159.『観心本尊抄副状』~『如説修行鈔』                   高橋俊隆

□『観心本尊抄副状』(一一九)

 

 『観心本尊抄』は奥付けから四月二五日に執筆を終えています。偶然なのでしょうか、翌日に富木氏からの使が来たので、この副状を四月二六日付けで『観心本尊抄』にそえて富木氏に送られたといいます。(『日蓮聖人遺文全集講義』第一一巻下四〇四頁)。あるいは、この使者は『観心本尊抄』が書き終える数日前に一谷に来られ、日蓮聖人のもとに数日のあいだ逗留されていたといいます。(茂田井教亨著『本尊抄講讃』下巻一三二二頁)。鎌倉からの長い道中を考えますと、養生をかねて数日は日蓮聖人のもとで、給仕をされたと思われます。

 冒頭に「単衣ものの帷一着(枚)・墨三長(丁)・筆五巻(管)給り候了」とあり、帷子や墨・筆が届けられました。本書は、日蓮聖人の身にあたっての大事(内証)なことを認めていると、重要性を述べたことがわかります。「墨」の字は真蹟では「黒」となっています。墨を三挺と長筆を五本と読む説があります。筆は貴重品で、とくに、長筆は中国から輸入されていたほどです。曼荼羅本尊を揮毫されるために、富木氏に用意させたのでしょう。「観心の法門」を注記したので太田乗明・曽谷教信氏などに奉ると丁重に書かれています。本書は、日蓮聖人の身にあたっての大事(内証)なことを認めていると重要性をのべます。

 

「此事日蓮当身大事也。秘之見無二志可被開拓之歟。此書難多答少。未聞之事人耳目可驚動之歟。設及他見三人四人並座勿読之。仏滅後二千二百二十余年未有此書之心。不顧国難期五五百歳演説之。乞願歴一見末輩師弟共詣霊山浄土拝見三仏顔貌」(七二一頁)

 

日蓮聖人の身において最も大事な教えがのべられているので、秘蔵の書として無二の志のある信徒にのみ、開き見せるようにとのべています。ここに、『観心本尊抄』の重要性がうかがえます。無信心の者や他門の者に公開してはいけないということです。「当身の大事」というのは『開目抄』において、「一期の大事」として上行自覚を、私たちに覚醒させていました。そして、『観心本尊抄』においてはさらに証文を引き、寿量品の内証である題目を本法三段の教相から末法正意の下種とし、この下種を行なう者は末法出現の地涌の菩薩と確定します。「此書難多答少」と問難を重ねたのは、この本化別付・末法弘通の地涌の菩薩を糾問することでもありました。地涌菩薩を日蓮聖人と比定した立場から『観心本尊抄』をみますと、本化上行菩薩としての「当身の大事」ということになります。ひじょうに重みがあるのです。そして、第二〇番目の「凡身具仏」の問いに答えた受持譲与の能観の題目、四十五字法体の所観本尊段をのべていきます。しだいにこの観心の法門である「事行の南無妙法蓮華経の五字。並びに本門の本尊」を顕わします。

そして、これらの本門八品・一品二半、および、末法正意・地涌出現・本化上行自覚を説いたことは、仏滅後において始めてのことであるから、弟子をはじめ人々が耳目を驚動し、理解できずに謗法罪をつくることがあるかも知れないと腐心されたのです。ですから、『観心本尊抄』を拝読するときは、三人四人と同席して読んではいけないとします。なぜなら、未聞の本門の教えであるから、充分な熟慮を必要とされたからです。また、折伏逆化の時であるから国王など三類の強敵の迫害を受けても、末法の始めにこれを弘経せよという仏誡をまもり、不惜身命の覚悟をもって法華経を演説するようにとのべています。

「未有此書之心」の文を「三大秘法」と解釈する説があります。田中智学居士は『観心本尊抄』の、「此時地千界出現本門釈尊為脇士 一閻浮提第一本尊可立此国」(七二〇頁)を密釈戒壇と解釈しています。(茂田井教亨著『本尊抄講讃』上巻一二九頁)。日蓮聖人は弟子・信徒にたいし、自己の信念をのべて不退転の信心を勧奨します。師弟ともに霊山浄土に到り三仏の尊容を拝見することは、神力別付の約束を異体同心に護らなければ達成しえないことだからです。

□『妙一尼御返事』(一二〇)

 

