157.『観心本尊抄』 構成            高橋俊隆

『観心本尊抄』(一一八)

〇十七紙表裏記載

四月二五日に『観心本尊抄』を書き終えました。本書は翌日の二六日に添え状(『観心本尊抄副状』)と共に、使者に託して富木氏の元に送られました。田植えなどの農繁期が間近に迫っていたこともあり、使者は五月五日前後には下総に着いたといいます。(中尾尭著『日蓮聖人の法華曼荼羅』三一頁)。

真蹟は中山法華経寺に所蔵され『副状』とともに国宝になっています。ほかの遺文はほとんど巻子(かんす)本なのに比べ、『観心本尊抄』は帳面の形をとっています。『開目抄』はかな交じり文ですが、『観心本尊抄』は全体が漢文体です。『開目抄』の料紙は全編六六紙、表裏記載。『観心本尊抄』も表裏記載ですが、用いた紙数は少なく全体で一七丁です。

これまでの調査では、初めから一二紙までは楮紙で、あとの五紙は斐紙に書かれていたとしていましたが、日蓮宗新聞平成二三年八月二〇日、中尾尭先生の「ご真蹟に触れる」に、本書の第一三紙から第一七紙までの五枚も楮紙であることがわかったとあります。これは、昭和六年の聖教殿造営から八〇年目にして、始めての大掃除を行い、聖教を書院に移して真蹟の表面を入念に手入れしてわかったものです。第一三紙からの五紙は一回り小さく光沢があるため、雁皮紙(斐紙)を使用されたと思われたのが、紙の繊維を顕微鏡で観察したところ、楮紙であることが判明しました。つまり、同じ紙質ですが、第一三紙からは入念に木槌で打ち込み、光沢がでた打紙であったのです。本書の料紙の違いに着目して、『観心本尊抄』の第一三紙以降の著述は、とくに重要であるので長期の保存を目的としていたという意見があります。日蓮聖人の教学において、如来寿量品の法門は滅後のために説かれた(末法正意論)という、重要な内容であることに着目するからです。斐紙は西日本に広く自生する雁皮を材料にした良質の紙で紙王といわれます。北陸では石川県が北限で佐渡では例外的に産出したといいます。日蓮聖人は弟子たちを教育するときに、強靭な斐紙を使用して図表を作成しています。これは、頻繁に使用しても折切れや破損しないように配慮されていた事例があるからです。

日蓮聖人とうじの竪紙の寸法は、天地(上下)二七㌢前後、左右の巾は四二㌢前後が標準となっており、比率はほぼ一対一.五といいます。料紙を広げたままで右端を綴じ表裏に書かれています。日蓮聖人はこれを大帖とよんでいました。(中尾尭著『日蓮聖人の法華曼荼羅』九三頁)。第一紙から第一二紙までは、縦三三センチに幅五四.二センチの大判の緒紙を使用して、一紙に二〇行、一行に一五文字です。第一三紙から第一七紙までは、これよりも小さく縦三〇.三~四㌢、幅四五.四~五㌢の打ち込み楮紙に、一紙に二〇行と一七行からなっており一行に一三文字です。

流罪者としての生活では紙筆に困窮していたといいます。本文の文字の掠れから打ち紙の加工が十分に施されておらず、良質の料紙が得られなかった佐渡の状況がわかるといいます。しかし、第一三紙からは同じ筆を使っていたと思いますが、墨ののりがよく筆の走りが良いのがはっきりわかります。紙が代わったのは富木氏の使者が筆や墨と、紙も持参されたのかもしれません。日蓮聖人は大筆や墨などと一緒に紙も所望されていたと思います。佐渡は紙不足とされることについて、かならずしも当時の状況からみるとそうとはいえないともいいますが、日蓮聖人の手元には少なかったようです。『佐渡御書』の追伸に、

 

「佐渡国は紙候はぬ上、面面に申せば煩あり、一人ももるれば恨ありぬべし。此文を心ざしあらん人人は寄合て御覧じ、料簡候て心なぐさませ給へ」(六一八頁)

