば三仏の顔貌拝見疑なし。さうのつばさあらば寂光の宝刹へ飛ん事、須臾刹那なるべし。悉は又々申べく候」(六三七頁)

 

と、強い信心をもって、法華宗の信者、四条金吾の名前を鎌倉市中に轟かすようにと信心を勧めています。妻にもこのことを教え諭し、夫妻は二つの双翼のように信仰を護り通すことをのべています。そうすれば、二人の日月のような輝きは冥途には闇は払いのけられ、両眼がそろった二人の目には、釈尊・多宝仏・十方分身の諸仏の尊顔を拝見でき、双翼によって寂光の浄土にすぐさまに飛びゆくことができると励ましています。本書を受け取った四条金吾はどれほどの喜びをもって拝読したことでしょう。本化上行菩薩の自覚を打ち明けられたのです。ますますの信心に励まれる決意を持ったと思われます。

□『真言諸宗違目』(一〇六)

 このころから、鎌倉方面などの門下との連絡が多くなり、幕府や蒙古の情報がつぎつぎと入ってきます。二月騒動は五月ころになり、ようやく収拾がつき始めた頃でした、しかし、この騒動の余波に関してか、日蓮聖人は門弟にたいし、赦免運動をしないようにと強く戒めたのが本書です。また、この五月に元使趙良弼の使者張鐸が、高麗の牒状を携え来航しています。蒙古の動きは依然として続いていたのです。

本書は四条金吾に書状を認めた三日後の、五月五日に富木氏たちに宛てられています。真蹟の七紙は中山法華経寺に所蔵されています。「土木殿等人々御中」の真蹟は別紙に上書きされています。第四紙から第七紙までは表裏に記載されており、第七紙の裏に八丁の符号があり、第四紙の裏が一一丁になっています。丁付けは一一丁になります。一谷においても紙不足であったことがわかります。しかし、筆の勢いは強く気力も体力も整っていることがうかがえます。

日蓮聖人は弟子や信徒にたいし、赦免の運動をしないように、と強く禁じられたことが本書からわかります。この部分は追い書き(端書)になりますので、本来は本文を書きあげての追伸になる文章です。しかし、行間に忍ばせて書かれたと思われる筆致であることから、内密的な伝言を忍ばせているという印象をもちます。

「空読覚。老人等具奉聞。早々不蒙御免事不可歎之。定天抑之歟。以藤河入道知之。去年有流罪者 今年不可値横死歟。以彼惟之愚者不用事也。日蓮欲蒙御免之事出色弟子不孝者也。敢不可扶後生。各々知此旨」(六三八頁)

 

と、本書をなんども読んで暗記し、老人たちも詳しく聞いて正しく理解をするようにと命じています。そして、赦免にならないことは諸天の理由があることと戒めます。その例として、藤河入道が不慮に横死したのは、昨年に日蓮聖人とともに、流罪にならなかったからとされます。藤河入道は富木氏の関係者といいます。(『日蓮聖人遺文辞典』歴史篇九六六頁)藤河入道は本書にのみ名前が書かれており、富木氏の知り合いの者というのは、本書に「土木殿等人々御中」とあることによると思います。岡元錬城先生は竜口法難に退転し、鎌倉にいたため二月騒動にまきこまれて殺害された、と推測しています。(『日蓮聖人―久遠の唱導師』一四六頁)。日蓮聖人の赦免が遅れていることは、諸天の加護に思惑があるためとのべています。また、日蓮聖人は鎌倉に帰るまえに、大事なことをされる目的があったのです。このあとに、『観心本尊抄』や曼荼羅本尊を図顕される準備をされていたからです。

二月騒動がおき自界反逆難の予言が的中したことにより、鎌倉の信徒たちは赦免運動を諸方に働きかけたようです。それにたいし、今はその時期ではないとして行動を慎むようにのべたもので、前述のように二月騒動の不穏な情勢が続いていたためと思われます。この時期に、日蓮聖人の折伏的な弘通にたいして、緩和的な弘教をすべきではないかという意見を、富木氏を仲介として日蓮聖人に進言されたといいます。その提言をしたのは大進阿闍梨といいます。(『昭和新修日蓮聖人遺文全集』別巻三九頁)。