 執筆の年次については不明で身延山にての書状ともいわれます。『定遺』は『観心本尊抄副状』と同じ四月二六日付けで、妙一尼に書状を宛てたとしています。真蹟は二紙、京都瑞龍寺に所蔵されています。上封に「妙一比丘尼まいらせ候 日蓮」とあります。(『対照録』中巻一〇五頁)。「滝王丸遣使之」(七二二頁)と、妙一女の下人である滝王丸を、佐渡の日蓮聖人の給仕のために使わしてくださったとあります。同年九月一九日付けの『辨殿尼御前御書』(七五二頁)に、下人を使わしたことが書かれているのは、このときのことと思われますが、辨殿尼と妙一女が別人であるとも思われます。滝王丸はこの書状をもって鎌倉に帰ったといいますが(『日蓮聖人遺文辞典』歴史篇九九六頁)、富木氏の使者に本書を持参させたともいいます。

妙一尼については第二部においてのべたように、生没年は未詳で三人説があります。父は工藤祐経、弟が伊東祐時、夫が印東祐昭というのが用いられています。このばあい日昭上人の母となります。あるいは、姉という説(日朗上人の母)、日妙聖人の子供の乙御前などがあります(『日蓮聖人遺文全集』別巻一一一頁)。また、『妙一尼御前御消息』(一〇〇〇頁)に、日蓮聖人が佐渡流罪中に夫が死去し、病の子供と女子、老婆が残ったとあります。この記述からしますと、妙一尼は日昭上人の兄印東祐信の妻(義理の姉になる)であり、老婆というのが母親(桟敷尼)とうけとれます。印東祐信(「兵衛のさえもんどの」(『日蓮聖人全集』第七巻三二三頁))は御所桟敷を守護する役目を担っていたので、その妻を桟敷女房と呼称するのは筋がとおります。病気の子供と女の子がいたとありますので、日昭上人の母とするには年齢は若いと思われます。また、妙一女と呼ばれた女性は二人いたといいます。「さじき妙一尼」と「妙一女」は別人であるといいます。また、『辨殿尼御前御書』(七五二頁)に、辨殿尼は一文不通の女性であったことが書かれています。辨殿尼が佐渡におくった下人と、妙一女が送った滝王丸という下人がいます『妙一尼御返事』七二二頁。『妙一尼御前御消息』一〇〇一頁。『辨殿尼御前御書』七五二頁)。この三人の女性はすべて別人といいます(『日蓮聖人遺文辞典』歴史篇九九六頁)。

 いずれにしましても、本書の記述から日昭上人と血縁関係にあることがうかがえます。頼朝が由比ガ浜を遠望するために、桟敷を構えた所といわれる鎌倉の桟敷に住んでいたので、「さじき妙一尼」「桟敷尼」ともいわれています。常栄寺の裏の山上になります。

 本書は妙一尼の下人である瀧王丸を、佐渡の日蓮聖人の給仕(「此勅勘之身」)に使わしたことへの返礼です。提婆品に国王が阿私仙人に千載給仕して妙法蓮華経を体得したことをあげ、妙一尼が瀧王丸を法華経の行者である日蓮聖人の給仕に使わしたことの類似に、釈尊と同じ菩薩行であることを譬えます。ただし、

 

「今施主妙一比丘尼貧道身扶命小童使之奉仕法華経行者。彼国王 此卑賎。彼無国畏 此勅勘之身。此末代凡女 彼上代聖人也。志既超過彼。来果何不斉等乎」(七二三頁)

と、提婆品の修行者は国王であるから国難に遭うことはないが、妙一尼は卑賤の者であり、日蓮聖人は勘気を蒙り流罪人であることの相違をあげます。それゆえに、末代の凡夫である妙一尼の信行は上代の国王の菩薩行に超過して尊く、かつ、果報も多大であると悦びをのべています。夫(日昭上人の兄印東祐信か)の死去の理由は不明ですが、竜口法難後に所領を没収され、その後、死去されたといいます。(『昭和新修日蓮聖人遺文全集』別巻一一二頁)。文末に日昭上人は今年は鎌倉にいて、信徒を教化することになっているとのべます。鎌倉に住む妙一尼も日昭上人に給仕して信行に励み、教団の護持に尽くしてほしいという心情をうかがえます。

 

□『正当此時御書』(一二一)

