156.『辨殿御消息』~『祈祷経送状』                 高橋俊隆

□『弁殿御消息』(一〇九)

 七月二六日に、弁殿(日昭上人)・大進阿闍梨御房・三位殿の三人に宛てています。真蹟は折紙の二段貼りとなっており、一紙が甲府の信立寺に所蔵されています。信立寺の本尊仏である木造の釈迦像は、建長年間に東八代郡夏目ヶ原の池中より発見されたもので、日蓮聖人が当地(穴山小路にあった真立寺)を遊化されたときに、開眼供養されたと伝えています。(『日蓮宗寺院大鑑』四〇五頁)。

 日蓮聖人の門弟のなかでも上足とされる三人に、今までに教えていない秘蔵の教えを伝授したので、ほかの者が先に知り質問される前に、充分に心得ておくようにと指示されています。この「秘書」とは次の『真言見聞』(一一〇)といわれています。

此書は随分の秘書なり。已前の学文の時もいまだ不被存事粗載之。他人の御聴聞なからん已前に御存知有べし。惣じてはこれよりぐ(具)していたらん人にはよ(依)りて法門御聴聞有べし。互為師弟歟。恐々謹言。七月二十六日  日蓮[花押]  弁殿・大進阿闍梨御房・三位殿」(六四九頁)

 

 しかし、『真言見聞』は『法華真言勝劣事』(三六)と同じように、日向上人の『金綱集』を書写されたものですので、『真言見聞』に類似した「秘書」が別にあったと思われます。本書から、鎌倉の門弟のなかに教学上の解釈について、相違がでてこたことがうかがえます。『開目抄』を著述されて以降の教学に、対応できていない門弟がいたことは頷けます。鎌倉にいる上足の弟子が、教化のため各地に奔走されている教団の姿がうかびます。追書きに、『真言見聞』の内容に不審なことがあったら、それらの論難(難問)を記録しておいて、いつか、直接、日蓮聖人に尋ねて確認するようにと注意されています。

 

「有不審無論難書付て可令至べし」(六四九頁)

 

 ここに留意したいことは、佐渡以前に教えていない法門を、始めて教え始めたということです。『真言見聞』を鎌倉に伝えた弟子は、佐渡において直接、日蓮聖人より教えを受けていたことでしょう。その弟子から伝聞された教えに、鎌倉の弟子たちは違和感をもったのです。ですから、佐渡から帰る弟子は教えを充分に理解しておくことと、鎌倉の弟子たちも互いに師となり弟子となって、日蓮聖人の教えを理解するようにとのべたのです。

 

□『真言見聞』(一一〇)

 宮崎英修先生が指摘されているように、本書は日向上人の『金綱集』第六巻の「真言見聞集」をそのまま抽挙されています。さきの、『法華真言勝劣事』(三六)は仮名交じり文を、漢文体にして書かれていましたが、本書は仮名交じり文を写しています。経文引用の文を、わずかに削除されたところがありますが全同といえます。『金綱集』の「真言見聞集」は、一八歳の日王丸という少年が筆写されたものです。嘉暦二(一三二七)年に身延山にて、「物急之間、文字誤可万多歟」とあるように、時間的な制約をもちながら書写されたものです。(『不受不施派の源流と展開』三九頁)。

 また、本書は『録内御書』内として早くから知られていました。これは、日蓮聖人が身延にて講義をされたとき、日向上人が講義録をつくり、この講義録が伝承されていくうちに、御書とされるようになったという説があります。(『日蓮聖人遺文辞典』歴史篇五八三頁)。日向上人は正和三(一三一四)年九月三日に六二歳にて藻原に寂しています。その後、身延は三世の大進阿闍梨日進上人(在位~一三四六年)の代になります。

 本書は、はじめに真言亡国について法華経を誹謗することは、「正法向背」であり、これにより真言宗は亡国の法を説いているとし、その証拠として「承久の乱」の天皇敗北をあげます。これは、真言宗が北条氏の調伏を祈ったのにもかかわらず、逆に、なにもしなかった北条氏が勝利したことを現証とされます。ですから、真言宗の教えは亡国の元凶であるとのべたです。

 つぎに、『授決集』は智証大師円珍の釈であるが、『大日経指帰』は智証大師の釈ではないとし、諸宗において証文のないものは、法華誹謗の罪を逃れることはできないのであり、このような文献の真偽は日蓮聖人の門下にとって、肝心な対論のかなめにあるとのべています。すなわち、

 

「授決集は正き智証の自筆也。密家設四句五蔵十住心を立て論を引伝を寄三国家々の日記と号し、我宗を厳とも、皆是妄語胸臆之浮言荘厳己義之法門也。所詮法華経自大日経三重劣戲論之法にして、釈尊無明纏縛之仏と云事、慥なる如来之金言経文を可尋。無証文者何と云とも法華誹謗の罪過を不免。此事当家之肝心也。返々勿忘失事。何宗にも正法誹謗之失有之。対論之時但在此一段。仏法者自他宗雖異翫本意道俗貴賎共離苦得楽現当二世の為也。謗法に成伏して悪道に可堕者文殊智慧・富楼那弁説一分も無益也。無間に堕る程の邪法の行人にて国家を祈祷せんに将可成善事耶。顕密対判之釈且置之」(六五一頁)

 

と、謗法の罪(失)を強調されています。そして、亡国に関して、その責任の一部は国主にあることを、『華厳経』・『六波羅蜜経』・『最勝王経』・『大集経』、恵心僧都の『大三界義』を引いて証拠としています。

 つぎに、顕教・密教についてのべます。『無量義経』「十功徳力」の第四、王子不思議のところの、「深入諸仏秘密之法所可演説無違無失」(『開結』三八頁)の文を引き、法華経は顕教であるから劣り、大日経は密教であるから勝れているという経文はないとのべます。真言を密というのは、隠密の密なのか微密の密をいうのかと問い、真言は穏密、法華経は微密であるとし、その理由は久遠実成・二乗作仏を説いているか否かを判断します。

 

「物を秘するに有二種。一には金銀等を蔵に篭るは微密也。二には疵片輪等を隠すは隠密也。然則真言を密と云は隠密也。其故は始成と説故に長寿を隠し、二乗を隔る故に記小無し。此二は教法之心髄・文義之綱骨也」(六五三頁)

 

 そして、微密の密である証拠として法華経の経文をあげます。

 

法師品――薬王此経是諸仏秘要之

安楽行品―文殊師利此法華経諸仏如来秘密之蔵。於諸経中最在其上

寿量品――如来秘密神通之力

神力品――如来一切秘要之蔵

 このほかに、『唐決』・『大論』、天台・妙楽・最澄の釈を引いています。このことから、諸仏が定めた秘密の教えであるのは、法華経であることを示されたのです。したがって、真言宗は文証も現証もない謗法の教えを説いているとのべたのです。

此等之経論釈は分明に法華経を諸仏は最第一と説き、秘密教と定給へるを、経論に文証も無き妄語を吐、法華を顕教と名て下之謗之。豈非大謗法乎」(六五四頁)

