155.四種曼荼羅について                   高橋俊隆

○四種曼荼羅について

 この時期から首題に釈迦・多宝仏、両脇に不動・愛染明王を配した、曼荼羅本尊が認められています。十界を勧請した本尊とくらべて略式の本尊といえます。曼陀羅・漫荼羅・慢怛羅とも書きます。梵語のマンダラ(मण्डल maṇḍala)の音写であることがわかります。旧訳では「壇」・「道場」、新訳では「功徳聚」・「輪円具足」と翻訳します。インドでは神聖な領域を示し、そこに円形や方形に土壇を作り諸神を祭祀したことから曼荼羅といいました。釈尊が成道されたところを金剛座といい、この場所も曼荼羅とよばれました。「壇」・「道場」と翻訳されるのはこの理由によります。また、この「壇」に諸仏諸尊が来臨しますので、この「壇」には功徳が集積され充満されていることから「功徳聚」といい、そして、これらが円融して具足することから、「輪円具足」と翻訳されたのです。

 曼荼羅は四種類の形態があります。これを「四種曼荼羅」といいます。

 ・大曼荼羅 (尊形曼荼羅)

諸仏・菩薩の尊像を絵画として表現したもので、一般的にいう曼荼羅のことです。

・三昧耶曼荼羅(さまやまんだら)

諸仏の尊姿をそのまま描く代わりに、諸尊の本誓を表わす象徴物(シンボル)で表したものです。この本誓を三昧耶といい、金剛杵(煩悩を打ち砕く武器)、蓮華、剣、鈴などの器杖や印契を描いています。これらの器杖を三昧耶形と言い、諸尊の悟りや境界、本誓の能力を示すシンボルとした標幟を表しています

・法曼荼羅

諸仏諸尊の悟りの境界を、一つ一つのつの文字(サンスクリット文字、梵字)で象徴的に表したものです。これらの仏菩薩を表す文字を種子(しゅじ、あるいは「種字」とも)ということから、種子曼荼羅ともいいます

・羯磨曼荼羅(かつままんだら)

「羯磨」とはサンスクリット語で「働き」・「作用」という意味があり、諸仏諸尊の威儀や能力をを彫像で表した曼荼羅のことをいいます。曼荼羅を平面的な絵画やシンボルではなく、立体的な彫刻として表したものです。

また、形式の上から絹などに描き壁などに掛けて用いる掛曼荼羅と、潅頂のときなどに壇上に敷いて用いる敷曼荼羅とに分けられます。また、曼荼羅の内容から区分しますと、密教系では、根本となる両界曼荼羅の他に別尊曼荼羅があり、密教以外では浄土曼荼羅、垂迹曼荼羅、宮曼荼羅などがあり、日蓮聖人の曼荼羅は文字曼荼羅といいます。

両界曼荼羅

両部曼荼羅ともいい、金剛界曼荼羅と大悲胎蔵生曼荼羅という二種類の曼荼羅をいいます。金剛界曼荼羅は金剛頂経、大悲胎蔵生曼荼羅は大日経の密教の根本経典に基づいて造形されたものです。両方とも大日如来を中心に、多くの尊像を一定の秩序のもとに配置し、密教の世界観を象徴的に表したものです。

・別尊曼荼羅

大日如来以外の尊像が中心になった曼荼羅で、国家鎮護、病気平癒などを祈願し修法するための本尊として用いられます。修法の目的はおもに増益(ぞうやく)、息災、敬愛(けいあい、きょうあい)、調伏の四種に分けられます。増益の修法は生命の長寿・延命を祈るもの、息災は病気や天災などの災いを除く祈り、敬愛は夫婦の和合や得幸を祈るもの、調伏は怨敵や怨霊を撃退する修法をいいます。たとえば、仏眼曼荼羅・一字金輪曼荼羅・尊勝曼荼羅・法華曼荼羅・宝楼閣曼荼羅・仁王経曼荼羅などをいいます。

・浄土曼荼羅

諸仏が住している清らかな国土を浄土といいます。弥勒仏の浄土、薬師如来の浄土などがありますが、一般的に浄土といいますと、阿弥陀如来の西方極楽浄土を指します。浄土曼荼羅とは観無量寿経などの経典に説く阿弥陀浄土のイメージを、具体的に表現したものです。このような曼荼羅を中国では図相から「浄土変相図」といいます。日本の浄土曼荼羅には図相や思想などから、智光曼荼羅当麻曼荼羅清海曼荼羅の三種があり、これらを浄土三曼荼羅と称します。