 前後を失った断片です。『観心本尊抄副状』の筆跡と一致し、本書に「今粗之註」とした遺文は『観心本尊抄』と思われることから、四月ころの著述としています。真蹟は一紙一一行の断片で、京都妙覚寺に所蔵されています。ただし、『対照録』(中巻一一一頁)に文永一一年の身延期とし、そのためか臨摸の疑いがあるとしています。「正当此時」とはじまることから『正当此時(しょうとうしじ)御書』といいます。宛先も不明ですが、漢文体で書かれた書状ですので、範囲は弟子か武士層へとせばめられます。(高木豊著『日蓮とその門弟』六九頁)。

「正当此時。而随分之弟子等雖可語之 国難・王難・数度難等重々来之間 外聞之憚存之 于今不宣正義 我弟子等定有遺恨歟。又抑時之失有之故 今粗 注之。有志者度々聞之 其終後送之。以減三度為限可為聴聞。其後」(七二三頁)

前欠ですが、日蓮聖人はこの法門を弟子などに教えようとしたが、蒙古国書の到来やたび重なる法難や世間への憚りがあり、これまで正義を説かなかったと、これまでの事情をのべます。このことは、弟子たちにとれば遺恨となり、仏語に反する失を受けることを鑑みて、今はまさにその正義を「宣示顕説」するときとなったので、おおよそのことを書いた『開目抄』や、『観心本尊抄』を註して富木氏に格護させているとのべます。この正義は『観心本尊抄副状』に「観心法門少々注之」(七二一頁)と共通していることから、『観心本尊抄』を指すともいいます。(『日蓮聖人遺文辞典』歴史篇五四八頁、『日蓮聖人全集』第五巻三四七頁)。向学心があれば、それをたびたび習い聞いて修学するようにと促され、それを充分に考えてのちに質問を送るようにのべ、それも、三度を限度とするようにとのべています。このあとは欠失しています。『観心本尊抄副状』にある閲読の留意を想起します。語気からしますと鎌倉近辺か房総の弟子と思われます。このころは佐渡開顕の教学が、充分に弟子たちに浸透していなかったと思われます。日蓮聖人の苦心の心情がうかがえます。

 

□『諸法実相鈔』(一二二)

 

 五月一七日付けの書状で最蓮房に宛てています。真蹟は伝わっていません。健立院日諦上人と智英院日明上人は文永一〇年の著とし、境妙院日通上人の『境妙庵目録』は文永九年となっています。別名に『与最蓮房書』といいます。本書は『録外御書』の初期である行学院日朝上人の『録外目録』や、一如院日重上人の『本満寺録外』にも載せられず、『他受用御書』にはじめて収録されています。本書の七二八頁一二行目の続きに「米穀も」の二四六文字がつづきます。この文の内容からすると、最蓮房に宛てた書状とはいえないといいいます。(宮崎英修稿「最蓮房伝考検」『日蓮教学とその周辺』所収、二二九頁)。

本書は天台宗の最蓮房から「諸法実相」・十如是についての質疑に答えたもので、三章に分けることができます。第一章は迹門方便品の「諸法実相」とは、十界の依正のすべてが妙法蓮華経の相であるという意味であるとのべます。妙楽の「実相四必」の釈を引き十界・十如・身土の三千の諸法は一念にあり、無間地獄の依正も仏のなかにあり、無上の仏の依正も凡夫の一念にあるという釈意から、法界の相は妙法蓮華経の五字の顕われとします。この「諸法実相」を基礎とした一念三千論からみますと、日蓮聖人は釈迦・多宝の二仏も、「妙法等の五字より用の利益」(七二四頁)として顕われたとのべています。「用の利益」とは衆生救済のことであり、縁起的な現実の「事相に二仏と顕われて」、釈尊は妙法蓮華経を真実と説き多宝仏はこれを証明したとのべ、妙法五字についてこのように教えた者はいないとのべています。

そして、これは地涌菩薩の上首で「唱導」の四菩薩いがいには「三故」があり、この「法体の妙法蓮華経の五字」を弘め、「宝塔の中の二仏並座の儀式を作り顕す」者はいないとのべます。この本門の題目と本尊の二大秘法は、『観心本尊抄』にのべてきたように、正像未弘の「是即本門寿量品の事一念三千の法門」であるので、本化上行菩薩でなければ宣顕できえないとのべたのです。この「妙法蓮華経こそ本仏」という法体から「釈迦多宝の二仏と云も用の仏」として顕われる経文の証拠を寿量品の、