 また、日蓮聖人は理同事勝の説について、インドの梵本の経典と漢訳の経典の、両者がともに理同事勝を説いているのかを問題とします。インドの仏典を漢字に翻訳した訳者により違いがあるとのべます。これは、インドから中国への道中が険難であるため、肝要なところだけを翻訳し枝葉は略したという視点と、玄奘三蔵は四〇巻の般若経を翻訳して六〇〇巻にするほどの広訳を好み、羅什三蔵は一〇〇〇巻の大論をわずか一〇〇巻に収めてしまうという略訳の人物であったことをのべます。このことから、真言宗が勝れているという事相(身業印契・口業真言)のあるなしだけで、勝劣を決めてはいけないとします。現に羅什が訳した法華経には印・真言を重要視していないが、不空三蔵が訳した『法華儀軌』には印・真言を説き、『仁王経』にも羅什は印・真言を訳さなかったが、不空三蔵は印・真言を副えて説いていることをのべます。翻訳の仕方、翻訳者によって違いがあるという、文献比較の論点があることを指摘されたのです。

 そして、法華経にも印・真言が説かれていることを経文を挙げてのべます。また、真言宗は久遠実成の文証がないのであるから、衆生がもとより仏性をもつという、本有の仏性を立てることはできず、成仏も論ずることはできないとのべます。また、二乗作仏を説かないことは十界互具が成立しないことものべています。

 

「為説実相印と説て合掌の印有之。譬喩品には我此法印為欲利益世間故説云云。此等文如何。只広略異歟。又舌相言語皆是真言也。法華経には治生産業皆与実相不相違背と宣亦是前仏経中所説と説。此等は如何。真言こそ有名無実之真言、未顕真実之権教なれば、成仏得道無跡形。始成を談じて久遠無れば、性徳本有之仏性無し。三乗仏の出世を感ずるに、三人に二人を捨て、三十人に二十人を除く。皆令入仏道の仏の本願不可満足。十界互具思もよらず。まして非情の上の色心因果争可説耶」(六五四頁)

 

 つぎに、善無畏三蔵が天台の一念三千を盗用したことにふれます。『大日経』は二乗作仏を説かず、まして、草木成仏を説くことはできないとのべ、二乗作仏により二乗が成仏できなければ、その持ち主の二乗の口も手も成仏できないとのべます。このような真言宗の者が、印・真言を持つことは外道でいう「劣謂勝見の外道」(六五六頁)とのべています。そして、真言宗が法華経を戯れの法(法華戯論)とすることに反論し、その文証として法華経や『法華玄義』・『法華秀句』などを挙げます。

 

「無量義経説法品云四十余年未顕真実文。一巻云世尊法久後要当説真実文。又云一大事因縁故出現於世四巻云薬王今告汝我所説諸経。而於此経中法華最第一文。又云已説今説当説文。宝塔品云我為仏道於無量土従始至今広説諸経。而於其中此経第一文。安楽行品云此法華経是諸如来第一之説。於諸経中最為甚深文。又云此法華経諸仏如来秘密之蔵。於諸経中最在其上文。薬王品云此法華経亦復如是。於諸経中最為其上文。又云此経亦復如是。於諸経中最為其尊文。又云此経亦復如是。諸経中王文。又云此経亦復如是。一切如来所説若菩薩所説若声聞所説諸経法中最為第一等云云。玄十云又已今当説最為難信難解前経是已説文。秀句下云謹案法華経法師品偈云薬王今告汝我所説諸経。而於此経中法華最第一文。又云当知。已説四時経文。文句八云今法華論法云云。記八云当鋒云云。秀句下云明知。他宗所依経不是王中王云云。釈迦多宝十方之諸仏天台妙楽伝教等法華経真実華厳経方便也。未顕真実正直捨方便不受余経一偈若人不信乃至其人命終入阿鼻獄云云」(六五六頁)

 

 そして、弘法はいずれの経典をもととして、「法華戲論・華厳真実」を説いたのかとのべ、大日経の六巻三一品に、供養法の一巻五品をくわえて七巻三十六品のなかに、どの品、いずれの巻に説いているのか。また、蘇悉地経の三十四品にも、金剛頂経三巻三品にも、金剛略出経一巻のどこにもに説かれていない。また、大日経・金剛頂経・蘇悉地経の三部の秘経に、どの巻どの品に十界互具を説いているかと問います。

つまり、これら大日経・金剛頂経・蘇悉地経の三部経には説かれていないことをのべたのです。ここで、法華経には事理共に説かれているとして、久遠実成は事、二乗作仏は理として、善無畏等の「理同事勝」は、経論には説かれていない臆説であり、信用できないとのべたのです。その真言宗の誤りのなかでも、とくに、つぎの五点(五失)をあげます。(六五七頁)

 

一、弘法が十住心に、第八法華・第九華厳・第十真言とした証拠となる経論はあるのか。

二、善無畏の四句の説と、弘法の十住心の説は、だれが見ても眼前の違目である。どうして師弟が敵対するのか。

三、弘法が五蔵を立てるときに、顕教である六波羅蜜経の陀羅尼蔵の文により、我が宗の真言であるという

のか。

四、弘法は『顕密二教論』に、中国(震丹)の天台大師(人師)が争って醍醐を盗んだとしているが、それは大きな時代錯誤である。そのわけは、天台大師が寂した開皇十七年より、六波羅密経が中国へ渡った唐の徳宗の貞元四年までは百九十二年ある。どうして、天台が寂して一九二年もたった後に、六波羅蜜経の醍醐を盜むことができるのか。これは明らかな誤りである。このことから、「謗人謗法定堕阿鼻獄」と説いた弘法の言葉は、他人ではなく自身を謗法の者と責めるべきだ。

五、弘法は『般若心経秘鍵』に『般若心経』を五分(五段)にして解釈したが、法華経を般若部へ入れること自体が大きな誤りではないか。(「第二、分別諸乗分、一乗。法華涅槃等の摂末帰本の教」)。

 つぎに、「真言七重難」(六五八頁)として、法華経と真言を比べると、真言宗は七項目に劣ったところがあることを指摘します。(七重の劣)

 

一、真言は大日如来の法身が説いたこと

二、顕教である六波羅密経の陀羅尼蔵の文を、弘法が密教の真言のことという矛盾

三、法華経は「已今当説最為難信難解」の三説超過の経であること

四、五仏章(五仏同道)の仏は法華経第一と説くこと

五、法華経は三世の諸仏の不壊の経である

六、諸経に法華経より勝れた文証はない

七、一念三千が説かれなければ性悪の義が立たず、ゆえに、真言の両界曼荼羅も本無今有となる。

 

 このような視点から、真言宗の教えの誤りを指摘されました。そして、むすびに、経論を引いて一仏一国土を説き、釈尊が娑婆(此土)の国主であることを示します。釈尊は主師親の三徳を備えた仏であるという論理から、釈尊に背くことは「不孝の失」があり、いわゆる、謗法堕獄であるということになります。したがって、邪義を説く真言宗の祈祷は国家を滅亡させるという、真言亡国をしめされたといえましょう。(『日蓮聖人遺文全集講義』第一〇巻二四五頁)。

一〇月二〇日、幕府は諸国に命じた田文(たぶみ)の欠失により、安芸国に調進を命じ、ついで、駿河・伊豆・武蔵・若狭・美作の調進を守護に命じています。田文とは田地の面積や領有関係などを明細に記載した田籍簿のことで、幕府は領有支配の政策を各地に行い、蒙古防備を徹底していったことがわかります。

 

□『夢想御書』(一一一)

