160.『顕仏未来記』                 高橋俊隆

◆第三節 三国四師と始顕本尊

□『顕仏未来記』(一二五)

 本書は閏五月一一日に、門下一同に宛てて著述されています。真蹟の全一二紙は身延山に曾存していました。古写本に身延三世日進上人(一二七五~一三四六年)の完本があります。本書は「五大部」とくらべ小篇ですが、「五大部」に次ぐ主要遺文とされています。その理由は曼荼羅を図顕されるに先立ち、「三国四師」の継承をのべたことにあります。本書は日蓮聖人の自題で、将来を予言した未来記とうけとれます。『観心本尊抄』を著述されてから四〇余日をへて、そのなかでのべた仏の「未来記」を再説しています。このころ、日蓮聖人は迫害による死の覚悟をもちながらも、その危難を乗り越えて鎌倉帰還の願いをもっていました。

「この両三年の間の事、すでに死罪に及ばんとす。今年今月、万が一にも身命を逃れがたきか」(原漢文七四二頁)

と、佐渡在島の逼迫した状況をのべ、日蓮聖人の身に危険があったことがわかります。茂田井教亨先生は『観心本尊抄』を書かれたあと、一夏の安居を経て書かれたことに、本書の重要性をみています。(『本尊抄講讃』中巻八六四頁)。つづいて、『法華秀句』の「多宝分身付属勝」に基づいて、釈尊・天台・伝教に日蓮聖人を加えた法華経弘通の「三国四師」の系譜をのべています。最澄については「根本大師門人」とした文永三年の『法華題目鈔』いらい、日蓮聖人においては重要な法華経の行者としての位置づけがありました。それは、最澄が法華一乗思想と大乗戒壇建立に生涯を賭したところでした。そこに、日本における法華経の行者の先蹤として尊崇されていました。『開目抄』に、

 

「日本国に此の法、顕(あらわ)るること二度なり。伝教大師と日蓮なりとし(知)れ」(五八三頁)

と、のべていることから、法華経を宣顕するために生涯を捧げた行動に認めたものでした。こののち、三国四師観は『撰時抄』や『報恩抄』に、 

「日本国に仏法わたって七百余年、伝教大師と日蓮とが外は一人も法華経の行者はなきぞかし」(一〇一九頁)

 

「日本国には伝教大師六宗にせめかちて日本の始め第一の根本大師となり給ふ(中略)仏滅後一千八百余年が間に法華経の行者漢土に一人、日本に一人、已上二人、釈尊を加え奉りて已上三人なり」(一二一九頁)

 

と、同じ日本に生まれた法華経の弘通史上における、ただ一人の行者として把握しています。

 本書は「沙門日蓮勘之」(七三八頁)と署名され、自題の「仏の未来記を顕す」から、釈尊の「未来記」とはなにかを八番の問答を通して追及していきます。はじめに、薬王菩薩品の後五広布の、「我滅度後後五百歳中広宣流布於閻浮提無令断絶」(『開結』五二九頁)の文を引き、「後五百歳」の末法の始めに弘通すべき教法と導師にふれ、日蓮聖人の感慨をのべます。すなわち、釈尊の在世や正法・像法に生まれて、人四依や天台・伝教大師に値い教えを受けることができなかったことは、罪業が深いためと歎いていたが、この仏記の経文や天台・伝教大師の釈文を見ると、「後五百歳」という時代に生まれることは、竜樹や天台大師よりも果報があると受けとっていきます。これは「後五百歳」という時代は、法華経が弘通されるときであるから、法華経に値遇できることの悦びをのべたのです。

 つぎに、「後五百歳」というのは日蓮聖人だけに限らない、という質問から八番の問答にはいります。これに答え(第一番問答)、「如来現在猶多怨嫉況滅度後」の文をあげ、衆生教化の難題をしめし、薬王品の「悪魔魔民諸天龍夜叉鳩槃荼等得其便也」(『開結』五二九頁)の文をあげて、「後五百歳」には悪魔・魔民などが正法を弘める行者を妨害することを示します。また、経文に「等」とあるのは、陀羅尼品に説かれた「若夜叉若羅刹若餓鬼若富単那若吉遮若毘陀羅若犍駄若烏摩勒伽若阿跋摩羅若夜叉吉遮若人吉遮等」(『開結』五七〇頁)をさすとのべます。そして、これらの経釈の意味をつぎのようにのべます。

 

「如此文者先生持得四味三教乃至外道人天等法今生受悪魔諸天諸人等身者 見聞円実行者可至留難由説也。」(七三九頁)