本書は富木氏に宛てて広く門下に日蓮聖人の真意を知らせるようにという文面で、『開目抄』『佐渡御書』などと同じく法華経の行者意識を宣揚する書状です。「空読覚老人、等具奉聞」は二行になり、書き始めの空白部分の下に書かれています。「早々不蒙御免事不可歎之」以下の文は行間に書かれています。また、本書は『開目抄』の行者意識の懐疑性をのべたのにたいし、教主釈尊は流罪になった日蓮聖人を、衣をもって覆い護られているという守護の実感をのべて、法華経の行者には釈尊と諸天善神の守護があるという確証をのべています。本書の書き出しに真言宗・華厳宗・法相三論宗・禅宗・浄土宗の誤りを羅列したことから、『真言諸宗違目』と名づけられます。また、この諸宗の宗旨と祖師の誤謬を的確に示したのは、日蓮聖人ただ一人である(「明之導師但日蓮一人耳」)とのべ、末法の導師としての日蓮聖人の師徳を表明しています。『開目抄』と同じように『涅槃経』の「仏法中怨」と、章安大師の『涅槃経疏』「為彼除悪即是彼親の文をあげ、法然や禅宗などの謗法の悪を除くことは、仏弟子の責務であるとのべます。

 

「法然捨閉閣抛 禅家等教外別伝 若不叶仏意者日蓮為日本国人賢父也。聖親也。導師也。不言之為一切衆生無慈詐親即是彼怨重禍難脱。日蓮既為日本国王臣等者当為彼除悪即是彼親。此国既犯三逆罪。天豈不罰之乎」(六三九頁)

 

と、日蓮聖人は仏意のごとく行動していることから、自身に親徳と師徳をみられ、その法華行者を迫害することは三逆罪を犯すことであり、ひいては、諸天善神が日本国を治罰するであろうとのべています。また、『涅槃経』に説く謗法の者が十方世界の大地のようななかで、正法を持つ者は爪の上の土という、その爪上の土にあたるのは日蓮聖人とのべています。そして、末法には「魔」が沙門となって仏法を混乱させるとし、その沙門とは建長寺の道隆、極楽寺の良観、東福寺の聖一と名前をあげています。

 

「法滅尽経云 吾般泥後 五逆濁世魔道興盛。魔作沙門壊乱吾道О悪人転多如海中沙 劫欲尽時日月転短善者甚少若一若二人等[云云]。又云 衆魔比丘命終之後 精神当堕無択地獄等[云云]。今道隆一党・良観一党・聖一一党・日本国一切四衆等当是経文」(六三九頁)

 

 そして、これらの邪師を破折することにより、悪口罵詈および流罪に遭い、六難九易・勧持品の色読をした法華経の行者は日蓮聖人一人である(「日蓮当此経文」)として、

 

「仏陀記云 後五百歳有法華経行者 為諸無智者必被悪口罵詈・刀杖瓦石・流罪死罪等[云云]。無日蓮者釈迦・多宝・十方諸仏未来記当大妄語也」(六三九頁)

 

と、日蓮聖人が法華経を弘通しなければ、三仏の未来記は妄語となるとのべます。つまり、「後五百歳」の「未来記」に示された、法華経の行者である本化上行とは、日蓮聖人であることを示唆されています。

 そこで、日蓮聖人のこのような偉ぶる自負は、『首楞厳経』・『涅槃経』に説いているところの、「過人法戒」にいう慢心(過人法罪)にあたり、無間地獄に堕ちるのではないかという非難をあげ、薬王品の十喩のうち「如大梵天王一切衆生之父」と「諸経中最為第一」の文を引き、法華経は諸経中の最勝であるという観点から、最澄が『法華秀句』に「天台法華宗勝諸宗者拠所依経。故不自讃毀他。庶有智君子尋経定宗等」というように、法華経が諸経に勝れているので、自讃毀他にはならないとのべます。つまり、「依教定人勝劣。先不知経勝劣何論人高下乎」とのべるように、所依の経にしたがって能依の人の位が定まるということです。ですから、肝心なことは、所依の経の勝劣をわきまえることであり、「過人法」による弘通者の高下を論ずべきではないとします。

 つぎに、『開目抄』にのべた諸天の守護について、法華経の行者である者を守護しないのはなぜかという問難をします。日蓮聖人は諸天守護について、勧持品の「悪鬼入其身」の文を引き、『首楞厳経』に説く阿修羅王が、禅・念仏・律宗などの高僧の心中に入り込んでいるとのべます。その魔の沙門が説く邪法が、国王や国民の中にまで浸透し賢人を滅失しているとし、梵天や帝釈も防ぎがたい阿修羅王の大悪を、まして日本国の守護神が日蓮聖人を守護するには威力が弱いとします。