一〇月二四日の夜に日蓮聖人は夢想を得ています。本書は日興上人が書写された『立正安国論』一巻の紙背に書かれています。『日蓮聖人御真蹟大集』(上三七八頁)には二ヶ所に存するといい、その一から五までのなかの、その五といいます。『日蓮聖人遺文辞典』(歴史篇一一一五頁)に、この紙背には他に、『涅槃経』・『弘決』・『文句記』の要文が註記されているとあります。

本書は日蓮聖人が書かれていた料紙を、のちに、日興上人が『立正安国論』を書写されるときに、料紙の一枚として使用されたといいます。これは、本文と紙背に書かれた文章の先後関係から推測しています。日興上人が蒙古襲来と重ね合わせて、意図的に使用されたのかもしれません。本書は一行目の右上に紙が貼り合わせてあり、一行目の右の真蹟の一部に重なっています。貼り合わせた上部に割り印がおされて、二枚の料紙が相互に関連することを証明しています。貼り合わせた右の料紙の紙背に、日興上人の『立正安国論』書写の文字が滲んでみえます。二行の本文はつぎのように書かれています。

 

「文永九年太才壬申十月二十四日夢想云来年正月九日 蒙古為治罰 自相国大小可向云云」六六〇頁

 

『対照録』には、『定遺』の「自相国」が「月相国」とあり、「蒙古為治罰月相国大小可向」としています。日蓮聖人は他国侵逼である蒙古の襲来を確信していました。法華経に違背する謗法の罪と、法華経の行者を迫害することへの治罰とうけとめていたからです。この文章により、日蓮聖人が予言者的な霊感を有することを示すともいわれます。(『日蓮聖人全集』第一巻四七〇頁)。

 

□『四条金吾殿御返事』(一一二)

九月八日ころの書状とされ(『本化別頭仏祖統紀』)ます。四条頼基の母の三回忌供養の依頼をうけたことへの返事です。別名に『梵音声御書』ともいい、日興上人の写本が重須本門寺に所蔵されています。内容は二つに分けることができます。前段の概略は仏法の盛衰は国王の資質にあることをのべます。後段は法華経が即、生身の釈迦牟尼如来であることをのべます。

前段の本文をみますと、国家と国王にふれます。国家は国王に従うものであることを喩えをあげます。

 

「夫レ斉ノ桓公と申セシ王、紫をこのみて服給き。楚荘王と言し王は女の腰のふとき事をにくみしかば、一切の遊女腰をほそからせんがために餓死しけるものおほし。しかれば一人の好事をば我心にあはざれども万民随し也。たとへば大風の草木をなびかし、大海の衆流をひくが如し。風にしたがはざる草木は、を(折)れう(失)せざるべしや。小河大海におさまらずばいづれのところにおさまるべきや」(六六〇頁)

 

国王は先生(前世)に大戒を持った功徳により、その国土が定まるとのべます。しかし、仏法にたいして逆罪をつくることにより、隣国に破られることがあるとのべます。あきらかに蒙古襲来を指していることがわかります。(六六一頁)。そして、仏法の流布は国王の庇護の有無によるとして、インドの迦貳志加王と発舎密多羅王、中国の太宗(法相宗)と玄宗皇帝(真言宗)、また、則天皇后(華厳宗)の例をあげ、諸宗の興隆は国王の権限によって成立したのであり、正しく教えの勝劣をきわめて各宗が発展したのではないとします。ですから、国王に反発してでも正法を説こうとした高僧であっても、国王に庇護されなければ獅子尊者や提婆菩薩・竺の道生・法道三蔵のように、殺害されたり流罪にあうとのべます。(六六三頁)このことは、日蓮聖人自身の立場もそうであり、そのために流罪にあっていることを明白にされたのです。

日蓮聖人が迫害を受ける原因は、弥陀の本願に「唯除五逆誹謗正法」とあり、法華経には「若人不信毀謗斯経則断一切世間仏種」と説かれているので、経文のとおり浄土宗を信じる者は無間地獄に堕ちると諌言されました。ところが、日本中の者は念仏の信者となっており、国王・国民の庇護がない日蓮聖人は迫害にあうとのべています。平頼綱や良観は「無尽の秘計をめぐらして日蓮をあだむ是也」(六六四頁)と、竜口の難にふれています。そして、日蓮聖人の心中を吐露します。

「去九月十二日御勘気をかふりて、其夜のうちに頚をはねらるべきにて候しが、いかなる事にやよりけん、彼夜延て此国に来ていままで候に、世間にもすてられ、仏法にも被捨、天にもとふらはれず。二途にかけたるすてものなり。而を何御志にてこれまで御使をつかはし、御身には一期の大事たる悲母の御追善第三年の御供養を送つかはされたる事、両三日はうつゝともおぼへず。彼法勝寺の修行が、いはを(硫黄)が嶋にてとしごろつかひける童にあひたりし心地也。胡国の夷陽公といひしもの、漢土にいけどられて北より南へ出けるに、飛ちがひける雁を見てなげきけんもこれにはしかじとおぼへたり」(六六四頁)

 

このような孤独のなかに、四条金吾が佐渡に使者を遣わし母の供養の品々を送られたことに、両三日のあいだ夢かと思うように感激したことをのべています。そして、このような流罪の身ではあるが、法華経の経文によれば、日蓮聖人は教主釈尊の御使いであり、勅宣をうけて佐渡に来ているという自覚をのべます。このような日蓮聖人を誹謗する者は、最澄が『依憑集』に説いたように無間の罪をつくることになり、また、供養する者は無数の仏を供養するよりも勝れた功徳があると教えています。

 

「法華経を一字一句も唱、又人にも語申さんものは、教主釈尊の御使也。然者日蓮賎身なれども、教主釈尊の敕宣を頂戴して此国に来れり。此を一言もそしらん人々罪を無間に開、一字一句も供養せん人は、無数の仏を供養するにもすぎたりと見たり」(六六四頁)

 

 つぎに、後段は、教主釈尊は一切衆生の導師であり、法華経は釈尊が説いた真実の教えであるのみならず、法華経の一字のなかに、釈迦・多宝・十方諸仏の功徳を収めた、「如意宝珠」(六六五頁)であるとのべます。この如意宝珠は釈尊の身骨である舎利が変じたものであり、一切衆生を救済する珠であるとのべています。そして、釈尊の獅子吼であり梵音声が一切経となり、その師子吼のなかの第一が法華経であり、釈尊の御心を書き顕わして文字にしたとのべます。

 

「法華経は釈迦如来の御志を書顕て、此音声を文字と成給。仏の御心はこの文字に備れり。たとへば種子と苗と草と稲とはかはれども心はたがはず。釈迦仏と法華経の文字とはかはれども、心は一也。然ば法華経の文字を拝見せさせ給は、生身の釈迦如来にあひ進らせたりとおぼしめすべし。此志佐渡国までおくりつかはされたる事、すでに釈迦仏思食畢。実に孝養の詮也」(六六六頁)

 

と、法華経の一々文々は生きた釈尊と同じであるから、法華経を拝読するときは釈尊と面奉していると思い、信仰に励むようにのべています。この法華経により母の追善供養をすることは、釈尊も承知のことであり最上の孝養であると褒めています。

 

□『祈祷鈔』(一一三)

 

 文永一〇年とする『境妙庵目録』がありますが、智英院日明上人(一七四七~一八二八年)いらい文永九年に係年しています。智英院日明上人は京都本圀寺の弘法院檀林の能化でしたが、生地の愛知県萱津の妙法寺に住し、寛政一〇(一七九八)年に遺文の編年集録・校訂を行いました。『新撰校正祖書』四六巻、『録内録外目録集』四巻、『我宗啓運諸書集』一巻などの著書があります。