 

つまり、過去に前四味などを信じた謗法の者が、今生に悪魔・諸天・諸人などに生まれてきて、法華経の行者に留難をなすと解釈されました。これは、日蓮聖人を迫害している「怨嫉」(「三障四魔」)の正体を、より具体的に経文をもって示されたのです。つぎに、正法・像法時代は末法にくらべ、時と機根が優れているのに、なぜ末法に法華経を弘めるのかという問いに、この経文の意義を答えます(第二番問答)。法華流布の時がなぜ末法なのかについて、教行証の「三事」(七四〇頁)をのべます。すなわち、慈恩の『大乗法苑義林章』を引き、正法千年は仏の教えとそれを修行する者と、その証得が具備するが、像法千年は教・行は備わっても証得はなく、末法は教のみあって行・証がないという釈文をあげます。そして、法華経の立場からこれを考察します。正法時代に教行証の三事を具備するのは、在世に法華経の結縁がある者が、正法に生まれて小乗の教行をもって小乗の証果を得たのであり、像法の者は在世に結縁の薄い者が生まれるので小乗では得果はないので、権大乗を縁として十方の浄土に生まれることであり、末法においては大乗も小乗もどちらも利益がないとのべます。つまり、小乗の教えはあっても行・証はなく、大乗は教・行は説いても冥益も顕益もないにもかかわらず、この正法・像法時の大小の宗派が末法にも引き続き伝わり、行証の利益がないのに自宗に執着して法華経に敵害して、日本中が謗法の国になったとのべています。ゆえに、諸天善神は日本の国土を捨離し、邪天・邪鬼が王臣や僧尼の身心に入り込んで、法華経の行者を迫害する、と日蓮聖人の身にあててのべています。しかし、このようなときに邪教を捨て、法華経を弘める行者には、諸天善神や地涌の菩薩が守護するとのべます。

 

「雖爾於仏滅後捨四味三教等邪執帰実大乗法華経 諸天善神並地涌千界等菩薩守護法華行者。此人得守護之力以本門本尊・妙法蓮華経五字令広宣流布於閻浮提歟。例如威音王仏像法之時 不軽菩薩以我深敬等二十四字 広宣流布於彼土 招一国杖木等大難也。彼二十四字与此五字其語雖殊 其意同之。彼像法末与是末法初全同。彼不軽菩薩初随喜人 日蓮名字凡夫也」(七四〇頁)

 

 仏が法華経の行者を守護することは仏所護念の願力によります。ここに、諸天善神や地涌千界等の菩薩が法華行者を守護することは、諸天善神には「天諸童子以為給仕刀杖不加毒不能害」・「頭破七分」、菩薩には「如世尊勅当具奉行」の誓願があるからなのです。同じこととして、『開目抄』に、

 

「日蓮案云、法華経の二処三会の座にましましし日月等の諸天は、法華経の行者出来せば磁石の鉄を吸がごとく、月の水に遷がごとく、須臾に来て行者に代、仏前の御誓をはたさせ給べしとこそをぼへ候に」(五八一頁)

 

と、諸天善神の守護は霊山虚空にて誓言した約束があるのです。『観心本尊抄』には一念三千を知らない者でも、四大菩薩が守護するとのべたことと同じです。そして、この法華経の行者は「本門本尊の妙法蓮華経の五字」を弘通するとのべます。これは、本門の本尊である曼荼羅と、観心の題目五字を並びあげたとします。(『日蓮聖人御遺文講義』第三巻三八九頁)。本書を文永一一年とする説がありますが(『日蓮聖人御遺文講義』第三巻三八三頁)、本書の時期は曼荼羅を図顕されていません。本門本尊をただちに曼荼羅とするには性急かと思います。本尊と妙法五字を同一として読むと法本尊となるといいます。(『日蓮聖人遺文全集講義』第一二巻一六三頁)。

また、本書の文面の本尊の意を勝義に解せば、本尊の五字とするのが自然であるといいます。(『日蓮聖人遺文辞典』歴史篇三一九頁)。両者の解釈があります。『日蓮聖人全集』(第二巻三〇一頁)は、「法華経本門に示される本尊と、法華経の肝要である妙法蓮華経の五字の題目」と、本尊と題目の二つを分けています。『観心本尊抄』には、

 

「但論理具事行南無妙法蓮華経五字 並本門本尊未広行之。所詮有円機無円時故也」七一九頁

と、南無妙法蓮華経の五字と本門の本尊とを別に並記しています。『観心本尊抄』は「南無妙法蓮華経五字」ですから、信行をともなう一念三千仏種としての題目五字、という意味合いが強くなります。本門本尊とは一般的には寿量仏をさすと思われます。本門の教主である釈尊の因行果徳が具足した妙法五字を、閻浮提に広宣流布するということになります。