 

「妙法蓮華経こそ本仏にては御座候へ。経云如来秘密神通之力是也。如来秘密は体の三身にして本仏也。神通之力は用の三身にして迹仏ぞかし」(七二四頁)

 

と、「如来秘密神通之力」の文を引いています。そして、凡夫も同じく「倶体倶用の三身」といって、仏も衆生も「如来秘密」の体の三身と、「神通之力」の用の三身をもっているとします。つまり、迷悟の違いにより衆生と仏とは異なっているようにみえるが凡夫即本仏で、本体は同じ三身の仏であるとのべています。これを悟っている仏は「諸法」の十界を実相と説き、実相とは妙法蓮華経のことであるから「諸法」とは妙法蓮華経のことであるとのべています。つまり、十界のありのままの姿が妙法蓮華経の当体であり、これを「諸法実相」とのべて本書冒頭の問いに答えたのです。これは、体を凡夫、用を仏とし、凡夫本主としています。同じく『御義口伝』二六二〇・二六六三頁にみられ、観心主義の立場から凡夫の絶対性が強調されています。(北川前肇著『日蓮教学研究』二六八頁)。さらに、日蓮聖人は本門の立場から「諸法実相」をつぎのようにのべています。

「天台云実相深理本有妙法蓮華経云云。此釈の意は実相の名言は迹門に主づけ、本有妙法蓮華経と云は本門の上の法門也。此釈能能心中に案じさせ給へ候へ」(七二五頁)

 

 この天台大師の出拠は不明とされていますが、日蓮聖人の本門思想から「実相」を解釈して「本有の妙法蓮華経」とのべています。これは、迹門の実相は九界に仏界を具足することは説いていますが、仏界に九界を具足することは顕していません。本門の本因本果が顕われて真実の十界互具・一念三千が究竟します。このことにより、迹門の「諸法実相」である妙法蓮華経は、「本有の妙法蓮華経」となることをのべ、最蓮房に「本門の上の法門」を依文として「実相」を判義するようにと念をおされています。

 つぎに、第二章に入り、日蓮聖人は上行菩薩が弘めるべき妙法蓮華経を弘め、本門の一塔両尊四菩薩の像を顕したことを、謙遜しながらも本意は本化上行の確証を示されたといえます。法華経の行者を迫害した者の罪業と、行者を供養する者の功徳をのべ、日蓮聖人が地涌の菩薩であるなら、弟子や檀越も地涌の菩薩であるとします。そして、日蓮聖人は自身の心情を、人に褒められると困難を克服して達成する意思がおき、法華経を弘通する者には三類の強敵があって流罪や死罪の困難があるが、これを耐え忍ぶ者には釈尊が衣を覆って守り諸天は供養するとのべます。諸天善神の守護があったことを認めているのです。

 

「釈迦仏多宝仏十方の諸仏菩薩、天神七代地神五代の神神、鬼子母神十羅刹女、四大天王梵天帝釈閻魔法王、水神風神山神海神、大日如来普賢文殊日月等の諸尊たちにほめられ奉る間、無量の大難をも堪忍して候也」(七二六頁)

ここに、釈迦・多宝・十方諸仏・菩薩や鬼子母神・十羅刹女・四天王などの諸天善神、大日如来・普賢・文殊・日月などの諸尊に褒められているとのべます。仏界から地獄界までをあげ、大日如来も書かれています。これは、真言宗の大日如来を法華経に統一したときの、大日如来の位置を示されたといえます。のちに、建治元年の本尊(御本尊一八)に胎蔵界・金剛界の大日如来が勧請された本尊があります。(『御本尊鏡』二四頁)。これらの、仏天の守護を励みに無量の大難をも堪忍し、自身の身命をも惜しまずにきたとのべます。日蓮聖人の経験をのべ、最蓮房にも強情な信心をすすめます。 

「いかにも今度信心をいたして法華経の行者にてとをり、日蓮が一門となりとをし給べし。日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか。地涌の菩薩にさだまりなば釈尊久遠の弟子たる事あに疑や。経云我従久遠来教化是等衆とは是也。末法にして妙法蓮華経の五字を弘ん者は男女はきらふべからず、皆地涌の菩薩の出現に非んば唱へがたき題目也。日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが、二人三人百人と次第に唱へつたふるなり。未来も又しかるべし。是あに地涌の義に非ずや。剰へ広宣流布の時は日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は大地を的とするなるべし。ともかくも法華経に名をたて身をまかせ給べし」(七二六頁)