本書は『祈祷鈔』・『御祈祷鈔奥』・『真言宗行調伏秘法還著於本人御書』の三書を、智英院日明上人が『新撰校正祖書』において一つにつなげた遺文です。(『日蓮宗事典』)。浅井円道先生は『祈祷鈔』・『祈祷鈔奥』を接合しても不可ではないとのべています。(『日蓮聖人遺文辞典』歴史篇二三六頁)。『御祈祷鈔奥』の後半の『女人往生鈔』にあたるところを含めて、合計三〇紙が身延山に古来より所蔵されていた身延曽存の遺文で、「本朝沙門日蓮撰」と署名し、古来より最蓮房に宛てたといわれています。前述しましたように、本書には最蓮房と関係づけられる文章はありません(宮崎英修著『日蓮宗の祈祷法』六〇頁)。本書は問答形式を交えながら、諸宗のなかでも法華経の祈りは必ず叶うことをのべていきます。その理由として二乗・諸天・龍女・菩薩などが、釈尊と法華経の恩に報いるために行者を守護するためであるとします。

まず、舎利弗などの二乗は前四味では、大地を微塵にくだくほど修行しても成仏はできないとされていたのが、法華経により須臾に作仏できたので、この成仏得道した法華経の恩徳を報ずるために、法華経の持者を守るとします。仏法において「敗種」(六六八頁)とされた舎利弗などの四大声聞が、「無上宝珠不求自得」と歡喜したのはこのためであるとのべます。そこで、釈尊が法華経を説こうとしたときに、元品の無明という第六天の魔王が、一切衆生の身に入って、法華経を説かせないように妨害したことをのべます。釈尊も九横の大難をうけているのはこのためであるが、釈尊は「仏種」(六七〇頁)を継ぐために生まれ、そして、誓願のごとく八年の間、法華経を説かれたことをのべます。ゆえに、法華経の一々の文字は釈尊の魂が入ったものであり、法華経の行者を眼のように守るとのべます。

 

「而といへども御悟をば法華経と説をかせ給へば、此経の文字は即釈迦如来の御魂也。一一の文字は仏の御魂なれば、此経を行ぜん人をば釈迦如来、我御眼の如くまほり給べし。人の身に影のそへるがごとくそはせ給らん。いかでか祈とならせ給はざるべき」(六七一頁)


 また、一切の菩薩も法華経の会座において仏となり、この娑婆世界や三千世界の地上・地下・虚空のなかにいて法華経を擁護し、天衆の諸天善神も同じであるとのべます。この理由は自身が法華経により成仏した恩があるためであるとのべます。その恩に報いるため仏前において法華経を護ると誓いを立てました。そのゆえに、法華経の行者を捨てることはないとし、行者の祈りは必ず叶うとのべたのです。すなわち、

「わづかの間にいかでか仏前の御誓、並に自身成仏の御経の恩をばわすれて、法華経の行者をば捨させ給べき、なんど思つらぬればたのもしき事なり。されば法華経の行者の祈る祈は、響の音に応ずるがごとし。影の体にそえるがごとし。すめる水に月のうつるがごとし。方諸の水をまねくがごとし。磁石の鉄をすうがごとし。琥珀の塵をとるがごとし。あきらかなる鏡の物の色をうかぶるがごとし」(六七二頁)

同じく、龍女も釈尊の諌めがなくても法華経の行者を守り、提婆達多も天王如来となることにより、同罪の人々も一業所感で成仏することができたのであるから、法華経の恩徳を感じて行者のまわりにいて、守護するであろうから頼もしいとのべています。

つぎに、重ねて菩薩にふれます。多くの菩薩も等覚の位まで登ったが、最後の元品の無明という煩悩をのこしており、この煩悩を克服して仏になろうとしたが、釈尊は四十余年のあいだは「因分可説果分不可説」であったので、菩薩は仏になることができなかったとのべます。これは、因位の修行については説いたが、証果の教えは説いていないということです。いわゆる、「四十余年未顕真実」のことをいいます。そして、霊山の八年に「唯一仏乗名為果分」である、十界皆成仏の法華経を聞いて妙覚の位になったとのべます。つまり、法華経のみが成仏の真実を説いた教えであるということです。しかも、虚空会で慈悲の父母である釈尊・多宝の二仏と、助証の十方諸仏の面前にて、釈尊から三度の諫暁をうけ、「如世尊勅当具奉行」と誓っており、菩薩は本来、代受苦の深い誓いを立てているから、釈尊の諌めがなくても行者を守るのは必定のことであるとし、経文をみるならば仏前の誓言も慇懃なので行者を捨てることはないとのべています。諸天のみならず、その高位にある二乗・菩薩なども法華経の行者を守護することをのべたのです。法華経を護る使命感をもっているからです

そして、「釈迦仏独主師親の三義をかね給へり」(六七七頁)とのべているように、霊山八年の法華経を説くことにより、釈尊の内証の悟り(「諸仏の果分の功徳」・「宝蔵」・「玉」)を開顕され三徳が具備されました。菩薩たちは法華経を護るために「不惜身命」の誓願をたてます。それを聞きおわった釈尊は、属累品において多宝塔より出て扉を閉めます。これを見て諸仏はそれぞれの国土に帰り、随従してきた菩薩たちも帰ります。このとき釈尊は三ヶ月後に涅槃にはいると宣告します。日蓮聖人は釈尊が入滅したのちにおいては、仏恩を報じ難いことであるから、なおさら釈尊の遺誡である法華経の行者を擁護するとのべているのです。このときの聴衆の悲しみと仏恩をつぎにようにのべています。

 

「此類皆華香衣食をそなへて最後の供養とあてがひき。一切衆生の宝の橋をれなんとす。一切衆生の眼ぬけなんとす。一切衆生の父母主君師匠死なんとす。なんど申すこえひびきしかば、身の毛のいよ立のみならず涙を流す。なんだをながすのみならず、頭をたゝき胸ををさへ音も惜まず叫びしかば、血の涙血のあせ倶尸那城に大雨よりもしげくふり、大河よりも多く流れたりき。是偏に法華経にして仏になりしかば、仏の恩の報じがたき故なり」(六七八頁)

 このような悲しい場において、迦葉童子は法華経に敵対する者がいるならば、霜雹となって敵国を攻める、と護法の心情から誓います。そうしますと、釈尊は臥床より起きて称賛します。これを見た諸菩薩や諸天も釈尊の御心を推察して、

 

「されば諸菩薩・諸天人等は法華経の敵の出来せよかし、仏前の御誓はたして、釈迦尊並に多宝仏・諸仏如来にも、げに仏前にして誓しが如く、法華経の御ためには、名をも身命をも惜まざりけりと、思はれまいらせんとこそおぼすらめ。いかに申事はをそきやらん」(六七九頁)

 

と、諸菩薩や天人などは、法華経の敵を退治するために、身命を惜しまないはずであるとのべます。日蓮聖人はこのように三仏の御前において誓言をしている事実をあげました。しかるに、なぜ日蓮聖人にたいして擁護が遅いのかと敢えて反問されます。そして、法華経の行者の祈りは必ず成就するという有名な祖訓をのべます。