と、のべていました。これは、昨年の文永九年三月のことです。二月に『開目抄』という長編の著述をされたので、紙が不足したともうかがえます。

『開目抄』・『観心本尊抄』は、門家の基礎となる教えですので、見解の相違がないように、同一の文書を拝読することが大切です。また、信仰心と向学心のある者は、寄り合って信行を深めることになります。『観心本尊抄』は大帖に内題から書かれており、当初の表紙は残っていませんが、現在は緞子の表紙に日祐上人の筆跡と思われる『観心本尊抄』の外題と、相伝者である「日常」上人の筆跡が、別に切り取られ、題簽として貼付されています。(中尾尭著『日蓮聖人の法華曼荼羅』八六頁)。これは正保三(一六四六)年に行なわれた修理のときに、体裁を整えられたといいます。また、正保修理までは外題が上側に出るようにして、全体が縦に左右から三つ折に畳まれて保存されていたようです。

茂田井教亨先生は堀之内妙法寺でおこなった『観心本尊抄』の公開講義のさいごに、藤井日静上人の法主時代にご信者から身延山に納められた断片が、『観心本尊抄』の草案と思われた、というお話をされました。その断片の一行は、「経云 龍女乃至成等正覚等云云。此畜生界所具十界也」(七〇四頁)の文です。身延に入ってからの『法華取要抄』(『以一察万抄』八一〇頁)・『曽谷入道殿許御書』(八九五頁)には、草案があることから、「当身の大事」とされ教義として最重要な著述をされるときに、全くの草案がなくいきなり本番で著述されたとは思えないといいます。(茂田井教亨著『本尊抄講讃』下巻一三二三頁)。はたして、どうなのでしょうか。

庵谷行亨先生は本書の真蹟の行数や文字数を検討され、誤字・脱字の訂正を日蓮聖人がされたもの、他筆にて訂正されたもの、訂正がない文字を表示しています。このなかに、日蓮聖人が加筆訂正された箇所が三七、他筆が三二箇所、未訂正が二一箇所をあげています。このうち、斜線で本文を消し行間に訂正された六箇所をあげ、これらのことからすると、草案はなかった理由となるとします。逆に、草稿から浄書するときに転写の箇所を誤ったと思われる六箇所をあげ、両様に解されるとしています。そして、本書の内意は『開目抄』に近い時期に完成されつつあったと考察されています。(庵谷行亨著『日蓮聖人教学研究基礎研究』二五九頁)。

しかし、本書の筆勢からしますと草案をもとにした転写ではなく、なにも見ないで思いのままを、一気呵成に執筆されたようにみえます。誤字の訂正や脱字補足の筆跡は、書き終えてから加筆されているので、原稿(草案)をもとに書かれたのではないと思います。御走書きを未訂正のところがあるのは、富木氏の使者に持たせるため急いだと思われます。また、本書の成仏論については、日蓮聖人が幼少からの課題としていたことでした。さまざまな学問と修行をされた結果、本書の基本となっている題目や本尊については、立教開宗のときに理論は構築されていたと思います。その後、色読を経験し到達された教えが『観心本尊抄』の内容です。つまり、内意に秘蔵し外部にもれないようにされていた肝要の教えであったので、草案をあえて起稿されなかったと思います。極めて内密であったため、本書を拝読する者に分限があったと思われます。ですから、日蓮聖人の滅後の直弟は、本門の教えを継承し体系化したとはいえず、天台の教えを堅持していると指摘された理由もここにあると思われます。(庵谷行亨著『日蓮聖人教学基礎研究』三三〇頁)。

真蹟を拝見して感じられることは、日蓮聖人の身心に疲れがみえることです。中心が右に傾いて書かれたところや、墨が掠れているところがあります。日蓮聖人は昼の明るいときに執筆されたといいますが、夜間の静かな頃会いに仄かな灯りをたよりに、本書を認めている様子と心情が伝わってきます。また、日蓮聖人の手元には紙不足であったのか、大事な教えが散逸しないための配慮であったのか、あえて表裏に書かれています。文字も小さく行間を狭めて書かれた心境を配慮しなければなりません。ところが、一三紙の紙が代わったところから筆の滑りが良くなっています。さいごの第一七紙の表裏には余裕がみえます。『観心本尊抄副状』をみますと、二枚の紙にゆったりと大きく書かれています。富木氏から紙が届けられたためか、おそらく、本書を書き終えて安堵した心境の変化が、書体に表れたのではないでしょうか。

そこで、本書一七紙の行数をみますと、一六行から二一行となります。第八紙から第一二紙は二〇行と二一行になっています。とくに、二一行となった第八紙裏・第九紙表裏・第一〇紙表・第一二紙表は、重要な教えが説かれていることに注目されます。