さらに、不軽菩薩が威音王仏の法滅の国において、二十四字の「但行礼拝」をもって弘教し、大難に遭遇したことと、日蓮聖人の行動が「妙法蓮華経の五字」の題目を唱えしめた言語は違うが、内容は同じ(語異意同)であるとのべます。また、時も像法の末と末法の初めは同じであり、人の位も不軽菩薩は初随喜という位の低い菩薩であり(『法華文句』・『四信五品鈔』)、日蓮聖人も名字即の凡夫であるとして、過去の法華経の行者との同一性をのべています。

注目されることは、地涌の菩薩を日蓮聖人にしぼられ、不軽菩薩と日蓮聖人の行動は全同であると進展することです。また、『教行証御書』にもどうようにのべ、妙法蓮華経の五字の意義をのべています。

「今入末法有教無行証在世結縁者無一人。権実二機悉失せり。此時は濁悪たる当世の逆謗の二人に、初て本門の肝心寿量品の南無妙法蓮華経を以て為下種。是好良薬今留在此汝可取服忽憂不差是也。乃往過去の威音王仏の像法に大乗を知る者一人も無りしに、不軽菩薩出現して教主説置給二十四字を向一切衆生令唱がごとし。聞彼二十四字者無一人亦値不軽大士得益。是則前聞法を下種とせし故也。今も亦如是。彼は像法、此は濁悪の末法。彼は初随喜の行者、此は名字の凡夫。彼は二十四字の下種、此は唯五字也。得道の時節雖異、成仏所詮は全体是同かるべし」(一四八〇頁)

つまり、南無妙法蓮華経は下種の法体であること、この「聞法下種」に成仏を認めていることです。日蓮聖人の弘教の意義はここにあるということです。

 つぎに、日蓮聖人が末法の初めの法華経の行者であることの証拠を問います(第三番問答)。

 

「疑云 以何知之汝為末法之初法華経行者。答云 法華経云 況滅度後。又云 有諸無智人悪口罵詈等及加刀杖者。又云 数数見擯出。又云 一切世間多怨難信。又云 杖木瓦石而打擲之。又云 悪魔魔民諸天龍夜叉鳩槃荼等得其便也等[云云]。付此明鏡為信仏語 引向 日本国中王臣四衆面目 自予之外一人無之。論時末法初一定也。然間若無日蓮仏語成虚妄」(七四〇頁)

 

この答えとして法華経の「数数見擯出」など五品の経文をあげます。経文に説かれたことと、現実の王臣や四衆の態度を見て判断するなら、現在において法華経を弘めるために迫害にあっているのは、日蓮聖人一人であるとのべます。日蓮聖人が存在しなければ、仏の未来記は虚妄となるとのべ、日蓮聖人は法華経の行者であると公言されました。このころは、本化上行菩薩の自覚発表が盛んに行われています。

 また、(第四番問答)日蓮聖人が自身のことを慢心して公言しているのではなく、仏の「未来記」を実証し真実の教えである法華経を宣顕する使命観であるとのべます。そして、日蓮聖人のほかに法華経の行者はいないと断言され、日蓮聖人を謗る者は仏語に反抗する悪人であるとのべます。日蓮聖人の口調は厳しくなり、上首としての威厳を表出します。ここに、本書の題意があるといいます。(『日蓮聖人遺文辞典』歴史篇三一八頁)。

 

「汝蔑如日蓮之重罪又過提婆達多超無垢論師。我言似大慢為扶仏記顕如来実語也。雖然日本国中除去日蓮者取出誰人為法華経行者。汝為謗 日蓮虚妄仏記。豈非大悪人乎」(七四一

 

 つぎに、(第五番~六番問答)四天下に二日という日はなく、四海にも二人の両主がいないように、三国において法華経の行者は日蓮聖人一人であるとのべます。仏教は西より東に伝わったこと、その仏法は逆に西に伝わっていくという「仏法西漸」をのべます。これは、妙楽大師の『文句記』や、遵式(九六四~一〇三二年)により、インド・中国の仏教は衰退したとみます。そして、(第七番問答)法華経は南閻浮堤のインド・中国に仏教が衰退したのみならず、東西北の三州に仏教がないとする理由を、普賢菩薩勧発品の「於如来滅後。閻浮提内。広令流布。使不断絶」(『開結』五九四頁)の文にみられます。そして、「閻浮提内」とあることは三州にも仏教が衰退したとします。