「大地はさゝばはづるるとも、虚空をつなぐ者はありとも、潮のみちひぬ事はありとも、日は西より出るとも、法華経の行者の祈のかなはぬ事はあるべからず。法華経の行者を諸の菩薩・人天・八部等、二聖・二天・十羅刹等、千に一も来てまほり給はぬ事侍らば、上は釈迦諸仏をあなづり奉り、下は九界をたぼらかす失あり。行者は必不実なりとも智慧はをろかなりとも、身は不浄なりとも、戒徳は備へずとも南無妙法蓮華経と申さば必守護し給べし。袋きたなしとて金を捨る事なかれ、伊蘭をにくまば栴檀あるべからず。谷の池を不浄なりと嫌はば蓮を取るべからず。行者を嫌給はば誓を破り給なん。正像既に過ぬれば持戒は市の中の虎の如し、智者は麟角よりも希ならん。月を待までは燈を憑べし。宝珠のなき処には金銀も宝なり。白烏の恩をば黒烏に報ずべし。聖僧の恩をば凡僧に報ずべし。とくとく利生をさづけ給へと強盛に申ならば、いかでか祈のかなはざるべき」(六七九頁)

 

と、法華経の行者は煩悩があっても、南無妙法蓮華経と題目を唱えるならば、必ず守護があり祈りが叶うと、強い信心の確信を私たちに発信されました。もしこれに反するならば、釈尊の御前で誓ったことに背反することになるのであるとして、門弟にたいし堅固な信心をもつようにと訓戒されたのです。

 つぎのところから『祈祷鈔奥』になります。最蓮房が日蓮聖人に質問したことといわれる問答があります。日蓮聖人の教えを聞き(「大地は指さば」の文)、法華経を信じる者の祈りが叶うことを理解できた、という文言よりはじまります。

 

問云、上にかゝせ給ふ道理文証を拝見するに、まことに日月の天におはしますならば、大地に草木のおふるならば、昼夜の国土にあるならば、大地だにも反覆せずば、大海のしほだにもみちひるならば、法華経を信ぜん人、現世のいのり後生の善処は疑なかるべし」(六八〇頁)

最蓮房は天台・真言宗の祈祷に効験がないので、これにたいしての長年の疑問をのべます。このことよりも、日蓮聖人が比叡山の出身である立場として、以前に比叡山の僧徒が、園城寺や自らの堂塔・仏像・経巻を焼き払った恐ろしい法滅の世相を問うたが、後日、詳しく教示してほしいと前置きし、いま、不審に思っていることは、比叡山の僧徒が真言を取り入れ悪僧となったため、祈祷が叶わないのではないかと質問しています。これに答えて、以前にも少し話したように日本国においては大事なことであり、これをわきまえないために多くの人が口に罪業をつくったとのべます。ここで、比叡山のはじまりにふれます。比叡山は聖徳太子の記文のように、滅度二百年に桓武天皇の庇護により最澄が建立したのが始まりです。その後、朝廷と比叡山の王法と仏法が相関して繁栄してきたが、今は鎌倉の武家の政権が王法になり、この世相を比叡山はどう思っているかとのべます。

 

「されば山門と王家とは松と栢(柏)とのごとし、蘭と芝とににたり。松かるれば必栢かれ、らんしぼめば又しばしぼむ。王法の栄へは山の悦び、王位の衰へは山の歎きと見えしに、既に世関東に移りし事なにとか思食しけん」(六八一頁)

 

このつぎに、『真言宗行調伏秘法還著於本人事』がつづきます。前述しました「承久の乱」のときに、後鳥羽上皇が北条氏を打倒するため、真言師四一人に「十五壇の秘法」をおこなわせたことを列記し、さきの最蓮房の質問に答える形になります。

 

「秘法四十一人行者。承久三年辛巳四月十九日京夷乱時、為関東調伏依隠岐法皇宣旨、被始行御修法十五壇之秘法」六八一頁

 

この秘法をした慈円僧正は比叡山六二代の天台座主、観厳僧正は東寺の長者、安芸覚朝僧正は三井の高僧、仁和寺と御室は道助法親王などの名前をあげます。山門・寺門・東寺などの高僧たちによる秘法でしたが、結果は六月一三~一四日の「宇治橋の合戦」で京方が敗退し、一五日には泰時が上皇の六条を占拠します。そして、七月一一日に三上皇が流罪され、七人の殿上人が誅殺されたことをのべ、真言宗や密教をとりいれて祈祷した天台宗(台密)も、亡国の原因となったことを示しています。しかるに「承久の乱」より数年の後に、これらの武家の敗退を祈った比叡山・東寺・園城寺などの真言師たちが、政権をにぎった鎌倉に来て、大寺院などの別当や供僧となり幕府の帰依をえていることをあげます。これは、鎌倉方(幕府)が過去のいきさつを忘れ、くわえて、仏法の正邪についても無知なためにおきたことで、今ではこれらの檀那となっていると指摘します。

 

「かゝる大悪法、年を経て漸漸に関東に落下て、諸堂の別当供僧となり連連と行之。本より教法の邪正勝劣をば知食さず。只三宝をばあがむべき事とばかりおぼしめす故に、自然として是を用ひきたれり。関東の国国のみならず、叡山・東寺・薗城寺の座主・別当、皆関東の御計と成ぬる故に、彼法の檀那と成給ぬるなり」(六八三頁)

 

つぎに、真言宗は邪教であることについての問答になります。空海は天台大師が真言の醍醐を盗んで法華経を醍醐としたというが、真言が中国へ伝わったのは、天台大師が出世いご二百年後のことであるから、天台大師が真言を引用できないと誤りを指摘します。そして、空海の言葉を信じるか、『涅槃経』に法華経を醍醐と説いた文の、どちらを信じるかと問います。また、大日経は大日如来の教えであるのに、釈尊の教えにより大日如来の教えを打破するのは、道理にあわないとする質問にたいし、大日如来は現世の娑婆に実在した仏なのか、いつ大日経を説いたか、などの四点の誤りを指摘します。ここに、真言・禅・念仏は権経・不成仏の法であり、行人も謗法の者であるから祈祷に効験がないと断定します。そして、国王はこれらの法華経に背く邪宗を用いては仏意にかなわないとし、また、天台宗の慈覚大師円仁は、日輪に矢を射て動転した夢を見て真言を取り入れたが、これは、最澄に背くことであると日蓮聖人の見解をのべます。殷の紂王が日輪を的にして弓を射ったために、身を滅ぼしたことからも吉夢とはいえないとし、深く思惟すべきこととのべて、最蓮房にたいし返答しています。

 つまり、『祈祷鈔』に諸宗の祈祷が叶うかの問いと、『祈祷鈔奥』に天台宗の祈祷が叶うかという未解答の質問に答えたのが、『真言宗行調伏秘法還著於本人事』となります。三書が合併された理由がここにあります。なを、本書の最後に慈覚批判(台密)をしていることは、佐渡在島中において希少なところで、相手が比叡山同門の最蓮房からの質問であったことに、批判された理由があるといいます。(『日蓮聖人遺文辞典』歴史篇二三六頁)。

 

□『祈祷経言上』(続二六)

 文永一〇年とされます。三宝寺本の写本が伝えられています。本書は積善房流では日向上人の著作と伝えていますが、宮崎英修先生は偽書とします。また、本書の最後に「本朝沙門日蓮花押」(二〇九四頁)とあるのは誤りで、このあとに、つぎの文があるといいます。