 日蓮聖人と同じく法華経の信心を行なう者は地涌の菩薩であり、釈尊の久遠の弟子であるとのべます。日蓮聖人はただ一人で南無妙法蓮華経と唱えたが、未来は大勢の者が唱えるようになると、地涌の菩薩が涌出する義に擬えて、異体同心・皆帰妙法の理想をのべて不惜身命の信心を勧めます。釈迦・多宝が宝塔のなかで頷き定めたことは、末法に法華経を流布させ末代凡夫を仏にさせることとのべ、日蓮聖人はその虚空会座にいたかは凡夫であるからわからないが、現在の自分は法華経の行者として釈尊の教えを忠実にまもっていることからして、未来は釈尊のおられる霊山浄土に往詣することはまちがいないとのべます。三世は各別ではないことからすると、過去の虚空会において同座していたであろうと思うと、流人の身上ではあるが喜悦の涙が流れるとのべています。この涙は仏滅後に釈尊を思慕しながら教えを結集した仏弟子のように、

「今日蓮もかくの如し。かゝる身となるも妙法蓮華経の五字七字を弘むる故也。釈迦仏多宝仏、未来日本国の一切衆生のためにとどめをき給ふ処の妙法蓮華経也と、かくの如く我も聞し故ぞかし。現在の大難を思つづくるにもなみだ、未来の成仏を思て喜にもなみだせきあへず。鳥と虫とはなけ(鳴)どもなみだをちず。日蓮はなかねどもなみだひまなし。此なみだ世間の事には非ず。但偏に法華経の故也。若しからば甘露のなみだとも云つべし(中略)法華経の行者となる事は過去の宿習なり。同じ草木なれども仏とつくらるるは宿縁なるべし。仏なりとも権仏となるは又宿業なるべし」(七二八頁)

 

と、忍難弘経の意義と艱難辛苦に耐えた法悦に流す涙をのべ、法華経の行者となることは「過去の宿習」であり、善因の宿縁があったからであるとのべます。また、最蓮房が釈尊像を造像されたのか、同じ草木であっても仏像として作られ祀られるのは宿縁があるからであり、その仏が権仏となるのも宿業であるとのべています。過去の宿罪と宿業意識をのべています。

 本書は、脚注にあるように、このすぐあと、「米穀も又々かくの如し~くわしくかたらせ給へ」とつづきます。この文中に、「かかる時分、人をこれまでつかわし給ふこと」、「また治部房、下野房等来り候はばいそぎいそぎつかはすべく候。松野殿にも見参候はばくわしくかたらせ給へ」、という文があります。この文からしますと、本書は最蓮房に宛てたとは言い切れません。また、本書の追伸は『十八円満鈔』の追伸であっったといいます。本書の添え書きとしては、本文の末尾の文と重複して首肯しがたいといいます。(『日蓮聖人遺文全集』別巻二二一頁)。宮崎英修先生がいわれるように、この追伸が本書に添付されたことにより、脚注の二四六字が削除されました。本書が最蓮房に宛てたのではなく、他の人に宛てられたものであれば、削除する必要はなかったのです。(「最蓮房伝考検」『日蓮教学とその周辺』所収、二三〇頁)。

 第三章に入り、本尊の信行にふれます。最蓮房に『観心本尊抄』の本門本尊の教化があったのか、あるいは、曼荼羅の原型となる本尊を授与されていたのかもしれません。

「一閻浮提第一の御本尊を信じさせ給へ。あひかまへて、あひかまへて、信心つよく候て三仏の守護をかうむらせ給べし。行学の二道をはげみ候べし。行学たへなば仏法はあるべからず。我もいたし人をも教化候へ。行学は信心よりをこるべく候。力あらば一文一句なりともかたらせ給べし」(七二八頁)

 

と、本書には「大事な法門」を書いているとして、「一閻浮提第一の御本尊」を信じ、行学の二道に励むとともに教化を怠らずに行ない、法華経を断絶しないようにと仏弟子としての責務をうながしています。この文は日蓮宗の僧俗の心得として大切に拝読されています。

 追伸によれば「日蓮が相承の法門」(七二九頁)を、以前からたびたび書き送っていたことがわかります。そのなかでも本書は大事な法門を書き記したとのべ、最蓮房との宿縁の深さが本書にあらわれたと感銘されています。