 ここで、(第八番問答)仏記を領解したとして、日蓮聖人の未来記はどうかを問います。日蓮聖人の考えをのべるのです。まず、仏教は「東土の日本」(七四二頁)に流布するとし、法華経の行者である地涌の菩薩も日本に生まれることをのべます。そして、その行者が生まれ、法華経が宣顕されるときには「前相」として大きな瑞相があるとし、『観心本尊抄』にのべた「瑞相偏四大菩薩可令出現先兆歟」(七二〇頁)と同じように、正嘉年中から文永一〇年にいたる間の大地震・大彗星がこれであるとします(七四二頁)。天台・妙楽大師の釈から、この瑞相を法華経の流布する大瑞とします。

 

日蓮存此道理既二十一年也。日来災月来難 此両三年之間事既及死罪。今年今月万一難脱身命也。世人有疑委細事弟子問之幸哉一生之内消滅無始謗法。悦哉未見聞奉侍教主釈尊。願損我国主等最初導之。扶我弟子等釈尊申之。生我父母等未死已前進此大善」(七四二頁)

 

と、この道理を知るのは日蓮聖人ひとりであり、しかも、二一年前からこのことを知っていたとのべます。これは立教開宗のときから懐いてきたことだったのです。日蓮聖人がその地涌の菩薩であり、上行再誕であることを明らかにされたのです。この五月ころは日蓮聖人の周辺に不穏な動きがあったのか、このころ疫病が広がっていたので「死難逃れがた」いと、身の危難を感じています。そのためもあり、弟子に大事な法門を伝授していましたので、身命におよぶことを考えて、疑念があれば弟子に問うようにとのべていたことがうかがえます。

この法華色読による苦難は仏弟子としての法悦でもありました。無始の謗法罪を消滅し、教主釈尊の御前に侍る資格を得た満足感でもありました。この師自覚に到達した境地から、日蓮聖人を流罪した国主等は善知識として導き、日蓮聖人を扶助する愛弟子たちは釈尊にその功績を申し上げ、父母等においては存生のうちに法華経の信心を勧め、功徳を進らせることができたとのべています。このことを、日蓮聖人が存生のうちに父母にこの功徳を与えることができたと解釈します(『日蓮聖人遺文全集講義』第一二巻一八四頁)。本書に日蓮聖人は死を覚悟している心情を書かれていました。しかし、そのような状況のなかでも『光日房御書』に、

「本国にかへし給へと、高き山にのぼりて大音声をはなちてさけびしかば(中略)いまだゆりざりしかば、いよいよ強盛に天に申せしかば、頭の白き烏とび来ぬ。(中略)我がかへるべき期や来(きた)らん」(一一五四頁)

 

と、鎌倉に帰る確信をのべており、在島中における死の危険と、鎌倉に帰り法華宣布の誓願とが、交錯していた心境をうかがえます。

○三国四師

 ここで言葉を新たにして、宝塔品の「六難九易」の真意を、心身に感受できた感慨をのべます。そして、三国に法華経の真意を弘通した三師に、日蓮聖人をくわえて「三国四師」の系譜をのべ本書を終えています。

 

「但今如夢得宝塔品心。此経云 若接須弥擲置他方無数仏土亦未為難。乃至若仏滅後於悪世中能説此経是則為難等[云云]。伝教大師云 浅易深難釈迦所判。去浅就深丈夫之心也。天台大師信順釈迦助法華宗敷揚震旦 叡山一家相承天台助法華宗弘通日本等[云云]。安州日蓮恐相承三師助法華宗流通末法。三加一号三国四師」(七四二頁)

 

 宝塔品の六難九易をあげたことは、自身が末法の導師、本化上行である自覚を表明したことです。釈尊・天台大師・伝教大師、そして、日蓮聖人につながる外相承を示されたのは、法華経の正当な伝導者であることを他に知らしめる意図があったのです。『法華行者値難事』に、

 

「天台大師信順釈迦 助法華宗敷揚震旦 叡山一家相承天台助法華宗弘通日本云云。夫在世与滅後正像二千年之間法華経行者唯有三人。所謂仏与天台伝教也(中略)当知三人入日蓮為四人法華経行者有末法歟」(七九七頁)

 

と、歴史的な法華弘通史を根底におき、その貢献を讃えたのです。日蓮聖人の本門法華経の教相は、天台・伝教大師の系譜につながるものであり、両大師が末法を予見し願求したその人であったのです。相承の意識においては、ほかに、釈尊から直接、日蓮聖人に系譜する上行結要付属の内相承があります。