・垂迹曼荼羅

日本の神社などの神々は、仏教の諸仏が仮に姿を変えて現れたものとする本地垂迹説があります。神の本体である仏のことを本地仏といい、本地仏が神の姿で現れたものを垂迹神といいます。このような神社の祭神の本地仏や垂迹神を図相に表わしたものを垂迹曼荼羅といいます。これにも多くの種類があり、本地仏のみを表現したもの、垂迹神のみを表現したもの、両者がともに登場するものなどがあります。代表的なものに、和歌山県の熊野三山の祭神を表した熊野曼荼羅があり、奈良の春日大社の春日曼荼羅、比叡山の鎮守の日吉大社の祭神を並べて表した日吉山王曼荼羅などがあります。

・宮曼荼羅

本地仏や垂迹神を表さずに、神社境内の風景を俯瞰的に描いた図相を曼荼羅とみたものです。これは神社の境内を聖域とし、仏教でいう浄土をこの神社などに具現化して表したものといえます。

・チベット曼荼羅

これはチベット仏教の曼荼羅のことです。諸仏・六道輪廻など多くの種類があり、色砂で創られる砂曼荼羅も有名です。

・文字曼荼羅法華曼荼羅

日蓮聖人が図顕された本尊のことをいいます。絵画などの図相ではなく、題目や諸仏諸尊の名号を文字で書き表していることから文字曼荼羅といいます。また中央の題目の文字から、長く延びた線が引かれる特徴から髭曼荼羅とも呼ばれます。

 一般的には右のように分類されています。日蓮宗において日蓮聖人の曼荼羅本尊は、佐渡において始めて図顕されたとしています。翌年の文永一〇年四月二五日に『観心本尊抄』を執筆され、この「観心本尊」の象徴として同年の七月八日に図顕されました。これを、「始顕本尊」といい十界を網羅して互具を示した文字曼荼羅です。しかし、文永九年のこの時期に認めた本尊は、十界を書いていないことからしますと、略式であり未完成の図相といえます。ですから、この時期における本尊授与の目的を考えることが大事と思われます。十界互具・一念三千を満足した「輪円具足」の本門の本尊(大曼荼羅)については後述します。

文永八年一〇月九日より弘安五年六月日までに図顕された本尊で、現在、これまでに現存する一二八幅(『御本尊集』一二三幅。『日蓮大聖人御真蹟目録』五幅)に、あらたに数幅の曼荼羅が発見されています。山中喜八編『日蓮大聖人御真蹟御本尊集』に納められた曼荼羅一二七幅のうち、紙本に書かれたものが一二五、絹本に書かれたものが二幅といいいます、曼荼羅の大きさの分類として、一紙に書かれたものが五二幅,三枚継ぎが五二幅、二枚継ぎが一〇幅などとなっています。(寺尾英智著『日蓮聖人真蹟の形態と伝承』九頁)。

影山尭雄先生は、現存している曼荼羅で授与者の名前があるのが六〇幅、そのほかの六〇幅は授与者がなく、このなかには試筆と思われるのも含まれているといいます。このほかに、中山法華経寺で紛失したものが一二(一〇)幅あるとのべています。(「日蓮教団の成立と展開」『中世法華仏教の展開』所収六三頁)。あるいは、中山法華経寺に伝来した曼荼羅は八幅といい、明治初年に盗難にあっています。(「なかやま」平成二四年一月一日第八六号)。寺尾英智先生は、日蓮聖人が図顕された本尊数について、日興上人の『本尊分与帳』により二百幅以上、七百幅、八百幅といわれています。(『日蓮聖人真蹟の形態と伝承』九二頁)。現在も新発見の本尊が認められ、中尾尭先生が日蓮宗新聞に発表されています。(「本成寺本尊」平成一四年・中山法華経寺「病即消滅の本尊」平成二四年一月一〇日付け日蓮宗新聞など)。

使用された本尊の紙質についてみますと、ほぼ料紙の打ち紙を使用されています。この打紙は楮紙を鹿の鞣(なめ)し皮に挟み、木槌で丁寧にたたいて紙を丈夫にしたものです。本尊を揮毫する料紙の枚数はさまざまで、一紙から大小二八枚までのものがあります。ちなみに一紙と三枚継ぎの本尊が五二幅、二枚継ぎの本尊が一〇幅あります。同じ一紙の料紙でも縦が五一㌢から五四㌢、横が三一.八㌢から四〇㌢と大きさに違いがあります。おもに紙本が一二五幅と多く、絹本が二幅あります。また、のちに装飾が加えられた本尊が一八幅あります。この装飾により授与者の手を離れ他に伝わったことがわかるといいます。どうようの装飾が日蓮聖人の弟子や孫弟子の本尊からも見出すことができ、とくに、日像上人から朗源上人にいたる京都妙顕寺の歴代にみられる特徴といいます。鎌倉末から南北朝ころに、本尊料紙絵の使用と軌を一にしておこなわれたと推測されています。(中尾尭著『ご真蹟にふれる』一六頁)。寺尾英智著『日蓮聖人真蹟の形態と伝承』八頁)。