 

「是大涅槃微妙経典の流布する所、当に知るべし其地は即金剛の如し、是中の諸人も亦金剛の如しと云々。祈祷鈔に云く」

 

そして、『祈祷鈔』のつぎの文を引用され、その全文を削除しているとのべています。(『日蓮宗の祈祷法』(六二頁)。

「日月並に毘沙門天王は仏におくれたてまつりて四十四日、いまだ二月にたらず。帝釈梵天なんどは仏におくれ奉て一月一時にもすぎず。わづかの間にいかでか仏前の御誓、並に自身成仏の御経の恩をばわすれて、法華経の行者をば捨させ給べき、なんど思つらぬればたのもしき事なり。されば法華経の行者の祈る祈は、響の音に応ずるがごとし。影の体にそえるがごとし。すめる水に月のうつるがごとし。方諸の水をまねくがごとし。磁石の鉄をすうがごとし。琥珀の塵をとるがごとし。あきらかなる鏡の物の色をうかぶるがごとし。(六七三頁)上にかゝせ給ふ道理文証を拝見するに、まことに日月の天におはしますならば、大地に草木のおふるならば、昼夜の国土にあるならば、大地だにも反覆せずば、大海のしほだにもみちひるならば、法華経を信ぜん人現世のいのり後生の善処は疑なかるべし。(六八〇頁)日向在御判」

 

□『経王御前御書』(一一四)

 八月に書かれた書状といわれ、京都の本満寺に写本があります。宛先は四条金吾夫人が定説となっており、夫人に供養のお礼と出産の祝いをのべているといいます。また、文章の綴りと内容からしますと、印東三郎左衛門尉祐信の近辺に宛てたとする説に近いかもしれません。『経王殿御返事』(七五一頁)の内容からわかるのは、鎌倉に在住している女性の子供が経王御前ということです。本書と『経王殿御返事』の二篇のみなので、経王御前については不明です。人物については四条金吾の男児か女子。あるいは、印東祐信の子供の福徳丸(越前公)、また、平賀忠治の子供の日像上人ともいいます。(『日蓮聖人遺文辞典』歴史篇二四三頁。『本化聖典大辞林』上。一〇五二頁)。ただし、『四条金吾殿御返事』に四条金吾氏には子供がいなかったとあり、また、男子がいなかったといいます。

 

「との(殿)は子なし。たのもしき兄弟なし。わづかの二所の所領なり。一生はゆめの上、明日をご(期)せず。いかなる乞食にはなるとも、法華経にきず(傷)をつけ給べからず」(一三六三頁)

 

 この「とのは子なし」とは、男子がいなかったと解釈しています。四条金吾が後年に住んだ甲州内船(うつぶな)の四条氏の系図によりますと、月満御前の夫として四条金吾の兄弟の頼隆の子、頼道をむかえ養子としています。月満御前は頼里と頼益の二人の子供をさずかります。頼里は江馬家に仕え正慶二年に北条氏滅亡に連座します。次男の頼益は内船に永住し帰農します。月満御前は文保元年一二月一五日に四七歳にて死去し、法号を法蓮日妙といいます。(『日蓮聖人遺文全集』別巻六六頁)。このことからしますと、「経王」は四条金吾氏の子供ではなく、したがって、『経王御前御書』と『経王殿御返事』も、四条金吾氏に宛てた書状ではないということになりましょう。ちなみに、四条金吾は建治三年に領内の内船に邸宅をかまえ、三間四方の持仏堂を建立します。弘安二年に寺院として境内を整え内船寺と名のります。四条金吾は正安二(一三〇〇)年に没し内船寺に埋葬されました。寺宝の小半鐘は南部町指定文化財に指定され、四条金吾直伝の二〇種類の漢方薬の調合方法が刻まれています。境内には四条金吾、夫人、娘の月満御前の墓碑があります。

はじめに、妙荘厳王品の浄徳夫人が、浄蔵・浄眼の二人の王子に導かれて正法に帰依したことをあげます。四条金吾夫人に宛てたなら、昨年は月満御前に恵まれ、今年は経王御前と二人の子供に恵まれたことを喜び、経王御前は跡継ぎとして現世には孝子となり、後生には仏道に導くであろうとのべています。(『日蓮聖人遺文全集講義』第一〇巻三八三頁)。今は濁世であるから戦乱の修羅道にあり、後生も悪道に堕ちるであろうが、法華経を信ずる者は成仏すると経文にあるとのべます。このような乱世であるから、自分が流罪にあうのも経文に説かれているとおりであり、たとえ、昼夜に法華経を説くことが用いられなくても、罪科に処せられることはないのに、昔も今も善言は用いられないとして、ついには日本国も滅びようとしているとのべます。

これは、釈尊の使者である日蓮聖人を責める罪によって、諸天が治罰しているのであるとのべます。そして、日本国が滅んでも日本国の人々が、南無妙法蓮華経と唱える未来は必ず到来するとし、毀法する者には強いて法華経を説くことを勧めています。そして、長生きをして日本がどうなるかを見るようにとのべます。謗法の者がのちに改心して題目を唱えることがあっても、日蓮聖人に怨嫉を加えた者は必ず堕獄するが、無量刧ののちに、日蓮聖人の弟子となって成仏するであろうとのべています。これは『開目抄』などの不軽品の説相を示すもので、逆縁成仏を説いています。すなわち、

 

「又世亡び候とも日本国は南無妙法蓮華経とは人ごとに唱へ候はんずるにて候ぞ。如何に申さじと思とも毀らん人には弥申聞すべし。命生て御坐ば御覧有べし。又如何に唱とも日蓮に怨をなせし人人は、先必堕無間地獄無量劫後、成日蓮之弟子可成仏」(六八七頁)

 

と、日蓮聖人を誹謗した者でも、後には必ず救済されるという法華経の功徳と、「因謗堕悪必由得益、如人倒地還従地起」の逆縁下種と成仏をのべています。四条金吾宛の書状は三五通保存されています。

 

□『下方他方旧住菩薩事』(図録一八)

 『定遺』は文永九年とし、『対照録』は弘安元年としています。真蹟は四紙が中山法華経寺に所蔵されています。題号は巻頭に富木氏が「下方他方旧住菩薩事不弘本門事」と書かれていることによります。はじめに、『法華文句記』九を引き、

 

「          過八恒河沙等          文珠等八万也 

菩薩有三種。下方・他方             ・旧住

亦観音等・他方内也普賢如何   弥勒等   」(二三二三頁)

 

 下方(げほう)とは、この娑婆世界の大地の下にある空中から湧出した菩薩のことで、本化上行菩薩などの地涌の菩薩をいいます。他方(たほう)とは、娑婆以外から釈尊の説法を聴聞にきた他方の仏がおり、この仏に随従してきた菩薩のことです。他方の菩薩にも二種あり、観音や普賢菩薩などは応生菩薩といい、過八恆沙というたくさんの菩薩は今生に無生忍を得る菩薩のことをいい、二つに区別しています。旧住(くじゅう)とは娑婆に古くから住している菩薩のことで、文殊師利菩薩などは応生菩薩であり、八万とは迹化八万の大士のことをいいます。このように、菩薩には三通りの出身の違う菩薩がおります。本書を『三種菩薩鈔』という別名があるのはこのためです。本書には下方の地涌の菩薩が、末法に法華経を弘通されたことを示した『法華文句』などの、重要な文をあげます。