これは迹門の「諸法実相」について、文在迹門・義在本門の立場から、「実相」を「本有の妙法蓮華経」とした「本門の上の法門」であること。それは、虚空会において釈尊より別付された、「本門寿量品の事一念三千の法門」である妙法蓮華経の五字をさします。すなわち、寿量品文底の観心の立場から、諸法実相とは妙法蓮華経であるとのべたのです。

また、逆説的に地涌の菩薩の上首である上行菩薩の自覚をのべて、最蓮房も同じく地涌の菩薩として「一閻浮提第一の御本尊」に帰命するようにのべます。地涌上行菩薩という語は、『開目抄』にはほとんど使用されないのにたいし、『観心本尊抄』では繰り返し使用されていました。そして、末法救護の教えである本門の法門をのべていました。この地涌上行菩薩の出現と本門法華経の具現性は、日蓮聖人の門下の自覚として広まらなければならない必然性があるとして、本書の地涌菩薩の言表があったと指摘されています。(渡邊宝陽著『日蓮仏教論』一四九頁)。末尾に「日蓮が己証の法門」を書き与えたと結ばれています。日蓮聖人の一門となって法華経を弘通することを勧めたのです。

 

□『義浄房御書』(一二三)

 

 五月二八日付けにて、安房清澄寺の義浄房に宛てた書状です。真蹟は伝わっていません。『朝師本』の写本が伝えられています。義浄房から法門の質問がありそれに答えた書状となります。古来から『己心仏界鈔』と呼ばれています。

 まず、法華経の功徳は仏の内証であり、天台大師が妙の一字を不可思議と解釈したように大きいとのべます。このことは前々に教えたとおりであるとのべます。ただし、法華経の修行においては、天台・伝教大師の一念三千と、日蓮聖人が弘める本門寿量品の事一念三千とがあるとのべます。寿量品の「一心欲見仏 不自惜身命」の文は、日蓮聖人の己心の仏界を顕すとのべます。そして、寿量品の事一念三千の三大秘法を成就する文であるとのべます。一心欲見仏とは妙法蓮華経の五字であり、一心に仏を見れば「無作三身の仏果」(七三一頁)の仏果を成就できるとのべます。一とは一道清浄という煩悩の汚れをがなく、平等(一道)にして清浄な仏の境界のことであり、心とは心という字の上の三点を三星とし、下の一画を月に配して一心即三身・三身即一心を顕すとします。末尾に不惜身命の強情な信心を勧めています。

 さて、「一心欲見仏 不自惜身命」の文が、日蓮聖人の己心の仏界を顕すとのべたところは、はなはだ理解しがたいといいます。(『日蓮聖人遺文全集講義』第一二巻三四頁)。また、「無作三身」の教えは法中論三の法身仏であるので、寿量品の「五百塵点乃至所顕三身無始古仏」(七一二頁)とは違うとして、「無作三身」思想のある遺文は疑義を呈しています。(浅井要麟著『日蓮聖人教学の研究』三一一頁)。

 

□『如説修行鈔』(一二四)

 

 同じ五月の書状とされます。本書は『年譜』によりますと、かつて身延山に真蹟があったと伝えています。大夫阿闍梨日尊上人(一二六五~一三四五年)は、永仁五(一二九七)年五月に書写し、その写本二一紙が茨城県富久成寺に所蔵されています。日蓮聖人は五月に「人々御中へ」宛てていますが、日尊上人の古写本には「人々御中へ。此書不離御身常可有御覧候」(七三八頁)の末尾の袖書き部分が欠けています。宛先については四条金吾を触れ頭として宛てて、広く門下に教示したといいます(『日蓮聖人遺文全集講義』一二巻五〇頁)。問答の形をとって教えをのべていきます。

 本書においても竜口法難の影響により退転した信徒のことにふれ、日ごろ、神力品に説かれた「如説修行」(勧奨付属『開結』五〇三頁)の法華経の行者の師弟は、法師品の「如来現在猶多怨嫉況滅度後」(三一二頁)、勧持品の三類の強敵(三六二頁)の経文のように、大難をうけると厳命しているのに、

 