これを加護できるのは地涌の菩薩や釈迦多宝であり、これらの仏力でないと叶わないとのべます。日月は四天の明鏡であるから、諸天善神は日蓮聖人を見護っており、また、日月は十方世界の明鏡であるから、諸仏は日蓮聖人の行動を守護していることを疑っていないとのべます。日蓮聖人の罪業は未だに残っており、日蓮聖人は流罪に処せられたけれど、これは釈尊に守られてのことであり、竜口の刎首を脱したのも加護があった証拠であるとします。これを、法師品の文から、

 

「日蓮当流罪者 教主釈尊以衣覆之歟。去年九月十二日夜中脱虎口歟。必仮心固神守即強等是也。汝等努努勿疑於決定可有疑者也」(六四一頁)

 

と、教主釈尊が自ら日蓮聖人を、如来の衣で覆い隠して護って下さったとのべます。九月一二日の竜口首座の法難を脱出できたのは、まさに釈尊が日蓮聖人を守護されたと理解されているのです。同じことを、建治元年の『撰時抄』の末文にのべています。

「霊山浄土教主釈尊・宝浄世界の多宝仏・十方分身諸仏・地涌千界の菩薩等、梵釈・日月・四天等、冥に加し顕に助給はずば、一時一日も安穏なるべしや」(一〇六一頁)

 

 そして、信心堅固ならば諸天の守護も強いという、『止観輔行』「必假心固神守即強」の文を引いて、疑念をもつことのないようにと教訓しています。つまり、『開目抄』にのべた諸天不守護の疑念は、弟子信徒へ逆説的に諸天守護の確信を促すものでした。それにたいし、本書は真っ向から、釈尊が日蓮聖人を守護されている、と確信され断言されたのです。この確信は身延に入って、過去二十数年の弘通を振り返ってみても変わらない確信であったのです。本師である教主釈尊が、久遠の弟子である本化上行菩薩を守護されたのです。

 本書は『開目抄』の行者意識を再説した『佐渡御書』につづき、一谷に移っても信徒の統率が不安定であり、門弟たちに法華信仰のありかたについて、徹底させるようにと訓戒をしていました。日蓮聖人の教学において、本化上行菩薩の自覚に係わる、新たな展開があったこともその一因になっていたと思われます。しかし、佐渡においては、日興上人・日向上人が勇猛果敢に布教をされていました。日蓮聖人は流罪人であったため、自由に島内を歩くことはできなかったと思われます。また、身に危険がせまるため遠出はされなかったのです。島内では阿佛房の子息、藤九郎夫妻、その友人の国府入道、是日尼夫妻、一谷入道夫妻、中興次郎入道など、家族そろって入信しています。中興次郎入道は地元で信頼のある老人で、その人が日蓮聖人を尊重していました。佐渡で冷たい境遇をうけながらも、理解のある人だったことが、『中興入道消息』に

「島にて、あだむ者は多かりしかども中興の次郎入道と申せし老人ありき、彼の人は年ふりたる上心かしこく身もたのしくて国の人にも人とをもはれたりし人の、此の御房はゆえある人にやと申しけるかのゆえに子息もいたうもにくまず」(一七一六頁)
 

と、のべられ、中興の次郎入道の日蓮聖人にたいしての尊崇の態度が、家族などに信頼を与える一助となっていたことをうかがい知ることができます。

さて、この五月に夫と離別した婦人が、幼児を連れて佐渡に尋ねてきました(『日妙聖人御書』六四一頁)。日蓮聖人はこの女性に「日妙聖人」と名づけており、幼児はのちの乙御前といいます。日妙聖人は鎌倉に帰ってからは弟子たちの給仕をし、法華経の信仰を貫いたといいます(『乙御前母御書』七四五頁)。

 

□『日妙聖人御書』(一〇七)

鎌倉から佐渡まで幼い少女を連れて日蓮聖人に会いにきた女性に、五月二五日付けで与えた書状です。日付けを二四日、二六日とする写本もあります。真蹟は曾て京都本圀寺にありましたが、身延一五世の宝蔵院日叙上人の記録によれば、元亀四(一五七三)年には、すでに散在し断片となっていたようです。本書の断片が静岡県本成寺・師子王文庫・三重県顕本寺・大阪妙徳寺・藤田氏・伊丹本泉寺などに保存されていますが、半分近くが散逸しています。今後、発見される可能性がありましょう。

日蓮聖人はこの女性の篤い信心にたいし、特例として日妙聖人の名号を与えました。この女性は不詳のことが多く、寡婦となってから数年を経ており、丹砂(赤い土の辰砂)の砂を焼く稼業をしていたといいます。幼女はのちの乙御前といわれています。日妙聖人に与えられた遺文に、『乙御前御書』(七五四頁)と、『乙御前御消息』(一〇九五頁)があります。日妙聖人と富木尼とを同一人物とする説がありますが、建治元年八月四日の『乙御前御消息』(一〇九八頁)に、佐渡に訪ねたことに続き、身延にも詣でたことを褒めていることから、富木尼とは別人といいます。(『日蓮聖人遺文辞典』歴史篇八六四頁)。