 

「文句九云是我弟子応弘我法。 記九云子弘父法有世界益。 文句九云又他方 観音等他方歟 此土結縁事浅文。 記六付嘱有下有此 釈法華・涅槃十六異也。 道暹補正記六云付嘱者此経唯付下方涌出菩薩。何故爾。由法是久成之法故付久成之人。 記四云尚不偏付他方菩薩。豈独身子」(二三二三頁)

 

この引用は経論の要文を抄録して、地涌の菩薩でなければ、末法の弘通が達成できない理由を列記したものです。日蓮聖人の弟子たちは、地涌の菩薩が末法に生まれてきたことの意義を、認識されたことと思います。そして、龍樹や天台の法華経宣布について、

 

「龍樹・天親・南岳・天台・伝教等不弘通本門事。一、不付嘱故。二、時不来故。三、迹化他方故。四、機未堪故。龍樹談宣迹門意、天親約文釈之、不明化道始終。天台大師弘通本迹始終。但、本門三学未分明歟」(二三二四頁)

 

と、龍樹は法華経を般若経よりも勝れていると評価し、迹門の二乗作仏と一念三千を、深般若秘密上乗として論じたことを挙げ、天親は法華論を著して法華経が最勝であることをのべ、天台の一念三千により種子無上を立てたことを挙げて、幾分の功績を認めながらも、両師は「化導の始終」の三益論を、明確にはできなかったとのべています。天台は本迹の始終である大通仏の三益と久遠の三益を明かした、つまり、「三五の二法」の教理は説いたが迹門を中心としてみた法華経に留まるとのべています。いわゆる、迹面本裏であって日蓮聖人は本面迹裏を主体とする違いをのべています。日蓮聖人の教学のなかでも大事な、台当の相違を弟子たちに説かれたものと思われます。ついで、下方の菩薩こそが滅後末法に付属された菩薩であり、その理由である「止召三義」に関連した釈を挙げています。『開目抄』の本化地涌自覚と関連することから、文永9年と思われます。

 なを、日蓮聖人の本年の執筆として、『対照録』(下巻四七七頁)に、『断簡』一三七(二五二一頁)・一七三(二五三二頁)・三〇九(二九七三頁)・三一〇(二九七三頁)、要文に『維摩経』・『法華玄義』・『法華文句』・『大日経疏』をあげています。

 

〇幕府と良観の動き

 幕府はこの年の高麗国書にたいしては、とりたてての動きはありませんでしたが、異国警固は強められています。二月からつぎつぎに関東御教書をだしており、一〇月五日に蒙古が博多に来たことにより、一〇月二〇日には全国の守護に諸国に大田文(土地台帳)を提出させています。

 

・一〇月二〇日[東寺百合文書] 関東御教書案
「諸国田文の事、公事支配の為に召置かるるの処に、欠け失わしむと云々。駿河、伊豆、 武蔵、若狭、美作国等の文書、早速調進せらるべし。且つ神社佛寺庄公領等、田畠の 員数と云い、領主の交名と云い、分明に注し申さしめ給うべし。てえれば、仰せに依 って執達件の如し。
    文永九年十月二十日       左京権大夫(在御判、政村)
  謹上 相模守殿

 

・一一月三日 [東寺百合文書] 内管領平頼綱奉書案
「諸国田文の事、御教書案此の如し。早く仰せ下さるるの旨に任せ、若狭国分注進せしめ給うべし。仍って執達件の如し。
    文永九年十一月三日       左衛門の尉頼綱
  渋谷十郎殿

 

これにより、神社・仏寺・荘園・公領の田畑の員数と領主の名前を守護に調査させ、御家人の統率と課役徴収による軍事力(軍役賦課)を高めていきます。どうじに、御家人が売買・買入した所領を、一定の範囲で取り戻させる意図をもっていました。

時宗は禅宗に帰依し、時頼と交友のあった蘭渓道隆南宋から来日した兀庵普寧・大休正念西潤子曇などから教えを受けています。文永から弘安の蒙古襲来の前後は、日本と大陸(南宋)とを大勢の禅僧が往来していました。幕府は大陸の事情と、中国語に通じた禅僧を誘致したのです。純真に日本に禅宗を弘める禅僧や、兀庵普寧や西潤子曇(せいかんすどん)などのように、日本に亡命するために来たのではない禅僧もいます。しかし、これらの来朝した禅僧から得た蒙古の情報は、一方的な解釈ではなかったのかといわれます。それにもまして、国際情報に疎かったと考えられています。また、時宗は良観の慈善活動を支援していました。良観が行った社会福祉活動のほかに、土木・交通事業に関しての技術や、人材、労力などの専門集団を極楽寺内に従えていました。幕府においては足下のことはとうぜんながら、蒙古との交戦を視野にいれるときに、全国の街道・水運の要所を掌握した、律宗教団を必要としたといいます。(金沢文庫『蒙古襲来と鎌倉仏教』二二頁)。

良観はこの年に十種の大願を立てています。一、三宝を紹隆する。二、勤行等を怠らない。三、三衣一鉢を持ち遊行にのぞむ。四、病気でない限り輿や馬にのらない。五、特定の檀那の保護は受けない。六、孤独・貧窮・乞食人・病者・盲人・路頭に捨てられたものにも憐れみをかける。七、道を造り橋をわたす。八、自分を怨み謗るものへも善友の思いをなす。九、間食・ぜいたくな食べ物を断つ。十、功徳は一身にとどめず十即十法界の衆生へ与える。というものです。このうち、六と七の社会事業は偉大な事業と今日も高く評価されています。こうした事業ができたのは、極楽寺の周辺に多くの職人や非人集団を住まわせ、統括する役割を担っていたからといいます。また、極楽寺の旧境内跡から、青磁などの中国陶磁器が発掘されたことから、大陸との貿易活動があったといわれています。良観はこのように社会事業と貿易活動をしており、いずれも、真言律宗の教線拡大、密教僧としての調伏祈祷と、表裏一体をなしていたと指摘されるのです

また、良観が立てた八番目の大願を穿った見方をすれば、日蓮聖人や信徒に対してのものと思われます。竜口・佐渡流罪は忍性が画策したことです。法華経や日蓮聖人に対する畏怖心が、この十願ともみることができます。忙殺されようとした日蓮聖人は忍性たちを善知識として受け止めていきました。迫害を受け殺されようとしている者と、権力を握って自由に慈善事業ができる者とを同様に評価することはできないと思います。

一一月に朝廷は東寺に蒙古降伏の祈願をさせています。一二月に親鸞の娘、覚信尼が、親鸞の遺骨を東山大谷から吉永に移し、堂を建てて影像を安置します。これが、大谷廟堂のはじめで本願寺の起源となります。一二月二八日に臨済宗の神子栄尊が肥前の万寿寺にて没します。

 

五二歳 文永一〇年(一二七三年)

□『祈祷経送状』(一一五)

 正月二八日に病弱の最蓮房から、末法の行者の息災延命の祈祷について問われ、「祈祷経」を撰して与えます。本書はその行者の心構えをのべた送り状です。『朝師本』の写本が伝えられています。

まず、法華経を弘通することにより、行者は「三類の強敵」の迫害にあう必然性と、その利益について、三世の視点からのべます。日蓮聖人は「三世の大難」と「三世の御利益」とのべます。すなわち、