○御本尊(二)六月

六月一六日付け「佐渡の国においてこれを図す」、と脇書きがある小型の(縦四一.八㌢、幅二八.八㌢)曼荼羅が京都の妙蓮寺に伝来しています(『御本尊集目録』第二)。この曼荼羅の図示は左に不動明王を配し、右に愛染明王を配して、通例とは逆になっています。このような例は、弘安二年二月に顕された「釈子日目授与」の本尊(『御本尊集目録』第六〇)も同じようになっており、弘安四年四月二五日に「比丘尼持円授与」の本尊(『御本尊集目録』第一〇七)は、左右ともに愛染明王を標示されています。なを、『御本尊集目録』には、この本尊と同じ釈迦・多寶の二仏と、不動・愛染が、首題に両脇に書かれた図式の本尊として、第三~七を収録しています。いずれも、年月日と授与者の名前が書かれていません。

 

○御本尊(『御本尊鑑』第二) 

遠沾院日亨上人(一六四六~一七二一年)の『御本尊鑑』(四頁)に、佐渡妙宣寺に伝わる同じ形式の本尊が記載されています。『御本尊集目録』第一二の「如寂房日満相伝」の本尊に該当するともいいますが、この文永一〇年ころの筆致といわれています。

『御本尊鑑』は身延曾存の曼荼羅や、佐渡妙宣寺、保田妙本寺、中山法華経寺などに所蔵されていた曼荼羅を写した貴重な文献です。ただし、中山法華経寺に所蔵された曼荼羅五幅(『御本尊鑑』第一〇・一四・二二・二四・二六)は、実物と同じ配置の模写ではなく、どのような諸尊や讃文が、書かれていたかを知る目的であったようです。時間の制限があって急いで写されたのかもしれません。これにたいし、京都頂妙寺の真如院日等上人(一六六五~一七三〇年)が、中山法華経寺所蔵の曼荼羅を写した『日等臨写本』は、真蹟を忠実に臨写されたもので、これとくらべますと、『御本尊鑑』は全体的に写しまちがいがあり、資料としての配慮が必要といいます。(寺尾英智著『日蓮聖人真蹟の形態と伝承』五一頁)。

○御本尊(二五)

 『御本尊集目録』(三七頁)に、第二五番目に掲載されたのは追加影印の関係で、本来はこの時期にあたる本尊といいます。紙幅は一紙、縦四一.八㌢、横二四.八㌢の本尊で、年月日・授与者名はありません。大野本遠寺に所蔵されています。『日蓮聖人御真蹟大集』の「御本尊収録一覧」の三番目に掲載されています。

 

○御本尊(三~八)

第三の紙幅は一紙、縦四四.八㌢、横二八.八㌢、京都本能寺に所蔵されています。日蓮聖人の名前は右下に書かれ、花押が左下になっており、第一と第二と同じです。しかし、つぎの第四~第七は花押が右になり逆になっています。

第四の本尊には、日興上人の添え書きにて「甲州国波木井法寂房授与之」とあります。一紙の紙幅は縦五二.四㌢、横三三㌢です。普通よりは一周り大きくなっています。富士宮市小泉の久遠寺に所蔵されています。

第五の本尊は縦四四.八㌢、横二九.四㌢の本尊で、三条市の本成寺に所蔵されています。先師の添え書きはありません。

第六の本尊は縦四三.六㌢、横二九.四㌢、東京西巣鴨の本妙寺に所蔵されています。折り目の所が傷んでおり、長年のあいだ丸められた状態にあったと思われます。

第七は縦八六.七㌢、横三〇㌢の二枚継ぎの縦長の本尊で、壁などにかけて遠くからでも題目が見える大きさとなります。京都頂妙寺に所蔵されています。

そして、第八の本尊には、釈迦・多宝仏のほかに、左に普賢・文殊・鬼子母尊神、右に智積・十羅刹女の勧請と、「当知身土一念三千」の讃文があることから、「一念三千御本尊」と通称されています。首題中央の下の右に日蓮聖人の名前、左となりに花押が書かれています。紙幅は縦三九.七㌢、横三〇.三㌢で、平賀本土寺に所蔵されています。左右の不動・愛染は上方に小さく書かれ、梵字も合わせて書かれている珍しい本尊です。『御本尊集目録』(一二頁)には、早い時期に遡ると推定されているのは、これによると思われます。