内容は楽法梵志・釈迦菩薩(二種)・雪山童子の求法と、法華経の薬王菩薩・不軽菩薩、そして、提婆達多品に阿私仙人に千年つかえた檀王の故事を引き、法華経のために不惜身命の信心を通した、七聖の求法のことをのべています。法華経は釈迦・多宝と十方諸仏の証明のある経典であり、如意宝珠が無量の財宝を涌現させるのと同じような力があることを喩え、釈尊の六度の功徳も妙の一字に収まっているので、末代の凡夫が法華経を信じることにより、この六度を満足する功徳を得ることができるとのべます。

 

「妙の一字なり。此妙の珠は昔釈迦如来の檀波羅蜜と申て、身をうえたる虎にかひ(飼)し功徳、鳩にかひ(貿)し功徳、尸羅波羅蜜と申て須陀摩王としてそらごとせざりし功徳等、忍辱仙人として歌梨王に身をまかせし功徳、能施太子・尚闍梨仙人等の六度の功徳を妙の一字にをさめ給て、末代悪世の我等衆生に一善も修せざれども六度万行を満足する功徳をあたへ給。今此三界皆是我有其中衆生悉是吾子これなり。我等具縛の凡夫忽に教主釈尊と功徳ひとし。彼の功徳を全体うけとる故なり」(六四四頁)

 

つまり、釈尊が過去より菩薩行をして積んだ功徳は妙の一字に収まっているとのべ、末代の私たちは題目を唱えることで、六波羅蜜の修行を行ったことと同じ功徳となり、釈迦仏と等しい仏となることができると説いたのです。凡夫が仏となる「凡夫即仏」を教え、これが一念三千の肝心であるとしています。

 

「重華と禹とは共に民の子なり。孝養の心ふかかりしかば、尭舜の二王召て位をゆづり給き。民の身忽に玉体にならせ給き。民の現身に王となると凡夫の忽に仏となると同事なるべし。一念三千の肝心と申はこれなり」(六四五頁)

 

 そして、仏になる修行は「時」に応じて行うことであるとのべ、玄奘や最澄のように十万里、三千里に仏道を求めた賢人はいるが、女性の身で鎌倉から佐渡までの長い道のりを、仏法を求めて来たことは聞いたことがないとして、「日本第一の法華経の行者の女人」(六四七頁)と称え、不軽菩薩のごときの女人として、日妙聖人と名をつけています。日妙聖人が鎌倉から佐渡へ日蓮聖人を訪ねたことは、立派な末代の法華経の修行であると認められたのです。

 

「当知、須弥山をいたゞきて大海をわたる人をば見るとも、此女人をば見るべからず。砂をむして飯となす人をば見るとも、此女人をば見るべからず。当知、釈迦仏・多宝仏・十方分身の諸仏、上行・無辺行等の大菩薩 大梵天王・帝釈・四王等 此女人をば影の身にそうがごとくまほり給らん。日本第一の法華経の行者女人なり。故名を一つけたてまつりて不軽菩薩の義になぞらえん。日妙聖人等[云云]。相州鎌倉より北国佐渡国、其中間一千余里に及べり。山海はるかにへだて山は峨峨、海は濤濤。風雨時にしたがふ事なし。山賊海賊充満せり。すくすく(宿々)とまりとまり(泊々)民の心虎ごとし犬ごとし。現身に三悪道の苦をふるか。其上当世の乱世去年より謀叛の者国に充満し、今年二月十一日合戦。其より今五月のすゑいまだ世間安穏ならず。而ども一の幼子あり。あづくべき父もたのもしからず。離別すでに久し。かたがた筆も及ばず、心弁へがたければとどめ了」(六四七頁)

 

門下が動揺し退転する渦中に女性が幼女を伴い佐渡まで日蓮聖人の教えに従ってきたことは相当の覚悟がいることでした。末文にのべているように、鎌倉から佐渡の道中は山は険しく、海も波が荒く渡島の困難なうえに、途中の雨風の悪天候、山賊海賊の出没、宿舎の民心は虎のごとく恐ろしい道中であり、しかも二月騒動の合戦で、この五月まで世間が穏やかでない状況のなかを、父のいない子供と離別して久しい母の、親子二人の心中を思い書状を認めたのでした。