・十七紙表裏の行数とおもな内容

  第一紙表  一六行(本文一四行) 理一念三千

     裏  一七行 天台終窮究竟の極説

  第二紙表  一六行 一念三千亙情非情

    裏   一七行 教門の難信難解。草木成仏

 第三紙表  一八行 観心者我己心具十法界

     裏  一九行 十界所具十界

  第四紙表  一九行 仏説難取信

    裏  一八行 信法華経人界具足仏界

 第五紙表  一八行 大通久遠下種

    裏  二〇行 此堅固秘之。教主釈尊因位

 第六紙表  一八行 釈尊果位

    裏  一九行 我一念十界歟己心三千歟

 第七紙表  一九行 十界互具百界千如一念三千分明証文有之

    裏  一九行 欲令衆生開仏知見

 第八紙表  二〇行 三国三師。本門興観心

    裏  二一行 法華経仏種

 第九紙表  二一行 一念三千仏種

    裏  二一行 釈尊因行果徳自然譲与(三十三字)

 第一〇紙表 二一行 当知身土。今本時(四十五字法体段)。本尊為体(八十九字)

     裏 二〇行 本門寿量品本尊並四菩薩

 第一一紙表 二〇行 四種三段。迹門三段

     裏 二〇行 末法始為正中正

 第一二紙表 二一行 彼脱此種。題目五字

     裏 二〇行 召地涌千界大菩薩寿量品肝心以妙法蓮華経五字令授与閻浮衆生

 第一三紙表(紙が変わる『定遺』七一六頁) 一七行 遣使還告

     裏 一六行 地涌発誓

 第一四紙表 一七行 現十神力地涌菩薩属累妙法五字

     裏 一七行 結要付属

 第一五紙表 一六行 捃拾教遺属。本門以仏滅後為本

     裏 一六行 末法始為如予者也

 第一六紙表 一六行 事行南無妙法蓮華経五字並本門本尊。地涌出現

     裏 一六行 摂受折伏

 第一七紙表 一五行 一閻浮提第一本尊可立此国。地涌出現の先兆

     裏  九行 不識一念三千。四大菩薩守護(五十四字)

 

罫線を引いた紙を使用しなかったことが、一丁の行数に違いがあったり行間が詰まったところからわかります。

○「当身の大事」

本書の重要性は『観心本尊抄副状』からうかがうことができます。

 

「観心法門少々注之、奉太田殿教信御房等。此事日蓮当身大事也。秘之見無二志可被開祏之歟。設及他見三人四人並座勿読之。仏滅後二千二百二十余年未有此書之心。不顧国難期五五百歳演説之」(七二一頁)

 

と、のべているように、「観心の法門」・「当身の大事」・「未だかって此書の心を説いた人はいなかった」という著述であり、古来より日蓮聖人の観心論(題目)・本尊論が開顕され、戒壇論を密示された遺文であるといわれています。これまで日蓮聖人に対して、教相という理論のみを論じて、修行や悟りなどの大事な観心門は説いていないと、他宗より指摘されたことに答えたといいます。また、独自の本門思想を開陳した『開目抄』と並ぶ、佐渡期の代表的な著述です。『立正安国論』・『開目抄』と本書をあわせて三大部といいます。本書は『開目抄』に暗示された本化上行菩薩としての立場からのべた、日蓮教学の中枢である観心本尊論です。宛先は下総の富木常忍・太田乗明・曽谷教信などの有力な信徒になっていますが、日蓮聖人の弟子・信徒の全体に教示されるものでした。(『日蓮聖人御遺文講義』第三巻三三頁)。

〇観心と本尊

『観心本尊抄』は正式にいいますと、『如来滅後五五百歳始観心本尊抄』といいます。伊東で書かれた『教機時国抄』・『顕謗法鈔』と同じように、「本朝沙門日蓮」の署名があります。如来が滅後して「五五百歳」(二千年を過ぎた五百年目に入る)にあたる末法の始めに、解き明かされた「観心本尊」の抄とします。釈尊が滅度してから二千五百年間という通時ではなく、五箇の五百年目になる末法の時をいいます。

題名のように、「観心本尊」についてのべたものです。「観心本尊」の解釈については諸説があります。『副状』に「観心の法門」とのべたことから、観心の法門として本尊についてのべているとうかがえます。本書を「観心抄」と呼ぶのはこの意見からです。(『日蓮聖人遺文全集講義』第一一巻上一八頁)。観心を重くみるときは唱題修行による成仏のあり方に視点があります。これにたいし、「本尊抄」とよぶのは曼荼羅を相承するときの儀軌によるといいます。(同二二頁)。唱題修行により私たちが成仏をした境地が本尊にあらわれているとみます。現在は「本尊抄」と呼称される場合が多くみられます。「抄」とは抜書きということです。また、観心と本尊の二つの教えをのべたという説や、観心の本尊とする解釈があります。観心を重くみるのか、本尊を重くみるのかの両説です。茂田井教亨先生は、「信心本尊」(『開目抄講讃』下巻一五頁)という解釈をされています。概ねは次の四説になります。(『日蓮聖人遺文全集講義』第一一巻上二八頁)。