 

○御本尊『日蓮聖人御真蹟大集(御本尊集)』(五~六)

『御本尊集目録』には掲載されていない、佐渡妙宣寺・京都妙蓮寺の本尊が、『日蓮聖人御真蹟大集』(御本尊集)に五番と六番、ならびに、『日蓮聖人門下歴代大曼荼羅本尊集成』の五番と六番に掲載されています。形式は『御本尊集目録』の第三番と同じで、花押が左下にあります。年月日としては第四の以前といえましょう。佐渡妙宣寺の紙幅は縦四二.一㌢、横二六.四㌢です。京都妙蓮寺の紙幅は縦四五.八㌢、横二八.五㌢です。

略式ではありますが、このような釈迦・多宝仏、不動・愛染を書かれた形式の略御本尊が、この時期に頻繁に書かれたといます。佐渡には日蓮聖人が図顕された曼荼羅が一〇〇幅ほど存したといわれています。ここから、『御本尊集目録』第三~七、第二五、『日蓮聖人御真蹟集』(御本尊集)五番と六番などの本尊を、「佐渡百幅の御本尊」といいます。このような略式本尊を授与された目的はどこにあったのでしょうか。文永九年六月は一谷に移ったころで、鎌倉から日妙聖人親子が渡島されたのが五月でした。このような略式の御本尊は、これらの鎌倉から遠路たずねてきた信徒に与えられたとも考えられます。また、弟子たちは佐渡において積極的に布教を展開していましたので、これらのなかから信徒になる者がでて御本尊を授与されています。これらの御本尊から、佐渡における曼荼羅授与の布教を知ることができます。これらの略形式の本尊を総称して、「佐渡百幅の御本尊」とよんでいます。(『御本尊集目録』七頁)。しかし、『御本尊集目録』第三~七、第二五の花押の形から、これらの御本尊は身延に入ってから認められたという説があります。たしかに、花押の書き方をみますと、身延に入って二、三年ころの花押と類似しています。ただし、肝心な題目の書体をみますと、一概に花押だけでは判断はできないと思います。

日蓮聖人が曼荼羅本尊を染筆され、弟子や信徒にあたえたのは、文永八年の竜口法難後から身延期までの一二年ほどです。一三〇幅ほどの曼荼羅は、形式内容や、題目・不動愛染・花押などの書体に変化があります。大きく佐渡期と身延期にわかれ、身延期も文永・建治・弘安と推移されるにしたがい、諸尊の勧請や花押(『御本尊集目録』二〇・四八・七四頁)などが相違しています。(山中喜八著『日蓮聖人真蹟の世界』上。山川智応著『日蓮聖人研究』第二巻二三五頁)。これは、日蓮聖人が曼荼羅を染筆された意図や、授与者への信仰的な教導の違いによります。(渡邊宝陽著「大曼荼羅と法華堂」『日蓮とその教団』第一集、九五頁)。松村寿巌先生は曼荼羅を、広式(十界勧請の大曼荼羅本尊)・略式(略曼荼羅本尊)・要式(一遍首題)とわけ、信仰の内容と目的によって、守本尊・祈祷本尊・弟子(寺号)本尊などの種類があるとのべています。(「大曼荼羅本尊の種類」『日蓮聖人門下歴代大曼荼羅本尊集成』解説。一九頁)。後世にこれらの首題の七字や、不動・愛染、日蓮聖人の花押などに、口伝・相伝が各門流に発達し、本尊の形態や書式に意義付けがなされたように(『本尊論資料』身延相伝・諸山相伝)、日蓮聖人の曼荼羅図顕は大きな意味をもっているといえます。これらについては後述したいと思います。

六月に幕府は対馬守護代宗助国に、蒙古の襲来に備える厳戒命令を出しています。七月一四日に一谷入道(近藤清久)の一族である学乗房日静上人は、清久の庭内に庵室を建てて日蓮聖人を迎えたと伝えます。日蓮聖人が鎌倉に帰ってから、この家屋敷の寄進を受け妙照寺としました。(『聖地佐渡』四六頁)。