「然に我弟子等の中にも、兼て聴聞せしかども、大小の難来る時は今始て驚き肝をけして信心を破りぬ。兼て申さゞりける歟。経文を先として猶多怨嫉況滅度後、況滅度後と朝夕教へし事は是也。予が或は所ををわれ、或疵を蒙り、或両度の御勘気を蒙て遠国に流罪せらるゝを見聞とも、今始て驚べきにあらざる物をや」(七三二頁)

 

現実に難に値いそうになると、信心を破る弟子がいることを懸念され、薬草喩品の「現世安穏」の疑念について答える形でのべていきます。遺文に如説修行の語句は多くみられませんが、如説修行とは不惜身命の行動をさします。釈尊の九横の大難に見られるように怨嫉があったこと、不軽軽毀および天台伝教大師の大難をあげ、これらの者を「如説修行」の行者、すなわち、法華経の行者とします。そして、現在は、

「今の世は闘諍堅固白法隠没なる上、悪国・悪王・悪臣・悪民のみ有て正法を背て邪法・邪師を崇重すれば、国土に悪鬼乱入て三災七難盛に起れり。かゝる時刻に日蓮蒙仏敕此土に生けるこそ時の不祥なれ」(七三二頁)

という、悪世末法であることをのべ、このようなときに日蓮聖人は仏勅をうけて日本に生まれ、「法華折伏破権門理」の仏語にしたがい、法華経を宣布するという仏使としての使命感をのべます。これは天台大師の『法華玄義』の文で、法華経と涅槃経を摂受・折伏を対比したときに、法華経は権経の教理を破折するという折伏であると解釈した文を引用して、諸宗の邪義を破折して法華経の実義を顕正する行者意識をのべます。

前述のように日蓮聖人は『開目抄』に本化上行の自覚と滅罪観をのべていました。この滅罪観は行者の受難観にふくまれるもので、具体的には「三障四魔」として具現されたところに行者の正当性を証明し、そこに、私たちが望む仏果(受持成仏)を得るものです。このことから『開目抄』に、 

「我並我弟子諸難ありとも疑心なくわ自然に仏界にいたるべし。天の加護なき事を疑はざれ。現世の安穏ならざる事をなげかざれ。我弟子朝夕教しかども疑ををこして皆すてけん。つたなき者ならひは約束せし事をまことの時わするゝなるべし」(六〇四頁)

と、弟子たちに諸難にあい諸天の守護がなくても、また、「現世安穏」でなくとも法華経を捨てることのないよう教えていたことがわかります。しかし、現実には退転した者が多数おり、竜口法難いご『開目抄』と同じく『如説修行鈔』にも、教義の説明と教団の統一に苦慮していたことがうかがえます。また、本書の「天下万民」の五十五字の一説と『立正安国論』の六十四字の文、

「汝早改信仰之寸心速帰実乗之一善。然則三界皆仏国也。仏国其衰哉。十方悉宝土也。宝土何壊哉。国無衰微土無破壊身是安全心是禅定。此詞此言可信可崇矣」(二二六頁)

と、同じ旨趣で「如説修行」の行者の理想とする仏国をあらわしています。

 つぎに、末法の今の学者は仏教ならばどの宗派も得道があると考えているが、それは不信謗法であり法華一経を信ずることが如説修行であるとします。そして、仏法を修行する方法に摂受と折伏があり、末法の始めの五百年は折伏であるという末法正意論をのべます。

「一乗流布の時は権教有て敵と成てまぎらはしくば実教より可責之。是を摂折二門の中には法華経の折伏と申也。天台云、法華折伏破権門理まことに故ある哉。然に摂受たる四安楽の修行を今の時行ずるならば、冬種子を下して春菓を求る者にあらずや。の暁に鳴は用也。宵に鳴は物怪也。権実雑乱の時、法華経の御敵を不責山林に閉篭り、摂受を修行せんは豈法華経修行の時を失う物怪にあらずや」(七三五頁)

 五義にあてはめて仏教弘通を監察すれば、今は法華経弘通のときであることは、これまでの日蓮聖人の一貫した主張であり、法華経の行者に符合する色読をされてきました。日蓮聖人は二十余年のあいだ「法華折伏破権門理」を行い、数知れないほどの迫害にあいました。それは、弟子にもおよんだことが、 