 

「或頭蒙疵、或被打、或被追、或臨頚座、或被流罪候し程に、結句は此嶋まで被遠流候ぬ。何なる重罪の者も現在計こそ被罪科候へ。日蓮は三世の大難に値候ぬと存候。其故は現在の大難は如今。過去の難は当世の諸人等が申如くば、如来在世の善星・倶伽利等の大悪人が、不失重罪余習如来の滅後に生て如是仏法に敵をなすと申候是也。次に未来の難を申候はば、当世の諸人の部類等謗じ候はん様は、此日蓮房は存生之時は種種の大難にあひ、趣死門之時は自身を自ら食して死る上は、定て大阿鼻地獄に堕在して無辺の苦を受くるらんと申候はんずる也。自古已来世間出世の罪科の人、貴賎・上下・持戒毀戒・凡聖に付て多候へども、但其は現在計にてこそ候に、日蓮は現在は不及申過去未来に至まで三世の大難を蒙り候はん事は、只偏に法華経の故にて候也。日蓮が三世の大難を以て、法華経の三世の御利益を被覚食候へ。過去久遠劫より已来未来永劫まで、妙法蓮華経の三世の御利益不可尽候也」(六八八頁)

 

「三世の大難」である現在の大難は、大難四ヶ度小難数知れずという現在の迫害をあげます。過去の難は、善星比丘や倶伽利などのような悪人が、日蓮聖人と生まれ変わって、仏法の敵となっていると嘲弄されたことです。未来の大難は、臨終も悪く死後も阿鼻に堕在して、限りのない苦痛をうけると悪口されていることとします。これは、日蓮聖人が他宗の者たちから、常日頃、悪口雑言され嘲笑されている内容でした。しかも、日蓮聖人は現在ばかりではなく、過去についても未来についても讒言されたことを、「三世の大難」とのべたのです。しかし、この大難はそのまま法華経の三世の利益をうけるものと認識されます。そして、釈尊は世世番番にどれだけ苦難にあっていたかを偲べば、法華経を弘通することの難儀な道理も納得でき、しかも勧持品の二十行の偈文に説かれた忍難弘経の金言は虚妄の廃説ではなく、日蓮聖人の身にあたっては殊更に貴重な経文であるとのべます。

つぎに、最蓮房から「御山籠御志事」との質問があります。これは、最蓮房が病弱であるので一人静かに信仰をしてもよいかという質問です。これにたいし、山籠は「末法折伏行」に背くことであるが最蓮房は病身であり、また、いかに国主を諫暁しても聞き入れることはないから、徒労のことであり山林に篭居したくなるのはとうぜんであるが、病気が平癒したならば不惜身命に弘通しなければならないと勧めます。

 

「一御山篭御志事。凡雖背末法折伏行病者にて御座候上、天下の災・国土の難強盛に候はん時、我身につみ知候はざらんより外は、いかに申候とも国主信ぜられまじく候へば日蓮尚篭居の志候。まして御分之御事はさこそ候はんずらめ。仮使山谷に篭居候とも、御病も平癒して便宜も吉候者捨身命可令弘通給」(六八九頁)

摂受と折伏のどちらを選択すべきかという問題において、本書から病気などの事情があれば、摂受を認めると理解されています。ただし、信念の上においても、平癒してからは「不惜身命」の弘通をしなければならないとします。(『日蓮聖人遺文全集講義』第一〇巻三九一頁)。身・口・意にわたる折伏意識をもつことと思います。

つぎに、「末法行者息災延命祈祷」についての願いについて「祈祷経」を別紙に註記して送ったので、毎日この祈祷経を読誦して、法華経に身命を任せて修行すれば息災延命になり、広宣流布の大願も叶うであろう、と信心を勧奨しています。日蓮宗の修法師は祈祷経(『撰法華経』・『撰経』)を読み加持力を高めます。祈祷経は日蓮聖人が法華経の本迹の各巻のなかより要文を選び、それを綴った勘文になります。読経を終えると本書のつぎの文を拝読し弘教を誓います。

 

「一蒙仰候末法行者息災延命祈祷事。別紙一巻註進候。毎日一返無闕如可被読誦候。日蓮も信じ始候し日より毎日此等の勘文を誦し候て仏天に祈誓し候によりて、雖遇種種大難法華経の功力・釈尊の金言深重なる故に今まで無相違候也。付其法華経の行者は信心に無退転、身無詐親一切法華経に任其身如金言修行せば、慥に後生は不及申今生も息災延命にして勝妙の大果報を得、広宣流布之大願をも可成就也」(六八九頁)

 

また、最蓮房が一七歳のときに出家してからは、妻帯せず肉食もしないということについて、持戒中の清浄の聖人であると褒め、この後も、国中の謗法を改心すべく仏天に祈誓して弘通するようにとのべ、資質のない者には祈祷経を授与してはならないと結んでいます。

 本書は日像上人の『祈祷之事』に引用されており、祈祷経や最蓮房に関する史料となっています。先師が本書を『祈祷鈔』の送状と誤ったのは、日像上人の「御消息に云く」として、『祈祷経送状』の文をあげたのを、『祈祷経鈔』と『御祈祷経』との書き誤りとみています。(『日蓮聖人遺文辞典』歴史篇二三六頁)。日像上人が書き間違えていることで、古くから誤記されたり誤解されやすかったためといいます。

同じような書状を六老僧に宛てたのが、弘安五年正月の『撰法華経付属御書』(二一四九頁)です。真蹟は伝わらず、本文に「六老僧」という言葉があることから偽書とされます。また、『祈祷経言上』(二〇九三頁)のような類似した御書が流通されたことにより、祈祷経や『祈祷鈔』の真偽が問われたのです。これについて、『撰法華経付属御書』と『祈祷経言上』は偽書であるが、『祈祷鈔』を疑義するのは妥当でないといいます。祈祷経の経文引用に省略されたものがあります。日蓮聖人が弟子に与えたときに、その趣旨により書き変えたという推測があります。最古の形態を伝えるのは、京都本国寺五世の建立院日伝上人の「日伝本」で、「日親本」・「玉沢本」・『昭和定本』所収本など、一八の諸本が伝えられています。(宮崎英修著『日蓮宗の祈祷法』五九頁)。

 二月に叡尊は伊勢神宮に参詣しています。内宮祢宜の荒木田氏などが律僧の神前供養による、国難回避を祈念させています。(金沢文庫『蒙古襲来と鎌倉仏教』二〇頁)。三月二四日に比叡山の金剛寿院が焼けます。四月一二日に天台座主は万里小路仙堂にて不動法を修しています。三月(五月)に趙良弼は約一年間、日本に滞在していましたが帰国します。この一年の間の記録は残っていませんが、帰還して五月に世祖に謁見したときに、日本の君臣の爵号、州郷の名と数、風俗などの詳細な報告書を提出しています。趙良弼の日本渡航の目的には、襲来を前提として情報を収集することにあったともいえます。ただ、世祖から日本遠征を問われたときに、日本は山ばかりの野蛮な島国と評し、犠牲をはらって出兵しないほうがよい、と日本攻略の無益と困難をのべたといいます。(『日本の歴史』8蒙古襲来。八四頁)。幕府は五月に連署の政村が死去したときも、西国の御家人にたいし鎌倉に参上することを禁止していました。三月に趙良弼が来日したことにより、異国警固の非常事態がつづいていたのです。