○連署政村没(五月二七日)

 五月二七日に連署の政村が六九歳にて没しました。政村は畠山重忠が討たれた元久二(一二〇五)年六月二二日に生まれています。文応元(一二六〇)七月に、日蓮聖人は『立正安国論』を奏進しました。その年の一〇月一五日に、娘の一人が錯乱状態となり、身体を捩じらせ舌を出して蛇のような狂態を見せます。政村は「比企の乱」で殺され蛇の怨霊となった讃岐局のたたりと感じ、隆弁に依頼して一一月二七日、写経供養や加持祈祷を行います。政村は比企氏の邸宅跡地に、讃岐局の鎮魂のため蛇苦止堂を建てます。現在は妙本寺の境内となっています。

文永元(一二六四)年八月、得宗家の後継者たる時宗は一四歳という若年だったため、六〇歳の政村が七代執権に就任しました。時宗は連署となり、北条実時や安達泰盛らを寄合衆とします。文永五年一月に蒙古国書が到来すると、三月に執権職を一八歳の時宗に譲り、再び連署として侍所別当も務めました。文永一〇年五月に常葉上人を戒師に出家し、常盤院覚崇と号し二七日に死去しました。京都から幕府に出仕していた鳥井教定花山院長雅らと交わり、公武の協調関係に貢献しています。和歌・典礼に精通し『勅撰集』に四〇首入集しています。政村が没したあとは兄、重時の息子義政が連署になります。また、安達泰盛と平頼綱が時宗をささえていきます。しかし、安達泰盛と平頼綱は二月騒動以来、対立する関係にありました。

幕府は鎮西にいる御家人たちに、政村追善のために鎌倉には帰らないように、と命じています。六月に北条宣時は虚御教書を下して、日蓮聖人に接近しないことを命じ禁圧しています。(『昭和新修日蓮聖人遺文全集』別巻四五四頁)。

□『富木殿御返事』(一二六)

 

七月六日付けにて、富木氏と太田乗明氏から届けられた供養に返礼された書状です。真蹟の四紙は中山法華経寺に所蔵されています。伊予房日頂上人が佐渡に在島して日蓮聖人の給仕をされていました。法器が勝れているので年内は日蓮聖人の許に置いて教化するとのべています。富木氏の書状に流罪の赦免が延期されているとの知らせがあり、これについて、

「御勘気ゆり(赦)ぬ事、御歎候べからず候。当世日本国子細可有之由存之。定如勘文候べきか」(七四三頁)

 

と、歎くことはないとのべ、日本国の盛衰にかかわる子細があってのことであるとし、それは勘文である『立正安国論』に予言した、他国侵逼の国難が逼迫することをさします。それまでは赦免はないとのべます。文永九年五月五日に富木氏に宛てた書状『真言諸宗違目』(六三八頁)に、鎌倉在住の門弟に赦免運動をしないようにと厳しく諌めており、日蓮聖人は引き続き赦免運動について慎重な態度をとっていました。しかし、佐渡の不穏な渦中にあったので、たとえ佐渡で死ぬことがあっても、法華経の広まることは疑いないとのべています。

「設(たと)い日蓮死生不定たりといえども、妙法蓮華経の五字の流布は疑い亡き者敟」(七四三頁)

死生不定であるから日蓮聖人が入寂することがあっても、「妙法蓮華経五字」が流布することは疑いのないこととのべ、伝教大師においても円頓の大乗戒壇を建立したのは滅後であることをあげます。それは「事相」(七四三頁)であるから「一重の大難」があるとのべます。なぜなら、正法である法華経の弘通には、かならず三障四魔が競い起こるためです。日蓮聖人においても大難が起きることは必然のことであるから、「寿量品の仏と肝要の五字」(七四四頁)が広まることを押さえられてきたとのべます。逆に、仏滅後二千二百二十余年にいまだ流布しなかった、「寿量品の仏と肝要の五字」を宣顕したことは、伝教・天台大師や龍樹・天親にも超えた果報であるとのべて、「数数見擯出」を色読した上行自覚の法悦をのべています。これらのことは諸人の御返事にのべているので、委細については省略するとして筆を止めています。

さて、七月七日から、佐渡では数日にわたって石灰虫(いしばいむし)という害虫が、空を覆うほど大量発生し、稲が被害をうけ飢饉・疫病となりました。『土木殿御返事』に、知らせています。

「佐渡国七月七日已下自天忽石灰虫と申虫雨下一時稻穀損失了」(七五四頁)