 

  観心の本尊 (観門の本尊.本尊を重視)

  観心と本尊 (観心は能観の事行の題目。本尊は所観の本門本尊。観心と本尊の二つを重視)

  心本尊を観ず(観は能観、心本尊は所観。観心を重視)

  観心本尊  (観心は能釈、本尊は所釈。本尊を重視)

 

 優陀那日輝上人は、肝心なことは「五五百歳始」の観心や本尊を明かすので「観心本尊」というのであり、文上を「心の本尊を観ずる」としてはならないとします。己心の相貌を本尊に寄託して諦観せしむる、事観の二法(本尊と題目)を顕わすことが所詮であるとしています。ただし、『日蓮宗事典』には、「観心本尊とは、心の本尊を観ず、観心の本尊、観心と本尊、と三様の読み方があるが、内容に照らしてみると「観心と本尊」と読むべきである。観心とは天台宗では十境十乗の観念観法をこらすことであるが、今は法華経の題目を心に信じ口に唱え身に行ずる信心為本の唱題を観心とする。本尊とは信仰の対象であり、十界勧請の大曼荼羅ないし一尊四士である。ただしこの本尊は超越的存在であると共にまた行者の己心に内在する存在でもなければならぬから、心の本尊、観心の本尊とも読んでよいのである。」としています。『日蓮聖人全集』(第二巻五五〇頁)にも、『摩訶止観』の「一念三千出処の文」を注釈する形をとり、釈尊入滅の末法にあたり観心と本尊とを明らかにしたと解説しています。いずれにしましても、『観心本尊抄副状』の「観心の法門を少々これを註し」の文面からしますと観心に重きが置かれ、「未だこの書の心あらず」などの文意をうかがいますと、「今本時」にあらわれた本尊の存在が大事なこととなります。そして、それをつなぐのが受持譲与の信行である唱題となります。

 さて、立教開宗では天台大師の五時八教の教判と「未顕真実」を依拠として、専持法華・捨邪帰正を説き念仏批判をされました。『守護国家論』では末法正機の法華経と念仏批判を体系化されました。『立正安国論』において災害の由来と、法華経によらなければ自界叛逆・他国侵逼の難にあうと予言されました。つづいて、伊豆流罪・松葉ヶ谷・東条小松原の難、そして、竜口・佐渡流罪を経て、『開目抄』に本化上行の自覚をされました。しかし、日蓮聖人の内実が高まることに反し、蒙古や二月騒動の混迷とした世相と、流罪人とされた日蓮聖人にたいし、弟子や信者のなかには受難を恐れて信仰を捨てる者が続出し、教団の危機となりました。中尾尭先生はこれらの深刻な状況のなかで、本書に「四依」についてのべていくことに注目し(『日蓮聖人の法華曼荼羅』一〇五頁)、「本化地涌千界の菩薩」の出現された「預言の章」としています。『開目抄』はさきに見てきたように、一念三千について本門寿量品の立場から解釈を加え、天台の理一念三千との違いをのべました。そこで『観心本尊抄』をみますと末法における、事一念三千・受持成仏・本門の題目・妙法蓮華経の五字・娑婆(此土)寂光土・本門の本尊・本化地涌菩薩の最上首上行菩薩についてのべています。また、唱題成仏の原理をあらわした『観心本尊抄』の一念三千の法門は、すでに比叡山留学の結実として骨格となっていた結論でした。本書を「観心の行法」を樹立開示したというのはここにあります。(『日蓮聖人御遺文講義』第三巻一八頁)。