「今日蓮は二十余年の間破権理。其間の大難不知数。仏の九横の難に及か不及不知。恐は天台伝教も法華経の故に如日蓮値大難給事なし。彼は只悪口怨嫉計也。是は両度の御勘気遠国に流罪せられ、龍口の頚の座、頭の疵等、其外悪口せられ、弟子等を流罪せられ、篭に入られ、檀那の所領を取られ、御内を出されし、是等の大難には龍樹天台伝教も争か及給べき。されば如説修行の法華経の行者には三類の強敵打定て可有知給へ」(七三六頁)

と、のべていることからうかがえます。ただし、今成元昭先生は本書に用いた摂受の四回、折伏の八回という用例は、『転重軽受法門』・『富木殿御返事』・『観心本尊抄』・『富木入道殿御返事』に各一回、『開目抄』に八回ずつ用いられるにに比べて差異があるとされ、本書の摂受の語のうち二回は摂受を否定される用例から、結論として日蓮聖人の折伏為本論をも否定しています。(「日蓮論形成の典拠をめぐって」『日蓮教学教団史論叢』所収、二二六頁)。

本書はつづいて、三類の強敵が必ず如説修行の行者を襲ってくるとのべられ、行者の自覚をうながしています。これは、『開目抄』(五五七頁)に、「三障四魔」が競起しなければ法華経の行者ではないとのべた受難観と同じで、そして、日蓮聖人および不退に信心を行なう弟子・檀那こそが如説修行の者とします。すなわち

「されば釈尊御入滅之後二千余年が間に如説修行の行者は、釈尊天台伝教の三人はさてをき候ぬ。入末法日蓮並弟子檀那等是也。我等を如説修行の者といはずば、釈尊天台伝教等の三人も如説修行の人なるべからず」(七三六頁)

 

と、法華経を如説に行動しているのは、日蓮聖人と弟子檀那だけである、とのべます。そして、とうじの教団の内情から、強烈な不惜身命の信心をすすめています。

「過一期事無程、いかに強敵重なるとも、ゆめゆめ退する心なかれ、恐るゝ心なかれ。縦ひ頚をば鋸にて引切、どう(胴)をばひしほこを以てつゝき、足にはほだしを打てきり(錐)を以てもむとも、命のかよはんほどは南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経と唱て、唱へ死に死るならば、釈迦・多宝・十方の諸仏、霊山会上にして御契約なれば、須臾の程に飛来て手をとり肩に引懸て、霊山へはしり給はば、二聖・二天・十羅刹女は受持の者を擁護し、諸天善神は天蓋を指、旗を上て、我等を守護して、慥に寂光の宝刹へ送り給べき也。あらうれしや、あらうれしや」(七三七頁)

ここに、いかなる強敵が襲うとも命のある限りは、南無妙法蓮華経と唱えるという、不退の不惜身命の信条は『開目抄』の、

「詮するところは天もすて給、諸難にもあえ、身命を期とせん。身子が六十劫菩薩行を退せし、乞眼の婆羅門の責を堪ざるゆへ。久遠大通の者の三五の塵をふる、悪知識に値ゆへなり。善に付け悪につけ法華経をすつるは地獄の業なるべし。本願を立。日本国の位をゆづらむ、法華経をすてゝ観経等について後生をご(期)せよ。父母の頚を刎、念仏申さずわ。なんどの種々の大難出来すとも、智者に我義やぶられずば用じとなり。其外の大難、風の前の塵なるべし」(六〇一頁)

と、のべた文と同じで、強烈な信仰心を要請しています。弟子などが日蓮聖人の弘通は強行すぎるので、もっと柔軟に法華経を弘通したい、と反感をもった言表です。しかし、行者として唱え死にするその臨終にあたり、釈迦・多宝・十方諸仏は霊山虚空会にての約束をまもり、須臾のあいだに私たちのもとに来て、霊山浄土に連れていって下さるとのべています。これは『観心本尊抄副状』の、

 

「乞願歴一見末輩師弟共詣霊山浄土拝見三仏顔貌」(七二一

と、のべた霊山往詣と一致します。現世の肉体を得た生から、一生の行為を終えて本時の世界に帰入するときの、死後の世界を成仏と結びつけた、日蓮聖人の生死観をうかがえます。そして、二聖・二天・十羅刹女などの諸天善神は、かならず私たちを守護して、寂光の宝土に送ってくださるとして、同信同行の悦びをのべています。袖書きに本書を離さずに常に見て修行の支えとするように諭しています。これは、門下全般に言及したといいます。(『日蓮聖人遺文辞典』歴史篇八八二頁)。