つまり、立教開宗のときには、内観に秘めた法門であり、佐渡流罪の経文身読の実証によらなければ、表明されえない本化の法門であったことがうかがえます。ここに、『開目抄』の人開顕の書にたいして、法開顕の書という理由があります。本門の題目は、「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足する」とのべて受持成仏を示し、「四十五字法体段」にて娑婆浄土を示しています。本門の本尊は『開目抄』には「天台大宗より外の諸宗は本尊にまどえり」(五七八頁)とのべるだけで、本尊の形態などを具体的に説いていませんでしたが、『観心本尊抄』では本尊の主体である本門の釈尊と、その本門釈尊の事一念三千の相貌(そうぼう)がしめされました。これを、本門の本尊といいます。よって、この文永一〇年を宗旨の建立の年とすることができましょう。(『日蓮聖人御遺文講義』第三巻二頁)。日蓮聖人は佐前・佐後の教えに違いがあるとのべています。佐前と本書との相違については『日蓮聖人御遺文講義』(第三巻一七頁)に概略が示されています。

 

〇本書の構成

 

本書の分け方については、富木氏の『本尊鈔常師見聞』をはじめ、古来から『観心本尊抄分科』(『観心本尊得意抄』二〇九五頁。身延の心性院日遠上人〈一五七二~一六四二年〉は偽書とします。一妙院日導上人〈一七二六~一七八九年〉『祖書綱要』は取り入れています)により、五段三〇科に分ける構成があります。内容を細分化しますと三〇回の問答(「三十番問答」)から構成されます。ただし、第六番目の疑問に答えがないので二九番問答ともいいます。茂田井教亨先生は「三〇問二九答」がよいとします。(『本尊抄講讃』上巻四五頁)。この分け方の主意は「己心の本尊」を問題としており、全体の脈絡からみると並列的であるとします。現在は心性院日遠上人が観心と本尊との二段に分科した方法があり、優陀那日輝上人も『本尊抄略要』に、これを用いて解釈した科文が主流となっています。(『日蓮聖人御遺文講義』第三巻三九頁)。つまり、二段に分けるときは観心と本尊とに分けます。(『日蓮聖人遺文全集講義』第一一巻上七〇頁)。ただし、優陀那日輝上人は観心のための本尊で、本尊のための観心ではないとして観心に重きをおきます。

また、三段にわけて解釈される場合があります。優陀那日輝上人に対抗した田中智学・山川智応先生、また、望月歓厚先生などです。三段に分けるときは、第一段は最初から第二〇答の中ほどの、「一身一念遍於法界等云々」までを一区切りとして能観の題目段といいます。真蹟では第一〇丁表の五行目が区切りになります。第二段は第二〇答の終りまでを所観の本尊段とします。真蹟では第一〇丁表五行八字目から、第一〇丁裏の九行目四字までの二六行ほどの短い部分になります。第三段は前段に引き続き第二一問の始めから、第三〇答の本抄末尾までをまとめて末法上行弘通段といいます。(『日蓮宗事典』・『日蓮聖人全集』二巻五五〇頁・『日蓮聖人御遺文講義』第三巻四四頁)。真蹟では第一七丁裏の末尾までの八丁にわたります。行数にしますと第一段が三四〇行、第二段が二六行、第三段が三四〇行となっています。(本文、六一〇行。題号、年号、署名をいれると六一三行)。料紙を見ますと第一三丁から紙の大きさが代わり、第三段に入って九七行目から改まります。

 

  三段に分けてみるとき(『日蓮宗事典』・『日蓮聖人御遺文講義』・『日蓮聖人全集』)

 第一段  能観の題目段――――観心・事具一念三千・本門の題目・受持成仏

 第二段  所観の本尊段――――本時の娑婆世界・末法の事行・本門の本尊の相貌・

 第三段  本化上行弘通段―――下種の妙法五字・本化地涌の責務・戒壇密示という

 

このほか、序・正・流通の三段(第一段~三段のこと)に分け、それを問答に応じて全体を八章(段)に分けてみることができます。(『日蓮聖人御遺文講義』第三巻四七頁、『日蓮聖人全集』第二巻二二四頁)。このときは、序分は一~三章まで、正宗分は四~五章、流通分を六~八章に配当します。

茂田井教亨先生は昭和五三年六月から同五五年七月まで、四五回の『観心本尊抄』の講義を堀之内妙法寺で行いました。私も立正大学の大学院に在籍し、日蓮教学研究所において宗費研究生として、諸先生の指導をうけていました。この講義にあたり『本尊抄講讃』の筆耕をさせていただきました。二回目の講義のときに本書の概要と分科についての説明があり、茂田井教亨先生は望月歓厚先生にしたがい八章に分け、さらに、それぞれに二節から五節に細分して講義を始められました。(『本尊抄講讃』上巻四五頁)。以上をふまえて、本書に入りたいと思います。便宜上、八章に分科した構成にしたがいます。